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宮古なんだりかんだり  第6部

第 1 部 第 2 部 第 3 部 第4部 第5部 第7部

第 6 部  100話 + 投稿 5 + 資料 2
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黄金浜の龍神さま
まぼろしの歌碑
一番岩の跡
磯鶏のいわれ
移転していた句碑
われは海の子
藤原の防潮堤
オシンザン=御神山説
オシンザン=御新山説
墓道

鍬ヶ崎へ下る
自然歩道は甘くない
近くて遠いローソク岩
ローソク岩の不思議
善宝丸漂流記
漁火
真夏の塩辛
沖漬け
ポッポ煮
極めつけイカ話

白っ子汁
イサバ
さんまあれこれ
八幡さまの巨石
【投稿】 八幡の名水 * OCCO
神歌碑
恵比寿舞い
七五三
千歳飴、紅白の大福
浮島伝説
むかしは池が多かった

池イケゴーゴー
池は遊び場
大蛇伝説
夜の黒森に・・・
黒森の一本杉
和見の病院宿舎
宮古病院の変遷
【投稿】 鴨崎病棟 * けむぼー
【投稿】 宮古弁カルタ * うらら
山姥の糸巻き
チッキ
柿の秋

トンコロリン
頭に柿の木
アワビが開いた
ケーオス、ネリゲー
あずきばっとう
菓子パンあれこれ
朝はパン
さらば、国鉄色
前田機関士とC58283
デレンギ

杉の葉拾い
薪割り
又兵衛祭り
津軽石川原の看板
知られざる鮭祭り
腹子とイクラ
はらこ蕎麦
はらこ丼
まぐろ大漁
まぐろあれこれ

【資料】 宮古のまぐろ
ホシノダマ
ホッツの語源
デレッキ問題
【資料】 宮古でデレッキと言えば?
【投稿】 おとうちゃんとブームとストーブ
                  * ばっつ

【投稿】 たきぎのお風呂 * ばっつ
潮吹グランドホテル
浄土ヶ浜の坂
喜兵衛どんと古ぎつね
奇遇
赤沼山
臼木山の漁民住宅
黒い小石の浜

ウニ丼にホヤの刺身
ほやほやのホヤ
珍味ざんまい
感動のめふん
夢尽きず
佐々木仁朗歌集から
こがねや
黄金淵の伝説
ミヨシ食堂
怪盗ワセゴンの伝説

浄土ヶ浜の釜石と八戸穴
黒田町の四ツ角
黒田町の記憶
年取り魚
宮古一中の同窓会
「八幡の里通信」
一中が藤原にあった
まぼろしの第三中学校
オスラサマの話
津軽石

伊藤麟市さんの思い出話
コ  
黄金さんま
ホンダのカブ
酔ったぐれ
歳祝い
テレビ
船幽霊
エラゴを食う話
クスサン

「宮古なんだりかんだり」第6部100話

第1部〜第6部 全600話

第7部へ続く、べえが?
 




■ 黄金浜の龍神さま
 
 藤の川から磯鶏〔そけい〕へ戻った。
 八木沢川を渡り、上磯鶏の交差点を過ぎると、国道45号は熊野山神社のある山に沿って大きく右へカーブを描く。
 ホテル近江屋のほうまで行かず、そのまま山沿いに小道を入ったさきに老人福祉センターがある。
 磯鶏老人福祉センターあるいは宮古市老人福祉センターと呼ぶようだ。
 昔は黄金浜〔こがねはま〕会館だった。
 目の前に黄金浜、黄金ヶ浜があった。
 いまは茫漠と埋立地が広がる。
 老人福祉センターの玄関前の山ぎわに龍神碑がある。
 昭和50年代の国道改修工事のため、石崎地区から現在地へ移転された、と案内板にある。
 石崎鼻の国道沿いに石碑が並んだ一郭がある。
 この碑だけ黄金浜にある理由はわからない。
 碑の表の上部には海から昇る太陽が描かれている。
 碑の裏には、こういう文字があるらしい。
 ――ある年の十二月、磯鶏地引漁場の前須賀に一個の石が打ち上げられ、水夫一同これを見、龍神様の授かり物で目出度いと大変喜び、石崎にこの碑を設立、祭り祝った。
  願主宇都宮栄太、船頭三河安右ヱ門、磯鶏地引網中
  明治二十八年乙末十二月二十六日
 句読点などを補った。
 明治28年(1895年)は乙未の年で、乙末は間違い。
 前須賀は磯鶏浜。
 地引網漁ができるほどの奥行きがあった。
 黄金浜は小さな砂浜だった。
 まわりに大きな岩がごろごろしていた。
 岩は埋め立てに使われただろう。
 いまは平らに均〔なら〕され、草がぼうぼう生えている。
 埋めたてられなければ龍神さまも毎日海を眺めていられた。
 海が遠くなって龍神さまも悲しいだろう。
 
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■ まぼろしの歌碑
 
 陣屋崎と呼ばれるところが磯鶏〔そけい〕にある。
 その山上に駒井雅三の第一歌碑が建っている、と歌集「ふるさとの海」のあとがきに書いてある。
 インターネット上の駒井雅三 i.Net 記念館に載っている歌碑案内図には、こう書かれている。
 〈残念ながら現在足場が悪く歌碑を見る事は出来ません〉
 見られないとなると、なおさら行ってみたくなる。
 ところで陣屋崎――
 これは磯鶏のどこにあるのか?
 歌碑案内図というのは漠然とした略図で、正確な場所がわからないけれど、どうもホテル近江屋の南側の山らしい。
 2万5000分の1の地形図その他であたりを探した。
 陣屋崎の名はない。
 実際に行ってみた。
 近江屋の南側の山の上に登る道は見つからなかった。
 黄金浜の老人福祉センターの背後に、もうひとつ南の山がある。
 熊野山神社がある山だ。
 神社の境内までは山道をたどってみた。
 途中にも社殿のまわりにも歌碑らしいものは見当たらない。
 社殿のまわりは藪にはばまれ、さらに進む道らしいものもない。
 もう一本、弁天岩の近くから登る山道がある。
 こちらは途中まで雑草が払われて広い。
 登ってみると、雨にえぐられて陥没している箇所が多い。
 途中から、やはり鬱蒼と藪が迫る。
 ほぼ山上と思われるところまで登ったけれど、歌碑はついに見つからなかった。
 行けばわかるだろうという安易さが失敗のもと、と反省。
 とはいえ実際に見つからないと狐につままれた気にもなる。
 狐につままれたといえば、歌碑に刻まれているという歌も、考えてみれば妙だ。
  断崖の果てなくつづき蒼茫と
     暮れゆく海よ うみねこの声
 「磯鶏松原とわが歌碑」と題した歌群の首歌である。
 いい歌だ。
 ただ、どう見ても磯鶏浜を詠んだものではない。
 
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■ 一番岩の跡
 
 駒井雅三の第一歌碑の探索には失敗した。
 陣屋崎の特定もできなかった。
 この磯鶏浜の南端で確認しておきたいものが、もうひとつあった。
 一番岩の跡である。
 黄金浜の老人福祉センターから山裾に沿って北東へ歩いた。
 岩がごろごろしていたのが埋めたてられ、土の平地になり、雑草が生い茂っている。
 山の先が海に向かって突きだしていた岩場も平らになっている。
 岩場の北側が磯鶏の砂浜だった。
 岩場から数メートル離れた海に岩礁があった。
 この岩礁を一番岩とぼくは呼んでいた。
 いやいや、陸側の岩場のほうが一番岩だ、という話は第5部の「思い出の一番岩」に書いたので参照してほしい。
 藪をかきわけて防波堤に近づき、上に登った。
 ちょうどホテル近江屋の裏だ。
 振り返って見た。
 岩礁はもちろん見えない。
 海も見えない。
 海だったあたりには、おびただしい材木の山。
 藪と材木の山の向こうに月山が見える。
 一番岩が突きだしていた山と防波堤との接点を確認した。
 そうすることで、わずかに満足した。
 近江屋のあたりに、以前、対鏡閣という建物があったらしい。
 鍬ヶ崎の鏡岩のそばに建っていたのを移したものだ。
 歌碑の除幕式がここでおこなわれ、雅三はこんな歌を残している。
  磯鶏なる対鏡閣の大広間
  巨湫〔きょしゅう〕雅三〔がぞう〕の歌碑序幕さる
 巨湫は、松村巨湫という俳人。
 その碑が雅三の碑にならんで建立され、こんな句が刻まれた。
  沖の石や夏霧しぶく逢ひ別れ
 〈沖の石〉にぼくは、一番岩の尖端、荒波をかぶる岩礁のイメージをひそかに重ねあわせていた。
 
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■ 磯鶏のいわれ
 
 磯鶏〔そけい〕は難読地名のひとつだろう。
 重茂〔おもえ〕・女遊戸〔おなつぺ〕・磯鶏――
 知らないひとは、なかなか読めない。
 ソケイという独特の響きに似た地名に重茂半島の千鶏〔ちけい〕がある。
 磯鶏と千鶏は、なにか関係があるのだろうか。
 磯鶏の由来を探ってみた。
 近世以前は曾計比と書かれたらしい。
 とすると磯鶏は後世の当て字ということになる。
 これには伝説がまつわっている。
 垂仁天皇に是津〔これつ〕親王という息子がいた。
 親王は父の怒りにふれて宮古へ配流され、海に入って自殺した。
 遺体は磯に打ち上げられ、それを鶏が鳴いて知らせた。
 で、その磯のあたりを磯鶏と呼ぶようになった、と。
 角川書店の日本地名大辞典は、この説の典拠のひとつに「南部封域志」をあげている。
 「南部封域志」は江戸時代中期の宮古の漢学者で代官所役人だった高橋子績〔しせき〕の著作。
 いろいろ細かい詮索を抜きにしていえば、是津親王伝説は、どうも高橋子績の創作だったらしいふしがある。
 伝説には後日談がある。
 親王の遺体が流れ着いた磯を知らせたという鶏は、一夜のうちに千羽に増えた。
 その場所が、いまの千鶏だった、と。
 これは「奥南盛風記」という史料に載っているらしい。
 日本地名大辞典は、ソケイの由来として、浸食で削り落ちた地をいう削〔ソギ〕の転訛という説も紹介している。
 菅原進という人の「随想 アイヌ語地名考」は、是津親王伝説も削〔ソギ〕説も否定したうえで、アイヌ語説を述べている。
 ソケイのもとはアイヌ語のソ・ケ(so・ke)で、「磯岩・の所」という意味だ、と。
 磯岩の所というのは気に入った。
 宮古岩やら一番岩やら、近ごろ岩に執心している自分としてはアイヌ語説に一票を投じておきたい。
 
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■ 移転していた句碑
 
 「一番岩の跡」という文章で、松村巨湫〔きょしゅう〕という俳人の句碑について書いた。
 すると、けむぼーさんから連絡がきた。
 彼のホームページ「けむぼー温泉」のコンテンツのひとつに「みやごの写真・今昔編」がある。
 そこに巨湫の句碑の写真を載せてある、と。
 写真を見た。
 横長の、ちょっといびつな石の表面を削り、名前を入れて6行に文字が刻まれている。
  巨湫 沖の石や 夏霧 しぶく 逢ひ 別れ
 空白が改行部。
 なにか塗料をさしたのか字は青く見える。
 コンクリートの台、すぐ後ろに句碑より低いコンクリートの塀。
 その背景に小高い丘とホテル近江屋の建物。
 句碑は陣屋崎から埋立地の材木置き場へ移転していたらしい。
 松村巨湫は講談社の「日本近代文学大事典」にも出ている著名な俳人である。
 1895年(明治28)東京・浅草生まれ、1964年(昭和39)没、享年70。
 事典に磯鶏の句碑や宮古との関係については出ていない。
 なにか資料がないかと探したら、「月刊みやこわが町」の今年(2007年)の1月号に記事があった。
 タイトルに〈埋め立てと開発に追われた〉巨湫の句碑うんぬんの文字。
 記事によると、1954年(昭和29)に磯鶏の対鏡閣で開かれた句会に巨湫が招かれたらしい。
 そのとき巨湫が詠んだ句を刻んで、翌年に句碑が建立された。
 しかし、
 〈現在この碑は陣屋崎から移転し港湾の木材置き場の片隅に追いやられ(中略)残念ながら句碑には見えない〉
 81年(昭和56)には〈湾を望む岬の先端〉にあったという。
 移転した年月は書かれていない。
 巨湫の句碑と並んで建立された駒井雅三の歌碑がどうなったかについても触れられていない。
 
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■ われは海の子
 
 磯鶏海岸の南端から国道45号に立って藤原方面を見た。
 記憶の底にある光景がダブった。
 遠くつづく砂浜、打ち寄せる白い波。
 赤松の林のなか、一筋にのびる土の道。
 聞こえるのは潮騒、ひぐらしの声。
 小学校に入ったばかりの頃の記憶だろうか。
 その後、防潮堤ができ、国道が付け替えられ、松原が消え、砂浜と海が埋められた。
 国道沿い、文化会館の並木に昔の面影がわずかに感じられる。
 防潮堤の門へ行くと大きな看板が目に入る。
 〈関係者以外立入禁止〉
 宮古地方振興局土木部という県の出先機関が立てたものだ。
 〈荷役作業等に支障があり危険ですから、立ち入らないでください〉
 門の内側に磯鶏ひ門のプレートがある。
 〈ひ門〉の〈ひ〉は漢字だと樋だろうか。
 門の左右でプレートが違い、施工者や年月が違っている。
 南側〈製作年月 昭和63年3月 製作 北日本機械株式会社〉
 北側〈完成年月 平成元年3月 施工 株式会社長門建設〉
 昭和63年は1988年。
 平成元年は1989年。
 この1年のずれはなんだろう?
 国道沿いに戻ると石崎に平屋建ての三陸北部森林管理署がある。
 むかしは営林署と呼んでいた。
 建物は変わっていない。
 石崎鼻を越えて藤原へ。
 藤原保育所を見ておきたかった。
 位置も建物も、むかしと変わっていないような気がする。
 民家のあいだの細い道のさきに松林。
 松林のなかに保育所。
 そのまま砂浜へつづく細い道を駆けた。
 ――われは海の子 白波の 騒ぐ磯辺の松原に
 唱歌の詞そのものだった。
 町場の自分も夏のあいだ真っ黒に日焼けして海の子になった。
 
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■ 藤原の防潮堤
 
 閉伊川の河口へ行った。
 高い防潮堤が視界をさえぎっている。
 何箇所か口をあけている水門から川を見る。
 水門というより、樋門〔ひもん〕というのが正式らしい。
 コンクリートの足場がテラス状に川へ張りだしている。
 対岸に築地の岸壁、繋留された船、防潮堤。
 東に魚市場やシートピアなあどのある出崎埠頭。
 西に宮古大橋。
 空にはウミネコの乱舞――
 この閉伊川河口の防潮堤は、いつできたのだろう?
 小学生のとき図工の授業かなにかできて写生をした。
 造船所で修理中の大きな漁船を描いた。
 川から延びたレール、架台に載った漁船の大きな後ろ姿。
 あのとき、まだ防潮堤はなかった。
 プレートを探したら、宮古大橋に近い水門わきに掲げてあった。
 〈チリ地震津波対策事業〉
 とある。
 着工は昭和39年10月、完成は昭和42年3月。
 チリ地震津波は1960年(昭和35)5月に起きた。
 それから4年後の1964年に着工し、1967年までの足かけ4年かかったことになる。
 工事の始まったときが小学4年生。
 終わったときが6年生。
 すると、写生にきたのは4年生か、そのまえか。
 すでに工事が始まっていたとしても、造船所のあたりはまだ手つかずだったということも考えられる。
 防潮堤に打ち込まれたプレートの写真を撮っていた。
 横にひとりの女の子がやってきた。
 宮古の生まれで札幌教育大の学生だという。
 卒論で津波をとりあげるらしい。
 少し話して、ぼくは宮古大橋に足を向けた。
 防潮堤をまえに記念写真でも撮ってあげればよかった。
 
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■ オシンザン=御神山説
 
 横町のオシンザンへ行った。
 谷口薬店の一軒先の路地を入る。
 民家のあいだからオシンザンへ登る道はない。
 土や岩の斜面だった神社の下は護岸され、高台はフェンスで囲まれている。
 横町の通りへもどり、公証役場のところの路地を入った。
 奥の石段を神社の建つ高台へ登る。
 東側に羽黒神社、西側に石崎神社。
 神社の裏側は赤土の急な登り斜面。
 段ボールが落ちている。
 子どもが滑り降りて遊んだのだろう。
 登り斜面のすぐ上は藪。
 鉈〔なた〕で伐りはらいながら本格的な藪漕ぎをするつもりでもなければ容易には踏み込めない。
 通りへもどり、もう一本東側の路地を入った。
 左手の奥にアパートの深山荘が2棟。
 その手前に民家が1軒。
 この3棟の建っている場所が、かつてのシンザン遊園地だ。
 神社に登る石段は遊園地の西奥にあった。
 ちょうど近くの民家からお年寄りが出てきたので聞いてみた。
 ――ここはHさんという個人の所有地で、空き地だったのを市にゆだねて子どもの遊び場にしていた。
 それがだいぶ前に市から返されてアパートを建てた。
 シンザンという字は神の山、神山と書く。
 シンザン神社という神社はない。
 あったのがなくなったのではなくて、もとからなかった。
 石崎神社は小学校の横にあったのが昭和5年に移ってきた云々
 急いでいたらしく、早口に教えてくれたのはこんな内容だった。
 シンザン遊園地は公園とも呼んで正式な名前はなかったらしい。
 いつなくなったかは聞き漏らした。
 シンザンは神山と書く、シンザン神社はない――
 これもひとつの説だ。
 事実かどうかはわからない。
 
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■ オシンザン=御新山説
 
 オシンザンに行った日、末広町のブックスかんので本を買った。
 鬼山親芳さんの新著「評伝 小国露堂」(熊谷印刷出版部)だ。
 小国露堂は宮古生まれの新聞人。
 北海道で石川啄木に社会主義を説いた男として知られる。
 本には露堂の宮古での動静が詳しく描かれている。
 第1章にはオシンザンのことが出ていて、その偶然に驚いた。
 ――露堂は小国家に養子に入った人だった。
 生家の姓を田代という。
 田代家の先祖は宮古の北にある田代村で羽黒山系の修験者・山伏として暮らしをたてていた。
 江戸時代に宮古村へ移り、横町の裏山に社堂を開いた。
 宮古を一望するこの小高い丘には、いま、3つの社〔やしろ〕が置かれ、それぞれ資産家の氏神が祀られている。
 田代家の氏神は見当たらないが、土地の人の話によると、そのひとつの社のわきに、かつて小さな祠〔ほこら〕があった。
 おそらく、その祠が田代家の社堂の名残りだろう。
 この丘は新山と呼ばれ、かつて新山神社があった。
 民俗宗教学者の宮家準が作成した資料「宮古の社堂と別当の変遷」によると、江戸時代中期から後期にかけて、宮古には羽黒山系の修験善龍院が羽黒新山社・新山権現という名の社堂をまつっていた。
 この社堂は明治3年に出羽神社となり、田代家が神職をつとめていた、という。
 小さな祠があった場所から、少し前までは、狭い山道が木漏れ日の雑木林を縫って稜線へといたり、黒森神社のいただきに出た。
 いまは荒れて獣道のように埋もれてしまった。
 そのむかしは黒森神社を経て田老へ出る早道だった云々
 以上が「評伝 小国露堂」からの雑な要約。
 著者の鬼山さんは「オシンザン=御新山」説である。
 神山という人もあれば、深山という人もある。
 シンザン神社も、ある・ない・今はない、の諸説が揃った。
 なかなか事実はわからない。
 オシンザンの藪は深い。
 
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■ 墓道
 
 常安寺の坂を登った。
 火葬場の手前で東へ折れ、お墓のあいだの道に入った。
 墓道〔はかみち〕は、すぐ急勾配になる。
 登りきると愛宕中学校の正門前に出る。
 霧のような雨が降りだした。
 涼しくていいけれど暗い。
 ただでさえ暗い木の下道は足もとがおぼつかない。
 しかし、この墓道が、こんなに急だったとは――
 最初に登ったのは、たしか小学校4年のころだ。
 両親と3人、当時まだ造成中だった中里団地を見にいった。
 亡き父も、母も、あたりまえのことに若かった。
 それからひとりで何回か登った。
 あまりきついとは思わなかった。
 今回のきつさはどうしたというのだろう。
 愛宕中学校は正門を残して更地のままだった。
 変わったといえば携帯電話の電波塔が建っているくらい。
 南わきの道を鍬ヶ崎方面へ向かう。
 舗装路のなんと歩きやすいことか。
 つきあたりの草地に官軍勇士墓碑へ行く案内板がある。
 林のなかの小径を200メートルほどたどる。
 ここは公葬地らしい。
 位置的には愛宕小学校の裏山にあたる。
 墓碑のかたわらに宮古市指定文化財と記した標柱が建っている。
 墓碑を説明した石板も並んでいる。
 むかし宮古港で海戦があった。
 旧暦の明治2年3月25日、新暦でいえば1869年5月6日の早朝、官軍と幕軍の軍艦が戦い、官軍が勝った。
 日本初の近代海戦として知られる。
 多くの死傷者が出た。
 官軍勇士墓碑には4人の名が刻まれている。
 前日に歩いた藤原の観音堂には幕軍無名戦士の墓があった。
 何枚か写真をとると林のなかの道をもどった。
 
