横山光輝(よこやま・みつてる)作のマンガ。 1961年から66年まで『週刊 少年サンデー』(小学館)に連載。 横山光輝の作品では月刊誌『少年』(光文社)に連載された「鉄人28号」も好きだったが「伊賀の影丸」にはかなわない。“木の葉隠れ”の名場面は、いまもまぶたにまざまざ浮かぶ。 雑誌を自分の小遣いで買うようになる前は、せっせと貸し本屋に通ったもの。このマンガは、そうして借りた雑誌で読み始めた。 << HP「横山光輝の世界」 |
白土三平(しらと・さんぺい)作のマンガ。 1964年12月号の『ガロ』(青林堂)誌上で連載開始。 横山光輝の「伊賀の影丸」とはまったく趣きの異なった、シリアスな忍者マンガの傑作。 |
▲ HP「小沢さとるの席にようこそ」 |
小沢さとる作のマンガ。 1963年から65年まで『週刊 少年サンデー』に連載。 潜水艦マンガの白眉。というより、ぼくが最初に夢中になったマンガだった。まだ8歳ぐらいのとき、小遣いのほとんどをはたいて毎週『サンデー』を買った。本棚がいっぱいになると雑誌をバラして「サブマリン707」だけをまとめ、画用紙の表紙をつけた合本をつくった。故郷の家に置いていたら、引っ越しのときにあえなく処分されてしまったが。 生涯ただ一度のファンレターを送ったのも「小沢さとる先生」だった。すると、ペガサスを描いた自筆のハガキが届いて狂喜乱舞。あの貴重なハガキも、いまは行方不明に…… “小沢”は現在小澤と表記。でも、長嶋茂雄がぼくの記憶のなかでは長島茂雄であるように、小澤さとるは、いつまでも小沢さとるなのである。 |
月刊マンガ雑誌。1946年11月、光文社より創刊される。 左はワンちゃんこと王貞治の表紙。下に掲げた『少年サンデー』の表紙は長島茂雄。思えば野球少年が多かった。ぼくも小学生のとき文集に、ヘタだったにもかかわらず“プロ野球の選手になりたい”と書いた。校庭では日が暮れるまでドッジボール(これはうまかった)か野球。ときどきボールが近所の家に飛び込んでガラスを割ったが、素直に謝りに行けば簡単に許してもらえた。のんきというか、寛容な時代だった。そういえば当時は放課後、自由に校庭で遊べた。門はあっても閉まることはなく、塀やフェンスもなく、低い生垣で囲まれていただけだった。 |
週刊マンガ雑誌。 1959年4月に、『少年マガジン』(講談社)のすぐあとを追って小学館から創刊された、わが愛読誌。 遅れて『少年キング』(少年画報社)も創刊されたが、ぼくはあくまでサンデー党。『マガジン』や『キング』は貸し本屋から借りたり、友達のを回し読みしたり。もっと遅れて創刊された『少年ジャンプ』には、あまり関心が向かなかった。 << 創刊号表紙 |
本体にはめこまれている玉状の部分が微妙に動き、ここを頭や首筋・腰などに当て、あおむけに寝ると気持ちいい。 1946年から売られているという。 子どもの頃から頭痛や肩こり・首こりで悩まされていたぼくは、親のをいつの間にか自分の所有物にしてしまった。 四つ玉のほうは、いまだに枕元にある。もう30年以上も使っているだろうか。 写真は木製の木肌のまま?のようだが、ぼくのは白い琺瑯引き。これがはげたり汚れたりしているほかは、なんの支障もない。プレートには“米・英・仏専売特許 脊椎用F型 TOKYO MADE IN JAPAN”と書かれている。 |
@ A B |
@ピース・マークといえば、スマイリーとかスマイル・マーク、ニコニコ・マークなどと呼ばれる図柄を思い浮かべる。 2001年4月12日にハーベイ・ボールという人物が死んだ。新聞に出た訃報では、彼がピース・マークの考案者とされている。 “米マサチューセッツ州で死去、79歳。「社員にやる気を出させる図柄を」と保険会社に依頼され、1963年に黄色の笑顔マークを考案した。平和の象徴として世界中で流行し、バッジなど関連商品は爆発的に売れたが、商標登録をしなかったため、このマークで得た収入はデザイン料の45ドルだけだった”(大意) Aピース・マークには、もうひとつある。 平和のシンボルであるハトの、3本に分かれている足を円で囲んだデザインで、60年代から特にベトナム反戦の意をこめて使われ、反核運動にも用いられた。 日本ではあまり一般化していないが、1969年のウッドストック・フェスティバルあたりから急に広まったのではないかという印象がある。 B蛇足ながら、「ピース、ピース」といってXサインを突き出すしぐさは、1971年ごろに歌手でタレントの井上順がテレビで盛んにやりはじめたのが一般化したきっかけという説があるが、どうだろう。 |