*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  
宮古大事典      は     未分類
                
                
                
                
▽は

■パール写真店(ぱーるしゃしんてん)
本町(もとまち)1番31号にある。℡0193-62-4572。

■梅翁寺(ばいおうじ)
中里団地の北東部、愛宕中学校(廃校)の東で、国道45号を挟んで宮古測候所と隣接する。住所表示は中里団地18番2号。℡0193-62-3482。曹洞宗。もと常安寺の別庵で、梅翁寺として開創したのは1923年(大正12)。海神の八大竜王を祀った竜王殿がある。漁師の信仰を集め、海難・溺死者供養塔が多い。

■はかたや
菓子店。山口5丁目1番4号にある。℡0193-62-5651。烏賊煎餅などを製造・販売。

■袴島(はかまじま)
宮古湾に面した鍬ヶ崎(くわがさき)の南側、竜神崎の東にある岩礁。ハガマとも呼ばれる。

■白山神社(はくさんじんじゃ)
重茂(おもえ)半島の白浜から月山へ登る山道にある。

■白十字(はくじゅうじ)
グリル、洋食屋。向町(むかいまち)2番44号、中央通りの南筋にあった。建物は、いまも残っている。

■白鳥ボート(はくちょうぼーと)
スワン・ペダルボート。浄土ヶ浜の、中の浜のボート乗り場にある。白鳥をかたどった形で、前を向いた椅子に座って足でペダルを漕いで進む。4人乗りだが、カップル向き。

■羽黒神社(はぐろじんじゃ)
横町(よこまち)の石崎神社の東隣りや、千徳の上鼻(かんばな)1丁目などにある。

■箱善米穀店(はこぜんべいこくてん)
廃業。黒田町(くろたまち)1番23号、第2幹線と黒田町の通りとが交わる南西角地にあった。現在は駐車場。箱石姓。閉店は2008年(平成20)の夏ごろか?

■馬車(ばしゃ)
1904年(明治37)8月、盛岡と宮古を結ぶ盛宮馬車が開業した。河東碧梧桐の紀行文「三千里」から引用する。1906年(明治39)“十二月十五日。晴。宮古と盛岡の間は陸中中央の山地に阻められておって、交通最も不便な処であった。近く国道が開通してようやく車も通うようになった。その間二十七里ある。道は多く宮古に注ぐ閉伊川に沿うて、乱山重畳の間を迂回する。俗に閉伊河街道という。/この街道を一昼夜かかって通う馬車がある。宮古と盛岡の両極点から日に一回ずつ出る。馬車は一頭立六人乗である。きょうはその馬車に乗って、午前四時宮古を発し午後十一時半盛岡に着いた。”

■バス → 県北バス

■長谷川製材所(はせがわせいざいしょ)
黒田町(くろたまち)2番27号にあった。いまは駐車場になっている。

■裸参り祈願祭(はだかまいりきがんさい)
例年1月15日、横町(よこまち)の消防第3分団が下帯姿で供え物などを手に市内を練り歩いて宮町(みやまち)の横山八幡宮へ参拝し、防災と商売繁盛などを祈願する。藤原の第4分団は1月の第4日曜、同様に藤原比古神社へ参拝する。

■働く婦人の家(はたらくふじんのいえ) → フラットピアみやこ
市営施設。愛称“カ・デッケみやこ”。2005年4月、宮古市男女共生推進センター、愛称“フラットピアみやこ”となる。田の神(たのがみ)2丁目2番5号、℡0193-62-2352。女性勤労者やその家族を対象に教養・趣味・憩いの場を提供。男女雇用機会均等法の趣旨に基づき女性の福祉に関する事業を行なっていた。

■蜂ヶ沢(はちがさわ)
“ばぢがさわ”“ばづがさわ”とも。字(あざ)の名で、大字(おおあざ)近内(ちかない)に属する。市街地の北西3㎞ほどの山中に平原があり、市内の小学校の遠足地として利用される。国土地理院2万5000分の1地図「宮古」(2003年・平成15年1月1日発行)では峰ヶ沢と誤植されている。

■八戸穴(はちのへあな)
浄土ヶ浜の南の小石浜(黒石浜)、遊覧船発着所の東にある海食洞。穴は海上に南を向いて口を開いている。小舟あるいは泳いで入ることができる。奥行き10mほど。上げ潮には穴の奥から不気味な音ともに潮が満ちる。深い底にはアブラメが群れていると言われる。青森県八戸市の松館まで通じているという伝説がある。俳人の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)は1906年(明治39)に「三千里」のなかで書いている。「浄土の浜は岩も岸も真砂もみな白い。賽の河原、剣の山など冥土に擬した奇景もあるそうな。なお八戸穴というて、八戸に通じておるという長洞もある。満汐のため、いずれも行く事が出来なかった」 八戸の閉伊穴(宮古穴)は崩されて今はない。八戸の中里忠香が1890年(明治23)に「閉伊穴の事」を書いている。「八戸の東南、二里余に当たって、閉伊穴というあり。古(いにしえ)より伝えて、陸中国閉伊郡、宮古浦、鍬ヶ崎に通じおると言えり。また鍬ヶ崎に一大穴ありて、これを八戸穴と称しおれりと」大町桂月という文人は1908年(明治41)の紀行文「十和田湖」で書いている。「更に閉伊穴にいたる。立ちてゆくを得べし。幅は、せまし。忽(たちま)ち上り、忽ち下る。十間ばかりにして引返す。穴に入ると知らば、火を用意して来るべかりし也」

■8分団(はちぶんだん)
消防機関。大通(おおどおり)3丁目5番26号にある。℡0193-62-4061。正式には宮古地区広域行政組合宮古市消防団第8分団屯所という。管轄区域は末広町・大通3丁目・大通4丁目・南町。かつては大通4丁目3番10号、八幡通り沿いにあった。移転後、残った建物に大衆酒場の養老乃滝が入り、2004年(平成16)閉店。その後 Farmers' Factory というケーキなどのフランチャイズ・チェーン店になった。火の見櫓は残っている。建物の東側に路地があり、末広通り・第二幹線・横町通りを渡って宮古小学校へつづく通学路になっている。

■八兵衛屋(はちべえや)
蒲鉾屋。本町(もとまち)1番49号で婚礼用の蒲鉾や折り詰めなどを製造・販売していたが、休業中か。

■八兵衛屋会館(はちべえやかいかん)
本町(もとまち)1番55号にある。会議や結婚式・披露宴などに利用される。℡0193-62-3821。

■八幡沖(はちまんおき)
旧地名。もとは旧山口川と閉伊川のあいだに広がっていた砂洲・湿地・低地で、おもに埋め立てによって宅地化された。いまの末広町から大通(おおどおり)・南町にかけてのあたり。町名変更は1965年(昭和40)7月1日。大通3丁目と南町のあいだにあるJR山田線・八幡沖踏切に名が残る。

■八幡館(はちまんかん)
宮古駅前交差点の南西角地にあった旅館。栄町(さかえちょう)2番1号。素泊まり3500円。ある旅行者の情報によると、室内は6畳、清潔で民宿のよう、風呂は狭く一人ずつの利用、駅前でしかも安いので節約旅行者にうってつけだった。2006年(平成18)2月に建物が解体された。

■八幡公園(はちまんこうえん)
宮町(みやまち)1丁目2番18号、小百合幼稚園の前(南)にある。1973年(昭和48)開設。

■八幡様(はちまんさま) → 横山八幡宮

■はちまん食堂(はちまんしょくどう)
宮町(みやまち)2丁目2番35号、横山八幡宮の鳥居の前にある。℡0193-62-7775。

■八幡通り(はちまんどおり)
旧地名。宮古駅から見てすぐ右手(東)の通りを挟んだ一帯。いまの大通(おおどおり)にあたる。1965年に住居表示が変更された。

■八幡橋(はちまんばし)
山口川に架かる国道106号の橋で、宮町(みやまち)2丁目と3丁目を繋ぐ。かつての“ので山”の裏手にあたる。

■八幡前(はちまんまえ)
旧地名。宮古第8地割の字(あざ)。横山八幡宮の前(東側)に位置する町並みで、いまの宮町(みやまち)1~2丁目にあたる。

■はつかり亭(はつかりてい)
宮古駅に付属した、お焼きなどの製造・販売店。JR東日本盛岡支社の子会社ジャスターが営業。“はつかり”の名は東北本線の特急はつかり号にちなむ。店の横にテーブルと椅子が置かれ、商品を買わなくても一休みできる。駅舎の北に張り出した部分で、東側がはつかり亭、西側はJC(JR Convenience store の略)という土産物店。かつてこのへんに小荷物取扱所があった。

■八紘台(はっこうだい)
築地1丁目3番9号にある中央公民館の裏手の山上をいう。八紘一宇にもとづく戦時中の命名で、空襲警報用のサイレンがあったという。市内で最も古い八紘台送配水場がある。

■八甲田山死の行軍(はっこうださんしのこうぐん)
日本最大の雪山遭難事件。1902年(明治35)1月23日に陸軍の青森歩兵第5連隊第2大隊が八甲田山へ雪中行軍を開始し、25日までに199人が凍死。山口村出身の3兵士も犠牲となり、慈眼寺墓地に葬られる。

■はっこ水(はっこすい)
はっこい(冷やっこい)水の意。大字田鎖(たくさり)第4地割字日保田6番2号にある佐々木酒店の裏に湧く水で、店の屋号になっている。℡0193-69-2012。佐々木酒店は酒類販売業で酒造はやっていないが、花輪街道筋にあたり、宮古町への行き帰りに人びとが憩った。そばに桂の大木があったという。近年水量は減ったが涸れてはいない。

■はったい粉(はったいこ)
香煎(こうせん)・麦焦がしともいう。大麦を炒って挽いた薄茶色の粉。砂糖を加え、水で練って食べる。

■バッティングセンター → 宮古バッティングセンター

■はっとう → 小豆ばっとう
うどん状の食べ物。

■服部時計店(はっとりとけいてん)
閉店。末広町(すえひろちょう)5番7号、末広通りの南筋。時計のほかに眼鏡・宝石・レコード・CDなどを扱っていた。閉店時期は、2005年頃か?

