浄土ヶ浜なんだりかんだり

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エッセイ「宮古なんだりかんだり」浄土ヶ浜パノラマ篇


▼ 目 次

臼木山の漁民住宅  NEW!

浄土ヶ浜道で遭難しかけた話
浄土ヶ浜の穴
潮吹穴
ホラ吹き穴
中の浜キャンプ場
日出島
クロコシジロウミツバメ
うみねこパン
宮古港海戦
臼木山の宮古港海戦解説碑
ウスギヤマ?
沖の井伝説
小野小町が宮古にいたという話
月山
ヤマセ
竜神崎
セキエイソメンガン
浄土ヶ浜薪能
浄土ヶ浜に熊?
夜光虫  うらら*投稿
鍬ヶ崎へ
自然歩道は甘くない
近くて遠いローソク岩
ローソク岩の不思議

潮吹グランドホテル
浄土ヶ浜の坂
臼木山の漁民住宅



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■ 浄土ヶ浜道で遭難しかけた話



 常安寺の墓地のあいだのきつい坂を登る。
 日の出町と日影町のあいだの道を下ってゆけば国道45号に出る。
 国道を愛宕方面へしばらく下ってゆくと、左に浄土ヶ浜へいたる道がつながっている。

 浄土ヶ浜の名は、1683年(天和3)ごろ、常安寺7世の霊鏡和尚が、「さながら極楽浄土のようだ」というので名づけたといわれる。
 和尚がたどった道はわからない。
 が、だいたい同じような道筋だったにちがいない。
 この道を歩いてみた。

 宮古ではめずらしい連日の猛暑だった。
 しかも運悪く、いちばん暑い日。
 常安寺の坂を登りきるまでは大丈夫だった。
 浄土ヶ浜道に入ってから、眩暈(めまい)がし、朦朧(もうろう)としてきた。
 車では短い距離も徒歩では長い。
 路上に木陰は少ない。
 見上げれば雲ひとつない。
 強烈な陽射しが照りつけ、アスファルトの熱気が身を包む。
 ボトルの水は切れ、風もない。
 景色を楽しむ余裕など、とっくに消え失せていた。
 行き倒れになるかもしれない。
 つぎの車が来たら助けてもらおう。
 そんな思いさえ胸をよぎる。
 うなだれていた顔を上げた――
 道の先に赤い自動販売機が見えた。
 その向かい側には休憩所らしきものもある。
 ほっとした。
 ほとんど這うようにしてたどり着き、まず精力剤を1本買って飲む。
 健康飲料を3本買う。
 冷たいボトルを首筋・頭・胸に当てながら日陰に腰をおろして息を整える。
 落ち着いて見まわすと、休憩所らしく見えたものはトイレだった。

 冬山でなくとも遭難する。
 夏の整備された観光道路の上で遭難しかけた。
 あやうくオダブツになって、浄土ヶ浜道を常安寺の火葬場へ逆戻りするところだった。
 笑い話のようだけれど、ほんとの話である。


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■ 浄土ヶ浜の穴



 浄土ヶ浜は観光の穴場だ。
 別の意味でも穴場である。

 日立浜町から浄土ヶ浜の長い坂道を登ると、ターミナルビルがある。
 東がわの下に黒石浜があり、遊覧船の発着所がある。
 その外がわに穴がひとつある。
 八戸穴(はちのへあな)だ。
 観光客には知られていない。
 宮古の人間でも、知っている人は多くないかもしれない。
 海上にぽっかり口を開いた洞窟だから、ボートで、あるいは泳いで入るしかない。
 言い伝えでは、青森県の八戸までつづいている、八戸がわには閉伊穴(宮古穴)がある、という。
 信じられない話だ。
 しかし、「そういう穴は絶対に存在しない」と言い切れないところにおもしろさがある。
 「ひょっとしたら……」という気になる。

 浄土ヶ浜には、まだ穴がある。
 黒石浜から北に位置する奥浄土ヶ浜まで600メートルほど遊歩道がのびている。
 その間に2つの穴がある。
 隧道、トンネルだ。(トンネル1トンネル2
 2つとも、すぐに潜り抜けられ、たいした長さではない。

 ちょっと凄いのは、奥浄土ヶ浜のレストハウスやあずま屋を過ぎ、もう先にはなにもなさそうな、どんづまりにある隧道だ。
 隣りの蛸の浜へ通じている。
 200メートルはあるだろうか。
 長く、狭く、壁もでこぼこ。
 「これぞ隧道!」という感じがする。
 この穴も観光客にはあまり知られていないだろう。

 近くにもうひとつ。
 戦時中の防空壕がある。
 むかし、少しだけ足を踏み入れてみた。
 真っ暗で、5、6歩行って引き返した。
 危険はないはずだから、太平洋戦争の時代をものがたる遺産として整備し、公開したらどんなものだろう。

 さらに北がわには有名な潮吹穴がある。
 浄土ヶ浜から見える。
 ただ、ちょっとばかり離れているので、いまは深入りしない。


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■ 潮吹穴



 潮吹穴(しおふきあな)は、国の天然記念物になっている。
 指定は1939年(昭和14)9月7日だという。

 浄土ヶ浜の北、姉ヶ崎の南の崎山海岸にある。
 浄土ヶ浜から出ている遊覧船の島めぐりコースに入っている。
 宮古観光協会が選定した「新宮古八景」にも選ばれている。
 南東に、クロコシジロウミツバメという海鳥の繁殖地として、これも国の天然記念物に指定されている日出島を望む。

 潮吹穴のある一帯は、黒っぽい岩盤の斜面が、そのまま海に落ち込んでいる。
 ある資料によると、穴は波打ち際から10メートルほど離れ、平均海面からの高さは5メートル。
 穴の深さは2.5メートル、平均幅30センチだそうだ。

 なぜ潮を噴き上げるのか。
 穴の下が空洞になっていて、海に通じているからだ。
 波が打ち寄せると、その空洞に海水がどっと注ぎ込み、圧縮された海水が穴から噴出する。
 噴き出す海水の高さは、波の状態によって、ずいぶん違う。
 干潮で穏やかだと、ほとんど噴かない。
 満潮の穏やかなときで6メートルから15メートル。
 荒れていると30メートル以上に達する。

 地質学的にいうと、一帯の地質は中生代白亜紀の礫岩だという。
 そのなかに波打ち際から陸地に向けて1本の割れ目が走っている。
 この割れ目に沿って波による海食作用が進み、海水面付近では下の部分が深くえぐられて空洞ができた。
 さらに割れ目の一部が永いあいだに上下からうがたれて貫通し、穴が開いたという。

 潮吹穴と呼ばれるものは日本各地にあるようだ。
 そのなかで、宮古・崎山の潮吹穴は日本一らしい。
 宮古に来たなら、とにかく見にいかなければ話にならない。
 6メートル噴き上げるか、30メートル噴き上げるか、あるいは、あまり噴かないか――
 それは神のみぞ知る、というもの。


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■ ホラ吹き穴



 「なぁ〜に、てぇ〜すたぁごだぁねえ」
 なに、たいしたことはない――
 潮吹穴というと、たいがいの宮古の人間はそっけなくそう言う。

 しかし、考えてみれば、国は意味もなく天然記念物に指定したりなどしない。
 宮古の潮吹穴が潮を吹く規模は、きっと日本一なのだ。
 国の天然記念物に指定されているということは、国がそれを保証しているということだろう。

