*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  
宮古大事典       ま    未分類
                  
                  
                  
                  
▽ま

■マース → 宮古湾温泉マース

■魔靄(まがだ) → 山背

■鮪(まぐろ)
シビ、スビと呼ぶ。「宮古に揚がる鮪は、みな東京へ行く。宮古では地元でとれる活きのいい鮪は食べられない」と昔から言われる。情けないことに築地から来た鮪を食べている。主に定置網でとれる。宮古市の鮪船は2010年3月現在5隻。

■真崎(まさき)
田老にある。真崎海岸には2qにおよぶ砂浜が続く。毎年7月下旬に真崎ビーチハウス前で“海開き・うにまつり”が開かれる。近くに沼の浜キャンプ場や小港漁港・真崎灯台・真崎展望台、真崎神社などがある。周辺にはハマナス、ハマギク、ハマユリなど季節の花が咲く。“朝日とろとろ、夕日輝く曽根の松、うるしまんぱい、黄金おくおく”という言葉とともに、武士の真清が残した埋蔵金伝説がある。
 わが立てる真崎の岩に砕け散る 汐の乱れよ潮騒の音 (駒井雅三)

■増坂勲(ますさか・いさお)
画家・元教諭。1931年(昭和6)1月3日に旧舘、いまの愛宕に生まれる。1957年(昭和32)武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業。宮古市立第一中学校をはじめ第二中学校・田野畑中学校などに40年間勤務して1991年(平成3)退職。自由美術展・主体美術展にそれぞれ10回入選。岩手県芸術祭部門賞・県教員美術展藤原賞・県教育芸術祭優秀賞などを受賞。宮古市美術協会会長・県芸術祭洋画部門理事などを歴任。水彩画集に「山口川を描く」、「わが町宮古を描く」(1995年9月30日・文化印刷)、「海」(2001年)などがある。

■増坂書店(ますさかしょてん)
本店は大通(おおどおり)4丁目5番11号、宮古駅前通りの東側にある。支店が田の神(がみ)1丁目2番25号にある。本店は、建物が三角のふしぎな形をしている。店頭に雑誌類が並び、店内はウナギの寝床のように狭く、一本の通路の両側に本がぎっしり並んでいる。

■マスヤかばん店(ますやかばんてん)
鞄店。末広町(すえひろちょう)6番11号、花の木通りの東筋にある。

■間瀬時計店(ませとけいてん)
大通(おおどおり)1丁目4番15号にある。

■マタノ
漆器仏具店。新町(あらまち)1番32号、本町(もとまち)通りの西筋にある。北隣りは島屋赤札堂。

■又兵衛尊碑(またべえそんひ) → 又兵衛祭り

■又兵衛鍋(またべえなべ)
鍋料理の一種。名称は、津軽石川の鮭と後藤又兵衛の伝承にちなむ。古くから鮭漁師が仕事の合間に食べていた賄い料理。刻んだ鮭の卵膜、ニンニク、ネギ、醤油、酒少々を入れて煮込み、腹子(はらこ)を添える。

■又兵衛祭り(またべえまつり)
毎年11月30日、南部鼻曲がり鮭の本場として知られる津軽石川の鮭留め場で津軽石鮭繁殖保護組合が開催する奇祭。藩政時代、後藤又兵衛という武士が、飢餓に苦しむ村人のために留めを破って鮭を自由にとらせ、その罪で11月30日に逆さ磔(はりつけ)の刑となったという伝承にもとづく。逆さ磔になった又兵衛をかたどり、Y字型の木に荒縄を巻いた人形を留めのほとりに建てる。朝に獲れた一番鮭、雌雄一対を祭壇に捧げて供養する。人形は鮭漁の終わる2月末まで祀られる。又兵衛は藩の川役人だったとも、鮭を盗み取ったために撲殺された無頼の浪人だったとも言われる。又兵衛の死後、鮭がのぼってこなくなったので遺体を掘り出して供養したところ、またのぼってくるようになったとも言われる。津軽石稲荷神社境内に又兵衛の墓といわれる五輪の塔が建ち、そばに又兵衛尊碑がある。台座に載った横長の自然石に“又兵エ尊”と刻まれる。「月刊みやこわが町」2008年3月号「石碑巡礼」によると、その下に坂下嘉道、裏に1960.10とあるという。1985年(昭和60)11月30日には川丁場淵ノ巻に“又兵衛の碑”が完成して除幕式が行なわれた。

■街かどボランティア(まちかどぼらんてぃあ)
NPO=特定非営利活動法人のひとつ。

■松明かし(まつあかし) → お盆
マヅアガスと発音される。お盆の8月に、玄関前の路上などで、割った松の根を焚くこと。

■松井産婦人科医院(まついさんふじんかいいん)
新町(あらまち)3番11号、新町通りの東筋にあり松井内科医院と向かいあっている。0193-62-1617。

■松井内科医院(まついないかいいん)
新町(あらまち)4番31号、新町通りの西筋にある。0193-63-8500。

■松田靴店(まつだくつてん)
廃業。大通(おおどおり)3丁目1番23号、大通3丁目交差点から八幡沖(はちまんおき)踏切に向かう道に入ってすぐの東筋にあった革靴製造・修理の店。1965年(昭和40)開業。閉店時期は不明。

■松茸(まつたけ)
宮古名産。宮古・下閉伊地区で県内の8割近くを生産している。おもに赤松の根に生え、人工栽培はむずかしい。旬は9月・10月。赤松は宮古市や下閉伊郡岩泉町の木に指定されている。岩泉町は岩泉まつたけ研究所を設置して増産に成功した。田野畑村では1998年(平成10)から松茸祭りを開催している。

■松月海岸(まっつきかいがん)
宮古市内北東部、崎山にある。人工物がなく自然だけが残る貴重な海岸。

■松原公園(まつばらこうえん)
磯鶏石崎(そけいいしざき)6番1号にある。宮古市民文化会館が近い。ソメイヨシノ約40本が植えられている。トイレあり。面積3744u。

■松原塾(まつばらじゅく)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)の道又沢(みちまたざわ)にあった。創立者は松原佐蔵。1817年(文化14)鍬ヶ崎に生まれ、南部藩の鍬ヶ崎御給人となった。

■松村巨湫(まつむら・きょしゅう) → 巨湫

■松藻(まつも)
海藻の一種。宮古名産。旬は冬から春。岩に付着していて大量には採れない。生や乾燥させたものは黒っぽいが、熱湯に通すと鮮やかな緑色になる。吸い物などに入れたり三杯酢にして食べる。天日干ししたものを軽くあぶり、味噌汁に入れて食べることが多い。宮古以外ではなかなか口にできない。

■松本旅館(まつもとりょかん)
廃業。大通(おおどおり)1丁目5番2号、いまの岩見神経内科医院のところにあった。東端の一郭にベルト屋があった。

■松山(まつやま)
閉伊川と千徳地区の南に位置する。長沢川が流れる。松山神社、宮古漁業協同組合松山ふ化場、岩手県立宮古高等技術専門校などがある。

■松山荘(まつやまそう)
岩手県立の救護施設。松山第8地割19番地1号にある。1973年(昭和48)4月1日から県の社会福祉事業団が委託を受けて業務を開始。

■松山ふ化場(まつやまふかじょう)
鮭の人工孵化場。松山4−5−17にある。宮古漁業協同組合が運営し、稚魚を閉伊川に放流している。0193-63-1609

■ママの店むつみや(ままのみせむつみや) → むつみや

■豆柿(まめがき)
カキノキ科。シナノガキ(信濃柿)・ブドウガキ(葡萄柿)ともいう。野生の山柿の一種で、果実は小さい。熟さないうちに収穫して柿渋をつくる。葉っぱが全部落ちて実が黒くならないと渋くて食べられない。子どものころ、籠を背負った農家のおばさんが売りに来たのを買った。粒柿とも呼んだ。小粒で黒く、野性的な濃い味がした。柿は有史以前から日本にあり、 赤い実のなる赤木が縮まってカキになったという。

■まりや
大通(おおどおり)1丁目3番33号、中央通り南筋の角地に薄緑色の古い木造建築が残り、“毛糸・裏地・ボタン・手芸”と書かれた、まりや毛糸店の看板がかかっている。この建物には大正末期から昭和にかけて盛久という床屋があったという。前の通りは幾久屋町通りと呼ばれた。

■マリンコープ・ドラ → DORA(ドラ)

■丸石家具店(まるいしかぐてん)
横町(よこまち)2番2号、横町通りの北筋にある。0193-62-3578。かつては中央通りの北筋、小成書店の並びにあった。

■マルイ自転車店(まるいじてんしゃてん)
緑ヶ丘5番5号にある。0193-62-4459。みどり公園の北西口から西の山口街道へ通じる道に面し、この道は“あいさつ通り”と呼ばれるという。

■まるこう呉服店(まるこうごふくてん)
横町(よこまち)3番7号にある。0193-62-3205。

■丸〆(まるしめ)
早野呉服店。向町(むかいまち)の高橋(たかばし)交差点南東角地にあった。キャサリン台風・アイオン台風の二度の水害に遭い、戦後経済の波に乗れずに閉店。跡地は丸松(マルマツ靴店)と健康堂薬局になった。

■まるしん
スーパーマーケット。黒田町(くろたまち)7番6号、第二幹線と扇橋通りが交わる北東角地にあった。1949年(昭和24)に食料品店として創業。1962年(昭和37)法人に改組しスーパーマーケットになった。2004年(平成16)12月7日、閉店。2007年(平成19)1月、建物を解体。

■丸高電気(まるたかでんき)
電器店。本町(もとまち)1番50号にある。0193-62-4607。

■丸長製パン(まるちょうせいぱん)
丸長菓子店ともいう。保久田(ほくだ)3番12号にある。0193-62-2845。名物イボパン、正称クッキーパンは1個100円。“ボクもワタシもパパもママも”とビニール袋に刷り込まれている。ウミネコの餌付用うみねこパンも作っている。

■丸徳(まるとく)
蒲鉾・竹輪などの製造・販売会社。藤原(ふじわら)2丁目4番16号にある。0193-62-6646。1907年(明治40)創業。

■丸友しまか(まるともしまか)
丸友島香。海産物小売・加工業。千徳(せんとく)第13地割字戸ノ越32−15にある。0193-62-1332。
HP

■丸福魚店(まるふくさかなてん)
大通(おおどおり)1丁目3番14号、大通の北筋にある。0193-62-2460。かつては大通1丁目4番31号、中央通り南筋の衣料品店ペペ(大通1丁目4−30)の東隣りあたりにあった。

■マルフジ
閉店。1959年(昭和34)4月、宮古初のスーパーマーケットとして向町(むかいまち)3番29号に開業。中央通りに面し、かつての田町(たまち)交差点の南東角という一等地にあったが、2009年(平成21)8月末に店を閉じた。千徳店が長根(ながね)2丁目7番19号、近内川の本近内橋南東たもとにあったが、2008年(平成20)ごろに閉店。

■マルマツ
閉店。マルマツシューズハウス。古くは丸松と書いた。向町(むかいまち)2番39号、中央通りに面し、高橋(たかばし)交差点の南東角地にあった。アウトドアショップのカンガルーを併設。閉店は2006年(平成18)5月初旬ごろ。6月に解体され、現在は駐車場。丸松以前、この位置に丸〆(まるしめ)早野呉服店があった。藩制期には道沿いに浜街道の基点となる一里塚が盛岡藩によって設置された。