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■ 鍬ヶ崎へ下る
 
 中里団地から鍬ヶ崎へ下った。
 梅翁寺に出て国道45号を渡り、測候所わきをおりて鍬ヶ崎小学校前へ。
 標高差は100メートルくらいだろうか。
 測候所の標高は42・5メートルとホームページに出ている。
 途中、測候所ちかくの車道の路肩が崩落して、シートをかぶせた箇所があった。
 深い崖の下には民家が建ち並んでいる。
 金勢社へまわった。
 地元ではコーセーサマと呼ぶ。
 津波のときは、コーセーサマわきの急な山道を、測候所の建つタデヤマ(館山)頂上まで駆けのぼるそうだ。
 オグマンサマと呼ばれる熊野神社へも行った。
 オグマンサマは御熊野サマの変化だろう。
 奥宮サマのなまりだという説も聞いたことがあるけれど、これはどうも腑に落ちない。
 オグマンサマのある熊野町はオグマンチョウとも呼ばれる。
 熊野神社のとなりの広場、鍬ヶ崎児童遊園にある暦応の碑を見た。
 暦応3年、1340年に建てられた市内最古の石碑だという。
 鍬ヶ崎小学校のまわりには見たいものがたくさんある。
 銘酒男山で知られる菱屋酒造も見にいった。
 宮古唯一の蔵元で、地元ではヒッサァと呼ばれる。
 1852年(嘉永5)創業というから155年の歴史をもつ。
 板壁の古い建物は、いつごろのものだろう。
 心公院の坂道を登って蛸の浜へ行った。
 坂を登りきったさきに広がる風景がいい。
 三角形の砂子島〔さごじま〕、その向こうに日出島、太平洋――
 小雨にけぶって視界は悪かった。
 日和見台から足もとの浜を見渡したけれど人影もない。
 蛸の浜探検は天気がよくて泳げる日にすることにしよう。
 そう決めて踵〔きびす〕を返すと、心公院の墓道を大沢海岸へ向かった。
 
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■ 自然歩道は甘くない
 
 浄土ヶ浜から姉ヶ崎まで自然歩道が延びている。
 資料によると距離は片道約8・5キロ。
 このうち、蛸の浜から潮吹穴までは5・5キロ、往復11キロ。
 途中に大沢海岸やローソク岩がある。
 休憩をふくめて4時間の散策が楽しめそうだ、と思った。
 甘かった。
 法事があったらしく、心公院わきの墓道を喪服の人たちがぞろぞろ歩いている。
 そのあとをついていく。
 お墓のあいだに道が何本も延びている。
 自然歩道を示す標識のまえでウロウロしていた。
 ちょっと離れたお墓のそばから、喪服のおじいさんが、しきりに指さして道を教えてくれる。
 「この道ですね?」
 こちらも身振りで確認し、かるく会釈して教えられた道を行く。
 墓道を抜けて林へ入ると一本道で迷いようがない。
 ほぼ海岸線に沿った、断崖をおおう樹林のなかの小径だった。
 展望はきかない。
 きついアップダウンや蛇行をくりかえす。
 急坂を這いつくばって登り、笑いだしそうな膝をおさえて下る。
 降ったり止んだりの小雨を樹木が少しは防いでくれる。
 それでも傘をささないと濡れる。
 足もとは滑りやすい。
 途中に蛸の浜展望台があった。
 見おろす海は底まで透きとおっていて気持ちが癒される。
 どうにか大沢海岸までたどりついた。
 津波防潮堤の門の下で雨宿り。
 壁に寄りかかり、立ったままゴマ餅を腹におさめる。
 雨にけぶる海をぼんやり眺めた。
 連日歩きづめの足が「山道はもういやだ」と悲鳴をあげている。
 戻ろうと決めた。
 自然歩道ではなく、平坦な車道を。
 
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■ 近くて遠いローソク岩
 
 蛸の浜から潮吹穴をめざして自然歩道を歩いた。
 となりの大沢海岸まで行ったところで挫折し、車道を引き返した。
 情けない。
 ローソク岩を見なかったことも無念きわまりない。
 あの壮大な岩柱、あの見事な屹立を目のあたりにしたいと思っていた。
 なのに、大沢海岸にたどりついたときにはすっぽり忘れていた。
 ――ローソク岩は浄土ヶ浜の北、大沢海岸に突き出た巨大な岩です。
 高さ40メートル、幅は上部で7メートル、下部で3メートル。
 火成岩が周囲の水成岩を突き破って形成され、岩脈部が露出しているため全体が見られる珍しいものです。
 1939年(昭和14)9月7日に国の天然記念物に指定されました。 
 陸からは近づくことができません。
 浄土ヶ浜島めぐり観光船に乗船してご覧ください云々
 これは市役所の観光課による解説である。
 観光船からは何度か見ている。
 浄土ヶ浜からも見える。
 ただ、浄土ヶ浜から遠望すると、背後の断崖にまぎれ、雄々しくそそりたつイメージが薄れてしまう。
 それに、くすんで見える。
 そばから見ると白くローソクのように輝いて見えるそうだ。
 光の加減なのかもしれない。
 文化庁の国指定文化財等データベースを見た。
 登録名称は〈崎山の蝋燭岩〉。
 ローソクが漢字になっている。
 解説文は片仮名で書かれている。
 ――角閃〔かくせん〕安山岩ノ岩脈ナリ。
 高サ四〇メートル・幅七メートルノ一大岩壁ヲナシテ海岸ニ屹立シ、横ニ柱状節理発逹ス。
 岩脈トシテ代表的ノモノナリ。
 白く輝いて見えるとすれば、きっと角閃安山岩という火成岩にふくまれた結晶が光を反射しているにちがいない。
 
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■ ローソク岩の不思議
 
 崎山のローソク岩は不思議だ。
 こんなことは誰も言わないが、ぼくはそう思っている。
 全国にローソク岩と名のつく岩は数々あれど、国の天然記念物に指定されているのは、崎山のローソク岩だけだ。
 国が日本一のローソク岩と認めている。
 なのに、あまり話題にのぼらない。
 近くにある潮吹穴はよく話題になる。
 この違いはなぜだろう?
 〈崎山の蝋燭岩〉の名称で天然記念物に登録されている。
 所在地は崎鍬ヶ崎第12地割1番と市役所のホームページに出ている。
 なぜ〈崎鍬ヶ崎のローソク岩〉ではないのだろう?
 崎鍬ヶ崎と崎山とをとりちがえてしまったのだろうか?
 ついでにいえば、潮吹穴も崎鍬ヶ崎にあるのに〈崎山の潮吹穴〉の名でローソク岩と同時に国の天然記念物に指定されている。
 そもそもローソク岩とは誰が名づけたのだろう?
 浄土ヶ浜の名づけ親は常安寺の霊鏡和尚といわれる。
 浄土ヶ浜から見えるローソク岩の名づけ親も霊鏡和尚かとも思うがどうだろう?
 ローソク岩をみると、ぼくは金勢さまを思い浮かべてしまう。
 雄々しく屹立した姿は立派な男根岩である。
 そばに潮吹穴があって、その自然の配合の妙に驚くのである。
 しかし宮古人は奥ゆかしい。
 潮吹穴とローソク岩をならべて不謹慎な連想を口にすることなどはない。
 高さ40メートルもの巨大な岩の柱は、火成岩が周囲の水成岩を突き破ってできたそうだ。
 できたのは1億年前ともいわれる。
 幅は上部7メートル・下部3メートル。
 上が太い不安定な姿で1億年前から立っている。
 これも不思議だ。
 不思議というより驚異といっていい。
 
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■ 善宝丸漂流記
 
 昔むかし、江戸時代のことです。
 琉球の多良間島にある高穴という海べを、ずぶ濡れで、ふらふら歩いている7人の男たちがいました。
 「いったいどうしたんだ?
 こんなに濡れて……」
 思わず声をかけたのは百姓の恵治です。
 やせ衰えた男たちは、震えながら、聞いたことのない言葉をかわすばかり。
 恵治は、焚き木を集め、火を燃やし、お湯を沸かしました。
 「なんにも心配することはねえ。
 番所に連れてってやる」
 番所へ連れてゆかれた男たちは、そこにかけられていた布に寿や福という字をみつけて喜びました。
 見慣れた、しかも縁起のいい文字に希望をみいだしたのです。
 番所には通訳の役人がいました。
 そこが日本の南の果ての琉球だということもわかりました。
 安政5年(1858年)11月11日、7人が乗り組んだ、みちのく宮古の商船善宝丸は、相州(神奈川県)浦賀から北へ帰る途中、台風にあい、帆柱が折れ、流されてしまいました。
 南へ流されつづけた善宝丸は、76日もたった翌年1月24日の夜になって、多良間島の珊瑚礁に乗りあげました。
 朝を待ち、男たちは冬の海を必死に泳いで島へ上陸したのです。
 船頭の善兵衛は、恵治の手をとり、深ぶかと頭をさげました。
 「言葉がわからなくて、どんな目にあうかと怖れていました。
 あなたは命の恩人です」
 多良間の人たちは、税として納める粟の粥、役人の許しがなければ食べられなかった鶏や子豚の料理でもてなし、島民には禁じられていたアダンの葉でつくった草履を履かせました。
 善兵衛たちが遠いふるさとをめざして出発する日がきました。
 島に着いて53日が過ぎた3月17日のことです。
 船が岸を離れました。
 多良間の人たちに受けた温かいもてなしに涙しながら、7人はいつまでも手をふりつづけました。
 見送る島の人たちも船旅の無事を祈って手をあわせていました。
 
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■ 漁火
 
 浄土ヶ浜の岬から漁火〔いさりび〕を見た。
 小学生、中学生のころである。
 暗くなるまえに自転車で坂を登り、展望台を巡った。
 とっぷり日が暮れて、剣山の向こうの海に無数の火がともりはじめる。
 あの美しさは忘れられない。
 「聞き書 岩手の食事」(農文協)という本に、するめを使った料理がいくつか載っている。
 その冒頭におかれた文章に心ひかれた。
 2、30年前の、重茂〔おもえ〕か鍬ヶ崎、あるいは山田あたりの漁港風景である。
 おおよそを引用する。
 ――夏の夜の漁火は見慣れている浜の人でも美しいと思う。
 するめかけの舟が夜通しともすランプの明かりだ。
 夕方、さっぱに乗って漁に出る。
 漁が多くて満杯になると、いったん浜へ帰り、また出てゆく。
 そして、夜明けまえに、また満船になって帰ってくる。
 とうさんや息子が釣ってきたするめを、かかさんや娘たちが、もっこに移して売りに出る。
 「するめぇー、するめぇあー、よごぜんすかぁー」
 早朝の通りに、かん高い声がひびく。
 漁師の家も、そうでない家も、朝食は毎日のようにするめの刺身だ。
 とりたてのするめは、ぴかぴかと、べっこう色に輝いている。
 吸盤が手にくっついて、なかなか離れない。
 さっそく身を割って刺身をつくる。
 活きのいい刺身は青白く透きとおっている。
 のどに心地よく冷たい。
 つるつると、どんぶり一杯も食べられる云々
 〈するめかけ〉は烏賊釣り、〈さっぱ〉は小舟、〈もっこ〉は背負い籠のことである。
 
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■ 真夏の塩辛
 
 活きのいいスルメが手に入ったので毎日のように刺身にする。
 夏のイカ刺しはうまい。
 箸が進む。
 イカ刺しをつくるときは必ず塩辛をつくる。
 キリゴミ(切り込み)と呼んだり、ソッカラ、ソガラとなまったりもする塩辛だが、真夏は文字どおりその塩辛さがたまらない。
 熱中症対策に水分の補給を心がける人は多い。
 汗で失われる塩分もしっかりとらないといけない。
 この夏の猛暑には、もっぱら塩辛で塩分をおぎなっている。
 イカの足をつかみ、胴のなかに指をいれて内臓をはずす。
 軟骨もとる。
 ケンパ(剣波? 耳)をもって引きさげると皮が一筋むける。
 残った皮のめくれを指で起こし一気にくるりとはぐ。
 包丁をいれて胴を割り、まず刺身をつくる。
 形のそろわない端っこなどは塩辛用に分けておく。
 塩辛の主体はケンパと足だ。
 目玉を指でえぐるように引っこぬき、足の吸盤をざっとしごく。
 カラストンビ(口)の殻をとる。
 足とケンパを適当に切り分け、瓶に突っこむ。
 内臓から墨袋、ぷよぷよした部分などをとって捨てる。
 袋を慎重に指で裂いてワタ(肝臓)をとりだし、潰しながら瓶に入れる。
 塩を適当に入れ、箸で掻きまわす。
 舐めて塩加減をみる。
 辛ければ辛いなりに、甘ければ甘いなりにうまい。
 ほんとうは、キモ和えとしてすぐ食べるなら塩は少なめに、熟成させるなら多めにいれる。
 適度に時間をかけて醗酵させたほうがうまいだろう。
 切り分けたあと数時間、風にあてて水気を飛ばすといい。
 自分の場合、つくりはじめてなくなるまでに数時間。
 毎日のようにつくっては食べてをくりかえす。
 
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■ 沖漬け
 
 イカの刺身をつくりすぎて万一あまったらどうするか。
 いちばん簡単なのは塩辛に混ぜる。
 つぎは漬〔づ〕け。
 タレに漬けておき、翌日、イカ丼にして食べる。
 タレは醤油・酒・下ろし生姜。
 味醂・砂糖は使わない。
 朝に食べるイカ丼は最高である。
 漬けといえば、いちど食べてみたいと思っているのにスルメの沖漬けがある。
 これは漁師料理だ。
 沖で釣ったイカを船の上ですぐタレに漬けこむ。
 漁師それぞれに秘伝のタレがあるといい、こまかいところはわからない。
 ベースはやはり醤油。
 酒で割り、おろし生姜を入れる。
 酒のかわりに焼酎の場合もあるらしい。
 生姜はなければなくていい。
 イカを釣り上げる。
 すると勢いよく水を吐く。
 まだ透明なイカだ。
 すぐタレの入った甕(かめ)に放りこんで蓋をする。
 大きなイカより小ぶりのイカのほうがいい。
 水を吐いたイカがたちまちタレを吸う。
 内臓にまで行きわたって、いい味になる。
 墨は吐かせたり吐かせなかったり。
 墨がタレにまじれば、それもまたうまい。
 売り物ではない。
 船上で食べ、家に持ち帰っておかずにし、酒のさかなにする。
 だから大量にはつくらない。
 というより、つくれない。
 漁の最中はイカを釣るのに忙しい。
 タレに放りこむだけとはいえ何度もやっている暇はない――
 こんな話を聞く。
 聞くと食べてみたくなる。
 
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■ ポッポ煮
 
 こんな話を聞いた。
 ――沖漬けと並ぶ漁師料理にポッポ煮がある。
 至ってシンプルでイカを鍋で煮るだけだ。
 とったばかりの小ぶりのイカを使う。
 鍋にそのまま放りこむ。
 ひとつまみ塩をふる。
 火にかける。
 水分はイカから出る。
 要は塩を入れすぎない、煮すぎない。
 海水を使うこともある。
 これは塩茹で、潮炊き。
 醤油味もいい。
 醤油と酒だけで味をつける。
 味醂や砂糖は使わない云々
 この単純なポッポ煮から変化形が生まれる。
 つまり、さまざまに手を加えてゆくわけだ。
 中身をはずし、軟骨や目玉、墨袋、カラストンビの殻(クチバシ)をとって食べやすくする。
 腑と足を胴にもどして爪楊枝で裾をとめる。
 ありあわせの野菜をいっしょに煮る。
 腑と足を胴のなかにもどすとき、ニンジンの細切りなどを加える等々。
 手間ひまをかけるほどに漁師料理の野趣は失われる。
 家庭料理になる。
 煮炊きしたイカはちょっと苦手だから家でつくろうとは思わない。
 けれど、釣ったばかりの小イカをその場で炊いたポッポ煮ならうまそうだ。
 ポッポ煮はポウポウ煮、ポーポー煮などとも言う。
 語源はなんだろう。
 煮えたつさまの形容だろうか。
 駒井雅三にこんな歌がある。
  めのこ刻み山菜をまぜ飯を炊き
       するめぽうぽう煮てともに食ぶ
 めのこはホソメコンブ、あるいはコンブを細く切ったものを言う。
 
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■ 極めつけイカ話
 
 「イカの塩辛があんなら味噌漬げもあっていいがね」
 そう言ったらAさんが答えた。
 「味噌辛〔みそから〕があっぺぇ」
 へぇーと思って作り方を聞いた。
 「塩辛ど違うのは腑(肝臓)をいれねぇどごだぁな」
 ――まず塩辛と同じようにイカの身をさばく。
 細切りにした身と同じ量の味噌を混ぜこむ。
 吸盤が舌にさわるので足はいれない。
 冷蔵庫で熟成させる。
 毎日味見する。
 毎日味が変わる。
 これが楽しい。
 味噌の量や種類を変える。
 砂糖・みりん・酒などの調味料をたしてみる。
 そうして好みの味をさがす。
 塩辛より保存がきかないから1週間で食べきること。
 「腑がもってぇねぇがね」
 「そんどぎは腑味噌にすんのす」
 ――鍋に腑と味噌をいれ、焦がさないよう、混ぜながら煮る。
 食べやすい大きさに切った足を加えてもいい。
 ホタテの貝殻で焼けば野趣がでる。
 これを熱いご飯にのせて食べる。
 コクがあって酒のさかなにももってこいだ。
 「たぁだ、イガの腑なら、もっといい使い方があっともね」
 「へぇ?
 どうすんのえ?」
 「塩辛だぁでば」
 「なに言ってんだぁべ。
 あだりめぇだがすか」
 「いやいや、塩辛の極めつけだぁでば」
 ――身はいっさい使わない。
 袋からとりだした新鮮な腑を器にいれて塩をし、熟成させる。
 これを熱々のご飯にのせる。
 「イガの腑だげの塩辛がいづばんす、ほにほに」
 
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■ 白っ子汁
 
 「聞き書 岩手の食事」(農文協)に、するめの白っ子汁というのが載っている。
 ――するめを裂いて干しするめに加工するとき大量に腑わたや白っ子が残る。
 この白っ子を、豆腐とネギをいれた醤油味の汁に加えて一煮立ちさせる。
 それだけで、あっさりしているのに、だしのよくきいた白っ子汁ができる、と。
 ついで、こう書かれている。
 ――するめの白っ子は小さくて1寸くらい。
 だから、4、5人家族の場合、人数分の吸いものにするには少なくとも20杯から30杯のするめがいる。
 それだけに、ほんとうの五十集屋(漁家)でなくてはできない料理だ、と。
 (以下は、ぼくの戯文なので読み飛ばしてください)
 これを読んで、なるほど、ほんとうに白っ子汁はイカ集め屋でなければできない料理だなと思った。
 ん?
 イカ集め屋とはなんだ?
 五十集屋のことである。
 五十集屋はふつう、イサバヤと読む。
 ただ、少しひねった読み方もできる。
 五十は、イソとか、イカとも読む。
 イソと読む例には五十路=イソジ(50歳)がある。
 イカと読むのは、五十嵐という姓や、栃木県の日光に五十里=イカリという地名があることなどからもわかる。
 五十をイカと読むなら、五十集屋はイカアツメヤと読める。
 だから、白っ子汁は五十集屋でなくてはできない料理だという文章に、なるほど、とうなずいたのだ。
 ふつうイサバヤと読んでいる五十集屋の語源も、ひょっとしたら、このイカアツメ=烏賊集めなのではないだろうか、とさえ思ったのだけれど、これはちょっと無理があるか……
 
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■ イサバ
 
 五十集〔いさば〕の語源は、磯場だろうと勝手に思っていた。
 調べてみたら、どうも、そんなに単純な話ではないようだ。
 全国共通語で、とくに宮古弁というわけではないから坂口忠さんの「宮古のことば2」には出ていない。
 三省堂の「大辞林」にはこうある。
 (1)魚を売買する店。また、魚市場や海産物を扱う商人。
 (2)は略。
 近世語と注記され、江戸時代に生まれたことばだったとわかる。
 語源にはふれていない。
 盛岡の書店で手にいれた本堂寛「岩手方言の語源」(熊谷印刷出版部)という本には、要点だけ引くとこう書かれている。
 イサ・イサナは鯨から小魚までをさし、場や屋がついて、いろいろな魚を売る店という意味のイサバ・イサバヤが生まれた云々。
 ためしに「大辞林」で調べてみた。
 イサは鯨の古い名。
 イサナともいい、鯨魚・勇魚とも書く。
 イサナは、小魚・細小魚と書けば、小さな魚、こざかなをさす。
 小魚のイサは、イササカ(些か)のイサではないか、とある。
 ナは魚。
 鯨は哺乳類だけれど昔は魚とみなされていた。
 もともと別のことばだったのに、イサナといえば鯨から小魚まで、つまりは魚すべてを意味するようになったらしい。
 ――辞書を眺めているうちに、イサで始まる身近なことばを見出した。
 漁火〔いさりび〕だ。
 イサリは、名詞で漁〔りょう〕。
 動詞イサルには漁をするという意味がある。
 漁り船、漁り小舟〔おぶね〕ということばもある。
 イサバ=磯場説は捨てがたいものの、あれこれ考えているうちに、イサバは、この漁り場・イサリバの略語ではないかと思いはじめた。
 しかし、もしそうだとしても、ではなぜ五十集という漢字があてられたのか?
 これはわからない。
 謎である。
 