■初日の出(はつひので)
本州最東端の街・宮古の初日の出は、とどヶ崎で午前6時51分。とどヶ崎を擁する重茂(おもえ)半島の月山の展望台から、あるいは浄土ヶ浜・臼木山などから眺望するのもいい。洋上から遥拝する初日の出観光船が県北バスによって運航される。三陸鉄道の初詣列車も運行される。

■花坂印刷工業(はなさかいんさつこうぎょう)
新川町(しんかわちょう)1番2号にある。0193-62-3125。

■花坂蔵之助(はなさか・くらのすけ)
郷土史家、著述家。1929年(昭和4)宮古生まれ。岩手県沿岸史談会会員で、宮古市中央公民館館長・宮古市史編纂委員・宮古市文化財保護審議会副委員長などを務める。編著に以下がある。「宮古のあゆみ」、「宮古むかしばなし」一・1978年/二・1981年、「宮古市消防団史」、「宮古史話」1974年、「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 宮古」1979年2月25日・国書刊行会など。

■花坂義孝(はなさか・よしたか)
トロンボーン奏者。1952年(昭和27)宮町に生まれる。東京芸術大学に入学。1977年(昭和52)9月、芸大在学中に原信夫とシャープス&フラッツに入団。2年後にフリーとなり、スタジオミュージシャンとして活動。実家は横山八幡宮、夫人も宮古出身者。

■花坂旅館(はなさかりょかん)
藤原1丁目4番23号にある。℡0193-62-1329。

■花の木通り(はなのきどおり)
末広通りと第二幹線を結ぶ枝道。末広町8番1号の角のかんの書店から保久田(ほくだ)2番20号の角の西野屋まで南北に延びる。

■花火(はなび)
お盆(月遅れの8月)には松明かしといって松を焚き、必ず花火をする。線香花火・ネズミ花火・蛇花火・ロケット花火・噴き上げ花火……。かつていちばん多かったのは2B弾(にびーだん)という爆竹。ダイナマイトという爆竹もあり、2Bより強烈で危険だった。お盆の夜はババンッバンバンッと花火で騒々しく、薄白い煙が町を包んだ。夏祭りの打ち上げ花火大会は7月末。閉伊川左岸の川原から打ち上げられていた。1997年(平成9)に鍬ヶ崎(くわがさき)出崎埠頭の沖合いに台船を浮かべて打ち上げる海上花火大会となる。

■はなふく(花福) → 福
閉店したラーメン屋。保久田(ほくだ)2番17号、現在のワンタン、中華そばの店「福(ふく)」の位置にあった。2005年(平成17)12月当時、中華そば350円、ワンタン370円、ワンタン麺400円、チャシュー麺500円、学生割引50円。2008年(平成20)に閉店。常連客が店を譲り受け、福(ふく)と改称して再開。

■華森神社(はなもりじんじゃ)
花輪にある。花森とも書く。花輪鹿子踊が8月15日に演じられる。花輪生まれの第3代盛岡藩主・南部重信が幼少時代に玩具にして遊んだという権現(鹿子頭)が祀られているほか、重信がつかった産湯井跡や生母お松の墓がある。

■花輪(はなわ)
市の南西部、北を田鎖・松山、東を八木沢、南と西を長沢に接する。北西部を長沢川が北東に流れ、流域に集落が開ける。花輪保育所・花輪小学校・花輪中学校、花輪公民館、花輪郵便局、華森神社などがある。盛岡藩3代藩主・南部家29代の南部重信は1616年(元和2)花輪に生まれ、花輪殿様と呼ばれた。母は花輪内膳為房の娘松。松は1638年(寛永15)7月14日に花輪で死去。享年37、慈徳院殿松室琳貞大姉。慈徳院の供養碑は盛岡の東禅寺境内にも花輪地蔵尊として祀られる。

■花輪鹿子踊り(はなわししおどり)
花輪に鎌倉時代から伝わる伝統芸能で、華森神社で8月15日に奉納される。

■花輪橋自動車教習所(はなわじどうしゃきょうしゅうじょ)
田鎖(たくさり)12-25にある。

■花輪小学校(はなわしょうがっこう)
大字花輪第4地割字沖角地26番地にある。1876年(明治9)9月創立。

■花輪中学校(はなわちゅうがっこう)
大字花輪第5地割字程久保132番地にある。1947年(昭和22)4月創立。テニス部が強かった。

■花輪殿様(はなわとのさま) → 南部重信

■花輪農村文化伝承館(はなわのうそんぶんかでんしょうかん)
2005年4月3日に開館。岩手県営。木造平屋建て・延べ床面積804㎡。鎌倉時代から伝わる花輪鹿子踊ほか農村文化の伝承を目的とする施設で、郷土料理の伝承に使う調理実習室、研修室、郷土資料の展示ホールなどを備える。

■花輪橋(はなわばし)
JR山田線の千徳(せんとく)駅の盛岡寄りで閉伊川に架かり、千徳と田鎖(たくさり)を結ぶ。山田線や国道106号を盛岡方面から宮古に向かい、この橋を見ると宮古に入ったと感じる。

■ハニー食品(はにーしょくひん)
食品製造会社。藤原(ふじわら)2丁目8番21号にある。℡0193-62-5856。西町(にしまち)3丁目2番30号から移転。半生製品の宮古ラーメン、レトルト製品の“あずきばっとう”などを製造・販売。*2011年3月11日の東日本大震災で工場1階が浸水。機器を入れ替え、同年5月1日に営業を再開。

■ハマギク
浜菊。海岸に自生し、秋の彼岸のころに花の見頃を迎える。市の花。1973年(昭和48)2月11日に制定。田老町・新里村と合併した後、2006年(平成18)6月6日に再び市の花として告示。銘菓“はまぎく”を黒田町のつちや本舗が製造・販売している。
 見あぐればいま崩るる如くなる崖の上にも浜菊の花 (駒井雅三)

■浜田漁業部(はまだぎょうぎょうぶ)
愛宕(あたご)2丁目3番2号にある。℡0193-62-5200。日立浜町(ひたちはまちょう)8番に日立浜倉庫がある。℡0193-62-5206。鮪漁船の清福丸を所有。

■ハマナス
浜梨。ハマナスはハマナシの訛りとされる。バラ科。北海道・東北の沿岸に群生する。白い花をつけるシロバナハマナスという品種もある。宮古あたりでは赤い花をつけるハマナスが普通。6~7月に開花し、8月に赤い実がなる。種が多く、果肉は少ないが食べられる。小さな赤カブのような外見をしていて、味が梨に似ているところからハマナシと名づけられたという。

■ハマナスと浜辺のみち(はまなすとはまべのみち)
自然歩道のひとつ。南の女遊戸(おなつぺ)海水浴場と北の田老漁港をむすぶ9.6km。所要時間4時間。おもに林間を歩く健脚者向けコース。林間を歩いてゆくと松月(まっつき)海岸、樫内浜(かしないはま)などで太平洋が突然目の前に開ける。松月から道を登り、遠くに重茂(おもえ)半島、眼下に松月の海岸が展望できる。栃内浜(とちないはま)のハマナス群落、佐賀部(さがべ)のウミネコ繁殖地など、見どころが多い。コースの途中で車両が入れるのは樫内浜のみ。女遊戸海水浴場~3.4km・1時間40分~樫内浜~2.2km・50分~栃内浜~1.6km・50分~佐賀部~2.4km・50分~田老漁港。問い合わせは宮古市商工観光課℡0193-62-2111。

■浜ゆう(はまゆう)
割烹。大通(おおどおり)1丁目4番23号にある。℡0193-62-8264

■ハマユリ
浜百合。正式名称は蝦夷透百合(えぞすかしゆり)。浄土ヶ浜の岩場などに生える。高さ約30㎝、夏に橙色の花をつけ、花弁に濃い赤黒色の斑点がある。また花弁に隙間があるのでスカシユリの名がある。見頃は7月。もと下閉伊郡田老町の町の花として1978年(昭和53)5月14日に指定(告示)されている。
 古里の海のはたてのきりぎしの すかしゆりはも世にいでんとす(駒井雅三)

■はまゆり展望台(はまゆりてんぼうだい)
浄土ヶ浜の第3駐車場から奥浄土ヶ浜に下ってゆく途中、左手にある。展望台の施設はなく、見晴らしの利く場所の木々にロープが張られているだけ。ロープの外側は断崖絶壁になっている。ガス(濃霧)で視界が利かないときなど、うっかりロープを越えると、そのまま落ちる。

■はまゆり養護学校(はまゆりようごがっこう) → 養護学校

■早池峰国定公園(はやちねこくていこうえん)
宮古市の西方に位置する北上山地の主峰・早池峰山(標高1917m)を中心とし、宮古市・遠野市・花巻市にまたがる。1982年(昭和57)6月10日、国定公園に指定される。

■早池峰山(はやちねさん)
単に早池峰とも呼ぶ。宮古市の西方に位置する北上山地および早池峰国定公園の主峰で、標高は1917m。ハヤチネウスユキソウ、ナンブトラノオなどの高山植物群が、1957年(昭和32)6月19日に国の特別天然記念物に指定。1982年(昭和57)6月10日、早池峰国定公園が設定される。

■早採り若布(はやどりわかめ) → 若布
寒中の1月半ばから2月下旬にかけ、50cmほどに伸びた新芽を間引きしたもの。生で食べる。

■早野呉服店(はやのごふくてん)
かつて高橋(たかばし)交差点の南東角地にあった。いまの住居表示で向町(むかいまち)2番39号。江戸時代から続いた豪商で、屋印は○〆(マルシメ)。常安寺の山門を寄進したという話を聞く。第2次世界大戦後、アイオン台風・キャサリン台風などの災害を受けて衰退したようだ。その後、この角地は靴店の丸松(マルマツシューズハウス)となり、現在は駐車場。

■原敬(はら・けい)
名の読みはタカシとも。政治家。1856年(安政3)2月9日、盛岡に生まれる。新聞記者・外交官などを経て大阪毎日新聞社の社長に就任。立憲政友会の創立に参加。逓相・内相をつとめ、政友会総裁となる。1918年(大正7)9月29日、寺内正毅内閣のあとをうけて第19代内閣総理大臣に就任。最初の政党内閣を組織し、“平民宰相”と呼ばれた。1892年(明治25)公布の鉄道敷設法に規定されながら実現が遅れていた山田線の建設促進に尽力し、1920年(大正9)建設が決定。1921年(大正10)11月4日、東京駅で暗殺された。享年65。先祖2人が宮古代官をつとめている。1752年(宝暦2)に原家4代原政芳が、1799年(寛政11)に5代原芳忠が就任。原敬は宮古を訪れたことはないが、句帖の1916年(大正5)8月の作に“宮古より今朝漁せし初鰹なりとて自動車にて送り越したれば”として“初鰹二十六里の一とはしり”の句が載っているという。

