*印を付した記事は2011年(平成23)3月11日の東日本大震災を織り込んだもの。
以外は、その前に書いた記事です。
                                  
宮古大事典    た       未分類
            
            
            
            
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■第一映画劇場(だいいちえいがげきじょう) → 東映
かつてあった映画館で、東映のこと。

■第一中学校(だいいちちゅうがっこう)
宮古市立第一中学校が正称。宮古第一中学校とも呼ぶ。一中(いっちゅう)と略称。所在地は宮町(みやまち)2丁目5番7号。閉伊川左岸の土手沿い、横山八幡宮の東麓に位置する。八幡宮の参道を通って正門に入る。校庭の西に市指定天然記念物の公孫樹“逆さ銀杏”がある。1947年(昭和22)4月、新制中学校として横町の宮古小学校内に創立。藤原校舎を経て現在地に移転。この地には旧制の岩手県立宮古高等女学校、新生の岩手県立宮古高校があった。
【校訓】文武両道
【校歌】一、西空はるか早池峰は 聖の如く無言にて 清き流れの宮古川 岸辺のいらか輝きて 理想の校舎そびえたり  二、八幡丘に百鳥の さえずり四季の花匂う はつらつ若き一千の 心高鳴り身は躍る 我が学舎(まなびや)に光あり  三、潮鳴り遠くまた近く 海鳥群れて鳴き交わす 陸中の海夢多く 学びの庭の広くして 知識の林緑なり
【沿革】 同窓会報「八幡の里通信」、宮古市史年表ほかを参照
1947年(昭和22)4月1日、新学制による第一中学校が横町の宮古小学校内に創立される。
         千徳分室を千徳小学校内、亀岳分室を亀岳小学校内に置く。
        6月20日、宮古小学校講堂で開校記念式。
        9月16日、キャサリン台風による水害のため臨時休校。
        9月24日、秋季大運動会。
1948年(昭和23)3月25日、宮古小学校講堂で1947年度卒業式、112人が卒業。
        4月1日、亀岳分室が独立して亀岳中学校となる。
         月 日、八幡校舎を建設し八幡分室4教室を設置。
          4月1日、新学制による高等学校が発足。
          宮古第一高校・第二高校(もと高等女学校)・水産高校の3校。
        7月15日、一中PTAが発足。
        9月、アイオン台風襲来。
1949年(昭和24)1月22日、宮古小学校の新校舎が全焼し、
         宮古高校(旧女学校?)東校舎内に1年2学級・2年2学級を移す。
        3月19日、第2回の卒業式、216人が卒業。
        4月1日、第一中学校(宮古小・山口小・近内小学区)に第三中学校
         (藤原小・磯鶏小学区)を統合し、現在の藤原小学校に本校を置く。
        宮古小学校内の教室は横町分室となる。千徳分室は従来のまま。
          4月1日、宮古一高と二高が合併し、宮古高等学校に改称。
1950年(昭和25)4月6日、入学式、455人が入学。
        4月、一中生徒会が誕生。
        6月、「新聞一中」創刊。
1951年(昭和26)3月、495人が卒業。
        4月?、宮古小学校内の横町分室を廃止。
         春の遠足は1年浄土ヶ浜、2年日出島、3年赤前浜。
1952年(昭和27)3月22日、宮古高校講堂で卒業式、475人が卒業。
        4月1日、千徳分室が独立して千徳中学校となる。
        11月1日、宮古市教育委員会が創立。
1953年(昭和28)3月、宮古高校講堂で卒業式、437人が卒業。
         月、第2八幡分室を宮古高校内に設置。
1954年(昭和29)3月、宮古高校講堂で卒業式、401人が卒業。
        4月1日?、藤原校舎に河南中学校が創立。
         第一中学校は宮古高校と校舎を交換して八幡校舎に移る。
1955年(昭和30)3月、327人が卒業。
1956年(昭和31)3月、381人が卒業。
1957年(昭和32)9月29日、創立10周年記念運動会。
        12月25日、逆さ銀杏が市の天然記念物(植物)に指定される。
1958年(昭和33)9月6日、文化祭で校歌を発表し制定。
         作詞・駒井雅三、作曲・千葉了道岩手大学教授。
1959年(昭和34)ブラスバンドを創設。
        ブロック建て教室を増築。
        野球用バックネット設置。
1960年(昭和35)1月1日、PTAから寄贈された校旗の樹立式。
        2教室増築。正面玄関改装。教育用テレビ設置。
        5月24日、チリ地震津波。
1961年(昭和36)4月、生徒手帳を発行。ブロック建て4教室を八幡鳥居側に増築。
        5月29日、三陸フェーン大火が発生。
        被災した田老二中の生徒を受け入れ。
1962年(昭和37)4月10日、鳥居前に宮古服飾生活学校が開校。
        相撲場が完成し、八幡さまの祭典に奉納相撲。
        家庭科教室に調理台12基を設置。
1963年(昭和38)4月6日、入学式、新入生366人。
        4月12日、校庭の桜が咲き始める。
        4月16日、桜満開。
1964年(昭和39)3月19日、卒業式、475人卒業。
        4月7日、入学式、新入生355人。
1965年(昭和40)4月?、牛乳のみの給食が始まる。
        7月1日、新住居表示を実施し八幡前は宮町となる。
1966年(昭和41)12月、講堂を改修。
1967年(昭和42)生徒大会で女子の制服問題が討議され、学校・PTAが制服採用を決定。
1968年(昭和43)5月16日、十勝沖地震が発生、八幡山に避難。
1969年(昭和44)
1970年(昭和45)5月19日、新校舎建設のための地質ボーリング調査が始まる。
        6月30日、庭木を移植。
        7月29日、プレハブ校舎の建設が始まる。
        9月3日、飛鳥建設が工事入札。
        9月20日、講堂・理科室・音楽室の解体が始まる。
        10月7日、杭打ち。
        10月8日、地鎮祭・起工式。
1971年(昭和46)3月25日、第1期工事、鉄筋4階建て校舎が完成。
        5月18日、第2期工事が始まる。
        6月14日、新校舎で3年生が授業を開始。
1972年(昭和47)1月12日、第2期工事が終わり、3学期から使用。
        3月18日、旧校舎の解体が始まる。
        6月19日、第3期・第4期工事が始まる。
        12月20日、第3期工事が終わる。
1973年(昭和48)8月4日、第4期工事が終わる。
        11月5日、落成式。
1974年(昭和49)グラウンド南側に、いちょう公園が設置される。
  1978年(昭和53)11月29日、小山田橋が開通し、仮橋が撤去される。
  1984年(昭和59)7月26日、国道106号宮古バイパスが全通。
1992年(平成4)11月15日、宮古市立第一中学校同窓会が創立。
  1995年(平成7)3月、出逢い橋が完成し、女学校踏切が廃止。
1996年(平成8)6月22日、同窓会報「八幡の里通信」を創刊し、
        第1号・第2号を同時に発行。
1997年(平成9)10月11日、創立50周年記念式典。記念誌「躍進」を刊行。

■第一常盤座(だいいちときわざ) → 常盤座
かつて築地にあった映画館。

■対鏡閣(たいきょうかく)
初め鍬ヶ崎上町の高台にあった総檜造りの建物。東屋分家の菊長(きくちょう)こと三代目菊池長右衛門が造営した別邸。完成は宮古市史年表によると1913年(大正2)。対鏡閣の名は、鏡岩に対するという意味でつけられたと思われる。1936年(昭和11)10月26日、秩父宮が山田線視察に来訪したさいに宿泊。ラサ鉱業が田老鉱山とむすぶ鉄索を新設するため買収し解体、磯鶏(そけい)浜の南端に移転した。30坪ほどの平屋で、1945年(昭和20)の敗戦直後に米軍の慰安所となった。1955年(昭和30)に詠まれた歌に“磯鶏なる対鏡閣の大広間 巨湫(きょしゅう)雅三(がぞう)の歌碑序幕さる”(駒井雅三)がある。

■大江堂(たいこうどう)
かつてあった判こ屋。大通(おおどおり)3丁目1番22号、旧8分団の前から八幡沖(はちまんおき)踏切に向かう道に入ってすぐの東側にあった。0193-62-5625。その後、八幡沖踏切そばの小林餅店に向かって右隣りの大通3丁目5番5号へ移転し、閉店。初め黒田町(くろたまち)4番1号、第二幹線と黒田通りとが交わる北西角地で開業し、新町(あらまち)1番10号あたり(908)、次いで八幡通り(のち住居表示の変更で大通3丁目となる)へと移転。南隣りの田村カメラ店が閉店したあとを借りて拡張。南隣りに松田靴店、北がわに蜂の巣(飲み屋)・伊義テーラーなどができた。向かいは旅館の晃生館。大江堂の姓は吉田。フラフープが流行ったとき、なぜかこの店でも売っており、大量の売れ残りを宮古小学校に寄付したという。

■ダイコク
閉店。紳士服専門店。末広町(すえひろちょう)5番1号にあった。0193-62-6373。

■第34閉伊川橋梁(だいさんじゅうよんへいがわきょうりょう)
*JR山田線の宮古駅〜磯鶏(そけい)駅間に架かる鉄橋。単に閉伊川鉄橋とも呼ばれる。閉伊川に架かる鉄橋のうち最も河口寄り、河口から500mほどさかのぼった南町(左岸)と藤原(右岸)の間に位置する。下流側に宮古橋が平行する。長さ241m。橋桁10基・橋脚9基。1935年(昭和10)完成。1945年(昭和20)8月10日、アメリカ軍の宮古空襲で艦上機による機銃掃射を浴び、その弾痕が残る。2011年(平成23)3月11日、東日本大震災の津波を受けて西側・宮古駅側の橋桁6基・140mが流出し、復旧の見込みが立っていない。流出した橋桁のうち弾痕の残る部分が宮古市民文化会館に保存されている。

■大勝橋(たいしょうばし)
旧山口川に架かる短い橋。市の中心部で大通(おおどおり)1丁目と黒田町(くろたまち)とをつなぐ。そばに長谷川製材所・駐車場がある。1959年(昭和34)8月に完成。

■第二幹線(だいにかんせん)
二幹線。末広通りの北に並行して東西に延びる通り。末広通りが第一幹線。西は舘合町(たてあいちょう)で旧盛岡街道に接続して丁字路をなし、東は本町(もとまち)通りと接続して丁字路をなす。1932年(昭和7)9月30日に着工、1933年4月に完成。東から西への一方通行。

■第二中学校(だいにちゅうがっこう)
二中(にちゅう)と略称。宮古ニ中、宮古第二中学校とも呼ぶが、正称は宮古市立第二中学校で、宮古市立宮古第二中学校ではない。日の出町7番1号にある。1947年(昭和22)6月14日、鍬ヶ崎小学校旧校舎を仮校舎として開校。1955年(昭和30)9月28日、現在地に校舎を建設。1986年(昭和61)校舎・体育館を新築。校門の石柱は、かつての公会堂、いまの市役所前の山口川に架けられていた夫婦(めおと)橋の欄干の親柱一対を再利用したもの。もう一対は宮古商業高等学校の校門となっている。