■まるみつ
レストラン。藤の川15番40号、国道45号沿いで宮古湾・藤の川海水浴場に面して立地する。0193-62-6313。

■マルヤマ山根商店(まるやまやまねしょうてん)
鮮魚・海産物小売業。山根町2番11号にある。0193-63-1456。
HP

■満貫(まんがん)
かつてあった中華専門店。宮古駅前交差点の南東角地、いま岩手銀行宮古中央支店(末広町7番20号)がある。1970年代前半に全焼して閉店した。

■まんぷく食堂(まんぷくしょくどう)
五月町(さつきちょう)1番1号の魚菜市場内にある。0193-63-0090。麺類・丼物など。定休日は水曜。向かって左隣りには2006年(平成18)12月末まで味鮮食堂があり、2007年3月30日に、りきさん亭が開店。

■マンホール
公共下水道の蓋に2尾の鮭が鋳刻されている。1987年(昭和62)に市がデザインを公募し、津軽石の佐々木毅の案が採用された。


▽み
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■三浦印章(みうらいんしょう)
はんこ屋。保久田(ほくだ)8番20号。豊島医院の斜向かい、山口街道の東筋にある。0193-63-4777。

■三浦米穀店(みうらべいこくてん)
三浦商店ともいう。向町(むかいまち)4番34号にある。0193-62-3826。擂り胡麻が隠れた名物という。

■三浦櫓櫂店(みうらろかいてん)
木製の櫓や櫂を製作する数少ない店。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)1番27号にある。1940年(昭和15)創業。

■三上きも乃会館(みかみきものかいかん)
呉服屋で、披露宴会場・美容室・着付教室などを併設。和見町(わみまち)4番18号にある。0193-63-5511。

■三上酒店(みかみさけてん)
栄町(さかえちょう)2番6号、宮古駅前通りの西筋にある。

■みかわ屋(みかわや)
“もちと赤飯”の看板を掲げる。大通(おおどおり)1丁目2番25号にある。0193-62-6048。お蒸かし(赤飯)、おひゅうず、しっとぎ、きりざんしょ、くるみ餅、ごま餅、揚げまんじゅう、米の粉まんじゅう、麦まんじゅう、醤油団子などを商う。町なかにある老舗で、宮古の代表的な餅菓子屋のひとつ。向かって左隣りにラーメンの“あんばいや”がある。

■みすず
飲み屋。みすずのある道すじは“親不孝通り”と呼ばれたともいう。いま、大通2丁目7番9号に美鈴というバーがあるが、同じ店かどうか不詳。

■ミスタードーナツ宮古ショップ(みすたーどーなつみやこしょっぷ)
ファストフード店。宮町(みやまち)1丁目3番地16号にある。0193-71-2088。

■水取沢(みずとりざわ)
浄土ヶ浜にある沢。中腹に石英粗面岩の自然石に昭和十七年九月吉日の日付で御水神と刻んだ碑が祀られている。海際にはかつてボート乗り場や石川食堂・沖の井食堂、県北バスの観光船案内所や観光船乗り場(桟橋)などがあった。1970年代に観光船乗り場は黒石浜へ移動、1980年代に沖の井食堂、つづいて石川食堂が撤去された。

■味噌パン(みそぱん)
宮古地方にある菓子パン。茶色い堅パンで、小判型をしていることが多い。味噌風味のはずだが、食べてみると醤油風味も漂う。

■実田(みた)
市の南部。1丁目・2丁目がある。JR山田線の磯鶏(そけい)駅の南側で、線路の東南に沿い、八木沢川に挟まれた一帯。

■道供養碑(みちくようひ)
市指定文化財“鞭牛碑群”のうちのひとつ。築地2丁目2番39号、NTT東日本宮古サービスセンター裏の旧築地通りに面した敷地内にある。かたわらの標柱には“宮古市指定文化財 鞭牛碑群 平成三年七月二五日指定”とある。背後の案内板の全文は以下のとおり。なお引用文中の和井内村は現在宮古市和井内。“この石碑は、牧庵鞭牛和尚が建立したもので、道供養碑といわれています。/鞭牛和尚(宝永七年〜天明二年 一七一〇年〜一七八二年)は和井内村(現新里村和井内)に生まれ、青年時代に出家し、三八歳で橋野村(現釜石市栗橋)の林宗寺住職(六世)となった人です。/当時の道路はせまく、危険な所が多く、旅人や物資の輸送をする住民達は難儀をしていました。これを見た鞭牛和尚は、この苦しみを救おうと決意し、寺を弟子にゆずって道路の改修に生涯を捧げることとなります。/鞭牛が改修した道路は、宮古街道をはじめ広い範囲に及び、十二年間に一〇八ヵ所、これに動員された人足は六九三八四人と記録されています。/昔、この場所は、もっと突き出ていて波が荒く、人々は波のあいまをみて往来していました。(波が荒く、七回行ったり来たりしたというところから、七戻りという名がつけられたところです)/鞭牛は、この難儀を解消するため、山の中腹に道を通したといわれています。/石碑はその時、建てたもののようですが、残念ながら上半分が欠けているので建立年月日はわかりませんが、宝暦十年(一七六〇年)以降と推定されています。/道供養碑とは、道を往来する人の安全と多幸を念じてたてられるものです。/当時の生活や交通事情等を知る上に貴重な文化財であると思います。/宮古市教育委員会(解説 花坂)/昭和五十四年一月 宮古電報電話局建立”

■道の駅区界高原(みちのえきくざかいこうげん)
国道106号沿い、JR山田線の区界駅そば、兜明神岳(かぶとみょうじんだけ)の南麓、区界第2地割434番2号にある。施設はレストランのビーフビレッヂ区界・川井地区特産物販売所・公園のほか、岩手県北バス区界停留所などがある。

■道の駅たろう(みちのえきたろう)
田老(たろう)の重津部(おもつべ)34番2号、国道45号沿いにある。

■道の駅みやこ(みちのえきみやこ)
*臨港通(りんこうどおり)1番20号、国道45号と106号の結節点そばの出崎埠頭にある。2011年(平成23)3月11日の東日本大震災に被災。2012年7月現在、仮設店舗で営業中。

■道の駅やまびこ館(みちのえきやまびこかん)
川内(かわうち)8番2号、国道106号沿いにある。やまびこ産直館、レストランもうもう亭などがあり、毎年9月の第一土曜・日曜に、やまびこフェスタが開催される。

■みちのく窯(みちのくがま)
陶芸家・長塚哲(ながつか・てつ)の窯。田代20−7−5にある。代表作やすらぎ地蔵のほか、招き猫やフクロウなど多数ある。
HP

■道又医院(みちまたいいん)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)8番20号、道又沢と呼ばれる路地にある。0193-62-3131。内科・皮膚科・泌尿器科があり、道又歯科医院(0193-62-3134)を併設。

■道又金吾(みちまた・きんご)
医師。鍬ヶ崎の道又医院を経営。1908年(明治41)4月6日、石川啄木が釧路を離れて函館に向かう途中に安田汽船の酒田川丸で宮古を訪れたさい、盛岡出身の北東新聞記者菊池武治の手紙をことづかって立ち寄った。盛合聰の「啄木と小国露堂」によると、道又金吾は盛岡の本宿家から鍬ヶ崎の医師道又元兆の養子となった。妹は田中館愛橘の夫人清子、兄は海軍大佐・主計総監の本宿宅命。本宿宅命は第1回帝国議会で政府委員として活躍したが41歳で死去。

■道又沢(みちまたざわ)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)の本通りから路地を西へ入り、道又医院のところでY字型に道が分かれる一帯。左の奥に筆塚がある。筆塚は江戸時代の私塾松原塾の弟子500人が使った筆5万本を埋めて供養したといわれる石碑。

■緑ヶ丘(みどりがおか)
市街地の北部。北を五月町(さつきちょう)、東を小沢(こざわ)、南を保久田(ほくだ)・横町(よこまち)、西を西町(にしまち)に接する住宅地。労働基準監督署などがある。横町の宮古小学校の北側にあたる地域など、かつて中谷地と呼ばれて水田が多かったが、急速に宅地化した。1968年(昭和43)3月26日に魚菜市場が八幡沖から移転し、1995年(平成7)7月に北へ道一本隔てた五月町へ移った。

■みどり公園(みどりこうえん)
保久田(ほくだ)10番地にある。保久田地区北部の加藤病院・中央公民館分館に隣接し、緑ヶ丘地区の南、宮古小学校の西側に位置する。トイレあり。1965年(昭和40)開園。道を隔てた北隣りに緑湯、東隣りには、みどり幼稚園があった。

■緑湯(みどりゆ)
銭湯。緑ヶ丘2番7号、みどり公園の北側にあった。2006年(平成18)ごろ廃業。1956年(昭和31)開業。当時、周りはほとんど田んぼだった。1月15日の裸参りに消防の3分団が柚子湯で体を清めて横山八幡宮へ向かい、11月の宮古サーモン・ハーフマラソン大会では参加者の利用が多かった。

■みどり幼稚園(みどりようちえん)
保久田(ほくだ)9番地、みどり公園の東隣りにあった。閉園の時期は不詳。

■湊大杉神社(みなとおおすぎじんじゃ) → 大杉神社
宮古市街地の東部、光岸地(こうがんじ)の切り通しの上にある。大杉神社は通称。

■港町(みなとまち)
宮古港に面し、港の北に位置する。北を山根町、東を日立浜町、南を臨港通、西を鍬ヶ崎下町・鍬ヶ崎仲町に接する。宮古漁業協同組合、宮古港ケーソンヤード、港町交番などがある。1965年(昭和40)の住居表示以前、一帯は前須賀(まえすか)と呼ばれ、県北バスの停留所名として残る。

■港町交番(みなとまちこうばん)
港町2番1号にある。0193-62-6037。市内の交番のなかで最も歴史が古いといわれる。

■港町ブルース(みなとまちぶるーす)
森進一の歌った御当地ソングの一種。1969年(昭和44)4月15日に発売されて大ヒットした。第2回全日本有線放送大賞と同特別功労賞、第2回日本レコードセールス大賞のゴールデン賞、第11回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞などを受賞。作詞は深津武志(補作詞なかにし礼)、作曲猪俣公章。2番の歌詞のなかに一度だけ宮古の名が出てくる。“1.背のびして見る海峡を 今日も汽笛が遠ざかる あなたにあげた夜を返して 港 みなと函館 通り雨 2.流す涙で割る酒は だました男の味がする あなたの影をひきずりながら 港 宮古 釜石 気仙沼〜 3番・4番略)”

■みなとや薬局(みなとややっきょく)
HP

■南川目さんさ(みなみかわめさんさ)
民俗芸能の一種。長沢の南川目地区に伝わる踊り。150年以上前に川井村から嫁いできた人が伝えたとされる。戦時中途絶えたが、1946年(昭和21)の秋祭りに青年会が復活させ、婦人会などが継承してきた。盆に各家の庭先で踊って先祖の霊を供養するほか、十三仏の縁日、地区の運動会や敬老会などで踊られる。“長い長沢、道楽どころ、親の太鼓で子が踊る”という言葉がある。

■南公園(みなみこうえん)
南町(みなみまち)6番地、宮古高等学校の東側にある。1970年(昭和45)3月25日開設。トイレあり。

■南町(みなみまち)
国道106号(かつてのバイパス)が通る。西は宮町(みやまち)、北はJR山田線を挟んで向町(むかいまち)と大通(おおどおり)2丁目・3丁目、東・南は土手を挟んで閉伊川と接する。南公園がある。宮古字八幡沖と・中川原の一部。田圃を埋め立てた造成地で、1965年(昭和40)住居表示を実施。

