*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  

          未分類         Jin 編著

                           岩手県宮古市の事典

                       50音順 黄色の文字はリンク

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■アイオン台風(あいおんたいふう)
1948年(昭和23)9月15日から17日に襲来。宮古市の被害は死者92・負傷者172・流失家屋171。藤原地区の被害が大きく、藤原観音堂に水難者89名を弔う供養塔が建てられた。宮古橋の藤原岸南たもとに宮古市藤原水害復興期成同盟会によるアイオン颱風災害復旧工事紀念碑が建ち、1949年(昭和24)6月竣工と刻まれている。国鉄山田線も寸断され、復旧には1954年(昭和29)11月まで6年以上を要した。宮古市史年表には“宮古橋で水位六メートル、藤原二五〇戸流失、浸水宮古全域、船の流失六〇隻、山田線寸断”とある。集中豪雨で早池峰山北斜面の石合沢に大崩落が起きて後にアイオン沢と呼ばれるようになるが、この土石流が山津波となって閉伊川に流れ込み、川井村から下流の新里村(ともに現宮古市)・宮古市にかけての被害を大きくした。前年の9月15日にはキャサリン(カザリン)台風に襲われ、2年続いての台風災害だった。この災害を契機に、横山八幡宮北麓から北へのびる山口川(放水路)沿いの土手、八幡宮から山田線閉伊川鉄橋までの土手、対岸の小山田側の土手が築かれた。

■愛かなえ(あい・かなえ) → みやさと奏(みやさと・かな)
宮古出身の女性歌手。本名盛合奏恵(かなえ)。愛かなえの名でインディーズデビューし、みやさと奏の名でメジャーデビュー。

■あいさつ通り(あいさつどおり)
みどり公園の北辺から山口街道を結んで東西に通る道。増坂勲水彩画集「わが町宮古を描く」の「あいさつ通り界隈(緑ヶ丘)」に添えられた短文を引用する。“駅前から真っ直ぐに西へ、西町・山口へと続く通りから宮古小学校方面へ行く一帯である。元はこの地を中谷地(なかやち)と呼び、小沢(こざわ)の谷あいから下る小さな流れがきらきら光り、川の両側には田圃が広がっていた。小学校の頃、イナゴ、とんぼのヤゴ、オタマジャクシなど、一日中泥だらけになって遊んでも飽きないところだった。水をたっぷり含んだ泥田に足を取られたら大変、片方を抜こうとすれば片方が益々はまり、この先どうなるかと思ったり……やがて田圃は埋められ、いまは緑ヶ丘団地として大きく発展している。「オハヨウゴゼンス」「カゼコヲヒカナイヨウニオガセゲンセ」と、温かい言葉の通い合う町である。一方、朝夕は病院、税務署、安定所、合同庁舎等への通勤、そして新しい市場や花屋さん、弁当屋さんへの買い物客、車の波、狭い道路に人と車が溢れんばかりである。みどり公園でのんびりと日向ぼっこをしている老人の声が明るい。(92.9)”。 けむぼーさんの思い出にあるこの通りは、“オモトヤ、リブ、成田園、ファミリーストアイシハタ、マルイ輪店・・・子供の頃、吉田秀峰先生の書道塾にこの道を抜けて通ったものでした”。オモトヤは小本屋酒屋、リブは室内装飾の店、成田園はお茶屋、マルイ輪店はマルイ自転車店で、ファミリーストアイシハタはかつて石畑文具店といったという。

■相沢食品(あいざわしょくひん)
豆腐・蒟蒻などの製造・販売店。本町(もとまち)1番31号、中央通りの北筋にある。

■IBC宮古中波放送局(あいびしーみやこちゅうはほうそうきょく)
岩手放送ラジオ塔。山口第6地割字狐崎(きつねざき)にある。長根(ながね)と接する山上で、そばに長根配水池があり、北に黒森山方面の山並みや鴨崎町の町並みが望まれる。1961年(昭和36)12月に開局、1974年(昭和49)6月に現在地へ移転。

■アイリスケアセンター宮古(あいりすけあせんたーみやこ)
民間の老人介護施設。太田1丁目2番3号にある。アイリスケアセンター宮古西町は西町1丁目1番1号にある。㈱ニチイ学館が経営。

■アウトドア用品(あうとどあようひん)  50音順
タケダスポーツ   長町1丁目6-22 ℡0193-64-1123
田村スポーツ    末広町4-1       63-7075
ホーマック宮古店  長町2丁目4-1     63-4290
ホーマック宮古南店 磯鶏3丁目3-22     63-7031

■青猿神社(あおざるじんじゃ)
アオザリ神社とも呼び、通称は住吉さま。長根(ながね)4丁目4番28号にある。℡0193-63-8554。祭神は住吉大明神・天照皇大神。例祭は7月第1土曜・日曜。

■青葉遊園(あおばゆうえん)
宮古市街地の東部、光岸地(こうがんじ)の切り通しの上にある。園内に湊大杉神社、宮古港戦蹟碑、鴨塚(鴨墳の碑)、織部灯籠、忠魂碑などがある。

■あかつき丸(あかつきまる)
船名。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)の桟橋から浄土ヶ浜まで運航された。1934年(昭和9)8月に就航。

■赤沼菓子舗(あかぬまかしほ)
田老(たろう)字川向(かわむかい)62にある。℡0193-87-2046。田老かりんとうが有名。しょう油ぱん、おこし、ひねり、なまこぱん、折りせんべい、くりぱん、はっかぱん、あめ玉などを製造・販売。

■あかね
お好み焼き屋。保久田(ほくだ)2番27号、第二幹線の南筋で、旧宮古郵便局の向かいにあった。

■茜屋(あかねや)
あかねやとも表記。土産物屋。大通(おおどおり)4丁目5番9号、宮古駅前の東筋にある。℡0193-62-5922。2階は喫茶店ボンナ。

■赤前(あかまえ)
宮古湾の最奥部、津軽石川河口の東、重茂(おもえ)半島の付け根に位置する。湾に面して宮古運動公園、津軽石漁港がある。赤前保育所、赤前小学校・宮古工業高校、市指定天然記念物の“こぶしの木”がある。江戸時代に鯨の大群が打ち寄せられたという記録が残る。1905年(明38)7月、津軽石村の佐々木清助によって鮭の人工孵化場が字(あざ)御蔵に開設された。これは日本初の人工鮭増殖事業とされる。

■赤前小学校(あかまえしょうがっこう)
大字赤前第11地割字八枚田49番地2にある。1876年(明治9)6月創立。2001年(平成13)4月、愛宕小学校白浜分校を統合。

■赤前荘(あかまえそう)
下宿屋。大字赤前第6地割11にある。℡0193-67-2833。

■赤前のこぶしの木(あかまえのこぶしのき)
赤前第15地割字堀内(ほりない)70にある辛夷(コブシ)。モクレン科の落葉高木。1962年(昭和37)4月18日、市の指定文化財・天然記念物に指定。高さ約15m、幹回り約4m、推定樹齢約200年で、三陸沿岸一の古木とされる。4月中旬に咲き始め、花期は約1ヵ月。花の咲き方で一年の作柄を占う。花が多ければ豊作、少なければ不作。一斉に上向きに咲けば天候に恵まれて豊作、下向きは雨がち、横向きは風っ吹き・日照りがち、北向きは冷害とも言い伝えられる。市教育委員会が建てた傍らの案内板には、こうある。「このこぶしの木は、節くれだった幹が堂々とした風格をもっており、空洞の幹で巨体を支えている姿は感動的な眺めといえます。/幹の内部は空洞になっていますが、樹木は樹皮のすぐ内側の部分で根が吸い上げた水分や養分などを枝や葉に送り、葉が光合成したものを幹などに送るので、幹が空洞であっても生長することができます。花は白色で良い香りがあり、花びらは六枚です。農家が田打ちをする四月頃に開花するのでタウチザクラとも呼ばれています。」

■赤松(あかまつ)
市の木。1973年(昭和48)2月11日に制定。岩手県の木としても1966年(昭和41)9月26日に南部赤松の名で指定されている。

■あけぼの団地(あけぼのだんち)
小山田(こやまだ)2丁目にあった市営団地。跡地は宮古市総合福祉センターになった。近くに県北バス停留所あけぼの団地口が残り、あけぼの食堂がある。

■朝日会館(あさひかいかん)
いまの浄土ヶ浜レストハウスの位置にあった。1933年(昭和8)の三陸大津波後、東京朝日新聞社が全国に呼びかけて集められた義捐金の分配金により、翌1934年に完成。2階建て・切妻瓦屋根・高床式・畳敷きの日本建築。1971年(昭和46)に解体された。翌1972年4月3日、跡地にレストハウスが竣工。

■旭硝子商会(あさひがらすしょうかい)
廃業。大通(おおどおり)4丁目1番6号あたり、大通りと国際前の通りが交差する北西角地にあった。℡0193-62-3020。

■朝日新聞宮古支局(あさひしんぶんみやこしきょく)
上村(わむら)2丁目2番4号にある。℡0193-62-3133、FAX:0193-62-3144。

■朝日生命(あさひせいめい)
朝日生命宮古営業所。大通(おおどおり)4丁目4番22号、朝日生命宮古ビル内にある。℡0193-62-2869。

■朝日亭(あさひてい) → オステリア朝日亭
かつてあったイタリアン・レストラン。

■旭屋(あさひや)
戦前、相馬屋とともに鍬ヶ崎を代表した料理屋。和洋折衷の3階建てで、100畳敷きの宴会場をもっていたという。いまの鍬ヶ崎上町2番24号の位置にあった。

■旭湯(あさひゆ)
銭湯。西町(にしまち)1丁目5番16号にある。℡0193-62-4668。1965年(昭和40年)開業。当時、大人の入浴料は30円だったという。2007年(平成19)現在、大人(中学生以上)390円・中人(小学生)150円・小人(未就学者)70円。ボイラー室にポメラニアン(犬)のチャッピーとリス猿のけんちゃんが飼われている。

■あさ開(あさびらき)
宮古でよく飲まれる酒の銘柄、蔵元の名。蔵元は盛岡市大慈寺町10番34号にある。℡019-652-3111。
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■浅蜊(あさり)
解禁は4月下旬。潮干狩りのことを浅蜊掻きと言う。

■芦原平(あしばたい)
大字(おおあざ)田代第9地割の小字、字(あざな)。

■小豆ばっとう(あずきばっとう)
小豆汁つまり汁粉に、小麦粉を練った太いうどん状のはっとうを入れた郷土食。小昼(おやつ)や夜食として食べることが多い。袋ごと温めて食べられるレトルト製品を小笠原製麺所とハニー食品が製造・販売。七日日(なぬかび、盆月の7日)に7回水浴びをして7回はっとうを食べると健康になる、という言い伝えが宮古にある。

■あずさ
お好み焼き屋。末広町8番29号、末広通り枝道の“花の木通り”にある。

■東屋(あずまや)
駐車場。本町(もとまち)2番2号にある。℡0193-62-6020。1824年(文政7)創業。姓は菊池。代々長七を名のる。岩泉の出身。4代目のとき宮古へ進出し、酒造をはじめ五十集(いさば)、木綿・古着・日用品の販売、質屋、回船業を営む三陸沿岸有数の豪商として知られた。屋印は入山大(いりやまだい)。敷地は990平方m。酒蔵と質草用の蔵の2棟を残して4棟の土蔵は解体された。通りに面して木造の古い建物が残り、往時を偲ばせる。1827年(文政10)から1875年(明治8)までの大福帳(帳簿)が残り、参考文献に田村忠博「東屋大福帳」がある。

■遊び(あそび)
外 ――駆けっこ スキップ 影踏み 釘刺し チャンバラごっこ 探検 路地めぐり 放浪 木登り 材木登り 倉庫潜り 自転車漕ぎ フラフープ ローセキ(蝋石) 氷滑り パチンコ
学校――助け だるまさんが転んだ ドッヂボール キャッチボール 卓球 雲梯 懸垂棒? 鉄棒 ブランコ シーソー ジャングルジム 滑り台 砂場・泥遊び わっ!(おどかしっこ) でっぺ 鏡でイタズラ 五目並べ 紙飛行機 お手玉 綾取り リリアン
空地――ばった ビー玉 独楽まわし 缶蹴り 花火 チャンバラごっこ 戦争ごっこ
野山――基地づくり 崖登り崖下り 橇滑り 田んぼでスケート
水辺――ドジョウ獲り 雑魚獲り
家 ――積み木 カルタ トランプ(神経衰弱・七並べ) 将棋 将棋崩し スゴロク ダイヤモンドゲーム 野球盤 地球独楽 紙相撲 糸巻き車 知恵の輪 ローソク蒸気船 レゴブロック
その他――紙鉄砲 水鉄砲 輪ゴム鉄砲 輪ゴム飛ばし 影絵

■愛宕(あたご)
市街地の東部にあり、1丁目・2丁目に分かれる。北を中里団地、鍬ヶ崎(くわがさき)仲町・鍬ヶ崎上町・光岸地(こうがんじ)、南を築地、西を築地・沢田と接する。愛宕保育所・愛宕小学校、本照寺などがある。かつて旧館(きゅうだて)と呼ばれたが、1965年(昭和40)住居表示の変更によって西旧館が愛宕1丁目、東旧館が愛宕2丁目になった。ちなみに地名のもとになったと思われる愛宕神社は愛宕にはなく西に隣接する築地1丁目にある。愛宕中学校は北の中里団地(なかさとだんち)1番1号にあったが、2001年3月に廃校。鉄道が敷設されて宮古駅ができるまでは宮古と鍬ヶ崎のあいだに位置する要地として官公署や文化・教育施設などが集中していた。

