*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  
宮古大事典        や   未分類
                    
                    
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■やーらすりすり
小正月の行事・習慣。旧暦1月15日の夕飯後、親を先頭に家族全員でヤーラスリスリと大声で呼びながら籾殻を撒き、家の周りを回った。呼び声は「ヤーラスリスリ、銭こが飛んでくるようにホンカホンカ」「ヤーラスリスリ、アキ(恵方)のほうから栗毛の馬こがホンカホンカ」など、願い事を唱えた。

■八重樫七兵衛(やえがし・しちべえ)
地質学者・教育者。1872年(明治5)鍬ヶ崎に生まれる。岩手師範学校を卒業。鍬ヶ崎尋常小学校、岩手県立水産学校の教員を経て町立宮古実科高等女学校の校長を務める。1899年(明治32)日出島で発見した化石が学界で注目され、ヤエガシイと命名される。有孔虫類やサンゴ類、アンモナイトなど亜熱帯地方にしか見られない化石が多く、日出島で初めて発見されたもの60種、学名にミヤコを冠したもの14種に及ぶ。1913年(大正2)宮古から下閉伊郡田野畑村にわたる約1億1000年前の中生代白亜紀前期の地層を発見し、宮古層群(宮古統)と名づけられた。水産学校校歌の作詞、「岩手管内地理唱歌」の作詞・作曲などを行ない、宮古町会議員を務める。1947年(昭和22)死去。(参考「月刊みやこわが町」2006年9月号・№335「特集 宮古人物列伝ファイル」)

■八重桜(やえざくら)
龍泉八重桜。市の北西に隣接する下閉伊郡岩泉町の地酒。蔵元は泉金酒造で、岩泉町岩泉太田30にある。宮古市本町(もとまち)の旧東屋酒造の建物に“陸中の地酒 八重桜 東屋酒店”という看板が掲げられている。
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■野外活動センター(やがいかつどうせんたー)
市営の施設。市の北西部、大字(おおあざ)田代第15地割字(あざ)大渡232に、1986年(昭和61)4月25日オープン。1周200mのスケートリンク、フィールド・アスレチックス、キャンプ場などが田代川沿いにある。スケートリンクでは、冬以外はインラインスケートができる。12月に氷上フェスティバルとアイススケートリンクの開場式が行なわれる。
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■八木沢(やぎさわ)
市街から南に閉伊(へい)川を越え小山田(こやまだ)・松山地区の南、宮古湾岸の磯鶏(そけい)・高浜(たかはま)・金浜(かねはま)地区の西に位置する。1~4丁目と大字(おおあざ)八木沢に分かれる。大谷地・寺ヶ沢・中村・駒込などの集落、八木沢団地や八木沢神社がある。JR山田線が通るが駅はない。北の小山田とのあいだに猿楽峠があった。

■八木沢神社(やぎさわじんじゃ)
表記は八木澤神社とも。八木沢4丁目2番1号にある。薬師を祀る。創始は不詳。1872年(明治5)八木沢村の村社となる。樹齢300~500年といわれる欅(けやき)の神木があったが、枯れて危険なため1975年(昭和50)春に伐採。国土交通省に売却されて1984年(昭和59)に同省所属の航海練習帆船日本丸2世、同じく1989年に海王丸2世の船主像となった。

■八木沢団地(やぎさわだんち)
市営住宅。宮古市の南部、八木沢1~3丁目にある。戸数196。宮古市史年表には1972年(昭和47)11月11日、八木沢団地造成開始とある。1973年(昭和48)供給を開始したか?

■薬師水(やくしすい・やくしみず)
薬師の水。黒森神社の本殿右手にある霊水。祖母杉(おばすぎ)・祖父杉(おじすぎ)の根元を源泉としたアルカリ水で、万病に効くとされる。

■厄水(やくみず)
冷水帯を意味する漁師言葉。駒井雅三「ふるさとの海」復版では“危水”とある。誤植の可能性があるが、そのまま引用する。
 危水(やくみず)と漁夫ら言いにき 冷水帯 三陸の沖に 押し寄せにけり
 暖流性回遊魚捕らんとて 網張りし魚場に危水(やくみず)迫る

■弥五兵衛屋(やごべえや)
水産加工業。上鼻(かんぱな)2丁目5番31号にある。味醂干し・腹子(はらこ)の専門店。
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■弥助(やすけ)
廃業。すし処弥助。大通(おおどおり)4丁目2番8号、大通の北筋で西から上野製麺所・喫茶フローラに続く場所にあった。

■やすらぎ地蔵(やすらぎじぞう) → みちのく窯
陶芸家・長塚哲(ながつか・てつ)の代表作。

■やっかがし
小正月の行事・習慣。ヤッカカシ、八つ案山子とも書く。もとは焼き嗅がし、あるいは、焼き焦がしか? 旧暦1月15日、少し大きめの竹串に団子・餅・煮干し・焼き豆腐などを刺し、家の外の四隅に立てて魔除けとした。

■宿(やど)
崎山(さきやま)の東部に位置する字(あざ)。太平洋に面する。宿漁港・宿の浜、宿トンネルがある。西北は中の浜に接する。

■「寄生木」(やどりぎ) → 寄生木展示室
徳冨蘆花の長篇小説。宮古の小笠原善平が原作を書く。明治期の山口村に生まれた陸軍中尉小笠原善平の膨大な手記を、「不如帰」の作家徳冨蘆花健次郎が3分の1にまとめ、1909年(明治42)12月8日に警醒社書店から出版した。一陸軍中尉の数奇な生涯をつづったこの長篇は、当時日本一の著名人だった乃木将軍を頼るべき大樹とし、また人気作家だった蘆花の名前で出版されたこともあって、全国的なベストセラーとなった。1956年(昭31)から翌年にかけて岩波文庫版「寄生木」全3巻が刊行される。現在は絶版。
宮古の小説 寄生木