■三船久蔵(みふね・きゅうぞう)
久慈出身の柔道家。1883年(明治16)4月21日生まれ。久慈尋常高等小学校卒業後、郡役所に勤め、数日で退職。一関中学から仙台二中に進み、柔道部を創設。卒業後上京して講道館に入門し、柔道の創始者である嘉納治五郎に師事。身長159p・体重55sの小柄な体で“空気投げ”をはじめ数多くの新技を編み出す。“理論の嘉納、実践の三船”といわれ、“柔道の神様”とよばれた。1965年(昭和40)1月27日死去、享年81。久慈市の名誉市民第1号。1958年、三船記念館を設立。1990年8月、川貫5−20−230に三船十段記念館が新築された。三船十段杯争奪柔道大会、三船十段杯国際親善柔道大会が開催され、久慈市は“柔道の町”を謳っている。

■耳くじり(みみくじり)
言い伝えにもとづく儀式。旧暦5月5日・端午の節句に、菖蒲で耳を掻くと聞かずにならない、長芋で耳をこすると悪いことは聞こえず良いことだけが聞こえるようになるという。徳冨蘆花の小説「寄生木」にはこうある。“軒端に菖蒲(あやめ)を葺く今日は旧暦端午の節句、一家団欒して「耳くじり」の式を終えた。これは長芋の小さなので耳に栓さし、本年中吉事を聞くよう、凶事を聞かぬようにと祝うのだ。”

■宮古(みやこ) → 宮古市
宮古弁ではミヤゴ。二戸郡一戸町鳥越に宮古沢という字(あざ)がある。愛媛県松山市味酒町のフジグラン松山の東は昔、宮古町(みやこまち)と呼ばれていた(温泉郡宮古町)。

■みやこ秋まつり(みやこあきまつり)
9月中旬の3日間、1日目・前夜祭、2日目・手踊りを中心としたパレード、3日目・舟山車を中心としたパレード 。主催は参加団体などで構成する、みやこ秋まつり実行委員会。1985年(昭和60)に市民参加の祭りとして、(社)陸中宮古青年会議所の主催で始まった。

■宮古一丸水(みやこいちまるすい)
水産加工会社。崎山(さきやま)第1地割2番5号にある。0193-87-2211。

■宮古岩(みやこいわ) → 沢田屋

■宮高(みやこう) → 宮古高校

■宮古運動公園(みやこうんどうこうえん) → 運動公園

■宮古映画新聞(みやこえいがしんぶん)
映画全盛期に発行されていた週刊紙。創刊号は1957年(昭和32)1月18日発行、1965年(昭和40)3月17日号まで残っていると鬼山親芳「宮古の映画館物語」にある。

■宮古栄食センター(みやこえいしょくせんたー)
仕出し弁当業。舘合町(たてあいちょう)7番18号、旧国道106号北筋で県北バス宮古営業所の西隣りにある。0193-62-2356。

■宮古駅(みやこえき)
JR山田線の駅。1934年(昭和9)11月6日に開業。駅舎は開業当時のままの木造・平屋建て。スタンプに“うみねこがほほえむ浄土ヶ浜の駅”と彫られている。宮町(みやまち)1丁目1番80号にあるが、駅舎南の宮町側に出口はなく、北の栄町(さかえちょう)・大通(おおどおり)に面している。改札の入口と出口は離れており、駅舎玄関を入ったところに改札入口がある。東側の改札出口を出ると、すぐ右にトイレ・観光案内所、左に立ち食い蕎麦店・キオスクがある。西側の北に張り出した部分にお焼きなどを製造・販売する“はつかり亭”と土産物店のJC(JR東日本コンビニエンス)がある。西隣りに第3セクター三陸鉄道北リアス線の宮古駅がある。“超我の碑”、三陸鉄道開通記念碑、鉄道開通記念碑がある。駅前広場にうみねこをかたどった照明灯が立つ。広場の周囲に県北バス発着場、北東部に県北バス駅前営業所がある。駅前通りの東が大通3丁目・4丁目。西が栄町で、複合商業施設キャトル宮古や蛇の目寿司などがある。駅前通りを北に進んで最初の交差点の右に繁華街の末広町がある。2007(平成19)年度に駅前広場を拡張・整備。

■宮古駅前交番(みやこえきまえこうばん)
栄町(さかえちょう)1番15号にある。62-5579。宮古駅前交差点を西に折れた栄町通りの北筋で、駅前からは離れている。かつては駅前交差点の北西角地にあった。

■宮古駅前通り(みやこえきまえどおり)
通称。宮古駅から駅前交差点まで南北に延びる通り。1933年(昭和8)4月に完成。宮古駅の開業は翌1934年(昭和9)11月6日。1960年代に区画整理があって駅前広場ができた。三上酒店は東筋の南端、最も駅に近い角地から、区画整理で西筋に移転した。1970年代には以下のような店が並んでいた。【東側】駅側の南端から須藤カメラ・土産物の茜屋、黒田食堂?、その2階が喫茶店ボンナ、黒田時計店・増坂書店・乙戸商店、県北バス車庫に入る道を挟んで、手芸店のエルザ、2階に喫茶店があり、満貫(まんがん)中華食堂が末広通りに折れる北端角地になっていた。【西側】南端が旅館住吉(現在は魚彩亭すみよし)、路地を挟んで、蛇の目本店、喫茶らんたん、三上酒店(このへんに、きよみ寿司があった?)……(現在トムトム)、旅館八幡館が北端角地。道を挟んだ角地が駅前交番。【大通北側】朝日生命、若狭写真店、沢田屋食堂、生内商店、ちょっと飛んで洋電社……

■宮古大橋(みやこおおはし)
閉伊川河口部に架かる橋。新川町(しんかわちょう)と藤原(ふじわら)1丁目とを結ぶ。全長308m・幅18m。1974年(昭和49)11月16日に開通。1975年、国道45号が宮古橋から宮古大橋へ切り替わる。古い宮古橋は、並んですぐ横、上流側に架かっている。宮古小橋もそばにあるが、これに気づく人は少ない。

■宮古海員学校(みやこかいいんがっこう) → 海上技術学校

■宮古開港記念碑(みやこかいこうきねんひ) → 宮古港
市役所向かいの三角地帯、宮古市上水道宮古送水場の庭にある。住居表示は不詳。1915年(大正4)9月、開港300年を記念して沢田の常安寺門前の天満宮境内に建立されたが、天満宮の移動にともなって現在地に移された。

■宮古海上技術短期大学校(みやこかいじょうぎじゅつたんきだいがっこう)
                      → 海上技術学校

■宮古館(みやこかん)
かつてあった映画館。新川町(しんかわちょう)3番17号、中央通りの南筋にあった。開業は宮古市史年表に1917年(大正6)、鬼山親芳「宮古の映画館物語」には1920年(大正9)とある。1973年(昭和48)夏ごろ閉館。跡はパチンコ屋を経てアミューズメントバギバギというゲームセンターになっている。

■宮古観光協会(みやこかんこうきょうかい)
大字(おおあざ)鍬ヶ崎第7地割字(あざ)臼木32番地の浄土ヶ浜レストハウス内にある。0193-62-3534。1954年(昭和29)9月25日設立。
HP

■宮古北高校(みやこきたこうこう)
通称は北高(きたこう)、正称は岩手県立宮古北高等学校。市の北東部、田老字八幡水神43番地2にある。1949年(昭和24)4月10日創立、開校記念日 は10月20日(同校HPより)。もと宮古高校の田老分校で、1978年(昭和53)4月1日に独立・改称。2005年6月6日の宮古市・田老町の合併をまえに北高も宮古商業高校との合併が検討されていたが、2005年1月11日に白紙撤回された。
HP

■宮古教会(みやこきょうかい)
日本基督教団宮古教会。大通(おおどおり)1丁目4番5号にある。新教(プロテスタント)。前の通りを教会通りと通称する。宮古幼稚園を併設していたが廃園。日本基督教団は日本キリスト教団とも。

■宮古漁業協同組合(みやこぎょぎょうきょうどうくみあい)
光岸地(こうがんじ)4番40号、宮古湾に臨む鏡岩(かがみいわ)の高台にある。宮古市史年表1967年(昭和42)10月30日に漁協ビル竣工とある。1979年(昭和54)4月6日、ビル前に“啄木寄港の地”の石碑が建立された。“さけの中骨”水煮缶詰を開発し、製造・販売している。

■宮古魚凾(みやこぎょばこ)
魚箱・トロ箱などを製造・販売する株式会社。藤原2丁目3番8号、閉伊川河口右岸にある。
HP

■宮古銀行(みやこぎんこう)
1913年(大正2)、東屋の菊池長七、熊谷商店の熊谷平助のほか中沢徳兵衛・八重樫金十郎らが中心となって設立。日付は宮古市史年表で9月8日。3月3日説もある。資本金50万円。1928年(昭和3)5月8日、岩手銀行に併合される。

■宮古毛ガニまつり(みやこけがにまつり)
2月中旬の日曜、浄土ヶ浜で行なわれる。主催は宮古観光協会。毛蟹の旬は1月から3月。

■宮古検定(みやこけんてい)
正式名称は“宮古もてなし観光・文化検定”。宮古観光協会主催。2008年(平成20)2月3日に第1回を開催。だれでも受験でき、受験料も無料。定員は申し込み先着100人。会場は宮古市役所。宮古市に関する歴史・文化・産業・自然・風土などの分野から50問が出題され、制限時間40分。合格は7割以上の正解者。参考資料として「宮古ものしりガイドブック 知る知る宮古」(宮古市発行)があり、観光案内所などで配布している。第2回は2009年(平成21)2月1日を予定。問合せ先は宮古観光協会0193-62-3534。

■宮古港(みやここう) → 宮古湾
宮古湾の一部。南を臨港通の出崎埠頭(でさきふとう)、北を宮古港防波堤で囲まれた港。1615年(慶長20・元和1)盛岡藩初代藩主南部利直が慶長大津波の被害巡視のため宮古に長期滞在して町割りを指図したさい、藩の外港として宮古湊を開いた。1869年5月6日(旧暦の明治2年3月25日)日本最初の近代海戦が繰り広げられた。1915年(大正4)9月、開港300年を記念して宮古開港記念碑が沢田の常安寺門前の天満宮境内に建立される。のち、境内の移動にともない、本町(もとまち)の市役所向かい側の三角地帯にある宮古市上水道宮古送水場の庭に移転。なお、宮古湾は、宮古港を含めて重茂(おもえ)半島にいだかれた、さらに広い範囲を指す。

■宮古港開港記念碑(みやここうかいこうきねんひ) → 宮古開港記念碑
宮古開港記念碑が正しい。

■宮古港海戦(みやここうかいせん)
薩長政府軍と幕府軍とが闘った日本初の近代海戦。1869年(明治2)旧暦3月25日(新暦5月6日)早朝、幕府軍・榎本艦隊の回天と高雄が宮古港に停泊中の薩長政府軍艦隊を襲撃に向かう。機関の故障のため高雄が遅れ、回天1隻が宮古港に突入。回天は星条旗を掲げて薩長政府艦隊に接近したうえで日の丸に換え、砲門を開いた。日本で唯一の鉄船だった甲鉄に近づいて接舷、抜刀隊が乗り移って白兵戦となる。しかし、ガットリング機関銃の応戦にあうなど甲賀源吾艦長以下多数の戦死者を出して敗北、30分ほどの激戦ののち回天は港外に逃げ去った。薩長政府軍の春日丸に若き東郷平八郎、榎本艦隊の回天には新選組の土方歳三が乗っていた。

