*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  
宮古大事典     な      未分類
              
              
              
              
▽な

■なあど → シートピアなあど

■直助屋(なおすけや)
*東日本大震災で全壊。以下は被災前の記事のまま。蕎麦屋。築地(つきじ)2丁目4番14号。営業時間は午前11時から午後5時まで。土曜が休み。手打ち蕎麦のほか、うどん・中華そばもある。名物“ハラコそば”は10月から1月までの季節メニュー。

■中居英太郎(なかい・えいたろう)
元衆議院議員・元宮古市長。宮古市生まれ。岩手県議会議員を経て、1953年(昭和28)衆議院議員選挙の旧岩手1区に社会党から立候補し初当選、2期務める。宮古市長を1970年(昭和45)から74年まで、89年(平成1)から93年までの通算2期務める。民社党県連会長・民社党県連常任顧問・県民社協会顧問を歴任。2007年(平成19)1月2日、脳梗塞により長女の住む埼玉県越谷市の病院で死去、享年89。自宅は宮古市西町。

■中居製材所(なかいせいざいしょ)
かつて新川町(しんかわちょう)にあった。

■長磯(ながいそ)
ナゴーソと発音する。重茂(おもえ)半島・とどヶ崎の裏(西)側に延びる細長い入り江。奥に船着場がある。

■中市米穀店(なかいちべいこくてん)
黒田町(くろたまち)7番25号、横町(よこまち)通りの南筋で、宮古小学校正門前にある。0120-22-1880。

■中川旅館(なかがわりょかん)
本町(もとまち)1番31号、中央通りの北筋にある。0193-62-6062。

■中里団地(なかさとだんち)
市街地北東部の丘陵上に位置する。北を日影町、東を国道45号を挟んで鍬ヶ崎(くわがさき)下町・鍬ヶ崎仲町、南を愛宕(あたご)、西を沢田と接する。南西部に愛宕中学校があったが廃校。宮古市史年表1964年(昭和39)3月28の項に“中里団地落成式(宮歩み)”とあるが、1965年(昭和40)3月31日の項にも“中里団地完成”とある。

■長沢(ながさわ)
市の南西部に位置する。北東を花輪、南東を津軽石、南を下閉伊郡山田町豊間根(とよまね)に接する。長沢川が北東に流れる。長沢館跡、鞭牛(べんぎゅう)和尚が再興した霊場浮金山(ふきんざん)の十三仏・岩屋や長沢牧場、長元地神社、髪長神社、稲荷神社、八幡宮などがある。花輪小学校南川目分校が第6地割字陰南川目78番地1にあったが2000年(平成12)3月に閉校。明治期に多数の部落が以下の8組に統合・組み分けされた。一組寺沢・二組折壁・三組大野・四組中家戸・五組槻川原・六組牛沢口・七組南川目・八組北川目。中家戸は3軒の屋号をから1字ずつとったものという。県北バス花輪線の停留所名として四組・五組・六組が残る。四組・五組のあいだに屯所前バス停があり、ここには長沢村役場があった。

■長沢川桜づつみ(ながさわがわさくらづつみ)
新しい桜の名所。田鎖(たくさり)第6地割、長沢川の右岸沿いに約1qの桜並木が続く。4種類・約300本が植えられているという。トイレあり。1995年(平成7)4月には、盛岡藩3代藩主南部重信の歌碑が建立され、生母松の50回忌に詠んだ“受けよ母五十の霜にかれやらて残るかひ有この手向草”という歌が刻まれている。重信は花輪で生まれ育ち、花輪殿様と呼ばれた。

■中澤歯科医院(なかざわしかいいん)
大通(おおどおり)4丁目4番2号、末広町と大通りとを結ぶ細道の中ほど・西筋にある。

■中澤書店(なかざわしょてん)
新町(あらまち)3番7号、新町通りと第二幹線とが交わる北東角地にある。0193-62-6657。竹ひごと紙でつくるゴム動力の飛行機、プラモデル、ラッカー(塗料)やシンナー、絵筆などを買った。教科書も取り扱っていた。

■長沢牧場(ながさわぼくじょう)
正確な住所は不明。長沢字折壁あたりか? 市の南西部の奥。標高970mの加呂森(かろもり)の稜線に近く、長沢川の上流部で、近くに鵜主ノ滝(うのすのたき)があるという。

