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ことばの記憶



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† ガマの油売りの口上
 
 サアーサアーお立ち合い
 ご用とお急ぎのない方は ゆっくりと聞いておいで、見ておいで。
 遠出・山越え・笠のうち、聞かざるときは物の黒白・出方・善悪が、とんとわからない。
 山寺の鐘がゴーンゴーンと鳴るといえども、法師きたって鐘に撞木を当てざれば、とんと鐘の音色がわからない。
 サテお立ち合い
 手前、ここに取りいだしたるは、筑波山名物ガマの油。
 ガマと申しても、ただのガマとガマが違う。
 これより北、北は筑波山のふもとは、オンバコという露草を食ろうて育った四六のガマ。
 四六・五六はどこで見分ける。
 前足の指が四本、後ろ足の指が六本、合わせて四六のガマ。
 山中深く分けいって捕らえましたるこのガマを、四面鏡張りの箱に入れるときは、ガマはおのが姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと油汗を流す。
 これをすきとり、柳の小枝にて三七二十一日間、トローリトローリと煮つめましたるが、このガマの油。
 このガマの油の効能は、ひびにあかぎれ、しもやけの妙薬。
 まだある。
 大の男の七転八倒する虫歯の痛みもぴたりと止まる。
 まだある。
 出痔、いぼ痔、はしり痔、はれもの一切。
 そればかりか刃物の切れ味を止める。
 取りいだしたるは、夏なお寒き氷の刃。
 一枚の紙が二枚、二枚の紙が四枚、四枚の紙が八枚、八枚の紙が十六枚、十六枚が三十と二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束(いっそく)と二十八枚。
 ほれこのとおり ふっと散らせば、比良の暮雪は雪降りのすがた。
 これなる名刀も、ひとたびこのガマの油をつけるときは、たちまち切れ味が止まる。
 押しても引いても切れはせぬ。
 と言うても、なまくらになったのではない。
 このようにきれいに拭きとるときは、もとの切れ味となる。
 サアーテ お立ち合い
 このようにガマの油の効能がわかったら、遠慮は無用だ。
 どしどし買っていきやれ。



† カ・ズンズ!
 
     「いとこはカズン、複数形はカズンズ、アクセントは頭にあってカ・ズンズ!」
     たしか中学2年のときだ。
     若い英語の教師が大きな声で発声した。
     教室じゅうが爆笑に包まれた。
     先生は唖然とし、ついでムッとした。
     どこかよその土地から転任したばかりの先生だったかもしれない。
     ぼくのいなかでは男性器のことをズンズと呼ぶ。



† ハレンチ!
 
     「ハレンチ学園」という漫画がはやった。
     作者は永井豪。
     「少年ジャンプ」に1968年(昭和43)8月から1972年9月まで連載されたようだ。
     当時、中学生で、なにかといえば「ハレンチ!」を連発する生徒がいた。
     担任はホームルームの時間、
     「ハレンチなんて言葉は知らねえよ」
     と苦笑まじりにたしなめた。
     破廉恥というのは、りっぱな日本語なんだがなぁ……と、ぼくは思った。



† おら、恥ずだ~!
 
     恥ずかしいとき、
     ぼくの田舎では「しょーすう」とか「恥ずだぁ」と言う。
     女でも自分を「おれ」「おら」と呼ぶ。
     高校3年のときだ。
     近所に住んで顔見知りだけれども、
     学校が違い、名前を知らない1年下の女の子がいた。
     たまたま帰りのバスで一緒になり同じ停留所で降りた。
     目があったので思わず目顔で挨拶し、ついでに名前を訊いた。
     そのとき返ってきたことばが「おら、恥ずだ~!」だった。
     声も大きかった。
     なんだか二の句がつげなくて、そのままになった。



