宮古デジタル文庫

西塔幸子 〜 女啄木と呼ばれた歌人          吉田 仁

 西塔幸子(さいとう・こうこ)――
 といっても、初耳の人も多いかもしれない。
 タイトルにかかげたように、“女啄木”とも呼ばれた歌人であり、岩手県内の小学校を転々と歴任した教師だった。

 はじめに短く略歴を記しておく。
 西塔幸子は1900年(明治33)、岩手県紫波郡の不動村に生まれた。
 現在の矢巾町である。
 岩手師範学校の女子部を卒業して小学校教師となり、県内各地を歴任。
 宮古とも縁が深く、1921年(大正10)12月に、当時まだ下閉伊郡下の一村だった磯鶏(そけい)の尋常高等小学校へ赴任している。
 夫もまた鍬ヶ崎(くわがさき)の尋常高等小学校へ赴任。
 翌1922年(大正11)には宮古の藤原にあった住まいが類焼の難にあっている。
 歴任中に6人の子どもを生み、育て、わが子を題材にした歌も多い。
 川井村の江繋(えつなぎ)尋常小学校に在任していた1936年(昭和11)に病を得て、6月22日に急逝。
 享年は数えで37、満で35歳だった。
 翌年、遺(のこ)された1000首ほどの作品から実弟らが450首を選び、遺稿歌集「山峡」(やまかい)一冊を世に出した。

 じつをいうと、西塔幸子の存在を知ったのは最近のことだ。
 宮古に生まれ、高校を卒業するまで住んでいた。
 けれども、女啄木という歌人の話を聞いたことはなかった。
 インターネットを始めてから、遠く離れた懐かしい宮古や岩手に関するホームページを覗きにゆくようになった。
 そのうちに西塔幸子という歌人の存在に気づいた。
 紹介されている短歌をみると、素直に心に響いてくる。
 女啄木と呼ばれたというのも、うなずけた。
 インターネットの世界に接しなければ知りえなかったかもしれない存在だった。
 ある地域に限定されていた情報がインターネットを通じて世界に発信されている。
 岩手の山峡に閉じ込められていた西塔幸子も、のちの世に、まさかこんなかたちで自分がひとりの無知な男に知られるようになるとは思いもしなかったはずだ。
 検索すればすぐ出てくるが、感謝の意もこめて、ここに西塔幸子を紹介しているホームページのいくつかを、まとめて掲げておきたい。
 リンクボタンになっているので、クリックすれば直行する。
 (後記――現在すべてのページがリンク切れ)

 西塔幸子記念館 1 
 宮古市新里の歌碑
 川井村の歌碑
 田野畑村の歌碑 

 参考文献には次のようなものがあるようだ。

*佐々木京子「歌集『山峡』の道を辿りて」1988年・私家版
*赤沢義昭監修「山峡の歌人 西塔幸子 その作品と生涯」
      1992年3月10日・西塔幸子記念館建設委員会
*長尾宇迦「山峡絶唱(小説・西塔幸子)」1996年10月・講談社
*佐々木京子「山峡のみち」2004年・私家版
*「山峡の近代 歌人・西塔幸子」
      瀧本壽史・名須川溢男編「街道の日本史5 三陸海
      岸と浜街道」所収、2004年12月20日・吉川弘文館
*松本博明「西塔幸子歌集『山峡』論」
      「岩手郷土文学の研究」3〜4号所収

 「歌集『山峡』の道を辿りて」や「山峡のみち」を書いた佐々木京子さんは宮古市の愛宕(あたご)に住み、現在は盛岡市に移った元教員の方だそうである。

 西塔幸子の短歌を読んでみると、“女啄木”と呼ばれるいわれは、その実直な作風にあることがわかる。
 啄木――天才詩人と呼ばれた石川啄木は1886年(明治19)に生まれ、1912年(明治45)に肺結核で死んでいる。
 26歳の若さだった。
 西塔幸子は1900年(明治33)に生まれて1936年(昭和11)に35歳で死んだから、啄木よりは10年ほど長生きしている。
 時代的にいえば、啄木が死んだのちに、歌人としての西塔幸子がひっそりと世に出てきた。
 歌人としての産声のような歌がある。