■第二常盤座(だいにときわざ) → 常盤座
かつて大通(おおどおり)4丁目2番1号にあった映画館。

■ダイヴィング(だいびんぐ) → いわてマリンフィールド

■台風(たいふう)
1947年(昭和22)9月15日〜16日 キャサリン台風
1948年(昭和23)9月15日〜17日 アイオン台風

■タイマグラ
北上山地の最高峰・早池峰(1917m)の東麓に広がる戦後の開拓地。標高500m。住居表示は大字江繋(えつなぎ)字向神楽。タイマグラは「森の奥へ続く道」という意味のアイヌ語といわれ、大麻座・大麻倉と当てる。キャンプ場・バンガロー村などがある。1988年(昭和63)12月、日本で最後に電気が灯る。2004年(平成16)10月23日、ドキュメンタリー映画「タイマグラばあちゃん」公開。2009年(平成21)11月21日、ドキュメンタリー映画「大きな家〜タイマグラの森の子どもたち」公開。ともに監督は澄川嘉彦。

■鯛屋商店(たいやしょうてん)
熊野町(くまのちょう)1番1号にある。ヤマザキショップの看板を掲げている。大正初期に鯛焼き屋の大正軒として開店。客から鯛屋と呼ばれたので改称。大正後期から“鰹せんべい”を製造・販売。1925年(大正14)岩手日報が行なった県産品人気投票で観光土産菓子類の1位に選ばれたが、戦中の物資統制により製造を中止した。

■太洋映画劇場(たいようえいがげきじょう)
かつて鍬ヶ崎上町にあった映画館。1960年(昭和35)開業。

■大漁唄い込み(たいりょううたいこみ)
重茂(おもえ)の鮪立網漁師のあいだで歌い始められたといわれる民俗芸能。

■大漁旗(たいりょうき) → フライキ 加賀屋染店
タイリョウバタとも読む。

■タウン情報社(たうんじょうほうしゃ)
タウン誌「月刊みやこわが町」の発行元。大字(おおあざ)松山第5地割字野田13番地6号にある。0193-64-0888。

■高栄(たかえい)
民宿。日立浜町(ひたちはまちょう)8番6号にある。0193-63-2776。

高幸(たかこう)
総合衣料品店。末広町2番8号にある。0193-62-2223。

■高京(たかきょう)
総合衣料の店・きものセンター。本町(もとまち)1番51号にある。

■たかしち
高七。喫茶店。本町(もとまち)1番40号、中央通りに面している。前に信用金庫前バス停留所がある。1946年(昭和21)か47年ごろに開業し、宮古で最も古い喫茶店といわれる。前身は衣料品店。姓は高岩。向かって左隣(西)に小成書店があった。かつて小成書店で本を買い、高七でコーヒーを飲み、ナポリタンやサンドイッチを食べながら読んだ。

■高島屋(たかしまや)
江戸末期から全盛を極めた鍬ヶ崎(くわがさき)有数の廓(くるわ)。現在の鍬ヶ崎上町(かみまち)8番13号、宮古信用金庫鍬ヶ崎支店のあたりにあり、“一に鍬ヶ崎、二に高島屋、三に沢屋か緑屋か”“鍬ヶ崎名所は大島小島、それにもましたる高島屋”などと唄われた。利世というオシャラク(遊女)がおり、肺を患って田老・樫内(かしない)の実家で1862年(文久2)に死んだ。享年は19とも21ともいわれ、田老に伝わる民話「駒止めの桜」のモデルとされる。

■高新(たかしん)
かつてあった氷屋。向町(むかいまち)5番5号あたり。宮古橋に続く道の、角地がガソリンスタンドの横手にあった。店名は経営者の名の高橋新平に由来。夏の盛りには宮古から藤原・磯鶏への海水浴の行き帰りに寄る人や学生などで混雑した。チャンピオン氷という特大のカキ氷は、食べきればタダになった。

■高千商店(たかせんしょうてん)
雑貨屋の老舗。大通(おおどおり)1丁目5番6号、中央通りの北筋にあり、向かって左隣り(西)は西野屋の大通店。0193-62-1171。

■高長(たかちょう)
藤原にあった旅館。海浜学校・臨海学校の生徒を受け入れ、また仕出し弁当を作ったりもしていた。

■高橋交差点(たかばしこうさてん)
中央通りと本町(もとまち)〜向町(むかいまち)の通りとの交差点。北東角地は洋菓子の藤田屋。南東角地には靴のマルマツがあったが2006年(平成18)駐車場となる。もとの山口川に蓋がされる前に高橋(たかばし)が架かっていたところからの命名。この橋は旧名を御水主町(おかこまち)橋といい、藩制期には向町側に宮古湊に置かれた藩船宮古丸・寅丸の乗員と家族が住んだ御水主町があった。

■高橋孤舟(たかはし・こしゅう)
本名は高橋英太郎。画家・陶芸家。宮古高校の美術教師を務めた。1910年(明治43)いまの秋田県仙北郡中仙町(なかせんまち)清水斉神に生まれる。横手中学を卒業。上京し、同舟舎洋画研究所・帝国美術学校洋画科で絵画を学ぶ。その後、新聞社嘱託として中国へ渡る。戦後、妻の郷里である宮古へ引き揚げ、宮古高校の美術教師となる。退職後の1979年(昭和54)から陶芸に手を染めて孤舟窯を開き、1995年(平成7)中仙町で個展を開催。2001年(平成13)1月、肺炎のため宮古で死去、享年90。

■高橋貞子(たかはし・さだこ)
作家。1926年(大正15・昭和1)岩泉町に生まれる。県立盛岡高等女学校卒業。50年間にわたって岩泉地方の民間伝承を採集。著書に「岩泉の昔ばなし 火っこをたんもうれ」1977年・熊谷印刷出版部、「岩泉の昔ばなし まわりまわりのめんどすこ」1978年・熊谷印刷出版部、「岩泉の昔ばなし 昔なむし」1991年・熊谷印刷出版部、「河童を見た人びと」1996年・岩田書院、「座敷わらしをみた人びと」2003年・岩田書院、詩集「人類誕生」などがある。日本口承文芸学会、日本民話の会に所属。

■高橋幸子(たかはし・さちこ)
画家。磯鶏(そけい)出身。宮古高校を経て武蔵野美術大学を卒業。日本国際美術家協会・日本美術家連盟の会員。東京都内を中心に個展を開催し都知事賞など受賞多数。2006年(平成18)油絵「故郷の海岸」を描く。

■高橋子績(たかはし・しせき)
江戸時代の漢学者で、宮古代官所の役人。1700年(元禄13)高橋八郎左衛門治富(はるよし)の長男として宮古に生まれる。通称は判左衛門、諱を長熙(ながひろ)または直養(なおよし)という。1727年(享保12)船手役、1737年(元文2)宮古代官所下役となる。1762年(宝暦12)3月7日、盛岡藩より和賀郡沢内村へ左遷を命じられる。1770年(明和7)許されて宮古へ戻る。1781年(安永10・天明1)宮古で死去、享年82。著書に「沢内風土記」「奥州南部封域志」「横山八幡宮回縁記」「黒森山陵誌」「宮古八景詩稿」「伊勢参宮紀行」「新刀名鑑」「子績詩文集」などがある。「沢内風土記」は沢内村に左遷されていたあいだに書いたもので、1976年(昭和51)1月1日、黒沢尻北高校教諭の泉川正と沢内村郷土史研究会の手によって復刻・刊行された。

■高橋寿太郎(たかはし・じゅたろう)
海軍少将・政治家・田老(たろう)村長。1879年(明12)1月15日、千徳(せんとく)村の高橋福弥・ヨシの3男として生まれる。千徳小学校を卒業。1894年(明27)から翌年まで宮古鍬ヶ崎組合立高等小学校の代用教員を務める。1896年(明29)東北学院に進学。夏休みに徳冨蘆花「小説 寄生木」の原作者である小笠原善平と会い、学問や進路について話し合う。善平が仙台に出奔したさいも宿を訪ねている。「寄生木」には“高山”という仮名で登場する。1897年(明30)海軍兵学校に入学。1902年(明治35)少尉任官。1905年(明38)5月27日から翌日の日本海海戦で東郷艦隊の富士に乗り組む。1924年(大13)少将に昇進。1928年(昭3)予備役となる。中央大学で法律を学ぶ。1930年(昭和5)民政党の衆議院議員となる。1938年(昭13)田老村長に就任。1945年(昭和20)4月8日死去、享年66。「千徳青年団の歌」(正義を進め邪を排し青年の意気朗らかに一千徳の名を挙げよ 心を磨き体を錬り事ある時は奮い立ち一千徳の名を挙げよ)を作詞。

■高橋文中(たかはし・ぶんちゅう)
宮古通代官所下役・高橋子績の3男。1764年〜72年(明和年間)ごろの勤皇の志士。江戸に出て井上蘭台の門に入る。1766年(明和3)山縣大弐の事件にかかわり、江戸で逮捕・投獄される。墓は常安寺にある。

■高浜(たかはま) → チリ地震津波
宮古湾の西岸にある浜・地区。高浜1〜4丁目と大字高浜に分かれる。北は磯鶏(そけい)、南は金浜(かねはま)、西は八木沢(やぎさわ)に接する。国道45号が通る。高浜漁港、高浜簡易郵便局、高浜小学校・高浜保育所、高浜稲荷大明神、喫茶店の異人館などがある。1960年(昭和35)5月、チリ地震津波で大きな被害を受けた。

■高浜稲荷大明神(たかはまいなりだいみょうじん)
高浜稲荷神社とも。別名どんこいなり。高浜1丁目7番にある。漁業・商売の神。例祭は10月中旬の日曜日。黒森神楽が巡行する。1725年(享保10)漁師の佐々木惣次郎が氏神として京都から勧請。1872年(明治5)高浜村の村社となる。

■高浜漁港(たかはまぎょこう)
宮古湾の西岸、高浜にある。岩手県の管轄。第1期は1982年(昭和57)頃に竣工し、第2期拡張工事は継続中か?

■高浜小学校(たかはましょうがっこう)
高浜4丁目7番22号にある。沿革によると、1876年(明治9)6月29日、第8大区第2中学区第18区金浜学校として創立。1880年(明治13)3月13日、金浜学校から独立。1886年(明治19)11月5日、金浜学校・高浜学校が合併して高浜簡易小学校となる(100周年の起点)。(明治43)4月18日、高浜第4地割22番地に移転。1954年(昭和29)7月19日、校歌制定。1960年(昭和35)5月24日、チリ地震津波で被災。翌1961年7月1日、高浜第6地割字下地ノ神47番6号(現在地)へ移転。

■高浜バーチャル津波資料館(たかはまばーちゃるつなみしりょうかん)
サイトは消滅。高浜小学校に赴任していた佐藤正寿(まさとし)教諭が作製したホームページ。現在は水沢小学校に勤務。