■寄生木記念館(やどりぎきねんかん) → 寄生木展示室
閉館。山口(やまぐち)1丁目5番44号、慈眼寺(じげんじ)の門前に1969年(昭和44)6月5日に建てられた。徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」の原作者で山口村に生まれた小笠原善平陸軍中尉の原稿・遺品などを展示。建物は石川啄木が“学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず”と歌った旧制盛岡中学校の図書庫を移築した。常時開館は8月(月曜・火曜・祝日は休館)だけで、それ以外は宮古市教育委員会に連絡して開けてもらっていた。2010年(平成22)4月、閉館。収蔵品は同月に建て替え工事の終わった山口公民館の寄生木展示室へ移り、常時公開となる。

■やどり木公園(やどりぎこうえん)
表記は、やどりぎ公園とも。山口2丁目1番2号に、1975年(昭和50)開設。

■寄生木展示室(やどりぎてんじしつ)
山口1丁目3番14号にある山口公民館内の施設。山口村に生まれ、徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」の原作者となった小笠原善平陸軍中尉の原稿・遺品などを展示している。2010年(平成22)4月、建て替えられた山口公民館の開業とともに公開。
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■寄生木橋(やどりぎばし)
表記は、やどり木橋とも。山口川に架かり、やどり木公園の南・下流にある。

■山内魚店(やまうちさかなてん)
西町(にしまち)3丁目2番38号、魚菜市場の近くにある。屋印は∧の下にKでヤマケー。鮮魚はもちろんのこと、手造りの新巻をはじめとする干物類、塩ウニなどの加工製品でも知られ、市外からの注文も多いという。

■山口(やまぐち)
市の北部。山口川が北から南へ流れる。山口1~5丁目と大字山口に分かれる。5丁目の北を宮園(みやぞの)に接し、宮園は西・北・東を大字(おおあざ)山口に囲まれる。1丁目の東を大字山口・黒森町、3丁目の東を田の神(がみ)に接し、3丁目・4丁目の南を泉町・長根に、4丁目・2丁目・5丁目の西を大字山口と接する。大字山口の北は崎山、東は崎鍬ヶ崎、南は小沢(こざわ)・黒森町、西は近内(ちかない)。三陸鉄道北リアス線が南北に縦断するが、駅はない。山口団地・雇用促進住宅・市営住宅、ひかり幼稚園・山口保育所・かきのき保育園・第一わかたけ学園・山口病院・山口公民館・慈眼寺(じげんじ)などがある。慈眼寺の門前に徳冨蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」の原作者小笠原善平の遺品を収蔵・展示した寄生木記念館がある。慈眼寺に創立された山口小学校は現山口公民館のある場所を経て鴨崎町に移転した。

■山口川(やまぐちがわ)
市の北方、大字(おおあざ)山口地区の山地に源を発して南へ流れる。2級河川。延長4.1㎞。八幡山(横山八幡宮)の裏手で閉伊(へい)川に注ぐ。山口小学校付近以南は、もと山口放水路。もとの本流(仮に旧山口川と呼ぶ)は山口小学校付近で東に分かれ、市街地に流れ込む。西町・和見町(わみまち)・黒田町・末広町を流れ、中央通りで暗渠に入って市役所前に至り、築地で閉伊川に合流する。市街地を流れる中流部450mほどに昔ながらの石組護岸が残る。一時はドブ川と化していたが、清流化の試みが行なわれて浄化され、遊歩道が整備されている。山口小学校前の水門は幅15.2m・高さ1.45m。流れをせき止めて防火水槽や旧山口川へ水を引き込むなどの目的で県が1975年に設置、管理は市に委託されている。宮古市史年表などによると、旧山口川は1935年(昭和10)8月22日、大氾濫。1938年(昭和13)7月15日、梅雨の豪雨で増水し黒田町浸水50戸。この年、放水路への切り替え工事が行なわれたが、1948年(昭和23)9月16日、アイオン台風で氾濫し、宮古全域で浸水などの被害をもたらしている。1954年(昭和29)9月14日に旧山口川の蓋かけ工事が始まり、1959年(昭和34)12月6日にアスファルト舗装が竣工して中央通りとなったものと思われる。現山口川に架かる橋は北から、寄生木橋(中屋石油前・1971年3月完成)、田ノ神橋(コープ西町前・1970年3月)、泉橋(泉公園~泉町・1973年3月)、鴨崎橋(山口小学校前)、新開橋(西公園~鴨崎・1981年2月)、山口橋(旧街道・銘板なし)、一字橋(第二幹線・1962年8月)、不明(旧国道106号・銘板なし)、山口川橋梁(鉄道橋)、八幡上の橋(市立図書館前)、八幡橋(新国道106号)。

■山口公民館(やまぐちこうみんかん)
山口1丁目3番14号にある。℡0193-62-3670。2010年(平成22)4月、建て替え竣工。敷地は裏手(東側)の旧市営住宅跡地を合わせて拡張。寄生木(やどりぎ)展示室・黒森神楽展示室が併設された。前庭に山口小学校跡地の碑や山口小学校の由来を刻んだ石碑、山口出身歌人の摂待方水(せったい・ほうすい)歌碑などがある。