■腹子(はらこ)
鮭・鱒の卵を卵巣からとりだし、ばらばらにほぐしたもの。旬は9月から12月。町の割烹や寿司屋、浄土ヶ浜のレストハウスなどにも生の腹子丼や腹子蕎麦、腹子汁などが出る。正月の雑煮や大根膾(なます)などにも器に盛ってから腹子を散らす。多くは醤油漬け・塩漬けにして保存される。“海のルビー”とも呼ばれる。最近イクラと呼ぶ人も多い。イクラはロシア語ikraで、塩蔵品をさし、原義は魚卵。かつて宮古では外来語を使わず、もっぱら腹子と言った。

■腹帯(はらたい)
2005年(平成17)6月6日、宮古市・田老町(たろうちょう)と対等合併して宮古市となった新里(にいさと)村の大字。源氏の佐々木四郎高綱の一族である佐々木某が郎党を率いてこの地に来たとき、その妻が妊娠して着帯の儀を行なったことにちなむという地名伝説が残る。また、腹帯の大淵には大きな鰻が棲み、ほとりを通る人を引き込んだという伝説がある。

■パリー写真館(ぱりーしゃしんかん)
廃業。大通(おおどおり)1丁目2番28号、中央通りの幾久屋町と黒田町を結ぶ交差点の北東角地にあった。

■張間魚店(はりまうおてん)
末広町(すえひろちょう)5番4号にある。

■はりまや
播磨屋。南町(みなみまち)14番地、鉄道敷地沿道の南筋にあった百貨問屋。屋印はイリヤマニ。鬼山親芳「宮古の映画館物語」によれば、先祖は播磨国(いまの兵庫県南西部)の武士。江戸時代半ばの1739年(元文4)宮古の黒田村に移り住んで小間物屋を開いた。代々、佐香治郎兵衛を名乗る。

■春いちばん(はるいちばん) → 若布
重茂(おもえ)漁協・田老町漁協・宮古漁協などが養殖・販売している早採り若布の商品名。

■春来る鬼(はるくるおに)
須知徳平(すち・とくへい)の小説、この小説を原作とした松竹映画。小説は1963年(昭和38)に発表され、第1回吉川英治賞を受賞。1989年(平成1)、俳優の小林旭が監督し、松田勝・若山幸子・三船敏郎主演で映画化。重茂半島・とどヶ崎などでロケを行なった。宮古市史年表には1988年(昭和63)9月20日、“姉吉で映画「春来る鬼」ロケ”とある。原作に舞台を特定させる記述はなく、ロケも三陸沿岸各地で行なわれたようだ。須知徳平は1921年(大正10)紫波郡日詰町、いまの紫波町生まれ。国学院大学を卒業。教職を経て文筆生活に入る。「三陸津波」「南部牛方節」など岩手の歴史や民俗に取材した作品が多い。盛岡大学の教授を務め、1974年(昭和49)7月、県立宮古工業高等学校の校歌を作詞している。

■晴山芳太郎(はるやま・よしたろう)
「旧磯鶏村郷土史稿」の編纂者、教育者。1869年(明治2)5月21日生まれ。1885年(明治18)東閉伊郡立磯鶏小学校に奉職。以後、1892年(明治25)下閉伊郡立磯鶏尋常小学校訓導、1900年(明治33)磯鶏尋常小学校校長、1906年(明治39)磯鶏尋常高等小学校校長、1917年(大正6)田老尋常小学校校長を経て翌1918年に再び磯鶏尋常高等小学校の校長となる。1919年、「岩手県下閉伊郡志」編纂委員に就任。1922年(大正11)11月に「岩手県下閉伊郡志」が刊行されると、同書の磯鶏村の項を充実させて手書きの「磯鶏村郷土史稿」(2部)をまとめる。1926年(大正15)3月退職。1944年(昭和19)9月14日死去、享年78。1971年(昭和46)8月、宮古史料刊行会によって「旧磯鶏村郷土史稿」が刊行される。

■ハローマック
玩具店。長町(ながまち)1丁目8番地32号、国道106号沿いにある。

■判官稲荷神社(はんがんいなりじんじゃ) → (ほうがんいなりじんじゃ)

■番屋(ばんや)
居酒屋。新町(あらまち)2番13号、℡0193-62-1264。黒田町(くろたまち)通りの東筋にある、土蔵を改装した店。向かって右隣りはイタリア料理店エル・アミーゴ。


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■BEAM-1(ビーム・ワン)
東京・品川駅と宮古・浄土ヶ浜パークホテルを結ぶ高速夜行バス。岩手県北自動車(県北バス)が運行。全席予約・禁煙。2010年(平成22)4月現在、運賃9170円、学割7400円。上り=浄土ヶ浜パークホテル前20:45→宮古駅21:00→盛岡南23:05→浜松町6:25→品川6:45、下り=品川21:40→浜松町22:00→盛岡南5:20→宮古駅7:25→浄土ヶ浜パークホテル前7:40。1989年(平成1)7月8日、運行開始。

■稗飯(ひえめし)
稗(ヒエ)を炊いた飯、稗を米に混ぜて炊いた飯。冷え飯ではない。カゼ(ウニ)やイワシには稗飯が合うという。

■ぴかいち亭(ぴかいちてい)
*食堂。大通(おおどおり)1丁目2番10号にある。ラーメン、チャーシュー麺が人気メニュー。2011年3月11日の東日本大震災で2mの波をかぶったが6月に営業を再開。

■美学(びがく)
かつて南町(みなみまち)・宮町(みやまち)にあった喫茶店。1973年(昭和50)か74年ごろにできたか。初め南町15番24号あたり、八幡沖踏切そばにあった。その後、宮町2丁目2番4号あたり、106号宮古バイパス南筋に移った。さらに再び八幡沖踏切のそばに移転したが、初めに入っていた建物ではなく、路地を挟んだ東の建物(南町15番21号?)だった。閉店時期は不明。山小屋風の外観で、なかに蝶の羽根でつくった蝶絵が飾ってあった。ユニークなマスターTさん、東京から来た奥さんがいた。風の噂によると、マスターは Jazz in 浄土ヶ浜の仕掛人だという。

■日影町(ひかげちょう)
市街地の北東部に位置する。南を佐原・熊野町、東を鍬ヶ崎(くわがさき)下町、南を中里団地、西を沢田に接する。国道45号が中央部を縦断する。

■日影の沢(ひかげのさわ)
日影町にあり、旧夏保峠に細道が通じる。熊野町の鍬ヶ崎小学校にも近い。

■日蔭暢年(ひかげ・のぶとし)
柔道家。宮古市出身。国士舘大学卒業。1983年第13回・1985年第14回の世界柔道選手権大会78㎏級で優勝、2000年シドニー、2004年アテネの両オリンピック全日本女子柔道強化コーチをつとめ、2008年の北京オリンピックに向けて全日本柔道連盟(全柔連)の強化スタッフ・女子ヘッドコーチに就任。実業団のミキハウス柔道部の監督もつとめる。

■東閉伊高等小学校(ひがしへいこうとうしょうがっこう)
創立は、宮古市史年表によると1886年(明19)、鬼山親芳「評伝小国露堂」によると1887年(明治20)1月。初代校長は大塚二郎。卒業生に小笠原善平・小国露堂らがいる。

■ひかり幼稚園(ひかりようちえん)
私立。山口3丁目8番13号にある。℡0193-62-6845。

■引揚者マーケット(ひきあげしゃまーけっと) → 中屋マーケット

■蟇目(ひきめ)
2005年(平成17)6月6日、宮古市・田老町(たろうちょう)と対等合併して宮古市となった新里(にいさと)村の大字。郷土芸能として蟇目鹿子(しし)踊りが伝承される。

■ひきめの里直売所(ひきめのさとちょくばいじょ)
蟇目(ひきめ)第13地割3番1号、JR山田線の蟇目駅から国道106号を盛岡方面へ徒歩10分。℡0193-72-3383。

■ひきめ乃湯(ひきめのゆ)
蟇目(ひきめ)鉱泉。蟇目第2地割54番2号にある。℡0193-72-3051。JR山田線の蟇目駅から徒歩で30分、車で5分ほど。国道106号から山道を登る。混浴。効能は外傷・火傷・皮膚病・内臓疾患・腰痛など。金鉱を採掘した野天掘りによって湧き出し、土用丑の日に湯につかると病が癒えるという言い伝えがある。

■ビジネスホテル銀杏(びじねすほてるいちょう)
南町(みなみまち)12番13号にある。℡0193-62-3429。前身は銭湯の“銀杏の湯”。

■ビジネスホテル古窯(びじねすほてるこよう)
ホテルチェーン。ビジネスホテル宮古ステーション古窯が正式名称。和見町(わみまち)5番1号にある。℡0193-63-2001。以前は宮古シティホテルというビジネスホテルで、その前には、ことぶき霊泉という銭湯があった。

■菱屋酒造店(ひしやしゅぞうてん)
銘酒“千両男山”を醸造・販売する宮古唯一の蔵元。鍬ヶ崎下町(くわがさきしもまち)5番24号にある。1852年(嘉永5)創業。界隈の人からは“ひっさぁ”と呼ばれる。水は湧水で、かつてあったほかの造り酒屋が分けてもらいにきたという。
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■日立浜町(ひたちはまちょう)
市街地の東部。北と東を大字(おおあざ)鍬ヶ崎、南西を宮古港、西を山根町・港町(みなとまち)に接する。陸中海岸国立公園の中心となる浄土ヶ浜は東に位置し、通り道にあたる。県北バスの停留所がある。漁師町で、山際に民家が連なる。浜には船溜まりがあり、“さっぱ”と呼ばれる小型船が浮かんでいる。須賀にも陸揚げしたさっぱが見られる。須賀は砂浜がコンクリートで固められて船揚げ場や漁師の作業場となっている。北側に日立浜、南に角力浜(すもうはま)がある。角力浜を土地の人はスモバマと呼ぶ。造船所や海産物の加工場、製氷所、番屋、民宿などがある。北の竜神崎に海の神“龍神”の社が鎮座し、かたわらから宮古港口をなす宮古港防波堤が南へ延びて先端に赤灯台が建つ。防波堤は俗に竜神崎防波堤とも呼ばれる。東に標高86mの臼木山(うすきやま)があり、桜の名所になっている。

