宮古の小説 寄生木



エッセイ 「宮古なんだりかんだり」 寄生木篇 


▼ 目 次

寄生木100年

山口川をさかのぼる
山口の慈眼寺
開かずの寄生木記念館
「寄生木」あらすじ
舘間(合)山
宮古公園地
私家版「寄生木のふるさと」
宮古の町は海だった
念仏峠と山姥
山姥の糸巻き

義経伝説
ウスギヤマ?
八甲田山、死の行軍
徳冨蘆花の宮古来訪
文豪の目に映じた宮古
川井に現われた巨漢
海嘯(よだ)
ヨダ
「寄生木」のなかのヨダ
一本柳のあと

山口川の水争い
山口村の権辰
クマヘイ
大蛇伝説
夜の黒森に…
黒森の一本杉
あずきばっとう



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■ 寄生木100年



 山口村が宮古町と合併するまえの話だ。

 小笠原喜代助という村長が山口にいた。
 小笠原村長は、村の金をつかいこんだとして村びとに訴えられる。
 6年間、未決囚として監獄につながれる。
 ついに無罪をかちとって放免になる。
 無罪になったとはいえ、6年のあいだ、本人はもちろん家族も大きな犠牲をしいられた。

 この山口村の小笠原村長に、善平という次男がいた。
 善平は、未決囚の父が盛岡から仙台の監獄に移されたとき、家出をして仙台へ行く。
 父を見舞い、諭されて、いったんは帰ることになった。

 そのころ仙台にあった陸軍第二師団に、乃木将軍がいた。
 本営のとなりが小笠原善平の父の入っていた未決監だった。
 善平は将軍の書生にしてもらいたいと思った。
 寄らば大樹の陰だ。
 乃木将軍を訪ねた。
 善平の無謀な望みが、ふしぎと叶った。
 小笠原という同姓の中佐が後見人になる。
 乃木将軍が台湾総督になると、善平も将軍について台湾に渡る。
 帰国して陸軍中央幼年学校に3番の好成績で入学する。
 後見人の小笠原中佐は善平に、娘の勝子のいいなづけになることをほのめかす。
 陸軍幼年学校での成績は落ちて、劣等生になった。
 すると、勝子との縁談もうやむやになってしまう。
 どうにか卒業した善平は北海道・旭川の第七師団に配属される。

  その後、士官学校を卒業。
  おりしも日露戦争が勃発し
 乃木将軍が第三軍司令官とし
 て旅順に出征する。
  少尉に昇進した善平も出征
 し、勲功をたてる。
  凱旋して中尉になり、勲章
         をもらう。
 陸軍大学校に入ったら結婚する約束を勝子と交わし、小笠原中佐もこれを黙認する。

 善平の人生は軌道にのったかに見えた。
 ところが、旭川配属中に善平は発病し、体は少しずつ病にむしばまれていた。
 結核である。
 陸軍大学校の予備試験には合格したにもかかわらず、軍務日数の不足や若さを理由に順番待ちとなり、入学が延期される。
 縁談は、またもこじれる。
 勝子との文通は続いた。

 この間、善平は、ふるさと山口村のこと、村長だった父や生家のこと、自分のこと、乃木将軍のこと、勝子とのことなどを手帳に書きつづっていた。
 手帳は何十冊にもなった。
 タイトルは「寄生木(やどりぎ)」――
 寄生木は、乃木将軍の庇護を受けた境遇を象徴するものだった。
 それを、小説「不如帰(ほととぎす)」の作家として人気の高かった徳冨蘆花に見せた。
 善平の病が重くなった。
 静養のために、山口村に身を寄せた。
 陸軍から退くことを決意した。
 書き終えた「寄生木」をすべて蘆花に託した。
 そしてある日、ピストル自殺をとげる。
 数えで28歳の若さだった。

 小笠原善平は山口村の慈眼寺に葬られた。
 乃木将軍が墓碑を書いた。
 徳冨蘆花が墓参に訪れた。
 そして蘆花は善平に託された手記を整理し、「小説 寄生木」として世に送りだす。
 1100ページにもおよぶ分厚い本は大ヒットになった。

 若き軍人の数奇なる生涯――
 サブタイトルをつけるとすれば、そうとでもなるだろうか。
 それまで知られることのなかった東北の風土記
 人気者の乃木将軍の素顔を描いた実録物
 大国ロシアを破った日露戦争物
 病に倒れて自ら命を絶った軍人の悲恋物語
 受けとり方はさまざまでも、それだけ内容に厚みをもった「寄生木」は、人びとに広く受け入れられた。
 何十版となく増刷に増刷を重ねた。
 第二次大戦後には岩波文庫に収められた。
 単行本の初版が刊行されたのは1909年(明治42)12月8日のこと。
 いまからちょうど100年前だった。


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■ 山口川をさかのぼる



 山口小学校のまえから川沿いにさかのぼった。
 山小のプールの脇あたりは水門があって川の水が澱んでいる。
 それが、さかのぼるにつれて、どんどんきれいになってゆく。

 途中、西のほうから小さな流れが合流する。
 この流れに沿って行けば、遠足で行った覚えのある蜂ヶ沢(ばづがさわ)に着くはずだ。

 茶色に塗られた山口公民館のまえで、山口川は、いったん道路の下に隠れる。
 その先でふたたび現われた細い流れは、透明度をぐんと増す。

 きらきらとした清流に目を奪われながら、しばらく歩く。
 一本の松の木と、「曹洞宗慈眼寺」と彫られた背の高い石柱が現われる。
 そこから山口川を離れて右に進むと、すぐに山口保育所が見える。
 右手に寄生木(やどりぎ)記念館があり、その先に慈眼寺がある。

 徳冨蘆花の作品として知られる長篇小説「寄生木」の原作者は、山口で生まれ育った小笠原善平。
 寄生木記念館は、その小笠原善平の遺品や資料を展示するため、菩提寺の慈眼寺のそばに建てられた。

 旧制盛岡中学の図書庫だったという建物は周囲の緑にとけこんで、ひっそり建っている。
 扉は閉まっていた。
 慈眼寺のまえにお坊さんがいたので聞いてみた。
 「市の教育委員会が管理しているので寺では開けられない」
 という。

 あきらめて山の墓地へ登った。
 東に鍬ヶ崎や重茂(おもえ)半島、太平洋を遠く望める場所があるかもしれない。
 墓地は途中で切れた。
 道もない。
 木々や下草が繁茂し、かきわけて進むのは無理だった。

 振り返ると眼下に山口の町並みがある。
 舘合(たてあい)の丘陵や八幡さまの森の向こうに製錬所の大煙突も見える。
 小笠原善平が生きていた時代にラサの煙突はあるはずもないけれど、善平も、この墓地に登って町並みや遠くにかすむ山々を見たのだ――
 そう思うと少し感慨が湧いた。
 しばらくたたずんで、それから急な山道を下った。


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■ 山口の慈眼寺



 慈眼寺をジガンジと読んでいた。
 正しくはジゲンジだという。
 漢字の読みはむずかしい。
 山号を如意山というから、意のままに読んでいいのかもしれないが……

 開創は元亀年間、つまり1570年から73年のあいだ。
 武田信玄や織田信長・羽柴秀吉などが活躍していた戦国時代だ。
 曹洞宗で、本尊は釈迦如来。

 場所の字(あざな)を橋場(はしば)という。
 鎌倉時代(1185~1333)の末期には山口の集落ができていたらしい。
 同じころに黒森神社ができ、黒森への登山口の意味で山口という地名がついたといわれる。
 位置的にいえば、山口の町並みの北の後背に慈眼寺があり、そのさらに後背に黒森がそびえている。