 なんにでも欠点はある。
 潮吹穴の唯一の欠点は、海が静かだと、あまり潮を吹かないことだ。
 日和に誘われて見物にでかけても勢いよく潮を吹き上げていない。
 現地の案内板には、
 「吹かない日も多く、ホラ吹き穴と呼ぶ人もいます」
 と書かれている。

 こんな昔話を聞いたことがある。
 もちろん面白半分の話スッコ、作り話にすぎないだろうが。

 ――昔むかし、潮吹穴は、いまの何倍も高く潮を吹き上げていた。
 話に聞いて、遠くからはるばる見物に来た人たちは、みんな満足して帰った。
 まわりの村では頭を抱えていた。
 勢いよく吹き上げられた潮が風に乗って飛び散る。
 畑が潮をかぶって作物があまり実らない。
 どうにかして潮を吹かないようにできないものか?
 そう考えた村の人たちは、ひそかに穴に石を放り込んでみた。
 小さい石だと潮といっしょに吹き上げられてしまう。
 吹き上げられないよう、少しずつ大きな石を運んで投げ入れた。
 穴の下の洞(ほら)が大きいのか、効きめがない。
 それでも大きな石、大きな石と探しだしては運び、どんどんどんどん放り込んだ。
 そのうち、とうとう穏やかな海の日には潮を吹かなくなった。
 穴からは風の音がひゅうひゅうごうごう聞こえるばかり。
 日本一の潮吹きを見ようと遠くからやってきた人たちは、がっかりして、
 「ホラ吹き穴」
 と呼ぶようになった。


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■ 中の浜キャンプ場



 浄土ヶ浜にキャンプ場があった。
 いまターミナルビルのあるところから階段を降りてゆくと、遊覧船発着所のある黒石浜を通り、トンネルを抜ける。
 休憩所や土産物屋さんの入っているマリンハウスがあり、ボート乗り場がある。
 そこが中の浜で、むかしはキャンプ場だった。

 小学生の夏休みに、1年上の隣りのタッコちゃんとふたり、小さいけれど重い三角テントをかついで泊まりに行った。
 いまと同じ位置にトイレがあり、前に水場があり、コンクリート製の武骨なテーブルとベンチがいくつか据えてあった。
 浜はコンクリートで埋められていなかった。
 朝、日の出とともに起きて、まだ冷たい海で泳いだ。
 早朝の海のなかは驚くほど澄みわたっていた。
 小さな魚が泳ぎまわり、海の底にはウミウシやヒトデがいた。
 ムラサキウニやバフンウニもいっぱいいた。

 このときのタッコちゃんが、のちにフォークグループNSP(ニュー・サディスティック・ピンク)の一員となってデビューした。
 「あせ」「さようなら」「夕暮れ時はさびしそう」と立てつづけにヒットさせた。
 一時期グループでの活動を停止していたが、2〜3年前から再びCDを出したりコンサートツアーに駆け回ったりとバリバリ活動しはじめた。

 「ライトミュージック」という古い雑誌の臨時増刊号を持っている。
 表紙に「N.S.P」のタイトル。
 〈これ一冊でN.S.PのすべてがOK!〉というキャッチコピーがあり、中身は全篇NSPの記事・楽譜・写真で埋まっている。
 「想い出の写真集 中村貴之の巻」には、中学2年のときに同級生とキャンプ場で撮ったという写真が載っている。
 このキャンプ場が浄土ヶ浜にあった中の浜キャンプ場だった。
 同級生というのも、みな見覚えのある顔ぶれで懐かしい。

 浄土ヶ浜の中の浜キャンプ場は、知らないあいだになくなっていた。
 調べてみると、1964年(昭和39)3月9日に廃止されたという。
 ずいぶん昔で、意外な感じがする。
 かわりに北の崎山に同じ名前のキャンプ場ができた。
 同じ名前というのも妙だけれど、もともとこちらも中の浜といったのだろう。


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■ 日出島



 浄土ヶ浜の北方に日出島が浮かんでいる。
 無人島で、宮古ではいちばん大きな島だ。
 ある資料によると――
 周囲1800メートル
 標高50メートル
 面積1万2396平方メートル

 名前は、日の出る方向にある島という意味でつけられたらしい。
 古文書に「秀島」と書かれている例もあるという。
 「軍艦島」の異名ももっている。
 1869年(明治2)の宮古港海戦のさいに敵艦と見誤って発砲する軍艦があったかららしい。

 宮古観光協会が選定した「新宮古八景」のひとつに選ばれている。
 太平洋の荒海、ごつごつした岩肌の無人島、赤松の緑に覆われ、海鳥が舞う景色は、一幅の絵だ。

 対岸の日出島海岸からは600メートルほど沖に位置する。
 小学校のとき日出島海岸まで遠足に出かけた。
 常安寺のきつい坂を登り、佐原(さばら)に抜け、そのあとがずいぶん長かった。
 繁った緑のなかの小道を通って海岸に出た。
 ぽっかり浮かんだ日出島は、険しい崖を荒波が洗っていて、とても上陸できそうに見えなかった。
 それでも、いつか行ってみたいと思った。

 上陸は禁止されていると、あとになって知った。
 1935年(昭和10)に、クロコシジロウミツバメの繁殖地として国の天然記念物に指定されているからだ。
 その後は浄土ヶ浜から出ている遊覧船に乗って見ることが多い。

 最近、人の住まない島にも住居表示があることを知った。
 日出島は、宮古市崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)第18地割56番だそうだ。
 ついでに書いておくと、島は対岸の日出島集落の共同所有で、管理者は宮古市になっている。


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■ クロコシジロウミツバメ



 動植物の和名を片仮名で書かれると、もとの意味がわからなくて困ることがある。
 クロコシジロウミツバメもそうだ。
 クロコ・シジロ・ウミツバメなどと区切って読んでしまい、
 「クロコとかシジロとかいうのはなんだろう?」
 と首をかしげる。

 調べてみると、黒腰白海燕と書くらしい。
 これも、黒腰・白海燕と区切ってはいけない。
 意味が、まったく逆になってしまう。
 黒・腰白・海燕だ。
 つまり「全体は黒く、腰の部分が白い、海燕」という意味で、腰の白いのが特徴になっている。

 実物を見た覚えはない。
 というより、これがクロコシジロウミツバメだと意識して見たことはない。
 浄土ヶ浜や蛸の浜などで無意識のうちに目にしたことはあるのかもしれない。
 自分にとっては幻の鳥なので、調べたことを書きとめておきたい。

 鳴き声がグジグジとかグズグズと聞こえるらしく、俗称グズリ。
 全長19センチほど。
 魚や甲殻類が好き。
 歩くのは苦手。
 大洋に面した島に集団で棲息する。
 土に30センチから1メートルの穴を掘って巣をつくる。
 奥に枯れ葉を敷き、7月から8月に1個の卵を産む。
 オス・メス交代で卵を抱き、30日ほどで孵化する。
 親鳥は昼は洋上を飛びまわり、餌をとる。
 海面近くを真っすぐ飛んだかと思えば横に崩れるような、不安定な飛び方をする。
 陸地から数百キロ離れた外洋を飛翔したり、船のあとを追ったりもする。
 日が沈んでから巣に帰り、翌朝2時、3時には再び外洋へ出てゆく。
 環境省の日本版レッド・リストに絶滅危惧種として登録されている。
 三陸は東半球唯一の繁殖地で、日出島のほかに釜石の三貫島が知られる。
 日出島では、1980年代の後半からオオミズナギドリが増え、ウミツバメの巣を襲って減少させているそうだ。


