宮古の小説 寄生木

寄生木(やどりぎ)メモ帳
50音順


■太田(おおた)中尉

 実名は多田駿(ただ・はやお)。
 陸軍大将。
 1882年(明治15)2月24日、宮城県に生まれる。
 郵便局長を務めた父に従って岩手県宮古町(旧館?)で育つ。
 1895年(明治28)10月15日、宮古鍬ヶ崎組合立水産補修学校(のちの岩手県立水産学校)開校式で宮古鍬ヶ崎組合立高等小学校の生徒総代として祝辞を述べる(岩手学事彙報3845号)。
 徳冨蘆花「小説 寄生木」原作者小笠原善平の1年下級。
 小学校を優等で通し、仙台陸軍幼年学校を好成績で卒業。
 陸軍中央幼年学校・士官学校を上席で卒業し、士官学校で生徒の教導の任にあたる。
 1948年(昭和23)死去。


■狐森監獄(きつねもりかんごく)

 盛岡監獄。
 1872年(明治5)、いまの盛岡市下ノ橋町に設置。
 1884年(明治17)、監獄から出火して市域の半ばを焼き尽くす大火があり、1887年(明治20)いまの前九年町に移転。
 狐森とか宿田後などの地名で呼ばれ、人里離れた地域だった前九年地区も宅地が増えたため、1980年(昭和55)に上田松屋敷に移転し現在に至る。


■「下閉伊郡志」(しもへいぐんし)

 1922年(大正11)、岩手県教育会下閉伊郡部会の発行。


■高山(たかやま)

 実名は高橋寿太郎(たかはし・じゅたろう)。
 海軍少将・田老村長。
 1879年(明治12)1月15日に岩手県千徳村に生まれる。
 1894年(明治27)から翌年まで宮古・鍬ヶ崎組合立高等小学校の代用教員(授業雇い)を務める。
 1896年(明治29)仙台の東北学院に進学。
 夏休みに小笠原善平と会い、学問や進路について話し合う。
 善平が仙台に出奔したさいも宿を訪ねている。
 1897年(明治30)海軍兵学校に入学。
 1905年(明治38)5月27日から翌日の日本海海戦で東郷艦隊の富士に乗り組む。
 1924年(大正13)海軍少将に昇進。
 1928年(昭和3)予備役となる。
 1938年(昭和13)田老村長に就任。
 1945年(昭和20)4月8日死去、享年66。


■地名(ちめい)

 作中名と実名
小杉山=臼木山(うすぎやま)
砂原山(しゃはらやま)=佐原(さばら)
浄土が浜・浄土の浜=浄土ヶ浜
外山(とやま)牧場


■名前(なまえ)

 作中名と実名
秋山辰巳=? 親戚
天内  =山内英昌 崎山村長
大木祐麿(すけまろ)=乃木希典 将軍
大木祐勝=乃木勝典 長男
大木祐保=乃木保典 次男
太田中尉=多田駿(はやお)
落合庫七=盛合 津軽石の大酒造家・大地主
川合治七郎=村井儀七郎 鍬ヶ崎町長(もと盛岡の士族)
川田庄左ヱ門=沢田長左衛門 県議 川井の旦那
川田法憲=沢田洪憲 盛岡中学校生
 (法科大学に進学。県議沢田長左衛門の息子)
隅谷  =熊谷栄治 教師
隈谷(くまがい)=熊谷巌 友人(盛岡中学生。幼名弥兵衛)
熊安旅店主人=熊谷留治
越田  =吉田伊八 崎山村助役
後藤七郎=工藤吉郎 山口村後任村長
篠原良平=小笠原善平
篠原良助=喜代助 父
篠原お秋=トキ 母
篠原良太郎=善十郎 兄
篠原お新=シュン(俊)姉
篠原お良=ゼン 長妹
篠原お糸=コト(琴)次妹
篠原中佐=小笠原尚弼 後見人 のち大佐
篠原夏子=小笠原勝子 許婚
清水正雄=内館元右ヱ門 田老村長
瀬田勝次郎=摂待辰次郎 八甲田山凍死者・従兄
高崎精助=狐崎嘉助 盛岡中学校生・仙台二高生
    (仙台二高医学部に進学。啄木の同級。
     試験時の不正で譴責処分を受ける)
高山  =高橋寿太郎 友人
田辺節三=篠民三 県議
苫江小七郎=駒井 県議
苫江七右衛門=駒井吉右衛門? 友人(盛岡中学校生)
苫江梅圃=駒井梅圃 俳人
内藤賢五郎=斎藤源五郎 宮古高等小学校長
長沼伝七
名島屋=小島屋?(樋口庄七、酒造・質屋、宮古町の大地主)
浜崎竹次郎=山崎松次郎 重茂の旦那・助役
副島太右衛門=高島嘉右衛門(高島易断の創始者)
松浦  =? 津軽石村長
盛岡中学校長=多田綱宏(啄木が盛岡中学に在学したときの校長)