 慈眼寺の境内に、「山口小学校の由来」と彫られた石碑がある。
 1984年(昭和59)10月に建立されたらしい。
 碑文には、だいたいこんなふうに書かれていた。

 むかしは慈眼寺で寺子屋が開かれていた。
 1872年(明治5)に学制が頒布されてからは、宮古尋常小学校へ子どもたちは通った。
 30年後の1902年(明治35)に慈眼寺を仮校舎として山口小学校が創立された。
 1909年(明治42)、いまの山口公民館の裏側に本校舎が新築され、独立した。
 1953年(昭和28)、現在地の鴨崎町に移転――

 宮古尋常小学校というのは最初、沢田の常安寺に仮校舎を設けて創立された。
 小説「寄生木」の原作者・小笠原善平は、1886年(明治19)に数えの6歳で小学校に入っている。
 宮古尋常小学校ではなかった。
 宮古鍬ヶ崎組合立小学校といって、愛宕にあった。
 山口村の家からは半里、約2キロの道のりだったという。
 わざわざ遠くまで行った理由はわからない。


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■ 開かずの寄生木記念館


 寄生木記念館は山口1丁目5-44、慈眼寺(じげんじ)の門前に1969年(昭和44)6月5日に建てられた。

 寄生木は徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」。
 この作品の原作者が小笠原善平。
 山口村に生まれ、慈眼寺に眠っている。

 善平は乃木希典(のぎ・まれすけ)将軍の書生となり、その援助を受けて陸軍中尉になった。
 自分は乃木将軍という大樹を頼って成長した寄生木だ。
 恩人の乃木将軍のことを書き残したい。
 寄生木として生きた自分の足跡も残して死にたい――
 そう考えて膨大な手記をつづり、「寄生木」と名づけて徳冨蘆花に小説化を託し、自殺した。

 記念館の建物は、盛岡赤十字病院の書庫を譲りうけたもの。
 赤十字病院の書庫になるまえは、旧制盛岡中学の図書庫だった。
 石川啄木が、歌集「一握の砂」のなかで、こう歌っている。

  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名知らず

 土蔵風の白壁が落ちついた雰囲気をかもしだしている。
 なかには善平の原稿をはじめとした資料・遺品、いいなづけの勝子や蘆花の手紙、自殺に使ったピストルなどが展示されているらしい。

 らしいというのは、じつは記念館の内部をまだ見たことがないからだ。
 二度訪ねた。
 二度とも扉は閉まっていた。
 一度目は行きあたりばったりだったから仕方がない。
 二度目は夏季に常時開館していると聞いて出かけた。
 7月末の月曜だったけれど、開いていなかった。

 どうやら開館しているのは8月のみ。
 月曜・火曜が休み、祝日の翌日も休館。
 ほかの月は、あらかじめ教育委員会に連絡して開けてもらう。
 管理していない慈眼寺に頼んでも、扉は決して開かない。


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■「寄生木」あらすじ


 宮古の小説「寄生木」が東京の警醒社書店から出版されたのは1909年(明治42)のこと。

 版を重ねたけれど、いまはまず手に入らない。
 岩波文庫版全3冊も絶版になって久しい。
 読んでみたいのに読めない、簡単なあらすじを知りたい、という人が多い。
 この連載の通常の文字数に収まるように、長篇の内容をごく短くまとめてみよう。

 ――「寄生木」原作者の小笠原善平は、小説のなかに篠原良平という名で出てくる。

 良平は、1881年(明治14)6月5日、山口村に篠原良助の次男として生まれた。
 父は山口村の村長になるが、公金横領で訴えられ、未決監に6年のあいだ入獄して無罪をかちとる。

 良平は家出して父が入獄していた仙台へ行く。
 たまたま第2師団長として赴任していた大木将軍(乃木希典陸軍中将)を訪ねて、その書生になる。

 大木将軍の意を受けた良平と同姓の篠原中佐が後見人になる。
 良平が陸軍中央幼年学校に3番の優秀な成績で入学すると、篠原中佐は娘の夏子をいいなづけとしたいとほのめかす。

 良平はさまざまな事情で成績が低下し、婚約話はうやむやとなる。
 ただ、学費を受けとるため月に一度は篠原家に行ったので交際はつづいた。

 士官学校を卒業した良平は、北海道・旭川の連隊に配属される。
 少尉として日露戦争に出征し、中尉に昇進。

 凱旋後、夏子と会って陸軍大学に入ったら結婚する約束をし、篠原家もこれを黙認する。
 陸軍大学予備試験には合格したものの、勤務日数の不足や若さを理由に入学延期となる。
 夏子との婚約は、またもこじれる。

 良平は病気がこうじて軍を休職。
 郷里山口村へ帰って静養中の1908年(明治41)9月20日に自殺する。
 28歳だった。


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■ 舘間(合)山



 小説「寄生木」には、本篇のあとに「後の巻」という付録がある。
 徳冨蘆花が付したもので、原作者の小笠原善平が蘆花にあてて書きながら送らなかったという手紙の断片が載っている。
 病気のために陸軍をやめる決心をかため、山口村へ療養に帰った1908年(明治41)6月ごろの手紙だ。

 そのなかに舘間山というのが出てくる。
 「たてあいやま」とルビが振られている。
 舘間山は当時、小笠原家が所有し、手紙の前の年の1907年(明治40)冬に、父の喜代助から善平に譲られたものだという。
 もとは宮古公園地と呼ばれていたらしい。
 これは一石さん、一石一字経塚のある舘合近隣公園の前身なのだろう。

 手紙には善平が石に腰かけて鳥の声を聞くというくだりもある。
 一石さんのことには触れていないが、善平が腰かけた石は、ひょっとしたら一石さん本体だったかもしれないなどと想像してしまう。

 古い石碑などが倒れたまま放置されている例は、よくある。
 一石さんの履歴を記した資料は目にしたことがないから、当時の保存や管理の状態などはわからない。
 倒れたままに永く放置されていた時期があった可能性もないわけではない。

 手紙の書かれた2年前、1906年(明治39)4月に善平は、日露戦争から凱旋して宮古に帰省した。
 このときのことを書いた「寄生木」の一節には、こういうくだりがある。

 ――八幡山と谷一重の山は父の所有だ。
 宮古の有力家は父の承認をうけて、年々この山を崩して閉伊川の堤防を築いているのだ云々

 八幡山は横山といって南北に長く、西から東へ流れる閉伊川に突きだすように横たわっている。
 八幡山の北にはバイパスが通る前、ノデ山があった。
 そのさらに北にはボソ山という山の残骸があった。
 鉄道や旧国道が山を削った切り通しにつくられ、削られた山は舘合山へとつづく
 こう考えると、舘間(合)山から横山へと延びる、かつての尾根筋が目に浮かんでくるようだ。


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■ 宮古公園地



 前稿で紹介した善平の手紙を引用したい。
 改行のない古い候文を現代風に意訳し、仮名を実名にした。
 宮古公園地というのは、いまの舘合近隣公園のこと。

 ――きのう午後、いばらを分けて宮古公園地に登りました。
 体が弱っているため数十分かかってしまいました。
  徳冨蘆花の注:舘間山(たてあいやま)、
  もと宮古公園地、のち小笠原家の所有とな
  り、昨年の冬に帰省したさい、父喜代助が
  善平に与えた山

 眺望がよく、東を眺めると、富める家も誇れる家も、宮古全市をことごとく眼下に見ることができ、閉伊の岬、宮古湾、藤原の松原は遥かに見えます。
 南は八幡の古い松が昔のままに繁り、北は水田を経て黒森に対しています。
 西は雪のまだ消えない早池峰が見えるはずですが、樹木が立ち繁って、立ってもかがんでも見ることができません。
 ほんとうに残念です。
 青葉若葉は嬉しいものとばかり思っていましたが、時には憾みの種になるもののようです。