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■ うみねこパン



 浄土ヶ浜から島めぐり遊覧船の陸中丸に乗る。
 すると、出航するときから桟橋に戻ってくるまで、うみねこが群がってついてくる。
 田老行きのウミネコ航路でも同じだ。

 船内では“うみねこパン”なるものを売っている。
 一袋100円。
 直截なネーミングに脱帽する。
 挽いたワカメやコンブなどの海藻が生地に練り込んである。
 人間が食べて食べられないことはない。
 試しに食べてみた。
 ぼそぼそして、ちょっと抵抗はある。

 遊覧船の船尾に行って、パンを千切って宙に放る。
 すると、うみねこがくちばしでじょうずにキャッチする。
 デッキから身を乗り出すようにしてパンを持った手を伸ばしていても手からとってゆく。
 なかなかよそでは味わえない体験だから、はじめは1個しか買わなかった“うみねこパン”を、何個も買っては、うみねこに与える。
 ガイド嬢の観光案内もうわのそら。
 肝心の景色を見るのさえ、つい忘れてしまう。

 うみねこの餌付け用パンを開発したのは日本初。
 餌付けに成功したのも、浄土ヶ浜が日本で最初だという。
 日本ばかりでなく、世界でも最初なのではないだろうか。
 うみねこの餌付けは観光資源のひとつとして定着している。
 水を差すつもりはまったくないけれど、餌付けという行為には生態系のバランスを崩しかねない一面がある。
 そのへんが、ちょっとだけ気がかりだ。


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■ 宮古港海戦



 浄土ヶ浜の第1駐車場とターミナルビルのあいだの道を海沿いに北へ少し歩く。
 右に御台場展望台へつづく細い道があり、入口に宮古港海戦記念碑が建っている。
 大砲の台座と砲弾をかたどったのだろう、コンクリート製の土台はおもしろい形をしている。
 石碑本体は薄茶色。
 裏に1968.3.7という日付けや建立者の宮古ロータリークラブの名とともに、石材が両雲母花崗岩であることなどが刻まれている。
 表にはこう刻まれている。

“宮古港海戦記念碑
          衆議院議員 鈴木善幸書
 明治2年(1869)3月、函館にたてこもる旧幕府軍追討のために派遣された政府軍の軍艦「甲鉄」以下8隻が宮古港に碇泊していた。
 旧幕艦「回天」は25日早朝、旗艦「甲鉄」を奪うべく侵入し、砲火をあびせ壮烈な戦いをいどんだ。
 これに対し政府軍は艦載機銃をもって応戦――
 接舷、肉迫、激闘約30分――
 両軍の死傷者合わせて50余名におよんだ。
 この海戦は1艦をもって8艦にあたった勇敢さとともに、わが国初の洋式海戦として、日本海戦史上その名をとどめた。
 明治100年を記念して、これを建てる。”

 横書き・洋数字。
 函館の表記は原文のまま。
 当時は箱館と書いた。
 読みやすくするために読点と改行をおぎなった。

 鈴木善幸さんの文字だとは知らなかった。
 山田町出身、宮古水産高校卒、首相をつとめ、2004年(平成16)7月に故人となった。
 さん付けで呼びたくなる親近感があった。
 善幸さんが総理大臣になったのは1980年(昭和55)だから、その12年前の文字ということになる。

 御台場展望台に立った。
 眼下には浄土ヶ浜の美しい岩肌と静かな海、その向こうに太平洋がはるかに広がる。
 幕府軍の回天は北の海から浄土ヶ浜の入口をかすめて宮古港に入り、北へ敗走した。
 回天――
 幕府軍に天運はついに回(めぐ)らなかった。
 浄土ヶ浜の北に浮かぶ日出島には軍艦島という別名がある。
 新政府軍が追撃する途中、この日出島を回天と見誤って砲撃したらしい。
 そんなことを思いながら、穏やかな海、平和な海という名をもつ太平洋を眺めた。


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■ 臼木山の宮古港海戦解説碑



 御台場展望台浄土ヶ浜ターミナルビルの西がわに位置する臼木山には、宮古港海戦の解説碑がある。
 頂上から西へ少し行ったところだ。
 海戦の舞台となった宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見おろすことができる。
 海戦の解説と略図、幕府軍にいた新選組の土方歳三と官軍側の東郷平八郎の写真や紹介文を刻んでいる。
 海戦から130年たった2000年(平成12)3月に建立されたらしい。

 碑文は大きな黒曜石いっぱいに小さな字で陰刻されている。
 碑面が光って、ちょっと読む気が起こらない。
 鈴木善幸さんの書いた記念碑より詳しく書いてあるのに、これでは、せっかくの解説碑も用をなしていないのではないかと気がかりだ。
 解説文には、こう記されている。
 (漢数字を洋数字に変え、一行アキを加えた)

 “1867(慶応3)年、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した後も、旧幕府軍は各地で新政府軍に抵抗を続け、1868(明治元)年には、榎本武揚をリーダーとして箱館五稜郭に臨時政府を樹立しました。

 これに対し、1869(明治2)年3月、新政府軍は箱館の旧幕府軍討伐のために8隻の船団で品川沖を出航し、16日から相次いで宮古に入港しました。

 この情報が箱館に伝わると、旧幕府軍は宮古港に停泊する船団に奇襲攻撃をかけて、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪取し、戦況を一変させる作戦を決定しました。

 そして「回天」「蟠龍」「高雄」の3隻の軍艦で宮古に向かいましたが、途中で蟠龍は行方不明、高雄も機関が故障したため、3月25日未明の作戦決行時に残った軍艦は回天1隻となっていました。

 それでも、旧幕府軍はわずかな可能性を信じて甲鉄への奇襲攻撃を強行しましたが、ガットリング銃など近代兵器による猛反撃にあっては作戦は成功するはずもなく、回天は退却を余儀なくされるという結果に終わりました。

 わずか30分あまりの戦いでしたが、これが近代日本海戦史に残る宮古港海戦です。”


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■ ウスギヤマ?



 宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見おろす臼木山は、日立浜の集落の後背に位置している。
 標高は86メートルしかない。
 それでも、ちょっと長めの散歩のつもりで宮古から鍬ヶ崎日立浜を経て浄土ヶ浜へ通じる坂道を登り、第1駐車場でひと息ついて最後に臼木山の頂上まで登るとなると、けっこうきつい。

 花見には小さいとき親に連れられて2、3度登ったことがある。
 夢のようにきれいな桜山の記憶が残っている。
 地元ではサグラヤマと呼ぶ。
 100種類・800本の桜があるらしい。
 宮古市史年表によると、1922年(大正11)5月7日に桜800本を植えたという。

 春にはカタクリも薄紫の可憐な花を咲かせる。
 最近に行ったのは11月。
 ノアザミに似た紫色の花が目を引いた。
 あれは、なんという花なのだろう。

 広い駐車場があちこちにできた。
 水産科学館もでき、子どものころに比べてさえ、はるかに緑は減った。
 それでもまだ自然は濃厚に残っている。

 ニホンカモシカも姿を見せることがあるらしい。
 臼木山以外にも浄土ヶ浜の自然歩道や山のなかを歩きまわってみた。
 熊はご免こうむるが、カモシカなら出会いたい。
 そう思いながら捜したが姿を見ることはなかった。

 カモシカは偶蹄目ウシ科カモシカ属。
 鹿は偶蹄目シカ科シカ属。
 ウシ科とシカ科だから全然別種らしい。
 臼木山のウスキは、アイヌ語で鹿の足跡のあるところという意味だと聞いた覚えがある。
 いま鹿はいないのだろうか。

 ウスキといえば、臼木山をウスキヤマと呼んでいた。
 ウスギヤマと濁って読ませる地名事典に出会って驚いたことがある。
 濁点のあるなしでイメージが違う。
 土地の人はどう呼ぶのだろう。

 徳冨蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」には臼木山が小杉山と名を変えて出てくる。
 モデル小説によくある手で、実際の名称がたやすく思い浮かぶように少しだけ変えて小説化している。
 このコスギヤマという響きから察すると、明治時代に山口で育った「寄生木」の原作者・小笠原善平は、臼木山をウスギヤマと呼んでいたようだ。


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■ 沖の井伝説



 「海のアイス 沖の井」――
 陸中海岸国立公園の誕生50周年を記念し、宮古観光協会が売りだした新製品だ。
 宮古沖の海洋深層水を使ったバニラアイスクリーム。
 たのはた牛乳・たのはたアイスクリームなどの酪農製品で知られる田野畑村産業開発公社が協力した。
 容器は海の青、110ミリリットル入り、1個250円。
 浄土ヶ浜のレストハウスほか、シートピアなあどや周辺の道の駅などで販売しはじめたという。
 肝心の味は、“さっぱりとした甘さのなかに、ほんのり塩味が香る”ものらしい。
 機会があったら、ぜひ味わってみたい。

 それにしても“沖の井”という命名はおもしろい。
 沖の井は浄土ヶ浜の沖にあると昔から伝えられている海底の井戸。
 清水が、こんこんと海中に湧きでているといわれる。

 金野静一さんの「陸中海岸の民話」には、おおむねこんなふうに書かれている。
 ――安永9年(1780年)8月15日の夜、この沖の井を探検せんものと、何人かの風流人が小舟をくりだしたそうです。
 そしてついに剣の山の4〜5町(1町は約109メートル)ばかり沖合いの海中から清水の湧くのを発見したと伝えています。
 しかし現在は、その名が残るだけで、所在はまったく不明です云々

 この話の典拠は「奥々風土記(おうおうふどき)」という江戸時代の書物らしい。
 極楽浄土にたとえられる浜にふさわしい伝説だ。
 この海底の井戸から湧く冷たい清水のイメージと海洋深層水とが結びついて「海のアイス 沖の井」のネーミングが生まれたのだろう。

 海洋深層水は太陽光線が届かない水深200メートル以上の深さにあって細菌などが極端に少なく、栄養素や微量元素が豊富な海水をいうらしい。
 「海のアイス 沖の井」に利用する深層水は、とどヶ崎から約40キロ沖合いの深海から採取した清浄な海水だという。
 浄土ヶ浜の沖4〜5町より、はるかに遠い。
 残念ながら伝説の沖の井ではなさそうだ。
 しかし、古い伝承が、こういうかたちで現代によみがえってくるとは思いもしなかった。


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■ 小野小町が宮古にいたという話



 謎の女、小野小町――
 実在したことは確からしい。
 平安前期、9世紀ごろの歌人だ。
 とかく伝説が多い。
 日本一の美女ともされているから、こんな歌を詠んでもさまになる。

  花の色は移りにけりないたづらに
      我が身世にふるながめせし間に(古今集)

 一説に、出羽秋田の郡司だった小野良実(よしざね)の娘だという。
 この小野小町が宮古に住んでいたという伝説がある。
 江戸時代の旅行家・民俗学者として有名な菅江真澄(すがえ・ますみ)に「小野のふるさと」という紀行文がある。
 このなかに、秋田で耳にしたのだろうこんな話を書きつけている。

 ――小町は、おさないとき人に盗まれて陸奥の宮古に住んでいた。
 わが子がいるとは夢にも知らずに宮古を訪れた小野良実は、世になくみやびな若い女をみかけた。
 それがわが娘とは気づかずに恋心をいだき、夜をともにして行く末を約束し、宮古を離れた。
 あとになって小町は良実が実の父親だということを知った。
 小町は、私こそ実の父とちぎった世にもまれな罪人だと嘆き悲しんだけれど、甲斐もなく、こののち世の中の男とは露ほどのちぎりをも結ばなかった、という。
 この物語には小町の詠んだひとつの歌が思い合わせられる。

  おきのゐて身をやくよりも悲しきは
       みやこ島べの別れなりけり

 以上が菅江真澄の文章の大意。
 この話をとりあげた小島俊一さんの「陸中海岸風土記」には、当時、浄土ヶ浜は都島辺(みやこしまべ)とか、単に島辺と呼ばれ、形のよい白い半島が都島(宮古島)だったと書かれている。

 都島(宮古島)と秀島(日出島)のあいだに真水の湧く海底の井戸があって、小町の歌にでてくる“おきのゐ”(沖の井)とされる。
 安永9年(1780年)のこと、宮古の文人高橋直道は十五夜の月明かりに舟を出して沖の井を探しあて、こう詠んだという。

  沖の井をいつくと問へばみちのくの
           宮古島辺に有明の月


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■ 月山



 宮古は太平洋に面した町。
 東は海だ。
 しかし、市街地から見ると重茂(おもえ)半島に視界をさえぎられ、その真ん中には月山(がっさん)がそびえている。
 月山は、だいたいどこにいても見える。
 ラサの煙突がそうであるように、宮古のランドマークと言っていい。
 標高は455.9メートル。
 御殿山とも呼ばれ、町の向かいにあるから向山(むげえやま)とも呼ぶ。
 頂上には月山神社やテレビ塔・展望台が建つ。
 展望台から、東には太平洋を見はるかす。
 西に宮古湾・市街地と早池峰をいただく北上山地。
 北は重茂半島北端の閉伊崎から鍬ヶ崎の町並みや宮古港・浄土ヶ浜・日出島などを一望できる。

 市街に面して白浜がある。
 閉伊川の河口左岸と結んでいた巡航船の白浜丸は、2001年(平成13)3月20日に廃止されたという。
 白浜丸待合所は、いまでも築地に残っている。
 宮古駅からは湾をぐるりと回って約20キロの距離がある。
 駅前発の重茂行き県北バスで40分かかるらしい。
 月山登山口のバス停で下車し、さらに歩いて60分。
 バスで行ったことはない。
 いつも白浜丸で行った。
 いつもといっても、たぶん3回ほどだ。
 遠足かなにかで一度行った。
 一度は友人ふたりと、あとは一人で、白浜から、きつい坂道を頂上めざして登った。
 頂上からの見晴らしは雄大だった。
 そのぶん自分の住んでいる町は、ちっぽけなものに見えた。