■愛宕小学校(あたごしょうがっこう)
*2012年(平成24)3月18日、閉校。愛宕1丁目4番6号にあった。略称は愛小(あいしょう)で、アタショウとは呼ばない。宮古尋常高等小学校の分教場として開校。1896年(明治29)6月15日に起きた三陸大津波の際、避難所となる。1936年(昭和11)4月1日、愛宕尋常小学校として独立開校。翌1937年(昭和12)4月13日、旧館(きゅうだて)大火で全焼。翌1938年(昭和13)10月20日、復旧新校舎の落成式。1968年(昭和43)4月、白浜分校を設置。1978年(昭和53)3月12日、鉄筋新校舎の落成式。1998年(平成10)敷地の東に吉川英治の句碑が建立される。英治は1935年(昭和10)8月12日から17日まで隣りの本照寺に滞在し、このときつくった“寺を出て寺までかへる盆の月”という句が刻まれる。2001年(平成13)3月、白浜分校は赤前小学校に統合。2011年(平成23)3月11日に勃発した東日本大震災の大津波で築地(つきじ)・愛宕地区は潰滅したが、奥の高台にある愛宕小学校に大きな被害はなかった。地区住民の避難所となり、その後、校庭に仮設住宅が建設される。ピーク時に1000人を越した生徒数も35人まで減少し、2012年3月18日に閉校式を迎えた。

■愛宕食堂(あたごしょくどう)
愛宕2丁目1番8号、愛宕小学校門前の通りにある。 *2011年(平成23)3月11日の東日本大震災で被災したが、5月末には復興した。

■愛宕神社(あたごじんじゃ)
愛宕の南西に隣接する築地1丁目にある。祭礼は7月下旬の土曜・日曜。子ども神輿が出る。

■愛宕中学校(あたごちゅうがっこう)
廃校。中里団地(なかさとだんち)1番1号にあった。略称は愛中(あいちゅう)で、アタチュウとは呼ばない。1947年(昭和22)市立第二中学校の愛宕分室として創立。1950年(昭和25)4月8日、愛宕中学校として独立。1961年(昭和36)9月18日、中里に校舎を新築し移転。中里団地はその後、愛宕中学校の北にできた。2001年(2000年度・平成12年度)3月24日に閉校式を行なう。創立以来の卒業生は約4000人。学区の生徒は閉校後、第一中学校・第二中学校・津軽石中学校に分かれた。校舎の解体が始まったのは2001年の秋。跡地は2006年(平成18)現在も更地のままで正門だけが残っている。正門前に常安寺の墓地へ下る急勾配の山道がある。

■足立ベニヤ(あだちべにや)
かつてあった、ベニヤ板の製造会社。現ホクヨープライウッド株式会社で、本社は東京、宮古工場が磯鶏(そけい)2丁目3番1号にある。

■安庭山荘(あていさんそう)
鉱泉入浴施設。老人憩の家安庭山荘とも。和井内(わいない)第14地割1番76。JR岩泉線の岩手和井内駅から8㎞ほどで徒歩2時間、閉伊川支流の刈屋川沿いにある。冬季は休業。かつてあった金鶏山(きんけいざん)鉱泉を源泉とする。効能は神経痛・リウマチ・胃腸病・婦人病・皮膚病・糖尿病・切り傷など。1974年(昭和49)3月、社会福祉法人“老人憩いの家”が運営する市の施設となる。

■安庭沢(あでのさわ)
和井内(わいない)にある。沢水は閉伊川(へいがわ)支流の刈屋川へ流れ落ちる。道は鞭牛(べんぎゅう)和尚が拓いたとされる。藩政期から砂金や珪石を掘る鉱山があった。金鶏山(きんけいざん)鉱泉が湧出。源泉のそばに薬師神社があり、金勢(こんせい)さまが奉納されている。近年になって入浴施設が閉鎖され、湧水は1㎞ほど下の安庭(あてい)山荘へ引かれている。

■アトリエSun(あとりえさん)
保久田(ほくだ)3番21号にある。手作り物品の販売所や喫茶コーナーなどがあり、福祉作業所ワークハウスを併設。

■姉ヶ崎(あねがさき)
崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)にある。浄土ヶ浜の北に位置し、近くに休暇村陸中宮古がある。太平洋に突き出した高さ50mを超える断崖が続き、荒波に浸食された海食洞が大小無数にある。ウミネコ、ウミウ、アマツバメなどの繁殖地で、ハイビャクシン、ハマユリ(スカシユリ)、ハマギクなどの花が見られる。うみねこ展望台・はまぎく展望台などがある。1周1.5㎞の遊歩道が整備され、国の天然記念物に指定されている潮吹穴に通じている。姉ヶ崎の姉はアイヌ語のタンネに由来し、“長い岬”の意味だともされる。
姉ヶ崎にて 此のあした海しづかなれど汐吹岩われら迎ふると汐吹きにけり(下村海南)
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■姉ヶ崎サン・スポーツランド(あねがさきさんすぽーつらんど)
市営の温水プール。大字(おおあざ)崎山第3地割字トロノ木75番地1にある。0193-63-6323。年間を通じて利用できる。市の体育協会に委託し、指導員が水泳教室や実技指導を行なう。1988年(昭和63)6月落成。

■姉吉(あねよし)
重茂(おもえ)の字(あざ)。重茂半島南部の太平洋岸に位置する。岩手県北バスの姉吉停留所、姉吉漁港、大津浪記念碑、姉吉キャンプ場、本州最東端とどヶ埼に至る自然歩道の入口などがある。JR宮古駅前から岩手県北バスで姉吉停留所まで1時間10分、下車徒歩15分。大津浪記念碑には上段に“高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に 家を建てるな”、下段に“明治廿九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し生存者僅かに前二人後に四人のみ幾歳経るとも要心何従(なにより)”とある。姉吉キャンプ場を過ぎて左手(北側)に自然歩道の入口。とどヶ埼までは4km、1時間ちょっと歩く。水道開通を記念し、姉吉漁港の水揚げ作業場に「本州最東端の蛇口」が2009年(平成21)4月26日設置された。それまでは沢水を濾過していた。同時点の世帯数13。

■姉吉キャンプ場(あねよしきゃんぷじょう)
本州最東端のキャンプ場。大字重茂(おもえ)第10地割字姉吉13番地、重茂半島南部の太平洋岸にある。℡0193-68-2316。テント設営無料。JR宮古駅前から岩手県北バスで姉吉停留所まで1時間10分、下車徒歩15分。

■姉吉漁港(あねよしぎょこう)
大字重茂(おもえ)字姉吉、重茂半島南部の太平洋岸に位置する。宮古市の管理する指定漁港。埠頭などの施設はコンクリートで固められているが、入り江には自然の石浜が残っている。水揚げ作業場に「本州最東端の蛇口」があり、誰でも利用できる。

■あの夏、タイムマシーンにのって(あのなつたいむましーんにのって)
ビデオ映画。社団法人陸中宮古青年会議所が企画し、配役・スタッフに100人以上の市民の参加を得て制作された。2005年(平成17)10月15日、封切り。2006年4月29日、DVD発売。
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■油煎餅(あぶらせんべい)
昔あった揚げ煎餅。新町(あらまち)の中村屋せんべい店で製造・販売していた。7㎝四方ほどの四角形で、黒胡麻の粒が練りこんである。油で揚げるため、真四角な生地がいびつになり、狐色をしている。一斗缶に入っていた。

■アベキ宮古給油所(あべきみやこきゅうゆじょ)
ガソリンスタンド。光岸地(こうがんじ)1番5号。愛宕の歩道橋の下、国道45号と切り通し坂とがなす角地にある。℡0193-62-8334。アベキ(安部喜)本社は仙台にある。

■阿部毛糸店(あべけいとてん)
大通(おおどおり)1丁目4番4号。℡0193-62-3026。中央通りの南筋で、かつて丸福魚店があった。

■阿部のいか最中(あべのいかもなか) → いか最中

■阿部旅館(あべりょかん)
鴨崎町1番66号、山口川沿いにある。℡0193-62-4832。

■天野こころ(あまの・こころ)
宮古出身のAV(アダルト・ビデオ)女優。1982年(昭和57)8月30日、赤前に生まれる。岩手県立宮古高等学校を経て看護学校中退。上京してスカウトマンに見出され、家族公認でAV女優になった。2001年(平成13)19歳でデビュー。20歳のときのセル・ビデオ(DVD)作品「素顔のこころ~あの頃の空は~」は“彼女の真実に迫るドキュメンタリー”として大半が宮古で撮影された。2004年(平成16)引退。

■あめや菓子舗(あめやかしほ)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)4番56号にある。℡0193-62-2884。するめっこ、名所最中、イチゴ大福などがある。1887年(明治20)松栄堂の名で創業。飴玉など駄菓子類が中心だったことから飴屋と呼ばれ、“あめや”に改称。屋印はヤマ七。

■荒川家具店(あらかわかぐてん) → 家具のあらかわ

■新巻(あらまき)
荒巻とも。塩鮭。鮭のはらわたを抜き、塩をすりこみ、天日干ししてつくる保存食の一種。なお大字(おおあざ)重茂(おもえ)に荒巻という字(あざ)がある。

■新町(あらまち)
本町(もとまち)の西、横町(よこまち)の南、黒田町の東に位置する。新町通りの東筋に老舗の熊谷薬局(通称クマヘイ)、床屋やはんこ屋、中央通りと交わる角にカドリンと呼ばれる荒物屋などが並んでいた。新町通りの西側には東北銀行、煙草屋、酒屋の倉庫があり、生の豆をケースに入れて量り売りする店があった。スポーツカーの真っ赤なホンダS800を宣伝カーにしている肉屋もあった。中央通りと交わる角はコーセー堂(光星堂・光生堂?)という菓子屋で不二家のペコちゃんの大きな置き物があった。中央通りを渡ると田町(たまち)通りが南に延びる。西側の角に玩具屋のシムラ(志村)があった。東側の角には食品店のマルフジがいまもある。

■鮑(あわび)
エゾアワビという種類が棲息。岩手県の鮑漁獲量は日本一で、三陸の鮑は昔から吉浜(きっぴん)鮑の名で知られる。生は関東・関西に出荷され、干し鮑は中国に輸出されるため、地元でもなかなか口に入らない。宮古漁協の漁期は11月~12月の2ヵ月間。通常11月に3回、12月に2回の口開け(解禁日)があり、午前6時30分から10時まで。漁獲サイズは9cm以上と規定されている。純天然物と稚貝を放流したものとがある。内臓をトシル、トスルと呼び、生あるいは塩辛などにして食べる。
 日の昇る刻を待ちつつ鮑船 岩礁群に蝟集する見ゆ
 解禁は日昇時なり鮑舟 稼ぎはじめき竿光らせて
 櫂を漕ぎ箱鏡(かがみ)をのぞき竿さして 鮑漁師は一人わざなり
 鮑捕る竿一本に生活を かけているなり手練の技に     駒井雅三

■あわびラーメン
田老(たろう)の名物ラーメン。宮古の雲丹麺(うんたんめん)、新里(にいさと)のかぼちゃラーメンと並べて宮古3大ラーメンとされる。

■あんたがたどこさ
宮古発の三陸情報サイト。消滅したか?(リンク切れ)

■あんばいや
入口の上に“ラーメンの店あんばいや”、暖簾には安倍屋とある。大通(おおどおり)1丁目2番26号、かつて幾久屋町(きくやちょう)と呼ばれていたあたりにある。宮古ラーメンの三本指に入る老舗。ラーメンは、煮干しだしに生姜を隠し味にしたあっさりスープと細縮れ麺で、腿肉チャーシュー3枚・海苔・支那竹・刻み葱が入って500円。ほかにチャーシューが8枚入ったチャーシュー麺、麺を減らしてワンタンを入れたワンタン麺550円。午後4時ごろには店仕舞いするようだ。昔はおじいちゃんとおばあちゃん、その後おばあちゃん、いまは60歳近くの息子さんとその嫁さんがやっている。(2007年7月現在)

■網場様(あんばさま)→ 大杉神社
光岸地(こうがんじ)にある湊大杉神社の異称。


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■イースト・ベイ・スタジオ
録音スタジオ、貸しスタジオ。末広町5番5号にある。かつて吉田書店のあった場所。

■言い伝え(いいつたえ)
 順不同
*馬の糞を踏めば背が高くなる
*正月2日に松飾りの下でとろろ飯を食べると風邪を引きにくくなる。(山口)
*耳くじり――端午の節句に菖蒲で耳を掻くと“聞かず”にならない。
*耳くじり――端午の節句に長芋で耳に栓をすると、悪いことは聞こえず良いことだけが聞こえるようになる。
*駒鳥(ぽっぽ鳥)が鳴けば粟を蒔く時節。
*盆月の7日に7回水浴びをして7回はっとうを食べれば健康になる。
*意地っ張りは、一津軽石、二千徳、三蟇目、四門馬、五田老。
*5月の海鞘(ホヤ)は嫁に食わすな。
*烏(カラス)が激しく鳴くと近所で人が亡くなる。
*鰈(カレイ)が大漁のときは津波に気をつけろ。