 頂きは3反何畝ほどの広さとか。
 石の上に腰かけていると鶯がたくさん鳴きます。
 そのほか名を知らない鳥も歌います。
 嘘のような話ですが、ほととぎすも鳴いています。
 なかでも気に入ったのは、東斜面に老いた松が藤の花に絡まれてそびえていることです。
 つたない筆では表わすことができません。
 そのうち写真でも撮ったら、お送りしようと思います。
 小生は、この宮古公園地をあなたにお目にかけたいと思います。
 (以下、散逸)


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■ 私家版「寄生木のふるさと」



 「寄生木のふるさと」という小冊子のコピーを送っていただいた。
 著者は川原田尚城(なおじょう)さん。
 ご子息の晋さんのあとがきによると、1973年(昭和48)に亡くなられている。
 コピーを送ってくださったのは晋さんの弟さん、修さんだ。

 A4判・約50ページの私家版で、2002年(平成14)に再版。
 初版の発行年月日は記載されていない。
 はじめ宮古市役所内で発行する週刊新聞「庁内PR」紙に1960年(昭和35)3月から翌年5月まで連載された。

 タイトルどおり、「寄生木」原作者の小笠原善平が生まれ育った山口のことを中心としながら、小説の内容に触れている。
 川原田尚城さんも山口の人で、この本には貴重な証言がちりばめられている。

 善平の生家は屋号を花保(はなぼ)といった。
 一帯の小字(こあざ)の名を久保といい、その久保の突端にあったので端(はな)久保、それが転訛して花保になったらしい。

 川原田さんの家は舘(たて)。
 小笠原善平の妹が嫁いだ一段高い上隣りの家は同じ小笠原姓で洞(ほら)と呼ばれたという。
 善平がピストル自殺したのは、この家だった。

 マキあるいはマギと呼ばれる同族のあいだでは、地名や地形的な特徴などによって、それぞれの家を呼び分ける習慣が根づいている。

 御壇(おだん)という小笠原一門の先祖が眠る墓所についても触れている。
 墓を見ると小笠原姓ではなく北舘となっている。
 これは藩政時代に盛岡藩主の南部氏によって小笠原姓を名乗ることを禁じられたからで、維新を迎えて旧に復したのだと川原田さんは書いている。

 小笠原姓を禁じられた理由はわからない。
 北舘というのは北にある城館という意味なのだろう。
 地頭だった小笠原氏の山口館は、横山-舘合から見て北の要衝にあたっていた。


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■ 宮古の町は海だった



 小説「寄生木」に、おおよそ次のような話が書かれている。

 ――伝説によれば、いまの宮古町あたりはだいたい海だった。

 宮古町の中央に七戻(ななもどり)という地名がある。
 山一重向こうの鍬ヶ崎は、古くからの遊女町。
 「行けや鍬ヶ崎 戻れや宮古 ここは思案の七戻り」
 と俗にも歌う七戻は、もと波打ち際。
 ある日、波が高いために旅人が七たび戻ったあとと言い伝えられている。

 坦々たる大道に沖という地名もある。
 宮古から西へ2キロ、馬士(まご)が鼻歌で行く長根(ながね)付近ではむかし、黒鯛を釣ったという。
 宮古から西北へ2キロ、山に寄った山口の里にも昔むかし海嘯(つなみ)の記念に植えたという一本柳の地名がある。

 要するに、蝦夷の時代には、宮古付近は海底だった。
 盛岡の東にそびえる兜神岳のふもとから峡谷をうがって東へ東へと流れる閉伊川が太平洋の波濤と押しあって洲をつくる。
 洲が草原になり、田になり、畑になり、黒田(ほぐだ)の村になり、ついにこんにちの宮古町になるまでには、短からぬ歳月が流れた。

 この長い月日のあいだに、海は少しずつ東に退き、最後まで踏みとどまっていた蝦夷も隠花植物のごとく北に逃れた。
 土の下に昔は隠れ、土の上は大和民族の舞台になり、やや久しく生存競争の劇を演じるうちに、善平の祖先が現われる幕となった云々

 七戻というのは、いまの築地1丁目から愛宕1丁目にかけて、愛宕神社の下あたりの俗称のようだ。
 もとは波打ち際で、波が高いために旅人が七たび戻ったあとと言われると小笠原善平は書いている。
 宮古から鍬ヶ崎の遊郭に遊びに行こうかどうしようかと、カネもない若者が迷って行きつ戻りつしたところでもあるのだろう。

 黒田を「ほぐだ」と読ませているのも興味深い。
 いま黒田町(くろたまち)と保久田(ほくだ)という町が隣りあっている。
 稲を植えるまえに鋤き起こして黒々した田をクロタという。
 方言ではホグダといい、黒田・保久田はその当て字なのかもしれない。


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■ 念仏峠と山姥



 小笠原善平原作の長篇小説「寄生木」に、山姥(やまうば)の一挿話が書かれている。
 ちょっと文章を変えて引用する。

 ――宮古の大昔は蝦夷の地で、往来が不便なだけに蝦夷が最もおそくまで踏みとどまっていた。
 山口から北へ8キロあまり、佐羽根(さばね)の近くには蝦夷舘(えぞだて)、蝦夷森という地名が残っている。

 その付近に念仏峠がある。
 谷向こうの岩窟に、口が耳まで裂けた山姥が住んでいて、旅人は念仏をとなえながら足早に通ったので、この名ができた。

 あまり古いことではない。
 大和民族がさかんに南から入りこんで跋扈したのちにも、少しの蝦夷は敗者として隔離されて残っただろう。
 念仏峠の山姥なども、口ばたに入れ墨をした最後の蝦夷婆などではなかったか云々

 同じような話が、田代にある亀岳(きがく)中学校のホームページに載っている。
 これも文章を少し変えて引用する。

 ――田代川の下流、佐羽根というところに鍋倉山があり、その中腹に洞窟がある。
 かつて、そこには「やまんば」が住んでいた。

 やまんばは、洞窟の前を通る人をひとり残らず食ってしまう。
 そこで、佐羽根の人たちは、やまんばの洞窟の前を通らないですむように山道をつくった。
 それでも近くを通るのは恐ろしい。
 田老から来る商人などは念仏をとなえながら通った。
 いつしか山道は、念仏峠と呼ばれるようになったという。

 以上が引用。
 念仏峠も鍋倉山も、手持ちの地名事典にはない。
 鍋倉という地名は、一般的には頂上が平らで、まわりが岩壁になって落ちこんでいるところをさすという。
 鍋を伏せたような感じなのだろう。

 地図を見ると、鍋倉山は出ている。
 三陸鉄道北リアス線の佐羽根駅の東方で、崎山や田老との境になっている。
 標高は248メートル。
 道は見えないけれど、この稜線のどこかに山姥の住む岩窟や念仏峠があったのだろう。


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■ 山姥の糸巻き



 いまはむかし、黒森山の赤沼のほとりで、機(はた)の梭(ひ)でもって土を掘っていたという山姥(やまんば)のこと――
 そんなくだりが小説「寄生木」にある。
 梭というのは、機に横糸を通す、舟形をした道具だ。

 「寄生木」の主人公の良平は、大祖母(ひいばば)や祖母(ばば)から、さまざまな話を聞いて育った。
 山姥の話も、何度も聞かされていたにちがいない。

 良平の祖母というのは、黒森の北方3里にある佐羽根から山を越えて山口へとついできた人だった。
 その佐羽根から東へ、鍋倉という山を越えていったところには松月(まっつき)浜がある。
 これは人に聞いた話だ。

 昔むかしのある日、松月の漁師の妻が焚きつけをとりに鍋倉山のふもとへ行った。
 帰りの山道で、ぱったり山姥とでくわした。
 「わしと出会ったことは、だれにも言うな。
 それから、この糸巻きのことも、だれにも話すな」
 山姥はそう言いながら、ふところから糸巻きをとりだすと、女にやった。