■高浜郵便局(たかはまゆうびんきょく)
高浜簡易郵便局。高浜3丁目1番3号にある。0193-63-6817。

■高村光太郎(たかむら・こうたろう)
詩人・彫刻家。1931年(昭和6)7月から8月ごろに宮古など三陸沿岸を汽船で訪れ、10月の「時事新報」夕刊に「三陸廻り」を連載している。宮古市史年表に月日の記載はない。“海が暮れかかる頃、とどヶ崎の灯台を通過する。灯台で赤いランプを出す。船が答える。七時になると、もう遠くなった灯台にぱっと火がつく。白灯。明暗か旋回か、ゆるく息をついている。又、暗い夜となる。銀河が近く光り、星が海に反射する。凪がいい。午後八時過ぎ宮古の関門、世に唄われる南部鍬ヶ崎の何となくなまめかしく、しかも灯火のさびしい埠頭につく。……海岸通りには町並はなく、二番目の通りが急に明るい。鍬ヶ崎は両側に大きな妓楼が建ち並び、門口には妓夫や女が立っている。旧盆前なので軒下で仏事の火を焚いている家もある。人力車の車夫が奨めるので、此処から十余町ある宮古にむかう。車上から物珍しげに左右を見まわす。一人の女性が、「何見ておれんす」と、私をはやす。皆がどっと笑う。ひどくなごやかな所へ来た気がする。車は暗い切通しを越え、長い黒塀つづきの魚くさい河岸を走って宮古につく。……思うに宮古の建設者は日本海溝に異変があるたび大津波の害をうける海岸を避けて、閉伊川をさかのぼった地点に家屋を建て、かえってこの川の方を玄関口にし、海岸を裏門にしたものであろう。その海岸の空地に一時的な娼家の出来たのが、今の鍬ヶ崎の始まりではなかろうか。裏が今は表になっている。……宮古は成程古い由緒ある町だと、一歩外を歩けばすぐ思う。落着いた、風格のある古典の町だ。蒸暑い夜空の下に市がたつ大通りへ行って人を見る。「トマトけどがんせ」というような声が不思議に雅びだ。”云々と書いているという。

■たからや
十割そばたからや。茂市(もいち)第4地割9−1にある。0193-72-2666。石臼で挽いた100パーセント蕎麦粉の十割蕎麦を売りにしている。旧新里村に店を開いたのは宮古の人だという。

■滝(たき)
青野滝川 青野滝(隠滝)
刈屋川  長松の滝
     倉の沢大滝
     平片の滝(平片不動滝)
田代川  馬場(ばんば)滝
     機織り滝
     八瀬(やなせ?)の滝
長沢川  鵜主の滝

■多喜子(たきこ)
シンガー・ソングライター。姓は千葉、旧姓佐藤。1954年(昭和29)八幡通りに生まれる。宮城県仙台市の尚絅女学院短期大学を卒業。三重県「合歓の郷(ねむのさと)」ボーカルタレントコースで1年間学ぶ。ヤマハ仙台支店でボーカル講師を務める。NHK-FM「夕べのひととき」で「多喜子のポピュラータイム」を6年間担当。キングレコードから自作曲「人生の円舞曲(ワルツ)/振子時計」でデビュー。1994年から3年の台湾生活を経て帰国し、97年5月に音楽活動を再開。98年夏、20年前に死んだ詩人DON-PUCKのトリビュートCDに参加。98年12月から気仙沼市でライブコンサート実行委員会を設立。現在、仙台を拠点に東北各地のライブスポットなどに出演中。

■田鎖(たくさり)
宮古市の西部、閉伊川の右岸に広がる。北は閉伊川を挟んで根市(ねいち)・千徳(せんとく)、東は松山、南は花輪(はなわ)に接する。国道106号に接続する花輪橋が閉伊川に架かる。東を閉伊川支流の長沢川が北東に流れる。田鎖城跡がある。かつて田鎖氏が閉伊川右岸一帯を治め、河南閉伊氏と呼ばれた。田鎖神社、花輪橋自動車教習所などがある。

■田鎖城跡(たくさりじょうせき)
大字(おおあざ)田鎖の三合並(さんごうなめ)にあり、主郭・副郭跡が残る。中世に閉伊宗家の田鎖氏(河南閉伊氏)が築城したもので、1592年(天正20)豊臣秀吉の諸城破却令をうけ、秀吉に臣従した南部信直の配下によって取り壊された。

■田鎖神社(たくさりじんじゃ)
閉伊七所明神の第一。社の林を市の天然記念物に指定するかどうか検討されているとのこと。

■タクシー    50音順
川崎タクシー   築地1丁目1−44   0193-62-3337
クボタタクシー  津軽石5−32     0193-67-2121
三社タクシー   保久田4−8     0193-62-4321
津軽石タクシー  津軽石第9地割70−1 0193-67-2323
マルヨシタクシー 鍬ヶ崎上1−25    0193-64-1212

■卓田(たくた)
料亭。かつて大通(おおどおり)4丁目3番地内にあった。

■啄木寄港の地(たくぼくきこうのち) → 石川啄木

■蛸(たこ)
宮古名物・特産のひとつ。頭足綱八腕目マダコ科のうち宮古魚市場にはほぼ通年ミズダコ(水蛸)・ヤナギダコ(柳蛸)が水揚げされる。漁の最盛期は6月から8月で、この間が旬。マダコ(真蛸)は10月から12月に水揚げされる。岩手県沿岸で最も水揚げ量が多く、年間600トン。標準和名と宮古での通称が違うので注意が必要である。標準和名ミズダコは宮古名イシダコ、標準和名ヤナギダコは宮古名ミズダコ。マダコはマダコ。県内でも魚市場によって呼び方が異なる。茹でると素人に見分けはつけにくく、宮古名イシダコ(正式名ミズダコ)が美味とされる。

■蛸の浜(たこのはま)
蛸ノ浜、鮹の浜とも書く。漁港・海水浴場がある。漁港の所書きは鍬ヶ崎(くわがさき)第6地割字平松。浄土ヶ浜の北西に隣接する浜。浄土ヶ浜と人が通れるだけの細い200mほどのトンネルで繋がる。浄土ヶ浜の石英粗面岩の白とは対照的な暗褐色の礫岩からなる。浜の主の大蛸が棲む蛸穴があるという伝承がある。北東方向に砂島(さごじま・さんごじま)や日出島が望まれる。南側に寄浜(よりはま)があり、時化のあとは特に若布・昆布が寄る。小島俊一「陸中海岸地名ウオッチング」によると、1945年(昭和20)夏に鯨が流れついたが、腐っていたため沖へ戻したという。西に日和山(ひよりやま)がある。墓の建ち並ぶ急な坂道をのぼると県道248号・浄土ヶ浜線に出る。通称を浄土ヶ浜道といい、浄土ヶ浜大橋が架かる。心公院(しんこういん)脇の道を南西に下ると、蛸の浜町を抜けて宮古港のある鍬ヶ崎の町に至る。

■蛸の浜町(たこのはまちょう)
市街の北東部。北を大字(おおあざ)鍬ヶ崎、東を山根町、南を港町(みなとまち)、西を鍬ヶ崎下町・熊野町に接する漁師町。宮古・鍬ヶ崎方面から大字鍬ヶ崎に属する蛸ノ浜海水浴場・蛸ノ浜漁港に至る道筋の町。北端に心公院(しんこういん)・心公院保育園・墓地があり、その北東に蛸ノ浜がある。

■田代(たしろ)
大字(おおあざ)の名。市街地の北西部に広がる山間地域。北は下閉伊郡岩泉町や市内の田老と、東を崎山、南を近内・蟇目などと接する。西の亀ヶ森(亀岳山、標高1112m)や源兵衛平(げんべいだいら)に源を発した田代川が、おおむね東に流れる。亀ヶ森に一本桜や石割白樺がある。久昌寺・永光寺・館八幡宮・太神宮、田代館跡、三陸鉄道北リアス線佐羽根駅がある。宮古駅から佐羽根駅まで12分、料金380円(子供半額)。駅の近くに、みちのく窯がある。県北バスが通る。スケートリンクやフィールドアスレチック、キャンプ場などの施設を備えた市営の野外活動センターが1985年(昭和60)12月、大渡にオープン。中里に亀岳(きがく)小学校がある。そのHPは学校のことはもちろん田代の様子を伝えて全国的に評価される。併設校の亀岳中学校は2005年(平成17)4月に第一中学校に統合され廃校。黒森神楽の流れをくむ田代神楽を伝承する。参考書として沢内勇三「郷土誌多志呂」(宮古市立亀岳小学校刊・1950年)がある。
亀岳小学校

■田代川(たしろがわ)
市街地の北西、新里(にいさと)地区との境にあたる源兵衛平(げんべいだいら)に源を発し、田代地区の落合で北西の亀ヶ森(標高1112m)を源流とする亀ヶ沢川と合流して田代をほぼ東流。田老(たろう)地区に入って田老川と合流し、田老湾に注ぐ。延長12.3q。

■田代耕司(たしろ・こうじ)
絵本作家、紙の造形作家。1941年(昭和16)宮古市に生まれる。岩手大学特設美術科を卒業。岡山県の中学教師を経て、東京の出版社で幼児や保育者向けの出版物・教材の編集・企画に従事。紙を主体にした造形作品の制作をライフワークとし、2005年(平成17)から浜松大学教授。著書に「とびだすカード」「はじめてのおりがみ」(ポプラ社)、「はしれはしれ」「ぴよぴよたんけん」(主婦の友社)などがある。

■田代館(たしろたて)
中世期の城館跡。大字(おおあざ)田代第18地割字(あざ)館・岩石にある。主郭・副郭・帯郭・空堀が残る。

■田代餅屋(たしろもちや)
山口4丁目2番7号にある。0193-62-2386。五月町(さつきちょう)1番1号の宮古市魚菜市場に支店がある。0193-62-0807。

■多田駿(ただ・はやお)
陸軍大将。1882年(明15)2月24日、宮城県に生まれる。郵便局長を務めた父に従って宮古町(旧館か?)で育つ。1895年(明28)10月15日、宮古鍬ヶ崎組合立水産補修学校の開校式で宮古鍬ヶ崎組合立高等小学校の生徒総代として祝辞を述べる(岩手学事彙報3845号)。徳冨蘆花「小説 寄生木」の原作者である小笠原善平の1年下級。小学校を優等で通し、仙台陸軍幼年学校を好成績で卒業。中央幼年学校・士官学校を上席で卒業し、士官学校で生徒の教導の任にあたる。1948年死去。

■立丸峠(たつまるとうげ)
遠野市との境にある。標高789m。国道340号が通るが峠区間は一車線。

■舘合近隣公園(たてあいきんりんこうえん) → 経塚の碑
舘合町29番6号、眺望のいい丘の上にある。ソメイヨシノ約90本が植えられ、花見の名所のひとつ。面積1万2355u。トイレあり。丘の頂上に経塚の碑がある。一石一字塚とも呼ばれ、愛称“いっせきさん”。そばに火除けの神さま稲荷大明神がある。

■舘合町(たてあいちょう)
市の西部、旧国道106号に南を接し、和見町(わみまち)・保久田(ほくだ)・横町(よこまち)・沢田方面と結ぶ旧街道が通る。丘の上に舘合近隣公園があり、園内に一石さん(経塚の碑)、稲荷大明神がある。丘の麓に宮古地方森林組合などがある。かつて宮古文化服装学院があった。

■舘合踏切(たてあいふみきり)
JR山田線・三陸鉄道北リアス線の踏切。宮古市立図書館のそばにある。

■舘ヶ崎(たてがさき)
鍬ヶ崎(くわがさき)の東にあり、日立浜町(ひたちはまちょう)、浄土ヶ浜の南端をなす出崎。東西に伸びる尾根上に遊歩道があり、西端の竜神崎(りゅうじんざき)展望台から東端の舘ヶ崎展望台をつなぎ、さらに北の浄土ヶ浜第1駐車場や小石浜(黒石浜)の観光船発着所に出る。表記は舘ヶ崎・楯ヶ崎・立ヶ崎などがある。切り立った断崖は南の海上から見ると浄土ヶ浜や日立浜を守る楯のように見える。また中ほどの岩盤に上から鍬を打ち込んだような貫入があって鍬型と呼ばれ、鍬ヶ崎の地名の由来となったとされる。