† おまえの すべてを~
 
     アイ高野が死んだ。
     2006年(平成18)4月1日、死因は心不全、享年55。
     ザ・カーナビーツのボーカルでドラマー。
     1967年(昭和42)に「好きさ好きさ好きさ」という曲がヒットした。
     “好きさ 好きさ 好きさ 忘れ~られないんだ”と歌ってきて、
     “おまえの すべてを~”と叫びながら片手で耳を押さえ、
     片手でドラムのスティックを差し出すポーズが印象に残っている。
     カーナビーツから、ザ・ゴールデン・カップス、クリエーションなどに参加。



† 一週間のご無沙汰でした
 
     テレビ番組「ロッテ歌のアルバム」の冒頭。
     「一週間のご無沙汰でした。お口の恋人ロッテ提供、ロッテ歌のアルバム~」
     司会は玉置宏。
     日曜日の昼にTBSテレビ系で放送されていた。
     調べてみると、1958年5月4日から1979年9月30日まで。
     ロッテのガーナミルクチョコレートは1964年2月に発売されたという。
     テレビの影響は大きい、一時期さかんに食べた。
     ほかに、ナッティー、ラミー、バッカスというのもあった。



† シェー
 
     赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」に登場するイヤミ氏の発する擬音。
     独特のポーズとともにまたたくうちに広まった。
     漫画の擬音・擬態語というのはいろいろ流行したけれど、
     “シェー”がおそらく初めて夢中で真似た擬音だったろう。
     いまだに口をついて出る。
     「おそ松くん」は「少年サンデー」に1962年4月から始まったという。



† さようなら
 
     1973年にフォークグループ N.S.P がデビューした。
     先輩の中村貴之さんが加わったグループで、“おっ!”と思った。
     デビュー曲「さようなら」が静かに街に流れた。
     “さようなら、さようなら”というリフレーンが印象的な曲だった。
     作詞・作曲はリーダーの天野滋さん。
     先日、急逝したという連絡が知り合いから入った。
     突然の“さようなら”に、親しく接していたわけでもないのに途方に暮れた。

     天野滋(あまの・しげる)
      2005年7月1日、大腸癌の療養中に脳内出血を起こして死去、享年52。
      7月3日密葬。7月4日公表。



† 巨人・大鵬・玉子焼き
 
     子どもが好きなものを並べた流行りことば。
     大鵬が横綱になったのが1961年。
     ある資料によると、この流行語は1963年に生まれたという。
     “巨チン・大鵬・玉ふたつ”というもじりも密かに流行った。
     “巨チン・大砲・玉ふたつ”だったかもしれない。
     大砲はもちろん巨根のこと。



† わけ入りし霞の奥も霞かな

     一山(いっさん)こと原敬が暗殺される年の誕生日に詠んだ句。
     一山という号は“白川以北一山百文”から来ている。



† 清く正しく美しく

     高校の卒業アルバムに載せる記念写真。
     教室の黒板にそれぞれが一言ずつ書いて、その前に全員が座って撮った。
     ぼくは“清く正しく美しく”と真ん中に大きく書きつけた。
     卒業後の人生の指針のつもりだった。
     実際に歩んだ人生は、清くも正しくも美しくもなかった。
     このことばは宝塚歌劇を生んだ小林一三がつくった。
     印刷物では1933年9月号の「歌劇」に掲載された合唱のための歌詞
     「タ、カ、ラ、ヅ、カ」に出てくるのが最初だという。
     もちろん高校生の当時、そんなことは知らなかった。



† 為せば成る

     東洋の魔女をひきい、東京オリンピックで金メダルに導いた大松博文。
     彼の好んだことばだった。
     為しても成らぬことは多い。
     そんなことはわかっている。
     それでも“為せば成る”と言い続ける。
     信仰に近い、呪文だ、古臭い、軍国主義のにおいがする。
     しかし、それが体を衝き動かす、自分を励ます。
     もとは作者不明の伝承和歌。
     戦前、修身の教科書に載って広められた不幸なことば。

     なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり



† 天行健なり 悠久の 太平洋は まのあたり

     わが母校の校歌、その二。
     こんどは高校、宮古高等学校。
     嶺博三郎の作詞、本田幸八の作曲。
     ふたりとも宮高の先生だった。
     有名人に依頼するより、こういうほうがいい。
     出来が悪くても愛着がわく。
     ただし、母校の校歌は名曲だ。
     本田幸八の息子は日本一のジャズ・ピアニスト本田竹広。
     アルバム「ふるさと」でこの校歌を演奏している。
     二番まで採録する。
     ほんとうは四番まである。