 女は家に戻って、さっそく繕いものをした。
 糸巻きの糸は使っても使っても減らなかった。
 ふしぎに思った女は、ある夜、夫にそのことを話してしまった。
 つぎの日、漁師が起きてみると、妻のすがたがない。
 村じゅう捜してもみつからない。
 漁師は妻が山姥と出会ったと言っていた鍋倉山へ行ってみた。

 険しい崖の中腹に、むかしから山姥が住むと言い伝えられている洞穴がある。
 ふだんは怖れてだれも近づかない。
 登ってみると、黒ぐろ口をあけた洞穴のまえに妻が横たわっている。
 妻は、すでに息がなかった。

 漁師は妻を背負って村へ戻った。
 漁師から話を聞いた村びとたちは、みんなで鍋倉山の洞穴へ行って、なかに何本も矢を射かけた。
 ドドーッと天地の崩れるような音が響いた。
 しばらくして、松明をかざしながら洞穴に入った。
 すると、そこには山姥のものらしい骨だけが残っていた、という。


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■ 義経伝説



 田代の中里から西へ、車で50分。
 さらに歩いて1時間半ほど入った山のなかに、小さなほこらがある。
 ほこらのなかの石には「亀岳山大明神」と刻まれている。

 その石の下に、金属でできた草履がある。
 長さ20センチから25センチ、幅10センチほど。
 これが義経の履いていたといわれる草履だ。
 義経とは、平泉から逃れてきた源義経のことだという。

 亀岳山大明神と刻まれた石の左右に、蛇と獅子の石像が一対ずつ置かれている。
 そのまわりには、金属でできた剣がたくさんある。
 ほこらの前には賽銭箱のような入れ物が置かれ、なかにはむかしのお金も入っている。

 ほこらへ行く途中に、もうひとつ別のほこらがある。
 そのほこらにお供えものをして、それから草履のあるほこらへ行く。
 すると、戻ってきたときにはもう、お供えものがなくなっているそうだ。

 旧暦の4月23日には亀ヶ森神社のお祭りがあって、たくさんの人が参詣に訪れる。
 なぜこの日にお祭りが行なわれるようになったかはわからない――

 これは義経北行伝説のひとつだ。
 宮古にもいろいろ伝説があるが、この亀岳山大明神の話は知らなかった。

 徳冨蘆花の小説「寄生木」には、こんな話がある。
 原作者の小笠原善平の祖母は、山口から北方3里の佐羽根から嫁いできた。
 旧暦4月になると生まれ育ったところの熊野さまへお参りにゆく。
 その道中に善平がついていったとき、祖母は語った。

 「もう石僧主(いしぼっち)に来たなア。
 この石を見なさろ。
 むかし源氏の義経さまが蝦夷さ隠れるどぎ、武蔵坊弁慶が負ぶってきて建でだ石ちうこんだ。
 義経さまもこご通ったんだべがなア。
 ……来年は氏神さまのときにも来られんめえよ。
 歩けなかんべえもの」

 石僧主は石坊主か。
 とにかく、山口から佐羽根にゆく道にイシボッチと呼ばれる石があり、それは義経の家来の弁慶が、どこからか背負ってきて建てた石だという伝説があったらしい。


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■ ウスギヤマ?



 宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見おろす臼木山は、日立浜の集落の後背に位置している。

 標高は86メートルしかない。
 それでも、ちょっと長めの散歩のつもりで宮古から鍬ヶ崎・日立浜を経て浄土ヶ浜へ通じる坂道を登り、第1駐車場でひと息ついて最後に臼木山の頂上まで登るとなると、けっこうきつい。

 花見には小さいとき親に連れられて2、3度登ったことがある。
 夢のようにきれいな桜山の記憶が残っている。
 地元ではサグラヤマと呼ぶ。
 100種類・800本の桜があるらしい。
 宮古市史年表によると、1922年(大正11)5月7日に桜800本を植えたという。

 春にはカタクリも薄紫の可憐な花を咲かせる。
 最近に行ったのは11月。
 ノアザミに似た紫色の花が目を引いた。
 あれは、なんという花なのだろう。

 広い駐車場があちこちにできた。
 水産科学館もでき、子どものころに比べてさえ、はるかに緑は減った。
 それでもまだ自然は濃厚に残っている。

 ニホンカモシカも姿を見せることがあるらしい。
 臼木山以外にも浄土ヶ浜の自然歩道や山のなかを歩きまわってみた。
 熊はご免こうむるが、カモシカなら出会いたい。
 そう思いながら捜したが姿を見ることはなかった。

 カモシカは偶蹄目ウシ科カモシカ属。
 鹿は偶蹄目シカ科シカ属。
 ウシ科とシカ科だから全然別種らしい。
 臼木山のウスキは、アイヌ語で鹿の足跡のあるところという意味だと聞いた覚えがある。
 いま鹿はいないのだろうか。

 ウスキといえば、臼木山をウスキヤマと呼んでいた。
 ウスギヤマと濁って読ませる地名事典に出会って驚いたことがある。
 濁点のあるなしでイメージが違う。
 土地の人はどう呼ぶのだろう。

 徳冨蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」には臼木山が小杉山と名を変えて出てくる。
 モデル小説によくある手で、実際の名称がたやすく思い浮かぶように少しだけ変えて小説化している。
 このコスギヤマという響きから察すると、明治時代に山口で育った「寄生木」の原作者・小笠原善平は、臼木山をウスギヤマと呼んでいたようだ。


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■ 八甲田山、死の行軍



 青森県の金木町に津軽地吹雪会という住民グループがあり、毎年“地吹雪体験ツアー”を催して好評だという。
 カンジキを履いて角巻をかぶり、雪原を歩いたり、馬橇に乗ったりして、津軽地方の厳しい風雪を体験するツアーらしい。

 地吹雪は、降り積もった雪が強風にあおられて舞い立ち、嵐のように吹き荒れる。
 地吹雪と降雪が重なると凄まじく、吹きつける雪で目も開けていられない。
 強風で何倍にも寒さが増す。

 金木町と同じ青森県の八甲田山で「死の行軍」と呼ばれる日本最悪の雪山遭難事件が起きている。
 1902年(明治35)1月23日から25日をピークにした数日間にわたる出来事だった。

 青森にあった陸軍第8師団歩兵第5連隊の将士210人が八甲田山麓を抜ける雪中行軍訓練を開始した。
 やがて積雪にはばまれ、吹雪・地吹雪に巻かれて遭難。
 凍死に自殺者を加えて199人が死亡した。

 このとき北日本は大寒波に襲われていた。
 宮古測候所の発表している宮古の最低気温10位までのなかには入っていないけれど、北海道の旭川では25日に氷点下41℃という日本の気象観測史上の最低気温を記録している。

 新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」や同名の映画で広く知られた事件だった。
 ただ、古い話だし、同じ東北といっても宮古とはあまり関係のない出来事のように感じていた。
 じつは宮古出身の兵士も犠牲になっている。

 宮古市史年表には、「八甲田山犠牲者、宮古関係者七人」という短い記事が載っている。
 当時はまだ宮古町の時代。
 「宮古関係者」というのは、いま市域に入っている鍬ヶ崎町や山口・千徳・花輪・磯鶏・津軽石・重茂・崎山などの村を含めてという意味なのだろうか。

 山口村では3人の犠牲を出している。
 慈眼寺の墓地に、
 「於八甲田山雪中行軍中為風雪凍死」
 と刻まれた小さな墓石が、ひっそり建っている。
 八甲田山に於いて雪中行軍中、風雪の為、凍死――
 摂待辰次郎という人の墓だ。

 小説「寄生木」原作者の小笠原善平の墓に近い。
 摂待辰次郎は小笠原善平の従兄。
 瀬田勝次郎という名で小説に出てくる。


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■ 徳冨蘆花の宮古来訪



 徳冨蘆花が宮古を訪れたのは1909年(明治42)2月10日だった。
 旧山口村に生まれた陸軍中尉・小笠原善平がつづった手記をもとにして、小説「寄生木」を蘆花が東京の警醒社書店から出版するのは10ヵ月後の12月6日。
 善平は前年9月、数え28歳の若さで自殺している。
 蘆花の宮古来訪は善平の墓参と取材のためだった。