■建具(たてぐ) → 北山建具店

■館山(たてやま)
表記は舘山とも。本町(もとまち)から築地1丁目の北側の山で、多くが沢田に属する。常安寺の南側中腹に判官稲荷神社があり、判官山とも呼ばれる。また、宮古測候所のある鍬ヶ崎下町(くわがさきしもまち)西側後背の丘も館山(たてやま、たでやま)と呼ばれる。

■田中菓子舗(たなかかしほ)
*老舗菓子店。田老の字(あざ)館が森100番2号にあって1911年(平成23)3月11日の東日本大震災で店舗・工場を流失し、グリーンピア三陸宮古(田老向新田)敷地内の仮設店舗たろちゃんハウスで営業を再開。2013年(平成25)3月12日、新工場で名物の田老かりんとうが復活。ほかに、防浪堤、おこし、なまこぱん、はっかぱん、ひねり、あおやぎ、あめ玉、しょうゆぱん、折せんべい、いかせんべい、くりぱん、ざらぱん、切りぱん、各種まんじゅう、最中、慶弔引菓子などを製造・販売。1923年(大正12)田中重蔵が創業。1933年(昭和8)3月3日の三陸地震津波にも被災し、二度の大津波を乗り越えた。

■田中茂(たなか・しげる) → 麦の会
脚本家・演出家。1919年(大正8)〜1988年(昭和63)。1948年(昭和23)にアマチュア演劇集団「劇研麦の会」を創立。海や漁業に生きる人びとの生活などをテーマに創作・演劇活動をつづけた。代表作「海の季節」は、昭和30年代の漁師町を舞台にした長篇劇で、プロの「劇団仲間」が俳優座劇場で上演した。水産学校を出た北洋鮭鱒漁船の青年船長三郎が船主に反発して船長をはずされ地元を離れるという展開のなか、離れ離れになる恋人や漁業にたずさわる人間どうしのしがらみを描いた3幕6場。

■七夕祭り(たなばたまつり)
末広町(すえひろちょう)から中央通り商店街にかけて、かつて月遅れの七夕祭りが行なわれていた。8月5・6・7日の3日間。1956年(昭和31)に始まり、1963年(昭和38)で終わった。続いていれば仙台の七夕に匹敵する祭りになっただろう。市民や観光客は、太い青竹に吊るした紙製の飾りつけに触れながら何度も通りを往復した。道幅の狭い末広通りが盛大で、新町(あらまち)にかけて竹飾りはまばらな感じになったが、露店はずっと宮古館を越えて市役所の手前まで続いた。

■谷口薬店(たにぐちくすりてん)
横町(よこまち)3番7号にある。土蔵造りの古い趣きのある店構えが旧街道筋を偲ばせる。

■種刺海岸(たねさしかいがん)
重茂(おもえ)半島の太平洋岸、与奈(よな)〜とどヶ崎の間にある湾。とど山の北麓にあたる。与奈から遊歩道を南(とどヶ崎方面)へ1時間半ほど歩く。

■種刺山(たねさしやま)
宮古市の南西部、長沢の川目(かわめ)にある。標高530m。

■田の神(たのがみ)
“たのかみ”とも呼ぶ。市街の北西部に位置し、1丁目・2丁目がある。北を山口1丁目・黒森町、東を西町(にしまち)、南を泉町、西を山口3丁目に接する。新しく開けた住宅地で、田の神郵便局、田の神湯、田の神公園、石碑“一本柳の跡”などがある。もとは山口に属し、一面の田圃だった。町名は田の神を祀った田圃に由来するが祠はない。

■田の神湯(たのがみゆ)
銭湯。田の神2丁目3番6号、西町生協前にある。0193-62-7771。1972年(昭和47)に開業。

■田野畑村(たのはたむら)
下閉伊郡岩泉町を挟んで宮古市の北方に位置する。南と西を岩泉町に、北を下閉伊郡普代村に接し、東は太平洋に面する。下閉伊郡に属し、村役場は田野畑143−1にある。0194-34-2111。国道45号・三陸鉄道北リアス線が南北に通る。北リアス線には宮沢賢治の童話にちなんで名づけたカルボナード島越駅とカンパネルラ田野畑駅がある。陸中海岸国立公園のうちにあって日本一の断崖美をみせる北山アや鵜の巣断崖で知られる。国内最大の一揆とされる三閉伊一揆の資料や縄文時代の土器・遮光器土偶そのほかを展示した田野畑村民俗資料館、吉村昭文学碑・西塔幸子歌碑、宮沢賢治や三好達治・津村節子などの詩碑がある。
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■田野畑村民俗資料館(たのはたむらみんぞくしりょうかん)
下閉伊郡田野畑村田野畑128−9にある。0194-33-2210。1990年(平成2)開館。三閉伊一揆の史料と縄文遺跡の発掘品などを中心に歴史・民俗資料を展示している。三閉伊一揆は、1847年(弘化4)と1853年(嘉永6)に野田通り・宮古通り・大槌通りの漁民・百姓らが盛岡藩の圧政に対して立ち上がり、伊達藩まで越訴して勝利の証文である安堵状をかちとった国内最大級の一揆。敷地内に佐々木弥五兵衛と畠山太助という二人の指導者を彫刻した“三閉伊一揆の像”が立つ。

■田畑ヨシ(たばた・よし)
田老(たろう)の津波の伝承者、紙芝居「つなみ」の製作者。1925年(大正14)1月6日生まれ。祖父から1896年(明治29)に起きた明治三陸大津波の体験談を聞いて育つ。明治三陸大津波は田老だけで1800人以上の死者を出した。祖父の口癖は「津波てんでんこ」だった。「津波が来たら、てんでに、逃げろ」という意味だ。祖父の口癖は幼い心に焼きついた。1933年(昭和8)3月3日、8歳のとき昭和三陸大津波に遭遇。昭和三陸大津波は田老で人口の2割近い900人が犠牲になった。一家は地震後すぐ赤沼山に避難した。母は避難したときに受けた怪我がもとで命を失った。「家を見てくる」と言って戻った親類は津波に巻き込まれた。この津波の恐ろしさを孫に伝えなければと紙芝居「つなみ」を1979年(昭和54)に作った。この年、「田老万里の長城」と呼ばれる大防潮堤も完成。そのせいもあってか、「津波たろう」とさえ呼ばれた田老の住民から津波への恐怖心・警戒心は薄れていった。一方、田畑さんは、幼稚園や小学校のほか修学旅行生や観光客にも紙芝居の読み聞かせを続け、最後に「地震が来たら、てんでに、自分ひとりだけでも高台に逃げて」と付け加えるのを忘れない。2003年(平成15)「海嘯(つなみ)鎮魂の詩」をつくる。

■旅のレコード屋寅次郎(たびのれこーどやとらじろう)
光岸地(こうがんじ)5番9号にある。向かって左隣りに遊郭のような造りで大正ロマンを感じさせる古い木造の建物があるが、木村屋旅館だったろうか。

■たまきや
玉木屋。末広町2番1号にあった女性衣料品店。0193-63-1373。

■玉木屋スーパー(たまきやすーぱー)
鍬ヶ崎仲町(くわがさきなかまち)1番16号にある。2011年(平成23)2月、サンホーユーに衣替え。

■田町(たまち)
旧地名。江戸時代の1632年(寛永9)に町立てされたという。いまの向町(むかいまち)の西部分と大通(おおどおり)1丁目の東部分。スーパーのマルフジ(2009年8月末に閉店)と、さとう靴店のあいだの通り。田町から中央通りを新町へ渡る田町交差点に旧地名の名残がある。

■田村製あん所(たむらせいあんじょ)
餡こ屋さん。新町(あらまち)2番32号、新町通りの西筋にある。向かって左は明治屋、右は坂下商会(精肉店)。0193-62-2727。昔、何種類もの色とりどりの生豆を、ガラスの蓋がついた木製の平箱に入れて並べ、小売りをしていた。

■田村忠博(たむら・ただひろ)
歴史家・著述家。「宮古地方の中世史――古城物語」(1986年・文化印刷)の著者として知られる。日本歴史地名大系3「岩手県の地名」(1990年・平凡社)下閉伊郡・宮古市などの項目を担当。ほかに「東屋大福帳」、「御水主文書」全3巻、「嘉永六年三閉伊一揆資料」などの編著がある。宮古市史編纂委託員をつとめる。中里団地に在住。

■たらふく
ラーメン屋。店の表記は多良福とも。大通(おおどおり)1丁目1番20号にある。メニューは中華そば一品だけ。自家製の縮れ麺、丼いっぱいに注がれた魚介ダシのあっさりしたスープが特徴。2007年(平成19)現在、480円。

■ダラボウ
ダラボ、ダラボー。タラノ芽のこと。

■田老(たろう)
市内北東部に位置する。東を太平洋に面し、北・西を下閉伊郡岩泉町と接する。1936年(昭和11)に田老鉱山が開業。1944年(昭和19)3月10日に町制を施行し、下閉伊郡田老町となる。1978年(昭和53)5月14日、町のシンボルとして花:はまゆり、鳥:うみねこ、木:赤松を制定。津波に備えて防災無線や高台への避難路が整備され、1979年(昭和54)に総延長2433m・高さ10mの“万里の長城”と呼ばれる日本一の大防潮堤が完成した。2003年(平成15)に“津波防災の町”を宣言。2005年(平成17)6月6日、宮古市・新里村と対等合併して宮古市となる。合併による住所表示の変更は、下閉伊郡を宮古市に置き換え、町を省き、字(あざ)以下は旧表示を継承。田老総合事務所(旧町役場)は字(あざ)館が森129番地2号にある。0193-87-2111。わかめ、こんぶ、あわび、うに、鮭などの海産物、干し椎茸などを特産とし、銘菓に田老かりんとうがある。

■田老火葬場(たろうかそうば)
市営。田老字館が森(たてがもり)215の常運寺にある。老朽化のため2011年度(平成23年度)に廃止される予定。

■田老かりんとう(たろうかりんとう) → 田中菓子舗
田老の銘菓。棒状ではなく、笠の形をして、渦巻き模様があるため“渦巻かりんとう”“グルグルかりんとう”の愛称がある。あまり甘くなく、おいしい。田中菓子舗のほか赤沼菓子舗などが製造・販売。

■たろう観光ホテル(たろうかんこうほてる)
*田老字野原(のはら)80−1にある。0193-87-2001。6階建てで1986年(昭和61)に開業。2011年(平成23)3月11日の東日本大震災で3階まで津波に襲われた。1〜2階は完全に壁が突き破られ、鉄骨をさらした姿で残る。

■田老ふるさと物産センター(たろうふるさとぶっさんせんたー)
田老字川向(かわむかい)177−3にある。0193-87-2891。観光船の切符売場を兼ねた土産物店。特産品の真崎わかめ、塩うになどを扱う。釣り船の手配も可能。

■団子餅(だんごもち)
ダンゴモヅと発音する。団子や餅菓子などの総称。宮古の団子餅屋(団子屋・餅屋)で売られている主なものを挙げれば――ひゅうず・すっとぎ/豆すっとぎ・ゆべし(柚餅子)・きりざんしょ(切り山椒)・米の粉饅頭・揚げ饅頭・麦饅頭・ふぶき(吹雪)・串団子(醤油団子/餡団子)・焼き団子(醤油串団子)・お萩・餡こ餅/ぼた餅・胡麻餅・胡桃餅・紅白大福/豆大福・お蒸かし(赤飯)・稲荷寿司・太巻き・切り餅・伸し餅・丸餅・鏡餅など。