 宮古市史年表を見ると、月山にNHKのテレビ塔が完成したのは1961年(昭和36)のことだという。
 家にテレビが来たのは1964年(昭和39)、東京オリンピックの前だったと思う。
 以後、テレビ世代のぼくにとって月山は“テレビ塔のある山”になった。
 月山のテレビ塔がなければテレビが映らないのだから、月山はたしかにありがたい存在だった。
 でも、それだけではない。
 宮古に住んでいるころは身近にありすぎて、その存在感がわからなかった。
 啄木が“ありがたきかな”と言った“ふるさとの山”は、ぼくにとっては月山なんだと今になって感じる。


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■ ヤマセ


 乳色をした濃い霧が海からやってくる。
 湾口を侵し、閉伊崎を巻き、やがて湾内を真っ白に埋め尽くす。
 月山が霧の海に浮かんでいるときもあれば、隠されて姿を消してしまうこともある。
 ヤマセだ。
 梅雨から夏にかけて寒流の親潮やオホーツク海気団から吹きつける冷たく湿った北東風が濃い霧を発生させ、巨大な津波のように押し寄せる。
 月山の向こうからやってきて、山の背を越える。
 まさに山背だ。
 濃霧をガスと呼ぶ。
 月山はガスサンだ。
 陸を侵す。
 気温が下がる。
 何日もつづけば冷夏になり、凶作の原因になる。
 マガダとも呼び、魔靄と書くらしい。
 白い悪魔とも呼ばれる。

 東北地方は昔からヤマセに悩まされつづけてきた。
 最近では2003年(平成14)が冷夏だった。
 1993年(平成3)もそうだった。
 梅雨が明けないままに夏が過ぎ、記録的な冷夏になった。
 米がとれず、値段は高騰した。
 備蓄用の古米・古々米では足りずに政府はタイや中国・アメリカなどから外米を緊急輸入した。
 古米も外米も、まずいと不評を買った。
 1993年米騒動、平成の米騒動とも呼ばれた。
 農作物だけではなく、漁業にも影響があるのだろう。
 ヤマセと漁業についての資料がなくて詳しい事実はわからない。
 単純に考えれば、海の上で視界が利かなくてはうっかり船も動かせない。

 陸の上のことだが、個人的な経験ではこんなことがあった。
 ある夏、浄土ヶ浜の崖っぷちの道を歩いていてガスに巻かれた。
 霧が出てきたなと思ったら、見る見るうちに視界が閉ざされ、数メートル先も見えなくなった。
 断崖の下は乳白色に埋め尽くされている。
 車道の端を区切るロープの外に表示板が建っていた。
 “ ↓ 浄土ヶ浜”と書かれている。
 矢印の方向、その底から潮(うしお)のような観光客のざわめきが立ちのぼってくる。
 急に濃霧に巻かれて平常心を失ったのかもしれない。
 近道があるのかと思い、ロープを越えようとして、ハッと気づいた。
 この先は崖だ。
 矢印は、ただ方向を指しているだけで、道があるわけじゃない――
 あのときのことを思うと、いまでもゾッとする。


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■ 竜神崎


 竜神崎は日立浜町にある。
 宮古港の東部をかたちづくる鍬ヶ崎半島、その南端に竜神崎は位置している。
 標高86メートルの臼木山の裾にあたる。
 浄土ヶ浜行きの県北バスに乗ると、角力浜の停留所からすぐだ。
 高台には竜神崎展望台があり、宮古港を一望できる。
 浄土ヶ浜の入口になる東の舘ヶ崎(たてがさき)展望台をへて、海水浴場のある奥浄土ヶ浜まで遊歩道がつづく。

 竜神崎の波に洗われる岩礁に龍神さまが建っている。
 赤い太鼓橋を岩礁に渡ると、小さな社(やしろ)と赤い鳥居が海を向いている。
 鳥居には“龍神”と書かれた扁額がかかっている。
 竜ではなく龍の字が使われている。
 社は白木造り。
 材は欅(けやき)らしい。
 なにも塗られていない木肌が海風を受けている。
 小体(こてい)に細部を造りこんだ社だ。
 社も鳥居も重茂(おもえ)半島の奥にそびえる十二神山を向いている。
 偶然なのか、なにかいわれがあるのかはわからない。

 龍神さまは海の神。
 豊漁と海の安全を見守っている。
 八大龍王の碑も並んで建っている。
 魚の霊を慰める魚霊塔もそばにある。
 龍神さまは港の守護神でもある。
 例祭は旧3月15日だという。
 いったいどんな祭りなのだろう。

 龍神さまのかたわらから南へ向かって防波堤が延びている。
 宮古港口の北端をなし、南の港口は出崎埠頭だ。
 宮古にいたころは竜神崎の防波堤と呼んでいた。
 いま海上保安庁がつくった図を見ると、宮古港防波堤と書かれている。
 防波堤は付け根の部分が切れて陸地と離れ、小さな魚船なら通れるようになっている。
 むかしは橋があって渡れたという。
 南へ延びた防波堤は途中から屈曲して南東に延び、先端に赤灯台がある。
 赤灯台は、宮古港防波堤灯台と呼ぶらしい。
 屈曲部までの255メートルは1930年(昭和5)の着工、1937年(昭和12)にできたという。
 案外古い。
 屈曲部から先の153メートルは、いつ完成したのか調べてもわからなかった。


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■ セキエイソメンガン



 セキエイソメンガンと聞いてピンとくるのが宮古人である。
 石英粗面岩――
 浄土ヶ浜の白い岩や石の名前だ。

 高校の地学の時間に習ったような気がする。
 ためしにインターネットで検索してみた。
 花崗岩に近い化学成分および鉱物成分をもつ噴出岩で、ほとんどが石英と長石とでなりたつ。
 学名の Liparite はギリシャ語の liparos(光っている)に由来する云々と出ている。

 最近は流紋岩と呼ばれることが多いらしい。
 流紋岩では、なんだかガッカリする。
 浄土ヶ浜の白いイメージとはかけ離れてしまう。
 やはり石英粗面岩でなくてはならない。
 石英のイメージが重要なのだ。
 ガラス質で透明な感じが浄土ヶ浜とよく合う。

 粗面岩とはなんだろう。
 詳しい説明は抜きにして事典から引用すると、灰白・淡緑あるいは淡紅色を呈し、ざらざらした感触がある火山岩のひとつだという。

 浄土ヶ浜は白色や灰白色だ。
 昔よりくろずんできたと言う人もいるけれど、そうだろうか。
 光の当たり方しだいで真っ白く見えたり、灰白色に見えたり、灰色に沈んで見えたりする。
 朝日を背にすると黒く、日中の陽光を反射すると白く、夕日を浴びると赤く見える。
 雲の流れや季節の移ろいを敏感に映しだす。
 奥浄土ヶ浜は波のほとんどない静かな石浜だけれど、その石は風や波、陽の光にさらされ、石英粗面岩が平たく割れて角がとれたものなのだろう。