  声あげて何か歌はむあかあかと
       夕陽が染むる野面に立ちて

 西塔幸子は県内各地の小学校を転々とした。
 1921年(大正10)12月に九戸郡中野村の中野尋常高等小学校から下閉伊郡磯鶏村の磯鶏尋常高等小学校へ転任したことは、すでに触れた。
 磯鶏小学校は、宮古湾に面した砂浜の、松原のなかにあった。

  ふんわりと雲とびてゐぬかもめとぶ
       砂原の上にまろぶし居れば

 磯鶏に赴任中の1922年(大正11)7月には、隣り町・宮古の中央通りにできてまもない宮古館という劇場の舞台に立った。
 前年に下閉伊地方を襲った霜害を救済するための慈善音楽会が宮古館で催され、賛美歌と「さすらいの歌」を独唱したらしい。
 北原白秋が作詞し、中山晋平が作曲、松井須磨子が歌った「さすらいの歌」は、1917年(大正6)に発表された。
 当時ヒットしたという。
 西塔幸子も身につまされるものがあったのだろう、こんな歌詞だ。
 1 行こか戻ろか 北極光(オーロラ)の下を
   露霊(ロシア)は北国 はて知らず
   西は夕焼け 東は夜明け
   鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に
 2 泣くにゃ明るし 急げば暗し
   遠いあかりも チラチラと
   とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(あお)よ
   明日の旅路が ないじゃなし
 3 燃ゆる思いを 荒野(あれの)にさらし
   馬は氷の 上を踏む
   人はつめたし わが身はいとし
   町の酒場は まだ遠し
 4 わたしゃ水草 風吹くままに
   流れ流れて はて知らず
   昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
   末はいずくで 果てるやら

 西塔幸子は磯鶏から山田の小学校を経て、1927年(昭和2)3月に岩泉の二升石(にしょういし)尋常小学校に赴任している。
 その赴任の途上、北上山地のけわしい雄鹿戸(おしかど)峠を越えた。
 雄鹿戸はいま押角と書かれるが、そのさいに詠んだのは、こういう歌だった。

  九十九(つづら)折る山路を越えて乗る馬の
       ゆきなづみつつ日は暮れにけり

 わかりやすい言葉に実感がこもっている。
 この歌は1985年(昭和60)に岩泉との境にあたる押角トンネルの新里(にいさと)口に建立された碑に刻まれている。
 岩泉の二升石ではこうも詠んでいる。

  澄み透る空の青さよ掌(て)にくまむ
       水の清さよ美しこの村

 この歌は二升石小学校の創立110周年を記念して建立された碑に刻まれている。
 岩泉字(あざ)中野、岩泉駅前には次の歌碑がある。

  紺碧の水湧くところ天そそる
       城とぞ見らむ大き岩かも

 1931年(昭和6)に田野畑村の沼袋尋常小学校に転勤している。
 凶作のなかで児童たちへの教育に情熱を注ぎ、この地で3年を過ごした。
 1933年(昭和8)3月3日に発生した三陸大津波のときは「岩手日報」に投稿して惨状を訴えたという。

  憂きことも束の間忘れすなほなる
       心になりて山にものいふ

  越え来れば三沢は眼路(めじ)の涯(はて)にして
       夕日あかあかと雉子(きじ)鳴きてをり

 これは1933年に盛岡に行った帰りに夏伏峠で詠んだ6首のうち。
 前者は沼袋の農村環境改善センター庭内に、後者は菅窪の思惟大橋コミュニティ公園に歌碑が建てられている。
 このころ父や弟が死亡したらしい。

 川井村の江繋小学校に在任したのは1934年(昭和9)からである。
 2年ほど過ごしたところで病を得て、ここが終焉の地となった。
 当時の作品には詞「江繋小学校賛歌」がある。
 短歌を2首かかげる。

  灯を消せば山の匂のしるくして
       はろけくも吾は来つるものかな

  山の頂に登りつつ巌の上に我立てば
       山の風ここち良く清々しき我が心


 “山の頂に登りつつ巌の上に我立てば山の風ここち良く清々しき我が心”というのは短詩だろうか。短歌としては破調である。
 江繋尋常小学校の跡地には公民館が建っている。
 そのかたわらに“灯を消せば山の匂のしるくしてはろけくも吾は来つるものかな”の歌碑が建立されたのは1979年(昭和54)のことだ。
 1991年(平成3)には、江繋9−43に西塔幸子記念館が建てられた。