■烏賊(いか) → 鯣(するめ) ぽうぽう焼き
おもにヒイカ、ヤリイカ、スルメイカが獲れる。宮古で食べる烏賊の刺身の味は絶品である。上京してまずびっくりしたのは、スーパーで買う烏賊の刺身のまずさだった。そのまずさは大げさではなく衝撃的だった。意識せずに食べていた三陸の海の幸のありがたさを、しみじみ感じた。まず新鮮なものを刺身、焼き物、煮物で食べる。塩辛、一夜干しは普通の家庭でも作る。干しスルメのほか、烏賊徳利、烏賊煎餅などにも加工される。
●塩辛の作り方【材料】①新鮮なイカ1杯。②塩。甘口は小さじ1。辛口は小さじ2。*【作り方】①イカの胴に指を入れて内臓と身を離し、足(げそ)を引っぱって内臓ごと引きだす。軟骨を抜く。胴を切り開く。よく水洗いする。赤造りの場合は濡れ布巾でこすりながら皮を剥く。②身を再び水洗いして水気を拭く。白造りの場合はそのまま。長さ3㎝・幅4~5㎜の細切りにする。足は好みによって入れても入れなくてもよい。入れる場合は包丁の背でしごいて吸盤を取り、適当な長さに切る。③わたは墨袋をはずして水気を拭く。薄皮を破って中身を裏漉しし、塩を混ぜる。切った身を混ぜ、清潔な保存容器に入れる。ときどき掻き混ぜる。*塩小さじ1(約5g)は身の重量の5%相当。甘口で、日持ちはしない。辛口は身の重量の10%が目安。

■いか煎餅(いかせんべい) → お菓子
宮古を代表する銘菓。烏賊をかたどり、烏賊の粉末が練り込んである。元祖は(有)すがた(菅田)。末広通りの北側に並行する第二幹線に面し、黒田町(くろたまち)3番15号にある。℡0193-62-1620。工場・支店が藤原3丁目4番11号にある。℡0193-71-2205。
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■烏賊徳利(いかどっくり)
スルメイカの胴を徳利の形にした乾燥品。熱燗を注いで10分ほどおき、酒に移った烏賊の風味を愉しむ。使ったあとは食べられる。製造法は、鮮度のいいスルメイカからゲソ・内臓・耳をとって皮を剥く、3日ほど干す、空気を入れて膨らませる、徳利の形に整える、さらに2日ほど天日干しする。かつて宮古・山田で約10軒、組合もあった製造所は数軒に減ったという。元祖を謳うのは末広町3番20号の山康商店、℡0193-62-3570。山田町大沢第1地割43番5号、国道45号線沿いにある木村商店で烏賊徳利づくりが体験できる。℡0193-82-5757。

■いか最中(いかもなか)
宮古の隠れた銘菓。“モナカ屋”という名前の店が高浜4丁目8番22号にある。℡0193-62-3218。看板には陸中銘菓とある。粒餡・白餡・磯餡の3種。海藻入りで、わずかに塩味のきいた磯餡がおいしいというファンが多い。むかし大通(おおどおり)3丁目6番9号あたりに店があり、“阿部のいか最中”といった。

■イクラ → はらこ
「魚の卵」を意味するロシア語икра。日本では、おもに鮭のはらこ(腹子)を指して用いられる外来語。

■居酒屋みやこ(いざかやみやこ)
閉店。東京・新井薬師駅前(西武新宿線)北口にあった。宮古出身者が経営し、2007年(平成19)7月31日閉店。営業歴11年4ヵ月。

■いさだ
ツノナシオキアミのこと。甲殻綱オキアミ目オキアミ科の一種。魚類の餌として重要な資源。三陸沖で多く獲れるので三陸アミとも呼ばれる。漁期は3月から4月。採れたては生で食べられるが腹をくだすことがある。釜茹で・掻き揚げがいい。足が早く(鮮度が落ちやすく)変色しやすいため、多くが冷凍され、養殖の飼料や釣りのコマセ(寄せ餌)にされる。ちなみに、一時“かっぱえびせん”の原料にもなっているなどといわれたが、カルビー社の資料ではクルマエビ科アカエビ、サルエビ、キシエビ、タラバエビ科ホッコクアカエビなどが原料としてあげられている。また駿河湾の桜海老は甲殻綱エビ目クルマエビ亜目サクラエビ科で、漁期は4月から6月、10月から11月。

■漁火(いさりび)
烏賊釣り船のランプの明かり。浄土ヶ浜の展望台から見る漁火が美しい。

■石垣釣具店(いしがきつりぐてん)
保久田(ほくだ)1番20号、扇橋通りの西筋にある。

■石垣ペットショップ(いしがきぺっとしょっぷ)
黒田町(くろたまち)3番10号、扇橋通りを挟んで石垣釣具店の東向かいにある。℡0193-63-8348。

■石川食堂(いしかわしょくどう) → 陸中物産センター石川
浄土ヶ浜の砥石浜(といしはま)にあった。前身は料亭石川亭で、砥石浜北側山沿いの3階建て。1955年(昭和30)頃に南側に移転。1987年(昭和62)11月、磯鶏石崎(そけいいしざき)に移り陸中物産センター石川となる。

■石川整形外科医院(いしかわせいけいげかいいん)
大通(おおどおり)2丁目3番5号にある。かつて、ここには宮古診療所があった。

■石川啄木(いしかわ・たくぼく)
1908年(明治41)4月6日に宮古を訪れている。北海道放浪をきりあげて上京し創作活動に力を入れることを期した啄木は、4月3日に釧路新聞社を退社し、宮古経由の酒田川丸に2等船客として乗船。5日に釧路を出港し、6日に宮古へ入港。6時間の停泊中に上陸し、鍬ヶ崎(くわがさき)の医師・道又金吾を訪ね、盛岡中学の恩師だった富田小一郎の近情を聞いている。啄木の「明治四十一年日誌」にこの日の記事があり、その全文が1979年(昭和54)4月6日、石碑“啄木寄港の地”に刻まれ、宮古港を見下ろす光岸地(こうがんじ)4番40号・宮古漁業協同組合ビル前に、“宮古港に啄木文学碑を建てる会”によって建立された。
啄木と宮古(吉田仁)

■石川亭(いしかわてい) → 石川食堂 陸中物産センター石川
浄土ヶ浜の砥石浜(といしはま)にあった料亭。

■石崎神社(いしざきじんじゃ) → 御深山(おしんざん)
横町(よこまち)の北側、御深山(オシンザン、オスンザン)と呼ばれる山の中央部・中腹にある。東隣りに羽黒神社が並び建つ。石崎神社の神体は石と伝える。また一説に、宮古小学校の東がわ、石崎にあった神明社が1928年(昭和3)に移転してきたものともいう。かつて南東側の麓に深山遊園地があり、一帯は子どもの遊び場だった。

■石崎鼻(いしざきはな)
磯鶏(そけい)石崎の出崎。藤原と磯鶏の境をなす。

■石沢採種園(いしざわさいしゅえん)
株式会社。黒田町6番4号、第二幹線の北並びにある。℡0193-62-2371。

■石浜(いしはま)
大字(おおあざ)重茂(おもえ)の字。重茂半島の南東部にある。石浜の白い玉石は、石浜神社の神石とされる。石浜神社の祭神は石凝姥命(いしこりとめのみこと)。漁夫・漁の神で、“風波高き夜には霊光を発し、帰路を便ならしめ”たという。石浜漁港がある。

■石原時計店(いしはらとけいてん)
中央通りに面して新町(あらまち)2番2号にある。℡0193-62-5802。

■石割桜(いしわりざくら)
盛岡市内丸の地方裁判所前の石割桜は有名だが、下閉伊郡田野畑村にもある。県道田野畑岩泉線の町村境から600m、田野畑村に入った千丈(せんじょう)にある。宮古市田代には石割白樺がある。

■石割白樺(いしわりしらかば)
表記は石割り白樺とも。市街地の北西に位置する田代地区、亀ヶ森から東の道路ばたにある。樹高約4m、石の直径約1m。盛岡の石割桜ほどには知られていない。

■異人館(いじんかん)
喫茶店・レストラン。高浜(たかはま)1丁目1番10号にある。国道45号沿いの東側、つまり宮古湾に突き出した弁天鼻に建つ洋館で、眺望がいい。℡0193-63-0065。1988年(昭和63)開店。庭にヨットが置かれている。旧住所表記は高浜下須賀9-63-4。
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■泉町(いずみちょう)
市街地の北西部。北を山口・田の神(がみ)・西町(にしまち)と、東を鴨崎町と、南を舘合町(たてあいちょう)・長根(ながね)と、西を山口と接する。

■いずみ保育園(いずみほいくえん) → 泉幼稚園

■和泉屋(いずみや)
かつての鍬ヶ崎の豪商。和泉屋惣次郎を名乗る。本姓は豊島で、屋号は豊島屋。1691年(元禄4)に大坂和泉から来住。屋敷は現在の七滝湯(鍬ヶ崎仲町3番18号)あたりにあったという。呉服・質屋・酒屋・宿屋・建網・廻船を営み、十分一税の取り立て、1781年(天明1)頃から前川善兵衛に代わって閉伊地方の長崎俵物を扱った。蔵が7つあったといわれ、「大漁唄い込み」「大々漁節」に“お旦那さまは七つの蔵をお建てなさる、扇のごとく末広く、うちわのごとく末円く”と歌われた。1869年(明治2)3月25日の宮古港海戦のさいには官軍の本陣が置かれた。

■泉幼稚園(いずみようちえん)
私立で、正式には宮古泉幼稚園。上鼻(かんぱな)2丁目6番6号、JR山田線千徳(せんとく)駅前にある。いずみ保育園を併設。1968年(昭和43)創立。1978年(昭和53)に創立10周年を記念して園歌を制定。作詞駒井雅三・作曲門屋逸郎。

■伊勢屋餅店(いせやもちてん)
向町(むかいまち)5番19号にある。℡0193-62-4610。

■いその
磯野商店。鞄や和裁・洋裁・手芸用品などを扱う。保久田(ほくだ)1番24号、宮古保育所のそば、旧山口川に架かる扇橋のほとりにある。

■磯の子公園(いそのここうえん)
磯鶏沖(そけいおき)13番にある。1978年(昭和53)開園。トイレ有り。

■磯の湯(いそのゆ)
銭湯。磯鶏(そけい)1丁目3番22号にある。1952年(昭和27)開業。2010年(平成22)8月のお盆過ぎごろに廃業か?

■磯ラーメン(いそらーめん) → 小笠原製麺所
市内の食堂・ラーメン屋さんなどのメニューにある。煮干だしの塩味のつゆに、帆立・しゅうり・わかめ・布海苔・桜海老などの具が入っている。袋詰めのインスタント製品も市販されている。

■いたこ
“いだご”と濁る。神おろしや口寄せを業とする巫女・神子(みこ)。1月15日の小正月に、おしらさまを祀る家に地域の女性たちが集まり、いたこを招いて託宜を聞き、会食する。また、春祈祷といって、2月ごろの良い日を選んで家にいたこを招き、その年の無病息災を祈祷してもらう習慣があり、重茂(おもえ)などで盛んに行なわれていたという。川島秀一「漁撈伝承」に、“宮古市津軽石の中島ハツ神子(明治四十三年生まれ)は、お船霊の祭文を伝承しているが、彼女はこの祭文のことを「エビス直し」と呼んでいる。「エビス直し」とは、漁師の言葉で、今まで漁が続いていたのが突然とぎれたときなどに、神子のところへ行って祓いをしてもらい、回復を計ることをも指している”とある。

■板屋(いたや)
JR山田線千徳駅のある上鼻(かんばな)の北東一帯。1丁目から4丁目まである。東は神田沢町(かんだざわちょう)、北は西ヶ丘、西は大字千徳に接する。三陸病院、コンビニエンスストアのJOIS(ジョイス)などがある。

■いたわり号
1985年ごろに浄土ヶ浜園内循環バスとして走っていた県北バスのボンネット・バスの名称。
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■いちご煮
漁師料理・郷土料理の一種。とりたてのウニ、アワビ、大葉を使う。椀にウニの身、薄く切ったアワビを入れ、塩味のだし汁を熱して注ぐ。香りづけと彩りに大葉を刻んで浮かべる。熱い潮汁のなかでウニがふんわり膨らみ、黄色い野苺(木苺)のように見えるところから名づけられたという。青森県八戸市の名物として知られるが、三陸沿岸で昔からつくられている。土産用の缶詰もある。

■1$ラーメン(いちどるらーめん)
大通(おおどおり)4丁目3番18号にあったラーメン屋“みなもと”の目玉メニュー。ドル相場の前日の終り値に従って値段が変わる。ドル安になると当然下がった。1978年(昭和53)12月の開店時で190円ほど。閉店時期不詳。

■一野辺製パン(いちのべせいぱん)
商標はイチノベパン。パン・菓子製造会社。支社が長町(ながまち)2丁目2番25号にある。℡0193-71-1081。本社は二戸郡一戸町。

■一番岩(いちばんいわ)
磯鶏須賀(そけいすか)南端にあった岩場の通称。いま磯鶏1丁目1番18号のホテル近江屋が建っている海側で、砂浜から海に突き出ていた。一番岩のある出崎は、幕末に砲台場があり陣屋もあったので陣屋崎と呼ばれる。藤原須賀を含めて閉伊川河口右岸に一番岩まで延びる砂浜の長さは約1㎞だった。

■1分団(いちぶんだん)
正式には宮古地区広域行政組合宮古市消防団第1分団屯所。新川町(しんかわちょう)91番地にある。かつては新川町5番25号にあった。

■1万トン岸壁(いちまんとんがんぺき)
出崎埠頭(でさきふとう)。宮古湾の閉伊川河口左岸、臨港通にある。

■いちょう公園(いちょうこうえん)
宮町(みやまち)2丁目5番35号、市立第一中学校グラウンドと八幡土手とのあいだにある。1974年(昭和49)開設。犬供養塔が建つ。そばに市指定天然記念物の公孫樹、通称“逆さ公孫樹”がある。かつてはグラウンドの一部で西側に相撲の土俵があり、その向こうに民家が1、2軒あった。

