■1869年(明治2)
3月25日、宮古港海戦が起こる。
“官艦七隻泊りこむだ処に、米国旗かゝげた回天艦が乗り込むで、一大血戦をやつた。
鍬ヶ崎辺の家には今も砲銃弾が残つて居る。
戸板にのせて陸上に運ばるゝ血だらげの死骸や傷者(ておひ)を見た祖母(ばゝ)は、軍人(いくさにん)にはなるむでない、としばしば良平に語つた。”
「寄生木」第1章(5)祖母より。
改行を加えた。(以下同)
祖母の名は“すま”、1819年(文政2)己卯の生まれ。
“良平”は小笠原善平。
■1873年(明治6)
新暦1月1日(旧暦明治5年12月3日)、この日から太陽暦に切り替える。
8月26日、宮古小学校が常安寺を仮校舎にして創立される。
■1878年(明治11)
小笠原善平の姉のシュン(俊)が生まれる。
■1879年(明治12)
1月4日、閉伊郡を東・西・南・北・中の5郡に分ける。
現在の市域は東閉伊郡に属し、宮古村に郡役所が置かれる。
■1881年(明治14)善平1歳
6月5日、小笠原善平が、岩手県東閉伊郡山口村(現・宮古市山口)に平民の父喜代助・母トキの次男として生まれる。
兄善十郎と姉シュン(俊)がいた。
シュンはこの年、
“生れて四歳、家の中庭に歌ふて居た時、奔馬に蹴られて、数年瀕死の煩ひの後、遂に跛(ちんば)となつた。”
(警醒社書店版「寄生木」p.102)
■1884年(明治17)
妹ゼン(善)生まれる。
■1885年(明治18)5歳(勝子1歳)
1月2日、のちに善平の許嫁(いいなづけ)となる勝子が、小笠原尚弼の長女として東京に生まれる。
同じ小笠原姓だったのは偶然。
■1886年(明治19)6歳(勝子2歳)
善平は宮古鍬ヶ崎組合立小学校に入学。
宮古鍬ヶ崎組合立小学校の創立時期は不明(宮古市史年表に記事なし)。
慶応義塾出身の斎藤源五郎が校長を務める。
善平の家から半里の道のり。
この年、東閉伊高等小学校が創立。
*宮古市史年表による。
1889年1月26日の記事を参照のこと。
■1887年(明治20)7歳(勝子3歳)
善平は進級試験で落第、1年級に留まる。
■1888年(明治21)8歳(勝子4歳)
中等の成績で2年生に進級。
■1889年(明治22)9歳(勝子5歳)
1月26日、東閉伊高等小学校が落成・開校式。
*1886年月日不詳の同校創立記事と同じく宮古市史年表による。
2階建て。
のちに善平が入学する。
4月1日、市制・町村制の施行が始まる。
山口村は近内村・田代村を合わせて新制の山口村となる。
戸数約300・人口約1700。
父喜代助が自治制実施後の初代村長に就任。
任期4年。
村役場は自宅から2丁ほど北の山手に寄った村長所有の茅舎。
善平は3年生に進級。
“勉励は落第棒を磨き上げ、三年級には優等生として賞品を抱へて帰つた。”
このころ、兄善十郎が隣村のツタを嫁に迎えた。
■1890年(明治23)10歳(勝子6歳)
■1891年(明治24)11歳(勝子7歳)
首席で宮古尋常小学校を卒業。
当時の校長は大光寺忠。
*卒業式は4月30日か?
宮古市史年表に、
“4月30日、宮古尋常小学校勅語奉戴式を卒業式に行う”
とある。
東閉伊高等小学校に進学。
当時、東閉伊郡に高等小学校はひとつしかなかった。
校長は斎藤源五郎。
父に「実語教義解」を、宮古の“平戸”叔父に中村敬宇訳「西国立志篇」を贈られる。
この中村敬宇(正直)や福沢諭吉を理想とし、文学博士になりたいと思う。
東西2教室のうち東教室の首席となる。
■1892年(明治25)12歳(勝子8歳)
高等小学校2年昇級試験で東西両教室の首席となる。
5月ごろ、父喜代助は村の士族“長沼家”との対立が災いして公金費消の嫌疑で起訴され、宮古町郡役所裏の小倉の沢の獄に拘引される。
時に大祖母80歳過ぎ、祖母“すま”は70歳近く、母トキは懐妊6ヶ月、兄善十郎20余歳、姉シュン15歳、善平12歳、妹ゼン9歳。
以後、170日を小倉の沢の獄裡に過ごす。
7月5日、父喜代助の予審尋問が始まる(9回)。
7月、小笠原山口村長解職と宮古市史年表にある。
旧暦7月15日、父喜代助は獄中、武経全書三略の巻の表紙裏に書きつける。
“年を経て野辺の草木の心あらば
まこと知らせよ山口の里
(1行あき)
頭をあげて山月望み
頭を垂れて故郷を思ふ(唐李白)
明治廿五年旧七月十五日
山月庵樵夫”
“ふるさとは恋しくもあり旅の空
みや古もいまは住みかならねば
山月庵”
(警醒社版『寄生木』p.109)
12月末、次妹コト(琴)生まれる。
■1893年(明治26)13歳(勝子9歳)
旧暦1月5日、父喜代助が小倉の沢の宮古監獄署から盛岡狐森1番戸の盛岡(岩手?)監獄署に移送される。
2月16日、山口村村長に工藤吉郎元町長が決定と宮古市史年表にある。
5月12日、“北洋探検の郡司大尉来港藤原に上陸”と宮古市史年表にある。
郡司成忠海軍大尉は北海道警備を説いて報効義会を結成し、占守島に向かう途中、藤原須賀に上陸した。