■ビックウェーブ
ホテルビックウェーブが正称。大通(おおどおり)3丁目5番20号にある。℡0193-63-5533。

■ひっつみ
小麦粉などを捏ね、ひっつみって(ひきちぎって)は鍋物・汁物に投げ入れて食べる料理の総称。

■ビデオさわぐち
VTR撮影・編集業。末広町5番5号・吉田ビル1階にある。℡0193-63-4525。IAT・岩手朝日テレビ報道制作局宮古支局も務める。

■日出島(ひでしま)
2001年(平成13)に宮古観光協会が選定した新宮古八景のひとつ。
 日出島の太古の海の証しなるアンモナイトは語り継がるる
市の北東部、崎山(さきやま)・日出島集落の約600m東沖に浮かぶ無人島。陸中海岸国立公園内にある。面積0.09k㎡、標高50m。軍艦島とも呼ばれる。1935年(昭和10)12月24日にクロコシジロウミツバメの繁殖地として国の天然記念物に指定され、上陸は禁止されている。浄土ヶ浜から出る観光船の島めぐりコースに入っている。

■日の出食堂(ひのでしょくどう)
五月町(さつきちょう)3番6号にある。℡0193-62-3522。営業時間11時~19時。定休日曜(隔週)。ラーメンがメインメニュー。

■日の出町(ひのでちょう)
市街地の北部に位置する。北東を佐原、東を日影町、南を沢田、南西を小沢(こざわ)崎山と接する。1975年に設置。もとは鍬ヶ崎・崎鍬ヶ崎の一部。国道45号が北東沿いを通る。常安寺の坂を登った頂上の左手に広がる一帯。宮古第二中学校、日の出郵便局、市営住宅、東北電力宮古変電所などがある。

■百年堂(ひゃくねんどう)
古本屋、ゲームソフトなどのリサイクルショップ。本町(もとまち)1番37号、中央通り北筋にある。蔵造りの建物で、かつては山田屋陶器店だった。向かって左隣り(西)は明治安田生命宮古営業所。

■106急行バス(ひゃくろくきゅうこうばす)
宮古駅前と盛岡駅前を結んで国道106号を走る県北バスの路線。所要時間は約2時間。1978年(昭和53)11月1日、運行を開始。

■ひゅうず
餅菓子。三陸沿岸地方に古くから伝わり、おやつ、副食として食べられる。小麦粉・米粉を練ってつくった皮のなかに、味噌・黒砂糖、すりおろした胡桃や胡麻を甘くした餡を入れ、蒸かすか茹でる。名前は、火打ち石に形が似ているところから、火打が訛ったものという説がある。よく仏前に供えられ、おひゅうずと呼ばれる。“ひゅうじ”とも言う。地域によって“耳餅(みみもち、みみこもち)”“かます餅”とも呼ばれる。これもその形からきているのだろう。縁の部分をフリル状にきれいに細工したものを“花ひゅうず”といい、旧新里村のふるさと物産センターなどで売られている。
◇作り方の一例
材料・分量(4人分) 小麦粉250g・熱湯カップ1と1/4・胡桃20g・黒砂糖25g・味噌大さじ1
作り方 (1)胡桃・黒砂糖を細かく刻み、味噌とよく混ぜ合わせて胡桃味噌を作り、8個に分ける。(2)小麦粉に煮立った熱湯を加え、箸で手早くかき混ぜる。よく混ざったら手でこねる。初めはぶつぶつ、よくこねると滑らかな餅肌になる。(3)(2)を8個に分けて直系10cmくらいの円形に伸ばす。中に胡桃味噌を入れて半円形に折り、合わせ目をよく押さえる。(4)たっぷりの熱湯で茹で、浮き上がったらザルに上げて冷ます。
*小麦粉で作ることが多いが、米粉・そば粉、ご飯と小麦粉などでも作る。餡も胡桃味噌のほかに小豆・ごま味噌などを使う。粉に加える湯の温度は高いほどいい。出来上がりがふっくらし、時間がたっても軟らかい。胡桃は地元産がうまい、小麦粉は南部小麦がうまい、といわれる。

■氷上フェスティバル(ひょうじょうふぇすてぃばる)
12月。田代の野外活動センター・アイススケート場で開かれる。

■屏風岩(びょうぶいわ)
浄土ヶ浜の北部の岩壁を、外海がわから見たときの名称。高さ50mほどの垂直にそそり立った岩壁が、北西に隣接する蛸の浜まで続く。一帯の海はミナシロと呼ばれる漁場で、コンブ、スジメ、アワビ、ウニなどの宝庫。

■日和見橋(ひよりみばし)
蛸の浜町(たこのはまちょう)7番5号の心公院まえから蛸の浜へ降りる橋。おもに魚介・漁具の運搬に使われる。

■平出金物店(ひらいでかなものてん)
閉店。本町(もとまち)1番27号あたり、中央通り北筋に木造の店舗があった。向かって右隣り(東)は山口屋食堂、左は小成園。

■平片の滝(ひらかたのたき)
和井内(わいない)の刈屋川上流平片沢にある。平片不動滝とも呼ばれる。JR岩泉線の岩手和井内駅に近い宝鏡院(和井内第13地割8-5)から3㎞ほど。鞭牛(べんぎゅう)和尚が庵を結んで修行したところといわれる。この滝につづく山道は昼でも寂しく、女が通ると必ず何ものかにいたずらされた。その話を聞いた鞭牛は三七日(21日間)座禅を組んで祈願し、妖怪を追い払った。人びとは鞭牛をたたえて滝のほとりに不動尊を祀った。その後、鞭牛は安庭沢(あでのさわ)で鉱泉を発見し、安庭沢への道を開いた、という伝説がある。

■平田商店(ひらたしょうてん)
廃業。ワカメ、コンブ、スルメ、煮干し、塩ウニなど加工海産物の店。大通(おおどおり)2丁目3番22号、大通の南筋で向かって左隣り・東は割烹の大むかい、いま光洋水産がある場所にあった。℡0193-62-2459。


▽ふ
                              ホームへホームへ

■Vボウル(ぶいぼうる)
かつて、五月町(さつきちょう)1番1号、いまの魚菜市場のところにあったボウリング場。共栄ボウルとも呼んだか?

■ブーランジェ タミゼ(Boulanger Tamiser)
フランスパンと菓子の店。保久田(ほくだ)4番13号にある。2003年(平成15)開業。2005年10月、現在地に移転。午前8時30分開店。日曜定休。フランスパン180円は1日4~6本、クロワッサン120円は約24個の限定。添加物を使わず、午前中につくった分を売り終わると店を閉め翌日の仕込みに入るという。

■フェーン大火(ふぇーんたいか) → 三陸フェーン大火

■福(ふく)
*ワンタン・中華そばの店。保久田(ほくだ)2番17号、かつてのラーメン屋はなふく(花福)の場所にある。2008年(平成20)閉店するはなふくを常連客が譲り受け、改称して開業。2011年(平成23)3月11日の東日本大震災で浸水。泥まみれになったが、25日には店を開け、麺とスープだけの素ラーメンを200円で提供。4月1日、本格営業を再開。2013年5月現在、中華そば400円、ワンタン400円、ワンタン麺450円、チャーシュー麺650円、チャーシューワンタン麺650円、学生50円引き。

■福島湯(ふくしまゆ)
銭湯。末広町1番6号にある。℡0193-62-2007。開業は昭和の初め。創立者志賀秀雄。午前6時からの朝風呂が名物。

■服飾学校(ふくしょくがっこう)
正式には宮古服飾生活学校。宮町(みやまち)2丁目2番34号、横山八幡宮の鳥居前、第一中学校のそばにあった私立の洋裁学校。1962年(昭和37)4月10日開校(宮古市史年表)。3階建て・鉄筋コンクリート造りのビル。紺色のブレザーが制服だった。生徒の一部は1960年代後半にミニスカートの流行をいち早くとりいれて宮古の目抜き通りを闊歩した。舘合町(たてあいちょう)には文化服装学院があり、こちらの制服は白いセーラー服だった。

■福乃湯(ふくのゆ)
廃業。銭湯。大通(おおどおり)1丁目2番1号、中央通りから南へ入る路地の南西角地にあり出入口は路地に面していた。2006年(平成18)5月初旬廃業、連休明けに建物が解体された。出入口に掲げられた2枚の貼り紙を引用する。“お客様各位へ/長い間休業いたし、ご迷惑をおかけいたしました。お許し下さい。諸般の事情により60年の長きに亘ってきた営業を廃止する事に相成りました。どうぞご了承下さい。誠に有難うございました。福乃湯”、“お願い/湯道具、下駄箱の下においていますので、お持ち帰り下さい。よろしくお願い申し上げます。福乃湯”。近所に住んでいた人の声、“大通りの福乃湯さんが、先日廃業しました。子供の頃、友達とよく行って湯船で泳いだりしたものです。プロレスの放送が始まった頃その時間帯は空いていたり、高校の頃になると湯上がりに大きな鏡に向かって筋肉を動かしたり、そんな思い出が沢山あったのですが、また一つ子供の頃の思い出がなくなってしまいました。ちなみに男湯の絵は尾形光琳の紅白梅図でした。女湯はどんな絵だったのでしょう? 廃業に関して、お馴染みさんに大変丁寧な対応だったそうです。ありがとうございました。”

■藤田耳鼻科(ふじたじびか)
藤田耳鼻咽喉科医院。黒田町7番3号、第二幹線から北へ細い道を堰沿いに入った奥にある。スーパーまるしん(廃業)の東側の奥、菅田いか煎餅屋の向かい側にあたる。

■藤田屋(ふじたや)
洋菓子店・喫茶店。本町(もとまち)1番47号、高橋(たかばし)交差点の北東角地で、中央通りに面している。2階が喫茶・パーラー。向かって右隣りは瀬戸物の“いづもや”。

■藤の川(ふじのかわ)
東は宮古湾に面し、北を神林・磯鶏(そけい)、西を磯鶏、南を高浜と接する。国道45号が通る。藤ノ川団地、三陸国道事務所、ホテルベイ・ミヤコ、藤の川シーサイドゴルフ場、藤の川海水浴場などがある。

■藤の川海水浴場(ふじのかわかいすいよくじょう)
宮古湾に東面した藤の川にある砂浜。東の対岸は重茂(おもえ)半島の白浜(しらはま)。北の閉伊川河口部の藤原須賀から磯鶏海岸・黄金浜・とど浜と続いていた砂浜は埋め立てられ、わずかに藤の川にその面影をとどめている。

■冨士乃屋(ふじのや)
*中華食堂。末広町(すえひろちょう)5番3号、末広通りの南筋にあり向かって左は川目商店。広東料理を中心とした本格的な中華メニューを揃える。1933年(昭和8)、3月3日の三陸大津波のあとに創業。2011年(平成23)3月11日の東日本大震災では腰の高さまで泥水に浸かったが1カ月後に営業を再開した。

■富士乃湯(ふじのゆ)
銭湯。保久田(ほくだ)1番17号にある。℡0193-62-5339。1935年(昭和10)9月開業。2004年(平成16)ごろ廃業か?