     宮古高校校歌
             作詞:嶺博三郎  作曲:本田幸八
     一、天行健なり 悠久の
       太平洋は まのあたり
       雲海はるか 早池峰の
       栄えの光を 仰ぎつつ
       閉伊原頭に 立つ我ら

     二、歴史は遠し 五百年
       銀杏に偲ぶ 夢のあと
       八幡が丘 繚乱の
       花春秋に 咲き継ぎて
       麗しの庭 我が校舎



† 早池峰山は西遥か 近き月山もろともに

     土井晩翠の作詞した、わが母校の校歌。
     小学校である。
     作曲は橋本国彦という人。
     これも有名な作曲家らしいが、よく知らない。
     曲の調子がよくて、いまだに口をついて出る。
     もっとも一番だけだ。
     二番になると心もとない。
     その一番の歌詞を採録しておきたい。
     
     宮古小学校 校歌
             作詞:土井晩翠  作曲:橋本国彦
     一、早池峰山は 西遥か
       近き月山 もろともに
       常に無言の 教訓(おしえ)垂(た)る
       土塊(つちくれ)積もり 成るところ
       彼とこれとを 眺めつつ
       太平洋を 目のあたり
       宮古の里に 礎(もと)おける
       わが学舎(まなびや)に 栄えあれ 栄えあれ



† はつなつの かぜとなりたや

     川上澄生(すみお)の詩。
     ときどき心に浮かんでくる詩句。
     浮かんではくるのに、
     はて誰の詩だったっけ?
     と考えると思い出せない。
     たまたまある人が引用しているのを目にしたので書き留めておく。
     うしろにはこう続く。

     かの人のまえにはだかり
     かの人のうしろよりふく
     はつなつの はつなつの
     かぜとなりたや



† ケ・セラ・セラ

     スペイン語の Que Sera Sera から。
     意味は、“なるようになる”。
     1956年、アメリカの歌手ドリス・デイ(Doris Day)が歌ってヒットした。
     ヒッチコックの映画「知り過ぎた男」の挿入歌だというが、映画は観ていない。
     日本ではペギー葉山が歌って、やはりヒットした。
     ♪ケ・セラ・セラ なるようになるわ 先のことなど わからない



† 花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき

     林芙美子の有名なことば。
     有名だが、出典がはっきりしない。
     「浮雲」なのか「放浪記」なのか。
     新潮文庫「新版 放浪記」のカバーには、
     林芙美子直筆でこのことばをしたためた色紙が印刷されている。
     しかし、中身を読んでみても、このことばは出てこない。
     とすると「浮雲」のほうか……
     残念ながら手許に「浮雲」がないので、いまは調べられない。
     宿題にしておこう。



† いのち短し 恋せよ乙女

     吉井勇作詞・中山晋平作曲・松井須磨子歌の「ゴンドラの唄」(1915年)冒頭。
     この歌を聞くと、
     “花の命は短くて苦しきことのみ多かりき”
     ということばを思い浮かべる。
     3番まで掲げておく。

     いのち短し 恋せよ乙女
     紅き唇 あせぬ間に
     熱き血潮の 冷えぬ間に
     明日の月日は ないものを

     いのち短し 恋せよ乙女
     いざ手をとりて かの舟に
     いざ燃ゆる頬を 君が頬に
     ここには誰も 来ぬものを

     いのち短し 恋せよ乙女
     黒髪の色 あせぬ間に
     心のほのお 消えぬ間に
     今日はふたたび 来ぬものを



† そこに山があるからさ

     イギリスの登山家ジョージ・マロリーのことば。
     “きみはなぜ~をするんだい?”と聞かれたようなとき、
     このフレーズを冗談でよく使った。
     マロリーは1924年6月8日にエベレスト(チョモランマ)で消息を絶った。



† エイズの世界へ、ようこそ!