このとき善平は、高等小学校の優等生として木銃を捧げ万歳を連呼した。
“某月某日、今日は其郡司大尉が占守島行の途、宮古浦に立寄らるゝと云ふことで、校長の指揮の下に、良平は全校の生徒と木銃肩に、閉伊川口の南、此辺での天橋立と称ふる藤原の松原に往つた。
附近の尋常小学生徒も集つた。
松青々と雪を欺く沙原に旭日旗を立てゝ、大尉の舟今や来ると宮古湾口閉伊の岬の辺を見つめて居ると、やがて三艘の艇(ぼうと)があらはれて、浜に漕ぎ寄せ、髪は蓬(おどろ)に顔は日にやけた大尉が上陸して、生徒の中を通つて老松の下に設けられた席についた。
良平は高等小学の優等生として勇んで一同と共に木銃を捧げ、郡司大尉万歳報効義会万歳を連呼した。
大尉と其(その)一行は挙手答礼した。
それから大尉は松蔭に立つて一場の演説をしたが、こなたの生徒には声が聞えなかつた。
其かはり満腔の熱心を以て内藤校長の作つた送郡司大尉歌を歌つた。”
この年、兄善十郎・兄嫁ツタに長女が生まれる。
大祖母の玄孫である。
10月9日、大祖母が死去。享年86。
■1894年(明治27)14歳(勝子10歳)
8月1日、日本は清国に対し宣戦布告。
日清戦争が始まる。~1895年4月17日
このころ、高等小学校校長斎藤源五郎の影響もあり軍人志望熱が高まる。
■1895年(明治28)15歳(勝子11歳)
3月、東閉伊高等小学校を優等で卒業。
卒業生代表として答辞を読む。
盛岡中学への受験願書の提出が遅れ、宮古から盛岡まで27里(約110キロ)の閉伊街道(現・国道106号線)を2泊3日かけて歩き、直接に盛岡中学校長と交渉したが受験できなかった。
ちなみに国鉄山田線の宮古~盛岡が開通したのは、はるか後年の1934年(昭9)11月4日のこと。
4月17日、日清講和条約が締結され、日清戦争が終わる。
7月10日、父喜代助は公金費消の罪により軽懲役7年の宣告を受ける。
即日、宮城控訴院に控訴。
7月12日、父喜代助は仙台の宮城監獄へ移送される。
■1896年(明治29)16歳(勝子12歳)
6月15日、旧暦5月5日午後7時30分ごろ、三陸沖で海底地震が発生、約45分後に大津波が三陸海岸に達した(明治三陸地震津波)。
津波は20分ほどの短時間に70里余を襲い、死者約2万5000人、家屋の流失・全半壊は1万戸以上、船舶被害は約7000隻。
鍬ヶ崎(人口3818人・戸数677)では波高8.4メートル、溺死128、流失家屋277、流失船舶276。
市域の波高の最高は姉吉の18.9メートル。
田老村で14.6メートル。
この災害を視察するため内務大臣板垣退助らの一行が盛岡から人力車で閉伊街道を宮古へ来た。
閉伊川筋の難所では人足が出動し、車の綱引き・後押しなどをして抜けたという。
記念碑が蛸の浜の心公院境内、姉吉浜、常安寺などに建立された。
“父が獄舎の人となつて以来(このかた)、良平の家は端午の節句も軒端に菖蒲を葺かなかつた。
明治二十九年の陰暦五月五日にも、菖蒲も葺かず、近隣は濁酒に酔ふて歓声湧く中を、良平の家は燈火を消して早く寝た。
糠雨が降って真闇(まっくら)な晩だつた。
未だ夢も結びあへぬに、東宮古の沖の方に当つて轟――轟――ッと云ふ響(おと)がする。
祖母(ばば)先(まず)枕を欹て、良平も頭を上げた。
「雷様でもねエし、何だんべなア。
あの響は。」
「何で御座んせうなア。
或は軍艦ではないかな。
露西亜の軍艦が宮古湾を砲撃するのだねいかな。」
「うむ、異国の軍艦(からぶね)とや。
軍艦の大砲を放(う)つたのか。
まさアかさうでもあんめいよ。」
明治二十七八年戦役は日本の勝利で平和になつたが、三国干渉遼東還付以来露西亜は将来の患(うれい)である事、日露は早晩戦はざるべからずとの一念は、嘗胆臥薪の警語と共に日本国民の頭を支配した。
「うむ、支那は弱いがら見事に勝つたが、露西亜(おろしや)と戦の時ア骨が折れべいなア」
と賎(しづ)の男(お)が嘆(かこ)つを良平も耳にした。
或は此未来の敵が、未来を待兼ねて海戦を促しに来たのではないか、と海に心の惹かるる良平は不図思つたのである。
然し怪しい響(おと)は唯一声にして止むだ。
一家ふたたび枕についた。
忽(たちまち)闇を破つて叫ぶ声がした。
兄の声。
「海嘯(よだ)が来た!
起きろ、起きろ、大変だ……
な、な、何、宮古さ今海嘯(よだ)が来て、宮古さ、宮古さ、叔母(おんば)の家も流されたちう事(こん)だ。」
驚いて皆刎ね起きた。
提燈をつけた。
履物を揃へた。
すわ水!と云はば後の山の杉松茂る辺りに避難の用意をした。
姉が顔色蒼ざめてわなわな震えて居た。
海嘯(よだ)は到頭村には来なかつた。
未明に起きて半里に足らぬ宮古町に駈けつけた。
光岸寺の辺は家が流されたり、倒れたりして、通行止めになつて居るので、山を登つて琴平祠に行つた。
湾内波静かに、綿の様な薄靄はちぎれちぎれて閉伊岬の裾を纏ふて居る。
平和!