■藤畑虎舞(ふじばたけとらまい)
津軽石の藤畑に伝わる民俗芸能。山田町の大浦虎舞の流れをくみ、100年ほど前に藤畑地区に伝えられて虎舞保存会が継承している。5月下旬、駒形神社の例大祭に踊りを奉納する。

■藤勇(ふじゆう)
宮古で使われている醤油ブランド富士醬油の醸造元。釜石市大渡町3-15-32、℡0193-22-4177。宮古販売所が新川町(しんかわちょう)5番21号にある。℡0193-62-6025。ブランド名には富士、社名には藤が使われている。溜まり醤油のような甘口。同じ醸造元から五葉醤油という甘み控えめのブランドも出ている。
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■藤原(ふじわら)
宮古市の東部に位置し、閉伊(へい)川の河口部右岸、宮古湾に面する一帯。藤原1~3丁目と藤原上町にわかれる。市街中心部とは閉伊川に架かる宮古橋・宮古大橋で結ばれる。国道45号が通る。4万トン岸壁の藤原埠頭が宮古湾に突き出し、さらに防潮堤が延びている。港湾合同庁舎・港湾労働者福祉センター・宮古港務所などの港湾施設のほか、藤原小学校、藤原保育所、藤原観音堂、藤原比古神社がある。1771年(明和8)につくられた宮古八景に“藤原夕照 藤原の松の葉ごしにわたるかと見えて浪間に夕日かがやく”と、1918年(大正7)の新宮古八景に“藤原晴風 打ち寄する波かとぞ聞く藤原の松の梢にわたるあらしを”とある(晴風は晴嵐か?)。1948年(昭和23)9月15日から17日にかけて襲来したアイオン台風で大きな被害がでた。1960年(昭和35)5月24日のチリ地震津波対策事業として1964年(昭和39)10月に閉伊川沿いの防潮壁が起工され、1967年(昭和42)3月完成。1969年(昭44)6月に宮古湾岸部の埋立て工事が始まり、南の磯鶏(そけい)へつづく長い砂浜と松原が消滅した。

■藤原上町(ふじわらかみまち)
市街地の南東部に位置する。閉伊川の右岸。北を藤原1丁目・2丁目、東を藤原3丁目、南を磯鶏(そけい)、西を小山田(こやまだ)1丁目や閉伊川と接する。藤原1丁目・2丁目との境をJR山田線が通り、閉伊川に鉄橋が架かる。藤原小学校などがある。

■藤原観音堂(ふじわらかんのんどう)
藤原3丁目、国道45号沿い南西にある。境内に幕軍勇士墓碑、三陸大海嘯の碑、アイオン台風水難者の供養碑などがある。幕軍勇士墓碑は、宮古港海戦のあと藤原須賀に流れついた首のない旧幕府軍兵士の遺体を葬ったもの。7回忌の1875年(明治8)に建立。1979年(昭和54)7月、史跡として市の文化財に指定。表に“忠岳義剱居士”、側面に“明治二年三月廿五日 軍人”と刻まれている。傍らに新しく建てられた石碑“幕軍無名戦士の墓”には以下のように刻まれている。表記は原文のまま。“戊辰戦争の明治二年(一八六九年)三月二十五日(今の暦で五月六日)鍬ヶ崎港にいた官軍軍艦甲鉄以下七隻に、幕府軍軍艦回天一隻が奇襲攻撃をかける。両軍の斬合い砲撃やく三十分間で、回天は艦長以下死傷者五十人余り、力尽きて敗走、官艦死傷者も百有余名という激しさで、これが宮古湾海戦である。戦終った藤原須加に幕府軍人の首なし死体が流れ着いた。藤原の人大井要右衛門は「仏に官軍も幕軍もない。」と、手厚く埋葬した。後七回忌に同じ藤原の人岩船豊吉がこの墓を造立供養した。無名戦士の名は回天士官大塚浪次郎とか、新選組隊士野村利三郎(土方歳三介添役)ともいわれる。/宮古市教育委員会”。三陸大海嘯の碑は、1896年(明治29)6月15日に襲った三陸地震津波の供養碑。アイオン台風水難者の供養碑は、1948年(昭和23)9月15日から17日にかけて襲来したアイオン台風によって閉伊川が大氾濫を起こし、89名の犠牲者が出たことを記念するもの。

■藤原小学校(ふじわらしょうがっこう)
藤原上町1番37号にある。1954年(昭和29)8月創立。

■藤原敏男(ふじわら・としお)
元キックボクサー、ムエタイ史上初の外国人王者。1948年(昭和23)3月3日、田老鉱山に生まれる。1969年(昭和44)10月、2ラウンドKO勝ちでプロデビュー。1971年(昭和46)11月、全日本キック初代王者決定戦で判定勝ちし、初代ライト級チャンピオンとなる。1978年(昭和53)3月18日、後楽園ホールで4ラウンドKO勝ちしてラジャダムナン・スタジアム・ライト級王座につき、ムエタイ史上初の外国人王者となる。1983年(昭和58)2月、現役を引退。現在、東京都荒川区南千住1-15-5で藤原スポーツジムを主宰。かたわらキックボクシング中継の解説者として活躍。

■藤原比古神社(ふじわらひこじんじゃ)
藤原3丁目8番38号、藤原地区の南西部高台にある。℡0193-63-9844。通称オフジサマ、オフッザマ。かつて藤原の町なか(藤原2丁目9番地あたり)にあったが、1948年(昭和23)9月15日から17日にかけて襲来したアイオン台風による洪水後に現在地へ遷座。一帯の山は通称をコソークマンという。宵宮・例祭は7月の土曜・日曜。藤原の消防第4分団が1月の第4日曜に裸参り祈願をする。もとは藤明神といい、音羽姫を祀る。伝説によれば、音羽姫は佐々木四郎高綱の娘で閉伊頼基に嫁いだ。津軽石村の藤畑(ふじばたけ)から白藤一株を移し、繁茂して大木となったので藤原の地名が生まれた。村びとは神藤として崇め、開花の多少で一年の吉凶を占う習慣があったが、1896年(明治29)の三陸大津波に遭って枯れたという。

■藤原埠頭(ふじわらふとう)
4万トン岸壁と呼ばれる。藤原3丁目にあり、宮古湾を東に伸びる。閉伊川河口右岸の砂浜を埋め立てて作られた。1969年(昭44)6月起工、1976年(昭和51)5月供用開始。

■藤原若潮太鼓(ふじわらわかしおだいこ)
1991年(平成3)藤原小学校の5~6年生16人をメンバーに藤原子供太鼓として創設。メンバーの成長とともに中学生、高校生と中心層が広がったため改称。2006年(平成18)現在、4歳から中学3年生までの45人が所属する。

■普代村(ふだいむら)
下閉伊郡に属し、村役場は普代9-13-2にある。℡0194-35-2111。宮古市より北に位置する。西を下閉伊郡の岩泉町、南を同郡の田野畑村、北を九戸郡の野田村に接する。東は太平洋に面し、陸中海岸国立公園域にある。三陸鉄道北リアス線と国道45号が通り、海岸沿いに田野畑村羅賀から北上する北部陸中海岸有料道路が通る。北山崎につづく黒崎までの断崖は陸中海岸でも指折りの勇壮美を見せる。譜代川が西から東へ流れて太田名部港に注ぐ。黒崎灯台・黒崎展望台、北緯40度シンボル塔、普代浜海水浴場・キャンプ場、まついそ公園、鵜鳥(うねどり)神社などがある。太平洋を眼下にする大沢橋梁からの眺望は三陸鉄道北リアス線の売りもののひとつになっている。
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■プチホテル海幸園(ぷちほてるかいこうえん) → 海幸園

■ブックスかんの → かんの書店

■筆塚(ふでづか)
鍬ヶ崎上町にある。江戸時代の1852年(嘉永5)、松原金次郎の経営した寺子屋松原塾の子弟が使い古した筆5万本を持ち寄って供養したといわれる。

■不動園(ふどうえん)
廃業。銭湯。日影町(ひかげちょう)5番23号、鍬ヶ崎(くわがさき)小学校の前にあった。℡0193-62-5626。1928年(昭和3)3月、旧鍬ヶ崎町長を務めた海産物商の中村喜助が開業。1933年(昭和8)伊東祐治(いとう・ゆうじ)の書いた中篇小説「葱の花と馬」の舞台となる。1957年(昭和32)現在の木造2階建てに建て替え。2009年(平成21)6月9日、廃業。

■舟木(ふなき)
廃業。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)7番22号にあった旅館・ホテル。旅館舟木として1968年(昭和43)開業。1980年(昭和55)改築してホテル舟木となる。廃業時期不明。

■舟場(ふなば)
閉伊川の下流部左岸、JR山田線鉄橋の西たもとをいう。小型船の繋留場がある。昔は藤原に渡る渡船場だったのかもしれない。

■布海苔(ふのり)
海藻の一種。三陸名産。春から夏にかけて岩礁や潮間帯に繁茂する1年草。吸い物などに直前に放して食べる。

■踏切(ふみきり)
宮町(みやまち)と栄町(さかえちょう)のあいだの女学校踏切は跨線橋・出逢い橋の開通で廃止された。山口川沿いの市立図書館近くに舘合(たてあい)踏切があり、その西側、舘合山の南にも小さな踏切があったが、名称も記憶になく、宮古線(現在の三陸鉄道北リアス線)が開通したさいに閉鎖されたと思われる。大通(おおどおり)3丁目と宮町・南町のあいだの八幡沖踏切は貨車の入れ替え作業でしばしば、とくに夕方に開かずの踏切と化した。