 岩波文庫版「寄生木」第3巻の末尾に「墓参の記」が収録されている。
 これを読むと、明治末期当時の様子がわかっておもしろい。

 蘆花は東京・粕谷(かすや)の自宅を2月8日に出発して上野駅から仙台行きの海岸線、いまの常磐線に乗りこんだ。
 仙台で塩釜行きに乗りつぎ、塩釜からは宮古行きの凌波丸という200トンの蒸気船に乗った。
 出港は9日の午前11時。
 10日は大槌湾で朝を迎えた。
 山田湾から、いよいよ宮古湾へさしかかる。
 以下、蘆花はだいたいこんなふうに書いている。

 ――とどヶ岬(さき)の灯台前では、凪だというのにだいぶ揺れた。
 はるか北にあたって、白龍が東海に泳ぎでたように見えるのは八戸だそうだ。

 やがて船は閉伊岬の洞門やら岩礁・小島をまわって、南に深く宮古湾の静かな水に入った。
 湾内の光景が船の進むまにまに展開してくる。
 測候所の建物が見える。
 雪の藤原松原が見える。
 龍神ヶ岬をまわって午後2時、船は鍬ヶ崎の港に着いた。

 大火後の鍬ヶ崎はきたない町である。
 車を雇い、測候所付近の切り通しの坂ひとつ越すと、すぐ宮古。
 宮古は閉伊川のデルタにできた鯣(するめ)のにおいのする町である。
 閉伊川の向こうに県立水産学校の建物が見える云々

 蘆花が見た測候所の建物は光岸地(こうがんじ)の鏡岩、いまの漁協ビルのところに建っていた八角形のモダンな木造2階建て。
 藤原松原もいまはない。
 逆に当時、出崎埠頭はなく、竜神崎をまわって港内の奥に碇を下ろしたのだろう。

 宮古市史年表をみると、前年の大晦日に鍬ヶ崎上町で86戸が全半焼する大火が起きている。
 そのひと月後では汚いのも無理はない。
 光岸地の切り通しが開通したのは1882年(明治15)。
 岩手県立水産学校は藤原にあって、岩水(がんすい)の名は全国に知れわたっていたらしい。


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■ 文豪の目に映じた宮古



 明治期の宮古を描写した文章にはなかなか巡り会えない。
 徳冨蘆花の「墓参の記」から続けて引用したい。
 表記は原文どおりではなく、途中省略したところもある。
 人名は実名に変えた。

 ――盛岡街道へ出口の横町に善平の姉お俊さんを尋ねる。
 お俊さんは裁縫を教えているので、女の子が大勢来ている。
 踏み所もない下駄のあいだを分けておとなうと、筒袖を着た娘が出てきた。
 写真で知った琴子だ。
 やがてお俊さんが出てきた。
 ちょっと挨拶して、すぐ山口に向かった。

 宮古の町はずれから盛岡街道を北に折れた。
 雪の田んぼに沿い、氷のあいだをさざめく小川に沿って山口村に入る。
 底が凍った雪道で、ややもすればつるりと滑る。
 車を下り、手荷物を車夫君に持ってもらって、一足刻みに歩いてゆく。

 宮古から小半里も来たと思うころ、道は小さな谷に入った。
 左に小さな丘があった。
 丘に寄って、石垣を厳重に構え、杉垣で囲った屋敷跡がある。
 丘の下には三界万霊塔が立ち、右の彼方には朱に塗った黒森神社の一の鳥居が見える。

 やがてこの小さな丘を越すと、石垣の上に檜(ひば)の生垣をした大きな茅葺に来た。
 少し離れてまだ上塗りをかけない土蔵が建っている。
 「小笠原さんはここで御座りす」
 と車夫が言う。
 思いのほかに近かった云々

 蘆花が乗った車というのは、もちろん人力車だ。
 宮古の町なかを人力車で走れば目立っただろう。
 盛岡街道は閉伊街道で、当時は横町の通りがそうだった。

 「墓参の記」は長い文章ではない。
 それでも当時の宮古町や山口村を観察した文豪の興味深い記述はまだまだ続いている。
 この文章を収録した岩波文庫版「寄生木」が絶版になって宮古の人の目にさえあまり触れられていないのは残念だ。

 作品自体は文庫版で全3巻の長篇。
 出版社も商売だから売れる見込みがなければ再刊しないけれど、各巻500部ずつ売れるなら出すだろうという話を小耳にはさんだことがある。


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■ 川井に現われた巨漢



 幕末の1864年(元治1)夏のことだ。
 川井の名もない祠(ほこら)に容貌魁偉の大男が寝ていた。
 村人は強盗か山賊かと怪しみ恐れた。
 川井の旦那と呼ばれていた沢田長左衛門が、この大漢を家に連れ込んだ。

 酒が好きで、よく漢詩を書く。
 一升も大酒を飲んで大の字に寝る。
 姓名・生国を尋ねても笑って言わない。
 家の女たちは「こんな無頼漢を」と眉をひそめたが、沢田はひとかどの人物と見てねんごろに扱った。

 ひと月あまりいて「世話になった」と言って出てゆこうとしたとき、沢田は姓名・藩籍を教えてくれるよう乞うた。
 「わしが書いたものを江戸へ持っていったら知る者もあろう。
 いつかわしが何者かを知るときもあろう」
 それだけ答えると大男は飄然と遠野のほうへ去った。

 だれ言うとなく、「あれは西郷南洲だったろう」という噂が広まったころ、南洲はすでに死んでいた。
 南洲とは西郷隆盛のことだ。

 その後、弟の西郷従道(つぐみち)が盛岡に来たとき、沢田長左衛門は会って往年の一事を話し、その書いたものを見せた。
 従道は「たしかに兄の筆跡だ」と言った。
 何年前のことかを聞いて、「ちょうど兄が大島を逃れて行方不明になっていたころだ」と言い、「兄が世話になった」と挨拶した。
 沢田の家ではこの筆跡を大切にし、長左衛門が上京すると西郷従道が手厚く遇するという。

 沢田長左衛門は県会議員で、小笠原善平の父と知り合いだった。
 善平は「岩手日報」の記事をもとにして「寄生木」にこの挿話を書いた。
 小島俊一さんの「陸中風土記」にも出ている。
 こちらは「南洲川井来遊記」という文書をもとにしたらしい。
 ここでは「寄生木」と「陸中風土記」の記述をとりまぜて紹介した。

 薩摩藩の下級武士だった西郷隆盛は、藩主の島津斉彬(なりあきら)の目にとまって側近に抜擢された。
 斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流されていたことがあった。
 復帰して維新で大役を果たし、西南戦争を起こして敗れ、故郷鹿児島の城山で自刃したのは広く知られている。
 一代の英雄として伝説も多い。
 鹿児島で死なず、悠々自適に生きているという噂も根強く残っていた。


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■ 海嘯(よだ)



 1896年(明治29)6月15日に三陸大津波が押し寄せた。
 このとき、数えで16歳だった山口村の小笠原善平は最初、露西亜の軍艦が宮古湾を砲撃するのだと思ったという。
 小説「寄生木」には、だいたいこんなふうに書かれている。

 ――その日は陰暦5月5日。
 近隣は濁酒に酔って歓声も湧くなか一家は早く寝についた。
 糠雨が降って真っ暗な晩だった。
 宮古の沖のほうで、ごぉーごぉーっという音がする。
 みな目を覚ました。
 「雷様でもねエし、何だんべなア、あの響きは」
 「露西亜の軍艦が宮古湾を砲撃するのだねいかな」
 前年に日本は清国との戦いに勝ったが、いわゆる三国干渉を受けて遼東半島を返還し、日露戦争は必至と日本人は思っていた。