■中嶋哲(なかじま・さとし) → 鮭の中骨
鮭の中骨缶詰の開発者。鮭博士の異名を持つ。1931年(昭和6)高浜生まれ。1950年(昭和25)県立宮古水産高等学校を卒業後、母校で41年間勤務。その間の1986年(昭和61)11月5日に世界で初めて鮭の中骨だけをつめた缶詰を開発。1992年(平成4)から2002年(平成14)まで宮古漁業協同組合加工開発室長を務める。1994年(平成6)鮭の中骨缶詰で農林水産大臣賞を受賞。現在は市民への鮭加工技術の指導などにあたる。

■中済旅館(なかすみりょかん)
*大通(おおどおり)3丁目6番9号にある。0193-62-3496。宮古駅から5分の小さな旅館。六畳一間の素泊まりで4000円。

■仲瀬(なかせ)
もとの山口川に蓋をして中央通りになる前の右岸・南側の通りの名称。2と9のつく日に市が立った。左岸・北側の通りは片桁(かたぎた)と呼ばれた。

■永田商店(ながたしょうてん)
横町(よこまち)4番2号、宮古小学校正門の西脇にあった小さな店。文房具や駄菓子・駄玩具などを売っていた。建物は2006年8月現在残っている。サイディングが施され、綺麗な白色をしているが、かつては薄緑色の板壁だった。ちなみに宮古小学校正門の東脇は消防の3分団。

■長根(ながね)
市街地の西部。北を山口地区、東を泉町・舘合町(たてあいちょう)、南をJR山田線を挟んで宮町(みやまち)4丁目・太田、西を近内(ちかない)に接する。青猿神社・長根寺(ちょうこんじ)、長根T遺跡・長根古墳、千鳥保育園、東北電力制御所、長根配水池などがある。三陸鉄道北リアス線の長根トンネルが東部を通る。旧道を県北バスが西の近内・岩船に通う。

■長根遺跡(ながねいせき) → 長根古墳

■長根古墳(ながねこふん)
奈良時代の古墳群。1988年(昭和63)長根T遺跡で発掘された。岩手沿岸地方で初めて発見された古墳群で、「続日本紀」715年(和銅8)に昆布を献上した閉村の須賀君古麻比留(すがのきみ・こまひる)、「日本後紀」にみえる遠閉伊村・幣伊村とも推定される貴重な遺跡。閉伊川の河口から約3kmさかのぼった標高47mの丘陵上の尾根頂部から南斜面、閉伊川・近内川の北岸に位置する。古墳28基、方形周溝2基、溝跡、ピット、落とし穴、中世墓壙のほか、蕨手刀1振、錫製釧1個、和同開珎1枚、ガラス小玉214個、高杯などが発見された。和同開珎は関東以西の製造、錫製釧は北方ルートでもたらされた大陸系の遺物と推定される。出土品は市立図書館に保管され、1994年(平成6)5月17日に県の民俗文化財に指定された。

■長根配水池(ながねはいすいち)
宮古市上水道長根配水池が正式名称。山口地区と境を接する山上にある。住居表示は不詳。

■中野整骨院(なかのせいこついん)
大通(おおどおり)3丁目4番15号、八幡沖踏切の北側、小林餅店の向かいにある。0193-64-6135。

■中野七頭舞(なかのななつまい)
岩泉町小本(おもと)に伝わる民俗芸能。先打ち・太鼓・長刀など七つの道具で、おもに開墾から収穫までを表現する。江戸時代に始まり、宮古の黒森神楽が源とされる。
HP

■中の浜キャンプ場(なかのはまきゃんぷじょう)
崎山(さきやま)にあり、4月1日から11月30日までオープン。徒歩5分で女遊戸(おなつぺ)海水浴場と宿(やど)漁港がある。かつて浄土ヶ浜の“中の浜”にあったが、1964年3月9日に閉鎖され、崎山に設置された。