■銀杏の湯(いちょうのゆ)
廃業。宮町(みやまち)1丁目1番地、横山八幡宮の参道から八幡沖踏切へ向かう道沿いで宮古機関区の南にあった。国道106号宮古バイパス敷設工事にともなう区画整理のため南町(みなみまち)12番13号に移転した後、ビジネスホテル銀杏に衣替えした。℡0193-62-3429。

■銀杏旅館(いちょうりょかん)
宮町(みやまち)2丁目2番9号にある。℡0193-63-3616。

■一竜軒(いちりゅうけん)
ラーメン屋。築地2丁目3番18号、愛宕小学校の近くにある。℡0193-62-8813。ラーメン480円。鶏ガラ系あっさりスープ。自家製の麺。営業は昼と夜。

■一石さん(いっせきさん) → 経塚の碑 舘合近隣公園

■一石橋(いっせきばし)
山口川に架かる橋。旧国道106号のバス通りにあり、栄町と舘合町とを繋ぐ。

■一中(いっちゅう) → 第一中学校

■一本桜(いっぽんざくら) → 亀ヶ森の一本桜

■一本柳の跡(いっぽんやなぎのあと)
石碑。田の神1丁目2番37号、宮古駅前から山口へ向かう県道40号線上、田の神1丁目と西町3丁目とが接する交差点の南西角にある。江戸時代の津波伝説にまつわり、1989年(平成1)6月に建立された。碑文は “一本柳の跡 言い伝えによれば、この場所に柳の大木があり、一本柳とよんだ 江戸時代(年代不詳)三陸沿岸を襲ったヨダ(津波)は宮古にも大被害を与えた 津波により山口川を逆流せる波に乗って来たダンベ(舟)を一本柳に繋留したと伝えられている  平成元年六月吉日 山口の有志建之”

■いづもや商店(いづもやしょうてん)
陶器商・瀬戸物屋。本町(もとまち)1番46号にある。℡0193-62-5060。中央通り北筋、高橋(たかばし)交差点のそばで、向かって左隣りは藤田屋。

■伊藤医院(いとういいん)
歯科。大通(おおどおり)1丁目3番13号、大通りと“あんばいや”や“みかわ屋”のある通りのなす角地にある。℡0193-62-8241、フリーダイヤル0120-19-8241。以前は耳鼻科だったか?

■伊藤鍛冶屋(いとうかじや)
廃業。保久田(ほくだ)4番地、旧閉伊街道沿いの角地にあった。

■伊藤奏子(いとう・かなこ)
バイオリニスト。1970年(昭和45)宮古市生まれ。宮古市立第一中学校を経て東京都調布市にある私立桐朋女子高等学校音楽科を卒業。パリ国立高等音楽院、ボストン・ニューイングランド音楽院へ留学。1993年(平成5)ジュネーブ国際コンクール第2位。チェリストのマーティン・ストーリーと結婚。 2000年(平成12)からカンザスシティ交響楽団のコンサートミストレル(コンサートマスターの女性名詞)を務め、アメリカ在住。

■伊藤牛乳(いとうぎゅうにゅう)
新川町(しんかわちょう)3番15号、中央通り南筋の丁字路角地で、映画館・宮古館の西側に店があった。牧場は八木沢にあった。前身は材木業。

■伊藤歯科医院(いとうしかいいん) → 伊藤医院

■伊藤善吉(いとう・ぜんきち)
教育者・著述家。「郷土の先人小笠原善平 宮古の青少年の皆さんへ」(2002年6月20日・私家版)ほか、小笠原善平が原作を書いて徳冨健次郎(蘆花)の名で出版された長篇小説「寄生木」に関する著作がある。

■イトウヤ旅館(いとうやりょかん)
大通(おおどおり)1丁目2番14号。℡0193-62-1636。

■伊東祐治(いとう・ゆうじ)
作家。1912年(大正1)鍬ヶ崎上町に生まれる。1930年(昭和5)第一早稲田高等学院文科に入学。1933年(昭和8)父の死去により帰郷して陸中タイムスに入社。中央公論社の原稿募集に中篇小説「葱の花と馬」で入選し、「中央公論」1934年1月号に掲載。小説は日影町・日影の沢を舞台に、銭湯の不動園や実在の人物をモデルにしている。同年春に再び上京し吉川英治の書生になるが、病を得て帰郷、12月4日に23歳で死去。1935年(昭和10)8月12日、吉川英治が宮古を訪れて墓参。本照寺に17日まで滞在し、“寺を出て寺までかへる盆の月”という句を詠む。本照寺の関口養隆住職は吉川英治の義理の親戚にあたり、宮古市長を務めた。同1935年10月10日、文芸誌「白蛾」が伊東祐治追悼記念号を発行。1955年(昭和30)宮古市立図書館なぎさ会が「葱の花と馬 伊東祐治――その人と作品」を刊行。

■伊藤麟市(いとう・りんいち)
教育者・著述家。1919年(大正8)横町(よこまち)生まれ。1939年(昭和14)岩手師範学校を卒業。教職に就き、県立山田高等学校長などを歴任。著書に「牧庵鞭牛の生涯」(私家版・1954年)、歌集「室根にかゝる雲」、「宮古・山田地方の諺・譬えことば考」(興版社・1979年1月20日)、「宮古の方言と敬語」(1982年)などがある。

■稲荷橋(いなりばし)
津軽石(つがるいし)川の河口部、国道45号に接続する県道41号重茂(おもえ)半島線の西端に架かる。名称は西方山上に鎮座する津軽石稲荷神社にちなむ。全長162.8m、幅6mの永久橋として1968年(昭和43)完成。宮古市史年表に記事なし。

■犬供養塔(いぬくようとう)
宮町(みやまち)2丁目5番35号、第一中学校グラウンドと八幡土手のあいだにある、いちょう公園に建つ。横山八幡宮の西裏、閉伊川原にあった宮古保健所の施設(犬抑留所)で処分された犬・猫の霊を供養するために建立されたという。

■イボパン → 丸長製パン
クッキーパンの通称。製造は丸長製パン。

■今泉電気商会(いまいずみでんきしょうかい)
家電製品の小売店。黒田町(くろたまち)1番11号にある。℡0193-62-5438。

■岩泉産業開発(いわいずみさんぎょうかいはつ)
株式会社。岩泉町乙茂字乙茂90の1にある。前身は1982年に町や農協・小本浜漁協などが出資した第三セクターの社団法人岩泉町産業開発公社。山菜や茸類の加工販売からスタート。1985年、宮古保健所長・橋本勢津の助言によりペットボトル入りミネラルウォーター“龍泉洞地底湖の水”を発売。1991年に加熱殺菌方式からセラミックを使った非加熱処理に転換。その後、“龍泉洞珈琲”(レギュラー、ブラックの2種)、“龍泉洞の緑茶”“龍泉洞の烏龍茶”を発売。食品のオリンピックと呼ばれるモンドセレクション(ベルギー)で“龍泉洞地底湖の水”が1999年に金賞に選ばれる。1999年12月28日、ISO14001を取得。2000年にモンドセレクション金賞、2001年に金賞・世界最高品質賞、“龍泉洞珈琲”(レギュラー)も2002年に金賞を受賞。2002年2月、株式会社となる。

■岩泉線(いわいずみせん)
*JR東日本の鉄道路線。JR山田線と接続する宮古市の茂市(もいち)駅を起点とし、下閉伊郡岩泉町の岩泉駅を終点とする38.4㎞。ディーゼル車が走る。駅は9。市内=茂市→岩手刈屋(いわてかりや)→中里(なかさと)→岩手和井内(いわてわいない)→押角(おしかど)→岩手大川(いわておおかわ)→岩泉町=浅内(あさない)→二升石(にしょういし)→岩泉(いわいずみ )。1942年(昭和17)6月25日、国鉄小本線(おもとせん)として茂市~岩手和井内の10kmが開業。小本線という呼称は計画当初の終点が岩泉町の小本駅だったため。岩泉駅~小本駅は建設されず、バスで繋いだ。1972年(昭和47)2月6日、岩泉駅まで延伸開業し、岩泉線と改称。 1987年(昭和62)4月1日、国鉄民営化に伴い東日本旅客鉄道に移管。2010年(平成22)7月31日、押角~岩手大川駅間で発生した土砂崩れに一両編成の普通列車が乗り上げて脱線し、乗員・乗客9人のうち5人が軽傷を負った。以後、全線不通となり、JRのマイクロバス(25人乗り)による代行運送に切り替え。2012年(平成24)3月30日、廃線が公表される。岩泉駅から小本までのバス会社の変遷は、国鉄バス・JRバス東北・岩泉町民バス小本線。岩泉線を舞台にした童話に茂市久美子の「おちばおちばとんでいけ」(1991年・国土社)がある。

■岩泉町(いわいずみちょう)
下閉伊郡に属し、宮古市の北に隣接する、面積約993km2の本州一広い町。94%が山林で林業・酪農が盛ん。日本3大鍾乳洞のひとつ龍泉洞で知られる。龍泉洞の水は名水で、地元の岩泉産業開発がボトル入り“龍泉洞の水”、缶入り“龍泉洞珈琲”などを製造・販売している。美人の産地でもある。町役場は岩泉字惣畑59-5にある。℡0194-22-2111。
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■岩泉まつたけ研究所(いわいずみまつたけけんきゅうじょ)
岩泉町二升石(にしょういし)にあった日本唯一の松茸研究所。所長は吉村文彦(よしむら・ふみひこ)京都大農学博士。1990年(平成2)4月、ふるさと創生資金を活用して開設。開設前1.8トンほどだった岩泉町の平均生産量は、研究所の指導の成果が出始めた1994年以降7.1トンに増大したという。国内の松茸の生産量は50年前に1万トン以上だったのが、いまは100トンを下回る。松茸の生育には風通しと日当たりが必要で、山林の荒廃が松茸の減っている原因。だから赤松林の手入れが松茸の増産につながるという。2001年に「必ず成功する 岩泉式まつたけ山のつくり方」を発行。A4判・72ページ、2000円。2005年(平成17)3月で吉村所長との契約期間が満了して閉鎖。

■岩田自転車屋(いわたじてんしゃや)
正式には岩田自転車商会。大通(おおどおり)1丁目4番8号にある。かつては旧山口川が暗渠に入る中央通りの交差点の新町(あらまち)角にあった。中学生になったとき、自転車通学のためにセミドロップ・ハンドルで5段変速の軽快車をここで買った。

■岩手川(いわてがわ)
宮古で飲まれる酒の銘柄、蔵元の名。盛岡市仙北1丁目15番9号にあったが、2006年(平成18)2月27日に倒産。創業は1872年(明治5年)。キャッチフレーズは“心の酒 岩手川”。

■岩手缶詰(いわてかんづめ)
岩手缶詰㈱宮古工場。藤原上町(ふじわらかみまち)1番19号にある。℡0193-62-6411。

■いわて銀河プラザ(いわてぎんがぷらざ)
岩手県のアンテナショップ、物産店。東京都中央区銀座5丁目15番1号、晴海通り沿いの歌舞伎座前にある。築地市場にも近い。1998年(平成10)開設。
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■岩手銀行(いわてぎんこう)
イワギンと略す。1999年(平成11)11月に宮古中央支店・宮古支店の2支店となり、新町支店・鍬ヶ崎支店はATM(現金自動預入払機)化され、宮古駅前支店(保久田4番7号)は廃止された。宮古中央支店は末広町7番20号、末広通りと駅前通りとの角。宮古支店は築地1丁目1番28号。裏道あたりは、かつて“行こか鍬ヶ崎、戻ろか宮古、ここが思案の七戻(ななもどり)”などと歌われた場所。新町支店は新町2番30号で、1928年(昭和3)5月8日に合併した宮古銀行のあった場所かもしれない。鍬ヶ崎支店は鍬ヶ崎上町7番20号。宮古駅前支店は保久田4番7号にあった。

■岩手県立大学宮古短期大学部
 (いわてけんりつだいがくみやこたんきだいがくぶ)
河南(かなん)1丁目5番1号にある。経営情報学科のみの単科大学部。1990年(平成2)4月、岩手県立宮古短期大学として開学。98年(平成10)県立大学の開学に伴い名称変更。2008年度(平成20年度)までの卒業生は1925人。2009年(平成21)10月24日、開学20周年記念式典を行う。
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■岩手県立宮古高等女学校(いわてけんりつみやここうとうじょがっこう)
 →女学校

■イワテセダカオサムシ
オサムシ科の昆虫。本州では宮古市にのみ生息。体長約12~15mmで、黒色。環境省のレッドデータブックで絶滅の危機が増大しているとされる絶滅危惧Ⅱ種に区分。岩手県は希少野生動植物の保護に関する条例で採取や譲渡を禁じている。
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■岩手トヨタ(いわてとよた)
正式には岩手トヨタ自動車(株)宮古店。販売・整備店。太田(おおた)2丁目1番28号、旧国道106号線の北筋で県北バスの下千徳停留所の近くにある。℡019-362-6211。

■いわてマリンフィールド
NPO(特定非営利活動法人)。海洋スポーツと水辺活動の企画・実施・支援・普及、自然環境の保護を目的に設立された。

■岩手窯業宮古工場(いわてようぎょうみやここうじょう)
宮古港東岸の角力浜(すもうはま)にあった。耐火煉瓦を生産。1939年(昭和14)設立。

■岩徳電器(いわとくでんき)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)4番55号、鍬ヶ崎通りの西筋にある。℡0193-62-3159。屋印はヤマト。