▽ち
                              ホームへホームへ

■近内(ちかない)
市街の西、近内川の中流に沿った一帯。大字(おおあざ)近内と近内1丁目に分かれ、大字近内は12地割に分かれる。北を大字田代・崎山、東を大字山口、長根3丁目・4丁目、南を太田1丁目・2丁目、千徳町・千徳、西ヶ丘3丁目・4丁目、西を大字千徳などと接する。宅地・農地・山地が広がり、南部曲がり家が残る。近内1丁目に千鳥保育園などがある。大字近内に雇用促進住宅、近内神社、近内地区センター、食肉処理センターなどがある。近内川に沿って県北バスが大字千徳の岩船(いわふね)まで通る。1919年(大正8)創立の近内小学校は1984年(昭和59)に千徳小学校に統合されて閉校。

■近内川(ちかないがわ)
閉伊川(へいがわ)の支流。岩船(いわふね)の奥地に源を発して近内を流れ、山口川が閉伊川に合流する地点の少し上流・西で同川に注ぐ。
 近内川清らに澄みて川魚は すばやき動き光りながらに  駒井雅三

■近内小学校(ちかないしょうがっこう)
閉校。大字近内第3地割字白石119番地1にあり、跡地は近内地区センターとなった。1919年(大正8)4月1日、山口小学校の近内分校(分教場)として創立。3年生までが学び、4年生以上は山口小学校へ通った。1958年(昭和33)4月1日、近内小学校として独立。1984年(昭和59)3月18日、閉校式。4月3日、西ヶ丘に新築・移転した千徳小学校に併合された。

■近内地区センター(ちかないちくせんたー)
大字近内第3地割字白石119番地1にある。近内小学校の跡地に設立された。

■近内中村遺跡(ちかないなかむらいせき)
約4500年前、縄文時代中期から晩期にわたる集落遺跡。宮古湾から北西に約5km、標高50mに位置する。旧国道106号から近内川に沿って大字近内に入り、北の蜂ヶ沢(はちがさわ、ばぢがさわ)へ向かう道を近内消防コミュニティーセンターの前で西に折れて徒歩5分ほどのところにある。多くの住居跡・土坑・墓坑とともに全国的にも珍しい巻貝型土器などの遺物が出土している。

■千鶏(ちけい)
重茂(おもえ)半島の太平洋岸南部に位置する。千鶏漁港、“本州最東端の小学校”と門柱に掲げた千鶏小学校、縄文時代の標識遺跡として知られる千鶏遺跡などがある。1996年に市が津波対策の一環として超音波波高計を設置した。

■千鶏遺跡(ちけいいせき)
約6000年前、縄文時代早期の標識遺跡。重茂(おもえ)半島の太平洋岸南部、海岸から200m・標高40mに位置する。竪穴住居跡34棟が確認され、東北地方有数の集落跡として知られる。

■千鶏小学校(ちけいしょうがっこう)
宮古市立。大字重茂(おもえ)第11地割字千鶏上野(うわの)39番地2にある。門柱に「本州最東端の小学校 東経142度02分03秒・北緯39度31分06秒」と彫られている。1877年(明治10)9月、公立重茂小学校千鶏分校として創立。1948年(昭和23)4月、重茂村立千鶏小学校と改称。1955年(昭和30)4月、重茂村が宮古市に編入するにともない宮古市立となる。

■千田真一(ちだ・しんいち)
元宮古市長。鈴木善幸代議士の秘書から岩手県議会議員となる。1981年(昭和56)急死した菊池良三市長の跡を受けて市長に当選し、1989年(平成1)まで2期つとめる。三陸鉄道開業時、副社長。2012年(平成24)10月3日死去、享年96。自宅は新町2番6号。

■千葉商店(ちばしょうてん)
日用雑貨の卸売り店。大通(おおどおり)3丁目6番4号にある。向かって右隣りが旅館の晃生館。左隣りには、かつて三好食堂・小西煮豆屋があった。

■中央公民館(ちゅうおうこうみんかん)
築地1丁目3番9号。市役所の前(北)に位置し、市役所分庁舎東脇の坂道を登った正面。分館が保久田(ほくだ)ある。中央公民館の場所には、かつて市長公舎があった。裏手の山上を八紘台(はっこうだい)と呼ぶ。

■中央公民館分館(ちゅうおうこうみんかんぶんかん)
保久田(ほくだ)7番22号、みどり公園の南側にある。0193-63-4700。

■中央通り(ちゅうおうどおり)
末広通りから東につづく繁華街で、市役所前まで。黒田町通りへ折れる角に公衆便所があり、この地点でもとの山口川が暗渠に入る。ここから東の中央通りは山口川に蓋をしてできた。市史年表によれば、蓋かけ工事は1954年(昭和29)9月14日に始まり、1959年(昭和34)12月6日にアスファルト舗装が竣工。蓋がされる前、山口川の左岸(北)は片桁(かたけた・かたげた)、右岸(南)は仲瀬(なかせ・なかぜ)と呼ばれ、ともに市が立った。おもな橋に、西から幾久屋橋(黒田町〜幾久屋町)、田町橋(新町〜田町)、高橋(本町〜向町)、仲瀬橋、市役所前の夫婦橋の5つがあった。

■中学校(ちゅうがっこう) 50音順
愛宕中学校(廃校) 0193-62-2427 中里団地1番1号
重茂中学校     0193-68-2015 大字重茂第2地割字舘1番地
河南中学校     0193-62-2602 河南1丁目1番1号
亀岳中学校(廃校) 0193-64-8230 大字田代第16地割字中里141番地
崎山中学校     0193-62-4158 大字崎山第3地割字トロノ木1番地1
第一中学校     0193-62-4209 宮町2丁目5番7号
第二中学校     0193-62-3008 日の出町7番1号
津軽石中学校    0193-67-2015 大字津軽石第11地割字千の沢57番地
花輪中学校     0193-69-2034 大字花輪第5地割字程久保132番地
宮古西中学校    0193-62-4643 西ヶ丘2丁目1番1号

■駐車場(ちゅうしゃじょう)
東屋駐車場     本町2番2号   0193-62-6020
生内商店      大通4丁目4番16号 0193-62-1821
末広町駐車場    末広町3番4号   0193-63-7005
トキワザ有料駐車場 大通4丁目2番1号 0193-62-3200
長谷川駐車場    黒田町2番27号   0193-63-6556
マルゲン有料駐車場 大通4丁目3番25号 0193-63-7571

■超我の碑(ちょうがのひ)
JR山田線宮古駅前の駅舎に向かって右手、三陸鉄道宮古駅とのあいだにある。1944年(昭和19)3月12日午前8時7分、記録的な豪雪のなか、SL(蒸気機関車)C58283 の牽引する山田線の下り貨物列車が雪崩で橋脚が谷底に傾いていた平津戸〜川内の小滝鉄橋で脱線し閉伊川に転落。1960年(昭和35)3月8日封切りの映画「大いなる旅路」(関川秀雄監督・新藤兼人脚本)のモデルとなった。荒筋は、瀕死の重傷を負った加藤岩蔵機関士が軽傷の前田悌二機関助手(宮古市泉町出身)に最寄り駅への連絡を指示。前田機関助手は猛吹雪をついて平津戸駅にたどりついて事故を報告した。加藤機関士は救助隊が到着したのを見届けて死亡した、というもの。この経過は碑文の内容とは少し異なる。碑は1972年(昭和47)11月20日、宮古ロータリークラブによって建立された。碑文の書は鉄道建設審議会長当時の鈴木善幸、全文は以下のとおり。“昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸、川内間で雪崩に逢い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当った。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は已に尊い生命は奪われていたという。正にこの行為は超我と友愛の精神によるものであり、我々の理想とする処でもある。よってそのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えようとするものである。”(アラビア数字表記は原文のまま)

■長元地神社(ちょうげんちじんじゃ) → 内舘元右衛門

■長根寺(ちょうこんじ)
宮古市街西方の長根(ながね)1丁目2番7号、新住居表示前は大字千徳第2地割字長根11番地、通称寺ノ沢にある。0193-63-8678。真言宗(真義真言宗智山派)。山号は玉王山(ぎょくおうざん)。本尊は不動明王で、長根不動尊、長根のお不動さまの名で親しまれる。東北三十六不動尊霊場の第二十番札所。阿弥陀如来坐像、応永銘仏像、三十三観音曼荼羅画、幻住庵祇川(ぎせん)反故塚などの文化財がある。閉伊川対岸の小山田神社は維新前は薬師堂で、その由来を伝える勧化帳によれば、807年(大同2)坂上田村麻呂が閉伊の蝦夷征討のおりに小山田に薬師如来、黒森に観音、長根に阿弥陀如来を祀って三所一体の霊場としたとあるという。空海(弘法大師)の命日である旧暦3月21日に“尾玉さま”の祭りを行なう。尾玉さまは田を耕しているときに土の中から牛の尾をつたって光臨した、盛岡藩時代には姫君の疱瘡を治したなどと伝えられ、丑年に一般に公開される。俳人の祇川が1771年(明和8)長根寺に滞在して住職をはじめとする俳諧人を指導。祇川の3回忌には門人らが、“山ひとつみな名残をし花の時”の句を刻んだ碑を寺内に建てたという。1942年(昭和17)1月28日に全焼し、仏像・古文書などを焼失。1956年(昭和31)4月11日、阿弥陀如来・応永銘仏像が市指定文化財となる。1968年(昭和43)11月25日、新山賢蔵・沢内勇三の共編による冊子「長根寺物語」(非売品)を発行。1979年(昭和54)7月24日、参道にある幻住庵祇川反故塚が市指定文化財となる。

■長生水(ちょうせいすい)
湧水。沢田の常安寺墓所内に、1987年(昭和62)に水場が設置された。後背50mほどにある杉の根元から湧き出した水を引いている。

■チョウセンアカシジミ
朝鮮赤蜆。シジミチョウ科の蝶の一種。朝鮮半島が原産地とされ、赤褐色を呈する。広げた羽の長さは約3p。デワノトネリコの木に卵を生みつけ、4月下旬に孵化、7月に成虫となり、2〜3週間で寿命を終える。日当たりのよい場所を好み、人里の周辺に棲息することから“里の蝶”と呼ばれる。日本では1953年(昭和28)に下閉伊郡田野畑村で初めて発見された。その後、岩手県内の久慈市から宮古市までの沿岸6市町村と雫石町・滝沢村、山形県・新潟県の一部で棲息が確認されている。1986年(昭和61)7月1日に宮古市の天然記念物に指定。同じ年に民間団体“チョウセンアカシジミの会”(代表尾形洋一)が結成された。1991年(平成3)環境省の「絶滅のおそれのある野生生物(レッドデータブック)」に登録、2000年(平成12)4月の改訂で絶滅危惧U類に指定される。

■チリ地震津波(ちりじしんつなみ)
【1】1960年(昭和35)5月24日。前日23日に南米チリ沖で発生した大地震による津波が、22時間30分後の24日午前3時30分ごろ1万8000qを越えて三陸沿岸に達し、宮古湾で5m、田老湾で3〜5mの波高を記録。田老町(当時)の高さ10m・総延長3q余の防浪堤(防潮堤)は、この津波を食い止めた。宮古では“高浜小学校全壊、磯鶏〜津軽石間不通、被害十億円”と宮古市史年表にある。日本全体では死者・行方不明者142、全半壊家屋3500戸。翌1961年(昭和36)5月、被害の大きかった高浜の道路沿いに、“大地震の後には津波が来る 外国地震でも津波は来る 潮が目立って引いたら高い所へ”と刻まれた津波記念碑が建つ。高浜小学校は津波直後、磯鶏(そけい)小学校を借りて授業を再開。校舎を修復して授業を行なったが、住民から校舎移転の要望が高まり、南高台に翌1961年6月20日ブロック校舎が完成し移転。高浜から津軽石川の河口付近までの987mに国道兼用の防潮堤が県営の3ヵ年事業で建設された。
【2】2010年(平成22)2月28日。南米チリで日本時間27日午後にマグニチュード8.8の大地震が発生。気象庁は28日、日本の太平洋沿岸で最高3mの津波の恐れがあるとして三陸沿岸に大津波警報を発令。28日午後1時半ごろ、宮古に津波の第1波が襲来。気象庁の潮位計では波高70cm。第2波・第3波と次第に大きくなった。高浜・津軽石など湾奥では事後の調査で2.1mの波高を確認。人的被害はなかったものの、養殖施設など沿岸漁業に大きな被害をもたらし、政府は激甚災害と認定して補助金を交付。