■中洞牧場(なかほらぼくじょう)
会社は田老字(あざ)小堀内19−15に(0193-87-5959)、牧場は隣りの下閉伊郡岩泉町にある。1984年6月に個人の牧場として創業。2000年6月15日に有限会社化。2003年に株式会社化。エコロジー牛乳、ミルク・抹茶・味噌アイスクリーム、ミルク・抹茶・胡麻シューアイス、飲むヨーグルト、ハンバーグステーキ、野菜・雑穀・かぼちゃスープ、そのほかを製造・販売。搾乳場所以外は屋根がなく、真冬でも牛を屋外に放牧し、輸入飼料・配合飼料は使わないなど自然放牧酪農が特徴。

■長町(ながまち)
国道106号バイパスの開通にともなって新設された。1丁目・2丁目がある。宮町(みやまち)4丁目の西につづく。南を閉伊川の土手に、北をJR山田線に挟まれた細長い町並み。水道局・水道公園、宮古職業訓練センターなどがある。かつては山口川沿いから千徳まで、ずっと田畑が広がっていた。

■中むら(なかむら)
宮古出身者が経営する東京の寿司屋。東京都世田谷区弦巻2−9−11、03-5477-1144。

■中村(なかむら)
千徳(せんとく)の古名。

■中村桂子(なかむら・けいこ)
政治家。宮古初の女性市会議員。1908年(明治41)鍬ヶ崎生まれ。鍬ヶ崎尋常小学校、盛岡実科高等女学校を卒業。1948年(昭和23)宮古市議会議員に初当選し、1966年(昭和41)まで5期にわたって務めた。また宮古漁業協同組合婦人部の初代部長に就任、女性の地位向上に努めた。1967年(昭和42)病死、享年59。墓は常安寺にある。

■中村生花店(なかむらせいかてん)
大通店は大通1丁目4番31号、0193-64-5240。中央通りの南筋、教会通りが接続する南東角地にある。ここには以前、石沢種屋があった。大通店のほか魚菜市場店(五月町1番1号)、末広町店(末広町3番21号)、保久田店(保久田1番19号)がある。

■中村貴之(なかむら・たかゆき) → N.S.P
岩手県出身の3人組フォークグループN.S.P(ニュー・サディスティック・ピンク)のメンバー。1953年(昭和28)6月12日、宮古市に生まれる。血液型はO型。宮古小学校で合唱団、第一中学校時代のクラブ活動は軟式テニス部、愛称たっこちゃん。国立一関工業高等専門学校へ進学。在学中にN.S.Pを結成し、ギターとヴォーカルのほか作詞・作曲の一部を担当。1973年(昭和48)第5回ヤマハポピュラーミュージックコンテスト、略称ポプコンの全国大会で「あせ」が2位となり、「さようなら」でメジャーデビュー。「夕暮れ時はさびしそう」などのシングル、LPが立て続けにヒット。1985年(昭和60)ソロ活動を目指してN.S.Pを脱退。2002年(平成14)N.S.Pを再結成。2005年(平成17)7月、リーダー天野滋の急逝によってN.S.Pとしての活動は休止状態となったが、2007年(平成19)7月ソロ活動を開始。

■中村屋せんべい店(なかむらやせんべいてん)
煎餅の老舗。新町(あらまち)4番10号、西を黒田町と接する通りにある。0193-62-3385。1933年(昭和8)創業以来、伝統の手焼きを守っている。いかせんべい・鮭せんべい・さくらせんべい・南部せんべい・あけがらすせんべい・しょうがせんべい・たまごせんべいなどがある。鮭せんべいは冬季限定商品。鮭の身を細かいチップ状にして乾燥させ、煎餅生地にまぜて焼き上げたもので、酒のつまみにもなる。さくらせんべいは宮古市が地場産品の普及・向上のために開催した新宮古市産業まつり2005(平成17年10月22日・23日)で“市民が選ぶ新宮古市特産品コンクール”21品に選ばれている。なお、店の向かって左隣りに、かつて「毛皮太鼓製造」という看板を掲げた店があった。

■中屋商店(なかやしょうてん)
金物屋。末広町8番3号にある。

■中屋造船(なかやぞうせん)
藤原2丁目3番30号、閉伊川河口右岸にある。0193-62-1226。

■中谷地(なかやち)
字(あざ)として市域の各所に残る地名。谷地は低湿地帯の意。市街地では、いまの緑ヶ丘あたりが宮古第1地割字中谷地だった。ほかに大字山口第3地割字中谷地、大字磯鶏(そけい)第8地割字中谷地などがある。