■山口小学校(やまぐちしょうがっこう)
鴨崎町(かもざきちょう)3番25号、山口川の西ほとりにある。東を宮古小学校区、西を千徳小学校区に接する。1966年(昭和41)頃から山口団地が造成されて生徒が増え、1977(昭和52)年度の生徒数1139・学級数29。以後、年々減少。学区内は住宅・商店が多く、2004年(平成16)4月1日現在の世帯数2690・人口6606。創立は1902年(明治35)4月28日、慈眼寺(じげんじ)の庫裡を仮校舎に山口尋常小学校として開校。1909年(明治42)5月29日に山口村大字山口第4地割字田の神前68番地(現・山口1丁目3番14号)、いまの山口公民館の地に新校舎が完成して移転。1953年(昭和28)11月2日、大字山口第2地割字鴨崎30番地(現在地)に新校舎が完成。翌54年(昭和29)4月から新校舎で授業を開始。

■山口商店(やまぐちしょうてん)
海産物専門店。末広町7番30号、末広通りの南筋にある。支店が宮古市魚菜市場や盛岡駅フェザン・仙台駅エスパルにある。

■山口ショッピングセンター(やまぐちしょっぴんぐせんたー)
酒類・煙草・食料品店。山口3丁目5番12号にある。店主は黒森神社氏子総代で黒森神楽保存会会員。その店主が企画し、鍬ヶ崎下町(くわがさきしもまち)の菱屋酒造店に醸造を委託した地酒、純米酒「黒森神楽」と上撰「黒森大権現」を2003年(平成15)末頃から販売している。

■山口太鼓(やまぐちだいこ)
1850年(嘉永3)黒森神社が現在地に遷宮し再興される日の朝、その準備の始まりを村人に告げるために打たれたという。正確な打ち方の伝承がなく、わずかに口碑で残っていた拍子を手がかりに創作された。佐々木清が中心となって1972年(昭和47)に山口若者会を結成、1976年(昭和51)山口太鼓の会と名称を変更。1990年(平成2)支部として北海道江別市に山口太鼓流北海若衆太鼓が生まれる。2000年(平成12)シンセサイザーの姫神(星吉昭・星吉紀)とジョイントするなどして全国的に名を知られる。

■山口館跡(やまぐちたてあと)
中近世(約500年前)の城館跡。大字山口第5地割字久保、黒森町107番21ほか。山口川の左岸に延びる丘陵の南東、宮古駅から北西約1.2kmにある。山口公民館から徒歩約10分。現在は山林・畑地・宅地。丘陵上の北東に黒森神社がある。山裾の南西には館主の子孫といわれる小笠原善平の手記を原作とした徳富蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」の記念館がある。山口館の館主小笠原氏の出自は文献によって諸説に分かれるという。宮古地方の中世を扱った田村忠博「古城物語」に“河北閉伊氏の支配下の村地頭と思われる”とあり、「岩手県史」には“船越の小笠原氏と同じく信濃小笠原の族を祖とし、天文の頃には南部信直(南部家26代)に出仕して小姓を勤め山口村三百石を領知している”と、「宮古市史」には“先祖某より代々三戸御普代なり、利直公より山口村に三百石を賜う”と、「岩手の人名辞典」には“祖は武田信玄の婿であった信州(長野県)某所の城主小笠原某で、織田信長に内通したため信玄の怒りに触れ、東北に逃げ延び山口の小領主になったと伝承する”とあるという。

■山口団地(やまぐちだんち)
山口3丁目・4丁目にある。市営。宮古市史年表によると、1966年(昭和41)5月25日に起工式を行なった。1968年(昭和43)3月31日に、山口地区土地区画整理事業完成とあり、このとき団地も完成したか?

■山口団地駅(やまぐちだんちえき)
三陸鉄道北リアス線の駅。山口3丁目4番の市営山口団地内、宮古駅と一の渡(いちのわたり)駅の間に、2010年(平成22)10月16日開業。公募で決まった愛称は「黒森の鼓動」。

■山口病院(やまぐちびょういん)
宮古山口病院が正称。山口5丁目3番20号にあり、山口川に沿う。精神科・神経科・内科・歯科がある。

■山口保育所(やまぐちほいくしょ)
山口5丁目2番1号、慈眼寺(じげんじ)の門前にある。向かいに寄生木(やどりぎ)記念館があった。

■山口屋(やまぐちや)
食堂。本町(もとまち)1番26号、市役所分庁舎近くの中央通り北筋にある。

■山崎医院(やまざきいいん)
廃業。保久田(ほくだ)3番30号、第二幹線の南筋にあった。2006年(平成18)9月末、建物の解体が始まる。かつては大通(おおどおり)4丁目4番37号、末広町の一本南側の裏通りのみやこ旅館の位置にあり、内科・小児科・耳鼻科があった。

■ヤマザキカメラ
山﨑カメラ。末広町7番28号、末広町通りの南筋にある。向かって左隣りは土屋商店。北に花の木通りが延びてT字路をなしている。支店が千徳町5番16号にある。

■山崎鯢山(やまざき・げいざん)
近世末期から近代にかけての儒学者・漢詩人。1822年(文政5)津軽石(つがるいし)村に生まれる。名は吉謙。17歳で江戸にのぼる。梁川星巌(やながわ・せいがん)に師事し、小野湖山・大沼沈山と並んで梁門の三山と称される。1859年(安政6)盛岡藩の儒官、のち藩校作人館の助教となる。1868年(明治1)岩手県庁に勤め、岩手県地誌の編纂にあたる。1879年(明治12)集義塾を開設。1896年(明治29)死去。鯢山という号は山田町と大槌町の境にある標高610mの鯨山にちなみ、鯢は雌鯨の意。

■山背(やませ)
梅雨から真夏のあいだに吹く北東からの風。オホーツク海高気圧がもたらし、冷たく湿っている。長く続くと冷害の原因となる。海からガス(濃霧)が発生し、これを“まがだ”と呼び、魔靄と書く。

■山清アパート(やませいあぱーと)
大通(おおどおり)4丁目3番18号あたりか?