然し平和は山上の眺であつた。
山を下ると家が流れて綺麗に真砂(すな)になつて居る。
瓦落瓦落(がらがら)崩れて居る。
傾いて居る。
水膨れした馬の屍。
半身砂に埋まつて髪を漣にあらはれて居る婦人(おんな)。
腰骨砕かれて水に漂ふ老爺(じい)。
柔らかな赤肉削がれた小児(こども)。
叫ぶ声。
泣く声。
本当の修羅の巷。
然し宮古町は死者百名内外でまだ好い方。
南、釜石、大槌、山田、北、田老村は全町全村悉(ことごと)く流されてしまつた。
岩手を最として水は南陸前北陸奥の海岸を暴(あ)らしたのである。
所謂三陸の海嘯(かいしょう)とは此(これ)であつた。
良平は始めて水に死んだ人の醜さ怪我した人の凄さを見た。
陰暦五月の温かさに直ぐ腐敗し出した死体の悪臭に鼻を掩ふた。
仙台から救護援助の為工兵が一ケ中隊来たので、良平は生れて十六、初めて軍隊なるものを見た。
初めて時の内務大臣板垣退助翁の顔も見た。
大海嘯に関しては、見聞(みきき)した涙の小説も種々あるが、寄生木に関係が無いから之を略する。”
8月4日、善平が仙台に出奔し、宮城監獄で父と面会。
さらに監獄の隣にあった伊勢屋横丁の乃木希典中将(当時、仙台第2師団長)に面会し、乃木に拾われてその学僕となる。
併せて、同姓の小笠原憲兵中佐(のち大佐)を後見人に指定。
10月14日、乃木希典陸軍中将が台湾総督に就任。
11月、乃木中将が台湾に赴任、善平も随行する。
■1897年(明治30)17歳(勝子13歳)
1月1日、尾崎紅葉「金色夜叉」が読売新聞に連載開始。
途中断続しながら1902年(明治35)5月11日まで連載。
最後の新続篇は1903年(明治36)1月~3月「新小説」に再録、続稿を予告しながら中絶。
3月17日、仙台控訴院は小笠原喜代助を無罪とし、6年間にわたった裁判が結審。
4月1日、郡制施行のための廃置統合により、東閉伊郡は中閉伊郡・北閉伊郡と合併し、下閉伊郡となる。
6月9日、善平は台湾から帰国。
■1898年(明治31)18歳(勝子14歳)
7月、尾崎紅葉の「金色夜叉」が春陽堂から刊行開始~1903年(明36)6月、全5巻。
9月1日、陸軍中央幼年学校を受験。
三千有余人のなかから200人中3番の成績で合格。
小笠原憲兵大佐から娘勝子を許嫁とするよう要請される。
■1899年(明治32)19歳(勝子15歳)
8月、幼年学校の夏休みに宮古に帰省。
鍬ヶ崎の青楼に通って芸者波氏(なみし)と交情を重ねる。
■1900年(明治33)20歳(勝子16歳)
1月、徳冨蘆花の「不如帰」刊行。
善平は成績低下を理由に小笠原憲兵中佐から勝子との婚約解消を告げられる。
■1901年(明治34)21歳(勝子17歳)
6月、陸軍中央幼年学校を最下位で卒業。
士官候補生として最北の旭川第7師団に配属される。
入隊25日目に痔および肺結核と診断され旭川陸軍病院に入院。
9月5日、療養帰省のため室蘭から青森に上陸、閉伊街道の難儀を考慮し、塩釜まで南下して三陸汽船の船(57トン)で宮古に戻る。
11月4日、海軍用船大湊丸に便乗して函館経由で旭川に帰隊。
士官学校分遣を諦め上京。
常磐線の車中で喀血。
東京に着き、順天堂病院で肺炎カタルの手術を受ける。
12月、徳冨蘆花「ゴルドン将軍伝」を警醒社から刊行。
■1902年(明治35)22歳(勝子18歳)
1月、東京・麹町の陸軍病院で年越し。
1月23日、青森の歩兵第5連隊第2大隊が八甲田山へ雪中行軍を開始。
いわゆる“八甲田山・死の行軍”。
日本最大の雪山遭難事故で死者199。
そのなかに山口村出身の3兵士が含まれていた。
ひとりは善平の従兄の摂待辰次郎で、作中名が瀬田勝次郎。
同村の慈眼寺墓地に葬られる。
5月5日、旭川の原隊に復帰。
11月、東京・市ヶ谷の陸軍士官学校に入学。
■1903年(明治36)23歳(勝子19歳)
4月、士官学校に在学中、東京・青山原宿に徳冨蘆花を訪ね、自分の過去を述べて恩人乃木希典将軍のために著作してほしい旨を伝える。
8月、徳冨蘆花が北海道に旅行。
蘆花「みみずのたはこと」岩波文庫版・下巻の巻末附録に収録されている「春光台」から引用する。
“明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊の飛脚旅行に来た。
其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。
降りしきる雨の中を車で近文に往って、土産話にアイヌの老酋の家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。”
10月30日、尾崎紅葉が胃癌のため死去、享年35。
11月30日、陸軍士官学校を卒業。
旭川第27連隊第7中隊に配属。
12月、善平の「寄生木序」はこの月の日付になっている。
“北海道旭川歩兵第二十何連隊/第何中隊週番士官室に於て”
12月31日
“嗚呼幾年の昔ぞや、良平もまた神の寵児であつたか。
天真爛漫無邪気な天使であつたか。
忍ばるゝかな、花の如き幼年の歴史。
兎烏(とう)匆々として人事忙々、明治三十六年も今日尽きるのである。
懐古の筆をとゞめて、顔を上ぐれば、硝子窓の外には霏々として雪が降つて居る。
兵士の薪割る音が丁々として石狩の天地に響いて居る。
靴音が騒がしく聞える。
あゝ今年も今日で暮れるのだ。”
「寄生木」第一章(四)大祖母より
■1904年(明治37)24歳(勝子20歳)
2月7日、満州撤兵問題をめぐって日本はロシアと国交を断絶。
2月8日、日本軍が旅順港を奇襲し、日露戦争の戦端を開く。
*日露戦争は1904年2月から翌1905年9月まで。
朝鮮と満州(中国東北部)の支配をめぐって起きた。
2月10日、ロシアに宣戦布告。
“今日宣戦の大詔が出た。
到頭始まつた。
日露戦争!
最早事実となつたのだ。
海軍が先づ火蓋を切つた。
追々陸軍の番になるのだ。
何だか体がビチビチ武者震ひする。
嗚呼到頭始まつた。
寄生木の筆も急がなければならぬ。”
「寄生木」第五章(一)籠城より
3月18日、陸軍歩兵少尉に任官。
正八位に叙せられ、乃木希典から軍刀を贈られる。
5月31日、旅順のロシア艦隊を制圧するため乃木希典ひきいる第3軍が編成される。
第3軍は旅順を包囲して5ヵ月、二〇三高地の激戦をへて、1905年1月に6万人の死傷者を犠牲にして作戦を終了。
8月4日、旭川第7師団に動員令が下る。
善平は補充大隊勤務で残留。
10月19日、旭川市3条8丁目の三浦写真店で、岩手県人会“巌鷲会”の出征記念写真を撮る。
11月27日、補充大隊として旅順に出征を命じられる。
11月30日、乃木将軍の率いる第3軍が旅順の二〇三高地(爾霊山)を一時占領したが、ロシア軍に奪い返される。
12月5日、第3軍が二〇三高地を完全に占領。
12月、旅順に出征する途中、広島から蘆花に「寄生木」ノート2冊を送る。
これを初めとして合わせて29冊を送る。
寄生木とは乃木の世話になっている自分を象徴したもの。
12月15日、二〇三高地に到着。
善平は遺体収容を命じられる。
12月23日、二〇三高地で乃木将軍と再会。
乃木の子息で親友の乃木保典の墓に詣でる。
■1905年(明治38)25歳(勝子21歳)
1月2日、旅順開城。
水師営の会見が行われ、善平は受降委員として働く。
*水師営の会見は5日か?