 怪しい轟音は止んだ。
 一家はふたたび枕についた。
 そのとき闇を破って叫ぶ声がした。
 兄の声だった。
 「海嘯(よだ)が来た!
  起きろ、起きろ、大変だ。
 宮古さ、いま海嘯が来て、叔母(おんば)の家も流されたちうこんだ!」

 驚いてみな撥ね起きた。
 提灯をつけた。
 履物を揃えた。
 後ろの山へ避難する用意をした。
 姉の顔が蒼ざめてわなわな震えていた。
 海嘯は山口村には来なかった。

 未明に起きて宮古町に駆けつけた。
 光岸地(こうがんじ)のあたりは家が流されたり倒れたりして通行止めになっている。
 山を登って琴平祠に行った。
 宮古湾内波静かに、綿のような薄靄はちぎれちぎれて閉伊岬の裾をおおっている。

 山を下ると家が流れて砂になっている。
 がらがら崩れている。
 傾いている。
 水膨れした馬の屍。
 半身砂に埋まって髪を波に洗われている婦人。
 腰骨を砕かれて水に漂う老爺。
 柔らかな赤肉を削がれた小児。
 叫ぶ声。
 泣く声。
 修羅の巷(ちまた)。
 初めて水に死んだ人の醜さ、怪我した人の凄さを見た。
 陰暦5月の温かさにすぐ腐敗しだした死体の悪臭に鼻をおおった。

 しかし宮古町は死者100人内外で、まだいいほうだった。
 南は釜石・大槌・山田、北は田老、全町全村ことごとく流された。
 陸中岩手を中心に海嘯(よだ)は陸前・陸奥の海岸を荒らした。
 いわゆる三陸の海嘯(かいしょう)とはこれであった。


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■ ヨダ



 ヨダという宮古弁が妙に気になっている。
 津波を意味するこの言葉は、いつごろ、どんなふうにして生まれたのだろう。
 呆然と思いをめぐらすばかりで、もちろん結論は出ない。

 古くから宮古で使われていたことはたしかだ。
 小説「寄生木」のなかでも使われている。
 1896年(明治29)旧暦5月5日、新暦では6月15日に三陸地震津波が襲った。
 このとき山口の小笠原家では善平の兄が、
 「海嘯(よだ)が来た! 起きろ、起きろ、大変だ……宮古さ海嘯が来て」
 と叫んでいる。
 海嘯は音読みでカイショウ。
 これを「つなみ」と読ませる例は多いが、「寄生木」では「よだ」と宮古弁のルビをふっている。

 作家の吉村昭さんは「三陸海岸大津波」(中公文庫)のなかでヨダを、
 ――三陸沿岸特有の「津波」に代わる地方語
 と書いている。
 ただ、この言葉のニュアンスには少し違いがあったらしい。

 チリ地震津波の翌日、もと宮古測候所長の二宮三郎という人が宮古湾の奥で調査をしたときに聞いた老漁師の言葉がある。
 「津波じゃねえ、あれはヨダのでっけえやつだ……
 ヨダってのは、地震もなく、海面がふくれ上がって、のっこ、のっこ、のっこと海水がやって来てよ、引き潮のときがおっかねえもんだ」

 1960年(昭和35)5月23日に南米チリ沖で大地震が起きた。
 日本では体に感じられなかった。
 22時間後、1万8000キロの大海原を越えて津波が日本を襲った。
 このとき、
 「外国地震でも津波は来る」
 という教訓が生まれた。

 1896年の明治三陸大津波を体験した田野畑村の早野幸太郎さんという人は、吉村昭さんにこう語った。
 「明治29年前までは、三陸の土地の者は津波をヨダと言っていた。
 津波という言葉が使われるようになったのは、明治29年の大津波のときからだ。
 ヨダは津波と同じ言葉だ」
 吉村さんはその後いろいろ調べて、ヨダと津波は同じだと思うようになったという。


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■「寄生木」のなかのヨダ



 まえに「津波と船幽霊」という文章を書いた。
 1896年(明治29)の三陸大津波にあって助かった重茂(おもえ)村の人たちの話だ。
 同じ話が小説「寄生木」に載っている。
 原作者の小笠原善平が、父の友人で重茂村の助役だった山崎松次郎を訪ねて、じかに聞いた話は、おおよそ次のようなものだった。

 ――明治29年の陰暦5月5日、端午の節句で、ランプの明かりに妻がすすめる祝いの盃をあげていた。
 すると、たちまち沖のほうに轟というおびただしい物音がした。
 手燭(あかり)を持って戸をあけて外をうかがった妻が、
 「あれーッ、海嘯(よだ)!」
 と叫ぶとともに、水煙に姿は巻き込まれた。
 その手に持っていた灯りは消えた。

 驚いた一家は立って逃げようとした。
 丈余の濁流が轟と室内に巻き込んだ。
 吊りランプは消えて真っ暗になる。
 襖(ふすま)が折れる。
 戸が破れる。
 柱がひしげる。
 ベリベリ、バリバリ
 さしも頑丈な茅葺家がくるりと転覆した。
 酔いもまったく醒めてしまった。

 濁流に流されながら、死んでも離すまいと倅(せがれ)の手を右手にしっかと握って波と闘っていた。
 たちまち第二の激浪が山のごとくにきた。
 倅を俺の手からもぎはなして、波の底につれていってしまった。
 夜目ながら波底に白い体が見えていたが、とうとう見えなくなってしまった。

 それから海原遠く流された俺は、はるかに漁火を望んで泳ぎながら助けを呼んだ。
 頑迷な漁夫らは、
 「船幽霊だ。
 海で亡くなった人の魂だんべ」
 と舟を寄せてくれぬ。
 泳ぐ腕も疲れきった。
 俺はわが名を叫んだ。
 漁夫らはいぶかりながら舟を寄せ、かろうじて俺の一命は助かった。

 仔細を語ると、「旦那、旦那、旦那」と打ち喜ぶ漁夫らも容易に俺の言うことを信じない。
 岸に近寄った。
 家財道具が流れてる。
 人馬の死体が浮いている。
 漁夫らも驚いた。
 陸に上がった。
 漁夫らの家はみな流されて、俺と同じに妻も子も亡くなっている。
 長身・黒がねの漁夫らも、天をあおぎ、砂に伏し、しばしは慟哭の声が絶えなかった。


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■ 一本柳の跡



 田の神1丁目にひとつの石碑があって、こう刻まれている。

 ―― 一本柳の跡
 言い伝えによれば、この場所に柳の大木があり、一本柳とよんだ。
 江戸時代(年代不詳)三陸沿岸を襲ったヨダ(津波)は宮古にも大被害を与えた。
 津波により山口川を逆流せる波に乗って来たダンベ(舟)を一本柳に繋留したと伝えられている。
 平成元年六月吉日 山口の有志建之(これをたてる)

 田の神に津波にまつわる碑があることに驚く人がいるかもしれない。
 ヨダのあとにカッコして津波とあるのは、場所がら、古いヨダという言葉だけだと途惑う人もいるという配慮なのだろう。

 田の神は1960年代にはまだ一面の田んぼだった。
 町名も田んぼの神さまを祀った祠(ほこら)に由来するらしい。
 田んぼの神さまは春に山から降りてきて秋には山へ帰る山の神でもある。
 田の神の背後は黒森山。
 昔は山口村の一部だった。

 ダンベを山口まで押し流したヨダの話は江戸時代から伝わり、詳しい年代まではわからないという。
 江戸時代に三陸大津波は5回起きている。
 最も大きかったのは最初の1611年(慶長16)に起きた地震津波だった。
 三陸沖でマグニチュード8以上と推定される地震が発生して津波が沿岸を襲ったらしい。

 古文書によると、宮古村の海浜通りは一軒残らず波にさらわれて死者が多く、黒田村の山辺にわずか数戸が残るのみだったという。
 いまの市立図書館のあたりにあった常安寺を壊滅させたのも、この慶長の大津波だった。
 山口村まで流されたダンベもあったはずだ。