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■津軽石(つがるいし)
大字(おおあざ)。宮古市の南端部で、宮古湾の最奥部に位置する。東から北へ重茂(おもえ)半島が延びる。鮭の本場として知られる津軽石川が下閉伊郡山田町豊間根の北上山地から北流して宮古湾に注ぐ。並行して国道45号とJR山田線が走り、津軽石駅がある。津軽石川には稲荷橋・駒形橋が架かり、支流に七田川・根井沢がある。宮古漁協の津軽石ふ化場や岩手県栽培漁業センターなど鮭に関連する施設のほか、津軽石保育所・津軽石小学校・津軽石中学校、館山公園、宮古射撃場、稲荷神社・駒形神社、妙盛寺・瑞雲寺・市営津軽石火葬場、宮古家畜保健衛生所などがある。第1〜第20地割に分かれる。津軽石という名の由来に、津軽からもたらされた石によって川に鮭が多くのぼるようになったという伝説がある。菅江真澄遊覧記(平凡社・東洋文庫)の「外が浜風」に、“細い流れを渡った。名を土淵川といい、いろいろの玉をひろうところで、世にいうまことの津軽石と呼ぶものは、ここの流れから産するのである。今別の浦というのは誤りだという”とあり、註に“津軽石 弘前市の中央を貫流する土淵川の岸辺に、古くから瑪瑙石がとれた。津軽半島北端の今別、母衣月(ほろつき)の浜でとれる舎利石は、古来有名である”とある。地名の津軽石と直接の関係はないかもしれないが、古くから津軽で産する石を津軽石といって珍重していたことがわかる。

■津軽石稲荷神社(つがるいしいなりじんじゃ)
単に稲荷神社とも。津軽石第3地割126-10。JR津軽石駅の西、盛合家の北の山中に鎮座。堂内に盛合家の持ち物だった千石船・虎一丸の模型が収められている。盛合家の氏神か?

■津軽石火葬場(つがるいしかそうば)
市営。大字津軽石第14地割字払川(はらいがわ)36番地、瑞雲寺に併設。1952年(昭和27)完成、1984年(昭和59)に改修。老朽化のため2007(平成19)年度に廃止。

■津軽石川(つがるいしがわ)
本州一の鮭川、南部鼻曲がり鮭の本場として知られる。北上山地から南東に延びる支脈、下閉伊郡山田町豊間根(とよまね)の山地を水源とし、豊間根川と呼ばれる上流部から北流して宮古湾の南の最奥部に注ぐ。流程25q。河口幅200m。津軽石川という名の由来譚として、弘法大師が津軽(いまの青森県)黒石を流れる浅瀬石(あせいし)川の石を丸長川に投じたところ、おびただしい数の鮭がのぼってきたので津軽石川と改めたという話がある。この伝説を縁のひとつとして黒石市と1966年(昭和41)4月1日に姉妹都市になった。鮭の漁期は11月から2月まで。毎年11月30日に又兵衛祭りが行なわれる。1783年(天明3)に後藤又兵衛という武士が、飢餓に苦しむ村人のために盛岡藩の留(とめ)を破って鮭を自由にとらせ、その罪で11月30日に逆さ磔(はりつけ)にされたという伝承にもとづく。津軽石鮭繁殖保護組合が鮭漁の期間に義人又兵衛の逆さ磔をかたどって荒縄を巻いたY字型の人形を留のほとりに建てて供養する。1973年(昭和48)から正月に宮古鮭まつりが開催されている。当初1月1日〜3日だったが、いまは3日のみ。鮭の即売や郷土芸能の実演などがあり、鮭のつかみ取りができる。1980年(昭和55)に鮭の河川水揚げ日本一を記録した。2001年(平成13)宮古観光協会が “大洋を遥かに帰り遡上する鮭に定めの命を見つむ”という歌を添えて新宮古八景に選定。2007年(平成19)3月、河口に津波対策用の巨大な水門が完成。冬に白鳥が飛来し越冬する。

■津軽石川水門(つがるいしがわすいもん)
津軽石川の河口から200〜300m上流にある国内有数の津波対策用水門。全長189m、高さは管理棟を除いて海抜8.5m。1896年(明治29)6月15日の三陸地震津波における宮古湾内の平均波高8.5mに合わせた。総事業費124億7700万円。ゲートは7門あり、津波注意報が発令されると1km上流左岸にある制御室からの遠隔操作によって閉められ、222ha・780世帯を守るという。1989年(平成1)着工。2005年(平成17)に完成予定だったが、2007年(平成19)3月に完成、同月23日に水門管理橋中央部で宮古市が岩手県から管理を受託する式典が開かれた。

■津軽石公園(つがるいしこうえん)
津軽石第4地割38-4、津軽石小学校の東に隣接。1998年(平成10)設置。

■津軽石さんさ踊り(つがるいしさんさおどり)
津軽石に伝わる郷土芸能。盛岡に発祥したさんさ踊りが100年ほど前に海産物などの行商に従事する五十集(いさば)衆によってもたらされたという。本町(もとまち)さんさ・新町(あらまち)さんさがあったが、新町さんさが津軽石さんさ踊り保存会によって継承されている。

■津軽石小学校(つがるいししょうがっこう)
大字津軽石第4地割字大森82番地にある。1876年(明治9)6月創立。

■津軽石中学校(つがるいしちゅうがっこう)
大字津軽石第11地割字千ノ沢57番地にある。1947年(昭和22)4月創立。

■津軽石ふ化場(つがるいしふかじょう)
宮古漁業協同組合の鮭人工孵化場。大字(おおあざ)津軽石第8地割字久保田108番地にある。孵化能力は1億2000万粒で、世界最大の孵化場とされる。1905年(明38)7月、津軽石村の佐々木清助が赤前村の御蔵に開設。日本で最初の鮭増殖事業とされる。1908年、津軽石字岡田に移転。1910年8月の水害にあって字馬越ノ沢に移転。1937年(昭和12)現在地に移転。1958年(昭和33)前庭に鮭霊塔(けいれいとう)を建立。

■築地(つきじ)
市街地の東部。1丁目・2丁目に分かれる。北を沢田・愛宕、東を光岸地(こうがんじ)、南を新川町(しんかわちょう)・閉伊川左岸、西を本町(もとまち)と接する。閉伊川沿いは埋め立て地。国道45号が通る。市街と港を結ぶ重要道で、北に並行する裏通りがかつての街道。西部山沿いに中央公民館、なかほどにNTT東日本宮古支店などがある。閉伊川沿いの防潮壁(河川堤防)の高さは5.25m。

■蔦に覆われた蔵(つたにおおわれたくら)
新町(あらまち)4番26号あたり、横町(よこまち)通りの南筋で東西が駐車場、宮古公証人役場の向かいにある。地域の名所のひとつ。蔵全体が蔦に覆われ、秋の紅葉が美しい。

■つたや寿司(つたやずし)
鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)5番8号にあった。2009年(平成21)11月末に閉店。

■土屋商店(つちやしょうてん)
たばこ、菓子、お土産品などを扱う。末広町7番28号、0193-62-2862。末広町通りの南並びにある。向かって右隣りは山アカメラ店。2006年(平成18)6月に古い建物を解体し、前にスペースをあけた建物を新築。

■つちや本舗(つちやほんぽ)
菓子屋。店の看板には御菓子司とある。黒田町(くろたまち)7番17号、横町(よこまち)通りの南筋で宮古小学校の近所にある。東北地方初のホイル焼き菓子“浄土ヶ浜”や“さかさ銀杏”“はまぎく”“黒糖びじん”“うに羊羹”“わかめ羊羹”などを製造・販売。
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■つつじが丘公園(つつじがおかこうえん)
西町(にしまち)2丁目4番にある。トイレ有り。1968年(昭和43)開設。

■躑躅山(つつじやま)
俗称。太田(おおた)2丁目2番8号。個人所有の山の南東斜面一帯にツツジが群生する名所。県道宮古岩泉線、旧国道106号などから見える。植え始めてから2015年で70年。開花は例年5月半ば頃。入園無料。

■津波(つなみ) → 三陸地震津波 チリ地震津波 十勝沖地震津波 田畑ヨシ
宮古弁でヨダという。津浪、海嘯とも書く。

■津波記念碑(つなみきねんひ)
おもな碑は次のとおり。【1】海嘯記念碑:磯鶏石崎の石碑群のなかにある、1896年(明治29)6月15日の三陸地震津波を記念した碑。1902年(明治35)5月に建立。【2】海嘯記念碑:蛸の浜町の心公院にある、1896年(明治29)6月15日の三陸地震津波を記念した碑。1908年(明治41)11月、鍬ヶ崎町有志者が建立。【3】昭和大海嘯記念碑:浄土ヶ浜にある、1933年(昭和8)3月3日の三陸地震津波を記念した碑。1934年(昭和9)3月建立。【4】大津浪記念碑:重茂(おもえ)の姉吉(あねよし)にある、1933年(昭和8)3月3日の三陸地震津波を記念した碑。碑文は上段に「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に 家を建てるな」、下段に「明治廿九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し生存者僅かに前二人後に四人のみ幾歳経るとも要心何従(なにより)」【5】1960年(昭和35)5月24日のチリ地震津波を記念した碑。浄土ヶ浜にある。碑文「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」

■津波てんでんこ(つなみてんでんこ) → 田畑ヨシ
「津波が来たら、てんでに、高台へ逃げろ」という意味。

■角(つの)
烏賊(いか)釣り用の疑似餌。鍬ヶ崎(くわがさき)の作家・吉田タキノの児童小説「兄と妹たち」(1979年・小学館)には、こうある。“ツノというのは、牛の角でつくったもので、頭の先にギザギザのかぎがついている。これに糸をつけて、海のなかに沈め、手であげさげすると、イカはエサとまちがえてとびついてくる。”

■粒柿(つぶがき) → 豆柿

■剛台展望台(つよしだいてんぼうだい)
浄土ヶ浜の北部にある。第3駐車場から浄土ヶ浜道を北へ徒歩2分ほど。山道につけられた階段を登ってゆくと四阿(あずまや)がある。眼下に蛸の浜が広がり、日出島やローソク岩・潮吹穴・姉ヶ崎などが遠望できる。
 剛台とわれは名づけき 裏浄土 蛸の浜眼下の ここの高処(たかど)を  駒井雅三