■中屋マーケット(なかやまーけっと)
引揚者マーケット、駅前マーケット、あるいは単にマーケットとも言う。末広町(すえひろちょう)8番4号、宮古駅前交差点の北東角地に1947年(昭和22)6月1日開設、1966年(昭和41)閉鎖。中屋商店が提供した土地に、第二次世界大戦後の引揚者救済策として70店が軒を連ねる市場が開設された。当時、宮古で最も活況を呈した場所。その後、移転する店があったり、引揚者ではない人の営む新しい店が入るなどの変遷があり、末広町商店街の復興に反比例して寂れた。開設から19年後の1966年に土地を返却して閉鎖されるときまで残っていたのは25店舗。(参考「宮古市史 民俗編」上巻)

■なぎさ号(なぎさごう)
市立図書館の移動図書館車の名称。

■ナゴーソ → 長磯

■夏暮峠(なつぼとうげ)
夏暮峠とも書く。宮古から鍬ヶ崎(くわがさき)に入る鍬ヶ崎道の峠。愛宕(あたご)2丁目の国道45号が通るあたりに縄文期の夏保遺跡があり、大字鍬ヶ崎第1地割字夏保という住居表示になっている。このあたりを鍬ヶ崎道が通り、東の山中に峠があった。国道45号の開削工事によって消滅。光岸地(こうがんじ)の切り通しや埋立道ができるまでは、もっぱらこの峠越えの道が使われた。宮古から鍬ヶ崎へ向かうと、愛宕から登り、北は日影の沢、東は道又沢・上ノ山(うえのやま)へ通じた。上ノ山にある光岸山善林寺や常安寺別院の墓地のなかに延びる道はその鍬ヶ崎道の一部。

■夏祭り(なつまつり) → 宮古夏祭り

■七滝湯(ななたきゆ)
銭湯。鍬ヶ崎仲町(くわがさきなかまち)3番18号にある。0193-62-4962。1894年(明治27)創業。宮古で最も古い銭湯だという。創業者・袰岩(ほろいわ)伴治の名をとって伴治湯(ばんじゆ)とも呼ばれる。小山(おやま)の坂から滝のように流れ落ちる梅翁寺川の水を使ったので、縁起のいい七福神の七と組み合わせて屋号とした。水がミネラル分を含むことから、かつては鉱泉の風呂としても知られた。

■七頭舞(ななつまい) → 中野七頭舞

■7分団(ななぶんだん)
消防機関。正式には宮古地区広域行政組合宮古市消防団第7分団屯所という。鍬ヶ崎下町(くわがさきしもまち)3番20号にあり、鍬ヶ崎公民館になった。0193-64-7036

■七戻(ななもどり)
古い俗称地名。いまの築地1丁目1番28号、岩手銀行宮古支店の裏道あたりをさす。宮古の町から遊郭のあった鍬ヶ崎(くわがさき)への中間にあたり、“行こか鍬ヶ崎、戻ろか宮古、ここが思案の七戻”と歌われた。かつては難所で、鞭牛(べんぎゅう)和尚が道普請をして道供養碑を建てた。

■なま
血を意味する漁師言葉。
駒井雅三「ふるさとの海」より
 うち砕く鮪の頭(かしら)つるめきて にぶき音せり血(なま)吐きながら
 波うちてかぶるしぶきに流される デッキに積みしまぐろのなま(血)は

■ナメタ
標準和名はババガレイ(婆鰈)。近海魚。大晦日の晩に食べる縁起物の“年取り魚”としておもに鮭を使うが、子持ちナメタも使われる。近年ナメタの株が上がり、正月にも食べられるので、年末には値が跳ね上がる。甘辛く煮つけたり、吸い物にする。あるいは軒先に吊るして干し、焼いて食べる。