 そんな体験・記憶が生きていたのだろうと思わせるくだりが小説「寄生木」に描かれている。
 1896年(明治29)の三陸大津波のとき、宮古にヨダが来たという叫びに山口村の小笠原家では家族が皆はね起きた。
 後ろ山の杉や松の森まで逃げる用意をした。
 善平の姉は顔青ざめてわなわな震えていた。
 けれど、「海嘯(よだ)は到頭村へは来なかった」。
 これは大津波が起これば山口村までまたやってくると誰もが怖れていたことを示すエピソードと言っていい。


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■ 山口川の水争い



 かつての山口川は宮古の住民の重要な水源になっていた。

 山口という地区は、北を崎山、西を近内、東を崎鍬ヶ崎に境を接している。
 分水嶺がそのまま境界線になり、三方から流れくだる水が山口川となる。
 宮園団地の西側を通って南下する主流に、北東から黒森山方面の流れが注ぎ、さらに北西の蜂ヶ沢方面からくる流れが加わる。
 そして泉町の山並みに遮られて東へと向きを変え、宮古の町なかへ流れこむ。

 町なかといっても、かつては田んぼや湿地が多く、そのなかを、ほぼ自然のままに流れていただろう。
 田んぼを埋め立てて末広町の通りができたのは1926年(大正15)。
 宮古駅ができたのが1934年(昭和9)。
 山口小学校の前あたりから主流を南へ切り替え、宮古の町なかを避けて閉伊川に最短距離でつなぐ工事が始まったのは、その後の1938年(昭和13)のことらしい。

 山小の記念誌「百年千紫万紅」によると、山口川の清く豊かな流れは農業・生活用水に使われていた。
 川沿いには水車が建ち並び、穀物を搗く水車小屋は「搗き屋」と呼ばれた。
 とくに大きな水車が山口堤(づつみ)のそばにあり、近郷から米を運ぶ馬車や牛車でにぎわった。
 坂庄アパートあたりにあった山口堤と、看護学院あたりにあった宮古堤は、この水の量を調節する重要なダムだった。

 「百年千紫万紅」には、こんな話も載っている。
 明治の初めごろ、干ばつで水不足になって宮古衆と山口衆とのあいだに水争いが起きた。
 宮古衆が取り決めを破って宮古堤に水を引いた。
 山口衆は怒って水を止めた。

 慌てた宮古衆は、礼装に身を正し、手土産をもって山口村の肝入り(村長)に詫びを入れにきた。
 やっと話がまとまって帰る夜道、ひとりがベエゴの糞に滑って尻餅を搗いた。
 連れの手に助けられながら腹いせに悪態をついた。
 ――山口衆とベエゴの糞には油断なんねえ。


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■ 山口村の権辰



 山口川の水争いについては、小笠原善平の「寄生木」に、「百年千紫万紅」にあったのと同じような話が出ている。
 かいつまんで紹介しておこう。
 ちなみに、黒田には一貫して「ほぐだ」という読み仮名がふってある。

 ――善平の何代かまえの祖先に、権辰(ごんたつ)という男がいた。

 父を権之丞といい、大兵肥満の人で、南部の殿さまの抱え力士だった。
 あまりに強すぎたために毒殺されたそうだ。

 息子の権辰は角力が嫌いで、百姓仕事に精をだすおとなしい性格だった。
 それでも親譲りの強情なところがあった。

 山口村と隣りの黒田(ほぐだ)村とが、なにかで争論した。
 黒田の者が言った。
 「そんだら山口の衆や、山口川を、この黒田領は流さっしゃるな。
 川が荒れて、黒田村は迷惑だ」
 山口の指揮官・権辰は憤然として、
 「ようござる」
 と答えた。
 村の若者を集め、土堤(どて)を築き、水門を設け、非常の労力をもって黒田領をよけて山口川を閉伊川に注がした。

 苗代をつくるころになると、黒田の田には水がない。
 嘲り笑っていた黒田の衆の顔が、稲とともに色を失った。
 柳樽をさげて総代が詫びにきた。
 権辰は怒った。
 「なんの、おれが腐れ酒の一樽(ひとつぶ)や二樽で聞くくらいなら大仕事はせぬ。
 山口の衆にも睾丸(きんたま)がござる。
 ご迷惑千万の水は、一滴も黒田領にゃやりませぬ」

 いつもこんな場合に出てくるのが女だ。
 母と妻は口をそろえて言った。
 「これこれ父っちゃまな、そんな道ならぬことなさんなよ。
 物の道理はそうでながんべいよ。
 黒田の衆とは隣り村の仲だぁ、力になる仲だぁ。
 黒田の稲は枯れるべいよ、黒田の衆は困るべいよ」
 権辰がやっとうなずいたので、山口の小川はいまも黒田領を流れている。

 そのとき黒田の総代は使命を果たして欣々と帰る途中、牛糞に滑って晴れ着を汚した。
 「山口衆と牛(べこ)の糞にぁ油断がでぎねえ」
 そんな諺が、むかしの黒田、いまの宮古地方に残っている。


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■ クマヘイ



 新町(あらまち)の東筋に大きな蔵造りの建物がある。
 明治以来の老舗で、新町に住んでいたころはクマヘイとかクマガイ薬局と呼んでいた。
 通りから中をうかがうだけだったけれど、ときどき風船かなにかをもらったような記憶もある。
 クマヘイという通称は創業者の名前からきていると聞いていた。
 いろいろ人に聞いたり資料にあたってみたら、正式な名前は熊谷商店だという。

 熊谷商店は、1893年(明治26)に普代村出身の熊谷平助という人が呉服・酒類・石油などの問屋として開業したらしい。
 さらに鍬ヶ崎でも海産物問屋や水産加工・定置網などの事業に手を染めた。

 1913年(大正2)には東屋の菊池長七ほか中沢徳兵衛・八重樫金十郎といった人たちとともに宮古銀行を設立している。
 頭取に就任したのは長男の平次郎だった。
 宮古銀行は1928年(昭和3)に岩手銀行に併合された。
 クマヘイの斜向かいに岩手銀行がある。
 いまはATMしか並んでいないようだが、あそこが宮古銀行のあった場所かもしれない。

 平助の二男は巌(いわお)といった。
 小説「寄生木」に、主人公の友人で盛岡中学生の隈谷として出てくる。
 帝大法学部から原敬のもとで官界・政界へと転じた。
 岩手1区から立候補して衆議院議員となり、山田線や久慈線の建設促進に力を尽くした。
 1933年(昭和8)に死去すると常安寺に胸像が建てられた。
 戦時中の金属供出で像は失われ、1950年(昭和25)になって有志が台座を記念碑に改めている。

 三男の善四郎も盛岡中学に学んだ。
 1年上には石川啄木がいた。
 東京商科大学、いまの一橋大へ進み、病のために中退。
 七十七銀行・京浜電力に勤め、1926年(大正15)に父平助が死去すると宮古へ戻り、熊谷商店の海産部を譲りうけて独立。
 戦後、市議会議員・市議会議長をつとめた。
 1956年(昭和31)からは和見町に宮古東映(宮古第一映画劇場)を建てて初代社長に就任。
 1981年(昭和56)に97歳で死去している。


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■ 大蛇伝説



 黒森山に赤龍池(さくりゅうのいけ)があった。
 池の水は涸れていまはない。

 山中には5、6丈の大きな蛇がときどき現われる。
 黒森さんの本殿にとぐろを巻き、玉垣や末社の祠(ほこら)をとり巻いている。
 見た人を驚かすけれども決して襲ってくるわけではない、という話が伝わっている。