■岩船(いわふね)
宮古市街地の西、千徳の北西部で、閉伊(へい)川に注ぐ近内(ちかない)川の上流部。宮古駅前から長根・近内を経て県北バスが通る。小島俊一「陸中海岸地名ウオッチング」によると、岩船の名は川に大小の舟型の岩があることに由来する。川岸に明神があって山神・水神・岩神を祀り、岩舟の底に溜まる砂で豊凶を占ったという。鍛冶場という地名や鍛冶ヶ沢という屋号が残る。刀剣の産地という伝承があり、明神の舟形の淵は灼熱した刀を冷やしたところという。

■岩船雅一(いわふね・がいち)
バイオリン奏者・教育者。本名は正治(まさじ)。1911年(明治44)1月25日、下閉伊郡磯鶏村に生まれる。独学でバイオリンを学ぶ。漁船の機関士見習いから宮古館のバイオリン奏者となり、兵役後に帝国音楽学校へ進学。1941年(昭和16)の磯鶏小学校をはじめ、河南中学校・千徳小学校の校歌を作曲。戦後、岩船ヴァイオリン研究所を主宰し、東京弦楽団を結成。1955年(昭和30)東京弦楽団を率いて宮古で演奏し、宮古市民管弦楽団結成の契機となった。1961年(昭和36)日本弦楽指導者協会を設立。「岩船ヴァイオリン二重奏」など著書も多い。1978年(昭和53)6月9日(宮古市史年表では14日)肝硬変のため東京で死去、享年67。

■岩間商店(いわましょうてん)
廃業。食料・雑貨店。女学校通りの西筋、旧裁判所の南側にあった。その南側には、お焼きを焼いて売る屋台店があった。ともに国道106号宮古バイパスが通っているあたりで、区画整理のさいに閉店した。

■岩間青果店(いわませいかてん)
本町(もとまち)1番58号、第二幹線が本町通りに突き当たったところにある。℡0193-62-4658。

■岩間北溟(いわま・ほくめい)
江戸時代の俳人。1779年(安永8)高浜村の南部藩給人岩間家に生まれる。10歳のとき本町(もとまち)の酒造えびす屋を相続。家業を番頭に任せて学芸に耽けり、江戸や京都に遊んだ。文政年間(1818~1830)山口川のほとりに庵を建てて住んでいたことから山口川は庵屋川(あんやがわ)とも呼ばれた。1825年(文政8)学問の神さまの天神・菅原道真を祀る天満宮の石祠を邸の庭に建立し、のち常安寺門前に移したという。天満宮は常安寺保育園の位置にあったといわれ、いまは境内横に移っている。1832年(天保3)刊の「大樗庵発句集」がある。

■岩見神経内科医院(いわみしんけいないかいいん)
大通(おおどおり)1丁目5番2号、中央通りの下に旧山口川が潜る手前南岸の三角地帯にある。℡0193-71-1500。裏(北側)が旧山口川。かつてここには松本旅館があった。敷地の東端に一坪ほどのベルト屋があったが閉店。

■インテリア小成(いんてりあ・こなり)
看板には“インテリア コナリ”とある。新町(あらまち)1番9号にある。


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■鵜磯(ういそ)
重茂(おもえ)半島の北部、大字重茂にある字名。太平洋に面する。鵜磯保育所・鵜磯小学校、鵜磯地区センターなどがある。

■鵜磯小学校(ういそしょうがっこう)
大字重茂(おもえ)第26地割字鵜磯25番地6にある。1955年(昭和30)4月創立。

■上野商店(うえのしょうてん)
おもに酒類を販売。大字重茂(おもえ)第14地割字千鶏(ちけい)川向13番地、姉吉キャンプ場手前の集落にある。℡0193-68-2659。

■上野製麺所(うえのせいめんじょ)
大通(おおどおり)4丁目2番11号にある。以前は食堂も併設していた。

■上ノ山(うえのやま)
市の北部、横町(よこまち)の北に位置する山。また、東部の鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)の西に位置する山。

■魚市場(うおいちば)
【1】宮古市魚市場。臨港通(りんこうどおり)2番1号、出崎(でさき)埠頭にある。1996年(平成8)4月に新築。初売りは1月4日、午前7時半から。運営は宮古湾漁連。普代・田野畑・小本浜・田老町・宮古・重茂6漁協の連合会で、市場手数料は3%。【2】旧魚市場。臨港通5番20号にある。1960年(昭和35)完成。宮古漁協の所有。業者は販売所と呼んだ。1996年(平成8)宮古市魚市場が新設された後は漁業団体の事務所、業者の荷捌き所などとして使われている。

■魚正(うおまさ)
寿司屋。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)7番16号、宮古港・旧魚市場前の海岸通りにある。2000年10月に新築。0193-62-7885。

■魚元(うおもと)
丼物と郷土料理の店。大通(おおどおり)3丁目6番43号にある。1984年(昭和59)創業。店内に生け簀がある。JR宮古駅のキヨスクで売られる駅弁も作っている。

■浮島池(うきしまいけ)
浮島の池、浮島沼、浮島の沼とも。磯鶏(そけい)3丁目1番地、いまの浮島食堂・浮島神社の裏あたりにあった池。直径40mほどで、周囲の半分に柳の木が何本も生えていた、1968年(昭和43)頃まであったが埋め立てられた、鮒が釣れた、埋め立てのさい大量の魚のなかに巨大な鰻が何匹もいた、といわれる。【浮島伝説】むかし磯鶏の神林(かんばやし)に大きな池があった。池のなかに小島があったので浮島池と呼ばれた。ほとりに大きな柳が生えていた。この柳の木の霊が、夜になると、かたわらを通る人に決まって悪戯をした。困った池の持ち主は柳の木を伐ってしまった。そうして、その木で浮島に小さな祠を建てて祀り、柳の霊を慰めた。浮島池はその後、埋め立てられて宅地になった。堂は近所に移り、浮島神社として残っている。噂によると、柳の霊は、夜になるといまだに通りかかった人に悪戯をすることがあるそうだ。

■浮島食堂(うきしましょくどう)
磯鶏(そけい)3丁目1番8号にある。1966年(昭和41)開業。

■浮島神社(うきしまじんじゃ)
磯鶏(そけい)3丁目1番4号あたり、国道45号から西へ路地を入ったところにある。

■牛鼻(うしばな)
宮古湾の西岸中央、藤の川の南端から東に突き出した崎。南隣りの弁天鼻には喫茶店・レストランの異人館(高浜1丁目1番10号)が建つ。

■牛伏念仏剣舞(うしぶしねんぶつけんばい)
鎌倉時代、老木(ろうき)の根城(ねじょう)に館を築いた閉伊頼基が、源氏や平家の戦没者の霊を供養するため将士に踊らせたのが始まりといわれる。牛伏郷土芸能保存会が伝承し、盆に牛伏地区の各家を回る。千徳保育所・千徳小学校・西中学校の運動会や校内発表会などでも踊られる。

■臼木山(うすぎやま)
通称桜山(さぐらやま)。日立浜町(ひたちはまちょう)に属す。宮古港の東部をなし、浄土ヶ浜の後背南西に位置する小高い丘で、標高は86m。浄土ヶ浜ターミナルビルの西、第1駐車場のかたわらに登り口がある。頂上から宮古港方向へ少し下った位置に宮古港海戦解説碑がある。岩手県立水産科学館が隣接し、遊歩道も整備されている。桜の名所で、100品種・800本が植えられている。四季桜・十月桜という品種は早ければ1月下旬から花をつけることがある。ほかに3月下旬のマンサクから、コブシ(4月上旬)、カタクリ(4月中旬~下旬)、ツツジ、シャクナゲ(5月)などが群生。ニホンカモシカの生息地。1771年(明和8)につくられた宮古八景のひとつで“臼木青嵐 吹払ふあらしにつれて臼木山みねよりおちにける白き雲”、また2001年(平成13)に宮古観光協会が選定した新宮古八景のひとつで“青春の思い出がある臼木山サクラの下で描いた未来図”と詠まれる。

■渦巻かりんとう(うずまきかりんとう) → 田老かりんとう 田中菓子舗

■内田小児科クリニック(うちだしょうにかくりにっく)
表記は、うちだ小児科クリニックとも。内田瑛子院長。2009年(平成21)3月末に閉院。末広町8番14号にあった。℡0193-64-1004。

■内舘元右衛門(うちだて・げんえもん)
長沢一揆の指導者。1756年(宝暦6)長沢村北川目の農家に生まれる。長沢を領地としていた盛岡藩四戸氏の財政難が重税としてのしかかっていた。四戸氏の勘定方になった元右衛門の努力にもかかわらず再建のめどが立たない。職を辞して長沢に戻った元右衛門のもとに百姓が集まり、1826年(文政9)四戸氏の領地替えを求めて一揆を起こす。一揆は老木村・根市村の百姓も加わって大規模化し、四戸甚之丞を隠居、長沢・老木・根市の3村を蔵入れ地(藩直轄地)とすることに成功した。元右衛門は翌年6月9日、藤原刑場で斬首される。百姓らは遺骸を盗み出して供養。二十五年忌の1851年(嘉永4)に長元地神社(長元地神宮とも)を建て、元右衛門を御農神として祀った。祭日は旧暦6月9日。

■内野屋食堂(うちのやしょくどう)
宮町(みやまち)2丁目2番1号、宮町交差点の南東角地にある。℡0193-62-0688。

■うちむら家具(うちむらかぐ)
うちむら家具アウトレット家具 Queen 宮古店。向町(むかいまち)2番36号、向町通りの東筋、もと“家具のあらかわ”の場所にある。℡0193-62-2555。チェーン店で、家具のあらかわ(荒川商店、荒川家具店とも)を吸収して2006年(平成18)11月に開店。

■打手ヶ沢(うってがさわ)
宮古山常安寺のあたりの古名・字名。ちなみに常安寺の住所は沢田4番11号。

■宇都宮家具店(うつのみやかぐてん)
かつて大通(おおどおり)4丁目3番8号、大通と末広町を結ぶ細道の北東角地にあった。

■うどん
手打ちしているのは築地の源吉、金浜のよね久など。

■ウニ
漢字では雲丹・海栗・海胆などと書く。殻のままのウニを海栗、身を雲丹・海胆と書きわける。数種類のウニが棲息し、キタムラサキウニ、エゾバフンウニが漁獲の対象となる。漁獲量の9割がキタムラサキウニ。宮古ではウニをカゼと呼び、ムラサキウニはクロカゼ、バフンウニはボウズカゼとも呼ばれる。観光客の多い浄土ヶ浜の海底でも見られるが漁業権がなければ採ることはできない。生ウニの旬は早ければ3月下旬から8月半ばごろまで。漁期がそのまま旬となる。口開け(漁の日)は漁協によって異なる。水揚げしたウニの殻を剥いて身をとりだし、茶色い腑などの汚れを除いて180ccの容器に詰める。プラスチック瓶入りが宮古産、ガラス瓶入りは山田町などの製品。身の崩れを防ぐミョウバンなどの保存料・添加物は使わない。シーズン中、新鮮な生ウニを盛ったウニ丼が市内の飲食店に出まわる。店頭には生ウニ・塩ウニ・焼きウニが並ぶ。塩ウニは身に塩を振り水気を切った加工品で保存がきく。原料は身と塩のみ。焼きウニはアワビの貝殻に山盛りしたウニの身を蒸し焼きにしたもの。容量は80g。保存がきき、魚屋・魚菜市場・土産物屋などに年じゅう出まわる。そのままで、あるいはオーブンでかるく焙り、醤油を垂らして食べる。ご飯に載せてもいい。ウニ飯は昆布ダシ・酒・醤油で炊いたご飯に、焼きウニを混ぜ込んだもの。ウニの風味を活かした雲丹(うんたん)ラーメンもある。

■うに染め(うにぞめ)
“みやこ染め”ともいう。雲丹の殻を染料にした、世界初の染め物。淡い紫やピンク、グレーに仕上がる。発案者は田川宮子。製造元アトリエぐらん(宮園6番19号)。浄土ヶ浜パークホテル売店(日立浜町32番4号・0193-62-2321)などで販売。

■鵜の巣断崖(うのすだんがい)
宮古市田老の北、下閉伊郡田野畑(たのはた)村にある。陸中海岸国立公園に属し、“海のアルプス”北山崎と並ぶ落差200メートルの断崖がつづく。中腹に海鵜の巣があることから名づけられた。三陸鉄道北リアス線の島越駅から車で15分。島越から海岸沿いに遊歩道が通じる。この壮大な眺望にヒントを得て吉村昭が「星への旅」(太宰治賞)を書き、文学碑が建つ。

■馬(うま)
宮古では、馬の糞を踏めば背が高くなる、と言われる。1960年代まで宮古の町なかでも馬車の姿が見られた。

■うまいや
かつて南町(みなみまち)の鉄道敷地に沿った道の南側に、うまいやアパートがあった。横や裏側は田圃だった。現在、南町には、うまいや商店・第3うまいやビルがある。

■海のアイス~沖の井(うみのあいすおきのい)
“宮古・海のアイス~沖の井”が正称。宮古観光協会が開発したアイスクリーム。とどヶ崎沖で採取した海洋深層水と田野畑牛乳を使い、“さっぱりした甘さのなかに、ほんのり塩味が香る”という。110ml入り250円。2005年(平成17)3月2日、浄土ヶ浜レストハウスや道の駅で販売開始。