■ナモミ
県北に伝わる風習。1月15日の小正月に若い男たちがナモミという怪物に変装して地域内を徘徊する。地区によって違いはあるが、おおよそ以下のように伝えられる。ナモミは鬼の面をかぶり蓑や毛皮を着て、大きな包丁や長い棒を手に、カマスという藁で編んだ大きな袋を小脇に抱えている。ミズキの枝に笹を挟んだ笛をピイピイ鳴らし、家々の戸や窓をガタガタ鳴らす。「泣ぐワラスはいねぇが」と怒鳴りながら玄関・土間に入る。子どもは怯えて両親の後ろに隠れる。「きかねぇワラスは連れでぐぞぉ」とナモミがカマスの口を広げて手を伸ばすと子どもは泣き出す。「もう、きかなくなりませんこった。はぁ許してけどがんせ」などと泣く子どもに代わって親が言う。「ワラスばやれませんけぇ、代わりに餅こをあげますんが」差し出された餅を手にナモミは家を出てゆく。子どもを脅すのは、普段の生活を戒め、「立派なおとなになるように」という願いを込めてのこと。戸や窓を叩くのは大きな音や揺れによって家の悪霊や災いを追い払うため。ナモミは歩いた家々に事故がないよう、病気や災害が来ないように祈り、五穀豊穣・無病息災・家内安全を呼び込むものとされる。

■成ヶ沢商店(なりがさわしょうてん)
成ヶ沢酒店とも呼ばれ、成ヶ澤とも表記。県北バスの下千徳停留所に近い、太田(おおた)2丁目1番37号にある。0193-62-5134。

■成ヶ沢漬物店(なりがさわつけものてん)
成ヶ澤とも表記。西町(にしまち)2丁目5番27号にある。0193-62-6958。五月町(さつきちょう)1番1号の魚菜市場内に支店があったが、2007年(平成19)3月31日に閉店。

■難読(なんどく)
女遊戸  おなつぺ *“おなっぺ”とも
重茂   おもえ
上鼻   かんばな
花原市  けばらいち
砂島   さごじま *島の名
三合並山 さんごうなめやま *田鎖にある
剛台   つよしだい *浄土ヶ浜にある展望台の名
呼浜   よばわりはま
上村   わむら

■南部桐下駄(なんぶきりげた) → 関口履物店
伝統工芸品。岩手は桐の名産地で、南部桐と呼ばれて古くから全国に知られた。この南部桐で作られた下駄は、薄紫を帯びて光沢があり、軽く、柔らかく、足になじむ。鍬ヶ崎仲町(くわがさきなかまち)1番8号にある関口履物店の製品が知られる。

■南部重信(なんぶ・しげのぶ)
盛岡藩第3代藩主、南部家29代目。花輪殿様と呼ばれた。1616年(元和2)5月15日、初代藩主南部利直と花輪内膳為房の娘松の子として花輪に生まれた。南部利直の5男にあたり、幼名は彦六郎。通称は乙松、鍋松丸。南部利直は1615年(慶長20)の4月から5月にかけて慶長大津波(1611年=慶長16)の被害を視察するため花輪に滞在し、松が側で身のまわりの世話をした。翌年生まれた鍋松丸は花原市の華厳院で読書・書道などを学び、14歳まで花輪で育った。15歳で盛岡城に入り花輪重政を名のる。1648年(慶安1)七戸隼人重政と改めて七戸城主となる。1664年(寛文4)49歳のとき、異母兄の2代藩主南部重直が子を残さず死去した跡を継いで盛岡藩主となり、南部重信を名のる。1680年(延宝8)盛岡八幡宮を建立。1692年(元禄5)藩主の座を3男の行信に譲り78歳で引退。1702年(元禄15)6月18日に死去、享年87。「奥南旧指録」に、“政務専らに仁政を施したまえば御領内農民万歳を唱いける”とある。和歌を好み、「酉卒(ゆうそつ)歌集」がある。1995年(平成7)4月、長沢川桜づつみに松の50回忌に詠んだ歌“受けよ母五十の霜にかれやらで残るかひ有この手向草”を刻んだ石碑が建立された。参考文献に澤内建志「花輪殿様」3巻がある。なお、盛岡藩主の初代を南部信直とするか、その長男の利直とするかで、重信を3代としたり4代としたりという混乱が生じているが、この事典では初代利直、2代重直、3代重信、4代行信とした。