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■ さんまあれこれ
 
 新鮮で脂ののったさんまが出まわっている。
 塩焼きがうまい。
 ただ、あまり脂が多すぎると何匹も食べられなくて困る。
 刺身なら脂が多くてもだいじょうぶだ。
 とろりとして、いくらでも食べられそうな気がする。
 「さんまの刺身を食うずぅど、クルミ味がすんがねぇ」
 と言った人がいた。
 なるほど、ちょっと似ている。
 もっとも、クルミ味がするとは、最高にうまいという意味の宮古弁的表現だから、味が似ているという直接的な意味で言ったのではないかもしれない。
 むかしは、さんまの刺身を食べなかった。
 刺身で食べるようになったのは、ここ10年ほどのことのような気がする。
 保冷技術などの進歩で新鮮なさんまが出まわるようになったからにちがいない。
 子どものころよく食べたのは、みりん干しである。
 タレに漬けた開きを天日干ししている光景もよく見かけた。
 みりん干しは焼けやすい。
 すぐに焼けて手間ひまがかからなくていい。
 かたや焦がしすぎてカリカリになることもあって気が抜けない。
 上京してからは、さんまの蒲焼のお世話になった。
 水煮缶も食べたけれど蒲焼も缶詰である。
 いろいろ出ているなかで、ちょうした印がいちばんうまかった。
 ちょうした――
 銚子にある田原缶詰という会社の製品だ。
 きこきこ缶切りで開け、そのままコンロにかける。
 ぐつぐつ煮えたち、いい匂いが四畳半にただよう。
 どんぶり飯にがばりとぶちあけて食べる。
 うなぎの蒲焼なんか目じゃないと思った。
 そういえば最近さんまの蒲焼を食べていない。
 こんどは自分でつくってみようか。
 
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■ 八幡さまの巨石
 
 7月の末に、八幡さま、横山八幡宮へ行った。
 御手水石〔おちょうずいし〕や神歌碑を見た。
 見聞記を書こうとして、手もとに届いた「みやこわが町」8月号をひょいと覗いた。
 すると、「宝暦ルネッサンス」という特集のなかに御手水石も神歌碑もとりあげられている。
 気勢をそがれてそのままにしておいた。
 でも、やはり印象の鮮明なうちに書いておこうと思いなおした。
 御手水石は社務所の横、鳥居下の南側にある。
 大きな石だ。
 案内板には、御手水石ではなく、大手水石とある。
 この大きな石は、都合よく元から今の場所にあったわけではない。
 運んできたのだ。
 石のあった場所は黒田村の山奥だったという。
 案内板の説明を、ちょっと読みやすくして紹介しよう。
 1808年(文化5)、藤原の古舘卯右衛門が神恩に感謝するために願主となって宮古村周辺の村々に呼びかけ、黒田の山奥から、3年がかり、延べ約1万人の人力をかけて運んできた。
 その後、1906年(明治39)に子孫の古舘熊之助や氏子総代らによって加工・彫刻がほどこされ、奉納された。
 寸法は長さ4×幅2・3×高さ3メートル――
 実際は、そんなにあるかな、という気がしないでもない。
 加工されて小さくなったのだろうか。
 重量は書かれていない。
 石の重さは体積×比重2・75だそうだ。
 仮に案内板の数字をあてはめて計算してみると約76トンになる。
 まるみのある分を差し引いて7掛けすると53トン。
 切りよく50トンとしても、こんな重い大石を、200年前に、黒田の山奥からよく引いてきたものだ。
 黒田の山奥というのは、もう少し細かくいうとどこだろう。
 御深山〔おしんざん〕の奥、小沢〔こざわ〕の奥だろうか。
 3年がかり、延べ1万人の人力で、というけれど、いったい、どんな方法、どんなルートで運んできたものだろう。
 あまり注目されることのない八幡さまの御手水石、じつは想像を刺激する巨石なのである。
 
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八幡の名水   OCCO * 投稿
 
 八幡さまの社務所手前に手洗い場があります。
 御手水石〔おちょうずいし〕という名前は、この歳になって初めて知りました。
 ここの水はかつて「八幡の名水」としてもてはやされていたそうです。
 いまは立派な屋根がついて、その水がポンプで汲みあげられ、いつもこんこんと湛えられていますが、名水伝説はいつどこに行ってしまったのでしょう。
 私が子どもの頃は、井戸がガッチャンポンプだったので、御手水石には、お祭りと大晦日しか水が張られませんでした。
 ここの軒先は近所の水汲みおっぱやんたちの井戸端会議の場所でした。
 また八幡のわらすがどうの船ごっこやままごとのかっこうの場所でもありました。
 古い資料を見ると屋根はなく、御手水石がぽつんとあったようです。
 小学校のときだったか、台風で大荒れの夜、ど〜んという大きな音で目が覚めた記憶があります。
 朝になり、外に出ると、屋根がぺしゃんこになっていました。
 柱が重たい屋根を支えきれなかったのでしょう。
 現在の立派な屋根は、そのときに修復されたもの。
 帰るたびに思い出してしまいます。
 八幡さまの参道沿いの風景で変わらないのは御手水石と灯籠、狛犬、碑。
 あとはまったく残っていません。
 ふもとの鳥居から眺めていると、半世紀前のなくなってしまった風景が、ついこの間のように思い出されるのです。 
 
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■ 神歌碑
 
 横山八幡宮にある御手水石の銘文は駒井常爾〔こまい・じょうじ〕(1742〜1814)の書だという。
 この人物についてはすでに「宮古なんだりかんだり」第3部の「宮古ゆかりの書画家、駒井常爾」や第4部の「駒井常爾ふたたび」などで書いた。
 江戸時代に、鍬ヶ崎で造り酒屋をいとなんで成功した近江商人で、書家・画家でもあった。
 八幡さまの境内にある神歌碑も、常爾が碑文を書いて、みずから建立したといわれる。
 神歌碑は本殿から石段を南へ下る途中にある。
 神輿庫より下、境内社の金刀比羅神社や赤錆びた古い錨〔いかり〕が鎖で巻かれた杉の大木の上のところだ。
 畳1枚ほどの大きな碑が台座に載っている。
 碑面の右に〈横山八幡宮舊祠處〉とある。
 舊は旧の正字体。
 處も処の正字体だが、実際はさらにその異体字が使われている。(パソコンでは出ない)
 八幡さまの祠〔ほこら〕はむかし、碑のあるあたりに建っていたらしい。
 碑面の中央上部に〈神歌〉と刻まれ、その下に、4行に分けて漢字・万葉仮名・旧仮名まじりの歌が刻まれている。
  山畠尓作久り
  あらし乃ゑのこ草
  阿は能なると者
  堂れかいふら無
 現代仮名遣いに変え、五七五七七に区切りなおして書くと、こうなる。
  山畠に つくりあらしの えのこ草
      あわのなるとは だれかいうらん
 この歌をどう解釈したらいいのか、ぼくにはよくわからない。
 社務所にいた人に聞いてみたら、
 「謎の神歌です」
 と言っていた。
 意味はさておき、この神歌が宮古という地名の発祥伝説にまつわることは知られている。
 「横山八幡宮由緒略記」によれば、神歌碑を駒井常爾が建立したのは、文化7年(1810年)のことだという。
 死の4年前だが、大きな碑は常爾の財力を物語っているようである。
 
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■ 恵比寿舞い
 
 八幡さま(横山八幡宮)の社務所の向かい、鳥居の北側に参集殿がある。
 参集殿では黒森神楽の奉納などがおこなわれるはずだ。
 社務所に寄って、お神楽のことを聞いた。
 すると、八幡さまではないけれど、鍬ヶ崎の大杉神社への奉納がその日にあるという。
 ちょうど夏祭りだった。
 宮古湾の海上渡御を終えた神輿が出崎埠頭の魚市場へ入る。
 そのかたわらでお神楽が演じられる。
 八幡さまのお祭りは秋。
 話してくれたのは若くてぽっちゃりした美人だった。
 「神子〔みこ〕さんですか?」
 と思わず聞いたら、
 「シメと言います」
 「はぁ……」
 ボーッとして、どんな字を書くのか聞きそびれてしまった。
 帰って調べればわかるだろうと思ったら、これがわからない。
 魚市場へ行った。
 小雨がぱらつくあいにくの天気のなか、埠頭には露店のテントが並び、ステージが組まれている。
 人出もある。
 露店を覗いたり、トイレに行ったりしているうちに、渡御を終えた神輿船が帰ってきた。
 大漁旗で飾られてはいるものの、鉦や太鼓を打ち鳴らすでもなく、おごそかに港へ入ってきたから気づくのが遅れた。
 あわてて船の着いた岸壁へ向かうと、神輿はすでにおろされ、魚市場へ入っている。
 やがて神楽衆がやってきて広い魚市場の真ん中で舞い始めた。
 演目は、海上安全と大漁を祈る恵比寿舞い。
 七福神のひとりの恵比寿さまが鯛を釣る。
 作りものの鯛を手にした人が、しきりに暴れさせて、恵比寿さまはなかなか釣り上げられない。
 鯛と恵比寿さまのかけひき、そのちょっと滑稽な所作が見どころになっている。
 舞いは15分ほどで終わり、神輿を先頭にした一団は、しずしずと魚市場から去っていった。
 
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■ 七五三
 
 なにげなく横山八幡宮のホームページを覗いてみたら、七五三のお知らせが載っている。
 もうそんな時候かと思った。
 11月15日が七五三。
 その前後に神社へお参りする人も多く、八幡さまではすでに祈祷の予約を受けつけているらしい。
 ――七五三詣で 受付中
 原則11月中。
 15日までの土曜・日曜は、予約がなくても随時おこなっております。
 時間は午前9時から午後3時頃まで。
 平日や16日以降は、行事の関係で出かけていることがありますので、前もって予約が必要です。
 おおむね、そんなふうに書かれている。
 七五三は、3歳と5歳の男の子、3歳と7歳の女の子のお祝い。
 いずれも本来は数え年だけれど、もちろん満年齢でかまわない。
 親としては、どんな服を着せたらいいか悩むところだろう。
 もうひとつ気になるのは料金である。
 宮古の人に聞いてみたら、八幡さまの七五三の祈祷料は、子ども1人につき5000円以上のおこころざしだそうだ。
 祈祷料は初穂料ともいい、熨斗袋に入れて渡すものらしい。
 ほかにも、こんな話をしていた。
 土・日や祝日はいつも祈祷している。
 混んでいると何人かまとめて祈祷する。
 時間は20分くらい。
 祈祷が終わると、お札(お守り)や絵馬、千歳飴、記念品などがもらえる。
 予約すれば社務所の向かいにある参集殿で記念写真を撮ってもらえる云々
 何年前の話か確認するのを忘れた。
 それでも七五三のお祝いに初めて子どもをつれていこうという親の参考にはなるだろう。
 もっとも、べつに祈祷してもらわなくてもいいとぼくなどは思っている。
 家族で神社へでかけて鈴を鳴らし、手を合わせて祈る、それで十分だろうと。      (2007.10.21)
 
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■ 千歳飴、紅白の大福
 
 七五三のお祝いをしてもらった記憶がない。
 自分の七五三というと昭和30年代。
 当時、神社へ七五三のお参りをする家は、あまり多くなかったかもしれない。
 千歳飴の長い袋をぶらさげて歩いている子どものすがたを町で見かけ、羨ましかったような記憶が残っている。
 いっぽうで、なんだか自分も千歳飴の袋をかかえ、飴をしゃぶっていたような記憶がある。
 いっぺんに食べられなくて袋にもどした。
 すると、ひっついて、つぎに舐めようとしてもなかなかとりだせない。
 何回かに分けて食べているうちに汚れてしまい、けっきょく残りを捨てた――
 七五三のお参りをしなかったとすれば、あの千歳飴はなんだったのだろう。
 七五三の時季になると町の商店でも売っていて、それを買ってもらったのだろうか。
 いろいろ考えていると、宮古小学校で1年生全員に配ったような気もしてきた。
 あいまいな記憶だけれど、あるいはそんな配慮も当時の小学校はしたかもしれない。
 小学校では、創立記念日とか、なにかのお祝いごとの日に、紅白の大福餅・饅頭を配る習慣があった。
 大きさが、ふつうに売られている大福よりずっと大きくて、まさに大福だった。
 それが紅白2個だから嬉しかった。
 家に持ち帰り、十文字に包丁をいれてもらって分けて食べた。
 その日にもらえるということは前もってわかっていなくて、突然、きょうは紅白の大福を配ると知らされたような印象もある。
 なんのお祝いかは一応先生から説明される。
 しかし覚えない。
 包装には創立記念日とかなんとか印刷されていただろう。
 いまでもああいった楽しい習慣はあるのだろうか。
 
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■ 浮島伝説
 
 宮古警察署の斜向かい、国道45号の北寄りに路地があって、そこを西へ入るとすぐに丹塗りの祠〔ほこら〕がある。
 小さい祠は生垣にかこまれていて目立たない。
 名前を浮島神社という。
 浮島神社には、こんな伝説がある。
 あたりに大きな池があった。
 真ん中に小島があって浮島と呼ばれた。
 それがそのまま池の名となり、一帯の通称ともなった。
 池のほとりに大きな柳の木が生えていた。
 この柳の霊が、夕まぐれになると、かたわらを通る人にいたずらをする。
 困った地主は、祟りを怖れながらも、根もとから引っこ抜いてしまった。
 そうして、その柳の木で浮島に小さな祠を建てて霊をまつった。
 池は、のちに埋めたてられて宅地になった。
 浮島の祠は近所に移された。
 それが浮島神社だという。
 話はいろいろなかたちで伝わっている。
 海猫屋さんは、こんなふうに言っていた。
 市立図書館で20年以上もまえに読んだ宮古の伝説の本に、神林〔かんばやし〕の大きな池の話が載っていた。
 その本によると、池には赤い牛のような主〔ぬし〕がいて、通る人を引きずりこむので恐れられた。
 池は、津波で埋まってしまった。
 おなじ池の別の伝承も本に載っており、そちらでは、池にいたのは赤い牛のような化けものではなく、河童になっていた、と。
 磯鶏〔そけい〕に住んでいる人に聞いてみたら、こんなふうに話していた。
 神林のふもとの大きな池は昭和40年代の初めごろまであったんじゃなかったか。
 柳の木でつくったのは祠ではなく、何枚かのお面。
 そのお面を祠に奉納して霊をなぐさめたのだそうだ。
 ところが、柳の霊はその後もときどきあらわれてはいたずらをする、そういう噂もあるらしい。
 
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■ むかしは池が多かった
 
 むかしは市中いたるところに池や沼があった。
 浮島池の柳で思い出したのは、宮古小学校にあった池と柳だ。
 校庭の西がわ、佐藤旅館の裏手あたりに、防火用水を溜めた池があった。
 いつも濁っていて深さはわからなかった。
 生垣かなにかで仕切られていたと思う。
 ほとりに一本の柳の木が生えていた。
 大きな柳で、夕闇に沈んで見えるすがたは、お化けでも出そうな雰囲気があった。
 あるとき暴風雨にあって倒れた。
 かなり歳老いていたのかもしれない。
 池も、そのあと埋めたてられた。
 宮小には中庭にも池があった。
 木造の本校舎と、音楽室や給食室のある棟のあいだで、こちらは浅くて鯉や金魚が泳いでいた。
 コンクリートのテラスからおりて給食のパンの残りをやった。
 どじょう、かえる、おたまじゃくし、あめんぼ、とんぼ、やご、げんごろう――
 縁石に座りこんで、いろんな生きものを見ていた。
 みどり公園から北へ、ラサの社宅のほうへ向かう道の西がわ一帯は田んぼだった。
 道端に1ヵ所、ほかの田んぼには水がないときでも、いつも水がたたえられているところがあった。
 いまの労働基準監督署のあたりだ。
 あれは水が湧いていたのだろうか。
 その水溜まりには鮒がいた。
 手網〔たも〕ですくった。
 めったにとれない鮒がとれたときの嬉しさはひとしおだった。
 銀色の魚体の輝きも神秘的だった。
 あのへんの田んぼや用水池や水溜まりは、みんな埋めたてられた。
 むかしの八分団のまえの角地にも防火用水の溜め池があった。
 枕木のような太い杭にバラ線が張りめぐらされ、なかに入れなかった。
 この溜め池も埋めたてられて広場兼駐車場になった。
 そのあとにビルが建ち、大通3丁目の交差点は窮屈な感じになってしまった。
 
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■ 池イケゴーゴー
 
 宮古市史年表を見たら、宮古小学校の柳の記事が載っていた。
 1971年(昭和46)11月25日、30メートルの突風が吹いて、県北車庫、宮小の柳が倒壊と。
 県北車庫というのは舘合の旧国道沿いにある県北バス営業所の車庫なのだろう。
 宮小の柳は、校庭西がわの池のほとりにあった柳にちがいない。
 池がどうなったかは、もちろん年表にでてこない。
 てっきり埋められたものと思っていた。
 公平2さんの話では、こうだ。
 ――池は埋めたてられたのではなく、自分が在学中に蓋がかけられて、ふつうの校庭になりました。
 マンホールの蓋のようなものがついていたような気がします。
 工事のとき池の水を抜いたのを見た記憶があり、そのとき少なくなった水のなかに魚がいました云々
 前稿「むかしは池が多かった」に書いた以外にも池はまだまだあった。
 公平2さんは、宮町の小百合幼稚園の入口のところに防火用水池があり、木造の屋根のような蓋がかけてあったという。
 これは女学校通りから裁判所の横を西に入った北がわで、カトリック幼稚園の門のまえ、鉄道の購買所のほうからくる細い道とがまじわる角地だった。
 OCCOちゃんは一中(第一中学校)のブロック校舎の脇にも池があったという。
 ブロック校舎南がわの山ぎわに倉庫があった。
 倉庫ができるまえ、そこに池があったらしい。
 けむぼーさんは池をふたつ教えてくれた。
 ひとつは常安寺保育園に隣接する北東がわ。
 子どもがはまって溺れる事故があったので、在園中にポンプで水が汲みだされて埋められたという。
 もうひとつは、西公園の斜向かいに専売公社があったころ、公社の南がわにあった池。
 トンボや魚とりをしたけれど小学生のころには埋めたてられた、という。
 常安寺の池は、そう言われてみればあったような気もする。
 専売公社の池は、西公園の斜向かいにあったという専売公社さえ記憶にないので、池の存在もわからない。
 
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■ 池は遊び場
 
 「月刊みやこわが町」の10月号(2007年)の「わがまちワラスものがたり」という座談会に、池の話題がでている。
 その要点を紹介すると、こうなる。
 ラサの西がわに大きな池があった。
 山プールとも呼んだ。
 若い連中にその話をすると、「そんな池なんかない」と言う。
 が、絶対にあった。
 あれは沢をせきとめて水を溜めたラサの防火用水だったと思う。
 大きな鯉がいた。
 冬には氷が張ってスケートをやった。
 落ちて死んだ人がいたので基本的には立ち入り禁止だった。
 小山田の団地にあった池では鮒が釣れた。
 千徳にも、むかしのヤクルトのあたりに池があって、釣りに行った。
 蜂ヶ沢にあった池も、やはり釣堀になっていた。
 むかしの河南中学校のところにも沼があった云々
 そのあと長靴に縄でしばりつけるスケートの話がでてくる。
 まさにその靴スケートを持ってラサの煙突山にある池に行ったことがある。
 池は、たしかに存在した。
 噂では赤沼と青沼と、ふたつの沼があると聞いていたけれど、ひとつしかみつからなかった。
 「浮島伝説」でとりあげた神林の池、いまの警察署、むかしの河南中のそばにあった池も座談会にでている。
 ほとりに立っていた柳の木やその精霊、池の主などが話題になっていないのは残念だ。
 小山田の団地にあった池というのは知らない。
 団地とは、あけぼの団地のことだろうか。
 千徳や蜂ヶ沢の池というのも、はっきりはわからない。
 そういえばあったかもしれないという程度である。
 これ以外にも話に聞いた池をつけ加えると、磯鶏小学校の裏にあった池で釣りをすると、やたらにイモリが釣れたそうだ。
 この池の主はイモリだったのかもしれない。
 ヌシといえば、黒森山には河童のすむ河童池、龍のすむ赤龍池〔さくりゅうのいけ〕もあったという。
 