■海猫(うみねこ)
ウミネコ。ゴメとも呼ぶ。市の鳥として1973年(昭和48)2月11日に制定された。宮古駅の記念スタンプに“うみねこがほほえむ浄土ヶ浜の駅”と彫られている。駅前に、うみねこをかたどった街灯や“うみねこと乙女の像”が建つ。海辺では年じゅう飛びかっている。浄土ヶ浜の遊覧船による餌付けが始まったのは1969年4月20日。船内で“うみねこパン”が売られ、さしだすと手からとってゆく。ミャー、ミャーオと鳴き声が猫に似ている。鴎の仲間で、正式にはチドリ目カモメ科の鳥。東アジア沿岸に分布し、日本でも繁殖する留鳥。成鳥の全長は約46cm。翼は上面が黒っぽい灰色、下面は白。英語で Black-tailed Gull と呼ぶように、羽根の先端と尾羽に黒い帯があるのが特徴。嘴は黄色で、先端に黒と赤の斑点がある。脚は黄色。幼鳥は全体が濃い褐色。雑食性で、魚のほかワカメやヒジキなどの海藻、アワビ、ホタテ、カキ、昆虫なども食べる。繁殖期は4月から7月。地上に枯れ草などを使って簡単な巣をつくり、卵を2~3個産む。姉ヶ崎、佐賀部(さがべ)などが繁殖地として知られる。陸前高田市の椿島、青森県八戸市の蕪島(かぶしま)にある集団繁殖地は天然記念物に指定されている。
 断崖の涯なくつゞき 蒼茫と 暮れゆく海よ うみねこの声
 翼ためひるがえりきて飼さらう うみねこの群船につきくる
 月山にかゝれる雲の雲足の 乱れはげしき うみねこのこえ
 うみねこは吹かれつゝ飛ぶ 流れさり あるいは風にささえているも
 青一色の空より海に崩れ落つ うみねこの群は 陽にかゞやきて  駒井雅三

■うみねこと乙女の像(うみねことおとめのぞう)
ブロンズ像。宮古駅前広場にある。高さ175㎝。重茂(おもえ)出身の彫刻家吉川保正(きっかわ・やすまさ)の最後の作品。1979年(昭和54)6月、国鉄・市・県北バスなどが670万円を出資し、初め重茂追切の民有地に建立された。宮古湾を一望できる場所だが、木が繁ると眺望が妨げられ、市民の目に触れる機会も少ないとの理由で、1999年(平成11)7月に駅前広場に移されたという。

■うみねこねっと
三陸海岸を中心とした情報とプレゼントのサイト。

■うみねこパン
うみねこ(海猫)の餌付け用に開発されたパン。一袋100円。製造元は保久田(ほくだ)3番12号の丸長製パン。烏賊の粉末や挽いた昆布・若布などが生地に練り込んである。人も食べられなくはないが、おいしいわけではない。浄土ヶ浜から出ている島めぐり遊覧船・陸中丸のなかで売られ、うみねこに自分の手から直接餌を与える貴重な体験ができる。うみねこの餌付け用パンの開発は日本で最初、餌付けに成功したのも浄土ヶ浜が日本で最初だという。観光船による餌付けが始まったのは1969年4月20日。

■浦ノ沢(うらのさわ)
重茂(おもえ)半島の北西部、大字(おおあざ)重茂の字(あざ)。宮古湾に面し、浦ノ沢漁港がある。浦ノ沢防波堤はコンクリート製で長さ136.4m・幅5m・高さ14.1m。国の補助事業で1996年(平成8)に完成。整備費3億円。2002年(平成14)1月28日、暴風雪のため部分的に3ヵ所が倒壊した。

■うるい
山菜の一種。食べ過ぎると体が黄色くなるという。

■宇和島(うわじま)
天ぷら料理店。向町(むかいまち)3番14号にある。℡0193-62-9989。主人が愛媛県宇和島の出身で奥さんは宮古の人、アイスクリームの天ぷらがあるという。

■雲丹麺(うんたんめん)
雲丹(うに)ラーメン。日本で最初に宮古観光協会が開発・販売。麺に雲丹が練り込んである。5食入り雲丹麺2800円(雲丹麺、蒸し雲丹、特製海鮮スープ、雲丹フレーク、宮古産若布各5袋)で通信販売もある。田老(たろう)のあわびラーメン、新里(にいさと)のかぼちゃラーメンと並べて宮古3大ラーメンとされる。

■運動公園(うんどうこうえん)
大字(おおあざ)赤前(あかまえ)第8地割字下谷地10-2、宮古湾の南奥に面する。1968年(昭和43)ごろに設置。野球場・陸上競技場・テニスコート・キャンプ場などがあり、桜の名所にもなっている。


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■AM工房宮古窯(えいえむこうぼうみやこがま)
手びねり陶器の工房。大字(おおあざ)八木沢(やぎさわ)第8地割4番2号にある。℡0193-63-7817。鳥居明生と小峰美省のふたりが2001年(平成13)春に開設。

■永光寺(えいこうじ)
大字(おおあざ)田代(たしろ)第15地割30にあり、そばに永光寺前バス停がある。真宗大谷派。1899年(明治32)頃、紫波町から移転したという。

■絵入追分道標(えいりおいわけどうひょう) → 追分碑
追分は街道の分岐点、道標はミチシルベ。絵入りの道標は、文字を読めない人でもわかるように絵と文字で行き先が表示された江戸期の標石。全国でも陸中海岸の浜街道に3基が確認されるだけという。宮古には田代の亀岳(きがく)小学校近く、繋沢の川沿いにある。1855年(安政2)に建てられたもので、刀の絵の下に“右ハい王いつミ”、鎌の絵の下に“左ハやまミち”とある。“い王いつミ”は隣り町の岩泉、いまの下閉伊郡岩泉町。宮古市史年表1961年(昭和36)9月7日の項に“「絵いり追分道標」、岩泉より田代の原位置に再建”とある。1979年(昭和54)7月24日に史跡として市の指定文化財になる。

■駅前交番(えきまえこうばん) → 宮古駅前交番

■駅前通り(えきまえどおり) → 宮古駅前通り

■駅前マーケット(えきまえまーけっと) → 中屋マーケット

■S(えす)
正式には BAR CAFE the S。ジャズ・カフェ&バー。大通(おおどおり)4丁目1番14号、トキワザビル1階にある。℡0193-71-1520。2001年(平成13)開業。マスターはトランペット奏者とのこと。

■SL公園(えすえるこうえん)
磯鶏西(そけいにし)5番、JR山田線磯鶏駅の西側にある。敷地内に本物のSL9625が置いてある。1977年(昭和52)2月に開設。

■SLリアス線(えすえるりあすせん) → 臨港線

■蝦夷透百合(えぞすかしゆり) → ハマユリ

■N.S.P(えぬえすぴー)
岩手県出身の3人組フォークグループ、ニュー・サディスティック・ピンクの略称。メンバーは一関工業高等専門学校の同期。ギターの中村貴之は1953年(昭和28)6月12日宮古市に生まれ、宮古第一中学校から一関工専へ進学、血液型はO型。リーダーでギター担当の天野滋は一関市、ベースの平賀和人は花巻市の出身。1973年(昭和48)第5回ヤマハポピュラーミュージックコンテスト、略称ポプコンの全国大会で1位の小坂明子「あなた」に続いて、「あせ」が2位となりメジャーデビュー。その「あせ」をはじめとして「さようなら」「夕暮れ時はさびしそう」などのシングルを立て続けにヒットさせた。2004年(平成16)6月20日、春・夏の全国ツアーの締めとして東京・渋谷公会堂でのコンサートを成功裡に終了。引き続き、秋の全国ツアーを9月から展開。2005年(平成17)7月1日、天野滋が大腸癌で療養中に脳内出血を起こして急逝、享年52。

■NHKラジオ中継所(えぬえっちけーらじおちゅうけいじょ)
ラジオ塔。藤原の南の山上にある。大字磯鶏(そけい)のうち。1946年(昭和21)3月11日、八幡沖に開設。1952年(昭和27)藤原の国道45号沿いに移転し、9月11日中継開始。1964年(昭和39)11月、山上に移転。

■NTT東日本宮古サービスセンター(えぬてぃーてぃーひがしにほんみやこさーびすせんたー)
築地2丁目2番39号にある。℡0120-44-2388。電報電話局・電信電話局という日本電信電話公社時代の呼び方で呼ぶ人も多い。裏の旧築地通りに面した敷地内に、市指定文化財“鞭牛碑群”のうちの道供養碑がある。

■N.P.O(えぬぴーおー)
 宮古のN.P.O=特定非営利活動法人(50音順)
いわてマリンフィールド 三陸NPO支援センター ふれあいステーション・あい 街かどボランティア

■エビアン
かつてあった喫茶店。末広町(すえひろちょう)1番17号、昔の第2常盤座の通りの東並びで、建物は残っている(2006年1月現在)。1960年(昭和35)開店。2000年(平成12)頃に閉店したか?

■エル・アミーゴ
EL AMIGO。イタリア料理店。新町(あらまち)2番13号、黒田町(くろたまち)通りの東筋にある。ピザやスパゲティ類がメニューの中心。1974年(昭和49)開店。向かって左隣りは蔵造りの居酒屋“番屋”。

■エルザ
かつてあった手芸店。宮古駅前交差点の南東角地、いまの岩手銀行宮古中央支店(末広町7-20)あたりの駅前通り筋。2階は喫茶店トレビ。

■えるぶ
喫茶店。築地1丁目2番6号、℡0193-63-1152。市役所第2庁舎に向かって右側、旧築地通りの入口左側にある。

■遠藤公男(えんどう・きみお)
宮古市に住む著述家、動物学者、日本野鳥の会名誉会員。1933年(昭和8)一関市に生まれる。教師として主に山間部の小学校分校に勤務。岩手でコウモリの新種3、北海道で野ネズミの新種1、北上山地でイヌワシの巣を発見。2000年(平成12)日本鳥類保護連盟総裁賞を受賞。著書に「原生林のコウモリ」(学習研究社)、「盛岡藩御狩り日記」(1994年4月・講談社)、「帰らぬオオワシ」(偕成社)日本児童文学者協会新人賞、「ツグミたちの荒野」(講談社)日本児童文芸家協会賞、「野鳥売買 メジロたちの悲劇」(2002年・講談社+α新書)などがある。

■延命地蔵(えんめいじぞう)
旧愛宕中学校の正門前の西側・沢田側にある。常安寺7世の霊鏡龍湖が建立したという。そばの急峻な山道を下ると常安寺の墓地へ入る。地蔵の首が坂を転がって沢水を飲んでいたという伝説が残る。


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■追切(おいぎり)
字の名。大字重茂(おもえ)に属し、重茂半島北部の西側にある。

■追分碑(おいわけひ) → 絵入追分道標
田老の越田(こえた)にある嘉永元年(1848年)銘の石碑。田老から越田の坂を登って真崎の小港と北の摂待へ向かう分岐点に建ち、“右ハこみなと 左ハきたみち”と刻まれている。

■扇橋(おうぎばし)
旧山口川に架かる。末広町と保久田(ほくだ)・黒田町をつなぐ。宮古小学校への通学路上。1959年(昭和34)10月完成。

■扇橋旅館(おうぎばしりょかん)
廃業。黒田町3番地7号あたり、旧山口川に架かる扇橋の北・東筋。宮古小学校への通学路で、ガレージに卓球台が置かれていた。

■近江屋(おうみや) → ホテル近江屋

■大井(おおい)
藤原の旧家。房州(いまの千葉県南部)銚子から移住し、代々網元として財をなした。小島俊一「いしぶみの岩手」によると、墓所は書かれていないが、1794年(寛政6)に56歳で死去した大井某の墓には“生るれバ死ぬるものとは志里ながら名をなつかしき銚子盃”と刻まれているという。本歌は百人一首にある藤原道信朝臣の“明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな”。

■「大いなる旅路」(おおいなるたびじ) → 超我の碑

■大越電気(おおこしでんき)
末広町(すえひろちょう)6番1号、末広通りの北筋にある。支店のデジタルプロショップ・オオコシが、4軒西がわの末広町6番5号にある。

■大坂建設(おおさかけんせつ)
株式会社。宮町(みやまち)1丁目3番43号にある。℡0193-62-2305。宮古港ケーソンヤードでのケーソン製造を請け負う。重茂(おもえ)半島沖で海洋深層水を採取し、自然海塩「宮古の塩」を製造・販売。

■大笹山(おおざさやま)
JR山田線の津軽石駅から南西3km、下閉伊郡山田町との境にある。標高612m。

■大沢酒店(おおさわさけてん)
八木沢(やぎさわ)4丁目2番2号にある。℡不明。

■大沢商店(おおさわしょうてん)
八木沢(やぎさわ)4丁目1番32号にある。℡0193-62-2260。

■大沢山(おおさわやま)
市の南部、下閉伊郡山田町との境にあり、十二神山(じゅうにじんざん)の南東に位置する。標高673m。

■大須賀(おおすか)
民宿。日立浜町(ひたちはまちょう)6番22号にある。℡0193-62-3947。浄土ヶ浜行き・日立浜バス停のそばで、通り沿いに大きな看板が出ている。

■大杉神社(おおすぎじんじゃ)
光岸地(こうがんじ)の切り通しの上、青葉遊園内にある。湊(みなと)大杉神社が正称で、石段脇の石柱にそう彫られている。網場様(あんばさま)と愛称され、古くから漁師の信仰を集める。祭神は天之手力雄命(あまのたぢからおのみこと)。祭礼はかつて8月15日・16日、いまは7月最終土曜・日曜。合わせて宮古夏まつりが行なわれる。1754年(宝暦4)旧館(きゅうだて)いまの愛宕に勧請して小祠を建て、1933年(昭和8)現在地に社殿を建立したという。小島俊一「陸中海岸地名ウオッチング」には、宮古港の大杉安波(あんば)神社は五十集屋(いさばや)衆が銚子から船で勧請して鍬ヶ崎浦南角の鏡岩に祀った、漁民たちが熱狂的に踊るアンバ夜祭りは宮古名物だった、神輿を載せて大漁旗で飾った大小の漁船を繋いで湾内を巡り、沖ではブリキ製の魚を竿につけて釣り真似をし大漁と安全を祈る、とある。なお青葉遊園には宮古港戦蹟碑、鴨塚(鴨墳の碑)、織部灯籠、忠魂碑などがある。