■南部鼻曲がり鮭(なんぶはなまがりざけ) → 鮭 津軽石川
市内南部から宮古湾に注ぐ津軽石川(つがるいしがわ)が本場。湾内から川を溯上し、婚姻のために鼻の先が下へ曲がったオスの成体を鼻曲がり鮭と呼ぶ。南部は南部藩(盛岡藩)のこと。人工孵化のために採捕されたオスは、精子を採られたのち、荒巻(新巻)に加工される。参考文献に、岩本由輝「南部鼻曲り鮭」(1979年11月・日本経済評論社)がある。


▽に
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■新里商工会(にいさとしょうこうかい)
茂市(もいち)第3地割159番地1号。0193−72−2231。

■新里中学校(にいさとちゅうがっこう)
刈屋(かりや)第15地割133番地にある。2003年(平成15)春、新里(にいさと)村立の刈屋中学校・蟇目中学校・茂市中学校が統合して創立された。

■新里村(にいさとむら)
かつて宮古市の西部に隣接した村。1955年(昭和30)2月1日、茂市(もいち)村と刈屋(かりや)村が合併して成立。2005年(平成17)6月6日、宮古市・田老町(たろうちょう)と対等合併し、宮古市となる。合併にともない住所表示から新里の字は消えた。新里総合事務所(旧村役場)は茂市第2地割112−1、0193-72-2111。旧新里村のキャッチフレーズは“緑と清流の里”。村の花は福寿草、鳥は鶯、木は南部桐。北上山地の緑のなか、国道106号・JR山田線・閉伊川と、国道340号・JR岩泉線・刈屋川に沿って集落が開ける。山田線の駅は西から腹帯(はらたい)・茂市・蟇目(ひきめ)、岩泉線は南から茂市・刈屋・中里・和井内・押角(おしかど)。集落の中心は茂市駅前に広がる。新里村民俗資料館や保養施設の湯ったり館などがある。閉伊街道の改修に努めた鞭牛(べんぎゅう)和尚は1710年(宝永7)に域内の和井内に、「籠の鳥」で知られる作曲家・歌手の鳥取春陽は1900年(明治33)に刈屋で生まれた。大字は、刈屋第1地割〜第17地割、腹帯第1地割〜第4地割、蟇目第1地割〜第13地割、茂市第1地割〜第9地割、和井内第1地割〜第28地割。

■新里村民俗資料館(にいさとむらみんぞくしりょうかん)
JR山田線の茂市(もいち)駅前、茂市第3地割159番1号にある。0193-72-2231。和井内出身で閉伊街道の開削・補修で知られる鞭牛和尚が使った道具、刈屋出身で「籠の鳥」で知られる作曲家・歌手の鳥取春陽のレコードなどのほか、新里地区の歴史資料や特産品などを展示している。

■二幹線(にかんせん)
第二幹線。第一幹線が末広通りで、その一本北側に並行する通り。かつて通り筋は幸町と呼ばれたという。

■西ヶ丘(にしがおか)
宮古市の西部、JR千徳駅北部の丘陵にある。北と東を近内(ちかない)・千徳、南を神田沢町(かんだざわちょう)・板屋(いたや)、西を大字千徳と接する。西ヶ丘団地が広がり、雇用促進住宅、千徳小学校、西中学校、西ヶ丘団地近隣公園などがある。

■西公園(にしこうえん)
西町(にしまち)1丁目4番にある。1966年(昭和41)11月30日に開園した。“すわる女”と題した黒御影石の彫刻は佐藤光雄の作品で、1988年(昭和63)建立。

■西中学校(にしちゅうがっこう) → 宮古西中学校

■西野屋(にしのや)
菓子店。保久田(ほくだ)2番20号、第二幹線と花の木通りの交わる南東角地にあり、裏を旧山口川が流れる。大通店が大通1丁目5番7号、中央通りと大勝橋の架かる通りが交わる北東角地にある。パンやケーキのほか、“漁火”“鞭牛の道”“サーモンパイ”“はまなす”“浄土ヶ浜の詩”などの銘菓を製造・販売。

■西町(にしまち)
市街地の北西部に位置する。1〜4丁目に分かれる。北西を黒森町、北から東を小沢(こざわ)・五月町・緑ヶ丘、南を和見町(わみまち)・鴨崎町・泉町、西を田の神(がみ)に接する。南部に西公園などがある住宅地。