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■ 大蛇伝説
 
 黒森山に赤龍池〔さくりゅうのいけ〕があった。
 むかし、ここは神龍のすみかだった。
 池の水は涸れていまはない。
 山中には5、6丈の大きな蛇がときどきあらわれる。
 黒森さまの本殿にとぐろを巻き、玉垣や末社の祠〔ほこら〕をとり巻いている。
 見た人を驚かすけれども決して襲ってくるわけではない、という話が伝わっている。
 こういう話もある。
 黒森さまには五色の彩りも鮮やかに四角い斑紋をもった大蛇がたくさんいる。
 なかには四つ足をもった大蛇もいると。
 1850年(嘉永3)に建てかえられた本殿の屋根は、栃〔とち〕板葺き12枚重ねの、質朴で荘重なものだったという。
 これは長年の風雨や雪にさらされて腐り、雨漏りがひどくなったため、1934年(昭和9)に銅板で葺きかえられた。
 そのとき大蛇があらわれたのを見た人がいるといわれる。
 最近の目撃譚もある。
 その話ではこうだ。
 拝殿のわきに一本の桜の木がある。
 拝殿の手すりのところに大蛇がとぐろを巻いていた。
 驚いて見ていると、鎌首をもたげ、のろのろと手すりから桜の幹にのびていった。
 頭が桜の木に届き、やがて太い胴で幹を巻きはじめた。
 ところが、尻尾のほうは、まだ拝殿にとぐろを巻いていた、と。
 蛇は黒森さまの使いとも、ご本尊そのものともいわれる。
 祭神はオオナムチノミコト・スサノオノミコト・イナダヒメの3柱になっている。
 これは明治維新後、新政府の神道政策によって適当にわりあてられたもの。
 もともとのご本尊は高さ30センチほどの木像で、本殿の真ん中に安置されている。
 しかしこれも表向きの話だ。
 じつは、その真下の土中に、御内神さまが眠っている。
 覗くことができないよう、社殿の下は厳重にかこわれている。
 あるいは、この御内神さまというのが、神龍と呼ばれた大蛇なのではないか、ともいわれる。
 
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■ 夜の黒森に…
 
 小説「寄生木〔やどりぎ〕」のなかに、わずか1行だが、黒森山の大蛇の話がでてくる。
 主人公の良平は、公金費消の嫌疑で未決監につながれた父の無罪放免を祈るため、黒森神社で断食籠もりをしようとした。
 その一節の、おおよそを紹介してみよう。
 ――父は16の歳、黒森山に籠もって7日の断食をしたと、大祖母〔ひいばば〕や祖母〔ばば〕の口からしばしば聞いている。
 自分も数えで今年16。
 7日の断食籠もりをして仙台獄裏の父を救おうと決心した。
 その日、腹いっぱい麦粥を食って1里の道を黒森山へ登った。
 お堂にひざまずいた。
 老杉の梢をもれる夕べの光さびしく、神水〔みたらし〕の音はさえざえとして深山の暮れの心細さ。
 良平の心は麻のごとくに乱れ、いろいろなことを思った。
 今は昔、この山の上の赤沼のほとりに機〔はた〕の梭〔ひ〕で土を掘っていたという山姥〔やまんば〕のこと。
 現に生きているなにがしの老爺が見たという、樅〔もみ〕の木にぶらさがる酒樽のような頭の大蛇のこと。
 昔むかし、この黒森のふもとの庵寺の折り戸を夜中にたたいた梅の精、鯉の精……
 いよいよ日が暮れてしまう。
 凄い、凄い。
 妙な鳥が鳴きだす、森の奥から妙な音が聞こえる。
 お堂のなかに読経の声がする。
 神経の作用かと思って耳をそばだてても、たしかにそんな声がする。
 途端に、老樹の間にすさまじい響きがした。
 ギヤーッ、グッ、グッ、ギユーイ、ギイギイ、ギッ、ギッ
 身の毛がよだつ。
 もうたまらぬ。
 将来ある身だ、熊や狼の餌食になってたまるものか。
 命あってこそ孝行もできる、退却、退却!
 立ち上がるより早く、まっしぐらに1里の道をはせ帰った。
 夜は更けていた。
 何も知らない母が灯火の影に寝ないで待っていた。
 良平は恥じて、その夜のことを今日まで黙っている。
 臆病の孫にひきかえ、男まさりの祖母は、100本の藁〔わら〕にひとつひとつ1厘銭を通し、夜、女人禁制の黒森にお百度を踏んだ。
 
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■ 黒森の一本杉
 
 もし自分が天狗だったら――と考えてみる。
 もし自分が天狗だったら、どこをすみかにしよう。
 そうそう、黒森の一本杉がいい。
 黒森のお山は町に近いのに静かだし、人もあまり登ってこない。
 一本杉のてっぺんは見晴らしがいい。
 町じゅうが見渡せる。
 海までもよく見える。
 でも、一本杉はもうない。
 それが残念だ。
 古い書物には、こんなふうに書かれている。
 黒森山上に一本の老いた杉の木があった。
 江戸時代に山火事で焼けてしまった。
 1848年(弘化5)の4月1日のこと、黒森山の赤池あたりから火がついて大火になり、一本杉に燃え移った。
 洞木だったからたまらない。
 たちまち幹に火が入った。
 山口や宮古の人たちが沢から背に水をかついで登り、火を消そうとしたけれど、ついに焼け落ちた云々と。
 「寄生木」という小説にはこうある。
 家から東北1里の山腹に鎮守の黒森神社がある。
 伝説には垂仁天皇の第二皇子の惟津〔これつ〕親王をまつったものといわれている。
 杉、松、檜、樅〔もみ〕のたぐいが真っ黒に繁って黒森の名もふさわしい、じつに県下第一等の官林だ。
 なかに黒森の一本杉といって、海上からの目印になった大きな木があったが、雷火にあって焼け落ちた。
 宮古浦の漁師は太平洋に稼ぎの出入りに、いまもって舟の上から黒森をおがむ云々と。
 黒森は高さこそ310メートルあまりしかないものの、宮古町のいろいろなところから、その優しく美しいすがたをあおぎみることができる。
 人びとに親しまれ、敬われている。
 由緒・歴史があり、おもしろい伝説にも事欠かない。
 そのお山のてっぺんの一本杉の、そのまたてっぺんでふんぞり返っていたら、さぞかし気分のいいことだったろう。
 そう天狗になった自分は考える。
 いや、それにしても惜しいことだ、黒森の一本杉がなくなってしまったのは。
 
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■ 和見の病院宿舎
 
 小学校低学年のときだから、昭和でいうと30年代後半の話だ。
 盛岡の親戚に医者だったか医者の卵だったかのおばさんがいた。
 おばさんといっても小学生からみた印象で、まだ20代だった。
 ある年の夏に研修かなにかで宮古病院へきた。
 休日、いっしょに浄土ヶ浜へ行って遊んだ。
 その夜は、おばさんの宿舎へ泊まった。
 当時、和見に県立病院の宿舎があった。
 近くに鴨崎病棟という建物もあった。
 宿舎は平屋の長屋だったか1戸建てだったか忘れた。
 狭い庭があり、6畳ぐらいのひと間に台所がついていた。
 布団を並べて寝た。
 夜中に目が覚めた。
 窓に街灯かなにかの明かりがさしている。
 カーテンに小さな影が映っている。
 目をこらすと、影は蛾のようだったり、ムカデやゲジゲジや蛇のようだった。
 それが無数にうごめいている。
 金縛りにあったように、じっと見ていた。
 はっとして、かたわらのおばさんを揺り起こした。
 「窓になにかいる」
 と言ったか、ただ指さしたのだったか。
 「草の揺れる影よ」
 おばさんは、そう言うと、すぐまた眠りに落ちた。
 しばらく見ていたぼくも、いつのまにか眠ってしまった。
 あれは幻覚だったのだ――
 そう思おうとした。
 いっぽう、いや、たしかに異様な影を見たという気もした。
 ところで、病院の宿舎は横町〔よこまち〕の通りから舘合〔たてあい〕へ向かう旧街道を北へ入った和見町にあった。
 鴨崎病棟というのがそばにあったけれど、考えてみるとこれがよくわからない。
 鴨崎町と和見町はとなりあっている。
 といっても、いまの山口川、もとの放水路を越えた西がわだ。
 病棟は宿舎と同じ和見町にあった。
 なのに、鴨崎病棟とよばれていたのはどうしてなのだろう?
 
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■ 宮古病院の変遷
 
 「和見の病院宿舎」を読んで、うららさんは言う。
 「私はむかし鴨崎にあった宮古病院で生まれたと聞いていました。
 調べてみると、そのころ鴨崎にあったのは前身にあたる宮古共済病院で、その後、昭和34年に宮古地方病院と統合されて、宮古病院となっています。
 昭和43年に鴨崎病棟は廃止されていますが、いまのどのへんにあたるのでしょうね?」
 宮古病院の鴨崎病棟があった場所は、いまの和見町の道路をはさんだ北がわの一画でまちがいない。
 和見に住んでいたけむぼーさんも、こう言っている。
 「鴨崎病棟は、三上きもの会館や小松酒店のある通りの道をはさんで反対側にありました。
 あの一帯は西公園対面の看護学校の手前まで病棟や宿舎がありました」
 地図をみると、和見町9番地の一画。
 北どなりの西公園の対面、つまり鴨崎病棟や職員宿舎のあった和見町9番地の南端には、県立の高等看護学院があったらしい。
 あの一画は県の病院施設で占められていたことになる。
 うららさんの言う宮古共済病院というのを調べてみた。
 「月刊みやこわが町」2006年2月号の特集「古文書から探る宮古の医療」に記事がでていた。
 宮古共済病院は1936年(昭和11)5月、いまの和見町に創立されたとある。
 設立代表者には、熊谷善四郎を筆頭に藤島弥助・小笠原孝三らの名があげられている。
 宮古共済病院は1950年(昭和25)に県営となった。
 1959年(昭和34)には、宮古地方病院と合併し、県立宮古病院と改称した。
 別の資料をみると、この宮古地方病院のあった場所が栄町だったらしい。
 宮古病院は、宮古地方病院のあったところに新築して本院とした。
 これがぼくの年代の宮古人には懐かしい、駅前交差点そばの、もとの国道106号に面した栄町の宮古病院だ。
 和見のほうは分院として鴨崎病棟とよばれるようになった。
 「和見町にあるのに鴨崎病棟とよんだのはなぜか?」
 という謎は、まだ解けない。
 
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鴨崎病棟   けむぼー * 投稿
 
 鴨崎病棟は三上きもの会館や小松酒店のある通りの道をはさんで反対側にありました。
 小松っあん(小松商店)のところの道路に面して正門がありました。
 あの一帯は西公園対面の高等看護学校の手前まで病棟や宿舎がありました。
 西公園の道路をはさんだ南側に県立の高等看護学校があったのは、従姉妹が通っていたので間違いないと思います。
 そして、高等看護学校の南に道路を一本置いて隔離病棟がありました。
 窓に金網がしてあったのでよく覚えています。
 もとの山口川(本流)に沿って隔離病棟、霊安室があり、子供のとき、その傍を通るのは怖かったです。
 小学校の3、4年のころに栄町の宮古病院が建て替えられ、鴨崎病棟の業務はそこに移されて、鴨崎病棟は取り壊されました。
 そのあとに病院の先生方の宿舎が拡充されたと思います。
 昔からあの一帯はずっと和見で、その西がわ、山口川(閉伊川までのバイパス)までが和見のくくりでした。
 山小(山口小学校)の和見町子供会の区域です。
 ただし、宮小に通う子供たちもおりました。
 お医者さんの宿舎には思い出があります。
 小学校の低学年のころ、国語や足し算や引き算がうまくできなかったので、見かねた宮古病院のお医者さんの奥さまから勉強を教えていただいた時期がありました。
 鴨崎病棟の敷地の西がわに一軒建ての宿舎群があり、その中の一軒でした。
 板塀を巡らし、木戸、玄関、裏に庭もありました。
 部屋数もそれなりに多かったのではなかったかと思います。
 南がわの窓を開けると笹藪があり、夜は蛍が飛んでいたのを覚えています。
 当時大学生だったお医者さんの娘さんがフランスに留学したときの写真を見せてくれました。
 娘さんがエッフェル塔のところで何故か作家の野坂昭如さんと撮った記念写真もありました。
 やっぱりいま思い返しても驚くべきハイソなのでした。
 
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宮古弁カルタ   うらら * 投稿
 
 7月末に店頭で発売され、すでに宮古のたくさんの方が楽しまれている宮古弁カルタ。
 「みやごのごっつお」の掲示板上で、カルタが出来上がっていく過程をずっと見守っていたので、完成したカルタを手にしたときは、しみじみと嬉しく感動しました。
 カルタは新聞やテレビでも取り上げられ、
 「全国にいる元気な昔の宮古のわらすっ子たちが、ふるさとを思う気持ちで作った」
 と紹介されました。
 先日、9月の初めに放送されたテレビ番組の収録を見る機会がありました。
 映像は観光協会の方たちの息の合ったコントからスタートして、「カルタにかだって〜」の「かだって」の意味や、「でんで〜ん」という掛け声についての説明へと続きます。
 その後、読み札の解説と並行して、カルタ大会は白熱戦へ突入。
 思わず微笑んでしまう傑作の絵札が、「でんで〜ん」の声とともに次々と取られていきます。
 私もその場に参加していたのですが、本当に楽しかったです。
 そして小さな子供たちも一緒だったら、さらにもっと楽しいだろうな〜と思いました。
 「大人が楽しい、という姿を子供に見せたい。
 大人がシュンとなって宮古はシャッター通りだと言っていると、子供は、いまの大人はつまんないと思う。
 大人が楽しそうにやっていると、子供たちも自分たちの未来に楽しい時代が開けると考える」
 これはテレビのインタビューの中で、読み札の作者の一人、ecoちゃんが話していた言葉です。
 小児科医師として毎日たくさんの子供たちに接している現場からのメッセージです。
 インターネットから生まれた宮古弁カルタは、パソコンの画面を飛び出し、市内の小中学校の子供たちの手もとに届けられました。
 そして大人も子供も楽しく一緒に遊び、お年寄りには懐かしい昔の思い出を甦らせ、子供たちには消えゆく宮古弁を伝承する役割を果たしてくれます。
 カルタは宮古を愛する人たちの心に、目にはみえないけれど、しっかりとした手ごたえを残し始めています。
 
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■ 山姥の糸巻き
 
 いまはむかし、黒森山の赤沼のほとりで、機〔はた〕の梭〔ひ〕でもって土を掘っていたという山姥〔やまんば〕のこと――
 そんなくだりが小説「寄生木」にあった。
 梭というのは、機に横糸を通す、舟形をした道具である。
 「寄生木」の主人公の良平は、大祖母〔ひいばば〕や祖母〔ばば〕から、さまざまな話を聞いて育った。
 山姥の話も、何度も聞かされていたにちがいない。
 良平の祖母というのは、黒森の北方3里にある佐羽根から山を越えて山口へとついできた人だった。
 その佐羽根から東へ、鍋倉という山を越えていったところには松月〔まっつき〕浜がある。
 これは人に聞いた話だ。
 昔むかしのある日、松月の漁師の妻が焚きつけをとりに鍋倉山のふもとへ行った。
 帰りの山道で、ぱったり山姥とでくわした。
 「わしと出会ったことは、だれにも言うな。
 それから、この糸巻きのことも、だれにも話すな」
 山姥はそう言いながら、ふところから糸巻きをとりだすと、女にやった。
 女は家に戻って、さっそく繕いものをした。
 糸巻きの糸は使っても使っても減らなかった。
 ふしぎに思った女は、ある夜、夫にそのことを話してしまった。
 つぎの日、漁師が起きてみると、妻のすがたがない。
 村じゅう捜してもみつからない。
 漁師は妻が山姥と出会ったと言っていた鍋倉山へ行ってみた。
 険しい崖の中腹に、むかしから山姥が住むと言い伝えられている洞穴がある。
 ふだんは怖れてだれも近づかない。
 登ってみると、黒ぐろ口をあけた洞穴のまえに妻が横たわっている。
 妻は、すでに息がなかった。
 漁師は妻を背負って村へ戻った。
 漁師から話を聞いた村びとたちは、みんなで鍋倉山の洞穴へ行って、なかに何本も矢を射かけた。
 ドドーッと天地の崩れるような音が響いた。
 しばらくして、松明をかざしながら洞穴に入った。
 すると、そこには山姥のものらしい骨だけが残っていた、という。
 
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■ チッキ
 
 宮古駅の〈はつかり亭〉がニュースになっていた。
 記事の内容とは関係ないことが、いろいろ頭に浮かんだ。
 はつかり亭というのは駅舎に向かって右手にある。
 今川焼きをつくって売っていたりするところで、その右がわには土産物の売店がある。
 駅舎から出っ張っていて、横にテーブルと椅子が置かれ、ゴミ箱もある。
 宮古を歩きまわった帰りに、よくその椅子に座って、ボーッと駅前を眺めたりする場所だ。
 このはつかり亭や土産物店があるあたりには、むかし鉄道小荷物や手荷物の受付所があった。
 入口には小荷物取扱所、あるいは手荷物取扱所とかなんとか、墨で書かれた縦長の古びた木札がかけられていたような気がする。
 まだ国鉄の時代である。
 1986年(昭和61)に鉄道荷物サービスが廃止されている。
 宮古駅の小荷物取扱所がなくなったのもそのときかもしれない。
 チッキというものがあった。
 鉄道で移動するとき手荷物を別便で運んでくれるシステムで、乗車券を買って小荷物取扱所に持ちこんだ。
 鉄道小荷物の扱い方というのは乱暴だったのか、しっかりと荒縄で荷造りした。
 宛て先の住所・氏名・駅名や発送人の住所・氏名を書いた紙を貼り、結わえた縄に、やはり宛て先などを書いた鉄道荷札を細い針金でくくりつける。
 目的地の駅に小荷物取扱所があればそこ宛てに、なければ最寄りの駅留めにする。
 料金は高くなるが届けてくれもしたようだ。
 駅留めなら郵便局や丸通などの運送業者に頼むよりずっと安かった。
 たしか一度に3個までで、一個30キロまで。
 入口に置かれた台秤に乗せて重さを計る。
 高校を卒業して上京するとき、帰省するときに使った。
 語源にはチェック check とチケット ticket の2つ説があるらしい。
 チッキも鉄道荷札も小荷物取扱所も、とっくに忘れていた。
 つまらない記事だったけれど目を通して無駄ではなかった。
 
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■ 柿の秋
 
 柿の木が一本あると秋のおやつには事欠かない。
 ところが今年は熟す前に落ちて数えるほどしか色づかなかった。
 夏の暑さがこたえたのだろうか。
 宮古の町なかでは柿の木をみた記憶があまりない。
 うちにも柿の木はなかったから買って食べた。
 竹籠を背負った農家のおばさんから買った豆柿が懐かしい。
 2センチほどの黒い小さな柿。
 あれは葉っぱが落ちつくして黒く熟すまで待たないと渋くて食べられないのだそうだ。
 見た目はよくない。
 味もちょっと癖がある。
 それでも柿の味を凝縮したような豆柿はうまかった。
 宮古以外では食べたことのないふるさとの味のひとつだ。
 干し柿もよく食べた。
 柿の実の精のような粉を真っ白く吹いたのがうまい。
 干し柿には渋柿を使う。
 ふしぎと渋柿のほうが甘柿よりも糖度が高いのだそうだ。
 種のないころ柿は大船渡市など気仙地方の名物になっている。
 枯露柿とも書く。
 硫黄で薫蒸して天日に干す。
 自然乾燥させると硫黄分は揮発してしまうそうだ。
 寒風に揺れる橙色の柿すだれは季節のニュースによくとりあげられる。
 甲子柿というのも商店に並ぶ。
 透明感のある真っ赤な丸い柿、とろりと甘い。
 知らなかったけれど、あれは釜石市甲子町が発祥の地で、釜石あたりの名産にあげられている。
 柿室〔かきむろ〕にいれ、ブナや桜、楓、柿の木などの広葉樹の煙で1週間いぶすという。
 気仙のころ柿や釜石の甲子柿になるのは小枝柿という品種で、種なしの渋柿。
 南三陸が北限というから宮古に小枝柿はないのかもしれない。
 柿はけっこう各地の特産品になっている。
 豆柿が宮古の名物になったら嬉しいのだけれど、ひょっとして、逆に絶滅しかかっていはしないかと心配だ。
 
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■ トンコロリン
 
 早口言葉をもじった、ひとくちミステリー
 ――隣りの柿はよく客食う柿だ
 ありえない話ではない、柿の精という妖怪もいるらしいから。
 子どものころに聞いた話がある。
 熟した柿の実が鈴なりになっているのにだれもとらない。
 鳥がついばむ。
 とんっと落ちて、ころころ転がる。
 熟しすぎて、ぽたっと落ちる。
 それを踏んで、すってんころりん滑って転ぶ。
 すると、どこからか、笑っているような声がする。
 「くぇ、くぇ、くぇ」
 「おかしいな?」
 あたりを見まわしてもだれもいない。
 そのうち柿の木のかたわらを通ると妙に赤い人の首がぼとっと落ちてきて驚かすようになる。
 これはトンコロリンと呼ばれる柿の精のしわざだ。
 柿入道の話もある。
 あるたそがれどき、柿の木のあたりから大きな男があらわれた。
 大男は町なかをぶらぶら歩きながら、ふところから柿の実をぽとぽと落とす。
 そうして、ふたたび柿の木のあたりにくると、すぅーっと消えてしまう。
 お寺の小僧さんが留守番をしていた。
 そこへ、てかてか顔を赤くてからせた大男がやってきた。
 「酔っぱらいか?」
 小僧さんは首をひねった。
 手には桶をかかえている。
 大男は小僧さんの目のまえでくるり尻をめくると、桶いっぱいに、びりびりとくそをした。
 その桶を小僧さんの顔のまえに突きつけて真っ赤な顔でにらむ。
 「食え、食え、食え」
 食べないと、どんなひどい目にあうかわからない。
 小僧さんは目をつぶって口をつけた。
 そしたら甘くてうまかった。
 小僧さん、すっかり平らげてしまった。
 桶を小わきに帰る大男のあとをつけると大きな柿の木のあたりで姿をくらました。
 柿の木には皮だけになった実がいくつも風に揺れていた。
 