■フライキ
大漁旗(たいりょうき・たいりょうばた)のこと。漢字で富来旗と書く。フラフ、フラウと呼ぶ地方もあることから、旗を意味するオランダ語のvlag(フラグ)、英語のflagから発生したとする説もある。英語で大漁旗はBig catch flagという。鉄道でも信号用の手旗をフライキと呼ぶ。漁船の新造を祝い、大漁を祈って贈られる。進水式のときに船を飾り、大漁を示すために漁船が掲げて入港する。フライ旗祭りが1975年(昭和50)から末広町商店街で開催されている。制作所は宮古・本町の加賀屋染店のほか、山田町大沢に一軒ある。製法は、綿布に鉛筆や染料で下描きをする。白く残したい部分に、もち米で作った糊をつける。乾かす。赤、青、黄、緑などの染料を刷毛で塗る。少し乾かし、色落ちを防ぐための染料を表裏全体に塗る。水槽で洗う。糊の落ちた部分が白く残る。乾かす。端をミシン縫いする。1枚仕上げるのに正味4日ほどかかる。

■ブラザーショップ中島(ぶらざーしょっぷなかじま)
ミシン屋。栄町(さかえちょう)1番64号にある。このあたりにかつて運道具屋の亀章(かめしょう)があった。

■プラザカワトク宮古店(ぷらざかわとくみやこてん) → カワトク宮古

■フラットピアみやこ
正式名称は宮古市男女共生推進センター。市営の施設。田の神(たのがみ)2丁目2番5号にある。℡0193-62-2352。2005年3月までの名称を“宮古市働く婦人の家”といい、“男女共同参画社会の形成を図り、女性の福祉の増進と地位の向上に資するための施設”と謳っている。

■鰤(ぶり)
成長魚。宮古あたりでは、汐子(しょっこ)→二才(にさい)→わらさ→鰤と名を変える。

■ふるさと
飲食店。大通(おおどおり)2丁目3番20号にある。℡0193-62-9229。風の噂によると、マスターはチョウセンアカシジミの大家で“Jazz in 浄土ヶ浜”の仕掛人のひとりだという。

■古館由佳子(ふるだて・ゆかこ)
国際的な活動をつづけるジプシー・バイオリン奏者。熊野町出身。鯛屋商店が実家だという。宮古高校を経て桐朋学園大学音楽学部を卒業。1994年にジプシー音楽に接する。ラースロー・ベルキとジプシー楽団の演奏スタイルを独学で身につけ、ジプシー楽団創設の祖とされる女性バイオリニスト、ツィンカ・パンナの生まれ替わりとベルキらから賞賛される。
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■ふれあい館(ふれあいかん)
保久田(ほくだ)6番8号の角地にある。子育て支援・老人介護支援などを行なう施設。2003年(平成15)12月15日に設立されたNPO=特定非営利活動法人“ふれあいステーション・あい”が古い木造民家を借りて運営している。あの建物は、“高校生のとき通っていた英語塾です。あの当時から風格ある建物でしたが、今でもそのまま残っているのですね! 先生の自宅の和室の襖を取り払って部屋を繋げ、長い座り机と座布団を何列も置いた懐かしいスタイルの英語塾でした。”と、うららさんから伝言板に書き込みをいただいた。

■ふれあい公園(ふれあいこうえん)
小山田(こやまだ)8-1-2、小山田橋の南のほとり、閉伊川右岸の河川敷にある。1995年に開設。水路に蛍が生息し、“星めぐりホタルコンサート”などが開かれる。テニス・コートなどのスポーツ施設がある。

■ふれあい農園(ふれあいのうえん)
市営。大字田代(たしろ)第9地割字芦原平(あしばたい)にある。市民農園を併設して市民に貸し出したり、ポニーのペースケを飼ったりしている。野外活動センターに近く、田代川に沿った自然豊かな環境に立地。市街から車で20分ほど。途中の雄又峠からの眺望は絶景。問い合わせは市農業課、℡0193-62-2111内線423。
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■無礼講(ぶれいこう)
郷土料理店。大通(おおどおり)1丁目4番21号にある。℡0193-64-0210。

■フローラ
Flora。喫茶店。2007年(平成19)秋頃に閉店。大通(おおどおり)4丁目2番10号、大通の北筋で西隣りは上野製麺所、東隣りは鈴木木工所。洋食屋の趣きがあり、煮込みハンバーグ、カレー、チキンソテー、牛頬肉の煮込みなどのメニューがあった。

■風呂屋(ふろや) → 銭湯

■文化印刷(ぶんかいんさつ)
松山第5地割13-6にある。℡0193-62-4578。タウン誌「月刊みやこわが町」の印刷所。

■文化会館(ぶんかかいかん) → 市民文化会館

■文化服装学院(ぶんかふくそうがくいん)
宮古文化服装学院が正式名称。舘合町(たてあいちょう)3番7号にあった私立の洋裁学校。℡0193-63-6060。学長鈴木ユウ。1950年(昭和25)2月1日学校法人認可。閉院時期は不詳。白いセーラー服が制服だった。宮町(みやまち)2丁目には宮古服飾生活学校があった。

■分庁舎(ぶんちょうしゃ)
宮古市役所分庁舎。市役所第2庁舎とも呼ぶ。市役所の向かい(北)側、本町(もとまち)1番22号にある。かつての合同庁舎。市役所のHPを見ると、市役所の住所は写真とともに出ているが、分庁舎は写真だけで住所が書かれていない。


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■閉伊穴(へいあな) → 八戸穴

■閉伊街道(へいかいどう)
宮古街道・盛岡街道ともいう。盛岡市の旧呉服町にある国道分岐が起点。中野・簗川から下閉伊の門馬・川井・茂市(もいち)・千徳を経て宮古に入る。舘合町・和見町(わみまち)から宮古小学校前を通り、常安寺前で南下し、高橋(たかばし)交差点を東に曲がり、市役所分庁舎前から鍬ヶ崎に向かい国道45号と合流するまで。延長27里9町44間3尺6寸(約109km)で、2泊3日の行程。盛岡藩庁と宮古を結ぶ政治的連絡路であり、牛馬で海産物を内陸に運んだ帰りに米や雑穀をもたらす五十集(いさば)街道だった。川沿いの難所を避けた険しい山道が多く、付け替え・改修が繰り返され、しだいに川沿いの道路となる。1751年からの鞭牛(べんぎゅう)和尚による改修が有名。現在の国道106号(99.5km)は閉伊街道をもとに整備・短縮された。

■閉伊川(へいがわ)
宮古の母なる川。閉伊太郎、閉伊川太郎と呼ばれる閉伊郡随一の川。宮古市街地では宮古川とも呼ばれた。延長75.7㎞。北上山地の兜明神岳を水源とし、区界(くざかい)高原を東流。JR山田線・国道106号と交差しながら川井・新里(にいさと)地区を流れて市街地に入る。この間、北上山地を下る多くの支流を集め、市街地では近内(ちかない)川・山口川が横山(よこやま)八幡宮の西麓で合流する。横山から第一中学校・宮古高等学校に沿って八幡土手がつづき、山田線の閉伊川鉄橋(第34閉伊川橋梁)に至る。土手下の河原に船場(ふなば)がある。閉伊川鉄橋の下流に宮古橋、宮古大橋が架かり、市役所の東で旧山口川が合流する。宮古大橋下から河口まで漁船を係留した岸壁が延びる。左岸の出崎埠頭と右岸の藤原(ふじわら)のあいだで宮古湾に注ぐ。河口の向かい側に月山(がっさん)を擁した重茂(おもえ)半島が横たわり、その先端が閉伊崎。その左手に太平洋が広がる。鮭がのぼり、藩政期には役川として知られた。上流に大雨が降るとしばしば洪水を起こし、“白鬚水”と恐れられた。1947年(昭和22)のカスリン(キャサリン)台風、翌48年のアイオン台風も大きな被害をもたらし、これを機に、八幡土手や対岸の小山田側の土手が築かれた。また1960年(昭和35)のチリ地震津波後、閉伊川鉄橋から河口まで高さ海抜5.26mの堤防が両岸に築かれた。駒井雅三の歌二首「雪どけの水満々の閉伊川が 西強風(にしつよかぜ)に河波光る」「強風にラサの煙の吹き散りて すきとおり見ゆ閉伊川岸が」

■閉伊川橋梁(へいがわきょうりょう)・閉伊川鉄橋(へいがわてっきょう) → 第34閉伊川橋梁

■米協(べいきょう)
正式には岩手県米連宮古米雑穀協同組合という。大字(おおあざ)崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)第7地割字鬼越15番6号にある。かつて栄町(さかえちょう)5番2号、国道106号に女学校通りが接続する丁字路の西角地にあった。℡0193-62-6256。北側を通る国道に県北バスの米協前停留所があったが、現在は栄町停留所と名称が変わった。付近は国道がバイパスに切り替えられ、丁字路が十字路になり、出逢い橋ができて一変した。

■閉伊崎(へいざき)
重茂(おもえ)半島の北端。尾崎(おさき)さまとも呼ばれる黒崎神社がある。

■閉伊七所明神(へいしちしょみょうじん)
田鎖神社(田鎖明神)を筆頭とし、松山神社(もと松山明神)ほか。

■べえご岩(べえごいわ)
埋め立て前に光岸地(こうがんじ)の鏡岩、いまの宮古漁業協同組合ビルの下にあったという大岩。“べえご”はベコ、牛の意か。

■べにや
スカーレットロードべにや、紅屋商店。衣料品店。末広町3番18号にある。社長の姓は安達(あだち)。子どものころ、てっきりベニヤ板も造っているのだろうと思っていたが、合板製造会社は足立ベニヤで、現在のホクヨープライウッド。

■ベルト屋(べるとや)
正式な屋号かどうか不明。大通(おおどおり)1丁目5番1号か? 中央通り北筋、かつて松本旅館、いまは岩見神経内科医院(大通1丁目5番2号)のかたわらで、山口川が暗渠に入る交差点のところにあった一坪ほどの小店。店主を塩越進人さんといった。2006年(平成18)初めごろに閉店。

■ベルフ西町(べるふにしまち)
田の神(がみ)2丁目2番25号にある。旧称はコープ西町。いわて生協(本部・滝沢村)初の沿岸店として、コープ西町の名称で1972年(昭和47)に開店。2010年(平成22)7月9日、ベルフ西町として新装オープン。ベルフ(Belf)はビューティフルライフ・ウィズ・フレッシュフードの頭文字だという。