■ニチイ → キャトル宮古

■荷竹(にちく)
市の南部、大字津軽石(つがるいし)の字名。荷竹農村公園がある。

■ニチモウ
東京都天王洲にあるニチモウ株式会社の宮古営業所。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)1番18号で、この場所には、かつて有楽座という演芸場があった。

■二中(にちゅう) → 第二中学校

■日作開発興業(にっさくかいはつこうぎょう)
株式会社。ラサ工業の子会社で、土木建設が主な事業。大字松山第6地割30番地1にあった。1973年(昭和48)11月5日設立。業績不振のため2004年(平成16)1月31日解散。

■日昇館(にっしょうかん)
旅館。磯鶏石崎(そけいいしざき)4番17号、JR山田線の磯鶏駅前にある。
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■日進堂(にっしんどう)
菓子・パンの製造会社。実田(みた)1丁目5番17号にある。0193-62-3336。1904年(明治37)初代中澤仁兵衛が創業。駄菓子・飴など製造していた。2代目が敗戦後にパンを作り始め、学校給食のパンも製造。3代目が1980年(昭和55)に小売店ドーネルを開店。ドーネルはパン生地(dough)と“練る”の造語だという。かつて八幡通りに日進堂というパンやケーキを売る店があった。いまの大通4丁目3番の角地あたりで、喫茶コーナーも併設されていたという。大通と末広町とをつなぐ細い道の入口になり、この道には佐藤ガラスケース店・中沢歯科医院などがある。
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■日通(にっつう)
日本通運株式会社宮古支店。丸通とも略称する。藤原3丁目64番69号にある。0193-64-0202。

■2分団(にぶんだん)
消防団。向町(むかいまち)2番26号にある。0193-63-6432。正式には宮古地区広域行政組合宮古市消防団第2分団屯所という。管轄区域は向町・大通1丁目・大通2丁目。

■日本シーアールアイ宮古工場(にほんしーあーるあいみやここうじょう)
小山田(こやまだ)1丁目7番にある。ラサ工業の関連会社で、本社は東京都中央区京橋1−1−1八重洲ダイビル9F。

■日本の水浴場88選(にほんのすいよくじょう88せん)
2001年5月28日、都道府県の推薦を受けた146の水浴場のなかから水質・景観・環境保全・安全性・利便性などの点ですぐれた水浴場を環境省が認定した。岩手県からは浄土ヶ浜と女遊戸(おなつぺ)の2ヶ所が選ばれた。

■日本野鳥の会宮古支部(にほんやちょうのかいみやこしぶ)
1975年(昭和50)岩手県内2番目の支部として結成。県の海岸部や北上山地をフィールドとし、探鳥会・観察会、野鳥生息地の清掃などを行なう。2012年(平成24)8月現在、会員数約120人、支部長佐々木宏、所在地は南町5番25号。


▽ぬ
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■沼(ぬま)
浄土ヶ浜の別名。主に石英粗面岩の白い半島に抱かれた内海を指し、南に開けた側を大沼、奥(北)を小沼と呼び分ける。

■沼の浜キャンプ場(ぬまのはまきゃんぷじょう)
田老の字(あざ)乙部野(おとべの)、真崎海岸にある。砂浜が広がり、ハマナス、ハマギク、ハマヒルガオ、ハマエンドウなど季節の花が咲く。

■沼里海産物店(ぬまりかいさんぶつてん)
津軽石13−370−3にある。


▽ね
                              ホームへホームへ

■根市(ねいち)
“ねいぢ”とも発音する。大字の名。宮古市の西部で、閉伊川の左岸。東・北を千徳、南を田鎖、西を花原市(けばらいち)に接する。閉伊川と並行して国道106号、JR山田線が東西に通る。根市館跡、鈴ヶ森神社、根市鉱山などがある。根市の名は、この地方の中心的な市場だったことに由来するという。鎌倉時代は閉河(へのかわ)と呼ばれた。言葉遊びに、寝る、蒲団に入ることを「根市さ行ぐ」「根城さ行ぐ」と言う。