 奥浄土ヶ浜からターミナルビルに向かって遊歩道を歩くと、いくつか白い石浜がある。
 以前に食堂や遊覧船の切符売り場やボート乗り場があった砥石浜(といしはま)は、物心ついたときはすでにコンクリートで固められていた。
 つぎの名前のない?小さな浜は、背後の断崖から崩れ落ちてきたばかりのような岩石がごろごろしている。
 いまマリンハウスとボート乗り場がある中の浜は一部がコンクリートで固められている。
 キャンプ場のあった頃は白い石浜だった。

 いま遊覧船乗り場のある黒石浜の石は――白くない。
 名前どおりに黒かった。
 北の蛸の浜、南の黒石浜、このふたつの浜のあいだに白い石英粗面岩の“浄土”がある。


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■ 浄土ヶ浜薪能



 石英粗面岩の白い岩、赤松の緑、水平線を見はるかす海と澄んで広がる空の青、ハマユリの橙、ウミネコの白、時には赤松の枝に黒いオオタカが羽根を休め周囲をうかがっている。
 絶景の夏――

 そんな浄土ヶ浜で、能が開かれるという。
 真夏の夕方から夜にかけ、篝火(かがりび)を焚いて屋外の舞台で演じられる薪能だ。

 浄土ヶ浜薪能と聞くと、なにかゾクッとした快感が走る。
 浄土ヶ浜という幽玄な名。
 篝火の映える絶好のロケーション。
 いままで能という伝統芸能にほとんど関心のなかったぼくでさえ見てみたいと思ってしまう。

 芸能には、それぞれ固有の共感させる力、見聞きする者を感動させる内実がある。
 いっぽうで、それが演じられる場という要素が影響する。
 とくに野外で演じられる場合にそう言えるようだ。
 演者も観客も、その場の雰囲気に染まる。
 場の磁力がうまく作用すれば三昧境に陶酔することができる。
 浄土ヶ浜という魅力的な場所なら、きっといい影響をもたらしてくれるにちがいない。
 国立公園のなかだから制約はいろいろあるのだろうけれど、できるなら、白い岩肌が篝火に燃えたつような演出を忘れないでほしい。

 初めての浄土ヶ浜薪能で注目したいのは、仕舞と子方を地元から公募した小中学生が演じることだ。
 仕舞とは独立した見せ場をひとりで演じる重要な役。
 子方は「船弁慶」の義経役だろうか。
 田老町・新里村と合併して生まれた新生宮古市の1周年記念行事だという。
 1回で終わらせず、何年もつづけてほしいものだ。
 
 日 時 2006年8月5日(土)
 場 所 浄土ヶ浜特設会場
 開 場 午後4時
 開 演 午後5時30分〜8時
 演 目 能 船弁慶(宝生流)
     狂言 仏師(大蔵流)
 入場料 A席3000円 S席4000円
 問合先 小成ぶんぐ館 рO193‐63‐5517

   < マスター写真館 浄土ヶ浜薪能のページ

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■ 浄土ヶ浜に熊?



 浄土ヶ浜に熊が出た、という。
 浄土ヶ浜に熊とは前代未聞だ。

 新聞報道によると8月3日のこと。
 体長1メートルほどの子熊だったそうだ。
 朝の6時45分ごろ、御台場展望台あたりで家族連れが黒い生き物を見た。
 連絡をうけた自然公園保護管理委員が子熊を確認。
 市役所は午前8時半ごろ防災無線で注意を呼びかけ、御台場への遊歩道を立ち入り禁止にした。
 午前9時ごろにも御台場のあたりで記念撮影の業者さんが熊を目撃。
 さらに北西600メートルの第3駐車場近くで正午ごろ自然保護官事務所の職員が剛台(つよしだい)展望台のほうへ走り去る熊を発見し、剛台への遊歩道を立ち入り禁止にした。
 夏のあいだ開設している浄土ヶ浜交番は2人態勢を3人に増やし終日パトロール。
 地元に生まれ住んで50年になる人は、「かつて熊が出た記憶はない」と話していた、という。

 その2日前、浄土ヶ浜にいた。
 日立浜の通りから民宿おおすかへ入る道を曲がった。
 ネエノ沢とかネイノ沢と呼ばれる一帯だろうか、細い坂道を登ってゆくと第3駐車場の裏手へ出る。
 そこから浄土ヶ浜道を横切り、剛台に登った。
 曇って視界は悪いが、蛸の浜を眺め、日出島ローソク岩潮吹穴姉ヶ崎を遠望した。
 その間、夫婦連れが二組、三脚を担いだ人がひとりやってきた。
 剛台から浄土ヶ浜へおりる途中、はまゆり展望台に寄った。
 林のなかへ分けいった先に、断崖絶壁が落ちこむ手前をロープで仕切っただけの狭い見晴らし場がある。
 施設はなにもなく、人影もない。
 浄土ヶ浜では5日に行なわれる薪能の舞台を設営中だった。
 涼しくて、泳いでいる人の姿もまばら。
 子どもの水遊び程度だ。
 中の浜から御台場、さらにターミナルビル屋上、舘ヶ崎と展望台を巡った。
 自然保護官事務所を訪ねて自然歩道の地図をもらい、臼木山の裾に新しく整備された津波避難路を角力浜へ下った。

 剛台はまゆり展望台御台場舘ヶ崎臼木山――
 あるいはそのどこかに、デジカメ片手にひょこひょこ歩く一匹の奇妙な生き物を息をひそめてうかがう子熊がいたのかもしれない。      (2006.8.5)


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■ 夜光虫
   うらら * 投稿


 「夜光虫を見に行きませんか」
 と誘われたとき、海辺を飛ぶ蛍のような、小さな光る虫を連想しました。
 実際のところ、どんな虫なのか今まで一度も見たことがないので、ぜひ自分の目で確かめてみたいと思いました。

 その日、急きょ結成された夜光虫探検隊。
 隊長が男性で、ほか3名は女性隊員です。
 夜の9時過ぎ、探検隊は浄土ヶ浜の駐車場に到着しました。
 お盆休みのためか、駐車場には車が1台止まっているだけです。
 人の気配はまったくなく、しんと静まりかえっています。

 車から降りた4人は懐中電灯を片手に、駐車場から中の浜に続く真っ暗な道を歩き始めました。
 闇のなかを照らす灯の先に、10日ほど前に出たクマが再び舞い戻って彷徨(さまよ)っていませんように、と祈りながら……。

 「カラーン、カラーン」
 とクマ避けの鈴の音が響きます。
 さすがに隊長は、夜の浄土ヶ浜に通い慣れているせいか妙に落ちついて、頭にもライトをつけスタスタ歩いています。

 あとに続く私たちは不安で、あたりをじーっとうかがいながら、ソロリソロリとゆっくり進みます。
 「大丈夫かなあ〜」
 「大丈夫、大丈夫」
 怖さを紛らわすために、話し声も一段と大きくなります。

 怖いけれど、無事にここを通り抜けたら夜光虫が見られる、と思うと、ドキドキとわくわくした気持ちが入り混じります。
 ふと急に、子どもの頃に戻ったような気がしました。
 幼い頃はいつも好奇心で一杯でした。
 あの頃と変わっていない自分をちょっと感じて、なんだかとても嬉しくなりました。