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■ 頭に柿の木
 
 柿の実の話を書いたら母親の言葉を思い出してしまった。
 「種を飲みこむと頭から柿の木が生えてくるよ」
 と何度かおどかされた。
 そう言う母の目は笑っていた。
 要するに間違って種を飲みこまないように気をつけなさいという冗談まじりの注意なのだった。
 柿の種にかぎらない。
 さくらんぼ、ぶどう、すいか……
 しかし種を飲みこむと頭から木が生えてくるという言葉には生理的になにか感じるものがあった。
 頭のてっぺんがむずむずした。
 この言葉は昔話からきているのだと思う。
 だいたいこんな話だ。
 酒好きな男が酔って柿を食べて種を飲みこむ。
 すると頭のてっぺんから木が生えてくる。
 桃栗三年柿八年というけれど、その木はどんどん大きくなって、秋にはたわわに赤い実をつける。
 男がもいで食べてみると甘い。
 喜んだ男は一杯飲み屋へ行き、柿をあげて酒を飲ませてもらう。
 ところが、酔って寝ているあいだに柿の木はだれかに引っこ抜かれる。
 頭に大きな穴ができると今度はそこに雨がたまって池になる。
 池には大きな鯉が泳いでいる。
 喜んだ男は一杯飲み屋へ行って鯉を代金に酒を飲む。
 まだ続きがあったような気もするけれど忘れてしまった。
 そういえば、うちに子ども向けの本があった。
 「日本昔話集」というようなタイトルだ。
 きっと頭から柿の木が生えてくる話はそのなかにあったのだろう。
 ほかに「世界童話名作集」と、もう1冊は「アラビアンナイト」だったか、子ども向けのシリーズ本が3冊。
 ものごころついたときはすでにあったから、あるいは添い寝物語に母親が読んでくれたのかもしれない。
 いまはない。
 大事にとっておけばよかった。
 
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■ アワビが開いた
 
 アワビの口開けを「アワビが開〔あ〕いた」という。
 ぱっくりとアワビが口を開くわけではない。
 アワビは最初から口を開いている。
 というか、巻貝なのに二枚貝の片方しか殻がないように見える。
 不思議な貝だ。
 アワビが開いた、アワビの口開けというのは、漁の解禁日のこと。
 いくつかの情報源からそのアワビ漁のようすをみてみよう。
 口開けは11月に3回、12月に2回、あわせて5回が予定されている。
 漁に使う船は小型のさっぱ。
 朝の5時半に出漁して漁場で待機する。
 6時半に操業開始。
 さっぱから鏡(箱めがね)で海底をのぞきこみ、半円に弧を描く鉤爪のついた竿でひっかける。
 波間に揺れるさっぱを一定の場所に支えるにはモーターのついた小型の船外機を片手で操作する。
 採るのは殻の長さが9センチ以上のものにかぎられている。
 定規でひとつひとつ殻の長さを測る。
 10時に漁が終わる。
 船はみな浄土ヶ浜の監視船に寄ってクジを引く。
 先が赤い棒を引いた船は違反がないかどうかを調べられる。
 クジの先になにもついていなければ、そのまま検査証をもらって水揚げ場所へ向かう。
 ことしは水温が高くて海藻の育ちが悪い。
 海藻を食べるアワビも少し痩せているという。
 浜値は宮古漁協で10キロが8万数千円。
 去年より2割ほど安い。
 韓国などから輸入した生アワビが増えているためらしい。
 県内外の仲買人に買いとられたアワビは中央へ行く。
 7割から8割は干しアワビに加工されて中国へ輸出される。
 二級品が地元に出まわる。
 二級品といっても貴重品だから高い。
 つまるところ、あまり地元の庶民の口には入らない。
 
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■ ケーオス、ネリゲー
 
 アワビ漁を描いた縁起物のお飾りがある。
 マスター写真館2に画像が出ていた。
 大漁を願った図柄で、年末のお飾り市で買って神棚に貼る。
 海藻のあいだを魚が泳ぎ、エビがいて、アワビがたくさんいる。
 さっぱにはすでにアワビが山になっている。
 漁師は、なおもアワビを獲ろうと右手に鉤竿、左手に鏡(箱眼鏡)を持って海をのぞきこんでいる。
 かたわらの舷〔ふなばた〕には櫂〔かい〕がさしてある。
 アワビ漁のすがたは昔も今も変わらない。
 といっても、今はさっぱに船外機がつき、スラスターという便利な機械もついている。
 スラスターはモーターでペラ(スクリュー)を回して横移動させる装置だ。
 海底の獲物をさがして獲るには不安定なさっぱを安定させなければならない。
 磯の波間に揺れるさっぱを一定の場所に支えるのに昔は櫂を使った。
 ウニ漁でもアワビ漁でも同じだ。
 父親と息子、夫と妻というような組み合わせで、さっぱに乗りこむ。
 ひとりが舳先〔へさき〕に立って櫂を押したり引いたり回したり、小刻みにあやつる。
 これをネリゲーと言い、ケーオスとも呼ぶそうだ。
 ネリゲーは〈練り櫂〉、ケーオスは〈櫂押す〉。
 やはりマスター写真館に書いてあったことだけれど、これがへただと長い竿が狙ったところに届かない。
 場合によっては口論になる。
 たとえば、こんなふうに。
 ――嫁っこがケーオスやって喧嘩して、口をぶんむがせだり、とんがらせだーりして、浜さ帰〔けー〕ってくるのす。
 スラスターだとひとりで漁ができる。
 櫓櫂の時代は、ひとりではたいへんだったろう。
 駒井雅三にこんな歌がある。
  櫂を漕ぎ箱鏡〔かがみ〕をのぞき竿さして
      鮑〔あわび〕漁師は一人わざなり
 
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■ あずきばっとう
 
 この夏、あずきばっとうを食べた。
 板屋のジョイスで見かけ、久しぶりに食べたくなって買った。
 ビニールに真空パックされたハニー食品製である。
 「元祖〈宮古名物〉あずきばっとう」と書いてある。
 小笠原製麺所製のものはなかった。
 オガメンこと小笠原製麺所のは、はっとうが平べったい。
 ハニー食品製は、うどんのような感じだ。
 250グラム入りの小袋と700グラムの大袋があった。
 ひとりで食べ切らなければないとなると大袋は多すぎる。
 小袋から鍋に移してことこと温めた。
 甘いお汁粉でうどんを煮た懐かしい味。
 懐かしいといっても、うちではふつうのお汁粉が多かった。
 入れるのは焼いた餅、それに白玉。
 小学校の給食に、あずきばっとうが出てきた。
 お汁粉が薄くて、あまりうまくなかったような気がする。
 甘いはっとうは節句のご馳走だった。
 盆月に7回あずきばっとうを食べて7回水浴びすれば健康になるという言い伝えもある。
 7回あずきばっとうを食べるというのは、あるいは願望の表現だったかもしれない。
 ひと月に7回どころか昔はめったに食べられなかった。
 はっとうの原料には蕎麦を使うほうが多かった。
 小説「寄生木〔やどりぎ〕」に、あずきばっとうの話が出ていて、蕎麦汁粉と書いて“そばはっとう”と読ませている。
 明治26年(1893年)10月9日の夜は雨が激しく降って雷〔らい〕が鳴る、凄まじい晩だった。
 明日は節句。
 「蕎麦汁粉〔そばはっとう〕を作ってあげます」
 母が言ったら大祖母〔ひいばば〕は、
 「蕎麦汁粉!
 珍しいはっとう!
 婆の大の好物のはっとう!」
 再三再四くりかえし、欣々として床に入った。
 母は夜鍋に小豆をぷつぷつ煮て兄嫁は石臼で蕎麦をひく。
 数えで86歳の大祖母はその夜遅く、寝床に座って両の手を合わせ、枕に突っ伏したまま死んでいた。
 
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■ 菓子パンあれこれ
 
 宮古製菓のミックスサンドを食べた。
 それに相馬屋のアンパンとクリームパン。
 ミックスサンドは野菜やハムや卵がはさんであるわけではない。
 パンでカステラ?をはさんである。
 懐かしい味で、子どものときはけっこう食べていたのだろう。
 岩手県内だと白石パンやイチノベパンの製品が有名だけれど、宮古には地元産の強力な菓子パンがある。
 ひょっとしたら宮古は、まれにみる菓子パン文化というものが根づいている土地柄なのかもしれない。
 宮古製菓にはミックスサンドのほかにエーヨーパンという調理パンがある。
 相馬屋ではアンパン、クリームパンに並んでジャムパンが昔からの定番だ。
 食べたことはないけれど、揚げパンに挽き割り納豆をいれたドーナットーというのもあって最近隠れた人気を博しているらしい。
 うみねこパンで知られる丸長製パンにはイボパン、正式名称クッキーパンがある。
 メロンパンのできそこないのような感じにデコボコとイボ状に出っぱった部分を指でつまんで、はがしながら食べた。
 日進堂や西野屋にも名物パンがあるだろう。
 子どものときチョコパンをよく食べた。
 西野屋製だったような気もするけれど、きっといろいろなところでつくっていたにちがいない。
 巻き貝型をしていて、コルネとかコロネとかいう名前があるらしい。
 そんな名前は子どものときは知らなかった。
 ただチョコパンと呼んでいた。
 頭の穴のチョコのところにはパラフィン紙がくっついていて、それを最初にはがす。
 お尻のほうから渦巻きをぐるぐる引っぱってちぎり、チョコを押しだしてつけて食べる。
 チョコが多いとアタリ、少ないのはスカ、ハズレ。
 チョコパンは、なにか香ばしくて、パン生地がほかの菓子パンとは違うような味がした。
 
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■ 朝はパン
 
 うちの朝はトーストだった。
 西野屋で一斤とか半斤の食パンを買った。
 干し葡萄の入った葡萄パンもたまに買った。
 葡萄パンをトーストしてバターを塗るとうまかった。
 バターを薄く切ってのせたりサンドして食べるのが好きだった。
 サンドするというのも妙だけれど、よくそう言っていた。
 塩分が多いからというような理由でバターはいつのまにかマーガリンにかわった。
 ジャムで印象深いのはアヲハタだ。
 青い三角旗のアヲハタ、マーマレード、イチゴ、葡萄ジャム……
 母がマーマレード好きで、よく紅茶にいれて飲んでいた。
 それに、ソントンのピーナツクリーム。
 紙容器で、トレードマークは落花生のトンちゃん。
 明治屋の甘くない本物のピーナッツペーストを使いだしてからソントンはテーブルから姿を消した。
 おかずにコロッケ、目玉焼き、キャベツの千切り、ホウレン草と豚肉やソーセージ、ハムを炒めた。
 クラコウをトーストにのせることもあった。
 ドライソーセージを最近はサラミとばかり呼んでクラコウということばを聞かなくなった気がする。
 あるいは昔からみんなサラミと呼んでいて、うちだけクラコウと言っていたのだろうか。
 そういえば最近聞かないもの、見ないものに魚肉ハムがある。
 薄切りした円い魚肉ハムを何枚か真空パックした製品があった。
 パッケージの上から包丁で縦切りにしてフライパンで焼いた。
 ゲーニク〔鯨肉〕もあった。
 鯨ステーキを細く切ってトーストにはさむ。
 噛み切れなくてトーストのあいだからずるずる出てきた。
 牛乳は宮古の小川牛乳とか伊藤牛乳とかをとっていたような気がする。
 裏口に置いた木の箱に毎朝ビン入りの牛乳が届いた。
 それを入れるのが一日の始まりだった。
 真冬には凍って紙のフタやビニールの覆いをもちあげていた。
 上のほうだけ匙ですくってひと口ふた口食べた。
 
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■ さらば、国鉄色
 
 線路の近くに住んでいた。
 小学校6年生くらいから高校を卒業するまでの約7年間だ。
 家の南に国道106号があり、その南に山田線の土手があった。
 国道は山田線の土手の向こう側、田んぼを埋めたてて通したバイパスに切り替えられて、いまは県道になっている。
 山田線の本数は昔も少なかった。
 シグナルの鳴る踏切も近くになかったから、線路の近くに住んでいても、うるさいと感じたことはなかった。
 朝夕の通学時にかたわらを通る列車は身近な存在だった。
 調べてみると山田線でディーゼル車が定期運行を始めたのは1960年(昭和35)11月のことらしい。
 盛岡と宮古のあいだの旅客車輌がすべてディーゼル化されたのは翌61年2月だという。
 貨物列車にはまだ蒸気機関車が使われていた。
 貨物をふくめて山田線が全面ディーゼル化されたのは1970年(昭和45)3月1日から。
 前日2月28日にはSLの「さよなら列車」が走っている。
 当時は国鉄の時代である。
 山田線のディーゼルカーは朱色とベージュの2色に塗り分けられていた。
 国鉄が民営化されたのは1987年(昭和62)4月だった。
 JRになって国鉄色ということばが生まれた。
 塗装も変わったけれど一部に国鉄時代の塗装が残された。
 山田線の朱色とベージュの国鉄色も残った。
 ことし(2007年)11月24日に山田線・岩泉線を47年間走りつづけてきたディーゼルカーの記念ラストランがおこなわれた。
 キハ52といわれる型で、あわせてキハ58も引退した。
 キハ52と58の見分け方は、ヘッドライトが52は上部中央にあり、58は上部左右にあった。
 かわって白と緑の新型車両110型が走りはじめた。
 記念ラストランの大役をになったのは国鉄色に塗られた車輌だった。
 子どものときに毎日見慣れた懐かしいディーゼルのその最後を見にゆきたいと思いながら、ついに行けなかった。
 残念である。
 
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■ 前田機関士とC58283
 
 山田線から蒸気機関車が消えたのは1970年(昭和45)のことだったらしい。
 最後まで走っていたのは、C58型という機関車だった。
 シゴハチと呼ばれる。
 2台あってC58型の283号と239号である。
 1970年2月28日に「さよなら列車」として宮古から釜石までを走ったのは239号(C58239)。
 いまは盛岡の青山にある県営交通公園に保存されている。
 宮古から盛岡までは283号(C58283)が走った。
 機関士は宮古出身の前田悌二さん。
 C58283というナンバープレートは宮古駅前西がわの花壇にある碑にはめこまれ、前田さんの名前も刻まれている。
 しかし、この碑は山田線最後の蒸気機関車と機関士を記念したものではない。
 「超我の碑」といって1944年(昭和19)に山田線で起きた転覆事故にかかわるものだ。
 碑には、おおよそこんなふうに刻まれている。
 ――昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸〜川内間で雪崩にあって脱線・転覆した。
 このとき加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負いながらも、事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。
 前田助士は命令に従ったが、積雪のため進路を失い、また加藤機関士の身を案ずるあまり、再び現場に戻り、厳寒のなか自分の着衣を機関士に着せて必死の看護にあたった。
 しかし、その甲斐もなく救援隊が到着したときすでに尊い生命は奪われていたという。
 まさにこの行為は超我と友愛の精神によるものであり、われわれの理想とするところ。
 よってそのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えるものである云々
 前田機関助士は生還し、C58283とともに復帰した。
 そして機関士となった前田さんとC58283は、事故から四半世紀後に山田線のSLラストランを飾ったのである。
 
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■ デレンギ
 
 長年愛用していた石油ストーブがだめになった。
 フジカ社製のフジペットという名の円筒型ストーブだ。
 小さいのに火力は抜群で、狭いキッチンならすぐ暖まる。
 修理に出そうと思った。
 電話で問い合わせると買いかえたほうが早そうなのでやめた。
 で、フジペットのまえに使っていた古い石油ストーブを押し入れからひっぱりだした。
 コロナ製の四角四面、愛嬌がない。
 反射板つきで壁には寄せられるけれど火力はフジペットに劣る。
 宮古の家のダイドコ(台所)で使っていたのはフジペットと同じ円筒型の四方八方が暖まるやつだった。
 天板に薬缶をのせてお湯を沸かしたり鍋物を煮たり、パンや餅のほかにも干し芋を焼いたり、匂いがいいというのでミカンの皮をのっけたり。
 学校では薪〔まき〕ストーブだった。
 冬将軍の到来をまえに、教室の真ん中に鉄板を敷いた台が置かれ、ブリキストーブが置かれた。
 校庭から見ると校舎じゅうの教室から1本ずつ煙突がにょきにょき突き出していた。
 はっきり覚えていないけれど12月に入ってすぐに取りつけられたのではないだろうか。
 ストーブの上には水を張った金盥〔かなだらい〕。
 横には防火用の水を入れたブリキのバケツ。
 ほかに鉄製の火挟みや火掻き棒があった。
 燃え殻や灰をとりだすシャベルもあった。
 灰取りバケツはどうしていただろう。
 火挟みは炭挟みとも言った。
 火掻き棒はデレンギと呼んだ。
 調べてみたら、デレンギというのは、ほんとうはデレッキといって、一説によると語源はオランダ語の dreg だとか。
 デレンギでは、いくら探しても出てこない。
 とすると、デレンギはデレッキの宮古なまりだったのだろうか。
 それとも、ふざけてそう呼んでいたかどうかしたのを、そのまま誤って覚えこんでしまったのだろうか。
 
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■ 杉の葉拾い
 
 学校のストーブについて、まえにもなにか書いたはずだ。
 そう思って探したら、第2部の「大寒」という文章に、こんなことを書いていた。
 ――学校の暖房は楕円形のブリキストーブだった。
 小中学生のころはクラスでいちばん早く教室に入ることが多かった。
 焚きつけと薪〔まき〕をストーブに入れ、ブリキの盥〔たらい〕に水を張る。
 防火用の水もブリキのバケツに汲んでおく。
 やがて先生が火を入れにくる。
 盥のお湯で給食の牛乳を温めた。
 紙のテトラパックになるまえの、ビン入りだったころだ。
 アルマイトの弁当箱が置かれ、温まると匂いたつ。
 濡れそぼったズックや靴下を干すやつもいる。
 休憩時間にはストーブを囲んで輪ができる云々
 焚きつけと書いたけれど、ほんとうはちょっと違う。
 焚きつけはタギヅゲと発音するが、それよりモスヅゲと呼ぶことが多かった。
 燃しつけである。
 小学生のときは、冬本番が近づくと生徒たちが、このモスヅゲをとりに山へ入った。
 杉の葉拾いと言った。
 どこの小学校でもやった。
 宮小(宮古小学校)は常安寺の裏山へ行った。
 授業中に、たしか4年から上の生徒全員だった。
 杉の葉や松の葉、松ぼっくり、雑木の枯れ葉、枯れ枝をかき集めた。
 炭すごや南京袋〔ナンキンぶくろ〕に詰めた。
 炭すごは炭俵、南京袋は麻袋だ。
 そのまま転がしたり、みんなでたんねぇだり(手で持ったり担いだり)して常安寺の坂を下った。
 山門のあたりでリヤカーに積んだ。
 先生が引き、生徒が押して、横町〔よこまち〕の通りを学校まで運びこんだ。
 杉の葉拾いは冬場の楽しい恒例行事だった。
 
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■ 薪割り
 
 薪が校庭に運びこまれる。
 4、50センチの長さに切り揃えられ、校庭の一角に山をなす。
 すると生徒が手渡しリレーで教室の窓の下に積み重ねる。
 そんな作業もあった。
 作業といっても遊び半分だった。
 ところで、薪を学校におさめたのは誰だろう。
 業者さんには違いない。
 材木屋(製材所)さんだったのだろうか。
 それとも、燃料店のような、ストーブ用の薪専門の業者さんというものがいたのだろうか。
 薪はすでに割られていたのだろうか。
 校庭で割ったのだろうか。
 うかつなぼくは、そのへんのことになると、とんと知らない。
 小使いさんが斧を振りかぶって割っていたのを見ていたような記憶がある。
 しかし、ひとりで全校分の薪を割ったとも思えない。
 家の近所の2軒の旅館では旦那さんや番頭さんが広場で薪を割っていた。
 風呂を薪で沸かした。
 調理場には竈〔かまど〕があった。
 40年以上も昔の話である。
 切り株のような台の上に薪を立て、斧を振りおろす。
 スコーンと気持ちよく割れる。
 「危ねぇが。
 来んなぁ」
 そう言われても、よくそばで見ていた。
 斧を借りて、やらしてもらった。
 薪に刃が食いこんで抜けなくなったり、斧が弾かれたりした。
 何度かやっているうちに小学生でも割れるようになった。
 足は割らなかったけれど、台の上においた自分の手の甲に、大きな薪を落としたことがある。
 バンと大きな音がして薪は手の甲でバウンドした。
 なのに、痛みもなく、傷ひとつつかなかった。
 あれっ?
 と思っているうちに、その手がみるみるふくれあがった。
 脹〔は〕れは翌朝、なにごともなかったように引いていた。
 