■根市館跡(ねいちだてあと)
大字(おおあざ)根市第7地割字(あざ)雲南沢・第8地割字与藤沢(よとうざわ)にある。閉伊氏の最初の居館。気仙・釜石方面から来た閉伊氏の祖は根市に住み着いて一帯を治め、根城(ねじょう)・田鎖へと移った。

■猫やが沢(ねこやがさわ)
ねごやの沢とも。藤原小学校の東側の沢。小流が、いまの国道45号・藤原歩道橋のあたりを突っ切り、閉伊川に注いでいたという。

■根城(ねじょう)
大字(おおあざ)老木(ろうき)内の字。市の西部。根城館跡、八幡神社などがある。言葉遊びに、寝る、蒲団に入ることを「根城さ行ぐ」「根市さ行ぐ」と言う。

■根城館跡(ねじょうだてあと)
大字(おおあざ)老木(ろうき)第19地割字根城館にある。標高100mほどの山頂に山城の主郭・帯郭跡が残り、八幡神社がある。伝説では、閉伊頼基が鎌倉幕府から根城の地を安堵され、1190年代(建久年間)に城館を築いたという。閉伊氏が根市館につづいて築いた山城で、実際には南北朝初期、1340年代に建設が始められたと推定される。1956年(昭和31)4月11日、市の史跡に指定。

■根滝漁場(ねたきぎょじょう)
重茂(おもえ)半島の南部、とど登島(とどのぼりじま)沖合いにある。明治期から定置網が建てられ、千鶏(ちけい)・石浜・川代の各漁港に面する。

■年間行事(ねんかんぎょうじ)
宮古カレンダ

■年表(ねんぴょう)
「宮古市史年表」が1991年(平成3)3月30日に刊行されている。インターネット上には吉田仁編著「宮古大年表」があり、「宮古市史年表」とは観点の異なる独自の内容になっている。
宮古大年表


▽の
                              ホームへホームへ

■野いちごコットンハンズ(のいちごこっとんはんず)
手芸用品店。栄町(さかえちょう)1番68号にある。0193-62-9163。かつて保久田(ほくだ)3番12号、第二幹線北筋にあった。

■農村文化伝承館(のうそんぶんかでんしょうかん) → 花輪農村文化伝承館

■ので山(のでやま)
のど山とも呼ぶ。かつて宮町(みやまち)2丁目5番地から1丁目3番地にかけて存在した丘。八幡山=横山八幡宮の北麓にあたる。1970年代に国道106号宮古バイパス敷設にともなって始まった区画整理により大部分が切り崩されてバイパスや裁判所・検察庁ができた。八幡山につづく南側に一部が残る。かつての標高25m。東にラサ工業の社宅が広がっていた。西を山口川が北から南へ流れて閉伊川に合流する。八幡宮本殿裏から続く山道の延びる西側から頂上にかけては雑木や叢に覆われ、頂上から北面は風化した花崗岩の崖、東側は緩い斜面。斜面を北から南へ通る細道は八幡山下の林を抜け八幡宮社務所前・石段下に出て参道へつながった。秘密基地ゴッコ、崖滑り、冬にはソリ滑り・竹スキーなど、子どもの恰好の遊び場となっていた。バイパスは1984年(昭和59)7月26日に開通し、のち国道106号になる。呼び方は“ので山” と“のど山”に分かれる。地元の八幡前(宮町)では、のど山と呼ぶ。宮町に伝わる名称由来譚によると、この山には新町(あらまち)で雑穀商を営んでいた伊東家の畑があった。1882年(明治15)ごろ能登から兵役を逃れてきた太田吉松という若者が伊東家に草鞋を脱ぎ、その畑の小屋に住み着いて農事をしていた。能登出身だから能登さん、訛って“のどさん”と呼んだ。それが山の名前となった云々。

■延足酒店(のべあしさけてん)
延足商店とも。黒森町2番25号、黒森神社の大鳥居の前にある。0193-62-5575。

■海苔(のり)
 荒れつゞく高汐波に海苔ひゞの 耐ゆるすべなく流れつゞくる
 生活をかけたるのりよのりひゞの 流れける海にすべなき漁民
 絶望の海とおもわね静まれば またのりひゞを立てつゞくべし  駒井雅三


宮古大事典
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