■太田(おおた)
宮古市街地の西部、千徳の近内(ちかない)川の西側。西を千徳町、東を近内川を挟んで長根(ながね)に接する。

■大平熊の穴(おおだいらくまのあな)
蟇目(ひきめ)にある閉伊街道の難所のひとつ。鞭牛(べんぎゅう)和尚が宝暦年間(1751~1764)に閉伊街道を開削したさい、最大の難所である茂市(もいち)~蟇目の開削には多くの村民が協力したが犠牲者も多く、この地に“宝暦八年五月”銘の供養碑が建立された。

■太田おもちゃ屋(おおたおもちゃや)
末広町(すえひろちょう)2番11号、いまの小成園の場所にあった。1階が低年齢層向け、2階にはおもにプラモデルがガラスケースのなかにぎっしり並んでいた。1965年(昭和40)~66年頃、2階からさらに数段登ったところにレーシングカー用の大きなサーキットコースが置かれていた。レーシングカーはスロット・レーシングカーとも呼ばれた。田宮模型のロータス30やマクラーレン・エルバなどを買って組み立て、改造しては持ち込んだ。1回15分で50円ぐらいではなかっただろうか。近くの吉田書店には8の字の小さなホームサーキットが置かれていた。“モデルカーレーシングファンの専門誌”と銘打った月刊誌「モデル・スピードライフ」(科学教材社)も出ていた。

■太田浜(おおたはま)
重茂(おもえ)半島の西側、宮古湾に面し、白浜(しらはま)の南隣りにある。

■太田レストラン(おおたれすとらん)
かつてあった洋食屋。レストランおゝ田。末広町(すえひろちょう)5番1号の角地に1952年(昭和27)開店し、1984年(昭和59)閉店。宮古小学校への通学路になっている路地を挟んで東隣りは総合衣料わたなべ。路地を入ってすぐ右手、大通(おおどおり)4丁目3番3号に“とんかつおゝ田”があるが、太田レストランの後身か?

■大槌屋(おおつちや)
新町(あらまち)通りの横町(よこまち)に近い西筋にあって蒟蒻の製造・販売を業とした。鬼山親芳「評伝 小国露堂」によれば、大槌出身の小国某が1907年(明治40)に開業。

■大津浪記念碑(おおつなみきねんひ) → 津波記念碑

■大峠(おおとうげ)
平津戸(ひらつと)にある。山田線平津戸駅から宮古方面へ約2km、標高457m。閉伊街道・国道106号の難所のひとつで、1970年(昭和45)全長458mの大峠トンネルが通る。閉伊川には幅111m・高さ16mの大峠砂防ダムがある。

■大通(おおどおり)
宮古駅を背にして右手、東に広がる一帯の町並みで、1~4丁目がある。北を末広町・黒田町・新町(あらまち)に、東を向町に、北を宮町(みやまち)1丁目・南町に、西を駅前通りを挟んで栄町(さかえちょう)に接する。商店や旅館・医院が多い。県北バスの通るバス通り。

■大野折壁交流センター(おおのおりかべこうりゅうせんたー)
長沢にある。2006年(平成18)1月15日に開館。木造平屋建て、延べ床面積約216平方m。多目的ホール・研修室・調理室などがあり、農業研修・集会・会議、味噌や豆腐作りなどに使われる。

■大判焼き(おおばんやき) → お焼き
焼き菓子。鉄板の丸い型に溶いた小麦粉を流し込み、小豆餡を入れて焼く。大通(おおどおり)2丁目4番17号あたり、国際劇場という映画館の前から北へのびる通りの東筋に一軒、大判焼きの店があった。一説に屋号を甘太郎、姓を中居といったという。おでんも店頭で売っていた。店内はコの字型の座席にデコラのテーブルが置かれていた。その近く、大通3丁目1番28号に都(みやこ)まんじゅうを焼いて売る店ができたが、都まんじゅうは大判焼きではない。宮町(みやまち)の女学校踏切の近く、いまの出逢い橋の宮町側たもとあたりの西筋(宮町1丁目2番地)にも大判焼きの店があり、おでんも商っていた。

■大むかい(おおむかい)
大向。割烹。大通(おおどおり)2丁目3番23号、℡0193-62-6433。大通に面した南西角地にあり、向かって右(西)隣りは海産物店の光洋水産。

■オールウェイ宮古店(おーるうえいみやこてん)
ドラッグストア。宮町(みやまち)1丁目4番11号、国道106号沿いの南筋にある。℡0193-63-8666。紫波郡矢巾町に本社のある薬王堂のチェーン店。2005年(平成17)10月7日開店。この場所には、かつて“ので山”があり、オールウェイになるまえはデンコードーがあった。

■大鰐谷森(おおわんやもり)
市の北西部、大字(おおあざ)田代第12地割字(あざ)大鰐谷にある。標高788m。その北西に亀ヶ森(標高1112m)がそびえる。

■御水主町(おかこまち)
江戸期の町名。1632年(寛永9)に成立し、1870年(明治3)向町(むかいまち)に編入されたという。

■お飾り(おかざり)
宝来ともいう。一年の安泰と大漁・豊作・商売繁盛などの招福を祈る伝統的な飾り絵。神棚の下に貼る。図柄は郷土的な浄土ヶ浜や鮭、烏賊釣り、鮑採りをはじめ、一般的な恵比寿・大黒などの七福神や宝船、一富士二鷹三茄子、鶴亀、向かい鯛などなど。和紙に鮮やかな原色や墨・金の顔料で描かれ、大きさは半紙大から1間(約1.8m)の横長のものまで大小ある。値段は400円から3000円ほど。年末に魚菜市場などで売られ、日柄のいい日を選んで買い求める。ふつう毎年同じ図柄を選び、禍いごとがあったりすると替える。大掃除のあとに新しいものを古いものの上に貼り重ね、あるいは取り替える。12月27日から31日まで魚菜市場の駐車場で開かれる“お飾り市”は歳末の風物詩。宮古お飾り組合加盟の8業者が出店を開く。

■小笠原製麺所(おがさわらせいめんじょ)
舘合町(たてあいちょう)5番2号にある。℡0193-62-2428。愛称おがめん。屋印はヤマキ。半生製品の“三陸宮古 磯ラーメン”、“宮古の冷麺”やレトルト製品“あずきばっとう”などを製造・販売。
HP

■小笠原善平(おがさわら・ぜんぺい)
徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」(やどりぎ)の原作者。陸軍中尉。1881年(明治14)6月5日、岩手県下閉伊郡山口村、いまの宮古市山口に平民の父喜代助・母トキの次男として生まれる。山口村村長に就任した父が公金費消の嫌疑をうけて仙台の未決監につながれていたとき、陸軍第2師団長だった乃木希典中将を訪ねて学僕となり軍人への道を歩む。父は6年にわたる裁判に勝訴。善平は日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉を最後に病のため軍職を退く。乃木の恩に報いるため、自分の生きた証を残すため、膨大な手記を書いて徳冨蘆花に小説化を託す。療養中の1908年(明治41)9月20日午後、生家から近い長妹ゼンの嫁ぎ先の奥の間でピストル自殺。享年28。菩提寺の慈眼寺(じげんじ)に眠る。“故陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級小笠原善平墓”の書を乃木希典が揮毫。1909年(明治42)12月6日、徳冨健次郎著「小説 寄生木」が警醒社書店から刊行される。岩波文庫版「寄生木」第1巻が1956年(昭31)2月、第2巻が8月、第3巻が翌1957年2月に刊行される。1969年(昭和44)6月5日、遺品を収める寄生木記念館が山口1丁目5番44号、慈眼寺の門前に開館。

■小笠原ラムネ(おがさわららむね)
1911年(明治44)創業。3代、約90年にわたってラムネ、サイダーを製造・販売して休業。旧館(きゅうだて)の湧水を使ったという。昭和サイダーを製造・販売していた小笠原商事と同じ会社と思われるが不詳。

■お菓子(おかし) → 油煎餅 いか煎餅 ひゅうず

■おかめ
割烹・料亭。末広町1番18号にある。℡0193-62-2456、フリーダイヤル0120-245635。うなぎ料理がメイン。

■小川牛乳(おがわぎゅうにゅう)
山口5丁目1番27号にある。

■沖揚げ(おきあげ)
沖上げとも書く。春先に降る大雪。2~3月に日本の南に現われる南岸低気圧が発達しながら北東に進んで北から寒気を呼び込み、雨を雪に変える。駒井雅三「ふるさとの海」復版から引用する。
 屋根の除雪を急げと 布令(ふれ)をまわしたり 沖揚なれば 吹雪はやまず

■沖の井(おきのい) → 小野小町
浄土ヶ浜と日出島のあいだの海底にあって清水が湧くとされる井戸。小島俊一「陸中海岸風土記」によれば、「奥々風土記」に“浄土ヶ浜の四、五丁許(ばかり)沖(剣山の丑寅)の海中に真水湧出る処あり、則(すなわち)古へより其名聞ゆる沖ノ井是(これ)也”とある。一説に、小野小町の“おきのゐて身をやくよりも悲しきはみやこ島べの別れなりけり”という歌は沖の井を詠んだものとされる。1780年(安永9)8月15日の晩に舟を出した宮古の文人高橋直道は、沖ノ井を探しあてて“沖ノ井をいつくと問へばみちのくの宮古島辺に有明の月”と詠んだという。高橋直道は「沢内風土記」の著者で宮古代官所の役人をつとめた高橋子績(直養)の弟と思われる。

■沖の井(おきのい) → 海のアイス~沖の井
宮古観光協会が開発したアイスクリームの略称。正式には宮古・海のアイス~沖の井。

■沖の井食堂(おきのいしょくどう)
浄土ヶ浜の砥石浜(といしはま)にあった食堂・土産物屋。1980年代に隣接していた石川食堂などとともに撤去。

■小国露堂(おぐに・ろどう)
宮古出身の新聞人。北海道での石川啄木との交友で知られる。1877年10月12日、東閉伊郡宮古村横町(よこまち)の田代家に生まれる。本名は善平。小国家の養子となる。妻子を残して北海道に渡り、硬派(政治)記者・社会主義者としての生活を送る。この間に啄木と知りあって思想的・人間的に影響を与える。1911年宮古に帰り、9月に「宮古新聞」を創刊。再び渡道。1927年に宮古へ戻り、「宮古新聞」を復刊して3831号まで発行。1952年2月4日死去、享年76。辞世は“我れ死なば石碑はいらず大石に名もなき者の墓と書くべし”。参考文献に盛合聰「啄木と小国露堂」(1990年・熊谷印刷出版部)がある。

■おくまんさま おぐまんさま → 熊野神社
熊野神社の愛称。

■おくまん町 億万町(おくまんちょう) → 熊野町

■おくむら
奥村運動具店。大通(おおどおり)1丁目4番29号あたり、末広通りが中央通りと接続する交差点南東角の新よしの東隣りにあった。2006年(平成18)5月現在、空き店舗。店の前に郵便ポストがある。shiratori さんによると、“新よしさんの東側がおくむらさんです。今でもその前にポストがあって、おくむらさんが切手販売の委託を受けていました。今は隣の衣料品のペペさんが切手の販売をしています。あの場所は道路から何故か引っ込んでいます。℡の表示を〈でんわ〉と書くことにこだわっていました。背の高い優しいおじさんで、お世話になりました。ちょっと前までブティックでしたが、閉店して空き店舗になっています。”

■御蔵ヶ沢(おくらがさわ)
いまの中央公民館のある場所の地名。江戸時代に宮古通代官所、その裏手に盛岡藩の蔵2棟が置かれた。1873年(明治6)宮古戸長役場、1889年(明治22)宮古町役場が置かれた。宮古町時代に獄舎があったという。

■おげえ
魚の一種。うぐい(はや)の訛りらしい。閉伊川河口付近の岸壁などで釣れるが、小骨が多い。

■尾崎さま(おさきさま) → 黒崎神社

■オサムシ → イワテセダカオサムシ

■押角トンネル(おしかどとんねる)
雄鹿戸隧道。北西部の和井内と岩泉町を結ぶ国道340号にある。難所の押角峠を貫いて1935年(昭和10)に開通。長さ2987m。

■おしらさま
一般的には養蚕の護り神とされる。神体は棒状の桑の木で、何枚も布を着せられている。祟り神としても恐れられる。小正月の1月15日に、おしらさまを祀る家に地域の女性が集まり、いたこ(神子)を招いてお告げを聞き、会食するという。

■御深山(おしんざん)
訛ってオスンザンとも呼ばれる。横町(よこまち)の北側に連なる上ノ山(うえのやま)の中ほどに位置する。平凡社の日本歴史地名大系3「岩手県の地名」によると、横町の“ほぼ中央の山中には修験善龍院の奉仕した深山(しんざん)神社が現在もある”という。御深山の名は、この深山神社に由来する。ただし、深山神社の存在は未確認。中腹には石崎神社・羽黒神社が隣りあって建つ。石崎神社は、もと宮古小学校の東がわ、石崎にあった神明社が移転したもので、神体は石と伝える。羽黒神社は新町(あらまち)齋藤家の氏神で、祭日は旧暦4月18日。南麓に深山遊園地があった。現在は深山荘というアパートや民家が建つ。なお、深山を新山・神山と表記する例を目にするが、誤記と思われる。