乃木とロシア軍のステッセル将軍が会見し、互いの善戦を讃えた。
1月10日、方家屯在営中、勝子から防寒靴を送られ、死にたくないと思う。
2月25日、羅家套子で軍用行李に訣別の文を記す。
3月9日、奉天会戦で右足の踵(かかと)を打ち抜かれ、恩賜の繃帯を贈られる。
3月下旬、命令違反の部下を斬りつけ、重傷を負わす。
5月27日~28日、東郷平八郎率いる日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を破る。
6月30日、陸軍歩兵中尉に昇進、従七位を贈られる。
9月、日露ポーツマス講和条約成立。
9月5日、日露講和条約に不満を持つ群衆による日比谷焼打事件が発生。
銀座の国民新聞社や交番が暴徒の襲撃を受ける。
9月24日、勝子から手紙くる。
“金鵄勲章も年金もいらぬ、早く帰って勝子に会いたい”と記す。
■1906年(明治39)26歳(勝子22歳)
3月、凱旋。
善平は蘆花が外遊しての留守に訪ねて「寄生木」ノートを受け取る。
3月15日、旭川に戻る。
功五級金鵄勲章・年金300円・勲六等単光旭日章を贈られる。
4月4日、徳冨蘆花は単身、横浜から出帆。
インド洋、スエズをへて聖地パレスチナを巡る。
4月22日、善平は3週間の戦役休暇をとって宮古に帰省。
4月29日、父母と東京見物の途につく。
5月4日、上京。
5月6日、小笠原憲兵大佐に勝子との結婚を懇請。
5月15日、旭川に戻る。
6月23日、小笠原大佐から結婚の断り状が届く。
6月24日、春光台で旭川連隊の園遊会が行われる。
6月30日、徳冨蘆花はヤスナヤ・ポリヤナにトルストイを訪ねる。
8月4日、徳冨蘆花がシベリヤ経由で敦賀に上陸・帰国。
帰京後、青山高樹町に住まう。
8月、稿本「寄生木」の記述はこの月をもって終わる。
■1907年(明治40)27歳(勝子23歳)
1月、青山高樹町に蘆花を訪ね、新約聖書を贈られる。
小笠原大佐宅を訪ね、ふたたび勝子との結婚を懇請。
胸膜炎のため沼津で転地療養。
1月31日、乃木希典が学習院長に就任。
2月、生け花の師匠宅で勝子と会い、陸軍大学に合格するまで待つと約束。
2月27日、蘆花は東京府下北多摩郡千歳村字粕谷356番地に移る。
*現在の東京都世田谷区粕谷。
11月22日、善平は陸軍大学予備試験に合格。
しかし、先輩に順位を譲るため来年回しとなる。
12月、盛岡の旅宿から蘆花に、都合により軍職を退く旨の手紙を出す。
休職願いを提出。
勝子から“試験のことはやむをえない、いつまでも待つ”との便りが届く。
■1908年(明治41)28歳(勝子24歳)
1月28日、小笠原大佐から、乃木将軍が許可するなら結婚を認めるとの連絡がある。
3月6日、乃木将軍宅を訪ね、結婚の許可を得ようとする。
“何回も断られて更に申し込むなど男らしくない”と断られ、最後の望みが絶たれる。
3月10日、雪のなか東京・千歳村粕谷に蘆花を訪ねる。
長くなるが、徳冨健次郎「みみずのたはこと」から「わかれの杉」の一節を引用する。
“彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡である。
型の通りの草葺の小宮で、田圃を見下ろして東向きに立って居る。
(中略)
粕谷八幡はさして古くもないので、大木と云う程の大木は無い。
御神木と云うのは梢の枯れた杉の木で、此は社の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。
烏がよく其枯れた木末にとまる。
宮から阪の石壇を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。
此杉の下から横長い田圃がよく見晴らされる。
(中略)
村居六年の間、彼(徳冨健次郎のこと――吉田注)は色々の場合に此杉の下に立って色々の人を送った。
彼田圃を渡り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送した人も少くはなかった。
中には生別即死別となった人も一二に止まらない。
生きては居ても、再び逢うや否疑問の人も少くない。
此杉は彼にとりて見送の杉、さては別れの杉である。
就中(なかんずく)彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
其は小説寄生木の原著者篠原良平の小笠原善平である。
明治四十一年の三月十日は、奉天決勝の三周年。
彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日であった。
三月十日は朝からちらちら雪が降って、寒い寂しい日であった。
突然彼小笠原は来訪した。
一年前、此家の主人は彼小笠原に剣を抛つ可く熱心勧告したが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙情実に愛想をつかし癇癪を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語をやろうと云って居た。
陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。
雪は終日降り、夜すがら降った。
主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反復討論した。
而して共に六畳に枕を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。”
3月11日、雪のなか、健次郎宅を辞す。
これが最後の別れとなった。
引用を続ける。
“明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。
まだ綿の様な雪がぼったりぼったり降って居る。
此辺では珍しい雪で、一尺の上積った。
彼小笠原は外套の頭巾をすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくりぽっくり雪に踏み込みながら家を出て往った。
主は高足駄を穿き、番傘をさして、八幡別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉え」
「色々お世話でした」
傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきり烈しく北から吹きつくる吹雪の中を、黒い外套姿が少し前俛(まえこご)みになって、一足ぬきに歩いて行く。
第一の石橋を渡る。
やゝあって第二の石橋を渡る。
檜林について曲る。