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■ 又兵衛祭り
 
 毎年11月30日に津軽石川でおこなわれる又兵衛祭り。
 ニュースでとりあげられるが、あまり詳しくない。
 幸い、「ウチノメ屋敷 レンズの目」というサイトに写真取材したレポートが載った。
 これを祖述するかたちで内容を描いてみよう。
 又兵衛祭りは、神事のみ。
 人の集まる観光的なものではない。
 場所は鮭直売所のある川原、留めのそば。
 竹4本と注連縄で張られた結界。
 なかにY字型をして荒縄をきっちり巻いた又兵衛さんが立つ。
 その前に松などで飾られた白木の祭壇。
 祭壇には鮭の雌雄一対。
 荒縄で口と尾が結ばれ、形よく反り返っている。
 頭の向きを逆にして腹合わせにし、雌が手前。
 祭壇の前に一列のパイプ椅子。
 津軽石鮭繁殖保護組合の代表者らが座る。
 その後ろに組合員が30人ほど立ち並ぶ。
 12時ごろに神事開始。
 神主が幣束をふりながら関係者一同を清める。
 降神の儀。
 「神さまにご馳走をあげます」
 と告げ、お神酒のふたをとる。
 祝詞〔のりと〕奏上。
 野外ということもあって聞きとれない。
 神主が祭壇から小箱をさげて、又兵衛さんを立てる水際へ行く。
 小箱のなかから白い小さな紙片をまいて清める。
 4人ほどの代表が玉串を祭壇に捧げる。
 「故事にしたがって又兵衛さんを川に送ります」
 と神主。
 組合長を先頭に又兵衛さんをかかえて川へ運ぶ。
 留めのかたわら、案内看板脇の杭に縛りつける。
 又兵衛さんにお神酒をあげ、代表者が礼拝。
 これで祭りは終わる。
 「幕末の頃からやっているようです」
 と神主。
 山手のほうに又兵衛さんの墓がある。
 
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■ 津軽石川原の看板
 
 津軽石川の河口左岸、鮭留め場の又兵衛さんに寄り添うように看板が立っている。
 又兵衛祭りの由来を記したもの。
 資料として、その全文を引用しておきたい。
 原文に改行・ルビを加える。
 
 「又兵衛祭り」由来
 国々に領主が居て勝手気ままに政治を行っていた昔のことである。
 津軽石川に鮭がのぼる頃になると、川に厳重な留〔とめ〕が作られた。
 留の下流の鮭は領主のもの、上流にのぼった鮭は村のものという掟〔おきて〕があった。
 だが、領主は留の間かくを年々せばめたので、ついに鮭は上流にのぼらなくなってしまった。
 ある凶作の年、村人は留の下流であふれるばかりに群れ游〔およ〕ぐ鮭の大群を眺めながら、飢えと寒さにふるえているばかりであった。
 掟に背くと本人はもとより親類・縁者ことごとく極刑を受けるからである。
 そのとき又兵衛という武士が、きびしい監視の目をぬすみ、一夜のうちに留の間かくを広げたので、鮭はどっと上流にのぼり、村人は餓死から救われたが、掟を破った又兵衛は川原で逆さはりつけ(磔)の刑に処せられたのであった。
             津軽石鮭繁殖保護組合
             宮古鮭まつり実行委員会
 
 宮古鮭まつりが1月3日に同じ場所でおこなわれる。
 鮭のつかみどりをメインに大勢の観光客を集めるお祭りだ。
 神事のみで静かな又兵衛祭りを陰とすれば、鮭まつりは陽。
 又兵衛祭りと鮭まつりは表裏一体、一連の祭りと考えていいだろう。
 又兵衛さんは鮭漁の終わる2月までまつられる。
 なお又兵衛さんについてはこの「宮古なんだりかんだり」第2部に「奇祭の主人公」、第3部に宮古の昔話15として「サケの又兵衛」を書いている。
 同工異曲だけれど参照していただければと思う。
 
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■ 知られざる鮭祭り
 
 又兵衛祭りについて検索したら、「 Salmo の情報館」というサイトのなかに興味深い記事をみつけた。
 運営者は東北に住む博物館の学芸員で、鮭を研究しているらしい。
 記事によると、又兵衛祭りに先立って、月山詣〔まい〕りがおこなわれるという。
 又兵衛祭りの当日も、津軽石川原で神事がなされるまえに、いろいろ行事があるらしい。
 これは一般にはほとんど知られていない。
 貴重な資料なので、おおよそを引用しておきたい。
 
  ◎又兵衛祭り
 行事は月山詣りと又兵衛を祭る神事からなる。
 月山詣りは又兵衛祭りの早朝におこなわれていた。
 いまは、網上げ作業の関係で、祭り前の適当な日を選んでおこなう。
 当日、数人の漁師が重茂〔おもえ〕半島に鎮座する月山神社と黒崎神社に参拝し、雌雄一対の鮭を奉納する。
 このさい雄の精子と雌の卵を社殿にこすりつける所作をする。
 宮古湾の守り神である月山・黒崎の両社が、この所作によって怒り、海が荒れると考えられているためだ。
 海が荒れれば定置網などはあげなくてはならず、そのぶん津軽石川に戻る鮭が増えて豊漁になる。
 又兵衛祭りの日、漁師たちは奉納する鮭を持って津軽石地区内の小祠をまわる。
 漁の元締めだった盛合家の屋敷神、エビス石を祀る恵比須堂、留〔とめ〕に隣接する稲荷神社や御前堂など、鮭漁にまつわる場所だ。
 参拝が終わると、事前に作っておいた又兵衛人形を津軽石川原に立て、祭壇を設けて神事が始まる。
 神事にも、その日とれたばかりの雌雄一対の鮭を奉納する。
 20人ほどいる漁師のみならず、組合の役員など鮭漁にかかわるすべての人が参列する。
 このあと、又兵衛人形を留の脇に安置する。
 又兵衛祭りは、その特異な形の人形を祀るだけではない。
 月山詣りから地区内の小祠への参拝まで、又兵衛人形を中心にしながら、地域の鮭にまつわる複合的な儀礼としておこなわれる。
 
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■ 腹子とイクラ
 
 ――今年の目玉は元祖イクラすくい取り
 宮古鮭まつりの広告に、こんな文章があった。
 観光協会のホームページに載っていた。
 ふと思った。
 宮古では昔、イクラという言葉を聞いたことがなかった。
 いまでは宮古でもイクラと言っているのだなと。
 昔というのは3、40年前の話だ。
 当時は、もっぱら「はらこ」と呼んでいた。
 腹子、卵巣膜から離れて一粒ずつぽろぽろになったもの。
 塩漬け・醤油漬けしても腹子だ。
 未成熟で卵巣膜に包まれたままのものは「すずこ」。
 漢字では鈴子。
 鈴生りの状態。
 筋子と書いて「すじこ」と呼ぶこともある。
 鈴子と筋子のどちらが本来かはわからない。
 宮古では、もっぱら「すずこ」と呼んでいた。
 鮭の腹から出したばかりの鈴子、その卵巣膜から一粒ずつ離した卵は腹子。
 これは成熟した腹子よりやわらかい。
 成熟してぷちぷちした腹子、未成熟のやわやわした腹子、どちらが好みかは人によってけっこう分かれる。
 上京して、腹子を、みんながイクラと呼んでいるのに気づいた。
 イクラとはいったい何語だろうかと首をひねった。
 調べると、ロシア語だった。
 ロシア語のアルファベットでは икра 。
 このイクラという外来語が広まって、いまでは鮭の本場の宮古でも使っている。
 ――はらこそば早食い大会 
   大盛のはらこそばを一番早く食べた方が優勝
 宮古観光協会の宣伝には、こんな文章もあった。
 腹子という言い方は、もちろん生きている。
 しかし3、40年という時間は物事が変化してゆくには十分な時間だ。
 腹子・イクラという言葉ひとつをとっても、そんな変化を目のあたりにするようで興味深い。
 
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■ はらこ蕎麦
 
 宮古の名物蕎麦といえば、はらこ蕎麦。
 津軽石川でおこなわれる鮭まつりに登場する。
 市内の蕎麦屋でも、10月から1月ごろにかけての季節品として品書きに並ぶ。
 向町の藤七屋〔とうしちや〕、築地の直助屋のはらこ蕎麦がよく知られている。
 両方とも手打ち蕎麦の老舗で、藤七屋は10代目だとか聞いたおぼえがあるから江戸時代の創業になる。
 はらこ蕎麦は、かけ蕎麦にはらこを載せただけの単純なものにもみえる。
 しかし実はそうではない。
 「月刊みやこわが町」の連載コラムに、高橋政彦さんが「冬の至福ハラコそば」という記事を書いている。(2008年1月号)
 そこに、はらこ蕎麦の作り方が載っている。
 藤七屋のものか直助屋のものか、あるいはどちらも同じなのかはわからない。
 全文引用したい名文なのだけれど、そういうわけにもいかないから要約して紹介したい。
 【はらこ蕎麦の作り方】
 ? 蕎麦つゆを小鍋で温める
 ? このとき、生のはらこを大さじ1杯半ほど入れる
 ? はらこが白くなるまで熱する
 ? すると、つゆにはらこの出汁がでる
 ? つゆを網で漉して、はらこを捨てる
 ? そのつゆを蕎麦にかける
 ? 新たに生のはらこをいっぱい載せる
 高橋さんは、つづけてこう書いている。
 「なんという贅沢さだ。
 それでいて値段は、ハラコの相場によって変わるが、800円前後らしい。
 うむ、これぞ宮古の隠れた冬のグルメである」
 生のはらこは、もちろんその日にとれたものだろう。
 新鮮なはらこが潤沢に手に入る宮古ならではの、まさに至福の蕎麦だ。
 
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■ はらこ丼
 
 はらこ飯〔めし〕というのが郷土料理百選のなかに入っている。
 郷土料理百選は、農林水産省の農村振興局が全国の都道府県から2、3点ずつ郷土料理を選び出したもので、正確には「農山漁村の郷土料理百選」というらしい。
 岩手県からは、わんこそば、ひっつみが選ばれている。
 はらこ飯はどこの郷土料理かというと、宮城県になっている。
 はらこなら日本一の鮭川、津軽石川を擁する宮古である。
 なぜ岩手のはらこ丼が選ばれなかったろう。
 宮城のはらこ飯?
 いったいどんなもの?
 そう思って調べてみたら、要するに鮭の煮汁で炊いたご飯の上に、煮た鮭の削ぎ切りとはらこを載せた鮭の親子丼らしい。
 選定のさいに参考にしたというサイトにレシピが載っているので文章を変えて紹介する。
 【はらこ飯】
 ? お米を水に30分浸して水を切る
 ? 鍋に昆布出汁・酒・砂糖・醤油を煮立て鮭を煮る
 ? ?の煮汁で?を炊く
 ? ?の鮭の骨と皮をとり除き、一口大に切る
 ? ?を丼に盛り、?とはらこを載せて、白炒りゴマをふる
 なかなかうまそうだ。
 鮭とはらこを使った郷土料理ならうまくないわけがない。
 しかし、とぼくは思う――宮古のはらこ丼のほうがうまいだろう。
 【はらこ丼】
 ? はらこ醤油漬けを用意する
 ? ご飯の上にかける 以上
 はらこは、ご飯が見えないくらいたっぷり盛る。
 刻んだ海苔もしくは揉み海苔を散らしたはらこ丼を見かけるけれど、海苔はご飯の上に散らし、その上からはらこをかけたほうが口にひっつかない。
 単純素朴なはらこ丼は、どんぶりの王さまである。
 あまりに単純素朴すぎて、ひょっとしたらそのへんが郷土料理百選に入らなかった理由かな?と思うほどだ。
 
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■ まぐろ大漁
 
 まぐろ大漁のニュースが飛びこんできた。
 きのう(2008年1月23日)のことである。
 宮古市魚市場に200本近くのまぐろが揚がったと。
 各紙の報道によればこうだ。
 クロマグロが入ったのは宮古湾の定置網で、閉伊崎・日出島・姉ヶ崎沖の3ヵ所。
 大小あわせて199本、総重量5トン。
 体長1メートル以上、体重50キロ以上のものもあったが、50キロから30キロ前後が中心。
 20キロ以下のメジも66本含まれていた。
 さっそく競りにかけられ、1キロ4860円から3200円、メジは2640円から1640円の値がついた。
 売り上げは2300万円。
 出荷先は、おもに東京・仙台・札幌方面。
 仲買人のひとりは言う。
 「競りを始めて40年になるが、これほど大量の水揚げは初めて見た」
 宮古漁協によると、宮古魚市場へのクロマグロの大量水揚げは20年ぶりのこと。
 1996年(平成8)に新しい魚市場ができてからは初めてのことだという。
 岩手県水産技術センターによると、県内では2007年(平成19)6月、大船渡魚市場での49本以来。
 暖流系の回遊魚であるクロマグロが、年を越えた大寒のこの時期に、大挙して宮古湾へあらわれたのも珍しい。
 県内の1月下旬のマグロの水揚げはこの10年間、最高でも1トン前後で、今回のような例は記録にないという。
 原因は、どうも水温が例年に比べて少し高いせいらしい。
 対馬暖流が日本海から津軽海峡をへて太平洋に出、北からの親潮にさえぎられて沿岸を南下する。
 その津軽暖流にのり、鰯などの餌となる小魚を追って宮古まで回遊してきたものとか。
 なにはともあれ久しぶりに景気のいい話題だった。
 
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■ まぐろあれこれ
 
 ひと口にまぐろと言っても種類はいろいろある。
 漢字で鮪と書き、スズキ目サバ科マグロ属の総称。
 クロマグロ、メバチ、キハダ、ビンナガ、コシナガの5種が近海にいる。
 ミナミマグロ、タイセイヨウマグロは遠洋で漁獲される。
 事典をみると、そんなふうに書かれている。
 コシナガというのは知らない。
 ビンナガは鬢長と書く。
 ぼくはビンチョウと覚えていた。
 辞書でビンナガを引くとビンチョウとも呼ぶと書かれているから間違いではない。
 クロマグロは本マグロともいう。
 ふつう、まぐろと言えばクロマグロ。
 シビとも呼んで、之比、志毘などと書いたらしい。
 シビは成魚で、幼魚はメジだ。
 遠洋でまぐろを捕る船も宮古にはある。
 たとえば金沢漁業という会社の勝運丸はミナミマグロを追ってオーストラリアはシドニー沖にでかける。
 大井漁業部の海幸丸は北太平洋からハワイ沖にかけてミナミマグロやキハダを追っている。
 ミナミマグロはバチマグロと呼ばれることもあるそうだ。
 ちなみに、マカジキやメカジキにマグロをつけて、カジキマグロと呼ぶことがある。
 マカジキやメカジキは、それぞれスズキ目マカジキ科とメカジキ科。
 マグロはスズキ目サバ科。
 同じスズキ目でも違う種類だから同列には扱えない。
 マグロは宮古ではあまりとれない。
 たまに定置網などに紛れこんでくるのがある程度だという。
 だから今回の時ならぬ大漁には関係者も驚いた。
 かつて宮古のまぐろは有名だったらしい。
 陶芸家で食通をうたわれた北大路魯山人は、宮古のまぐろが最上だと書いた。
 1930年(昭和5)の随筆「鮪を食う話」のなかでである。
 
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◇ 資料 宮古のまぐろ
 
 北大路魯山人のエッセイ「鮪を食う話」から、宮古のまぐろが登場する一節を資料として引用する。
 1930年(昭和5)に書かれたもので、中公文庫「魯山人味道」に収録されている。
 読みやすくするために改行を加えた。
     *
 まぐろの一番美味いのは、なんと言っても三陸、すなわち岩手の宮古にある岸網ものである――
 ということになっている。
 私の経験においても、この宮古ものが全く一番結構である。
 このまぐろは随分大きく、一尾五、六十貫から百貫近くあって、立派なものである。
 もちろん、しびまぐろである。
 この大きな先生が岸網というぶりの網に自然に入ってくるので、これを巧みに小さな舟になぐり上げるということである。
 しかし、この宮古ものというのは、極めて僅少であるから魚河岸にもあったりなかったりで、いつでもあるとはいかない。
 ここ以外で捕ったものは、到底宮古もののような美味さがないので、自然宮古ものは珍重されている。
 (中略)
 まぐろの話をすると思い出すが、かつて私は大膳頭であった上野さんに、宮古のまぐろをすすめたことがある。
 その時、上野さんは、
 「こんな美味いまぐろを未だかつて食べたことがない」
 と言われた。
 必ずしもお世辞ばかりではなかったらしい。
 われわれから考えると、いやしくも宮内省の大膳頭である。
 およそ天下の美食という美食、最上という最上、知らざるものなしといった調子のものであろうと想像していたのとは、案外の言葉を聴いたのであった。
 それならばと、このまぐろは宮古の産であって、この肉はしかじかの部分だということを説明した。
 上野さんの頭の中には、御上のさる御一人が、まぐろを好ませ給うので、このような最上のものがあるとするなら、献上してみたいという考えがあったのではないかと思ったからである。
 とにかく、ひと口にまぐろと言っても、こうなると、なかなか最上はおいそれと口にのぼらぬわけである。
 
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■ ホシノダマ
 
 ホームページのトップにお飾り絵の写真を掲げた。
 その翌日である、宮古魚市場にマグロ大漁のニュースが飛びこんできたのは。
 驚いた。
 そして、これはてっきりお飾りの御利益にちがいないと思った。
 お飾りにはいろいろな縁起物が描かれている。
 恵比寿や大黒、宝船に乗った七福神、おかめ(お多福)、鯛に海老、珊瑚、烏賊や鮑や鮭の大漁。
 海のものばかりではなく、松・竹・梅に鶴・亀、馬や豚、蕪、大判・小判に千両箱・万両箱、山の神……
 なかに、丸い玉の図柄がある。
 上がぐるぐる渦を巻いていたり、螺旋状に尖っていたり、なにかが飛びだしていたり……
 はて、これはいったいなんだろう?
 わかりやすいものばかりの絵柄のなかで、この玉だけがよくわからない。
 謎の物体である。
 首をひねっていたら、川島秀一さんの「漁撈伝承」という本に、だいたいこんなことが書かれていた。
 頭が尖っていて、そこから火炎が燃え上がっている玉、これはホシノダマという。
 ホシノダマとは〈宝珠の玉〉。
 お飾りでは中心的な絵柄だ。
 三陸地方では魚の心臓をホシと呼ぶ。
 このホシは宝珠からきているだろう、と。
 〈宝珠の玉〉というのは仏教用語。
 インドから中国をへて日本に渡ってきた言葉だ。
 摩尼〔マニ〕とか如意宝珠とも呼ばれ、あらゆる願いごとを叶えてくれる神秘のタマらしい。
 お飾りに描くにはこのうえない題材である。
 「漁撈伝承」の説にしたがって、どうやら謎の丸いタマは、この宝珠の玉、ホシノダマで、頭のグルグルは火炎のデフォルメと解してよさそうである。
 
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■ ホッツの語源
 
 お飾りに描かれている丸いタマは〈宝珠の玉〉、ホシノダマだという説を紹介した。
 〈宝珠の玉〉とは重言である。
 珠と玉は同じタマだから、単に宝珠と呼んでいい。
 宝珠がホシとなまった。
 川島秀一さんの「漁撈伝承」では、このホシは魚の心臓をホシと呼ぶことにも通じるとしていた。
 魚の心臓のホシには鰹が代表としてあげられている。
 鰹の心臓の写真もホシノダマの絵と並んで載っている。
 なるほど、似ている。
 小島俊一さんは「陸中海岸風土記」のなかで、おおよそこんなことを書いている。
 ホッツはカツオの心臓。
 褐色のピラミッド形で、上にまた白い小ピラミッドが載った形。 
 高さは5、6センチ。
 うす塩をふり、炉で串焼きにすると、こってりとした味がでる。
 カツオ節づくりに心臓はいらない。
 だから、ガンタ(頭)は浜に捨てる。
 浜の子らはホッツをちぎりとって集める。
 普代村ではホシ、宮古ではホッツ、気仙大島ではホスと呼ぶけれど、みなカツオの胆(心臓)のことである、と。
 しかし、ホッツというのは鰹の心臓にかぎらない。
 いろいろな魚の心臓をホッツと呼ぶ。
 鮭のホッツ、鮪のホッツ、鮫のホッツ……
 ホッツの語源について、肉屋さんやホルモン焼きなどで使われるハツに由来するという説を聞いた覚えがある。
 英語の heart だ。
 なるほど食肉業界のハツの語源は heart かもしれない。
 しかし、魚の心臓をさしてホシ、ホッツとは、もっとずっと古くから言いならわされてきたことばなのではないだろうか。
 ではホッツの語源はなにか?
 星じゃあないのか、とぼくは感じている。
 夜空に輝くホシのように、小さいけれど大切なもの、生命の根源のような存在をあらわすことばにちがいないと。
 
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■ デレッキ問題
 
 まえに「デレンギ」という文章を書いた。
 一文の眼目は石油ストーブからさかのぼって薪〔まき〕ストーブとその周辺の話題に触れるというあたりにあった。
 薪ストーブの備品のひとつに火掻き棒がある。
 それを、ぼくはデレンギと思いこんでいた。
 ほんとうはデレンギではなく、「デレッキ」だった。
 何気なく書いたこの一節は、その後、意外な展開を呼んだ。
 要約していえば、こうなる。
 実はデレッキという外来語であらわされる物体には2つあった。
 ひとつは、火掻き棒。
 もうひとつは、火挟み。
 「デレッキ=火掻き棒」と「デレッキ=火ばさみ」という言葉の用い方の違いは、大ざっぱにいえば地域によって分かれる。
 宮古では「デレッキ=火ばさみ」派が多かった。
 以上の要約には注釈が必要だ。
 デレッキを外来語としたけれど、では何語なのか?
 これが、どうも出自がはっきりしない。
 オランダ語説、英語説などがあって、もとの単語が特定されていないらしい。
 火ばさみは、炭ばさみ、ゴミばさみなど、いろいろな呼ばれ方をする。
 要するに、はさむ=つかむ対象によって言い分けられる。
 薪ストーブ・石炭ストーブや火鉢・炭炬燵などが日常からほとんど姿を消してしまったいま、火ばさみ・炭ばさみといっても通じない人が増えた。
 火ばさみはゴミばさみとして生き残っていても、火掻き棒は見たことがない人が多い。
 ましてやデレッキという正体不明の外来語など、使ったことも聞いたこともないという人が多いのは当然かもしれない。
 なにはともあれ、このデレッキ問題で収穫だったのは、
 「宮古では、火ばさみのほうを、デレッキと呼ぶ人が多い」
 という事実を確認できたことだった。
 その貴重な証言の数々は社会学的・言語学的な資料として、ぜひ収録しておきたいと思う。
 
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◇ 資料 宮古でデレッキと言えば?
 