■山清商店(やませいしょうてん)
酒・食品の店。末広町(すえひろちょう)4番2号にある。屋印は○ヤ。姓は山崎。かつては末広町2番13号の角地にあり、2009年(平成21)3月頃に移転。
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■山田産婦人科医院(やまださんふじんかいいん)
緑ヶ丘(みどりがおか)2番3号、みどり公園の北側。2006年(平成18)11月1日ごろ閉院したか?

■山田線(やまだせん)
JR東日本(旧国鉄)の鉄道路線。宮古駅の開業は1934年(昭和9)11月6日。盛岡駅~宮古駅~釜石駅を結ぶ157.5km。蒸気機関車のあとは、電車ではなく、ディーゼル車が走っている。盛岡~宮古は、約2時間。北上山地を縫って走り、トンネルが多い。途中の茂市(もいち)で、日本三大鍾乳洞のひとつ龍泉洞のある岩泉(いわいずみ)に向かう岩泉線が分岐する。宮古~釜石はリアス式海岸を走る。山の風物、海の風物を楽しみながら、のんびり旅ができる貴重な路線。路線名は1892年(明治25)計画時に終点が陸中山田駅だったことによる。敷設を帝国議会で審議した際、野党の憲政会議員から「こんなところに鉄道を敷いて、首相は山猿でも乗せるつもりか」という非難があった。岩手出身の平民宰相原敬は平然と、「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と答弁したという有名なエピソードがある。大志田駅・浅岸駅にスイッチバックがあったが、現在は廃止。スイッチバック方式は、傾斜がきつく登れないためではなく、単線で列車のすれ違いを行なうために採用されたという。蒸気機関車C58(シゴハチ)は1970年(昭和45)2月28日まで運行し、翌日からディーゼ機関車に代わった。この山田線最後のSLは盛岡市の交通公園に展示されている。プレート・ナンバーは“C58239”。
【略年表】 茂市駅から分岐する小本線=岩泉線などの関連事項を含む
1892年(明治25)6月21日、鉄道敷設法が公布され、国が建設すべき予定線に山田線が組み込まれる。
1918年9月29日、原敬が第19代内閣総理大臣に就任、山田線敷設が促進される。
1921年11月4日、原敬が国鉄大塚駅職員に東京駅で刺殺される。
1923年(大正12)10月10日、盛岡駅~上米内駅の9.9kmが開業。
1934年(昭和9)11月6日、宮古駅まで開通。
1935年(昭和10)11月17日、宮古駅~陸中山田駅の26.5kmが開通。
1939年(昭和14)9月17日、釜石駅まで開通。
1942年(昭和17)6月25日、小本線(のち岩泉線)のうち茂市駅~岩手和井内駅10kmが開通。
1943年(昭和18)11月22日、宮古駅~宮古港駅2.0kmに貨物専用の臨港線が開通。
1947年(昭和22)9月15日~16日、キャスリーン台風で松草駅~蟇目駅が寸断。
1948年(昭和23)9月15日~17日、アイオン台風で平津戸駅~蟇目駅が寸断。
1954年(昭和29)11月21日、1947年以来の休業から全線復旧。
1961年(昭和36)12月20日、花原市駅が開業。
1972年(昭和47)2月6日、小本線が岩泉駅まで延伸し、名称を岩泉線に変更。
1984年(昭和59)2月1日、宮古駅~宮古港駅の臨港線が廃止。
1986年(昭和61)11月1日、貨物営業廃止。
1987年(昭和62)4月1日、国鉄から東日本旅客鉄道に移管。
【駅名】
盛岡 もりおか ― 上盛岡 かみもりおか ― 山岸 やまぎし ― 上米内 かみよない ― 大志田 おおしだ ― 浅岸 あさぎし ― 区界 くざかい ― 松草 まつくさ ― 平津戸 ひらつと ― 川内 かわうち ― 箱石 はこいし ― 陸中川井 りくちゅうかわい ― 腹帯 はらたい ― 茂市 もいち ― 蟇目 ひきめ ― 花原市 けばらいち ― 千徳 せんとく ― 宮古 みやこ ― 磯鶏 そけい ― 津軽石 つがるいし ― 豊間根 とよまね ― 陸中山田 りくちゅうやまだ ― 織笠 おりかさ ― 岩手船越 いわてふなこし ― 浪板海岸 なみいたかいがん ― 吉里吉里 きりきり ― 大槌 おおつち ― 鵜住居 うのすまい ― 両石 りょういし ― 釜石 かまいし
山田線50隧道

■山田煎餅(やまだせんべい)
三陸名産。宮古市の南に隣接する下閉伊郡山田町の伝統ある生菓子。米(うるち米)・胡麻を主原料とした生地を蒸して薄くのばした煎餅で、直径15㎝ほどの円形、厚みは1㎜もない。一袋10枚(250g)入って500円。くっついているので、ひっぺがして食べる。薄いが歯応え充分で噛むほどに味が出る。硬くなったら焼いたり油で揚げたりして食べる。はじめから焼いたものを土産物屋などで売っているが、かさばって枚数が少ない。焼くのは自分で焼ける。生を買うと両方の味が楽しめる。平たくのばすまえの煎餅餅(せんべいもち)というのもあり、黄な粉がまぶしてある。