■宮古港海戦解説碑(みやここうかいせんかいせつひ)
臼木山(うすきやま)の頂上を鍬ヶ崎(くわがさき)に少し下り、海戦の舞台となった宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見下ろす位置にある。宮古港海戦の解説と海戦略図、土方歳三と東郷平八郎の写真と紹介を刻み、海戦から130年後の1999年(平成11)に建立された。縦1m・横2m・高さ1m、黒御影石、事業費285万円。
以下、碑文全文(/=改行)。
“宮古港海戦解説碑/一八六七(慶応三)年、第十五代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した後も、旧幕府軍は各地で新政府軍に抵抗を続け、一八六八(明治元)年には、榎本武揚をリーダーとして箱館五稜郭に臨時政府を樹立しました。/これに対し、一八六九(明治二)年三月、新政府軍は箱館の旧幕府軍討伐のために八隻の船団で品川沖を出航し、十六日から相次いで宮古に入港しました。/この情報が箱館に伝わると、旧幕府軍は宮古港に停泊する船団に奇襲攻撃をかけて、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪取し、戦況を一変させる作戦を決定しました。そして、「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻の軍艦で宮古に向かいましたが、途中で「蟠龍」は行方不明、「高雄」も機関が故障したため、三月二十五日未明の作戦決行時には、残った軍艦は「回天」一隻となっていました。/それでも、旧幕府軍はわずかな可能性を信じて「甲鉄」への奇襲攻撃を強行しましたが、ガットリング銃など近代兵器による猛反撃にあっては作戦は成功するはずもなく、「回天」は退却を余儀なくされるという結果に終わりました。/わずか三十分あまりの戦いでしたが、これが近代日本海戦史に残る宮古港海戦です。”

■宮古港海戦記念碑(みやここうかいせんきねんひ)
浄土ヶ浜の御台場(おだいば)展望台入口にある。1968年(昭和43)3月7日、宮古ロータリークラブが建立。台座は大砲の台座をかたどったコンクリート製、本体は茶色い両雲母花崗岩。書は山田町出身の鈴木善幸衆議院議員(当時。のち首相)、横書き。
以下、碑文の全文。/は改行。原文では空白になっている読点を補った。洋数字と函館の表記は原文のまま。“宮古港海戦記念碑/衆議院議員 鈴木善幸書/明治2年(1869)3月、函館にたてこもる旧幕府軍追討のために派遣された政府軍の軍艦「甲鉄」以下8隻が宮古港に碇泊していた。/旧幕艦「回転」は25日早朝、旗艦「甲鉄」を奪うべく侵入し、砲火をあびせ壮烈な戦いをいどんだ。これに対し政府軍は艦載機銃をもって応戦――接舷、肉迫、激闘約30分――両軍の死傷者合わせて50余名におよんだ。/この海戦は1艦をもって8艦にあたった勇敢さとともに、わが国初の洋式海戦として、日本海戦史上その名をとどめた。/明治100年を記念して、これを建てる。”

■宮古工業高等学校(みやここうぎょうこうとうがっこう)
赤前(あかまえ)第1地割81番地にある。1973年(昭和48)4月16日開校。校地の字名を横枕といった。
HP

■宮古港ケーソンヤード(みやここうけーそんやーど) → ケーソン
ケーソン(潜函・函塊)の製造場。港町(みなとまち)5番地、宮古港に面し、港の北の奥に位置する。国土交通省釜石港湾事務所の管轄で、同事務所の宮古港事務所がある。0193-62-2911。1930年(昭和5)に設置された。

■宮古高校(みやここうこう)
岩手県立宮古高等学校、略称は宮高。宮町(みやまち)2丁目1番1号、閉伊川左岸の土手沿いにある。HPの「沿革」によると、1923年(大正12)3月23日、宮古町立宮古実科高等女学校として創立された。岩手県立宮古高等学校となったのは1949年(昭和24)4月1日。普通高で定時制を併設。
HP

■宮古公証人役場(みやここうしょうにんやくば)
横町(よこまち)2番3号、横町通りの北筋にある。0193-63-4431。

■宮古港戦蹟碑(みやここうせんせきひ)
光岸地(こうがんじ)の青葉遊園・大杉神社境内にある。1869年(明治2)旧暦3月25日・新暦5月6日の宮古港海戦にかかわる石碑。1917年(大正6)3月、東屋分家の三代目菊池長右衛門が鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)にあった別邸の対鏡閣(たいきょうかく)庭園内に建立。その後、現在地に移転。高さ約2m。御影石製。漢文約600字が刻まれ、題字は、のちに連合艦隊司令長官・海軍元帥となった東郷平八郎。東郷はこの海戦に政府軍の軍艦春日の砲手として参加していた。

■宮古高等看護学院(みやここうとうかんごがくいん) → 高等看護学院

■宮古高等技術専門校(みやここうとうぎじゅつせんもんこう)
岩手県立。大字松山(まつやま)第8地割字下谷地29番地3にある。0193-62-5606。かつての名称は岩手県立宮古高等職業訓練校で、1985年4月13日に入校式が行なわれた。
HP

■宮古高等女学校(みやここうとうじょがっこう) → 女学校
岩手県立。

■宮古港防波堤(みやここうぼうはてい)
日立浜町(ひたちはまちょう)の竜神崎から南へ、途中から南東へ延びている防波堤。先端に赤灯台があり、南の出崎埠頭東端とで宮古港口をなす。山根英郎「湾頭の譜」には、“鍬ヶ崎港を護る防波堤は、竜神崎から南に二五五メートル、八年間かかって(昭和)十二年に竣工し、第二期工事ではその南端から九〇メートル延長され包容海面がひろがった”とある。宮古市史年表には1930年(昭和5)4月1日に宮古築港工事着手とあり、1937年(昭和12)5月6日に宮古港修築竣工式とある。宮古港防波堤の第1期工事はこの間におこなわれた。第2期工事の期間は不詳。なお、竜神崎から延びているため竜神崎防波堤とも呼ばれるが、宮古港防波堤から東の沖に築造中の竜神崎地区防波堤と紛らわしく注意が必要。

■宮古小橋(みやここばし)
宮古橋の左岸側・向町(むかいまち)側の旧臨港線の上に架けられた短い橋。長さ8.4m・幅9m。

■宮古座(みやこざ)
昔の劇場。旧山口川右岸の仲瀬(なかせ)、いまの中央通り南側、宮古信用金庫あたりにあったという。1890年(明治23)頃の開設か?

■宮古サーモン・ハーフマラソン大会(みやこさーもんはーふまらそんたいかい)
1987年(昭和62)11月15日に始まった。毎年、原則として11月の第2日曜に開催。スタート・ゴール地点は五月町の消防署前広場。日本陸上競技連盟公認コースでハーフマラソン21.0975qの部、10qの部、5qの部、ファミリー2qの部の4種目がある。2002年・第16回大会は11月10日、2003年・第17回大会は11月2日、2004年・第18回大会は11月14日、2005年・第19回大会は11月13日の各日曜に行なわれた。問合せ先は、宮古サーモン・ハーフマラソン実行委員会事務局、小山田2丁目1番1号・宮古市民総合体育館内、0193-62-6000。

■みやこ斎苑(みやこさいえん)
市営の火葬場。大字(おおあざ)千徳(せんとく)第14地割71番地4、閉伊川の南岸に2007年(平成19)4月1日新設。問い合わせは、市役所市民生活部生活課生活安全係(新川町2番1号・0193−62−2111内線372)まで。

■宮古サイクル商会(みやこさいくるしょうかい)
自転車販売店。西町(にしまち)2丁目2番7号にある。

■宮古鮭まつり(みやこさけまつり) →津軽石川
1月3日に津軽石川で開催される。

■宮古市(みやこし)
岩手県の太平洋に面した陸中海岸中央部にあり、本州の最東端に位置する。面積697km2、人口6万1195人・2万3139世帯(2005年5月末)。面積で下閉伊郡岩泉町に次ぎ県内2位、人口で5位の沿岸中核都市。1941年(昭16)2月11日、宮古町と山口・千徳・磯鶏(そけい)の3村が合併して市制を施行。市の花=はまぎく、木=赤松、鳥=うみねこ、1973年(昭和48)2月11日制定。市の魚=鮭、1986年(昭和61)2月11日制定。複雑に入りくんだリアス式海岸の北部は海岸段丘、南部は沈降海岸で、変化に富んだ景勝地。陸中海岸国立公園の中心となる浄土ヶ浜があり、観光都市として栄える。また沖合に親潮と黒潮のぶつかる三陸漁場を擁した漁業基地であり、木材港・国際貿易港としても重要な位置を占める。東に重茂(おもえ)半島にいだかれて宮古湾があり、西の北上山地に源を発する閉伊(へい)川と津軽石(つがるいし)川が湾に注ぐ。津軽石川は南部鼻曲がり鮭の本場として知られ、市は1987年1月5日に“サーモンランド宣言”を行なっている。2001年1月1日には“もてなし交流観光都市”を宣言。2005年6月6日(月)、下閉伊郡田老町・新里村と対等合併し、新制の宮古市となる。合併前の面積339km2、人口約5万4000人。
宮古という地名の語源には、いくつか説がある。1.横山八幡宮を祀るミヤ(宮)コ(処)の意、2.閉伊地方の文化・経済の中心地である都の意、3.海産物を移出し都物を移入して都のように栄える地の意。ちなみに、旧郷社の横山八幡宮に伝わる話では、寛弘3年(1006)に横山の神官が神歌によって阿波の鳴戸の激浪を鎮めた功績により時の天皇(一条)から都と同訓の宮古を名乗ることを許されたという。
HP

■宮古歯科医院(みやこしかいいん)
宮町(みやまち)2丁目2番34号、横山八幡宮の鳥居の前(東)にある。0193-63-4300。建物は、かつての宮古服飾生活学校の3階建てビル。

■「宮古市史」(みやこしし)
宮古市教育委員会編で「資料集」(1984年)、「年表」(1991年3月)、「民俗編」(1994年3月)などが刊行され、現在も編纂中。

■宮古市総合体育館(みやこしそうごうたいいくかん) → シーアリーナ

■宮古シティホテル(みやこしてぃほてる) → ビジネスホテル古窯

■宮古路ビール(みやこじびーる)
ミレニアムを記念した限定生産の地ビール。宮古路ビール協議会が企画し、遠野市の上閉伊酒造が500ミリリットル瓶7200本を生産。ピルスナータイプ。価格は1本500円。2000年12月30日から市内の店頭に並んだほか、市の“大世紀越えイベント”で乾杯用に使われた。ラベルは浄土ヶ浜から朝日が昇るデザイン。“日本一おいしい水道水から生まれた宮古路ビール”、“北上山地を源とする地下水は長い年月を経てたくわえられる。ミネラル豊かな水道水から生まれた2001年限定の宮古路ビール”とアピール。

■宮古市墓園(みやこしぼえん)
市営墓地。大字松山第7地割字大地田沢1番地3号にある。市中心部から南西に4qの北側に開けた丘陵地で、広さは9911.24u。2005年(平成17)10月1日開園。