? ばっつさん
 「うちでは火ばさみのことをデレッキと呼んでいました。
 火かき棒もありましたが、あれはなんて呼んでただろう?」
 ブログ「宮古に帰ろう大作戦!」の「たきぎのお風呂」から抜粋。
 ばっつさんは横町〔よこまち〕で生まれ育った。
 
? 海猫屋さん
 「うちは、火バサミのほうをデレッキと呼んでいました。
 先がL字の棒は見た記憶がありません。」
 海猫屋さんは藤原生まれ。
 
? 青年漁師さん
 「薪ストーブに使うこの挟むの、『デレッキ』と言います。(画像省略)
 宮古の人には通じますが盛岡の人には通じませんでした。
 バーベキューする時にも挟むのってデレッキって浜どこでは言います。
 他地域には通じないようで、言われても分からない・知らない・何それ?
 意味不明らしい。
 オボエテクレ。」
 「漁師の徒然なるブログ」から引用。
 青年漁師さんは日立浜に住んでいる。
 
? Concordian さん
 「おお、なつかしのデレッキ!
 在米ですが、本州最東端の出身です。
 実家はその昔、風呂もストーブも薪でしたので、デレッキを使ってました。
 ただそれは、火かき棒(一本の形状の)ではなく、火バサミに近かったと思います。
 どう表現したら良いのかわかりませんが、何と言うか、巨大なとげ抜きの様な感じでした。」
 読売新聞「YOMIURI ONLINE」の読者投稿欄「発言小町」より。
 
? shiratori さん
 「火かき棒がデレッキではなくて、火ばさみがデレッキではないでしょうか?
 はたしてデレッキは何語でしょう?」
 「宮古on web」の宮古写真帖2より。
 shiratoriさんは高浜在住。
 
? けむぼーさん
 「十勝では先の曲がった鉄の棒のほうをデレッキというようです。
 十勝にも Jin さんのような方がいらっしゃいました。
 デレッキの語源についても考察なさっていらっしゃいます。
 http://homepage3.nifty.com/
         hakuhyodo/kuzu/hokaiben.html
 おもっさげーねーども、おら〜みやご弁の偏差値がひぎーんで、おらのボキャブラにはデレッキづのんはなごぜんす。」
 けむぼーさんは和見町生まれ、いまは北海道十勝に住んでいる。
 
? きっちゃん
 「おらも『デレッキ=火バサミ』さ一票です。
 って言っても、親父がそう言っていたっていうだけで、それ以上の根拠も確証もないんですけど。」
 きっちゃんは新町生まれ。
 
? まっこけっこさん
 「おらが記憶でも火バサミ=デレッキだがす!!
 なつかしい!」
 まっこけっこさんは、宮古のどこかわからないけれど、とにかく宮古生まれ。
 
?うららさん
 「うちのストーブは楕円型で小型でした。
 台所には他に大きな調理用の竈〔かまど〕や、五右衛門風呂の竈もあり、一年を通して薪は大切な熱資源でした。
 火バサミや火っ掻き棒はいつも各所に置いてありましたが、呼び方はそのままでした。
 デレッキは『おら知らねぇ〜』派です(笑)。」
 宮古写真帖2より。
 うららさんは大通り界隈で育った。
 
?通さん
 「面白そうなので書き込みます。
 黒田町生まれ、宮古在住ですが、やはりデレッキ=火バサミですね。
 私は誰か(どっかのおじさん)から『これはデレッキっていうんだがや〜』と教えてもらった気がします。」
 
?甚六さん
 「私は千徳人ですが、デレッキ=火バサミでした。
 学校の外掃除のときに「今日はほうきが○○くん、デレッキは△△ちゃん」とか言って分担していたような気がします。」
 甚六さんは現在、盛岡(付近)在住。

 *出所の断り書きがない発言は「宮古 on web」の宮古伝言板へ書き込まれたもの。
 
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おとうちゃんとブームとストーブ  ばっつ * 投稿
 
 先日、ずいぶん前になくなった父が夢に登場!
 変な編み揚げ長靴を得意そうに履いてニコニコしていました。
 ミックスサンドは父の大好物でした。
 よく横町の「しおや」(川上商店)に買いに行かされて、お駄賃に私のぶんも買ってもらってた記憶があります。
 父は「これだ!」と思うとしばらく凝る人でした。
 このミックスサンドブームのほかにも、ちっちゃいカップ焼きそばブームもありました。
 一生のブームとなったのが「どんこ釣り」と「あぶらっこ釣り」です。
 そういえば釣りにもミックスサンドを持って行ってたなぁ。
 N家の冬のミックスサンドの食べ方。
 たぶん発案者は父。
 「ストーブの上にのせる」
 です。
 ほんわか温まって、なかのバターがちょっと溶けてジャムと混じり、ふちがカリカリっとなって、めちゃめちゃ美味しいですよん。
 いや待てよ……
 うちではいろんなものをストーブの上にのっけて、
 「なぞ〜た〜べ〜?」
 と実験していた気がするぞ。
 みんなの家もそうですか?
 
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たきぎのお風呂   ばっつ * 投稿
 
 宮古で生まれて関西に旅立つまでの18年間ずっとお風呂は薪〔たきぎ〕でした。
 同級生の家でも近所の家でもすでにそんなものは無かったので恥ずかしいような気がしていました。
 板金屋という父の仕事柄、薪は取り壊した家の廃材でした。
 うちの燃焼方法は(笑)時代劇でよく出てくるような「外から火吹き竹でふぅふぅ吹く」というものではなく、釜は浴槽の横にあって上から縦方向に薪をくべるやり方です。
 浴室内には普通の窓のほかにもうひとつ窓があり、そこを開ければ薪が詰め込まれた空間が……。
 はじめは小さい木片を入れて、新聞紙に火をつけて入れ、団扇でぱたぱたします。
 そして徐々に大きめの薪をくべていく。
 家中に木の燃えるいい匂いとパッチンパッチンという爆ぜる音がしていました。
 テレビを見ているのに「こら、火ぃ見でこぉ!」だの、せっかくくべても「それぁダメだぁが! まっと燃えやすそうなぁのん入れろ〜!」だのと面倒なことこの上ないシロモノでしたね。
 入浴中にお湯がぬるくなれば薪の窓をあけてデレッキで薪をくべる。
 火力の調節は釜についた小さな空気穴をデレッキで開け閉めする。
 開け具合の微妙な調節に失敗すると火が消えてしまって、「消すた〜な! このぉ!」と怒られたのも今では懐かしいです。
 (うちでは火ばさみのことをデレッキと呼んでいました。
 火かき棒もありましたが、あれはなんて呼んでただろう?)
 先日宮古に帰ったときにも母と、「薪のお風呂は体が芯から温まって良がったがね〜」と話していたのです。
 福島湯の朝風呂につかりながら。
 やたらと手間がかかるし、風が強い日はたてられないから大変なんですけどね。
 今はもう灯油が燃料のお風呂に変えてしまったので懐かしがってもどうしようもないですが、ほんわかとよみがえってくる宮古の思い出なのでした。
 
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■ 潮吹グランドホテル
 
 浄土ヶ浜から北の山の上に、白い建物がみえる。
 潮吹グランドホテルの廃屋だ。
 営業をやめてから、もうだいぶ経つ。
 子どものころ――
 中学生のころだったか、このホテルができて評判になった。
 潮吹穴に近いといえば近い。
 国の天然記念物で、宮古八景のひとつに数えられる潮吹穴。
 その珍しい自然の光景を見おろす位置に建てたホテルだから目算はあったのだろう。
 けれど、近いといっても潮吹穴を見物するには山の上から海ぎわまで下っていかなければならない。
 駅からは遠い。
 足まわりが悪くて、あんなところに泊まる客がいるんだろうかと言う人もいた。
 ホテルのバスが宮古駅に通っていた。
 今風に言えばシャトルバスだ。  
 そのうち見かけなくなった。
 何年か前、久しぶりに八幡さまから閉伊川の土手を歩いて鉄橋へ行った。
 土手から船場(ふなば)をみたら一台の廃バスが目にとまった。
 潮吹グランドホテルのバスだった。
 錆びついて塗装の薄れた車体に、
 「結婚式、宴会場、諸会議に御利用下さい……ラドン温泉……収容人員350名……」
 といった文字が読みとれた。
 子どものころにみた潮吹グランドホテルのバスに、こんなかたちでお目にかかるとは、と驚いた。
 浄土ヶ浜からみるホテルの廃屋は、ときによって形を変える。
 たぶんまわりに繁った樹木のせいだろう。
 季節の移ろいによって大きく見えたり小さく見えたりする。
 自分がなにも知らない観光客だったらどうだろう。
 浄土ヶ浜から、海を見おろす山の上の白い建物を目にして、たぶんホテルだろうとは推測するにちがいない。
 そして案外、あのホテルに泊まってみたいと思うかもしれない。
 
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■ 浄土ヶ浜の坂
 
 角力浜(すもうはま)のバス停を過ぎる。
 すぐに左へ急カーブをきる。
 登り坂が目に飛びこんでくる。
 この長い坂を越えれば浄土ヶ浜だ。
 サドルから腰を浮かせ、ペダルをこぐ足に力をこめる。
 ほんとうなら坂の手前からそうしたい。
 しかし登り口の急カーブが曲者(くせもの)だ。
 ちょうど建物が邪魔して見通せない。
 大型の観光バスと鉢合わせしたり、道を知らない観光客のクルマが突っこんでくる。
 夏休み、天気のいい日はいつも海へ行った。
 小学生のころは藤原・磯鶏(そけい)の砂浜だった。
 浄土ヶ浜に通うようになったのは中学生になってからだ。
 クラブ活動のあと、自転車をこいだ。
 通学用に買ってもらった軽快車の変速機を使っても、浄土ヶ浜の坂はなかなか登りきれなかった。
 30度の勾配が200メートルつづいている。
 息せききって登りつめた先に太平洋が広がる。
 あの解放感、高揚感が好きだった。
 この坂でいちど怖い思いをしたことがある。
 帰り道、上から見おろしたらトラックが下っている。
 緑色に塗られた大型だ。
 ペダルに両足をあずけ、スピードを落とさず走った。
 遊び疲れてぼうっとしていたのだろうか。
 気づいたらトラックの荷台が目のまえに迫っていた。
 トラックは下っていたのではなかった。
 停まっていたのだ。
 一瞬後、空きのない左にハンドルをきった。
 右側をすりぬけたら危ない、と感じた。
 死角になった向こうから馬力をかけたクルマが登ってくる。
 自転車は草むらに突っこみ、斜面に乗りあげて倒れた。
 足や腕をすりむいただけですんだ。
 自転車も壊れなかった。
 トラックのまえに回った。
 運転手はいない。
 ボンネットの長い鼻面を一発殴りつけた。
 
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■ 喜兵衛どんと古ぎつね
 
 ネットサーフィンをしていて、ある文章に出会った。
 「喜兵衛どんと古ぎつね」という随筆だ。
 宮古の昔話が書かれている。
 著者は、とし子さん。
 サイトの運営者の swing さんとメールのやりとりをした。
 とし子さんは swing さんの母親だった。
 ことし米寿になるという。
 田老の出身で、いまは神奈川にお住まいのようだ。
 「喜兵衛どんと古ぎつね」に登場する喜兵衛どんは、とし子さんの父親である。
 喜兵衛どんは17歳で津軽石の造り酒屋に丁稚奉公をした。
 一所懸命に働いてお金を貯め、上京して簿記学校に入った。
 新聞配達をしながらの苦学だった。
 卒業して村に帰り、役場につとめた。
 それから選ばれて医者になる勉強をするため、ふたたび上京。
 医学専門学校、いまの慈恵医大に入った。
 病気になって勉学を断念し、帰郷。
 医者にはなれなかったけれど薬屋を開業した。
 結婚してつくった家庭は子だくさんで怪我・病気が絶えなかった。
 そのほとんどは喜兵衛どんが治した。
 そんな喜兵衛どん、子どものころ、およね婆さんから炉端語りに古ぎつねの話を聞いた。
 ――この辺はな、夜な夜な古ぎつねが出て人さまに悪さする。
 もしそういうことにぶつかったら、袖で目をかくし、
 「ナモミだぁー」
 って大声で叫ぶんだ。
 そうすりゃ不思議や不思議、さあっと消えてしまう。
 喜兵衛どんは、そののち造り酒屋に奉公して普代村まで代金のとりたてにゆく途中、古ぎつねに出会う。
 さてどうなったか。
 話のつづきは swing さんのサイト「よく学びよく遊べ」でどうぞ。
 http://www.interq.or.jp/sun/swing/
 目次にある「喜兵衛どんと古ぎつね」をクリックすると読むことができる。
 
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■ 奇遇
 
 奇遇としか言いようのない体験をした。
 ネット上をさまよっていて「喜兵衛どんと古ぎつね」という随筆に出会った話を書いた。
 著者は、とし子さん。
 随筆の最後のほうに赤沼という姓が書かれていた。
 赤沼とし子――
 どこかで聞いた名のような気がかすかにした。
 随筆が載っているサイトの運営者 swing さんと連絡がとれた。
 了承を得て「喜兵衛どんと古ぎつね」を「宮古なんだりかんだり」で紹介した。
 メールのやりとりのなか、とし子さんのことがわかってきた。
 とし子さんの書いた別の文章に、ずっと以前にぼくは出会っていたのだ。
 最近(2006年7月31日)亡くなった吉村昭さんに「三陸海岸大津波」という本がある。
 中公文庫の1999年(平成11)発行・第4版を持っている。
 そのまえに出ていた同じ内容の中公新書版は「海の壁〜三陸沿岸大津波」というタイトルで、1970年(昭和45)発行。
 新書版も持っていたはずだが見つからない。
 最初にこの本を読んだのはいつか、はっきり記憶していない。
 とにかく衝撃を受けた。
 1933年(昭和8)3月3日の三陸大津波で田老村はほとんど全滅した。
 奇跡的に生き残った人たちの手記が、この本に載っている。
 なかに、「津波」と題した、とし子さんの作文があった。
 田老小学校の高等科2年、いまの中学2年生で津波にあう。
 母と姉を喪う。
 痛切な体験記である。
 読んだばかりではない、一部を要約して「宮古なんだりかんだり」第5部の「ヨタ、ユダ」という文章に引用してもいる。
 だから「喜兵衛どんと古ぎつね」の著者と同一人だとわかったときは驚いた。
 こんなこともあるのか――
 きっかけが「喜兵衛どんと古ぎつね」という話だっただけに、狐につままれたような気さえしている。
 
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■ 赤沼山
 
 「喜兵衛どんと古ぎつね」を書いた赤沼とし子さんにまつわる話をつづける。
 赤沼といえば田老に赤沼山がある。
 津波のさいの避難場所に指定されている裏山だ。
 1896年(明治29)の三陸大津波のときも、1933年(昭和8)のときにも、いち早くこの山へ登った人は助かったらしい。
 「喜兵衛どんと古ぎつね」の載っているサイト「よく学びよく遊べ」を拾い読みした。
 「わが家のはなし」というページに、とし子さんの作詞・作曲した歌があった。
 MIDI音源で曲も収められている。
 津波に奪われた母や姉を偲び、いまは遠いふるさとを思う歌だ。
 
  ぼおうず山(赤沼山)
 
  1.小雨にけむる浦山に
    友達と連れだっていちごとり
    今もあの場所になっていますか
    無邪気にはしゃいだ幼き日々よ
 
  2.学校前の小川のほとり
    うす紫のからかんこ
    今もあの場所に咲いていますか
    いとしき花よ大好きな花
 
  3.夕ぐれ時の河原っこ
    所せましとおしゃらく花が
    すっかいこしゃぶって家路に帰りゃ
    偲べばかがさんの笑顔なつかしい
 
 浦山は裏山だろうか。
 田老弁、宮古弁がいくつか織りこまれている。
 ぼおうず山というのは、赤沼山のことを坊主山ともよんだらしく、「ぼおじやま」と発音する人もいる。
 からかんこはカタクリの花。
 おしゃらくは芸者さんのことだけれど、おしゃらく花はわからない。
 すっかいこは、スッケーコ、スッケンコなどとも発音する。
 同じ名の海藻もあるけれど、ここでは植物のスカンポ、スイバのことだろう。
 
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■ 臼木山の漁民住宅
 
 角力浜(すもうはま)とターミナルビルをつなぐ坂道の北がわに原っぱがある。
 臼木山の南の細長い裾野で、ナントカ沢というような地名があるのかもしれない。
 宮古港寄りのほうには漁協の大きな倉庫・作業棟らしきものが2、3棟並んでいる。
 浄土ヶ浜寄りのほうが、ずっと雑草地になっている。
 そこに、むかし、何軒か民家が建っていた。
 6、7軒、あるいは10軒くらいあったかもしれない。
 平屋の木造家屋ばかりだった。
 市営住宅かなにかのようにも見えた。
 坂を越えた小石浜(黒石浜)には磯漁に使うさっぱが並んでいるから、その漁師さんたちの家なのだろうと思っていた。
 shiratoriさんによると、漁民住宅と呼ばれていたらしい。
 家屋と家屋のあいだは、けっこうゆとりがあって、建て混んでいるという感じはしなかった。
 花壇や狭い畑もあった。
 家の板壁からは煙突が伸び、薪が積まれていた。
 みなおなじようにくたびれた建物だった。
 国立公園のなかだから改装も建て替えも自由にできないのかもしれないと思っていた。
 あの漁民住宅がなくなったのは、いつ頃だろう?
 1970年代の終わり頃までは、まだあったような気がする。
 北がわには細い道が雑草に埋もれていた。
 最近になって第1駐車場まで登る津波避難路として整備された。
 浄土ヶ浜駐車場は、1968年(昭和43)4月23日に完成したという記事が宮古市史年表にある。
 1968年というと中学2年のときだ。
 駐車場ができるまえは、桜山までつづく小高い原っぱや雑木・雑草の茂みだったような気がする。
 東がわに、ターミナルビルはまだなかった。
 できたのは1974年(昭和49)のことらしい。
 陸中海岸国立公園の標識が、いまもほとんどおなじ位置にある。
 そこに自転車を置いて小石浜へおりた。
 
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■ 黒い小石の浜
 
 小石浜を黒石浜とも呼ぶ。
 名前が2つあるというのは妙だ。
 ひょっとしたら、部分的に呼び分けていたのかもしれないなどとも思う。
 舟揚げ場のあたり、むかしは黒い小石の浜だったとマリンハウスのあぶらっこさんは言う。
 黒い小石の浜を、人によって黒石浜とも小石浜とも呼んだから2つ名前ができたのだろうか。
 この浜で磯遊びをしている子供連れのすがたをみかけるけれど、遊んでいる観光客は少ない。
 ここはおもに漁師さんの浜だ。
 いまは舟揚げ場がコンクリートで固められている。
 コンクリートの舟揚げ場は斜路とかスロープとも呼んだ。
 磯舟が何艘も並んでいる。
 上のほうに木製の巻き上げ機が、いくつか据えつけてある。
 shiratoriさんによると、巻き上げ機はカグラサン(神楽桟)というらしい。
 ロクロ(轆轤)とぼくは呼んでいた。
 遊歩道に沿った北がわの磯は岩場のままだ。
 岩は浄土ヶ浜とおなじ石英粗面岩だと思う。
 小石浜(黒石浜)は南の舘ヶ崎と北の穴ヶ崎にはさまれている。
 2つの崎は石英粗面岩の白、はさまれた浜は黒い。
 黒い岩の名はわからない。
 遊歩道は穴ヶ崎にぶつかって、北へ中の浜に通じるトンネルと、東へ観光船発着所・防波堤に向かう道に分かれる。
 トンネルは、1958年(昭和33)に完工したと宮古市史年表にある。
 防波堤や観光船発着所がいつできたかはわからない。
 国土交通省が1977年(昭和52)に撮影した航空写真には写っている。
 ターミナルビルは1974年(昭和49)に竣工したというから、防波堤や観光船発着所もその頃にできたのかもしれない。
 防波堤の外がわには海食洞がある。
 八戸穴(はちのへあな)と呼ばれている。
 