■鞭牛(べんぎゅう) → 道供養碑 牧庵鞭牛和尚の像
江戸時代の僧侶。1710年(宝永1)宮古の北西部に位置する和井内(わいない)に生まれた。橋野村(いまの釜石市)の林宗寺6世住職をつとめる。内陸と沿岸との流通をはかって地域の生活苦を打開しようと40代からの半生を閉伊(へい)街道・浜街道などの改修に捧げ、県内各地の難所を開いた。一人で鏨(たがね)と玄能を握って難所を開削する姿に打たれた村人たちが総出で工事にあたるようになったという話が伝わる。1782年(天明2)旧暦9月2日死去、享年73。墓は林宗寺にある。長沢6-13-2、神倉(かくら)から2㎞ほど遡った長沢川上流の南川目に鞭牛が復興したと伝えられる十三仏、さらに1㎞ほど上流に鞭牛が住んだとされる岩屋(岩穴)がある。十三仏と岩屋は1983年(昭和58)10月24日に市の史跡に指定。1984年(昭和59)4月、新川町(しんかわちょう)の国道106号沿いに宮古岩手ライオンズクラブが国道106号宮古バイパス開通を記念して盛岡出身の彫刻家佐藤祐司の手になるブロンズ像“牧庵鞭牛和尚の像”を建立。1991年(平成3)7月25日に市の文化財に指定された鞭牛碑群に、南川目・北川目の道路沿いに点在する石碑、築地2丁目2番39号(NTT東日本宮古サービスセンター裏)の旧築地通りに面した道供養碑などがある。“読み置くぞかたみとなれや歌心われはいづくの土となるらん”など「忘想歌千首」を遺し、新里(にいさと)にある玄翁館(げんのうかん)に直筆の千首のほか道路開削に使った道具などが展示されている。
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■弁天様(べんてんさま)
弁財天。①鍬ヶ崎(くわがさき)の弁天堂。戦前に芸能の神として芸妓の信仰を集めた。はじめ光岸地(こうがんじ)の切り通しにあり、ラサ工業の付属施設建設のため鍬ヶ崎上町4番地の金比羅神社境内に遷座。②磯鶏(そけい)の弁財天。神林木材港北側の小丘、弁天岩にある。白木の鳥居に弁財天の題額が掲げられ、石段を登った頂上、黒松の根もとに3体の碑が並ぶ。

■弁天鼻(べんてんばな)
宮古湾の西岸中央から東に突き出した崎で、弁天の小社がある。高浜1丁目1番10号。喫茶店・レストランの異人館が建つ。北隣りは牛鼻と呼ばれる。


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■判官稲荷神社(ほうがんいなりじんじゃ)
沢田(さわだ)6番22号、本町(もとまち)の後背をなす館山(たてやま)の中腹にある。℡0193-62-6733。常安寺保育園の向かいにある石段を登ると鳥居と社殿があり、東の山中に奥宮がある。通称“ほうがんさま”。あたりは判官山とも呼ばれる。宵宮・例祭は8月6日・7日。魚を狐に食べさせて豊漁・不漁を占うという。祭神は源義経といわれる。平泉で死んだはずの九郎判官源義経が実は落ち延び、一時この地に身を潜めていた、義経の鎧・兜を埋めたあとに社を建立した、という義経北行伝説にまつわる創建伝承が残る。源義経が平泉政権の第4代藤原泰衡に襲われたのは1189年(文治5)閏4月30日(新暦6月15日)で、創建はその後のことになる。

■宝鏡院(ほうきょういん)
和井内(わいない)第13地割8-5にある。℡0193-73-2333。

■ぽうぽう煮(ぽうぽうに) → ぽうぽう焼き
烏賊(いか)の煮物料理の一種。ぽっぽ煮とも言う。

■ぽうぽう焼き(ぽうぽうやき)
烏賊(いか)料理の一種。発音は、ポーポーヤギ。ぽっぽ焼きとも呼ぶ。また、煮物を、ぽうぽう煮・ぽっぽ煮と呼ぶ。“鍬ヶ崎(くわがさき)のおっぱ”と呼ばれる作家の吉田タキノは半自伝風の児童小説『兄と妹たち』のなかで、こう書いている。母はおやつに、“イカの腹のなかに、いろいろなたべものをつめこみ、竹ぐしにさして、ろばたの火でやく「ぽうぽう焼き」をつくった”。坂口忠『ことばのおくら』には「ポーポーヤギ」の項に“臓腑を抜いた烏賊の腹に、ご飯、味噌、野菜を詰めて焼いた食べ物。/ポッポヤギ”とあり、「ポッポヤギ」の項には“烏賊の腹の中に味付け味噌を詰めて焼いたもの”とある。『聞き書 岩手の食事』(農文協)にぽうぽう焼き・ぽっぽ焼きはなく、代わりに「するめのぽっぽ煮」がある。“小さめのするめは、足をまとめて引っぱって、丸のまますっぽりとわたを抜き、口と目玉を除いて胴の中に足をつっ込み、塩湯でゆでる。昼食は、ぽっぽ煮がごはん代わりになることもあるし、子どものおやつにも最適である。これを火山(ひやま)にかけておくと、いぶされて身が固くなって長く保存できるようになり、酒のさかなに喜ばれる”。

■ボウリング場(ぼうりんぐじょう)
かつて、宮町(みやまち)に「みやこボウル」、五月町(さつきちょう)に「Vボウル」があった。

■防浪堤(ぼうろうてい)
防潮堤のこと。田老では防浪堤と呼ぶ。田老館が森の田中菓子舗に「防浪堤」という名の菓子がある。ドイツ菓子エンガディーナにヒントを得て開発したもので、ビスケットの生地にキャラメルとクルミが挟んである。

■ホースビ
“全速、全速で”の意。英語 full speed:フルスピードの転訛で、漁師言葉の一種。

■ボート → いわてマリンフィールド

■ポートサービス
立ち食いの蕎麦・饂飩・ラーメン・丼物の店。臨港通(りんこうどおり)5番20号、鍬ヶ崎の海岸通り東筋にある旧魚市場に付属した施設。

■ホーマック
ホームセンター。宮古店が長町(ながまち)2丁目4番1号に、宮古南店が磯鶏(そけい)3丁目3番22号にある。

■ホームショップさきお
末広町(すえひろちょう)8番2号にある。℡0193-62-3814。末広通りの北筋で、向かって左は中屋金物店、右はブックスかんの。

■ホームページ一覧(ほーむぺーじいちらん)
宮古リンク集

■牧庵鞭牛和尚の像(ぼくあんべんぎゅうおしょうのぞう) → 鞭牛
国道106号の起点に建つブロンズ像。住所表記では宮古第9地割字大川原(おおがわら)。国道106号を挟んで新川町(しんかわちょう)1番地東端の向かい(東)側、山口川水門のすぐ西に位置する。1984年(昭和59)4月、宮古ライオンズクラブが設立20周年記念と同年7月の国道106号宮古バイパス開通を記念して建立。制作は盛岡出身の彫刻家佐藤祐司(船越保武の弟子)。

■保久田(ほくだ)
市の北部に位置し、北を緑ヶ丘、東を横町(よこまち)・黒田町(くろたまち)、南を末広町、西を和見町(わみまち)と接する。東西に旧閉伊街道と第二幹線が通る。南端を旧山口川が西から北へ流れる。川の北沿いに宮古保育園、北部にみどり公園がある。そのほか宮古商工会議所、中央公民館分館、加藤病院、子育て支援・老人介護支援施設ふれあい館などがある。みどり公園の東隣りにみどり保育園があったが閉園。第二幹線の北筋に宮古郵便局があったが、2006年(平成18)11月6日に栄町(さかえちょう)1番7号に移転。1918年(大正7)につくられた新宮古八景に、“保久田落雁 年々にかりねの宿と馴れや来し保久田に落ちる雁の一つら”とある。

■ホクヨープライウッド
合板の製造・販売を業とする株式会社。磯鶏(そけい)2丁目3番1号に宮古工場がある。本社は東京。前身は足立(あだち)ベニヤ。1993年5月から2000年7月まで工場から出た樹皮や木屑などの燃え殻(木灰)1883tを青森県境に不法投棄し、2006年12月に自主撤去を申し出。

■ぼくんち
閉店? 飲食店、スナック。大通(おおどおり)4丁目2番19号、旧8分団脇の路地から東へ第二常盤座方面に折れる角地にある。℡0193-63-7699。

■保健センター(ほけんせんたー)
宮古市保健センター。休日急患診療所に隣接して向町(むかいまち)4番12号、宮古橋の西のたもとにある。

■干し芋(ほしいも)
薩摩芋を薄く切って天日干ししたもの。内から糖分が白い粉となって吹く。晩秋から冬のおやつになった。そのまま食べるが、冬はストーブの上でかるく焼く。莚の上で天日干しするため、よく藁くずがくっついていた。

■干し柿(ほしがき)
枯露柿(ころがき)とも言う。渋柿の皮を剥いて天日干しし、白く粉(糖)が吹いたもの。硫黄で薫蒸すると柔らかく粉を吹かないものができ、あんぽ柿と言う。甲子柿(かっしがき)は皮を剥かずに1週間ほど20~25℃に保った柿室で薫煙したもので、釜石市甲子町などの名産。

■星めぐりホタルコンサート(ほしめぐりほたるこんさーと)
7月~8月中の一日、ふれあい公園で開催。1996年7月6日に第1回が始まる。ふれあい公園は小山田(こやまだ)8-1-2、小山田橋の南のほとり、閉伊川右岸の河川敷にある。
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■ぼそ山(ぼそやま)
舘合(たてあい)から、いまの宮町(みやまち)3丁目の市立図書館あたりにかけてあった山の俗称。切り崩されて山口川の土手や宮町3丁目・4丁目の宅地造成などに使われた。常安寺は、かつてこのあたりにあったが、津波に流されたため、沢田に移転したという。

■帆立(ほたて)
貝の一種。駒井雅三「ふるさとの海」復版から引用する。
 鱒縄漁おとろえんとき帆立貝 養う籠を主婦ら稼ぐも
 海に垂れ帆立稚貝を養わん 吊丸籠(つりまるかご)を主婦内職す