 川井村に赴任中の1935年(昭和10)11月17日に、山田町の山田小学校で開かれた山田線開通祝賀会に招かれている。
 そのときに発表した「歌と私について」のなかで披露された歌がある。

  あきらむと人には言へどはかなかり
       吾がいつはりに泣きたき心

 山田町八幡町の山田町役場内に歌碑として残っている。

 ほかに目についた作品をいくつか掲げておく。

  生きることのせつなき日なりうつしみの
       すくやかなれと母はのちせど

  約束のお手玉五つ縫ひおきて
       我子がよろこび思ひつつ寝る

  ゆきなやむ峠路にして日は暮れぬ
       霙(みぞれ)さへふり吾子(あこ)泣きしきる

  夕日夕日山より山へ照り渡り
       父のなき子をさびにあらすな

 最後の歌は父のない生徒を歌ったのだろう。
 酒乱で暴力をふるうことの多かったという夫は、幸子亡きあと、6人の子どもを必死で育てたらしい。
 伝記的事実を詳しくは知ってはいないが、これらの歌には西塔幸子の生活が滲み込んでいる。
 “日本のチベット”ともいわれた山深い土地を転々としながら、教え子たちを導き、励ましつつ、一方で自分の子を育てなければならない。
 寒村で生きることの苦しさに屈しないよう自らを励まさなければならない。
 そういう一人の女性の健気(けなげ)な姿が浮かんでくる。
 幸子に冠して“薄倖の歌人”という形容がしばしば用いられる。
 たしかに厳しい生活ではあったろう。
 しかし、ある意味で充実した人生だったといってもいいのではないだろうか。
 教師という職業を持ち、苦しい生活のさなかから、歌を生み出した。
 35歳という若さで病に倒れたのは悲運だが、死後に編集された一冊の歌集は、永遠の墓碑銘として後世に伝わるはずである。
 それだけの力ある歌を残している。
 “女啄木”という冠詞も、そのうち不要になるにちがいない。