■宮古市民文化会館(みやこしみんぶんかかいかん)
磯鶏沖(そけいおき)2番22号にある。かつて、この場所には磯鶏小学校があった。
HP

■宮古・下閉伊郷土芸能祭り(みやこしもへいきょうどげいのうまつり)
2月に、宮古市民文化会館大ホールで行なわれる。黒森神楽・田代神楽・南川目さんさ踊り・摂待七ツ物・蟇目鹿子踊(宮古市)、中里七ツ舞・長田剣舞(岩泉町)、大神楽・境田虎舞(山田町)、大宮神楽・甲地鹿踊(田野畑村)、御戸入(川井村)などが演じられる。

■宮古射撃場(みやこしゃげきじょう)
正式には宮古指定射撃場という。市の南部、大字津軽石(つがるいし)第13地割字大路(おおみち)364番地、津軽石川の右岸にある。0193-86-3458。

■宮古ジャズフェスティバル(みやこじゃずふぇすてぃばる)
第1回が2002年11月5日、スターライトで開催された。出演は日野皓正(tp)、峰厚介(ts)、本田竹広(p)、畠山芳幸(b)、本田珠也(ds)、宇川彩子(tap)。本田竹広は宮古出身、本田珠也はその子息。

■みやこ就業・産業支援センター(みやこしゅうぎょうさんぎょうしえんせんたー)
ジョブカフェいわて・宮古サテライト「みやこ就業・産業支援センター」。2004年11月9日、栄町3番35号のキャトル5階に開設。就業支援と産業支援を行なう。所長は宮古地方振興局企画総務部長。0193-64-3513。

■宮古准看護学院(みやこじゅんかんごがくいん) → 高等看護学院
閉校。社団法人宮古医師会立。同医師会立宮古高等看護学院と併設で、西町(にしまち)1丁目6番2号にあった。1964年(昭和39)沿岸唯一の医師会の看護教育機関として開校。修業年限2年、定員24人。国の補助金の減額などによる財政難のため2005年度から学生の募集を停止。2006年(平成18)3月に閉校。宮古下閉伊地域の医療機関を中心に約1100人の卒業生を送り出し、42年の歴史に幕を閉じた。併設の高等看護学院も2008年3月に閉校の予定。

■宮古小学校(みやこしょうがっこう)
宮小と略称される。市立。横町(よこまち)5番1号にある。1873年(明治6)8月26日、常安寺に仮校舎を置いて創立。当初の名称は宮古村第2番小学、その後、宮古小学、宮古尋常小学校と改称。1895年(明治28)8月18日、現在地に14教室の新校舎が落成し移転。1949年(昭和24)1月22日、放火により本校舎を全焼し学籍簿・教職員名簿などの資料を失う。講堂・旧校舎は残る。同年10月に新校舎建設の第1期工事終了、1950年(昭和25)9月に第2期工事終了。2階建ての第1校舎と平屋建ての第2・第3校舎が整う。旧校舎・講堂はもちろん、新校舎も木造。1954年(昭和29)11月、山田線復旧祝賀のさい、旧校舎の西側に模型の蒸気機関車が走った。敷地が一段高くなっておりプラタナスの並木があった。自動になるまえの電話番号は54番。1960年(昭和35)11月23日、“宮古小学校屋内体操場完工落成式”と宮古市史年表にある。屋内体操場はふつう体育館と呼ばれ、労音主催のコンサートなども開催された。1965年(昭和40)7月17日、プール開き。1966年5月14日、逆ピラミッド校舎(鉄筋コンクリート造)が完成。1973年(昭和48)100周年を迎える。2002年(平成14)11月、新しい体育館が完成。2005年度(平成17年度)の生徒数265人。校庭の南端には10本のポプラの大木が並び、その中ほどに1本だけ公孫樹(イチョウ)の大木があった。西側は大きな側溝が流れ、2ヶ所の出入口があった。そのうちの南の出入口脇に用水池(瓢箪池と呼ばれたか?)があり、柳の木があった。柳は暴風で折れ、池は地下水槽になった。西から北側にかけて檜葉垣に囲まれていた。北の小沢(こざわ)一帯は田圃で、西側も田圃が多かった。

■宮古商業高校前地下道(みやこしょうぎょうこうこうまえちかどう)
磯鶏(そけい)3丁目5番1号の宮古商業高等学校前にある国道45号を渡る地下歩道。壁面を利用した市民ギャラリーがある。管理は三陸国道事務所の宮古維持出張所管理係、0193-62-5077。

■宮古商業高等学校(みやこしょうぎょうこうとうがっこう)
宮商。岩手県立。磯鶏(そけい)3丁目5番1号にある。1919年(大正8)4月1日創立(同校HPより)。開校記念日は4月15日。校門の石柱は、かつての公会堂、いまの市役所前の山口川に架けられていた夫婦(めおと)橋の欄干の親柱一対を再利用したもの。もう一対は第2中学校の校門となっている。田老にある宮古北高等学校との統合が検討されていたが、反対運動が盛り上がり、2005年(平成17)1月11日に白紙撤回された。
HP

■みやこ書店(みやこしょてん)
西町(にしまち)3丁目3番9号にある。0193-63-6368。鮭の中骨の粉末を練りこんだ“おらほのクッキー”、“北のカルメン”(ラーメン)を製造・販売。

■宮古人(みやこじん)
[宮古人度を計る] 企画・原作:おこちゃん(2004.6.1)
 ⇒HP「おこちゃんのごっつお」の[ふるさと掲示板]より転載
 ⇒改訂版「あなたのなかの宮古人度チェック28項」
初案20項
1.宮古に帰ったとたんパッとちゃんとした宮古弁を話せる  □
2.正月には「くるみもーず」が欠かせない         □
3.自分のミスに何気なく「あーりいぇっ」と言ってしまう  □
4.「ほや」が大好きである                □
5.最近の「どんこ」のすかした料理に憤りを感じる     □
6.「ラサの煙突」が見えるとほっとする          □
7.「いぼパン」と聞くとぐらりとする           □
8.「おひゅうず」論戦に参加したくなる          □
9.イクラを必ず「はらこ」と呼ぶ             □
10.正月は「なめたの煮付け」がないと始まらない      □
11.今はなきサティの「ブータン」で食べたことがある    □
12.「冨士の屋のたんめん」は名物だと思う         □
13.お盆の墓参りには「花火」がつきものだと思う      □
14.流行のこってりラーメンより「たらふく」系がいい    □
15.ちょっと買い物に行くにも「町(まづ)さ行く」と言う  □
   *市街地以外の人は「宮古(みやご)さ行く」と言う
16.初参りを「元朝参り」と言ってしまう          □
17.宮古弁の敬語用法「〜だーねんす」を駆使できる     □
18.「松明かし」を花火をする日と思っている        □
19.「サーモンランド」=宮古を知っている         □
20.ドラよりも「魚菜市場」が楽しいと思う         □

■宮古信用金庫(みやこしんようきんこ)
本店は向町(むかいまち)2番46号、鍬ヶ崎支店は鍬ヶ崎上町8番13号、宮古駅前支店は末広町7番26号にある。宮古駅前支店はかつて末広町8番1号の角地、いまの“かんの書店”の場所にあり、信金のあとに黒田書店が入った。小さいが銀行らしい風格のある建物だった。

■宮古水産高等学校(みやこすいさんこうとうがっこう)
略称は水高(すいこう)。岩手県立。磯鶏(そけい)3丁目9番1号にある。校内に水産博物館がある。日本で最古の水産学校で、1895年(明治28)10月15日、宮古鍬ヶ崎組合立水産補習学校(3年制)として創立。1901年(明治34)4月1日、岩手県立水産学校となる。略称は岩水。1943年(昭和18)大字磯鶏第12地割仏沢163番地に校舎を新築して移転。1945年(昭和20)4月1日、岩手県立宮古水産学校と改称。1948年(昭和23)4月1日、学制改革により県立宮古水産高等学校となる。当初、陸中海岸地方の上級学校は水産学校だけで、漁業関係の子弟にかぎらず秀才が競って入学し、鈴木善幸元首相などの人材を輩出。駒井雅三の自伝小説「岩水時代」上下2巻が1981年(昭和56)に出ている。
HP

■宮古吹奏楽団(みやこすいそうがくだん)
社会人を中心とした楽団。1963年(昭和38)宮古市民管弦楽団の名で結成された。

■宮古製菓(みやこせいか)
有限会社。保久田(ほくだ)3番19号にある。甘みのある小ぶりの食パン、カステラをパンで挟んだ間にジャムやバターを塗ったミックスサンド、コッペパンを細長くしたようなエーヨーパン、学校給食のパンなどを製造。1940年頃に創業。2011年(平成23)3月いっぱいで廃業の予定。

■宮古線(みやこせん)
国鉄宮古線。宮古〜田老12.8kmを結んで1972年2月27日に開通。宮古駅〜一ノ渡駅〜佐羽根駅〜田老駅と北上する。途中、長根・猿峠・一ノ渡など長いトンネルがある。1984年4月1日、三陸鉄道に転換し、北リアス線となる。

■宮古層群(みやこそうぐん)
宮古層、宮古統とも。下閉伊郡田野畑村・岩泉町茂師(もし)、宮古市など岩手県北部沿岸に見られる白亜紀の地層。白亜紀は中生代の最後の紀で、1億4300万年前から6500万年前までの約7800万年間をさす。宮古層群はアンモナイトをはじめ三角貝、巻貝、サンゴ類、有孔虫などの化石を多く包蔵し、示準化石の産地として地質学的に貴重。岩泉町茂師からは日本で最初に恐竜の化石が発見され、モシリュウと名づけられた。

■宮古測候所(みやこそっこうじょ) → 測候所

■宮古第一中学校(みやこだいいちちゅうがっこう) → 第一中学校

■宮古第一病院(みやこだいいちびょういん) → 加藤病院

■宮古第二中学校(みやこだいにちゅうがっこう) → 第二中学校

■宮古タクシー(みやこたくしー)
2009年(平成21)7月31日、廃業。大通(おおどおり)3丁目6番50号、山田屋旅館と佐々由魚店の間にあった。

■宮古短期大学(みやこたんきだいがく) → 岩手県立大学宮古短期大学部
岩手県立大学宮古短期大学部が正式名称。河南(かなん)1丁目5番1号。1990年(平成2)4月創立。
HP

■宮古地区広域行政組合(みやこちくこういきぎょうせいくみあい)
千徳(せんとく)第14地割字木戸井内(きどいない)121番5号にある。宮古市・山田町・岩泉町・田野畑村・川井村が共同事務を行なうための組織。屎尿の共同処理を目的に1969年(昭和44)5月に陸中衛生処理組合として発足。1987年(昭和62)7月に宮古下閉伊食肉処理組合、岩泉町・田野畑村伝染病隔離病舎組合、宮古地区広域市町村圏協議会、宮古地域広域消防組合を統合して宮古地区広域行政組合となる。当時の宮古地区は宮古市・田老町・山田町・岩泉町・田野畑村・新里村・川井村。宮古市・田老町・新里村の合併で1市2町2村の構成となり、宮古地区の振興・整備、一般廃棄物・屎尿の処理、消防事務などを行なう。

■宮古地方振興局(みやこちほうしんこうきょく)
県の機関。五月町(さつきちょう)1番20号の合同庁舎内にある。

■宮古夏祭り(みやこなつまつり)
表記は“みやこ夏まつり”とも。7月の最終土曜・日曜日に行なわれる。1968年(昭和43)から、それまで個別に行なわれていた花火大会・大杉神社例大祭をひとつにまとめた。花火大会は1997年(平成9)に鍬ヶ崎の出崎埠頭沖合いの船上から打ち上げる海上花火大会となる。曳き船の乗船を募るほか、サーモンダンス・パレード、商店街イベント、フライ旗の飾り付けなどが行なわれる。宮古夏祭り協賛会(宮古商工会議所内)の主催。