■吊り橋(つりばし)
宮町(みやまち)の第一中学校脇から閉伊川を渡って小山田に架かっていた木造橋。いまの小山田橋の下流側にあった。吊り橋の名はワイヤーロープを張り渡した上に板をとりつけた構造に由来すると思われる。1955年(昭和30)架橋。1978年(昭和53)11月に鉄筋の小山田橋ができて役目を終える。人と自転車しか通れず、すれ違うのもやっと。人が走るとゆらゆら揺れ、ゆらゆら橋とも呼ばれた。増水によってしばしば流された。吊り橋ができる前は、繰り舟と呼ばれた渡し舟が両岸に張り渡された繰り綱(ロープ)を伝って渡った。


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                              ホームへホームへ

■出逢い橋(であいばし)
宮町(みやまち)と栄町(さかえちょう)を結ぶ女学校通りのJR山田線に架かる跨線橋・高架橋。1994年(平成6)3月22日開通・渡り初め。女学校踏切による混雑を解消するため建設された。宮町側から出逢い橋を渡って栄町の通り(旧国道106号)に接続する出逢い橋交差点は、かつてはT字路だった。突き抜けて和見町(わみまち)へ向かう新しい道路は2003年(平成15)3月28日にできた。166m、総事業費10億1000万円。ときの市長の名をとって熊坂通りと呼ぶ人もいる。

■TAK・テルミン・ラボ(てぃーえーけー・てるみん・らぼ) → テルミン

■デイサービスセンター → 千徳デイサービスセンター

■出崎埠頭(でさきふとう)
市街地の東、臨港通(りんこうどおり)にある。宮古湾の西から東へ突き出した岸壁。南は閉伊川の河口左岸をなし、北は宮古港口をなす。タラソテラピー・物産販売所・レストランなどの入った第3セクター施設“シートピアなあど”や宮古市魚市場などがある。宮古市史年表によると、1937年(昭和12)5月6日に宮古港修築竣工式、同年に月日不詳で臨港鉄道開通、1964年(昭和39)9月15日に1万トン岸壁竣工。

■デジタルプロショップ・オオコシ
大越電気の支店。末広町(すえひろちょう)6番5号、末広通りの北筋にある。本店の大越電気は、4軒東がわの末広町6番1号にある。

■出初式(でぞめしき)
1月6日。消防大演習は4月半ばに行なわれる。

■鉄橋(てっきょう)
鉄道に架けられた橋。正式には橋梁と呼ばれる。市内で鉄橋といえば閉伊川鉄橋をさす。正式にはJR山田線第34閉伊川橋梁という。向町(むかいまち)・南町の境と藤原とを結び、宮古橋の南に並行して閉伊川河口手前にある。長さ241m。1935年(昭和10)建設。第2次大戦の敗戦間際、1945年(昭和20)8月9日・10日に米軍艦載機の空襲を受け、弾痕が残る。

■鉄道開通記念碑(てつどうかいつうきねんひ)
山田線の盛岡〜宮古開通記念碑。宮古駅前広場の西側、三陸鉄道宮古駅とキャトルとの間にある駅別棟の前に東を向いて建つ。1934年(昭和9)建立。同年11月6日に開通したが、建立の月日も同日と思われる。

■寺沢(てらさわ)
長沢にあった地名。長沢判官堂のある尾根の裏手に位置するという。沢の入口に地酒“宝瀧”を醸造していた中野商店がある。

■テルミン(Theremin)
世界最古の電子楽器。アンテナに手をかざしたり離したりすることによって音を出す。鍬ヶ崎上町(くわがさきかみまち)4番59号で、このテルミンを手作り販売しているのがTAK・テルミン・ラボ。初の国産テルミン「e-winds」を開発したラボの主宰者は、サウンド・クリエイターとしても日本や海外でダンス・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックのレコード・CDを多数リリースしている。
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■テレビ
月山の頂上にテレビ塔が建ったのは、1961年(昭和36)2月1日、NHKテレビ。ついで、1962年(昭和37)6月1日、NHK教育テレビ。1964年(昭和39)8月1日、IBCテレビ岩手放送。その後、1969年(昭和44)12月1日、TVIテレビ岩手が開局。1996年(平成8)10月1日、IAT岩手朝日テレビが開局。

■デンコードー
閉店。電器店。電工堂。宮町(みやまち)1丁目4番11号。かつて“ので山”があった場所で、2005年(平成17)10月7日からドラッグストア薬王堂オールウェイ宮古店に替わった。

■天麩羅饅頭(てんぷらまんじゅう)
衣をつけて揚げた饅頭。町の餅屋・商店などで売っている。焼いて食べるとうまい。

■天満宮(てんまんぐう) → 岩間北溟


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                              ホームへホームへ

■トイレ → 公衆トイレ

■東映(とうえい)
かつてあった映画館。宮古東映劇場といい、会社名は宮古第一映画劇場。和見町(わみまち)1番の南東角地、宮ビルの位置にあった。「月刊みやこわが町」1993年9月号の小島俊一「みやこわが町ものがたり」には“昭和三十年九月、保久田三に第一映画劇場(宮古東映)オープン。(中略)同三十八年閉館。宮ビルフードセンターサンバードに変身”とある。宮古市史年表では1955年(昭和30)10月8日の項に、“映画館新規開業、国際劇場と第一映画劇場”とある。鬼山親芳「宮古の映画館物語」には“三十一年一月にオープン”とある。

■東海自動車工業(とうかいじどうしゃこうぎょう)
自動車の修理・整備工場。株式会社。大通(おおどおり)3丁目1番17号、大通3丁目の交差点から八幡沖踏切に向かう通りの東筋にある。сtリーダイヤル0120-62-5825。

■峠ノ神山(とうげのかみやま)
田代(たしろ)地区の西、亀ヶ森(標高1112m)の北西にそびえ、岩泉町との境をなす。北上山地の一峰で、標高1230m。

■藤七屋(とうしちや)
手打ち蕎麦の老舗。向町(むかいまち)2番32号、向町通り東筋の中ほどにある。名物は、はらこ蕎麦。冷凍ものは使わないから、はらこ(鮭の卵)の旬にしか作らない。日曜休み。麺は1日50食分しか打たないという。姓は伊藤で、9代目文吉。10代目・現当主の名は変わっていて、〓(囗の中にム)一と書いて「しんいち」と読むらしい。

■東秀館(とうしゅうかん)
大正時代に浄土ヶ浜レストハウスの位置にあった料理屋。鍬ヶ崎の料理屋の相馬屋・玉川屋の共同経営で、のちに開明館となる。さらに鍬ヶ崎の料理屋・旭屋に経営が移り、浄土ヶ浜旭会館となる。戦後はGHQが進駐。

■豆腐屋(とうふや)
内竹豆腐店   鍬ヶ崎下町2番2号 0193-62-2178
岡田豆腐店   愛宕2丁目1番13号     62-3587
やまもと豆腐店 田老字向山63−10      87-2323
吉田豆腐屋   舘合町5番18号       62-2486

■東北銀行(とうほくぎんこう)
新町(あらまち)2番25号の角地に宮古支店が、宮町(みやまち)1丁目4番29号に宮町支店がある。

■東北電力(とうほくでんりょく)
東北電力宮古営業所。築地2丁目2番33号にある。0193-63-9033。

■動輪の塔(どうりんのとう)
鉄道の宮古機関区にある記念碑。宮町(みやまち)1丁目1番50号、旧女学校通り東筋に面し、同じく動輪が嵌めこまれた門柱に向かって右手に位置する。台石に“動輪の塔 昭和48年10月”と刻まれている。

■ドーネル
パン・菓子製造の日進堂が1980年(昭和55)に開いた小売店。駅前店(栄町2−4・0193-63-6110)・緑ヶ丘店(緑ヶ丘5−11・0193-63-7151)がある。ドーネルはパン生地(dough)と“練る”の造語だという。

■ドール洋菓子店(どーるようがしてん)
ケーキ屋。末広町6番3号にある。

■十勝沖地震津波(とかちおきじしんつなみ)
1968年(昭和43)5月16日、午前9時48分、青森県東方沖・三陸沖を震源としてマグニチュード7.9の地震が発生し、宮古の震度4、宮古湾で206cmの津波を観測したが人的被害はなかった。宮古市史年表には“湾内のラワン材散乱”とだけある。岩手県の被害は死者2人、青森県中心に死者は計52人。十勝沖を冠した地震津波は何度も起きているため気象庁は“1968年十勝沖地震津波”と命名している。

■常盤座(ときわざ)
かつてあった劇場・映画館。トキワ座とも表記される。
@第一常盤座は、初め常盤座の名で芝居劇場として出発。山根英郎「湾頭の譜」によれば1892年(明治25)3月22日の開業。当初、東屋の菊池長七が経営。場所は旧舘、いまの築地2丁目8番の南東角地。鬼山親芳「宮古の映画館物語」によれば1915年(大正6)ごろ映画常設館となる。第二常盤座ができて第一常盤座となった。1971年(昭和46)秋に閉館。
A第二常盤座は、いまの大通(おおどおり)4丁目2番1号に1933年(昭和8)8月18日開館した。当時、周囲には田んぼが広がっていたという。その後、パチンコ店・飲食店・喫茶店などが密集して歓楽街をなした。1982年(昭和57)6月30日に閉館し、トキワザ有料駐車場になる。

■徳江商店(とくえしょうてん)
カネ叶徳江商店が正式名称。水産加工・卸売業。藤原1丁目3番7号にある。0193-62-2620。宮古一うまい竹輪で知られる。

■徳冨蘆花(とくとみ・ろか)
小説家、明治・大正期の文豪。本名は健次郎。代表作「不如帰(ほととぎす)」。宮古生まれの陸軍軍人・小笠原善平の手記をもとに1909年(明治42)12月6日、小説「寄生木(やどりぎ)」を東京の警醒社書店から刊行した。その前の2月10日には船で宮古を訪れ、3日間、山口の小笠原家に逗留して善平の墓参や取材をしている。「寄生木」は版を重ね、第2次大戦後には上中下3巻本として岩波文庫に収録された。善平が葬られた慈眼寺(じげんじ)の前に寄生木記念館がある。

■年取り魚(としとりざかな としとりうお)
大晦日の晩に食べる魚。おもに鮭。子持ちナメタ(ババガレイ)を代用にする。

■図書館(としょかん) → 市立図書館
市立図書館は宮町(みやまち)3丁目2番2号にある。

■トシル
トスルとも。鮑(あわび)の内臓。干し鮑に加工するさい大量に出る。新鮮なものを生で、あるいは塩辛などにして食べる。鮑そのものよりトシルのほうを好む人も多い。山田町などではトシロと呼ぶ。

■渡船(とせん)
渡し舟のこと。おもにトセンと呼び、発着場をトセンバ(渡船場)と呼んだ。かつて閉伊川(へいがわ)左岸の築地と右岸の藤原とを結んで手漕ぎの渡船が運航されていた。宮古市史年表に、“1910年(明治43)8月16日、藤原〜光岸地の渡船開始、渡賃5厘。1975年(昭和50)4月2日、明治43年からの閉伊川渡し舟、姿消す”とある。また、山根英郎「湾頭の譜」には、“明治42年秋から6メートルの小船を棹で操った坂下伊兵衛氏の渡船……定員は30名前後で船賃は戦前には大人2銭、小人1銭(飴玉を5つ買えた)。やがて船頭を養子の寅治に譲ったが、高度成長による交通革命に勝てず、68年続けた渡船は昭和52年に川から姿を消した”とある。渡船が対岸にいるときは手を振り、あるいは大声で呼んだ。自転車やバイクも運んだ。1965年(昭和40)頃の運賃は、片道大人30円だったという。愛宕の交差点付近には県北バスの渡船場前停留所があった。藤原の防潮堤の外がわ(川面)に渡船場跡のコンクリート階段が残っている。