■山田町(やまだまち)
下閉伊郡に属し、宮古市の南に隣接する水産の町。JR山田線・国道45号で宮古と結ばれる。山田線の駅名は陸中山田。町役場は八幡町3-20にある。℡0193-82-3111。1947年(昭和22)から1988年(昭和63)までは大沢に商業捕鯨の基地があった。船越の“鯨と海の科学館”にマッコウクジラの世界最大級17.6mの実物骨格標本を展示している。名物に一粒牡蠣や烏賊徳利、山田煎餅などがある。
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■山田屋陶器店(やまだやとうきてん)
閉店。本町(もとまち)1番37~38号、中央通りの北筋にあった老舗。新旧二つの店舗が並び、向かって左側(西)の旧店舗の庇の上に信楽焼きの狸が載っていた。その左隣りは明治生命ビル。閉店時期は2005年(平成17)頃か?

■山田屋旅館(やまだやりょかん)
本館が大通(おおどおり)3丁目6番51号にある。℡0193-62-3155。向かいの大通4丁目3番12号に別館がある。本館に向かって右隣り(西)に宮古タクシーがあった。宮古港海戦直後の1869年(明治2)、山田出身の佐々木権蔵が、旧山口川左岸の片桁(かたげた)いまの市役所分庁舎前で創業。1945年(昭和20)8月、強制疎開に遭い、1947年(昭和22)4月に現在地で営業を再開。

■山根漁業部(やまねぎょぎょうぶ)
株式会社。赤前(あかまえ)第15地割17-6、堀内(ほりない)にある。

■山根三右衛門(やまね・さんえもん)
事業家・漁業家。三衛門・三エ門という表記もみられる。1890年(明治23)重茂(おもえ)半島西岸の堀内(ほりない)に生まれる。畜産業・製炭業を経て定置網漁業へ移り、山根漁業部を設立。定置の神さま、漁業王と呼ばれ、北海道幌泉漁場に進出して1941年(昭和16)に鮪7000尾の漁獲を記録。1971年(昭和46)高血圧により死去、享年81。

■山根商店(やまねしょうてん) → マルヤマ山根商店

■山根町(やまねちょう)
市街地の北東部、鍬ヶ崎(くわがさき)にある。西・北を蛸の浜町、東を日立浜町、南を港町と接する。1570年頃(元亀年間)紀州から山根一族が移り住み漁業に従事したという。熊野神社があったが熊野町に移転。跡地に稲荷・弁天が祀られる。

■山根英郎(やまね・ひでお)
文筆家・元教諭。1925年(大正14)新町(あらまち)生まれ。1944年(昭和19)岩手師範学校本科を卒業。1945年、横須賀海龍特別攻撃隊笠置隊から復員。鍬ヶ崎国民学校訓導をふりだしに教諭・指導主事・教頭・校長を歴任し、1985年(昭和60)3月に磯鶏小学校校長を定年退職。宮古市史編纂委員・宮古地方史研究会副会長を務める。「宮古市戦没者名簿」を編集、著書に1989年(平成1)「湾頭の譜――ふるさとエッセー集」、1991年「黎明――敗戦下、青年教師の手記」などがある。

■山の神(やまのかみ)
山に生きる民、山人(やんもうど)が祀る。山神。12月12日は“山の神の年越し”で、米の粉だけでつくったスットギを山の神に供える習慣がある。またこの日、山の神は山の木を一本一本数えてまわるという。

■山康商店(やまやすしょうてん)
末広町(すえひろちょう)3番20号にある。末広通りの南筋で、向かって右隣りはべにや。℡0193-62-3570。“元祖いか徳利”、のしいか、お土産品などを扱う。屋印は∧大(ヤマダイ)。


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                              ホームへホームへ

■ユースホステル末広館(ゆーすほすてるすえひろかん)
末広町(すえひろちょう)7番27号にある。宮古駅から徒歩で5分もかからない近さ。

■郵便局(ゆうびんきょく)
宮古郵便局(本局)は栄町(さかえちょう)1番7号にある。かつて宮古病院があった場所で、2006年(平成18)11月6日、第二幹線北筋の保久田(ほくだ)3番8号(℡0193-62-1915)から移転した。

宮古郵便局   栄町1-7 ℡0193-62-1914
新町郵便局   新町3-15
市役所前郵便局 新川町3-2
市役所内出張所 新川町2-1
磯鶏郵便局   磯鶏沖8-18
鍬ヶ崎郵便局  鍬ヶ崎上町6-19
小山田郵便局  小山田2丁目3-24
田の神郵便局  田の神2丁目3-10
千徳郵便局   上鼻2丁目6-90
崎山簡易郵便局 崎山第1地割5-1
花輪郵便局   花輪5-19
重茂郵便局   重茂第1地割字西大館36-3
津軽石郵便局  津軽石第6地割6-25
日の出郵便局  日の出町4-3
高浜簡易郵便局 高浜3丁目1-3