段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本杉の処まで来ると、見かえりもせず東を折れて、到頭見えなくなってしもうた。
半歳の後、彼は郷里の南部で死んだ。
漢人の詩に、
歩出城東門(ほしていづ じょうとうのもん)
遥望江南路(はるかにのぞむ こうなんのみち)
前日風雪中(ぜんじつ ふうせつのうち)
故人従此去(こじん これよりさる)
別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。”
(岩波文庫・上巻pp.82―86)
蘆花夫人愛子が小笠原大佐宅を訪問。
4月6日、石川啄木が鍬ヶ崎に上陸。
4月15日、善平は東京外国語学校の露語科に入学。
5月、静養のため宮古へ帰郷。
5月末、蘆花が善平の帰郷を知らずに下宿を訪ねる。
その2~3日後、蘆花は郷里から出した善平の葉書を落手。
9月1日、蘆花への手紙に記す。
“疲労甚だしく歩行かなはず”
病気は腎臓結核か。
9月20日午後、ピストルで自殺、享年28。
生家から4~5丁登った、山口村を一望する丘の上に建つ長妹ゼン(小説中ではお良)の嫁いだ、洞(ほら)と呼ばれた家の奥の間10畳でだった。
9月23日、葬儀。
父の喜代助は善平の遺言に従って、凱旋後あらたに書いた11冊を加えた計40冊のノートを蘆花に送る。
このノートは、のちにすべて小笠原家に返却された。
■1909年(明治42)
1月22日、徳冨健次郎「みみずのたはこと」から、この日付の一節「炬燵」を引用する。
“雪がまだ融けぬ。
夜、ニ畳の炬燵に入って、架上の一冊を抽いたら、「多情多恨」であった。
器械的に頁を翻して居ると、ついつり込まれて読み入った。
ふっと眼を上げると、向うには鶴子が櫓に突伏して好い気もちにスヤスヤ寝て居る。
炬燵の上には、猫が喉も鳴らさず巴形(ともえなり)に眠って居る。
九時近い時計がカチカチ鳴る。
台所では細君が皿の音をさして居る。
茫々たる過去と、漠々たる未来の間に、斯(この)一瞬の現今は楽しい実在であろう。
またさらさらと雪になった。
余は多情多恨を読みつづける。
何と云うても名筆である。
柳之助が亡妻の墓に雨がしょぼしょぼ降って居たと葉山に語る条を読むと、青山墓地にある春日燈籠の立った紅葉山人の墓が、突(つ)と眼の前に現われた。
忽ち其墓の前に名刺を置いて落涙する一青年士官の姿が現われる。
それは寄生木の原著者である。
あゝ其青年士官――
彼自身最早(もう)故山の墓になって居るのだ。
皆さっさと過ぎて行く。
「御徐(おしずか)に!」
斯く云いたい。
何故人生は斯うさっさと過ぎて往って了うのであろう?”
(岩波文庫・下巻pp.18―19)
2月8日、午後5時に蘆花は宮古に向かうべく武蔵野・粕谷の自宅を出発。
東京駅を経て午後8時55分上野発の海岸線に乗車。
2月9日、仙台に到着。
塩釜から宮古行きの凌波(りょうは)丸200トンに乗船。
午前11時出港。
2月10日、蘆花が宮古に到着。
墓参と取材のため3日間小笠原家に逗留。
「墓参の記」から引用する。
“とどケ岬(さき)の灯台前では、凪と云ふのに大分揺れた。
遥か北に当つて、白龍の東海に泳ぎ出でた様なのは、八戸ださうだ。
やがて船は閉伊岬(さき)の洞門やら岩礁小島を廻つて、南に深く宮古湾の静かな水に入つた。
湾内の光景が船の進むまにまに展開して来る。
測候所の建物が見える。
雪の藤原松原が見える。
龍神ケ岬(さき)を廻つて、午後二時船は鍬ヶ崎の港に着いた。
大火後の鍬ヶ崎はきたない町である。
車を雇つて、測候所付近の切通しの坂一つ越すと、すぐ宮古。
宮古は閉伊川のデルタに出来た鯣(するめ)の臭のする町である。
閉伊川向ふに県立水産学校の建物が見える。
盛岡街道へ出口の横町に良平の姉者人お新さんを尋ねる。
お新さんは裁縫を教へるので、女の子が大勢来て居る。
踏み所もない下駄の間を分けて、音なふと筒袖の娘が出て来た。
写真で識つた糸子だ。
やがてお新さんが出て来た。
一寸挨拶して直ぐ山口に向つた。
宮古の町はづれから、盛岡街道を北に折れた。
雪の田圃に傍(そ)ひ、氷の間をさざめく小川に沿ふて、山口村に入る。
底が氷つた雪道、ややもすればつるりと滑る。
車を下り、手荷物を車夫君に持て貰つて、一足刻みに歩いて行く。
宮古から小半里も来たと思ふ頃、道は小さな谷に入つた。
左に小さな丘があつて、丘に倚つて石垣厳重に構へ杉籬で囲ふた屋敷跡がある。
丘の下には三界万霊塔が立ち、右の彼方には朱(あけ)に塗つた黒森神社の一の鳥居が見える。(中略)
やがてこの小さな丘を越すと、石垣の上に檜(ひば)の生籬をした大きな茅葺に来た。
少し離れてまだ上塗りをかけぬ土蔵が立つて居る。
篠原さんは此処で御座りす、と車夫が云ふ。
思ひの外に近かつた。(後略)”
2月11日、蘆花宮古滞在。
2月12日、蘆花宮古滞在。
深夜12時過ぎ、馬車で宮古を出立。
2月13日、蘆花は宮古からの帰途、荷物用の馬橇に乗って吹雪の閉伊街道(盛岡街道・宮古街道)を通る。
川井で小休止し、川内で朝食をとり、大峠で盛岡から来た客用の馬橇に乗り換え、田代で昼食をとった。
「墓参の記」から引用する。
“閉伊川道中の冬はまことに寂しい。
稀に見る街道の一ツ家に、男か女か分からぬ女の雪靴穿いて佇みながら熟と橇目送るのを見ると、人の世の寂しさが犇と胸にせまる”
このとき善平の姉シュン(俊。小説では、お新)を伴って東京へ向かっている。
小説で善平の会話を宮古弁に改めるにさいしてシュンの協力があったと思われる。
ついで次妹コト(琴。小説では、お糸)を粕谷の自宅に引き取る。
シュンは乃木邸を訪ねて夫人に会い、ピストル自殺の真相を打ち明ける。
9月20日、蘆花から善平の父喜代助に宛てた、この日付の書簡の一節。
“善平君は一年又一年其肉と骨とを大地に還さるべく候
然しながら其精神は限りなく生きて決して朽つるの期あるべからず
其苦心努力の半生は君が心血を注ぎし寄生木の中に結晶して永く残る可く候”
〈岩波文庫「寄生木」第3巻
岩淵友一「解説」より〉
9月、小笠原勝子(25歳)は横田秀一と結婚。
11月28日、この日付で蘆花は「小説寄生木序」を書いている。
日付に続いて、
“旅順白玉山頭表忠塔除幕式の日
武蔵野粕谷の里にて”
とある。
署名は徳冨健次郎。
12月8日、徳冨健次郎著「小説 寄生木」が東京の警醒社書店から刊行される。
■1910年(明治43)
2月10日、この日付の書簡で蘆花は、「寄生木」が発行後わずか2ヶ月で1万3000部売れたと書いている。
春、東京・本郷座で新派の「寄生木」が上演されて好評を博す。
6月、蘆花は「『やどりぎ』の女主人公夏子」を「婦人くらぶ」に掲載。
一部を引用する。
“良平の書いた「寄生木」の草稿は出版した「寄生木」位のものではない、却々長いもので、其儘書物にすれば菊版で確かに三千ページはある。