■宮古西中学校(みやこにしちゅうがっこう) → 千徳中学校
市立。西ヶ丘2丁目1番1号にある。旧千徳中学校を母体とする。1984年(昭和59)10月14日、板屋3丁目11番1号(いまの宮古アビリティーセンターの位置)にあった千徳中学校が西ヶ丘に移転。翌1985年(昭和60)4月1日、宮古市立宮古西中学校と改称。新校歌を制定。

■みやごのごっつお
閉鎖。ウェブサイトで宮古出身者のおこちゃんときっちゃんが製作・運営。

■宮古の塩(みやこのしお)
製品名。重茂(おもえ)半島沖の海洋深層水から作られた自然海塩。宮町(みやまち)の大坂建設が製造・販売している。

■宮古の年表・歴史(みやこのねんぴょうれきし)
宮古大事典

■宮古バーガー(みやこばーがー)
2007年(平成19)3月24日・25日の“浄土ヶ浜 春の感謝祭”に際して宮古観光協会が開発し、浄土ヶ浜レストハウスで販売された。鮭のミンチのハンバーグ、剣山をイメージしたぎざぎざ型のパン、白い岩に立つ一本松を模してパセリが添えられる。パンは市内の授産施設かるとかーる製。ソースに宮古産シイタケと新里産リンゴを使用。鮭は田老産。ボリュームがあり、300円。一日30個限定。今後も各種のイベントで売り出す予定。

■宮古橋(みやこばし)
*閉伊川(へいがわ)下流部に架かる全長195.6m・鉄筋コンクリート製の橋。左岸の向町(むかいまち)新川町(しんかわちょう)境と右岸の藤原(ふじわら)とを結び、藤原1丁目で国道45号につながる。旧名を新晴橋(しんせいばし)といい、木造で明治初期に架設。宮古市史年表には1889年(明治22)1月20日新晴橋落成式。渡り初め北山清兵衛夫妻(岩日)、1892年(明治25)5月24日落成、県費で架け替え工費3694円とある。1896年(明治29)6月15日の三陸大津波で中央部が破壊され流失。1910年(明治43)8月と1913年(大正2)8月の大洪水で流失。1918年(大正7)につくられた新宮古八景に“宮古橋夕照 早池峰添えて行かふ人みへてみやこのはしの夕栄えにけり”とある。1933年(昭和8)3月3日の三陸大津波で流され、翌1934年11月25日に鉄筋コンクリート製・全長195.6mの宮古橋が開通した。工費16万円。歩道部は1965年(昭和40)に増設され、幅は両側各1.5m。車道部は1987年(昭和62)に改修、幅6m。国道45号が通っていたが、1975年(昭和50)下流かたわらに完成した宮古大橋に切り替えられた。2009年(平成21)4月に大がかりな改修工事に取り掛かったが、予定されていた2011年6月竣工前の同年3月11日に東日本大震災で被災。本来の改修と津波による補修工事を終えて12年4月1日に開通。

■宮古八景(みやこはっけい) → 新宮古八景
1771年(明和8)村井勘兵衛住顕という盛岡鍛冶町の歌人が宮古を訪れ、宮古の文人たちと歓談したさい、近江八景にあやかって宮古八景をつくったという。
1 横山秋月  秋の夜のひかりはおくの宮古にもめぐみ隔てぬよこやまの月
2 常安晩鐘  津くつくと思ゑば常に安くやはすむ山寺の入相の鐘
3 藤原夕照  藤原の松の葉ごしにわたるかと見えて浪間に夕日かがやく
4 黒田落雁  先おりて友やまつらんおくるともくろたの面にいそぐかりがね
5 黒崎帰帆  ときおそく漕ぎ行く舟もかえるさはつらなり見ゆる黒崎のうち
6 鍬ヶ崎夜雨 うねうねの浪やそうらん鍬ヶ崎ふる萱ぶきの雨のよすがら
7 臼木青嵐  吹払ふあらしにつれて臼木山みねよりおちにける白き雲
8 黒森暮雪  立ちならぶ木のもとくらき夕ぐれもゆきにさやけき黒森の山
秋の月光に浮かぶ横山八幡宮の森、宮古山常安寺の安らかな晩鐘の響き、松原に沈む夕陽に映える藤原の海、一面の黒田の田んぼと雁、黒崎(閉伊崎)から宮古浦を帰る舟のつらなり、鍬ヶ崎の萱葺きに降る夜の雨、臼木山の木々の緑を揺らして吹き荒れる風と白雲、夕暮れの雪にさえわたる黒森山影が、それぞれ歌われている。

■宮古バッティングセンター(みやこばってぃんぐせんたー)
宮町(みやまち)4丁目3番40号にある。南がわのレストラン・ロートレックと経営者は同じ。

■みやこビール(みやこびーる)
みやこBeer。2007年(平成19)浄土ヶ浜マリンハウスに置かれてあり、浄土ヶ浜の写真を使ったラベル、という以外の詳細は不明。

■宮古ビジターセンター(みやこびじたーせんたー)
休暇村陸中宮古(崎鍬ヶ崎第18地割25番地3)に隣接。陸中海岸の自然などを学ぶ施設として環境庁が1975年(昭和50)4月に設置、1992年(平成4)4月に改装。2008年(平成20)浄土ヶ浜に移転予定。

■宮古病院(みやこびょういん)
岩手県立。崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)第1地割11番地26にある。総合病院で、内科・精神科・神経内科・呼吸器科・消化器科・循環器科・小児科・外科・整形外科・形成外科・脳神経外科・心臓血管外科・皮膚科・泌尿器科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・放射線科・麻酔科がある。かつては宮古駅前交差点そばの栄町(さかえちょう)1番にあった。鉄筋コンクリート3階建て。東隣りは駅前交番、西隣りにガソリンスタンドやセキカワ食品(関川商店)、南向かいに吉田商店・宮古保健所などがあった。1992年(平成4)6月1日、現在地に移転。永いあいだ空き地になっていた栄町の跡地に2006年(平成18)11月6日、宮古郵便局が移転・開業。

■宮古服飾生活学校 → 服飾学校

■宮古ブランド(みやこぶらんど) → 名産

■宮古プリント(みやこぷりんと)
印刷所。宮町(みやまち)1丁目4番33号にある。0193-62-2453。

■宮古弁(みやこべん)
みちのく太平洋沿岸の、みやびな方言。北上山地を隔てた内陸の盛岡弁などとは大きく異なる。また同じ宮古といっても、浜言葉・山言葉、町言葉など、それぞれ微妙に違っていて聞き取れないことがある。ときにズーズー弁などと称されもするが、抑揚・響きはむしろフランス弁に近いといわれる。ネット上にある宮古弁辞典をいくつか掲げる。覗いてみれば宮古弁に酔うことは間違いない。
⇒ みやこわが町:宮古弁辞典(消滅)
  みやこわが町の宮古弁方言辞典に載っていない宮古弁
  宮古弁実用会話集
  宮古弁小辞典

■宮古弁カルタ(みやこべんかるた)
@「みやご弁ほぼいろはカルタ2007」。ウエッブサイト「みやごのごっつお」の掲示板参加者が企画・協力して生まれた。絵札のイラストは海猫屋さん、けむぼーさんが描き、読み札の文句は掲示板参加者が考案。2006年(平成18)12月27日、ダウンロード版を海猫屋さんが作成。2007年(平成19)7月27日、「宮古弁カルタをつぐっぺす」基金により基金版が完成。箱入り・500部(花坂印刷)。基金参加者に配布するとともに、残部を一般向けに販売。購入希望の声が多く、普及用に増刷を重ねる。
A「宮古弁百人一緒かるた」。2007年(平成19)宮古弁伝承事業として中央公民館が読み札を市民から募集。2008年(平成20)2月に絵札を添えて完成。

■宮古保育園(みやこほいくえん)
保久田(ほくだ)1番5号、旧山口川の北岸にある。昔は児童館で、1960年代の初め頃には園庭の北東角に大きな檻があり、熊が飼われていた。

■みやこボウル(みやこぼうる)
かつて宮町(みやまち)にあったボウリング場。

■宮古ホテル沢田屋(みやこほてるさわだや) → 沢田屋

■みやこ米(みやこまい) → どんぴしゃり
宮古米。

■宮古民宿協会(みやこみんしゅくきょうかい)
所在地は不明。市内の民宿情報を載せたHPを運営。

■宮古民宿予約センター(みやこみんしゅくよやくせんたー)
JR山田線宮古駅の観光案内所にある。0193-62-3574。

■宮古民友(みやこみんゆう)
月2回刊(15日・25日付)の新聞。八木沢(やぎさわ)3丁目6番3号にある宮古民友社が発行。0193-63-5919。発行人は鳥居弘、1974年(昭和49)7月1日創刊、同年10月28日第三種郵便物認可。

■宮古木曜会合唱団(みやこもくようかいがっしょうだん) → 木曜会

■宮古焼(みやこやき)
陶芸家・松舘善行が創始。松舘陶房は黒森町7番15号にある。第30回日本現代工芸美術展に入賞。

■宮古ヤクルト販売(みやこやくるとはんばい)
上鼻(かんばな)2丁目1番5号にある。

■宮古郵便局(みやこゆうびんきょく) → 郵便局
支局も「郵便局」の項を参照。

■宮古幼稚園(みやこようちえん)
廃園。大通(おおどおり)1丁目4番5号にある日本キリスト教団宮古教会に併設されていた私立幼稚園。伝道師の菅井嘉七が1929年(昭和4)に創立。廃園時期不詳。

■宮古ラーメン(みやこらーめん)
@製品名。ハニー食品の半生インスタント麺パック。昆布・煮干で出汁をとったあっさり味で、コクはラードで出している。しなちく、チャーシュー入り。賞味期限は冷蔵庫で15日間。1人前330円。ハニー食品の所在地は西町(にしまち)3丁目2番30号。A小笠原製麺所の製造・販売する磯ラーメンなどの半生パック製品も宮古ラーメンの範疇に入る。Bあんばいや(安倍屋)、たらふくなど宮古市内の中華蕎麦屋・一般食堂で食べられる煮干し・昆布で出汁をとったラーメンの総称。

■宮古流星海(みやこりゅうせいかい)
YOSAKOI(よさこい)ソーラン石狩流星海岩手支部。会員120人。2002年(平成14)2月22日創立。毎年6月の札幌市を中心にしたYOSAKOIソーラン祭り、7月末の宮古夏まつりなどに参加。

■みやこ旅館(みやこりょかん)
大通(おおどおり)4丁目4番37号、末広町の一本南側の裏通りにある。0193-62-2795。かつてここには山崎医院があった。

■「みやこわが町」(みやこわがまち)
*月刊のタウン誌。編集・発行はタウン情報社、松山5−13−6。1977年(昭和52)5月、陸中タイムス社よりB5判変形サイズ(横185×縦170mm)で創刊。1985年(昭和60)創始者の駒井雅三が死去。同年タウン情報社を創立し、B5判化。1990年(平成2)全国タウン誌フェスティバル奨励賞、1994年(平成6)同地域コミュニケーション賞などを受賞。2011年(平成23)3月号発行直後の3月11日に東日本大震災が勃発。4月、大震災特別号1を発行。2012年3月29日発行の4月号で第400号を達成。
HP