■有楽座(ゆうらくざ)
かつて鍬ヶ崎にあった芝居小屋・演芸場・活動写真館。いまの鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)1番18号、ニチモウ宮古営業所がある場所。鬼山親芳『宮古の映画館物語』によれば、“大正の終わりごろから昭和の初めにかけて鍬ヶ崎に有楽座という活動写真館があった。(中略)曹洞宗常安寺別院のある上の山から下りて昔の目抜き通り突っ切った右の一角。木戸は海岸通り側にあり、昼より夜を中心に興行していた。(中略)経営していたのは今でも鍬ヶ崎で衣料品店を営む菊安の三代目、菊池安兵衛だった。安兵衛は建網(定置網)で財を成し、新興産業でもあった活動写真の興行に乗り出した。”しかし長く続かず本業で失敗し、有楽座を手離した。有楽座の建物は解体されて田んぼの広がる末広町に運ばれ、改造のうえで第2常盤座に生まれ変わった、という。

■雪(ゆき)
初雪は平年11月16日ごろ。

■湯沢の水(ゆざわのみず)
津軽石(つがるいし)と花輪を結ぶ根井沢(ねいさわ)街道沿いにある湧水。切り傷などに効く霊水とされる。現在の湧出量は少ない。

■柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)
作家。1968年(昭和43)5月12日、宮古市生まれ(釜石出身とする説もあるが?)。父親の転勤に伴って岩手県内各地で過ごす。2004年(平成16)から山形県山形市在住。2008年『臨床真理』(宝島社)で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞。2010年5月『最後の証人』(宝島社)刊行。2011年3月11日の東日本大震災で宮古在住の父親と義母を亡くす。同年11月『検事の本懐』(宝島社)を刊行。

■ゆったり館(ゆったりかん)
茂市(もいち)第8地割53番地、閉伊川沿いの総合レクリエーション施設“リバーパークにいさと”にある入浴施設。第3セクター方式で1996年(平成8)8月に開館。2006年(平成18)4月21日、入館100万人を達成。

■ユニゾン(UNISON)
ショットバー・喫茶店。大通(おおどおり)4丁目1番14号トキワザビル4階にある。℡0193-63-8605。かつてスナックのグルッペがあったと思われる黒田町(くろたまち)2番25号から、2007年(平成19)3月ごろ現在地に移転。

■夢の星(ゆめのほし)
玩具屋。和見町(わみまち)1番15号にある。

■ゆわご
夕顔、夕顔の実。ユアゴ、イワゴとも言う。8月中旬から下旬にかけて実の収穫の最盛期を迎える。


▽よ
                              ホームへホームへ

■養護学校(ようごがっこう)
岩手県立宮古養護学校。大字崎山(さきやま)第5地割字内ノ沢88番地にある。1971年(昭和46)4月1日、市立崎山小学校・市立崎山中学校はまゆり分校として創立。1979年(昭和54)4月1日、市立はまゆり養護学校として開校。2000年(平成12)3月31日、市立はまゆり養護学校を閉校。同年4月1日、岩手県立宮古養護学校として開校。小学部・中学部・高等部がある。

■洋電社(ようでんしゃ)
電機・バッテリー商。大通(おおどおり)4丁目4番12号にある。

■洋服の青山(ようふくのあおやま)
洋服の青山宮古店。宮町(みやまち)4丁目4番11号、国道106号沿いにある。

■養老乃滝(ようろうのたき)
大通(おおどおり)4丁目3番10号にあった。2004年に閉店。かつて八分団だった建物で、前に火の見櫓が残っている。向かって右横に宮古小学校へつづく細い道がある。

■横田籠(よこたかご)
ヨコタ、ヨコダ、ヨゴダなどと呼ばれるが、横田のいわれは不明。短辺の両側に取っ手がついた、長方形の大きな籠で、漁業・農業で使われる。竹製だったがプラスチック製にとって代わられた。

■横町(よこまち)
市街地の北部に位置する。北を緑ヶ丘・小沢(こざわ)、東を沢田、南を通りを挟んで黒田町・新町(あらまち)、西を保久田(ほくだ)と接する。北部に上ノ山(うえのやま)があり、御深山(おしんざん)と呼ばれる深山神社がある。西部に宮古小学校がある。南を東西にのびる通りは横町通りと呼ばれ、昔の閉伊街道で古い町並みがつづく。通りに面して消防第3分団、宮古公証人役場などがある。西から東への一方通行。地名の由来は、本町(もとまち)・新町に対して横にのびる町の意。宮古小学校のあたりに、もと神明社があったか?

■横町通り(よこまちどおり)
市街地の北側にある通りの俗称。西の保久田(ほくだ)から東に向かうと、北側の横町(よこまち)・沢田(さわだ)と南側の黒田町(くろたまち)・新町(あらまち)・本町(もとまち)とに挟まれている古い閉伊街道筋で、沢田の常安寺に至る。

■横山印舎(よこやまいんしゃ)
1980年代まで中央通り北筋の新町(あらまち)1番地にあった印鑑・表札の店。店主は書道教室も開いていた書家の横山秋月。横山八幡宮とのつながりが推測されそうな姓と雅号だが関係はないという。