 中の浜へ着くと、シャッターの降りた売店の外灯が、ぽつんぽつんと点いています。
 もうここまで来たらクマは出てこないだろう、と思うと、みな元気になって海へ向かいます。

 波打ち際でサンダルを脱いで、ぬるっとした石の上を滑りながら海に足を入れてみると、海水は思ったより冷たくて、ひんやりとしていました。
 「水面を手で円を描くようにすると、夜光虫が見えるよ」
 と隊長の声が聞こえます。

 3人で手をくるくる回します。
 すると、シルクのような水面がきらきら煌めいて、星くずのようなものが光ります。
 とてもきれいで、優しい安らぎを与えてくれる光です。
 きらきらはすーっと消えていくので、またくるくる回すと、再びきらきら揺れて輝きます。
 このとき初めて夜光虫は、海辺を飛ぶ虫ではなく、水面のプランクトンが光を放つものだと知りました。

 小雨のなか、海のほうへ懐中電灯を照らしてみると、闇のなかに白い岩肌がぼうっと浮かんで見えます。
 白い岩は、過去も未来もなく、今この時を、あたたかく見守ってくれているように思いました。


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■ 鍬ヶ崎へ



 中里団地から鍬ヶ崎(くわがさき)へ下った。
 梅翁寺に出て国道45号を渡り、宮古測候所わきを降りて鍬ヶ崎小学校前へ。
 標高差は100メートルくらいだろうか。
 測候所の標高は42・5メートルとホームページに出ている。
 途中、測候所ちかくの車道の路肩が崩落して、シートをかぶせた箇所があった。
 深い崖の下には民家が建ち並んでいる。

 金勢社へまわった。
 地元ではコーセーサマと呼ぶ。
 津波のときは、コーセーサマわきの急な山道を、測候所の建つタデヤマ(館山)頂上まで駆けのぼるそうだ。

 オグマンサマと呼ばれる熊野神社へも行った。
 オグマンサマは御熊野サマの変化だろう。
 奥宮サマの訛りだという説も聞いたことがあるけれど、これはどうも腑に落ちない。
 オグマンサマのある熊野町はオグマンチョウとも呼ばれる。

 熊野神社の隣りの広場、鍬ヶ崎児童遊園にある暦応の碑を見た。
 暦応3年、1340年に建てられた市内最古の石碑だという。

 鍬ヶ崎小学校のまわりには見たいものがたくさんある。
 銘酒男山で知られる菱屋酒造も見にいった。
 宮古唯一の蔵元で、地元ではヒッサァと呼ばれる。
 1852年(嘉永5)創業というから155年の歴史をもつ。
 板壁の古い建物は、いつごろのものだろう。

 心公院の坂道を登って蛸の浜へ行った。
 坂を登りきったさきに広がる風景がいい。
 三角形の砂島(さごじま)、その向こうに日出島、太平洋――
 小雨にけぶって視界は悪かった。
 日和山から足もとの浜を見渡したけれど人影もない。
 蛸の浜探検は天気がよくて泳げる日にすることにしよう。
 そう決めて踵(きびす)を返すと、心公院の墓道を大沢海岸へ向かった。


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■ 自然歩道は甘くない



 浄土ヶ浜から姉ヶ崎まで自然歩道が延びている。
 資料によると距離は片道約8・5キロ。
 このうち、蛸の浜から潮吹穴までは5・5キロ、往復11キロ。
 途中に大沢海岸やローソク岩がある。
 休憩をふくめて4時間の散策が楽しめそうだ、と思った。
 甘かった。

 法事があったらしく、心公院わきの墓道を喪服の人たちがぞろぞろ歩いている。
 そのあとをついていく。
 お墓のあいだに道が何本も延びている。
 自然歩道を示す標識のまえでウロウロしていた。
 ちょっと離れたお墓のそばから、喪服のおじいさんが、しきりに指さして道を教えてくれる。
 「この道ですね?」
 こちらも身振りで確認し、かるく会釈して教えられた道を行く。

 墓道を抜けて林へ入ると一本道で迷いようがない。
 ほぼ海岸線に沿った、断崖をおおう樹林のなかの小径だった。
 展望はきかない。
 きついアップダウンや蛇行をくりかえす。
 急坂を這いつくばって登り、笑いだしそうな膝をおさえて下る。
 降ったり止んだりの小雨を樹木が少しは防いでくれる。
 それでも傘をささないと濡れる。
 足もとは滑りやすい。

 途中に蛸の浜展望台があった。
 見おろす海は底まで透きとおっていて気持ちが癒される。

 どうにか大沢海岸までたどりついた。
 津波防潮堤の門の下で雨宿り。
 壁に寄りかかり、立ったままリュックからゴマ餅のパックをとりだして腹におさめる。
 雨にけぶる海をぼんやり眺めた。
 連日歩きづめの足が「山道はもういやだ」と悲鳴をあげている。
 戻ろうと決めた。
 自然歩道ではなく、平坦な車道を。


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■ 近くて遠いローソク岩



 蛸の浜から潮吹穴をめざして自然歩道を歩いた。
 隣りの大沢海岸まで行ったところで挫折し、車道を引き返した。
 情けない。
 ローソク岩を見なかったことも無念きわまりない。
 あの壮大な岩柱、あの見事な屹立を目のあたりにしたいと思っていた。
 なのに、大沢海岸にたどりついたときにはすっぽり忘れていた。

 ――ローソク岩は浄土ヶ浜の北、大沢海岸に突き出た巨大な岩です。
 高さ40メートル、幅は上部で7メートル、下部で3メートル。
 火成岩が周囲の水成岩を突き破って形成され、岩脈部が露出しているため全体が見られる珍しいものです。
 1939年(昭和14)9月7日に国の天然記念物に指定されました。 
 陸からは近づくことができません。
 浄土ヶ浜島めぐり観光船に乗船してご覧ください。

 これは市役所観光課による解説である。
 観光船からは何度か見ている。
 浄土ヶ浜からも見える。
 ただ、浄土ヶ浜から遠望すると、背後の断崖にまぎれて、雄々しくそそりたつイメージが薄れてしまう。
 それに、くすんで見える。
 間近に見ると、白くローソクのように輝いて見えるそうだ。
 光の加減なのかもしれない。

 文化庁の国指定文化財等データベースを見た。
 登録名称は〈崎山の蝋燭岩〉。
 ローソクが漢字になっている。
 解説文は片仮名で書かれている。

 ――角閃(かくせん)安山岩ノ岩脈ナリ。
 高サ40メートル・幅7メートルノ一大岩壁ヲナシテ海岸ニ屹立シ、横ニ柱状節理発逹ス。
 岩脈トシテ代表的ノモノナリ。

 白く輝いて見えるとすれば、きっと角閃安山岩という火成岩にふくまれた結晶が光を反射しているにちがいない。


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■ ローソク岩の不思議



 崎山のローソク岩は不思議だ。
 こんなことは誰も言わないが、ぼくはそう思っている。

 全国にローソク岩と名のつく岩は数々あれど、国の天然記念物に指定されているのは、崎山のローソク岩だけだ。
 国が日本一のローソク岩と認めている。
 なのに、あまり話題にのぼらない。
 近くにある潮吹穴はよく話題になる。
 この違いはなぜだろう?