■西塔幸子の歌

声あげて何か歌はむあかあかと夕陽が染むる野面に立ちて

ふんわりと雲とびてゐぬかもめとぶ砂原の上にまろぶし居れば

同僚の冷たき仕打に泣きぬれてうなだれながらかえるうら道

酒召して帰り給へる時にても吾子はと吾に聞き給ひけり

夫のため我が黒髪もおしからずささげて祈る誠知りませ

酒を嫌(い)む吾にはあれど旅にして夫のみやげに良きを求めつ

朝々の吾がよそおひに里人の眼(まなこ)つめたくひかるおもほゆ

「障子紙買ふ銭もなしガラス戸と思へ」と言へる村の収入役

「障子の骨折りてはならぬ外し置け銭(ぜんこ)ないない」と言へる収入役

みちのくの閉伊の郡(こおり)の冷えしるく障子なき教室の寒さ思ふべし

凶作地の教師は哀し商人のともすれば吾をさげすみにけり

亜砒酸と青酸苛里とつぎつぎにおもひ浮べて夜を熟睡(うまい)せず

ゆきなやむ峠路にして日は暮れぬ霙さへふり吾子泣きしきる

九十九(つづら)折る山路を越えて乗る馬のゆきなづみつつ日は暮れにけり

澄み透る空の青さよ掌(て)にくまむ水の清さよ美(うま)しこの村

紺碧の水湧くところ天そそる城とぞ見らむ大き岩かも

憂きことも束の間忘れすなほなる心になりて山にものいふ

越え来れば三沢は眼路の涯(はて)にして夕日あかあかと雉子鳴きてをり

灯を消せば山の匂のしるくしてはろけくも吾は来つるものかな

山の頂に登りつつ巌の上に我立てば山の風ここち良く清々しき我が心

あきらむと人には言へどはかなかり吾がいつはりに泣きたき心

生きることのせつなき日なりうつしみのすくやかなれと母はのちせど

約束のお手玉五つ縫ひおきて我子がよろこび思ひつつ寝る

夕日夕日山より山へ照り渡り父のなき子をさびにあらすな

山峡は時雨るるままに夕暮れて訪ふ人もなく戸をとざしけり

長雨はいまだも晴れず今日もまた村の幼子やみて死せりと

消化不良まぬがれがたき凶作を眼の前にして心おびえぬ

土用入(どよういり)袷(あわせ)に羽織かさね着て未だ寒かり陽のなつかしき

凶作に衣のうすきにふるひゐる生徒(こら)にはかなしこの校舎はも

幾月か俸給とれず今宵はも米つきはててすゐとんを食す

給食の菜の代りと折りて来し蕗(ふき)の皮むく夜のしじまに



■西塔幸子の略年表

1900年(明治33)
 11月17日、紫波郡不動村(いまの矢巾町)村松雄一郎別邸に生まれる。(幸子の書いた履歴書には6月30日生まれとなっている)
 旧南部藩士の大村幸一郎・ソメの長女でカウ(コウ、幸)と命名。
 父母は、ともに不動村白沢小学校の教員。
1903年(明治36)
 父の転任にともない九戸郡大川目村山口に転住。
1907年(明治40)
 九戸郡大川目村の山口尋常小学校尋常科1年に入学。
1912年(明治45・大正1)
 石川啄木が肺結核のため死去。
1913年(大正2)
 山口尋常小学校尋常科を卒業。
 父の転任にともない九戸郡小軽米村に転住。
 軽米尋常高等小学校高等科に入学。
 この頃から短歌をつくりはじめる。
1915年(大正4)
 軽米尋常高等小学校高等科を卒業。
 盛岡の岩手県師範学校女子部本科へ入学。
 受験の際、修身の解答に短歌を一首だけ書いたという。
 肋膜炎のため小軽米で静養、9月に全快して帰校。
  声あげて何か歌はむあかあかと
       夕陽が染むる野面に立ちて
1919年(大正8)
 岩手県師範学校女子部を卒業。
 九戸郡久慈町の久慈尋常高等小学校に訓導として赴任。
  同僚の冷たき仕打に泣きぬれて
       うなだれながらかえるうら道
1920年(大正9)
 同僚の西塔庄太郎と結婚。同年齢の21歳。
 西塔庄太郎の実家は稗貫郡花巻町の鉄道員一家。7人兄弟の長男で、西塔家ではただひとりの師範出だった。
1921年(大正10)
 九戸郡中野村(いまの洋野町)の中野尋常高等小学校へ転任。
 12月、下閉伊郡磯鶏村(いまの宮古市)の磯鶏尋常高等小学校へ転任。
 夫庄太郎は同郡鍬ヶ崎町(いまの宮古市)の鍬ヶ崎尋常高等小学校へ転任。
  ふんわりと雲とびてゐぬかもめとぶ
       砂原の上にまろぶし居れば
 長女を出産。
  酒召して帰り給へる時にても
       吾子はと吾に聞き給ひけり
1922年(大正11)
 長女が花巻で病死。
 磯鶏村に隣接する下閉伊郡宮古町藤原(いまの宮古市)に住まいし、類焼にあう。
 7月、宮古町の宮古館で開かれた慈善音楽会で、賛美歌や「さすらいの歌」を独唱。
1925年(大正14)
 下閉伊郡山田町の山田尋常高等小学校へ転任。
 ?11月、義父が死去。
 夫の酒乱が激しくなる。
  夫のため我が黒髪もおしからず