■横山八幡宮(よこやまはちまんぐう)
通称は八幡さま。宮古弁で“はづまんさま”。社務所は宮町(みやまち)2丁目5番1号、横山の東麓にある。℡0193-62-5072。横山は西から東へ流れる閉伊川の左岸に南北に横たわる標高26.5mの丘陵。北の舘合山(たてあいやま)から南へ延びた尾根の尖端部にあたると思われるが、あいだの尾根は閉伊街道に始まる国道・バイパス・鉄道山田線などの建設によって削られている。南麓を閉伊川が流れて宮古湾へ注ぎ、八幡土手がJR山田線の閉伊川橋梁まで延びる。横山の裏にあたる西麓で山口川が北から閉伊川に注ぐ。北麓を国道106号が通る。東麓に延びる参道に沿って、南に市立第一中学校、北に宮町2丁目4番地の住宅地が広がり、一帯は八幡下、八幡前と呼ばれた。百余段の花崗岩製の石段(男坂)がある境内は古木に囲まれて森閑とし、木々のあいだから市街が一望できる。境内南側に神歌碑・古峯神社・金刀比羅神社がある。社伝によれば、創建は680年(白鳳9)。祭神は品牟陀和気命(ほんだわけのみこと=応神天皇)・豊受姫命(とようけひめのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)の3柱。“山畠尓作久りあらし乃ゑのこ草 阿は能なると者堂?れかいふら無”(山畠につくりあらしのえのこ草 あわのなるとはだれかいうらん)と漢字・万葉仮名まじりで刻まれた神歌碑は、1006年(寛弘3)横山の禰宜が日夜祈祷中にこの神歌を得て阿波の鳴戸に赴き、激浪を鎮めた功績によって時の天皇から都と同訓の宮古を名乗ることを許されたという地名発祥伝説にまつわる。1771年(明和8)につくられた宮古八景に“横山秋月 秋の夜のひかりはおくの宮古にもめぐみ隔てぬよこやまの月”、1918年(大正7)の新宮古八景に“横山秋月 世を護る神のみいつは横山の秋の夜にこそ月に著(し)るけれ”とある。紋は八幡神の三つ巴。元朝参りに始まる主な神事は、どんと祭・古札焼納祭が1月中旬、節分祭(豆まき)が2月3日、例大祭が9月14~16日の3日間、大祓式が大晦日に行なわれる。
HP

■吉川英治(よしかわ・えいじ)
作家。1892~1962年。「宮本武蔵」「新・平家物語」などで知られる。1935年(昭和10)8月12日から17日まで日本青年文化協会の公演のため、愛宕(あたご)2丁目にある本照寺に滞在。英治の妹の千代と結婚した関口誠也の出身地が宮古で、誠也の兄の養隆が本照寺の住職を勤めていた。滞在中に「宮本武蔵」の一部を執筆したのではないかとされる。「宮本武蔵」が朝日新聞に連載されはじめたのは8月23日だった。また滞在中、英治の書生をつとめ、若くして死んだ鍬ヶ崎出身の小説家伊東祐治の墓に詣で、“寺を出て寺までかへる盆の月”という句をつくった。翌1936年(昭和11)に書いた随筆「お盆」(全集52巻「草子堂随筆折々の記」の「窓辺雑想」に収録)に、そのときの様子が描かれている。句碑は1998年(平成10)3月、本照寺の南に隣接する愛宕小学校の敷地に建立された。

■よし寿司(よしずし)
保久田(ほくだ)4番27号にある。℡0193-62-1017。宮古で一番うまいという評判がある。

■吉田商店(よしだしょうてん)
栄町(さかえちょう)のバス通り、旧宮古病院の向かい、旧保健所の東隣りにあった食料品店。

■吉田書店(よしだしょてん)
末広町(すえひろちょう)5番3号あたりにあった。プラモデルなども扱った。レーシングカーが流行った頃、店内の奥に小さな8の字のサーキット・コースが置かれていた。のちビジネスホテルになった。

■吉田タキノ(よしだ・たきの)
作家。1917年(大正6)3月11日、岩手県下閉伊郡鍬ヶ崎町(くわがさきまち)で五十集屋(いさばや、海産物加工業)を営む家の次女として生まれる。1923年(大正12)に父が病死。1924年(大正13)4月1日、鍬ヶ崎町は同郡宮古町と合併し宮古町となる。1926年(大正15)頃、母が脳溢血で死去。1927年(昭和2)前須賀埋め立て。1928年(昭和3)3月3日、三陸地震津波発生。鍬ヶ崎尋常高等小学校を卒業。1932年(昭和7)3月、県立宮古高等女学校を卒業。1940年(昭和15)上京し、働きながら小説を書く。1962年(昭和37)「キューポラのある街」で知られる小説家・児童文学者の早船ちよのすすめで児童文学を書き始める。同年、医療ミスを扱った長篇小説「光のように風のように」、ふるさと鍬ヶ崎を題材にした児童小説「はまべの歌」を理論社から出版し、「はまべの歌」で児童文学に初めて方言を取り入れる。1976年(昭和51)幼年向けの創作童話「なんだべなんだべ」、1979年(昭和54)半自伝風の児童小説「兄と妹たち」を小学館から刊行。そのほか「ふるさとの民話」(1982年3月・理論社)や紙芝居(画劇)など著作は40冊余。1983年(昭和53)10月14日発行の宮古高等学校同窓会名簿によると当時の住所は埼玉県所沢市久米1213喜原荘。2004年(平成16)5月、宮古市山根町の兄嫁の家に戻る。2008年(平成20)1月23日、肺炎のため死去。享年90。

■吉田肉店(よしだにくてん)
末広町(すえひろちょう)7番31号にある。焼き豚がおいしい。

■義経伝説(よしつねでんせつ)
源義経は平泉で死なずに落ち延びて北へ向かい、蝦夷(北海道)、さらに中国大陸へ渡りジンギスカンになったとする伝説。宮古地方にも義経の“足跡”は各地に残っている。参考文献に佐々木勝三「義経は生きていた」(東北社)、佐々木勝三・大町北造・横田正二共著「義経伝説の謎」(1986年7月2日・勁文社)などがある。