■宮古湾(みやこわん) → 宮古港
岩手県の東岸、太平洋に面した中央部に位置する湾で、湾内に宮古港がある。重茂(おもえ)半島の閉伊崎北端と北の姉ヶ埼東端を結ぶ線および陸岸によって囲まれた海域。湾口幅4.8q、面積24.1平方q、湾内最大水深76m、湾口最大水深76m。西から閉伊川が湾中央部に、南から津軽石川が湾奥に流れ込む。湾内では若布・昆布・帆立・牡蠣などの養殖が行なわれる。沖合いは黒潮と親潮がぶつかる有数の漁場で、沿岸部では鮭などの定置網、雲丹・鮑などの磯漁業が行なわれる。重要港湾として県内陸部への物流基地となり、とくに木材の輸入が多い。

■宮古湾横断遠泳大会(みやこわんおうだんえんえいたいかい)
重茂(おもえ)半島の白浜から対岸の神林(かんばやし)にあるリアスハーバー宮古まで1.3qを横断する。主催はNPO法人いわてマリンフィールド。0193-64-1160。1999年(平成11)から毎年夏季に開催。2007年(平成19)8月19日・第9回の参加者は体の不自由な3人を含め県内外から過去最高の66人。完泳58人。優勝タイム21分10秒。

■宮古湾温泉マース(みやこわんおんせんまーす)
大字金浜(かねはま)第6地割字古川21番60号、国道45号沿線にある。0193-64-1126。宮古市唯一の温泉として、2004年12月11日に開業。

■宮古湾カッターレース(みやこわんかったーれーす)
例年、第3日曜日(“海の日”の前日)、宮古市魚市場前の宮古港を会場にして開催される。正確にいえば宮古湾ではなく宮古港カッターレースになる。第1回は1979年(昭和54)。カッターボートは大型客船などに備えられる救命艇。艇の全長9m。オールの長さ4.3m・重さ8s。レースは左右の漕ぎ手12人と艇長・艇指揮の計14人が乗り組み、往復600mのコースでタイムを競う。宮古水産高等学校・宮古海上技術学校・宮古海上保安署・宮古警察署・宮古市役所・県宮古地方振興局など毎年15チームほどが参加。主催は宮古湾カッターレース実行委員会事務局(財団法人宮古市体育協会内)0193-62-6000。

■宮古湾漁連造船工場(みやこわんぎょれんぞうせんこうじょう)
港町(みなとまち)5番2号にある。

■みやさと奏(みやさと・かな)
*宮古出身の女性歌手。本名は盛合奏恵(かなえ)。1992年(平成4)10月1日生まれ。岩手県立宮古水産高等学校3年に在学中の2010年(平成22)4月、「第12回みちのく歌謡祭」でグランプリを獲得して東北一に。同年7月、「日本カラオケスタジオ大賞全国大会」に岩手県代表として出場し優勝、日本一に。翌2011年(平成23)1月9日、高校生歌手・愛かなえとして「名も無い花のように」で、みちのくレコードからインディーズデビュー。その直後、3月11日の東日本大震災に被災し芸能活動を中断。翌2012年5月2日、みやさと奏と芸名を改め、「風港(かぜみなと)」で徳間ジャパンからメジャーデビューを果たした。

■宮沢賢治(みやざわ・けんじ)
1896年(明治29)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村川口町303番地、いまの花巻市豊沢町に生まれる。1917年(大正6)7月26日、21歳のときに花巻の有志による東海岸視察団に加わって宮古を訪れ、浄土ヶ浜で短歌を詠んでいる。“うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ” この歌は1996年(平成8)8月27日、生誕100年を記念して碑に刻まれ、浄土ヶ浜に建立された。

■宮小(みやしょう) → 宮古小学校

■宮商(みやしょう) → 宮古商業高等学校

■宮園(みやぞの)
市の北部。山口5丁目と大字山口に囲まれた地区。宮園団地があり、地下を三陸鉄道北リアス線の猿峠トンネルが通る。

■宮田醤油(みやたしょうゆ)
宮古でよく使われる醤油のひとつ。本社は盛岡市城西町13-13、宮古営業所が港町2番27号にある。0193-62-1811。
HP

■宮町(みやちょう) → 宮町(みやまち)

■宮錦(みやにしき)
力士。最高位は小結。四股名は初め早池峯。宮錦の名は宮古にちなむ。本名は野沢浩。1927年(昭和2)5月30日、鍬ヶ崎の米・酒商の家に生まれる。海軍軍人を志望していたが、山根町の有力者が東京見物に連れ出して芝田山(一関出身)部屋へ入門させたという。身長171cm・体重119kg。得意技は左四つ・寄り。1942年(昭和17)1月、初土俵。1952年(昭和27)春場所新入幕。1955年(昭和30)1月、小結に昇進。最終土俵は1959年(昭和34)7月九州場所。幕内28場所の通算成績は192勝228敗。年寄芝田山を襲名して審判委員・指導普及部委員などをつとめ、1992年(平成4)5月29日に停年退職。同年7月6日、心不全のため横浜市の病院で死去、享年65。

■宮ビル(みやびる)
フードパワーセンターMiyabiru(ミヤビル)とも表記。栄町(さかえちょう)3番35号の複合商業施設キャトル宮古の1階にある。0193-63-5111。かつて和見町(わみまち)1番1号、宮古駅前通りと第二幹線とが交差する北西角地にあった。この建物には第一映画劇場(宮古東映)という映画館があった。そのあとに長崎屋が入り、宮ビル食品館のあと、2006年(平成18)3月から4月にかけて解体された。

■宮町(みやまち)
横山八幡宮の周囲に広がる町並み。1〜4丁目がある。1〜2丁目は古い町並みで八幡前と呼ばれた。1965年(昭和40)宮町1丁目・2丁目の住居表示を実施。1971年(昭和46)山口川を挟んで西に3丁目・4丁目を設定。南に土手を挟んで閉伊川が流れる。横山八幡宮の裏(西)で北から流れてきた山口川が閉伊川に注ぐ。近内(ちかない)川が西から4丁目・3丁目の南を流れ、山口川流入口のすぐ上流で閉伊川に注ぐ。市立第一中学校、岩手県立宮古高等学校、宮古カトリック教会と附属の小百合幼稚園、宮古駅・宮古機関区、簡易裁判所、検察庁宮古支部、市立図書館、勤労青少年ホーム、青少年体育センター、青果市場などがある。国道106号(バイパス)が東西に通る。閉伊川右岸の小山田に渡る小山田橋が架かる。宮町の読みは平凡社の日本歴史地名大系3「岩手県の地名」で“みやまち”、角川日本地名大辞典では“みやちょう”となっているが、地元の呼び方に従って“みやまち”と読む。

■みやまん食堂(みやまんしょくどう)
廃業。大通(おおどおり)3丁目1番28号、旧第二常盤座の通りが大通に突き当たったところにあった。店頭で宮古饅頭を焼いて売った。同じ建物の2階にはディスコのワークがあった。

■妙応院(みょうおういん)
磯鶏沖(そけいおき)10番20号にある。表記は妙應院としている。

■妙盛寺(みょうせいじ)
大字津軽石(つがるいし)第9地割12番地にある。

■三好食堂(みよししょくどう)
大通(おおどおり)3丁目6番5号あたり、八幡沖踏切へつづく道沿い西側にあった。濃い味の醤油ラーメンが記憶に残る。夏はカキ氷をよく食べた。

■民宿(みんしゅく) → 宮古民宿協会

■ミントン・ハウス(Minton House)
かつて存在したジャズ喫茶。表で金魚屋を兼営。築地1丁目1番42号、市役所の右斜向かいにあった。Kマスターと福島出身の奥さんがやっていた。1973年(昭和48)開店という説があるが、1971年頃ではなかったか? 閉店時期も不明。


▽む
                              ホームへホームへ

■向町(むかいまち)
中央通りを挟んで北の本町(もとまち)と新町(あらまち)の向かいにある一画。中央通りに面して宮古信用金庫がある。西に大通(おおどおり)1丁目〜2丁目・南町、東に新川町(しんかわちょう)がある。南は土手を挟んで閉伊川に接し、JR山田線が通る。山田線の鉄橋が閉伊川右岸の藤原(ふじわら)・藤原上町へ架かる。並行して下流に宮古橋が架かる。宮古橋のたもとに市保健センター休日急患診療所がある。

■麦の会(むぎのかい)
劇研麦の会。1948年(昭和23)に田中茂(1919〜1988)ら宮古の演劇好きの青年たちが創設したアマチュア劇団。踏み固めれば固めるほど大地に根ざす麦を会の名とした。海をテーマに漁業や人びとの生活などを創作劇で演じる。全国青年大会で最優秀賞を3度受賞、海外公演を行なうなど、その活動は全国的に注目される。2005年(平成17)現在、会長田代鉄男、団員約40人、年1回の定期公演を開く。事務局0193-62-4586。創設以来、中心になって劇団をひきいてきた脚本・演出家の田中茂の代表作「海の季節」は、昭和30年代の漁師町を舞台にした長篇劇。プロの「劇団仲間」のために書かれ、東京の俳優座劇場で上演された。水産学校を出た北洋鮭鱒漁船の青年船長三郎が船主に反発して船長をはずされ地元を離れるという展開のなか、離れ離れになる恋人や漁業にたずさわる人間どうしのしがらみを描く。3幕6場。1989年(昭和64・平成1)以来の上演が2005年11月27日に宮古市民文化会館で行なわれた。

■むつみや
ママの店むつみや。衣料品店。末広町(すえひろちょう)7番35号にある。四辻の南西角地で、細道を挟んで旧服部時計店、末広通りを挟んで向かいが大越電気。かつて、むつみやの位置に松田製靴店があった。

■武藤ガラス店(むとうがらすてん)
黒田町(くろたまち)3番17号、第二幹線の南筋で菅田いか煎餅店の向かって左隣りにある。0193-62-4524。

■村田材木屋(むらたざいもくや)
大通(おおどおり)2丁目にあった。正式の屋号かどうかは不詳。


▽め
                              ホームへホームへ

■名産(めいさん)
[水産] 鮭、新巻(荒巻)、腹子(はらこ)、筋子(すじこ・すずこ)、秋刀魚、どんこ、海鞘(ほや)、若布、昆布、松藻、布海苔、烏賊、烏賊の塩辛、烏賊徳利、雲丹・焼き雲丹・塩雲丹、いちご煮、各種の干物・燻製・練り物
[農産] 松茸、椎茸、山菜
[加工食品] さけの中骨水煮缶詰、千両男山(地酒)、宮古ラーメン、雲丹麺、玄米雑穀椎茸ぞうすい、カリー亭のレトルトカレー
[菓子] 菅田のいか煎餅、阿部のいか最中、ひゅうず、田老かりんとう、山田煎餅
[その他] 鮭革細工、みちのく窯の地蔵、宮古弁カルタ、月刊タウン誌「みやこわが町」

■明治生命(めいじせいめい)
明治安田生命保険相互会社盛岡支社宮古営業所。本町(もとまち)1番39号、中央通りの北筋にある。0193-62-3219。向かって右隣りには山田屋陶器店があったが閉店。