こんなに長いものであるから、私も最初の中は一層内容だけを採つて小説にして了はうかとも思うたが、読んで見ると文章の拙いところ稚気のあるところに却つて面白味があるから、小説に書き替へるよりは其儘にして唯排列の順序を改め文章に少し手を入れた位にして、総て良平其人の意志を伝へた方がよからうと思うてあゝ言ふものにしたのである。
然し其儘では余り長過ぎるから、三分の一に短縮したのである。”
“私が「寄生木」を著した目的は、あの「寄生木」を将軍と、良平の父と、夏子と、夏子の父とに読んで貰ひたかつたからであつた。”
(岩波文庫「寄生木」第3巻
笹淵友一「解説」より)
6月7日、岩手日報に北面楼の署名で「寄生木」に関する論評が載る。
8月28日、石川啄木は、歌稿ノートに次の3首を書きつける。
かなしきは夏子にしあれや夏子夏子
その一生の記憶にしあれや
人といふ人の心に一人づゝ
良平がゐて常にうめけり
今日逢ひし町の女のどれもどれも
夏子の如き心地せらるゝ
“良平”と“夏子”は「寄生木」の主人公の名。
「寄生木」を読んだ感興を表現した作品と推定される。
この3首には推敲の手が加えられた。
かなしきは夏子にしあれや夏子夏子
その生涯の記憶にしあれや
人といふ人の心に一人づゝ
囚人がゐてうめくかなしさ
今日逢ひし電車の女のどれもどれも
夏子の如き心地せらるゝ
このうち2首目だけが第1歌集「一握の砂」(1910年12月1日・東雲堂書店)に収録された。
人といふ人のこころに
一人づつ囚人がゐて
うめくかなしさ
9月21日、蘆花は夫人愛子・養女鶴子(兄蘇峰の四女)を同伴して北海道を旅行し、旭川市の春光台へのぼった。
蘆花の旭川来訪は1903年(明治36)夏に続いて2度目。
岩波文庫「みみずのたはこと」下巻pp.172―173、巻末附録「旅の日記から――熊の足跡」中の「春光台」から引用する。
“余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場を横ぎり、車を下りて春光台に上った。
春光台は江戸川を除いた旭川の鴻の台である。
上川原野を一目に見て、旭川の北方に連累の如く蟠踞して居る。
丘上は一面水晶末の様な輝々(きらきら)する白砂、そろそろ青葉の縁を樺に染めかけた大きな【木偏に解の字ナシ】樹(かしわのき)の間を縫うて、幾条の路がうねって居る。
直ぐ眼下は第七師団である。
黒(くろず)んだ大きな木造の建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵が歩いたり、赤い旗が立ったり、喇叭が鳴ったりして居る。
日露戦争凱旋当時、此丘上に盛大な師団招魂祭があって、芝居、相撲、割れる様な賑合(にぎわい)の中に、前夜恋人の父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木の篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。
余は見廻した。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさりばさり【木偏に解の字ナシ】カシワの葉を揺(うご)かして居る。
春光台 腸(はらわた)断ちし若人を
偲びて立てば秋の風吹く
余等は春光台を下りて、一兵卒に問うて良平が親友小田中尉(大場弥平のこと――吉田注)の女気無しの官舎を訪い、暫らく良平を語った。
それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたを憤って、硝子窓を打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。
其は他の下級将校官舎の如く、板塀に囲われた見すぼらしい板葺の家で、垣の内には柳が一本長々と枝を垂れて居た。
失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無闇に歩き廻った練兵場は曩日の雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿(うまごやし)の花が其処此処に叢をなして咲いて居た。”
11月中旬、蘆花は母久子・夫人愛子・養女娘鶴子と小笠原シュン・コト姉妹を伴って京都・宇治・奈良に遊ぶ。
蘆花「みみずのたはこと」の巻末附録に「紅葉狩」と題してこの旅行記が載っている(岩波文庫版・下巻pp.184―197)。
12月1日、「寄生木」の読後感を表現した歌を収めた石川啄木の第1歌集「一握の砂」が東雲堂書店から刊行される。
“人といふ人のこころに/一人づつ囚人がゐて/うめくかなしさ”
■1912年(明治45・大正1)
7月30日、明治天皇死去、大正と改元。
9月13日、乃木希典と静子夫人は明治天皇大喪のこの日、目白の自邸で殉死。
徳冨健次郎「みみずのたはこと」から「乃木大将夫妻自刃」の全文を引用する。
“九月上十五日、御大葬の記事を見るべく新聞を披(ひら)くと、忽ち初号活字が眼を射た。
乃木大将夫妻の自殺
余は息を飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
斯く呟きつゝ、余は新聞を顔に打掩うた。
*
日清戦争中、山地中将が分捕の高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵にやってしまった。
此記事を新聞で読んだのが、乃木希典に余のインテレストを持つ様になった最初であった。
其れから明治廿九年乃木中将が台湾総督となる時、母堂が渡台の御暇乞に参内して、皇后陛下の御問に対し、姥(ばば)は台湾の土にならん為、忰の先途を見届けん為に台湾に参ります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心に滲みた。
余は此母子が好きになった。
明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンを描く其原稿紙上に乃木将軍の面影がちらりちらりと徂(い)ったり徠たりするを禁じ得なかった。
縁は異なもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托された。
恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼の辞であった。
余は例に無く乗地(のりじ)になって引受けた。
結果が小説寄生木である。
小説寄生木は、該書の巻頭にも断って置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密なる意味に於て余の「寄生木」では無い。
寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木将軍夫妻では無い。
余は厳に原文に拠って、如何なる場合にも寸毫も余の粉飾塗抹を加えなかった。
そこで、寄生木は、南部(岩手県をさす――吉田注)の山中から駈け出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間の椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝されてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死するまで、其単純な眼に映じた第一印象の実録である。
固(もと)より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝の膜を隔てゝ見たところもある。
然し彼は徹頭徹尾単純にして偽ることを得為(なしえ)ぬ男で、且(かつ)如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。
余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。
篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。
而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣(ぼかつ)が故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。
即ち将軍は幕下の彼が為(ため)死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前の断片的記伝を紙の上に立てた訳である。
余は寄生木を乃木大将に贈呈しなかった。
然し伝聞する処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。
将軍は巻中にある某の学資金は某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったのに、よくも斯く精確に書かれた、と云われた事、を聞いた。
精確な筈だ、記憶の好い本人良平が命がけで書いたのである。
余は将軍夫妻の感想を聞く機会を有(も)たなかった。
然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前顔を合わすれば棒立に立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気を見せて、恩義を弁えたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂であったことを今更の様に発見したであろう。
兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、寂しい将軍の晩年に於てまた一の慰謝となったことは、察するに難からぬ。
篠原良平が「寄生木」を遺した目的の一は達せられたのである。
余は篠原良平の晩年に於て、剣を抛(なげう)つ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍から奪う可く多少の努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可(すべ)かりし演説が某の注意に因り院長たる将軍の言によって差止められたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復も為(し)なかった。
茫々たる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝか繋ぐものがあるならば、其は「寄生木」である。
然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。
唯将軍と余の間に一の縁を作ったに過ぎぬ。
乃木将軍夫妻程死花が咲いた人々は近来絶無と云ってよい。
大将夫妻は実に日本全国民の崇拝愛慕の的となった。
乃木文学は一時に山をなして出た。
斯上(このうえ)蛇足を加うる要はないかも知れぬ。
然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余相応の義務が感ぜられる。
此(この)義務は余にとって不快な義務では無い。
余は如何なる形に於てかこの義務を果したいと思うて居る。”
(岩波文庫・下巻pp.94―97)
■1913年(大正2)
1月、雑誌「文章世界」の特集「予の愛読書」の人気投票で「寄生木」が永井荷風「あめりか物語」とともに15点を獲得し、夏目漱石「吾輩は猫である」の14点を上回る。
(森銑三「明治文学閑談」)
4月、縮刷「寄生木」刊行。
諸新聞掲載の批評を附載。
12月、蘆花は善平の姉シュンから善平の死はピストル自殺だったことを告白される。
□ 年(大正 )
「寄生木の唄」が流行。
歌詞
“上野の山の鐘の音も
今日を限りときゝおさめ
続く思ひの数々に
悲しき旅の鹿島だち
多恨の吾は北へ飛ぶ”
■1914年(大正3)
7月19日、蘆花の日記より。
“寄生木ほど不快なものはない。
自分の名を出しても自分のものでなく、一万円余の金を手に入れながら自分の金を使う気がしない。”
8月19日、シュン・コトの姉妹が蘆花邸を出て帰郷。
【筑摩書房明治文学全集42「徳冨蘆花集」巻末の年譜では7月とあるが?】
“蘆花邸の富裕は、死んだ兄の著書刊行の恩恵であろう”と言ったのが蘆花夫妻の怒りに触れた。
この日付の蘆花の日記を引用する。
“善平の七回忌。
好い縁の切れ時だ。
地下で善平もこれで苦情はいうまい。
さようならお俊、さようならお琴!
貴女方の幸福を私は祈る。
小説「寄生木」によって永久に自分の物になったのは、畑四段と、裏の離れ部屋と、秋水書院及び廊下で、金にみつもると三千円になる。
今日姉妹に与えた二千円を引くと、いくらも残らない。
これで「寄生木」とはお別れだ”
〈目加田祐一「寄生木残照」p.244
中野好夫「蘆花徳冨健次郎」からの孫引き〉
9月1日、この日付で蘆花は「縮刷寄生木序」を書いている。
日付の前に
“篠原良平が第七年忌
大木大将夫妻の第三年忌
に当る”
とあり、あとに“武蔵野粕谷の里にて”とある。
署名は徳冨健次郎。
「小説寄生木」は36版を数え、縮刷版は37刷にあたる。
9月18日?、「寄生木」縮刷版が発行される。