■吉野石膏(よしのせっこう)
小山田(こやまだ)1番44号にある。建築用資材の石膏ボードを製造。本社は東京。宮古吉野石膏㈱本社・工場は1968年(昭和43年)ラサ吉野石膏㈱宮古工場として竣工。

■吉八商店(よしはちしょうてん)
金魚と衣料品を扱う。向町(むかいまち)2番49号、中央通りに面した角地で信用金庫前のバス停が近い。道を挟んで伊藤牛乳店があった。

■吉村昭(よしむら・あきら)
作家。「海の壁――三陸沿岸大津波」(中央公論社)、「幕府軍艦『回天』始末」「梅の蕾」(ともに文藝春秋)、「星への旅」など宮古や下閉伊郡田野畑(たのはた)村など三陸にかかわるすぐれた作品を書いた。田野畑村などをしばしば訪れ、同村の鵜の巣断崖に「星への旅」の文学碑が建っている。「海の壁――三陸沿岸大津波」は1984年(昭和59)8月10日「三陸海岸大津波」と改題して中公文庫に収録。2006年(平成18)7月31日、膵臓癌のため死去、享年79。延命治療を拒否し点滴やカテーテルを自ら外して死を選ぶ。

■よだ
津波・海嘯を表わす宮古方言。特に地震を原因としない津波を言うとする説もある。

■ヨット → いわてマリンフィールド

■よね久(よねきゅう)
食堂。大字金浜(かねはま)第2地割4にある。米久とも表記し、2006年(平成18)頃まで末広町2番12号、末広通りの北筋にあった。西隣りは山清商店(現在は移転)。自家製手打ち蕎麦・うどんをはじめ中華そば、すきやき鍋など“昔ながらの味にこだわる”が謳い文句だった。

■米山薬師(よねやまやくし)
米山薬師神社。津軽石(つがるいし)と花輪を結ぶ根井沢(ねいさわ)街道の南、神楽森(499m)の北麓に奥宮がある。米山薬師奥宮秘水と呼ばれる湧水が眼病に効くとされる。例祭は旧暦4月8日。徒歩で1時間ほどの米山集落に里宮がある。

■呼浜(よばわりはま)
宮古湾に面した神林(かんばやし)にある浜。リアスハーバー宮古がある。南は藤の川海水浴場が続く。

■甦る水(よみがえるみず)
中央通りの公衆便所「さわやかトイレ」西脇、旧山口川のほとりに石碑がある。2001年(平成13)3月に建立。当時の建設省が近代下水道制度100年記念行事の一環として「甦る水100選」を公募し、下水道が水環境の保全回復に果たしている顕著な事例のひとつとして表彰されたことを記念したもの。建設大臣・扇千景と宮古市長・熊坂義裕の名が刻まれている。建設省によると、宮古市の公共下水道事業は、1977年度(昭和52年度)に建設が始まり、1988年(昭和63)10月から供用を開始。以来12年、市街地中心部を流れる旧山口川の流域では87%が水洗化され、1988年度は83mg/lだったBOD値(生物化学的酸素要求量)が1999年度(平成11年度)には11.5mg/lまで改善された。清流化の一環として2000年度(平成12年度)は約70mの区間を仕切ってせせらぎ地帯を設け、鯉30匹を放流。ウグイの稚魚が生息しているのが確認されるなど環境を取り戻しつつある、という。

■「喜びも悲しみも幾歳月」(よろこびもかなしみもいくとしつき)
映画。1957年(昭和32)10月1日に公開された木下恵介監督・脚本による松竹映画のカラー作品。原作は、魹ヶ埼(とどがさき)灯台で7年間を過ごした海上保安庁職員田中績(いさお)夫人きよさんの手記。「海を守る夫とともに二十年」のタイトルで雑誌「婦人倶楽部」1956年(昭和31)8月号に掲載された。田中きよさんは1913年(大正2)に生まれ、1999年(平成11)5月10日に急性肺炎のため死去、享年87。自宅は福島県いわき市小名浜下神白字狩亦62-47。魹ヶ崎にある本州最東端の碑の文字は田中きよさんの筆になる。映画のなかでは有沢きよ子。ただし映画に、魹ヶ埼灯台は出てこない。主演は佐田啓二と高峰秀子。新婚の灯台守夫婦が1932年(昭和7)神奈川県の観音埼灯台に勤めたのを初めとして1957年まで各地の灯台を転勤する。その間に家族が味わった哀歓、同僚たちとの交流がテーマ。勇壮な主題歌も大ヒットした。宮古での公開は第二常盤座。1986年(昭和61)6月28日に同じ木下恵介監督、同じ主題歌、主演は加藤剛・大原麗子によるリメイク版「新・喜びも悲しみも幾歳月」が公開された。
主題歌「喜びも悲しみも幾歳月」 作詞・作曲:木下忠司 歌:若山 彰
1 俺(おい)ら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の
  無事を祈って 灯(ひ)をかざす 灯をかざす
2 冬が来たぞと 海鳥(うみどり)なけば 北は雪国 吹雪の夜の
  沖に霧笛が 呼びかける 呼びかける
3 離れ小島に 南の風が 吹けば春来る 花の香(か)便り
  遠い故里 思い出す 思い出す
4 星を数えて 波の音(ね)きいて 共に過ごした 幾歳月の
  喜び悲しみ 目に浮かぶ 目に浮かぶ

■4分団(よんぶんだん)
消防機関。藤原1丁目8番13号にある。℡0193-63-3024。正式には宮古地区広域行政組合宮古市消防団第4分団屯所という。例年1月の第4日曜日、藤原比古神社に裸参り祈願をする。


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