■オステリア朝日亭(おすてりああさひてい)
盛岡へ移転したイタリアン・レストラン。黒田町(くろたまち)6番29号、黒田町から宮古小学校正門に出る路地の北がわにあった。1991年(平成3)開店。2006年(平成18)末に盛岡市菜園1-11-6丸乃第一ビル2Fへ移った。オステリア osteria はイタリア語で大衆食堂。ちなみにタベルナ taberna はイタリア・ギリシャ語で居酒屋・軽食堂のこと。

■お雑煮(おぞうに)
煮干しや昆布でだしをとった薄塩の澄まし汁で、セリ(芹)を入れる。だしは鶏でとる場合もある。甘いクルミだれの小鉢を添え、雑煮の餅にからめて食べるのが基本。クルミだれのほかに甘いゴマだれ・黄な粉を添えることも多い。黄な粉は必ず青大豆でつくった鶯色のものを用いる。餅は角餅が多い。

■御台場展望台(おだいばてんぼうだい)
浄土ヶ浜にある。穴ヶ崎の御台場跡で、第1駐車場から歩いて5分ほど。海沿いに北に行き、宮古港海戦記念碑の横の細道を東にたどる。

■小田代直子(おだしろ・なおこ)
*宮古出身・宮古在住の歌手。1986年(昭和61)3月31日生まれ。2歳で民謡を始めて3歳で初のステージに立ち、多くの大会で優勝を重ねる。2013年(平成25)2月に第34回NHK東北民謡コンクール優勝大会で大賞に輝き、4月10日にアルバム「明日への虹」でキングレコードからメジャーデビュー。澄んだ声でポップス調の曲も爽やかに歌いこなす実力派。

■男山(おとこやま) → 菱屋酒造店
酒の銘柄で、千両男山のこと。宮古唯一の蔵元である菱屋(ひしや)酒造店の製品。

■音部(おとべ)
重茂(おもえ)半島の一地区。音部川が太平洋に注ぐ。太平洋に面して音部漁港、漁村研修センターがある。大神宮があり、5月初旬に例祭が行なわれる。

■女遊戸(おなっぺ)
大字崎山(さきやま)の字名。女詰、女遊部とも書いた。読みは“おなつぺ”とも。女遊戸川が西から東へ流れ、女遊戸海水浴場の北で太平洋に注ぐ。途中、左岸から、さい川が合流する。栽培漁業センターがある。女遊戸海水浴場は2001年5月28日、浄土ヶ浜とともに環境省の“日本の水浴場88選”に選定された。地名の由来は、アイヌ語説、若者宿の一種の女宿に由来するという説など諸説ある。

■小野寺内科医院(おのでらないかいいん)
大通(おおどおり)1丁目2番5号にある。℡0193-62-3682。隣りにカフェバーのスターライトがある。

■小野寺餅店(おのでらもちてん)
保久田(ほくだ)5番2号にある。

■小野小町(おののこまち) → 沖の井
809年(大同4)?~ 901年(延喜1年)? 平安前期、9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。一説に、秋田生まれで、出羽郡司小野良真(良実、よしざね)の娘といわれる。宮古に住んでいたという伝説が、菅江真澄遊覧記(平凡社東洋文庫)所収の「小野のふるさと」に記されている。“小町姫が幼いころ人に盗まれて、陸奥の今のみやこ(宮古)のあたりに住んでいたのを、良実はこのことを夢にも知らず、ここに至って、この女が世になくみやびやかなので愛情をいだき、行く末を契って別れたが、後日になって実の親ということがわかったので、小町姫は泣き悲しんだけれどもかいもなく、わたくしこそ世にも稀な罪人であると、こののち、世の中の人に露ほどの契りも結ばなかったということである。このものがたりに「みやこしま辺の別なりけり」という歌を思い合わせた”。註に“みやこしま辺の……「おきのゐて身をやくよりも悲しきはみやこ島べの別れなりけり」(古今集巻二十)の小野小町の歌。「小町集」にも「伊勢物語」などにも載出されている”とある。みやこしま辺の歌は古今集から削除されたものらしい。「伊勢物語」で説話化されている。“むかし、みちのくにゝておとこ女すみけり。おとこ宮こへ去(い)なんといふ。この女いとかなしうて、むまのはなむけ越(を)たにせんとて、おきのゐてみやこしまといふ所にてさけのませてよめる おきのゐて身をやくよりもかなしきは宮こしまへのわかれなりけり”(第115段)。“おきのゐ”の解釈はいろいろあるが、一説に浄土ヶ浜と日出島のあいだの海底にあって清水の湧く井戸とされる。

■おばら
小原楽器店。末広町3番18号にあった。2004年10月頃、閉店。レコードやステレオの針、ギターの弦を買った。ギター本体を買ったのは小原だったか、同じく末広町にある服部時計店だったか記憶にない。

■お蒸かし(おふかし) → 赤飯
蒸かしてつくった食べ物。おもに赤飯をさす。

■お船chan(おふねちゃん)
宮古出身の女子プロレスラー。KAIENTAI-DOJO 所属。1985年(昭和60)3月18日生まれ。156cm・51kg。2005年(平成17)8月14日に引退。

■お盆(おぼん) → 花火
盂蘭盆(うらぼん)。新暦では、ひと月遅れで行なう。8月1日の夜、迎え松といって玄関前の路上で松明かしをする。松明かしはマヅアガスと発音され、町の商店や魚菜市場などで売られる割った松の根を焚く。7日(七日日=なぬかび)、13日(盆の入り)、14日、15日、16日(送り盆)、20日(二十日盆)、31日(送り火)にも松明かしをする。7日か8日に先祖の墓を掃除しにいくことを墓払い(ハガハレー)と呼ぶ。また7日には7回水浴びをして7回はっとう(うどん状の食べ物)を食べると健康になるという言い伝えがある。13日には先祖を迎えるため、菩提寺のろうそくから迎え火を提灯にもらいうけ、家に帰って仏壇に灯す。14日の朝に、水やお茶、供え物を持って墓参りをする。墓所でも松を焚く。 松明かしの日には必ず、子どもに限らずおとなも花火をする。

■雄又峠(おまたとうげ)
雄又の坂とも呼ばれる。市の北西部で、大字の近内(ちかない)・田代・崎山の接点に位置する。田代地区と宮古市街地を結ぶ道の難所だった。標高410m。眺望にすぐれ、市街や宮古湾、月山などを一望できる。

■お松(おまつ)
於松、松。盛岡藩第3代藩主・南部家第29代当主の南部重信の生母。花輪内膳の娘として花輪に生まれる。1615年(元和1)4月、盛岡藩初代藩主南部利直が慶長大津波の被害を視察するため宮古に滞在したさい身のまわりの世話係となり懐妊、翌1616年に花輪で重信を産んだ。1638年(寛永15)7月14日、花輪で死去。享年は37とも43ともいう。法号は慈徳院殿松室貞林大師。墓は華森神社にある。重信は50回忌に “受けよ母五十の霜にかれやらて残るかひ有この手向草”と詠み、この歌を刻んだ石碑が長沢川桜づつみに1995年(平成7)4月建立された。

■重茂(おもえ) → 重茂半島
重茂半島の大字。太平洋に面して重茂漁港があり、重茂川が注ぐ。重茂児童館・重茂小学校・重茂中学校や重茂漁業協同組合、重茂漁業協同組合ふ化場、岩手県北バス重茂営業所、姉吉キャンプ場、とどヶ崎灯台などがある。南に十二神山(じゅうにしんざん)を擁し、東麓に十二神自然観察教育林がある。教育林の入り口に林野庁の“森の巨人たち百選”に選ばれた“重茂の大ケヤキ”がそびえる。十二神山で下閉伊郡山田町(やまだまち)と接する。

■重茂川(おもえがわ)
重茂地区を北に流れ、重茂漁港のすぐ北で太平洋に注ぐ。流程2.7km。鮭が溯上する。重茂漁業協同組合の重茂川ふ化場が重茂7-1にある。

■重茂漁業協同組合(おもえぎょぎょうきょうどうくみあい)
大字重茂第1地割字西大舘37番地1にある。℡0193-68-2211。
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■重茂小学校(おもえしょうがっこう)
大字重茂第2地割字舘12番地にある。1876年(明治9)6月創立。

■重茂中学校(おもえちゅうがっこう)
大字重茂第2地割字舘1番地にある。1947年(昭和22)4月創立。
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■重茂の大ケヤキ(おもえのおおけやき) → 十二神自然観察教育林

■重茂半島(おもえはんとう)
重茂崎(おもえざき)とも呼ぶ。市街の東、太平洋の荒波をさえぎって位置し、西側に宮古湾をかかえる。重茂・白浜(しらはま)・音部(おとべ)・赤前(あかまえ)・津軽石(つがるいし)などの地区に分かれる。標高455.9mの月山(がっさん)がそびえ、頂上に月山神社・展望台・テレビ塔などが立つ。太平洋に面して本州最東端のとどヶ崎が位置し、とどヶ崎灯台がある。北端は閉伊崎(へいざき)、南の十二神山を境として下閉伊郡山田町と接する。重茂半島の沖合いは寒流の親潮と暖流の黒潮のぶつかる有数の漁場で、わかめ、こんぶ、秋鮭をはじめ天然のうに、あわびなども豊富。半島の人口は約1800人、477世帯のうち450世帯が漁業に従事している。

■玩具(おもちゃ)
手作りのぬいぐるみ、紙風船、ゴム風船、紙飛行機、糸車、独楽、竹でつくる紙鉄砲、竹とんぼ、割り箸でゴムを飛ばすゴム鉄砲、ローソクで走るブリキのポンポン蒸気船、凧、竹ひご・ニューム管の骨組みに紙を張ったゴム動力の飛行機、フラフープ、だっこちゃん、木っ端でつくった船、プラモデル、レーシングカー……

■小本線(おもとせん) → 岩泉線
①鉄道路線。いまの岩泉線。下閉伊郡岩泉町小本を終点として計画されたが、岩泉駅~小本駅の区間は実現しなかった。
②バス路線。岩泉駅~小本駅を結び、岩泉町民バスが運営。

■小本屋(おもとや)
酒店。本店が横町(よこまち)通りの沢田1番60号(℡120-00-4402)、支店が末広町3番22号の角地にある。小本屋商店は、みどり公園の北側の角地、緑ヶ丘2番10号(℡0193-62-4701)にある。

■お焼き(おやき) → 大判焼き
焼き菓子。鉄板の丸い型に溶いた小麦粉を流し込み、小豆餡を入れて焼く。一中(宮古市立第一中学校)の近く、女学校通り西筋(宮町1丁目3番地)にある民家の軒先に常設の屋台が設けられていた。1970年(昭和45)頃まで3個で10円だった。大判焼きよりかなり小さく、小判焼きとも呼んだ。八幡前に住んでいた人の話では“緒方さんの栗焼き”と言ったという。

■御休石(おやすみいし)
五月町の北奥、黒森神社の旧参道入口にある。台形の石に、右から“御体石”と刻まれる。右側面に寛政九年八月廿九日、左側面に“黒田村 市兵衛”とある。寛政九年は1797年。第10代盛岡藩藩主の南部利敬(としたか、1782~1820)が黒森神社に参詣したさいに腰かけて休んだ石とされる。この説のとおりなら、御体石の体は休の誤刻。

■おやつ
宮古弁で小昼(こびる、こびり)という。子ども時分によく食べたおやつを列挙する。油煎餅・いか煎餅・山田煎餅・マコロン、お焼き・大判焼き、コロッケ・煮豆、するめ・煮干し、干し芋・焼き芋・蒸かし芋、柿・干し柿・豆柿、林檎・蜜柑、とうもろこし、苺・西瓜・かき氷、はったい粉(香煎)の練ったの、パンの耳、煎餅の耳、駄菓子系のノシイカ、ゲソ、餡こ玉、飴玉、プラスチックのチューブや試験管のような透明なガラス管に入った寒天状のもの……。いくつかは別項目を立てて書いた。

■親不孝通り(おやふこうどおり)
俗称。飲み屋が建ち並ぶ通りや一郭を指す。幹線道路をつなぐ肋骨道に飲み屋の集中したところがある。特に大通(おおどおり)1丁目1番と2番のあいだの通りなどを言うか?

■おやまの沢(おやまのさわ)
中里団地から梅翁寺(ばいおうじ)の横を通り、鍬ヶ崎仲町(くわがさきなかまち)へ下っていた小川。小山の沢と書くか?

■おらほのクッキー → みやこ書店
商品名。鮭の中骨の粉末を練りこんで焼いたクッキー。西町(にしまち)の、みやこ書店が製造・販売。

■織部灯籠(おりべとうろう)
光岸地(こうがんじ)の青葉遊園・大杉神社境内、忠魂碑の裏手にある。慶長期(1596~1615)織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で茶人の古田織部(1544~1615)が考案した灯籠。十字架をかたどったとされる。宮古に移入された時期・経緯などは不明。1957年(昭和32)12月25日、市の史跡に指定された。

■お笑い三陸ボンバーin宮古(おわらいさんりくぼんばーいんみやこ)
高校生たちが企画し、中央から若手の人気芸人を呼んで興行した“お笑いライブ・コンサート”。2004年8月15日(日)、宮古市民文化会館大ホールで開かれた。

■温泉(おんせん) → 宮古湾温泉マース


宮古大事典
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