9月20日、善平7年忌。
■1917年(大正6)
「寄生木」は60版を超える。
■1923年(大正11)
岩手教育会下閉伊郡部会が発行した「下閉伊郡志」の第9章「人物」に善平が紹介されている。
重複をいとわず全文引用する。
“小説寄生木(徳冨蘆花)の主人公なる篠原良平は、本名小笠原善平にて、本郡山口村の産なり。
幼より所謂昂々然として、群鶏中一鶴たるの観あり、而して壮年、雄志を抱きて逝く、其遺憾想像するに余あり。
左記碑陰能く其の生涯を尽して余蘊なし。
茲(ここ)に全文を掲げて伝に代ふ。
‘小笠原善平君は、喜代助君の二男なり
明治十四年六月山口村に生る
幼にして頴悟学を好み居常軍人たらんことを期す
年十六奮然郷関を辞し乃木第二師団長の家庭に学生たり
日々将軍の高風に親炙し深く其の感化を受く
台湾台北に在て英仏語を修め陸軍中央幼年学校及士官学校を卒業し三十七年三月歩兵少尉に任じ正八位に叙せられる
時に年僅に二十四
偶々日露戦役に際会し第七師団に属して武勇能く戦ひ忠実衆に超ゆ
奉天会戦に於て敵弾に傷き後送療養し恩賜の繃帯を拝受す
已(すで)にして瘡痍癒え復(ふたたび)軍務に鞅掌し陸軍歩兵中尉に昇進す
従七位に叙せられ三十九年三月旭川歩兵第二十七連隊に凱旋す
功に依り功五級金鵄勲章並に年金三百円及勲六等単光旭日章を賜る
会々に堅の犯す所となり軍務に堪へず休職加養に力むと雖(いえども)薬石効なく明治四十一年九月二十日溘焉(こうえん=にわかに)永眠す
時に二十有八
君前途有望の資を抱き以て大に為す所あらんとす
然るに天之に年を仮(か)さず豈(あに)痛惜に勝るべけんや
陸軍大将伯爵深く其死を悼み特に墓表を自書して賜ふ
君余栄あり
以て瞑すべきなり
明治四十二年九月二十日 正七位勲七等 三鬼鑑識’”
“三鬼”は当時の下閉伊郡長。
この碑文は、山口の小笠原家墓地にある墓の両側面と裏面に記されている。
正面には乃木将軍の筆で、
“故陸軍歩兵中尉 従七位勲六等功五級 小笠原善平墓”
と刻まれている。
■1927年(昭和2)
9月18日、徳冨蘆花没、享年60。
小笠原シュンが葬儀に上京。
■1932年(昭和7)
勝子夫妻が旭川春光台を訪れる。
■1934年(昭和9)
1月、「新岩手人」1月号に高橋寿太郎海軍中尉の談話が載る。
以下に引用する。
“日露戦争が始まった頃、私は東郷聯合艦隊の「富士」に乗っていた。
善平君は、旭川第七師団の第一次補充で満州に向ったが、陣中から、絶えず私に手紙を寄こしていたよ。
善平君が文学青年なので、私も少しは文学の力のあるところを見せようと思って、その当時流行した、新体詩(八五調)をいくつか作ったが、結局は送らずに終ったよ。
善平君が、満州や北海道から送ってきた手紙が沢山あるはずだが、郷里に帰ってみなければわからない。
「寄生木」をはじめて私が読んだのは、日露戦争で露国から捕獲した軍艦「壱岐」に乗り込んでいた時だ。
同僚の士官が、小説「寄生木」徳冨健次郎著というのを読んでいる。
何げなしに手に取って見ると、陸中の東海岸なんていう文字がやたらと出てくる。
おや?と思って頁を進めて見ると、主人公の青年士官篠原良平陸軍歩兵中尉が、実は小笠原善平君であった。
早速、その持主の同僚から借りて来て読んだら、私は高山という変名で、随所に飛び出てくる。
久しぶりに旧知に逢った感じで、一晩で読み上げてしまったが、感慨無量だったよ。
しかし、その本を貸してくれた同僚には、何にも言わずに返したよ。
不思議なことに、善平君が宮古で死んだことも、蘆花が善平君に代って「寄生木」を書いたことも、全然知らなかったよ。
小説にある、善平君の父喜代助と村の士族とのゴタゴタは、全く党派争いのようで、気の毒にも犠牲になったようなものだ。
小説で、長沼摩耶夫人となって現れる人も、数年前に亡くなられ、その一族もまた完全に没落されたそうだ。
乃木将軍も、明治天皇の御大葬の日に殉死されて、「寄生木」をめぐる人々は、皆恩怨ひとしく土に還ったわけである。”
〈目加田祐一「寄生木残照」
pp.245―246より孫引き〉
■1956年(昭和31)
2月、岩波文庫版「寄生木」(一)が刊行される。
8月、岩波文庫版「寄生木」(二)が刊行される。
■1957年(昭和32)
2月、岩波文庫版「寄生木」(三)が刊行される。
解説は笹淵友一。
■1958年(昭和33)
6月15日、北海道旭川市民の手によって、市街を一望する旭川師団裏の春光台に文学碑“蘆花寄生木ゆかりの地”が建立される。
■1960年(昭和35)
3月、川原田尚城(なおじょう)の「寄生木のふるさと」が岩手県宮古市役所「庁内PR」紙に連載開始(~1961年5月・97回)。
■1961年(昭和36)
文学碑“蘆花寄生木ゆかりの地”が現在地に移される。
■1962年(昭和37)
10月、井伏鱒二が小説「故篠原陸軍中尉」を「新潮」に発表。
■1963年(昭和38)
井伏鱒二「故篠原陸軍中尉」を収録した「武州鉢形城」が新潮社から刊行される。
■1969年(昭和44)
6月5日、寄生木記念館が岩手県宮古市山口1丁目5-44、慈眼寺の門前に開館。
■1981年(昭和56)
夏、旭川実業高等学校(堀水孝教校長)の校庭に“寄生木公園”がつくられ、樹木とともに物語の保存に努める。
□ 年(昭和 )
中野好夫が寄生木記念館を訪れる。
中野著「蘆花探訪拾遺」によると、小説化の過程で改められている点は、文語体が口語体に、蘆花独特の変則送り仮名“申し込むだ”式に、稿本そのままに活かされている会話が善平の発言に限って標準語が宮古弁になっているなど。
■1984年(昭和59)
3月10日、目加田祐一「寄生木残照」が㈱総北海から刊行される。
■1986年(昭和61)
小説「故篠原陸軍中尉」を収録した「井伏鱒二自選全集」第5巻が新潮社から刊行される。
ちなみに、ほかの収録作品は「掛持ち」「ある草案」「駅前旅館」「戦死・戦病死」「富士の笠雲」
■1993年(平成5)
7月、山根英郎「小説寄生木は宮古の文学」がタウン誌「月刊みやこわが町」に掲載される(~1994年5月号)。
■2002年(平成14)
4月30日、川原田尚城「寄生木のふるさと」再版刊行。
初版の発行年月日は奥付に記載がなく不明。
私家版。
?月?日、伊藤善吉「郷土の先人小笠原善平 宮古の青少年の皆さんへ」刊行。
私家版
■2009年(平成21)
12月8日、「寄生木」100周年。
1909年(明治42)12月8日に刊行された小説「寄生木」は100周年を迎えた。
■2010年(平成22)
4月、寄生木記念館が閉館。
建て直された山口公民館の寄生木展示室に収蔵品が移され、常時公開となる。
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