■「寄生木」(やどりぎ)

 蘆花徳冨健次郎の小説。
 1909年(明治42)12月8日、東京市京橋区尾張町の警醒社書店発行。
 菊判、1096ページの大冊。
 定価は特製2円・並製1円50銭。
 岩手日報の広告欄に、
 “岩手の東海岸なる寒村の農家に生れ十六の年出奔してさまざまの境涯を渉り陸軍士官となつて日露戦争に出陣
 金鵄勲章を握つて昨年の秋二十八才で故山岩手に病死した主人公が生前血涙を揮つて書き遺した実歴を基礎にして著者が特に故人の遺嘱により起稿した長篇小説である
 舞台は岩手から仙台 台湾から東京 北海道から満州にかけて【人物は世間に名あれども名無きに―印刷不鮮明】皆刺せば血が出る活人である
 東北は久しく沈黙した
 寒い暗い寂しい東北は久しく日本に声を出さなかつた
 近頃ぼつぼつ東北の声が出て来た
 西南日本 明るい日本 暖かい日本が東北々々と云ふ様になつた
 小説寄生木は多感多情な東北の一男子が東北の音を以て明瞭に叫び出した東北の声の一つである
 東北人士は如何に斯足下の声を聞く乎”
 と出ている。
 篠原良平として出ている主人公が原作者で、岩手県宮古市山口出身の軍人小笠原善平。
 草稿はノート40冊に及んだ。
 蘆花の序文に、
 “正当に云へば、寄生木の著者は自分では無い。
 真の著者は、明治四十一年の九月に死んだ。
 陸中の人で、篠原良平と云ふ”
 とある。
 小説では登場人物はすべて匿名に変更されている。
 評価は毀誉褒貶相半ばした。
 正宗白鳥
 “血と肉の生々しい実人生を窺ふことが出来る。
 不如帰より真実に富み、誇張と安価な同情の分子が少ない”
 沖野岩三郎
 “誰か此の一書を読んで、著者の作でないと言ふものがあらうか”
 前田河広一郎「蘆花の芸術」
 “蘆花はあまりに素材に忠実すぎた”


■寄生木記念館(やどりぎきねんかん)

 閉館。
 岩手県宮古市山口1丁目5番44号、小笠原善平の墓碑がある慈眼寺(じげんじ)の門前に1969年(昭和44)6月5日開館。
 2010年(平成22)4月閉館。
 収蔵品は建て直された山口公民館の寄生木展示室に移され、常時公開となる。
 寄生木記念館の建物は石川啄木が、
 “学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名知らず”
 と歌った旧制盛岡中学校の図書庫を移築したものだった。
 常時開館していたのは8月で、月曜・火曜・祝日は休館。
 それ以外は市教育委員会に連絡して開けてもらっていた。
 慈眼寺は管理していなかったので、当然、頼んでも開けてもらえなかった。


■寄生木展示室(やどりぎてんじしつ)

 山口1丁目3番14号、山口公民館の2階に、2010年(平成22)4月設置。
 山口公民館はこのとき建て替え工事がなり、1階には「寄生木」に関係が深い黒森神楽の展示室も開設された。
 黒森神楽は2006年(平成18)3月15日、国の重要無形民俗文化財に指定されている。


■「寄生木・残照」(やどりぎ・ざんしょう)

 北海道旭川市の古書店“ひとつむぎ書房”の店主である目加田祐一の著。
 1984年(昭和59)同書房発行。


■山口村(やまぐちむら)

 かつて陸中国閉伊郡、岩手県下閉伊郡に属し、今の宮古市山口・田代・近内(ちかない)の3地区にあたる。
 1889年(明治22)4月1日、町村制施行に伴い、山口村・田代村・近内村が合併して新制の山口村が誕生。戸数300。
 小笠原善平の父喜代助が初代の民選村長となり、作中では「平民村長」とも記される。
 1941年(昭和16)2月11日、下閉伊郡宮古町・磯鶏(そけい)村・千徳村と合併し、宮古市となる。
【民選時代の歴代村長】
第1代・小笠原喜代助(山口)
第2代・工藤吉郎(盛岡)
第3代・星川金礼(盛岡)
第4代・桂新兵衛(宮古)
第5代・信夫源四郎(田代)
第6代・花坂与七(宮古)
第7代・信夫源四郎(田代)
第8代・千田忠兵衛(岩手郡)
第9代・川原田正一(山口)
第10代・阿部留三郎(宮古)
第11代・藤田喜一郎(宮古)
第12代・川原田正一(山口)
第13代・佐々木文堂(宮古)
 (『郷土誌稿 田代』より)


Ⓒ 2019 JinYoshida

宮古の小説 寄生木











inserted by FC2 system