■明治屋(めいじや)
贈答品の店。新町(あらまち)2番33号、新町通りの西筋にある。0193-62-2208。向かって右隣りは田村製あん所。

■目黒のさんま祭り(めぐろのさんままつり)
東京・品川区の目黒駅前商店街(目黒通り)で毎年9月に開催。主催は目黒駅前商店街振興組合青年部・通称め組。宮古市は1999年(平成11)9月15日の第4回から秋刀魚を無償提供している。前日に魚市場に水揚げされた秋刀魚5000匹をトラックで直送、炭火で塩焼きして無料でふるまう。徳島県神山町のスダチ(1万個)と栃木県黒磯市高林の大根おろし付き。この祭りが縁で2000年(平成12)にスダチ生産日本一の神山町と友好都市となった。
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■布の子(めのこ)
メノゴとも。ホソメコンブのこと。また昆布を細く刻んだもの、昆布を乾燥させて細かく砕いたものをいう。刻んだり乾燥後に砕いた昆布を稗(ひえ)や麦、米などと混ぜて炊いた糅て飯(かてめし)を、布の子飯(めのこめし)という。宮古の歌人駒井雅三は1945年(昭和20)敗戦直後にこう詠んでいる。
 めのこ刻み山菜をまぜ飯を炊き するめぽうぽう煮て ともに食ぶ
 母も妻もめのこ昆布を刻みつぎ 食糧難をきり抜けんとす

■メフン(めふん)
女奮の字をあてることもある。雄鮭の中骨(背骨)の下にある腎臓。アイヌ語で腎臓を意味するメフルに由来する。黒っぽい血合い色を呈し、鉄分やビタミンB12に富む。スプーンなどでこそげとって塩辛や醤油漬けにし、発酵食品として長期保存ができる。口に含むと独特のとろみがあり、珍味中の珍味として知られる。温かいご飯に載せたり、酒の肴にいい。


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■茂市(もいち)
2005年(平成17)6月6日、宮古市・田老町(たろうちょう)と対等合併して宮古市となった新里(にいさと)村の大字。新里地区の中心地。JR山田線・岩泉線の乗換駅の茂市駅、新里総合事務所(旧村役場)、民俗資料館、新里生涯学習センター玄翁館(げんのうかん)、ふるさと物産センター、湯ったり館、閉伊川オートキャンプ場、駐在所などがある。郷土芸能として茂市鹿子(しし)踊りが伝承される。

■茂市久美子(もいち・くみこ)
童話作家。1951年(昭和26)4月29日、下閉伊郡新里村(にいさとむら)茂市(現・宮古市)の旅館業を営む家に生まれる。1970年(昭和45)岩手県立宮古高等学校を卒業。1974年(昭和49)実践女子大学(東京都日野市)の文学部英文学科を卒業。在学中から作家の那須辰造に師事。童話誌「童」同人。1992年(平成4)JR岩泉線を舞台に女の子(子ギツネ?)と車掌との触れあいを描いた「おちばおちばとんでいけ」(1991年・国土社)で第3回ひろすけ童話賞を受賞。ひろすけ童話賞は「日本のアンデルセン」ともいわれる浜田廣介の業績を讃えて1989年(平成1年)に創設された。新里地区に隣接する下閉伊郡岩泉町の熊のミイラの実話をもとにした「クマのたんす」ほか、「あなぐまモンタン」シリーズ(学研)、「つるばら村」シリーズ(講談社)など、生まれ育った山村を舞台に多くの童話を書く。夫は山岳写真家の藤田弘基。生涯学習センター玄翁館(げんのうかん、茂市第5地割2番地・0193-72-2019)に茂市久美子の童話コーナーや藤田山岳写真ホールがある。

■茂市中学校(もいちちゅうがっこう)
閉校。茂市第5地割2番地にあった。2003年(平成15)春、当時の新里(にいさと)村立刈屋中学校・蟇目中学校と合併して新里中学校となる。跡地は新里生涯学習センター玄翁館(げんのうかん)となった。

■茂市屋旅館(もいちやりょかん)
閉館。茂市第3地割211−1、JR山田線・岩泉線の茂市駅前にあった。閉館は2009年頃か?

■木曜会(もくようかい)
正式には宮古木曜会合唱団。アマチュアの混声合唱団。1963年(昭和38)に宮古混声合唱団と愛唱会はまなすが合併して発足。現団長川原田隆司、指揮者佐藤文子。
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■茂七屋(もしちや)
かつてあった旅館。いまの新町(あらまち)4番6号、黒田通りと第2幹線が交わる北東角地に、1990年(明治33)ごろ創業。廃業時期不明。主人は獣医で、あたりで開かれていた馬市に馬を売りにくる馬屋や買いにくる軍人などを主に客としたという。

■モシリュウ
茂師竜。1978年(昭和53)8月、下閉伊郡岩泉町茂師(もし)から日本で初めて発見された恐竜の化石。1億1000年あまり前の宮古層群という中生代白亜紀の地層から採集された化石は、長さ53p・幅20p。アジア最大の恐竜マメンチザウルスの上腕骨とされる。体長22mにおよぶ竜脚類の草食恐竜で、首が長く、体長の半分を占める。レプリカが岩手県立博物館、実物は国立博物館に収蔵される。岩手は古い地層が広大に分布している日本一の県で、今後も大型恐竜の化石が発見される可能性が大きい。

■モスバーガー宮古店(もすばーがーみやこてん)
ハンバーガーのファストフード店。末広町(すえひろちょう)8番14号、宮古駅前通り交差点から北の東筋にある。0193-63-8399。1981年(昭和56)7月開店。東北で4店目、岩手県内で最初にできた支店といわれる。

■もてなし隊(もてなしたい)
宮古もてなし隊。ボランティアの観光ガイド。宮古市は2001年1月1日に“もてなし交流観光都市”を宣言、この宣言の精神に基づいて行なわれる市民活動の一環。宮古観光協会が10人を募集して2003年に結成。名所旧跡の現地研修や観光案内の知識・対応などの研修を受け、本格的な観光ボランティアを目指す。活動期間は7月半ばから11月までの土曜・日曜・祝日。宮古駅と浄土ヶ浜の2ヵ所で、“宮古もてなし隊”のロゴ入りポロシャツ、スタッフジャンパーを着て2人一組で活動する。

■本町(もとまち)
市街地の北東部にある古い町並み。西を通称本町通りを挟んで新町(あらまち)に、南を中央通りを挟んで向町(むかいまち)・新川町(しんかわちょう)に接し、東に築地(つきじ)、北に沢田(さわだ)地区がつづく。横町の通りにつづく旧閉伊街道筋で、呉服屋や旧酒屋など老舗、瀬戸物屋・家具屋・書店・旅館などが並ぶ。沢田にある常安寺の門前に仏具屋・石材店などが並び、後背の山に判官稲荷神社がある。新川町の市役所前に歩道橋を挟んで市役所分庁舎が建つ。

■モナカ屋(もなかや) → いか最中

■藻場(もば)
宮古湾の南奥、赤前(あかまえ)地区の海中に海藻が繁茂している場所。潮が引いたときに現れる干潟とあわせ、魚にとって十分な栄養がある棲みやすい環境で、貴重な産卵の場、稚魚が育つ場になっている。鮭の稚魚は津軽石川を下り、ここで一回り大きく成長して外洋に旅立つ。宮古栽培漁業センターで20年ほど前から放流している鰊(にしん)は、北海道沖まで回遊したのち、ここに戻って産卵する。

■モミの木(もみのき)
1967年12月4日、黒森山が岩手県文化財専門委員会と宮古市教育委員会の調査によってモミの木の北限と確認される。

■もめんや
手芸店。大通4丁目1番5号にある。0193-62-0071。

■百瀬寿(ももせ・ひさし)
もと宮古高校美術教師。芸術家、岩手県美術選奨選考会委員。1945年(昭和20)札幌に生まれる。岩手大学専攻科を修了。約12年間県立高校の美術教諭を務め、国内外の美術展に出品。サンフランシスコ近代美術館の第2回世界版画展エディション買上賞、第12回日仏現代美術展大賞などを受賞。現在おもに紙や金属の箔でグラデーションを作りだす手法で平面作品を制作。2006年(平成18)文化庁が長年にわたり地域の文化振興に貢献した個人・団体を表彰する地域文化功労者に選出。盛岡市肴町に在住し、岩手を第二の故郷とする。

■盛合医院(もりあいいいん)
中央通りの南筋、向町(むかいまち)2番41号から43号あたりにあった。いまも健康堂薬局とササソウ電気のあいだに大きな門柱が残る。1924年(大正13)、盛合綏之(やすゆき)が開業。盛合綏之は1871年(明治4)津軽石村に生まれた陸軍軍医。日清・日露戦争に従軍し、私立宮古病院・盛合医院などを開業した。

■盛合家住宅主屋(もりあいけじゅうたくしゅおく)
国の登録有形文化財(建造物)。津軽石(つがるいし)第4地割字大森18にある。2010年(平成22)現在、盛合家の当主は第33代。古くから酒造・鮭川瀬主・質屋・廻船業を営み、千石船虎一丸・明神丸を仕立て江戸交易を行なった。1696年(元禄9)から1702年(元禄15)までの「日記書留帳」が残る。270年前に建てられたという屋敷は延べ面積456u、木造平屋建て、切妻造り鉄板葺き屋根、束石(つかいし)で柱を立てた石場建て。商家造りの常居(じょい)など4部屋と武家造りの御座敷(おんざしき)など6部屋から成る。御座敷(客室)親々堂は1797年(寛政9)8月28日に盛岡藩主南部利敬(としたか)が閉伊巡視のさいに、また日本初の実測図「大日本沿海輿地全図」を作るために全国を測量していた伊能忠敬が1801年(享和1)9月29日から10月1日まで泊まった。小説「寄生木」は1895年(明治28)当時のこととしてこう描く。“津軽石小学校の隣に、黒塀で囲うた粉壁(しらかべ)の幾棟となく立ちならぶ大邸がある。村人に落合様のお邸と云われて、大酒造家兼大地主で、実に閉伊郡中第一の素封家(ものもち)である。当主落合庫七氏の先代は、良平が父の相識(しりあい)で、書籍の貸借などした間、と祖母に聞いた。…中略… 巌丈な普請、広大の室内(まうち)、その側には幾十石入りの酒桶幾個(いくつ)となく立並び、幾人の若者下男が「えんやらさ、えんやらさ」と掛声して働くさまを見聞きして云々”。2007年(平成19)10月、国の登録有形文化財(建造物)に指定。

■盛合聰(もりあい・さとし)
県会議員・詩人・作家。1920年(大正9)津軽石村に生まれる。詩集「午後の独楽」、評伝「啄木と小国露堂」(1990年・熊谷印刷出版部)、エッセイ集「鬼の提灯」(1993年・熊谷印刷出版部)そのほかがある。1993年(平成5)8月5日、肺癌のため死去、享年74。

■盛合燃料店(もりあいねんりょうてん)
有限会社。新町(あらまち)1番17号にある。0193-62-4308。

■盛宮自動車(もりみやじどうしゃ)
東北初の自動車運行会社。社長は宮古の菊池長右衛門。1912年(明治45)6月、東北で初めて自動車の試運転を盛岡―宮古で行なう。1913年(大正2)6月、バス(16人乗り)2台・トラック2台で営業を開始。新町(あらまち)に発着所をおき、盛岡まで6時間でつないだ。1914年(大正3)7月、門馬(かどま)村でバスが事故を起こして新渡戸稲造らが負傷、東北初の自動車事故として知られる。国鉄山田線宮古駅の開業(1934年11月)まで重要な交通機関としての役割を担った。

■もりもり
焼肉・ホルモンの店。大通(おおどおり)3丁目1番31号にある。0193-64-4646。冷麺がうまいという。


宮古大事典
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