 こういう話もある。
 黒森さんには五色の彩りも鮮やかに四角い斑紋をもった大蛇がたくさんいる。
 なかには四つ足をもった大蛇もいると。

 1850年(嘉永3)に建てかえられた本殿の屋根は、栃(とち)板葺き十二枚重ねの、質朴で荘重なものだったという。
 これは長年の風雨や雪にさらされて腐り、雨漏りがひどくなったので、1934年(昭和9)に銅板で葺きかえられた。
 そのとき大蛇が現われたのを見た人がいる、といわれる。

 最近の目撃譚もある。
 その話ではこうだ。
 拝殿のわきに一本の桜の木がある。
 拝殿の手すりのところに大蛇がとぐろを巻いていた。
 驚いて見ていると、鎌首をもたげ、のろのろと手すりから桜の幹にのびていった。
 頭が桜の木に届き、やがて太い胴で幹を巻きはじめた。
 ところが、尻尾のほうは、まだ拝殿にとぐろを巻いていた、と。

 蛇は黒森さまの使いとも、ご本尊そのものともいわれる。
 祭神はオオナムチノミコト、スサノオノミコト、イナダヒメの三柱になっている。
 これは明治維新後、新政府の神道政策によって適当にわりあてられたもの。
 もともとのご本尊は高さ30センチほどの木像で、本殿の真ん中に安置されている。

 しかしこれも表向きの話だ。
 じつは、その真下の土中に、御内神さまが眠っている。
 覗くことができないよう、社殿の下は厳重に囲われている。
 あるいは、この御内神さまというのが、神龍と呼ばれた大蛇なのではないか、ともいわれる。


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■ 夜の黒森に…



 小説「寄生木」に、わずか1行だが、黒森山の大蛇の話がでてくる。
 主人公の良平は、公金費消の嫌疑で未決監につながれた父の無罪放免を祈るため、黒森神社で断食籠もりをしようとした。
 その一節の、おおよそを紹介してみよう。

 ――父は16の歳、黒森山に籠もって7日の断食をしたと、大祖母(ひいばば)や祖母(ばば)の口からしばしば聞いている。
 自分も数えで今年16。
 7日の断食籠もりをして仙台獄裏の父を救おうと決心した。

 その日、腹いっぱい麦粥を食って1里の道を黒森山へ登った。
 お堂にひざまずいた。
 老杉の梢をもれる夕べの光さびしく、神水(みたらし)の音はさえざえとして深山の暮れの心細さ。
 良平の心は麻のごとくに乱れ、いろいろなことを思った。

 今は昔、この山の上の赤沼のほとりに機(はた)の梭(ひ)で土を掘っていたという山姥(やまんば)のこと。
 現に生きているなにがしの老爺が見たという、樅(もみ)の木にぶらさがる酒樽のような頭の大蛇のこと。
 昔むかし、この黒森のふもとの庵寺の折り戸を夜中にたたいた梅の精、鯉の精……

 いよいよ日が暮れてしまう。
 凄い、凄い。
 妙な鳥が鳴きだす、森の奥から妙な音が聞こえる。
 お堂のなかに読経の声がする。
 神経の作用かと思って耳をそばだてても、たしかにそんな声がする。

 途端に、老樹の間に凄まじい響きがした。
 ギヤーッ、グッ、グッ、ギユーイ、ギイギイ、ギッ、ギッ
 身の毛がよだつ。
 もうたまらぬ。
 将来ある身だ、熊や狼の餌食になってたまるものか。
 命あってこそ孝行もできる、退却、退却!
 立ち上がるより早く、まっしぐらに1里の道をはせ帰った。
 夜は更けていた。
 何も知らない母が灯火の影に寝ないで待っていた。

 良平は恥じて、その夜のことを今日まで黙っている。
 臆病の孫にひきかえ、男まさりの祖母は、100本の藁(わら)にひとつひとつ1厘銭を通し、夜、女人禁制の黒森にお百度を踏んだ。


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■ 黒森の一本杉



 もし自分が天狗だったら――と考えてみる。
 もし自分が天狗だったら、どこを棲みかにしよう。
 そうそう、黒森の一本杉がいい。
 黒森のお山は町に近いのに静かだし、人もあまり登ってこない。

 一本杉のてっぺんは見晴らしがいい。
 町じゅうが見渡せる。
 海までもよく見える。
 でも、一本杉はもうない。
 それが残念だ。

 古い書物には、こんなふうに書かれている。
 黒森山上に一本の老いた杉の木があった。
 江戸時代に山火事で焼けてしまった。
 1848年(弘化5)の4月1日のこと、黒森山の赤池あたりから火がついて大火になり、一本杉に燃え移った。
 洞木だったからたまらない、たちまち幹に火が入った。
 山口や宮古の人たちが沢から背に水をかついで登り、火を消そうとしたけれど、ついに焼け落ちた云々と。

 「寄生木」という小説にはこうある。
 家から東北1里の山腹に鎮守の黒森神社がある。
 伝説には垂仁天皇第二皇子の惟津(これつ)親王を祭ったものといわれている。
 杉、松、檜、樅(もみ)のたぐいが真っ黒に繁って黒森の名もふさわしい、じつに県下第一等の官林だ。
 なかに黒森の一本杉といって、海上からの目印になった大きな木があったが、雷火にあって焼け落ちた。
 宮古浦の漁師は太平洋に稼ぎの出入りに、いまもって舟の上から黒森を拝む云々と。

 黒森は高さこそ310メートルあまりしかないものの、宮古町のいろいろなところから、その優しく美しいすがたをあおぎみることができる。
 人びとに親しまれ、敬われている。
 由緒・歴史があり、おもしろい伝説にも事欠かない。

 そのお山のてっぺんの一本杉の、そのまたてっぺんでふんぞり返っていたら、さぞかし気分のいいことだったろう。
 そう天狗になった自分は考える。
 いや、それにしても惜しいことだ、黒森の一本杉がなくなってしまったのは。


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■ あずきばっとう



 この夏、あずきばっとうを食べた。
 板屋のジョイスで見かけ、久しぶりに食べたくなって買った。
 ビニールに真空パックされたハニー食品製である。
 「元祖〈宮古名物〉あずきばっとう」と書いてある。
 小笠原製麺所製のものはなかった。
 オガメンこと小笠原製麺所のは、はっとうが平べったい。
 ハニー食品製は、うどんのような感じだ。

 250グラム入りの小袋と700グラムの大袋があった。
 ひとりで食べ切らなければないとなると大袋は多すぎる。
 小袋から鍋に移してことこと温めた。
 甘いお汁粉でうどんを煮た懐かしい味。

 懐かしいといっても、うちではふつうのお汁粉が多かった。
 入れるのは焼いた餅、それに白玉。
 小学校の給食に、あずきばっとうが出てきた。
 お汁粉が薄くて、あまりうまくなかったような気がする。

 甘いはっとうは節句のご馳走だった。
 盆月に7回あずきばっとうを食べて7回水浴びすれば健康になるという言い伝えもある。
 7回あずきばっとうを食べるというのは、あるいは願望の表現だったかもしれない。
 ひと月に7回どころか、昔はめったに食べられなかった。

 はっとうの原料には蕎麦を使うほうが多かった。
 小説「寄生木」に、あずきばっとうの話が出ていて、蕎麦汁粉と書いて「そばはっとう」と読ませている。

 明治26年(1893年)10月9日の夜は雨が激しく降って雷(らい)が鳴り、凄まじい晩だった。
 明日は節句。
 「蕎麦汁粉(そばはっとう)を作ってあげます」
 母が言ったら大祖母(ひいばば)は、
 「蕎麦汁粉!
 珍しいはっとう!
 婆の大の好物のはっとう!」
 再三再四くりかえし欣々として床に入った。
 母は夜鍋に小豆をぷつぷつ煮て、兄嫁は石臼で蕎麦をひく。
 数えで86歳の大祖母はその夜遅く、寝床に座って両の手を合わせ、枕に突っ伏したまま死んでいた。


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