     20世紀末に出会った最も怖いことばがこれだった。
     現実味にあふれている。
     ――行きずりの女とホテルに入る。
     朝、目覚めると女がいない。
     鏡には真っ赤なルージュで、こう殴り書きされている。
     “エイズの世界へ、ようこそ!”……



† 人の世や嗚呼(ああ)に始まる広辞苑

     橘高薫風という人のつくった川柳。
     実際に引いてみると“あ”で始まっているが、この川柳には実感がある。
     学生時代から広辞苑にはお世話になっている。
     広辞苑によれば云々という文章も、何度か書いている。
     人によって辞書にも好き嫌いがあって、
     “広辞苑によれば”という文章を見ると癇に障るという人もいるようだが……



† あなたに さよならって言えるのは 今日だけ

     「22才の別れ」、作詞・作曲は伊勢正三、歌ったのは「風」。
     22歳になる直前に別れを経験した。
     街には、この歌が流れていた。

     あなたに さよならって言えるのは 今日だけ
     明日になって またあなたの 温かい手に
     触れたらきっと 言えなくなってしまう
     そんな気がして



† ぼくは二十歳だった。
  それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。

     ポール・ニザン「アデン・アラビア」の一節。
     青春は恥多く、貧乏で、不潔な時期だ。
     でも、ぼくの二十歳は美しかった。
     初めての恋をしていたから。



† 愛とは、けっして後悔しないこと

     映画「Love Story~ある愛の詩」のキャッチ・コピー。
     青春の一時期に出逢ったことばが、
     その人の感性の一部を決定してしまうようなことがある。
     このコピーは、むかしもそれほどいいとは思わなかったのに、
     アンディ・ウイリアムズの哀愁を帯びた歌声とともに、
     いまだに思い浮かべることがある。
     映画は1971年3月20日公開、音楽フランシス・レイ。



† 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり

     北村透谷の随筆「厭世詩家と女性」の冒頭。
     鑰は鍵、詩家は詩人、人世は人生とうけとっていいのだろう。
     難解な文章で、いま読んでもよくわからない。
     わからないけれども、この一節だけは強く印象に残っている。
     “恋愛ありてのち人世あり、
     恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ”
     とつづく。
     人世・人生は原文のまま。



† 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

     芭蕉「おくのほそ道」冒頭。
     この紀行文学を読んでいると、
     俳句は芭蕉に始まり芭蕉に尽きる気がする。
     なかから一句とるなら――

     夏草や兵どもが夢の跡

     ついでにもう一句――

     五月雨の降りのこしてや光堂



† 行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

     鴨長明「方丈記」冒頭。
     日本の古典のうち最も早くぼくの心に刻まれた文章のひとつ。
     芭蕉「おくのほそ道」の冒頭と、どっちが先だろう……

     行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
     よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
     ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。
     世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

     そういえば例を“ためし”と読むことを知ったのはこの文章だった。



† ヤー・チャイカ

     1963年6月16日、ソ連の人工衛星ボストーク6号が打ち上げられた。
     乗っていたのは初の女性宇宙飛行士テレシコワ少尉。
     宇宙からの第一声はコールサインの
     “ヤー・チャイカ(わたしはカモメ)”だった。
     ぼくが初めて覚えたロシア語だし、とにかく新鮮に響いた。
     Я чайкаと綴る。

     ガガーリン少佐がボストーク1号で人類史上初めて地球を一周し、
     宇宙を旅行した最初の人間となったのは、
     その2年前の1961年4月12日。



† 地球は青かった

     ガガーリンの発した初の宇宙からの名言は心にしみる。
     しかし、ロシア語としては、まったく記憶にとどまっていない。
     いまだにロシア語でなんというかも知らない。
     発音がむずかしいのかな?
     このことばのあとに、ガガーリンはこう続けたという。
     「まわりを見渡したが、神はいなかった」