       ささげて祈る誠知りませ
  酒を嫌(い)む吾にはあれど旅にして
       夫のみやげに良きを求めつ
1927年(昭和2)
 3月、西塔夫妻は下閉伊郡岩泉の二升石(にしょういし)尋常高等小学校へ転任。
 師範出の庄太郎は校長に昇進。28歳。
 茂市(もいち)から荒天をついて雄鹿戸(おしかど)峠の険峻を馬で越える。
  九十九(つづら)折る山路を越えて乗る馬の
       ゆきなづみつつ日は暮れにけり
  ゆきなやむ峠路にして日は暮れぬ
       みぞれさへふり吾子泣きしきる
1929年(昭和4)
 5月12日、随筆「岩泉紀行」を岩手毎日新聞に寄稿。
 5月25日、随筆「遠足」を岩手毎日新聞に寄稿。“米のおまんまはうんまいなあ、と誰かがいふ……稗(ひえ)を日に三度の常食とするこの地方なのである。”
 7月4日、短歌を岩手毎日新聞に寄稿。
  朝々の吾がよそおひに里人の
       眼(まなこ)つめたくひかるおもほゆ
  澄み透る空の青さよ掌(て)にくまむ
       水の清さよ美(うま)しこの村
1931年(昭和6)
 下閉伊郡田野畑村の沼袋尋常小学校へ転任。
  「障子紙買ふ銭もなしガラス戸と思へ」
       と言へる村の収入役
  「障子の骨折りてはならぬ外し置け銭(ぜんこ)ないない」
       と言へる収入役
  みちのくの閉伊の郡(こおり)の冷えしるく
       障子なき教室の寒さ思ふべし
  凶作地の教師は哀(かな)し商人の
       ともすれば吾をさげすみにけり
  亜砒酸と青酸苛里とつぎつぎに
       おもひ浮べて夜を熟睡(うまい)せず
 弟の次治が病のため九戸郡葛巻村で死去。
1933年(昭和8)
 3月3日、三陸大津波が襲来。
 3月31日、斎藤かつ子の名で三陸大津波の被害記事を岩手日報に寄稿。
 父の幸一郎が盛岡市で病死。
1934年(昭和9)
 4月、下閉伊郡小国村(いまの宮古市)の江繋(えつなぎ)小学校へ転任。
  灯を消せば山の匂のしるくして
       はろけくも吾は来つるものかな
 異常気象により凶作。
  長雨はいまだも晴れず今日もまた
       村の幼子やみて死せりと
  消化不良まぬがれがたき凶作を
       眼の前にして心おびえぬ
  土用入(どよういり)袷(あわせ)に羽織かさね着て
       未だ寒かり陽のなつかしき
  凶作に衣のうすきにふるひゐる
       生徒(こら)にはかなしこの校舎はも
1935年(昭和10)
 凶作にあえぐ児童たちの給食費を得るため、また学用品購入の足しとするため、福寿草の根を採取して売る。
  幾月か俸給とれず今宵はも
       米つきはててすゐとんを食す
  給食の菜の代りと折りて来し
       蕗(ふき)の皮むく夜のしじまに
 仙台放送局より教育者の体験談「ある日の出来事」を放送。行き帰り盛岡市の実家に立ち寄る。
 11月17日、山田町の山田小学校で開かれた山田線開通祝賀会に招かれ、「歌と私について」と題して講演。
1936年(昭和11)
 5月28日、手足の関節に激痛が走り、盛岡の岩手病院に運び込まれ、急性関節リューマチと診断される。
 5月31日、入院の3日後に妊娠8カ月の4男を早産。
 6月22日、肺炎を併発して死去。享年35。14歳以下7人の子どもを残し、母弟妹にみとられた。
 11月、4男が死去。
1937年(昭和12)
 西塔幸子遺稿歌集「山峡」(やまかい)が出版される。
 序文は金田一京助。
 “草深き北奥の山村僻地に訓導として、また母及び妻として、はた人間として歌いつづけて死んでいった西塔幸子の歌集を読むと、山間の環境が深く歌われて胸を打つ(昭和11年9月12日) ”
 10月、盛岡公会堂で歌集「山峡」の出版記念会。
 母ソメは歌を披露して謝辞とした。
  幸あれと名づけし名にはあやからで
       幸薄くして逝(ゆ)ける吾子はや
1938年(昭和13)
 8月、夫の庄太郎が自殺未遂。
1979年(昭和54)
 江繋尋常小学校の跡地に歌碑が建立される。
  灯を消せば山の匂のしるくして
       はろけくも吾は来つるものかな
1985年(昭和60)
 岩泉との境にあたる新里村押角(いまの宮古市)に歌碑が建立される。
  九十九(つづら)折る山路を越えて乗る馬の
       ゆきなづみつつ日は暮れにけり
1991年(平成3)
 西塔幸子記念館が江繋9−43に建てられる。

                       2007.04.28 改訂
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