■ホタルの里を作る会(ほたるのさとをつくるかい)
みやこホタルの里を作る会。閉伊川のふれあい公園(河川敷公園)を主な活動の場所として蛍を育成している。7月~8月中の一日、星めぐりホタルコンサートを同公園で開催している。
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■ホッキガイ
ホッキ、北寄貝。標準和名はウバガイで、姥貝・雨波貝などと書く。浅い海の砂に棲む二枚貝。殻は膨らんだ方円形で褐色、長さ8~10㎝ほど。千葉県銚子以北に分布する。寿司ダネにされることが多い。宮古では旧暦の端午の節句に刺し身や吸い物にして食べる習慣があり、節句をまえに宮古湾内の磯鶏・津軽石地区で年に2~3日だけ口開け(解禁)される。さっぱ船から、金属製の爪が先についた長さ4~5mの突き金(がね)あるいは突き手と呼ばれる棒を使って海底を探り、貝を挟んでとる。

■ホッケ寺(ほっけでら) → 本照寺

■ぽっぽ煮(ぽっぽに) → ぽうぽう焼き
烏賊(いか)の煮物料理の一種。ぽうぽう煮とも言う。

■ぽっぽ焼き(ぽっぽやき) → ぽうぽう焼き
烏賊(いか)料理の一種。ぽうぽう焼きとも言う。

■ホテル近江屋(ほてるおうみや)
磯鶏(そけい)1丁目1番18号、宮古湾岸にある。℡0193-62-3660。1967年(昭和42)開業。
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■ホテル舟木(ふなき) → 舟木
廃業。

■歩道橋(ほどうきょう)
愛宕(あたご)・新川町(しんかわちょう)・藤原(ふじわら)各交差点の3ヵ所にある。国道45線上。新川町交差点の歩道橋には昭和館前歩道橋と書かれている。昭和館は歩道橋のたもと、築地1丁目1番1号にある旅館。

■ほほえみの里(ほほえみのさと)
介護老人保健施設。医療法人孝仁会が運営。大字崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)第9地割字大石39番地27にある。℡0193-64-3311。

■海鞘(ほや)
宮古名産。“海のパイナップル”とも呼ばれる。外見はいぼいぼした焦げ茶色で楕円形の異様な海洋生物。身は鮮やかなオレンジ色を呈し、独特の香りがある。新鮮なものを刺身で食べる。焼いてもいい。見た目はとっつきにくいが、一度食べると病みつきになる。筋肉中に牡蠣(かき)の2倍のグリコーゲンを含むとされる。ホヤの水=汁も絶品。汁を飲んだあとに水を飲むと水がうまい。4月から10月にかけて店頭に出回り、旬は初夏。“5月のホヤは嫁に食わすな”といわれる。12月から2月が産卵期。二つの突起は口と肛門で、先端が「+」になっているのが口、「-」は肛門。【食べ方】二つの突起を切り落とし、なかの汁を器に出す。殻に包丁を入れて剝く。黒や茶色の内臓を取り去ったオレンジ色の身を水で洗う。食べやすい大きさに切る。汁を出した器に入れて食べる。

■ぼや節(ぼやぶし)
鰹の生利(なまり)。生を利かせた鰹節という意味らしい。

■ほりた
レストラン。新川町(しんかわちょう)4番1号、市役所の西側にある。

■堀田熊次郎(ほりた・くまじろう)
水産研究者。1883年(明治16)2月28日、新川町(しんかわちょう)に生まれる。幼名嘉吉。農商務省水産講習所を卒業。高知県水産試験場、兵役を経て、1907年(明治40)岩手県立水産学校の教諭となり水産試験場技手を兼務。1918年(大正7)勇退し、新川町に堀田海洋研究所を開設。白浜に水産試験所を設置し、建網を経営。鮭の人工孵化や秋刀魚の食用法、定置網の改良などを研究し著作を発表。下閉伊郡水産会会長・岩手県水産会副会長・帝国水産会議員・宮古町教育推奨会会長などを歴任。1939年(昭和14)11月18日、水産学校で講演中に脳溢血で倒れて死去、享年56。墓は常安寺にある。新川町の海洋研究所は1955年(昭和30)レストランに改造され、1960年に解体・新築される。

■袰岩米穀店(ほろいわべいこくてん)
黒田町(くろたまち)7番23号、横町(よこまち)通りの南筋にある。℡0120-11-3387。

■盆景踏切(ぼんけいふみきり)
八木沢(やぎさわ)第5地割字(あざ)寺沢にあるJR山田線の踏切。第4種踏切で、警報器・遮断機はない。

■本州最東端(ほんしゅうさいとうたん) → とどヶ崎

■本州最東端の蛇口(ほんしゅうさいとうたんのじゃぐち)
大字重茂(おもえ)字姉吉(あねよし)、重茂半島南部の姉吉漁港・水揚げ作業場にある。東経142度3分11秒。姉吉集落に水道が開通したのを記念し、2009年(平成21)4月26日に設置。それまで沢水を濾過していた。金色の蛇口。誰でも利用できる。姉吉から自然歩道で本州最東端とどヶ崎をめざす人は、ここで水を補給したほうがいい。

■本州最東端訪問証明書(ほんしゅうさいとうたんほうもんしょうめいしょ) → とどヶ崎

■本州最東端を訪ねるみち(ほんしゅうさいとうたんをたずねるみち)
自然歩道のひとつ。重茂(おもえ)半島南の姉吉(あねよし)キャンプ場から、本州最東端のとどヶ崎を経て北の与奈に至る11km。所要時間3時間40分。健脚者向け。姉吉キャンプ場からとどヶ崎へは最初の約500mほど登り道がつづく。コースの途中に車両が入れるところはない。姉吉キャンプ場~4km・1時間10分~とどヶ崎~7km・2時間30分~与奈。問い合わせは宮古市商工観光課℡0193-62-2111。

■本照寺(ほんしょうじ)
山号は寂光山。愛宕(あたご)2丁目6番29号にある。古い住居表示では愛宕第6地割29番。℡0193-62-5208。地元の人はホッケ寺と呼ぶ。日蓮宗。「宮本武蔵」「新・平家物語」などで知られる作家の吉川英治(1892~1962)は1935年(昭和10)8月11日から17日にかけて自ら設立した日本青年文化協会の講演会のため倉田百三・白鳥省吾らと東北各地をまわった。このとき妹千代が本照寺住職関口養隆の弟誠也と結婚していた縁で英治は12日から17日まで寺に滞在し、“寺を出て寺までかへる盆の月”という句をつくった。その句碑は1998年(平成10)3月に南隣りの愛宕小学校の敷地に建立された。また、この旅の直後から「宮本武蔵」が朝日新聞に連載されはじめたので、寺で作品の構想を練り冒頭を書いたのではないかとされる。

■本田幸八(ほんだ・こうはち)
宮古高校などの音楽教師、ピアニストで、ジャズ・ピアニスト本田竹広の父。宮古高等学校の校歌、下閉伊郡田老町(いまは市内)の町民歌などを作曲。

■本田竹広(ほんだ・たけひろ)
ジャズ・ピアニスト。初期のアーティスト名は本田竹彦、その後竹曠(たけひろ)、字を変えて竹広とした。本名は昂(たかし)。1945年(昭和20)8月21日、宮古市に生まれる。父は県立宮古高等学校校歌の作曲者で音楽教師の本田幸八。市立愛宕小学校を卒業後、12歳で上京し中野に住む。国立音楽大学付属高校を経て国立音楽大学に入学。在学中にジャズと出会い、3年時にプロのジャズ・ピアニストとして活動を開始した。1968年(昭和43)リーダー・トリオを結成。1969年12月、アルバム「本田竹曠の魅力」を発表。1970年3月「The Trio」発表。この年8月12日、宮古でリサイタルを開催。1972年4月「THIS IS HONDA」発表(録音3月14日)。「The Trio」と「THIS IS HONDA」をカップリングした「T. HONDA BEST」で第6回ジャズ・ディスク大賞の最優秀録音賞を受賞した。1973年、渡辺貞夫カルテットに参加。1978年3月、フュージョン・グループの草分け NATIVE SON を結成。1979年3月、アルバム「NATIVE SON」発表。1988年(昭和63)8月11日、ジャズ・イン・浄土ヶ浜が開催される。以後、1993年まで6年間、本田竹広をはじめ日野皓正、渡辺貞夫、ハービー・ハンコックなど世界的プレーヤーが参加。1993年(平成5)に脳内出血で倒れ、1995年には腎不全を患う。1997年7月7日に2度目の脳内出血に襲われて生死の境をさまよい、1年間のリハビリを経て1998年3月3日、東京・保谷こもれびホールで奇跡的な復帰コンサートを果たす。2000年5月、2枚組「NOW ON THE BLUES」発表。2002年(平成14)7月17日、闘病者を励まそうと県立宮古病院1階ホールでミニ・コンサートを開き、1時間にわたって「オーバー・ザ・レインボー」「スターダスト」などをソロ演奏。同年11月5日、第1回・宮古ジャズフェスティバルに日野皓正、子息の本田珠也(ドラムス)らと出演。2003年(平成15)8月31日、田老町のグリーンピア田老で本田竹広プロデュースによる“鮭の国ジャズフェス2003”を開催。山下洋輔、ケイコ・リー、宇川彩子、THE PURE、鈴木良雄、峰厚介、村上寛、福村博、橋本信二ほかが参加。2004年11月24日2枚組アルバム「ふるさと-On My Mind」を発売し、12月16日には宮古市民文化会館でソロ・コンサートを開催。2005年(平成17)7月31日、東京・紀尾井ホールでクラシックとオリジナル、「故郷~父の歌〔宮古高校校歌〕」によるソロ・コンサートを開催。この年10月2日、テレビ岩手がドキュメンタリー番組「さらば酒の日々 ジャズピアニスト本田竹広の挑戦」を午後2時55分から3時25分まで放送。同年12月16日、紀尾井ホールでのライブ盤「My Piano My Life 05/TAKEHIRO HONDA Piano Recital」を発表。2006年(平成18)1月12日、心不全のため死去、享年60。
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■ボンナ
2014年(平成26)頃に閉店した喫茶店。BONNA。大通(おおどおり)4丁目5番9号、宮古駅前通り東筋の松田ビル2階。1階は、土産物の茜屋(あかねや)、その後カワトク宮古。昔は1階に須藤カメラ店、黒田食堂などがあり、ボンナに昇る階段は向かって左側にあった。バス・ターミナルの側でバスの時間待ちに利用する客も多かった。bonna はラテン語で知性という意味だが、店名がこれに由来するかどうかは不明。

■ポンプ場(ぽんぷじょう) → 三角地帯
市役所前にある宮古市上水道宮古送水場のこと。


宮古大事典
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