■「都桑案内」(とそうあんない) → 関口花涯
合併する前の宮古町・鍬ヶ崎町を紹介した冊子。1918年(大正7)10月23日発行、関口花涯編著。

■鳥取春陽(とっとり・しゅんよう)
刈屋(かりや)出身の作曲家・歌手。1900年(明治33)12月16日生まれ。本名・貫一。14歳で上京、17歳から作曲を始め、1922年(大正11)につくった「籠の鳥」が大ヒット。日本初のレコード会社専属作曲家・歌手として活躍した。演歌・新民謡・歌劇・ジャズなど幅広いジャンルで3000曲以上の作品を残す。1932年(昭和7)1月16日死去、享年31。1993年(平成5)に長尾宇迦「籠の鳥――小説鳥取春陽」が文藝春秋から刊行される。1998年、宮古出身の音楽評論家・菊池清麿が「さすらいのメロディー 鳥取春陽伝」を郁朋社から上梓。

■土手(どて)
土手と言えば、八幡山下・宮古第一中学校校庭のところから宮古高校校庭を経てJR山田線の鉄橋まで続く閉伊川左岸の土手のこと。八幡堤防とも呼ぶ。

■とどヶ崎(とどがさき) → とどヶ埼灯台
“とど”は正式には漢字表記で魚偏に毛を書く(パソコンでは出ない)。崎は埼。本州最東端に位置する。重茂(おもえ)半島の太平洋岸中央部で、標高465mのとど山の稜線が太平洋に出会って断崖をなしている。初日の出は午前6時51分。先端に、とどヶ埼灯台がある。住所表記は岩手県宮古市大字重茂第9地割字大平。東経142度4分・北緯39度32分。重茂から半島内陸を南下して姉吉(あねよし)に至り、海岸伝いに東行・北上するが、姉吉から先は車が入れず、4qの遊歩道を行く。とどヶ埼灯台のそばに1968年(昭和43)11月1日付で“本州最東端の碑”というプレートを打ち込んだ自然石がある。“本州最東端訪問証明書”は宮古駅構内の観光案内所や浄土ヶ浜の宮古観光協会窓口などで発行している。1枚100円、1985年(昭和60)4月6日発行開始。ちなみに、日本本土最東端は北海道最東端の納沙布岬。東経145度49分・北緯43度22分、根室市にある根室半島の東端の岬。日本最東端は南鳥島。東経153度58分・北緯24度18分、北太平洋西部にあり東京都小笠原村に属する。とどヶ崎の名は、かつて多くのトドが棲息していたことに由来する。トドの肉は冬季の保存食として塩漬けや燻製にし、皮は細工物に使われた。

■とどヶ崎荘(とどがさきそう)
民宿。大字重茂(おもえ)第10地割字姉吉(あねよし)23−1にある。0193−68−2416。(“とど”は正式には漢字表記。魚偏に毛を書く。パソコンでは出ない)

■とどヶ埼灯台(とどがさきとうだい)
本州最東端の灯台。“とど”は正式には漢字表記で魚偏に毛を書く(パソコンでは出ない)。埼を崎とする表記も一般的には見られる。重茂(おもえ)半島の太平洋岸、大字(おおあざ)重茂第9地割字大平小字とど山46にある。東経142度4分16秒・北緯39度32分48秒。1902年(明治35)3月1日点灯。1945年(昭和20)7月20日、アメリカ軍の砲撃を受け損壊。1950年(昭和25)6月23日に復旧。1957年(昭和32)に公開された木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、とどヶ埼灯台で7年間を過ごした灯台守の妻・田中キヨの手記をもとに作られた。ただし、とどヶ埼灯台は映画には出てこない。灯台守(岩手航路標識事務所の職員)は1996年(平成8)3月まで常駐し、翌月から無人化。2002年(平成14)に100周年を迎えた。高さ33.72mは東北一。2001年(平成13)に宮古観光協会が選定した新宮古八景のひとつ“螺旋階段眼くらみて上りたりとどヶ崎灯台海に浮くごと”にある内部の螺旋階段は149段。直径1.6mの集光レンズは38q先まで光を届ける。霧のときは船に陸が近いことを霧信号の音で知らせる。とどヶ崎は船がコースを変える変針点にあたり重要度が高い。年末年始に船の航行が多く、定期巡回管理にあたる釜石海上保安部航行援助センターでは12月に総点検を行なう。車では灯台まで近づけない。姉吉(あねよし)キャンプ場から4qの自然歩道が通じている。

■とど浜(とどはま)
埋め立てられて消失。宮古湾の西岸南部にあった。(“とど”は正式には漢字表記。魚偏に毛を書く。パソコンでは出ない)

■とど山(とどやま)
重茂(おもえ)半島の太平洋側、とどヶ埼の後背をなす。標高465m。(“とど”は正式には漢字表記。魚偏に毛を書く。パソコンでは出ない)

■冬葉(とば)
鮭の干物。軽く塩味をつけて縦に割き、冷たい風に晒して(寒干し)つくる。

■トマト・アンド・オニオン(Tomato & Onion)
トマオニと略称。ハンバーグレストラン。宮町(みやまち)1丁目3番17号にある。0193-71-2075。1979年(昭和54)開店。

■富田刃物(とみたはもの)
表示は“刃物の富田”とも。鍛冶屋。和見町(わみまち)2番18号に工場(こうば)がある。0193-62-7810。店は和見町7番の旧街道北筋にあり、店頭の看板には“富田カヂヤ売店”とある。

■とみや
登美屋。文具店。末広町5番2号、末広通りの南筋にある。

■トムトム
食料品店・喫茶店。栄町(さかえちょう)2番4号、宮古駅前通りの西筋にある。トントンと呼ばれることが多い。

■豊川和子(とよかわ・かずこ)
洋画家。1919年(大正8)鍬ヶ崎に生まれる。宮古高等女学校・岩手女子師範を卒業し、鍬ヶ崎小学校・第二中学校などで教職につく。戦後、東京での教員生活のかたわら絵を描き、1964年(昭和39)二紀展に入選。22年間、パリで画家として過ごす。サロン・ドートンヌ会員。代表作「ペタンクをする人」。帰国後の1997年(平成9)7月、都内の病院で死去、享年78。

■豊島医院(とよしまいいん)
和見町(わみまち)8番30号にある。0193-71-1577。

■ドラ(DORA)
正称は、いわて生活協同組合マリンコープDORA。小山田(こやまだ)2丁目2番1号、小山田橋の南袂にある。0193-63-3131。1996年(平成8)11月1日に開店。店名は公募により、大型帆船をイメージした外装・内装から帆船の入出港のさい打ち鳴らされるドラにちなむ。売場面積3700平方m。職員31人・パート115人。営業時間は午前10時〜午後9時。休業は元旦ほか1日。駐車620台。なお、いわて生協の店は市内に、コープ西町、コープ西ヶ丘、コープチェリオがある。
HP

■とりぐるみ
ぼた餅の方言だという。ただし宮古で聞いた記憶はない。

■鳥もと(とりもと)
“とりもと”が正式表記。焼鳥屋。大通(おおどおり)2丁目6番12号にある。1979年(昭和54)5月に開業。磯鶏(そけい)1丁目4番6号にあるカリー亭と経営者が同じ。“カリー亭のレトルトカレー”や同じくレトルト製品の“玄米雑穀椎茸ぞうすい”などを製造・販売。

■トレビ
かつてあった喫茶店。宮古駅前交差点の南東角地、いまの岩手銀行宮古中央支店(末広町7−20)あたりの駅前通り筋の2階。1階は手芸店エルザ。

■トロノ木(とろのき)
字(あざ)の名。大字(おおあざ)崎山第3地割にある。

■トロ箱(とろばこ)
魚箱・魚函。もとはトロール(底引き網)の漁獲物を入れる箱だったが漁法にかかわらず獲れた魚介類を入れる箱をさすようになった。宮古で木箱から発泡スチロール製に主流が移ったのは1970年代と思われる。宮古魚函のサイトの沿革に1972年(昭和47)9月〈発泡スチロールの取り扱い開始〉と、宮古市史年表1975年(昭和50)9月2日に“木製魚箱にかわってスチロール製進出”とある。日付が特定されている理由は不明。駒井雅三は1950年(昭和25)に「宮古魚市場風景」と題した歌群のなかで詠んでいる。“底引網の発動機船はあわただし魚箱(ぎょばこ)を揚げるまたつぎなるも”“なめたかれい ぎす たこ かじか 族(ぞく)わけて トロール箱を積む作業せり”

■とんかつおゝ田(とんかつおおた)
大通(おおどおり)4丁目3番3号にある。0193-62-4022。

■どんぐりラーメン
隣り町、下閉伊郡岩泉町の名物ラーメン。ドングリ(団栗)の粉末が麺に練り込んである。

■どんこ
海魚の一種エゾイソアイナメの地方名。ハゼ科の淡水魚とは別種。名前の由来は“鈍な魚”だという。成魚は体長30cmほどで茶褐色。鱗が少ない。水揚げすると浮き袋が膨れて口から白く丸くはみだし、一見グロテスクではある。1年を通して漁獲され、特に10月頃から冬場に多い。鮮度が落ちやすいことから地元での消費が主。どんこ汁や鍋物は古くからの漁師料理で、近年は三陸海岸の冬を代表する味覚として全国に知られる。淡白・上品な味で食べ飽きない。寒風で干したものは珍味とされる。逆さ焼きは肝と味噌を混ぜて腹に詰め、口を上にして炭火で丸焼きする。肝は冬場に大きくなる。アンキモ(鮟鱇の肝)より風味があり、潰して汁に溶かし込んでもいい。2004年(平成16)から毎年10月末に“シートピアなあど”などを会場として“どんこ祭り”が開かれている。宮古市魚市場の2005年度の水揚げは約142トン、岩手県内全体の約6割を占める。鍬ヶ崎(くわがさき)の俳人・後藤七朗に、“猫二代破(や)れ椀満たすどんこ汁”の句がある。

■冬磨iどんこ)
茸の一種。肉厚で丸まっこい感じの椎茸。ドンコをはじめとする椎茸・干し椎茸は宮古地方の特産品のひとつになっている。

■とんび
烏賊の口の部分。からすとんび、とび口とも言う。干したものを軽く火であぶって食べると香ばしく珍味とされる。酒の肴によく、おやつにもなる。

■どんぴしゃり
岩手県農業試験場で開発された、うるち米のオリジナル品種「岩手68号」の愛称。2005年(平成17)に命名、翌年から売り出された。コシヒカリ系で、食味の良さに加えて耐冷性・耐病性に優れる。作付面積は宮古地方が最も多く、JAみやこ(宮古)では「みやこ米」(宮古米)として売り出している。小売りのビニール袋に印刷されたコピーは“マリンブルーの風立つ大地 米と野菜と花の国サンライズ宮古”。

■ドンブグ
ドンブクとも。魚の一種。ハゼかカツカのような小魚で、閉伊川の下流・河口付近などに棲息。長澤武夫「おらがどうの町 八幡前」には“ドンブク(ハゼ科、腹ひれに吸盤がついた雑魚)”とある。

■とんぶぶ農場(とんぶぶのうじょう)
和井内(わいない)1−12−1、刈屋川上流の森の中にある。0193-73-2055。自然卵や、自然卵を使ったパン、ケーキなどを生産・販売。鶏を平飼いという自然に近い形で育て、餌に三陸のカキの殻をふんだんに使っているため、殻の固い、中身の濃い自然卵ができる。


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