 〈崎山の蝋燭岩〉の名称で天然記念物に登録されている。
 所在地は崎鍬ヶ崎(さきくわがさき)第12地割1番と市役所のホームページに出ている。
 なぜ〈崎鍬ヶ崎のローソク岩〉ではないのだろう?
 崎鍬ヶ崎と崎山とを、とりちがえてしまったのだろうか?

 ついでにいえば、潮吹穴も崎鍬ヶ崎にある。
 なのに〈崎山の潮吹穴〉の名で、ローソク岩と同時に国の天然記念物に指定されている。

 そもそもローソク岩とは誰が名づけたのだろう?
 浄土ヶ浜の名づけ親は常安寺の霊鏡和尚といわれる。
 浄土ヶ浜から見えるローソク岩の名づけ親も霊鏡和尚なのだろうか?
 それとも地元の人間、漁師さんたちだろうか?

 ローソク岩をみると、ぼくは金勢さまを思い浮かべてしまう。
 雄々しく屹立した姿は立派な男根岩である。
 そばに潮吹穴があって、その自然の配合の妙に驚くのである。
 しかし宮古人は奥ゆかしい。
 潮吹穴とローソク岩をならべて不謹慎な連想を口にすることなどはない。

 高さ40メートルもの巨大な岩の柱は、火成岩が周囲の水成岩を突き破ってできたそうだ。
 できたのは1億年前ともいわれる。
 幅は上部7メートル・下部3メートル。
 上が太い不安定な姿で永いこと立っている。
 これも不思議だ。
 不思議というより驚異といっていい。


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■ 潮吹グランドホテル


 浄土ヶ浜から北の山の上に、白い建物がみえる。
 潮吹グランドホテルの廃屋だ。
 営業をやめてから、もうだいぶ経つ。

 子どものころ――
 中学生のころだったか、このホテルができて評判になった。

 潮吹穴に近いといえば近い。
 国の天然記念物で、宮古八景のひとつに数えられる潮吹穴
 その珍しい自然の光景を見おろす位置に建てたホテルだから目算はあったのだろう。
 けれど、近いといっても潮吹穴を見物するには山の上から海ぎわまで下っていかなければならない。
 駅からは遠い。
 足まわりが悪くて、あんなところに泊まる客がいるんだろうかと言う人もいた。

 ホテルのバスが宮古駅に通っていた。
 今風に言えばシャトルバスだ。  
 そのうち見かけなくなった。

 何年か前、久しぶりに八幡さまから閉伊川の土手を歩いて鉄橋へ行った。
 土手から船場(ふなば)をみたら一台の廃バスが目にとまった。
 潮吹グランドホテルのバスだった。
 錆びついて塗装の薄れた車体に、
 「結婚式、宴会場、諸会議に御利用下さい……ラドン温泉……収容人員350名……」
 といった文字が読みとれた。
 子どものころにみた潮吹グランドホテルのバスに、こんなかたちでお目にかかるとは、と驚いた。

 浄土ヶ浜からみるホテルの廃屋は、ときによって形を変える。
 たぶんまわりに繁った樹木のせいだろう。
 季節の移ろいによって大きく見えたり小さく見えたりする。

 自分がなにも知らない観光客だったらどうだろう。
 浄土ヶ浜から、海を見おろす山の上の白い建物を目にして、たぶんホテルだろうとは推測するにちがいない。
 そして案外、あのホテルに泊まってみたいと思うかもしれない。


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■ 浄土ヶ浜の坂


 角力浜(すもうはま)のバス停を過ぎる。
 すぐに左へ急カーブをきる。
 登り坂が目に飛びこんでくる。
 この長い坂を越えれば浄土ヶ浜だ。

 サドルから腰を浮かせ、ペダルをこぐ足に力をこめる。
 ほんとうなら坂の手前からそうしたい。
 しかし登り口の急カーブが曲者(くせもの)だ。
 ちょうど建物が邪魔して見通せない。
 大型の観光バスと鉢合わせしたり、道を知らない観光客のクルマが突っこんでくる。

 夏休み、天気のいい日はいつも海へ行った。
 小学生のころは藤原・磯鶏(そけい)の砂浜だった。
 浄土ヶ浜に通うようになったのは中学生になってからだ。
 クラブ活動のあと、自転車をこいだ。

 通学用に買ってもらった軽快車の変速機を使っても、浄土ヶ浜の坂はなかなか登りきれなかった。
 30度の勾配が200メートルつづいている。
 息せききって登りつめた先に太平洋が広がる。
 あの解放感、高揚感が好きだった。

 この坂でいちど怖い思いをしたことがある。
 帰り道、上から見おろしたらトラックが下っている。
 緑色に塗られた大型だ。
 ペダルに両足をあずけ、スピードを落とさず走った。
 遊び疲れてぼうっとしていたのだろうか。
 気づいたらトラックの荷台が目のまえに迫っていた。
 トラックは下っていたのではなかった。
 停まっていたのだ。

 一瞬後、空きのない左にハンドルをきった。
 右側をすりぬけたら危ない、と感じた。
 死角になった向こうから馬力をかけたクルマが登ってくる。
 自転車は草むらに突っこみ、斜面に乗りあげて倒れた。

 足や腕をすりむいただけですんだ。
 自転車も壊れなかった。
 トラックのまえに回った。
 運転手はいない。
 ボンネットの長い鼻面を一発殴りつけた。


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■ 臼木山の漁民住宅


 角力浜(すもうはま)とターミナルビルをつなぐ坂道の北がわに原っぱがある。
 臼木山の南の細長い裾野で、ナントカ沢というような地名があるのかもしれない。
 宮古港寄りのほうには漁協の大きな倉庫・作業棟らしきものが2、3棟並んでいる。
 浄土ヶ浜寄りのほうが、ずっと雑草地になっている。

 そこに、むかし、何軒か民家が建っていた。
 6、7軒、あるいは10軒くらいあったかもしれない。
 平屋の木造家屋ばかりだった。
 市営住宅かなにかのようにも見えた。
 坂を越えた小石浜(黒石浜)には磯漁に使うさっぱが並んでいるから、その漁師さんたちの家なのだろうと思った。
 shiratoriさんによると、漁民住宅と呼ばれていたらしい。

 家屋と家屋のあいだは、けっこうゆとりがあって、建て混んでいるという感じはしなかった。
 花壇や狭い畑もあった。
 家の板壁からは煙突が伸び、薪が積まれていた。

 みな同じようにくたびれた建物だった。
 国立公園のなかだから改装も建て替えも自由にできないのかもしれないと思った。
 あの漁民住宅がなくなったのは、いつ頃だろう?
 1970年代の終わり頃までは、まだあったような気がする。

 北がわには細い道が雑草に埋もれていた。
 最近になって第1駐車場まで登る津波避難路として整備された。
 浄土ヶ浜駐車場は、1968年(昭和43)4月23日に完成したという記事が宮古市史年表にある。
 1968年というと中学2年のときだ。

 駐車場ができるまえは、桜山までつづく小高い原っぱや雑木・雑草の茂みだったような気がする。
 東がわに、ターミナルビルはまだなかった。
 できたのは1974年(昭和49)のことらしい。

 陸中海岸国立公園の標識が、いまもほとんど同じ位置にある。
 そこに自転車を置いて、小石浜へおりた。


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