† 巨人軍は永久に不滅です

     1974年10月14日、ミスター・ジャイアンツこと長島茂雄が、
     このことばを残して選手生活を終えた。
     後楽園球場の電光掲示板には
     “ミスターG 栄光の背番号3”
     という文字が浮かび上がった。
     そのころ特に巨人ファンでもないぼくだったけれど、
     やはり一つの時代が終わったという感慨を抱いた。

     長島の島は嶋の字が正しいらしい。
     ぼくの記憶のなかには長島で残っているので、そのまま記した。

     このことばの“永久に”を“永遠に”と誤っている例が目につく。
     永遠のほうが語感がいいからなのだろうか……



† アカシヤの雨に打たれて このまま死んでしまいたい

     「アカシヤの雨が止む時」水木かおる作詞・藤原秀行作曲、
     歌は西田佐知子。
     発売はぼくの6歳頃、2年ほどかけてヒットしたようだ。
     最初に好きになった芸能人が西田佐知子だったかな。
     気だるい、投げやりなムードが子供心に切なく響いた。
     いまだにくちずさんでいるが、1番しか記憶に残っていない。
     たしか3番まであったはずである。

     アカシヤの雨に打たれて
     このまま死んでしまいたい
     夜が明ける 日が昇る
     朝の光の そのなかで
     冷たくなった私を見つけて あの人は
     涙を流して くれるでしょうか



† 花のいろはうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに

     小野小町。
     百人一首のなかで最も好きな歌。



† 玉のをよ絶なば絶ねながらへば忍ぶることのよはりもぞする

     式子内親王。
     百人一首のなかで二番めに好きな歌。
     一番めも二番めも女の歌だなぁ……



† 去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの

     高浜虚子の名句。
     句の味わいや意味の詮索はともかく、
     去年を“こぞ”と読むことをこの句で知った。



† 本降りに成って出て行く雨宿り

     「誹風柳多留」より。
     有名な古川柳。
     注釈は特にしない。



† はたらけど
  はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
  ぢつと手を見る

     石川啄木「一握の砂」所収。
     よくじっと手を見てるなぁ、自分も……



† 皮にこそをとこをんなのいろもあれ骨にはかはるあとかたもなし

     一遍上人の歌。
     皮にこそ男女の色もあれ骨には変わる跡形もなし。
     男も女も一皮剥けば肉と骨とわかっていながら、
     凡俗の自分は上っ面の色に迷っている。
     悟りは遠い。



† 人間五十年

     幸若舞のうち「敦盛」の一節。
     織田信長が好んでくちずさんだと伝えられる。
     人間五十年、
     先のはなしだと思っていたら……

     人間五十年
     下天のうちをくらぶれば
     夢まぼろしのごとくなり
     ひとたび生をうけ
     滅せぬもののあるべきか



† 遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん

     平安歌謡集「梁塵秘抄」収録。
     “遊ぶ子供の声聞けば / 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ”と続く。



† 留守と言え
  ここには誰も居らぬと言え
  五億年経ったら帰って来る

     高橋新吉



† 葉桜の中の無数の空さわぐ

     篠原梵



† 入れものが無い両手で受ける

     尾崎放哉の自由律句。
     こんな句のどこがいいのだろう……
     そう思いつつ心に残っている不思議。



† すばらしい乳房だ蚊が居る

     尾崎放哉の句。
     う~ん……



† おそるべき君等の乳房夏来(きた)る

     西東三鬼、1948年の句。
     乳房はすばらしいものだが恐るべきものでもある。
     近年は夏に限らない、
     乳房、太腿、臍、尻、恐ろしいものばかりが目につく。



† 夕焼、小焼の
  あかとんぼ
  負われて見たのは
  いつの日か。

     三木露風、1921年作詞。
     山田耕筰、1927年作曲。
     4番まである。

     山の畑の 桑の実を 子籠に摘んだは まぼろしか。
     十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた。
     夕やけ小やけの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先。

     童謡っていいなぁ。



† 人恋し灯ともしころをさくらちる

     加舎白雄(かや・しらお)は、あまり知られていないかもしれない。
     江戸時代の俳人。
     哀愁の陰りを帯びた句が多く、好きな俳人のひとり。



† 色はにほへど散りぬるを わが世たれぞ常ならむ
  有為の奥山けふ越えて 浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず

     作者不詳。
     一説に弘法大師空海。
     無常観を詠んだいろは歌として知られる。



† まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の
  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

     島崎藤村「若菜集」所収「初恋」4連の初めの2連。
     なんだかよくわからないなりに
     現実の初恋を希求していた時期があった。
     そんなときにこの詩と出会った。
     “やさしく白き手”と“薄紅の秋の実”の色感の鮮やかさ。
     林檎に託されたイメージの重奏……
     つづく2連は

       わがこゝろなきためいきの
       その髪の毛にかゝるとき
       たのしき恋の盃を
       君が情(なさけ)に酌みしかな

       林檎畑の樹(こ)の下に
       おのづからなる細道は
       誰(た)が踏みそめしかたみぞと
       問ひたまうこそこひしけれ



† 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる

     藤原敏行、「古今集」所収。
     風の音……でもぼくは肌をかすめる風の温度に秋を感じていた。



† 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

     若山牧水のこの歌を思い出すと、酒が飲みたくなる。
     酒を飲むと、この歌を思い出す。
     酒、清酒は苦手なのだが……
     牧水には、つぎの歌もあった。

     かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ



† ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  「サヨナラ」ダケガ人生ダ

     井伏鱒二「厄除け詩集」に所収。
     于武陵の漢詩「勧酒」の超訳?の後半。
     原詩を読みくだすと、
     “花発(ひら)けば風雨多く、人生別離足(おお)し”。



† やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

     石川啄木、第1歌集「一握の砂」に収録。
     啄木短歌の代表作。
     というより、望郷の絶唱として心に残る。



† 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

     川端康成「雪国」の有名すぎる冒頭。
     高校生の頃にラジオの朗読番組を聴いていた。
     俳優の石坂浩二が朗読を始めた。
     「こっきょうのながいとんねるをぬけると~」
     なにかが全身を駆け抜けた。
     ――こっきょう? んなばかな!
     国境を“くにざかい”と読んで疑わなかったぼくにとって、
     それはカルチャーショックに近いものだった。
     ぼくの持っている文庫本にルビは振っていない。
     ほかの人は、どちらの読みをしているのだろう。



† しんしんと肺碧きまで海の旅

     篠原鳳作(しのはら・ほうさく)の無季俳句。



† 白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ

     若山牧水、第1歌集「海の声」所収。



† 一つのメルヘン

  秋の夜は、はるかの彼方に、
  小石ばかりの、河原があつて、
  それに陽は、さらさらと
  さらさらと射してゐるのでありました。

  陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、
  非常な個体の粉末のやうで、
  さればこそ、さらさらと
  かすかな音を立ててもゐるのでした。

  さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
  淡い、それでゐてくつきりとした
  影を落としてゐるのでした。

  やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
  今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
  さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

     中原中也の詩集「在りし日の歌」より「一つのメルヘン」全文。
     第2連にある“個体”は原文のまま。
     ことばのおもしろさに最初に気づかせてくれた詩。
     国語の教科書に載っていた。
     学校の授業も捨てたものではない。



† この世でいちばん重い物体は、もう愛していない女の体である。

     ボーブナルグというフランスのモラリストのことばらしい。
     しかし、まぁ、そうなんだろうなぁ……



† 幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

     若山牧水、第1歌集「海の声」に収録。



† 1日じゅう山道

     “旧中山道”と書かれた原稿を、
     有賀さつきというひょうきんな女性アナウンサーが読み違えた。
     くだらないけれど妙に記憶に残っている。



† 青春はミニスカートのように短い

     ネットをさまよっていて、
     “青春はスカートのように短い”という短文をみつけた。
     だれのことばかはわからない。
     選抜高校野球のキャッチコピーだったかもしれない。
     “ミニ”の一言を付け加えた。
     思春期のはじめにミニスカートの最初の大流行と出逢った。
     性的に多大な衝撃を受けた青春は、あっというまに過ぎた。





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