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■ ウニ丼にホヤの刺身
 
 クール宅急便が届いた。
 伝票を見ると差出人はHさん。
 品名には「生ウニ」とある。
 近いうちに宮古の魚介を送るとは前もってメールがあった。
 しかし、まさか生ウニとは思いもしなかった。
 驚いた。
 「うぉっ!」
 つい歓声が出た。
 急いで発泡スチロールの箱を開けた。
 生ウニが180グラム入りの容器で2個。
 それにホヤがごろごろと5つばかり氷詰めになっている。
 重茂(おもえ)の外海でとれたばかりの新鮮なウニとホヤ!
 これほど嬉しい贈り物はない。
 Hさんの心配りに感激した。
 晩は豪華だった。
 ウニ丼にホヤの刺身。
 ご飯が完全に隠れきるとまではいかなかったが、ウニ丼にすると4人前ある。
 炊きたてのご飯にウニを載せる。
 刻んだ海苔も青紫蘇も、ましてや大葉なんて余分なものはいっさい載せない。
 新鮮なウニだけである。
 ワサビを溶かした醤油をたらす。
 あとはひたすらわしわし食べる。
 さて、と落ちついたところでホヤの刺身にとりかかる。
 ウニよりも鮮やかなダイダイ色が目にしみる。
 口にふくむと、かすかな苦味といっしょに潮の香がひろがる。
 焼酎のロックによく合う。
 ホヤは久しぶりだ。
 5個全部さばいた。
 ウニ丼を堪能したあとだけに、いっぺんには食べきれない。
 半分ぐらい余したのを塩辛にした。
 手間はかからない。
 ひと口大の切り身をビンに入れる。
 適当に塩を振って箸でかき混ぜる。
 3日ほど冷蔵庫で寝かせれば、うまい塩辛ができる。
 じっくり熟成するまえに食べてしまわないか?
 それが問題だ。
 
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■ ほやほやのホヤ
 
 宮古から送られてきた採りたてのホヤ。
 ほやほやのホヤ。
 ホヤは鮮度が命。
 海産物のなかでも潮の香が強い。
 時間がたつと潮の香が臭みに変わる。
 初めての人がそんなホヤにあたるとホヤ嫌いになってしまう。
 潮の香の秘密は、いぼいぼの殻のなかに詰まっている水。
 ホヤの水。
 さばくときにホヤの水がぴゅっと噴き出る。
 これに気をつけさえすれば、さばくのは簡単。
 頭に2本のツノがある。
 入水管と出水管。
 このツノの下に横に庖丁をいれて輪切りにする。
 ホヤの水は捨てずにボウルにとる。
 開いた部分を指でつまんで立て、上から縦に庖丁をいれる。
 最後まで切らずに根もとの手前でとめる。
 指で殻から身をぺろっとはがす。
 黒いワタや汚れを洗い流し、ひと口大に切る。
 ホヤの水を布で漉して器にいれる。
 その器に刺身を盛る。
 面倒ならホヤの水は使わなくていい。
 そのままぺろりと食べていい。
 醤油、酢醤油につけてもいい。
 何個も手に入って食べきれないときは塩辛にする。
 殻のまま冷蔵庫に入れて保存しない。
 冷蔵しても鮮度が落ちる。
 クール宅急便などで送られてきた発泡箱のなかに氷詰めのまま放っておくのもいけない。
 とけた水が入って変質する。
 なるべく早く一度に全部さばいてしまう。
 新鮮なホヤの刺身はうまい。
 新鮮なホヤの身ですばやくつくった塩辛もうまい。
 潮の香にみちて、つるつるぷりぷりした独特の食感は、なにものにもたとえようがない。
 
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■ 珍味ざんまい
 
 みやごのごっつお市場から宮古の珍味が届いた。
 めふん、かき燻製、鮭とば、鮭の白子の香味焼き、ほや燻製の5品。
 マンボウこわだも頼んだけれど、ちょうど直前に大量注文があって品切れというメールが入った。
 で、ほやの燻製にさしかえてもらった。
 ?めふん
 鮭の腎臓の塩辛。
 とれたての鮭の腎臓に塩をし、冷たい浜風にあてて余分な水分をとばす。
 そのあとじっくり2年も熟成させたという。
 ?牡蠣の燻製
 本州最東端、重茂(おもえ)沖の深層水で炊き、桜のチップで燻したもの。
 燻製なのに長さが6〜7センチ。
 もとはよほど大粒だったのだろう。
 ?鮭とば
 鼻曲がり鮭に塩をして寒干しし、皮のついたまま棒状に切ってある。
 噛むと野趣にあふれた味がじわっと口に広がる。
 ?鮭の白子の香味焼き
 鮭の精巣を炭火で焼きあげ、秘伝の味をつけたもの。
 表面に弾力があって、「ほんとうに白子?」という意外な口当たり。
 ?ホヤの燻製
 剥いた身を塩茹でし、浜風にあてて水分を飛ばす。
 そのあと桜のチップで燻す。
 生のほやが苦手な人でも、これならいけるだろう。
 ついでに?マンボウのこわだ。
 こわだは腸。
 湯引きし、拍子木切りにしただけ。
 串焼きにしたり、フライパンでかるく炒めて塩コショウするといいらしい。
 マンボウの身は「サメの身」といって、これは食べたことがあるけれど、こわだはまだ。
 品切れだったのは残念だ。
 届いた宮古の珍味のかずかずは、数日を経ずして、ことごとくわが胃におさまった。
 いや、食いでのあるとばだけは、もう少しもったが。
 
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■ 感動のめふん
 
 宮古の珍味――めふん、かき燻製、鮭とば、鮭の白子の香味焼き、ほや燻製。
 珍味と呼ぶにふさわしい逸品ぞろいである。
 まず牡蠣の燻製の大きさ・うまさに驚いた。
 けれど、個人的嗜好からいって、いちばん感動したのは、めふん。
 プラスチックの容器にぎっしり詰めこまれた140グラムの不可思議な物体。
 それは宝物のようだ。
 原料は鮭の腎臓。
 あとは塩だけ。
 赤黒くて、光沢があり、細長くて、弾力がある。
 容器からとりだし、まな板にのせ、包丁で適当に切りわける。
 最初だけそうした。
 あとは容器から箸でつまみ、少しずつ噛み切りながら食べた。
 つまみあげると、ふるふる、ぷるぷる震える。
 色艶とあわせて、その身悶えを目で愉しむ。
 噛み切って、こんどは舌の上でふるふる、ぷるぷるを味わう。
 塩気といっしょに、なんとも言いようのない旨みが、じわっと湧いてくる。
 温かいご飯を口に放り込む。
 うまい。
 ご飯が進んで困った。
 塩で水分を抜き、さらに風にあて、陰干しして余分な水気をとばし、密閉容器で2年も熟成させるらしい。
 手間ひまをかけた、ほんものの手づくり。
 しかしまず、140グラムのめふんをつくるには、いったい何匹の鮭を使うのだろう、と思う。
 じつは自分でめふんをつくったことがある。
 「みやごのごっつお市場」のめふんとはつくり方も、できあがりも、まったく違う。
 自己流でつくっためふんもうまいと自分では思う。
 ただ、「みやごのごっつお市場」のめふん――これはただものではない。
 
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■ 夢尽きず
 
 盛岡のみみずく書房が店を閉じたらしい。
 上ノ橋通りの、いわゆる町の本屋さんだ。
 いい本を置いて、界隈の文化的な雰囲気を高める存在だった。
 先代の店主は佐々木仁朗さんといい、宮古に住んでいたことがある。
 先代といっても店を閉じた当主と血のつながりはない。
 子どもはいなかったから店をひとに譲って引退したのだ。
 仁朗さんは山田に生まれ、思春期を中国・上海で過ごした。
 兵隊にとられ、ビアクという南洋の島で九死に一生をえて日本へ帰った。
 敗戦直後の混乱のなかを山田に戻り、商社の宮古支店に勤めて海産物の買いつけを担当した。
 どこで知り合ったかわからないけれど、盛岡の女性と結婚した。
 10年ほど会社勤めをしたあと盛岡に本屋を開いた。
 いまの位置から何軒か上ノ橋寄りの小さな店だった。
 経営はどうにか軌道に乗り、上ノ橋通り商店会の会長をつとめた。
 1988年(昭和63)に奥さんを癌で失った。
 翌年、歌集「夢盡(つ)きず」を出版した。
 仕事のかたわら短歌を詠む歌人だった。
 「夢盡きず」のなかに宮古にかかわる歌がある。
 
   鮑(あわび)の「小幡」
  新設の宮古支店につてありて
     「小幡」に勤むることとはなりぬ
 
 小幡物産の宮古支店というのは当時の八幡通り、いまの大通りにあった。
 
  移り住む宮古に家の定まりて
     妻ねんごろに位牌を抱く
 
 引っ越す前にお義母さんが亡くなられたらしい。
 宮古の家は横町のオシンザン下にあった。
 宮古から奥さんの育った盛岡へ移って本屋を開くのは夢のひとつだったろう。
 歌集を出すのも夢だった。
 いまなお尽きない夢を追って仁朗さんは旅をしながら絵を描いていると聞いた。
 歳は、たしか89になる。
 
 付記――みみずく書房が店を閉じたのは、ことし(2008年)8月11日のことだったらしい。
 
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■ 佐々木仁朗歌集から
 
 佐々木仁朗さんは歌誌「個性」の同人だった。
 「個性」は現代短歌の代表的歌人のひとりといわれる加藤克巳が主宰していた。
 仁朗さんの歌集は2冊ある。
 第1歌集は1983年(昭和58)6月刊行の「ビアクの砂」。
 これは読んでいない。
 陸軍少尉として進駐したニューギニアのビアク島で部隊はほぼ全滅した。
 その苛酷な体験にもとづく歌を収めたものらしい。
 第2歌集「夢盡(つ)きず」は1989年(昭和64)7月10日に刊行された。
 発行所は「夢盡きず」刊行会となっている。
 なかから宮古にかかわる歌を拾いだしておきたい。
 
   鮑の「小幡」
  新設の宮古支店につてありて
     「小幡」に勤むることとはなりぬ
 
  鱶のひれ乾し鮑など中国に
     商ふ古き「小幡」と識りぬ
 
  集めたる品々倉に溢れども
     積まむ貨車も無く商談流る
 
  物あれば売れる時代と思ひつつ
     輸送手段のなきを嘆けり
 
  海産の宝庫に在りてつくづくと
     敗戦の疲弊身にしみて思ふ
 
  羅賀丸の乗り合ひ人ら着ぶくれて
     竹籠負へり老いも若きも
 
  鍬が崎 港の水照(みでり)寒々と
     続く不漁の幾年つづく
 
  高き陽に片時雨れつつ虹たてる
     浄土が浜の白き岩むら
 
  大漁旗なびかせ帰る船の上
     かもめの群の寒風に舞ふ
 
   とどが崎
  親潮のたけり湧き立つ岩礁の
     どよみひねもす岩にこだます
 
  海流の交わる沖に霧わきて
     魚族(うろくず)さはに集まるところ
 
  とどが崎きりぎし高く海照らす
     最東端の白き灯台
 
  切り断てる岩の入江に鎮(しず)もれる
     水碧(あお)く澄みてうつつともなし
 
  外洋の潮風すさぶ崖上の
     樹々おのづから岩肌に這ふ
 
  恋ひ来れば重茂の坂の径(みち)遠く
     風こうこうと吹きわたりたり
 
  外洋の断崖(きりぎし)高き岩ひだに
     磯萱草(いそかんぞう)の朱き花咲く
 
  半島の巨岩(いわ)黒々と砕け散る
     飛沫(しぶき)の白き中にむら屹(だ)つ
 
  くろぐろと岬に茂る樹々のうへ
     潮けぶり吹く荒るる海より
 
  移り住む宮古に家の定まりて
     妻ねんごろに位牌を抱く
 
  端然と老松一樹庭にあり
     小高き丘に建てる借家は
 
  山査子(さんざし)の花のゆれをる庭裏の
     畠に遊(すさ)びの鍬を揮ふも
 
  ふくろふの今宵も鳴くや裏山に
     風をさまりて月さやに照る
 
  山椒の赤き実弾(は)ぜてあらはれし
     つぶらな種子の黒きかがやき
 
  見なれざるまだらの蝶が庭に来て
     花の湛(たた)へるひかりに狂ふ
 
  子の無きをわれはさほどに思はねど
     妻の悩みはつのりゆくらし
 
  遠太鼓 風に聞ゆる真昼庭
     山蟻のながき行列を見る
 
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■ こがねや
 
 大通2丁目に「こがねや」という居酒屋があって、この20日で店を閉じるそうだ。
 朝日新聞の県版に載っていた(2008年12月16日付)。
 常連客から親しみをこめて「母さん」と呼ばれる女将(おかみ)の小金渕さん。
 おでんと大判焼きの屋台を始めたのは1952年(昭和27)のことだった。
 北海道えりも町に生まれ育ち、戦後、兄の戦友だった人と結婚して宮古へ来た。
 稼ぎの足しにと11年のあいだ屋台を引いた。
 市内で屋台の許可が出なくなって店をもった。
 1984年(昭和59)にいまの場所へ移った。
 屋台時代から56年がたった。
 小金渕さんも81歳。
 「たくさん稼がせてもらったから、元気なうちにやめたい」
 という。
 屋台をやめて最初にもった店がどこにあったか、記事には書かれていない。
 どこだったのだろう?
 そう思いながら、いまはない、おでんと大判焼きの2軒の店を思い浮かべていた。
 1軒は八幡通り、いまの大通り2丁目。
 洋画の国際劇場から大通りへ向かう道筋の東並びだった。
 もう1軒は宮町。
 女学校踏切の南側にあった。
 いまの出逢い橋の南西たもとあたりだ。
 国際近くの店のほうが古かった。
 中学・高校時代に入った回数も多い。
 どちらの店も名前を覚えていない。
 生徒が入れる店だからアルコールは置いていなかったと思う。
 どちらもいつのまにかなくなった。
 もうひとつ、記事を読みながら思ったことがある。
 「こがねや」の小金渕さんが結婚した相手は重茂(おもえ)あたりの人だったかもしれないと。
 重茂や赤前などに小金渕という姓をもつ家があり、この名にまつわる言い伝えを昔がたりに聞いたおぼえがあるからだ。
 
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■ 黄金淵の伝説
 
 重茂(おもえ)半島の太平洋岸に一艘のみすぼらしい船が流れついた。
 江戸時代の初めごろのことだ。
 船には戦にやぶれた落ち武者たちが乗っていた。
 頭(かしら)は宇都宮と名のった。
 下野国(しもつけのくに)――いまの栃木あたりから逃げてきたという。
 軍資金に黄金を隠し持っていたという話もある。
 重茂のムギオソリ(麦尾曾利)というところにおちついてからは、みんなで漁や畑仕事に精を出した。
 いつしか頭はムギオソリの長者と呼ばれるようになった。
 そのころ田老に破法坊という悪者がいた。
 法を破る極悪非道のもの、破法坊。
 ほんとうの名はわからない。
 あたりの村むらに手下を住まわせ、徒党をなして名のある家や豪商に押しこんだ。
 この破法坊がムギオソリの長者に目をつけた。
 うわさを聞いた長者は、刀をとりだして守りをかためた。
 ところが破法坊たちの襲撃も徒党とはいえ慣れて手ぎわがよかった。
 ムギオソリの長者は黄金をつめた袋を馬にのせて館から逃げだすのが精いっぱいだった。
 けわしい山を越える峠道で破法坊たちが追いつき矢を射かけてきた。
 峠の崖の下には谷水が流れくだり、淵に渦を巻いている。
 長者は峠から淵に黄金が入った袋を投げこんだ。
 それを見た盗賊たちは崖を駆けおりた。
 その隙に長者は赤前の村役の家にたどりついた。
 宮古の代官所へ早馬が走った。
 盗賊たちも急いで淵にもぐった。
 淵は深くて暗いうえに水が異様に冷たい。
 ついに袋を見つけられず、破法坊たちは、迫る夕闇のなかにばらばらと姿をくらましていった。
 そのときから黄金が投げこまれた淵を村人たちは黄金淵と呼ぶようになった。
 いつしか淵は埋まって今はない。
 このあたりには小金渕という苗字の家がある。
 ムギオソリの長者が黄金の袋を投げこんだ淵に由来してつけられたということだ。
 
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■ ミヨシ食堂
 
 ミヨシさんという食堂があった。
 大通3丁目の交差点を八幡沖踏切のほうへ入ったところだ。
 ミヨシは、みよし、あるいは三好、美好――
 どう書いたのだったか?
 食堂はつけず、いつも「ミヨシさん」と呼んでいた。
 小さな店で間口は一間しかない。
 とりたてて目玉になるようなものもなかった。
 中華そば、ライスカレー、玉子丼、親子丼、カツ丼、オレンジジュース、サイダー……
 夏にはカキ氷という強力メニューが加わった。
 定食はあっただろうか?
 うちは商売をやっていたので昼は弁当をとっていた。
 親父もおふくろも店で働いていた人たちも毎日の昼は日替わり弁当だ。
 赤や黒のベークライト製の二段重ね。
 高長という仕出し屋さんだった。
 土曜に学校から帰ると、この弁当が待っていた。
 苦手なおかずが多かった。
 だから、お金をもらってはひとりでミヨシさんに行った。
 ライスカレーやカツ丼は脂身が苦手。
 親子丼は鶏肉がまったく駄目。
 とにかく好き嫌いが多かった。
 中華そば、玉子丼をよく食べた。
 中華そばは醤油色の濃い、ちょっとしょっぱめ。
 玉ネギをとき玉子でとじただけの玉子丼は、あっさり味。
 たしか値段はおなじで、いちばん安かった。
 麺類よりご飯が好きだったから、けっきょく玉子丼のほうをよく食べた。
 食堂で玉子丼を食べたのは、あの時期だけだ。
 ときどき、おばさんが、にっこり笑って声をかけてくれた。
 ミヨシさんのおばさんは、小柄で、丸顔で、子ども心にも可愛らしい感じがした。
 小さな体に大きな岡持ちをさげて近所を出前に歩く姿も見かけた。
 子どもが二人いた。
 男の子と女の子で、ふたりとも、おばさんそっくりだった。
 あの店も、いつのまにかなくなった。
 それでも、おばさんの懐かしい笑顔は、玉子丼の素朴な味や匂いとともによみがえってくる。
 
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■ 怪盗ワセゴンの伝説
 
 田老の破法坊とならんで知られた宮古の怪盗がいた。
 ワセゴンだ。
 早稲栃権之助(わせとち・ごんのすけ)――
 崎山の早稲栃あたりを根城とする権之助。
 だから、略して早稲権。
 宮古権之助ともいう。
 破法坊と違って残虐非道なふるまいはしない。
 徒党も組まない。
 そのうえ手口がスマートだった。
 どうやら忍術の心得があったらしい。
 ある古老はこんなふうに伝えている。
 ワセゴンは一日で80キロ以上も走った。
 ひと晩で盛岡まで行って戻ってきた。
 風のごとく走ったので腹に笠をあてていても落ちなかった。
 ワセゴンのかよった早稲栃の山道は権之助街道と呼ばれた。
 役人に荒縄でぐるぐる巻きにされたうえに大樽をかぶせられても煙のように消えた。
 神出鬼没、盛岡藩内はもとより仙台領まで股にかけて盗みまくっていた。
 ところが、一軒だけ、どうしても盗めなかった。
 津軽石の富豪の土蔵だ。
 ここは、どうぞお入りくださいとでもいわんばかりに、いつも戸が開いて、草履までそろえてあった。
 ある日、さしものワセゴンも藩の役人に捕まる。
 捕まってどうなったかというと、たくみな盗みの手口や忍術の心得が買われた。
 二度と悪事をしないと誓約書を書かされ、目明(めあかし)になる。
 盗賊が一転して警察の手先になったわけだ。
 ところが、習い性となった盗みはやめられない。
 お役目のあいまに盗みまくる。
 ばれてふたたび捕まり、今度こそ死刑。
 塩漬けの遺体は早稲栃まで届けられた。
 江戸時代、いまから200年前のことだ。
 早稲栃には供養塔が建っている。
 権之助がひそんでいた家の石組みは、いまでも竹藪の奥にひっそり残っている、ともいう。
 
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■ 浄土ヶ浜の釜石と八戸穴
 
 浄土ヶ浜ターミナルビルの南がわ、東に面した斜面に環境省がビジターセンターを建てている。
 完成予想図をみた。
 第1駐車場のほうは低いけれど、東の浜からみれば巨大な構造物が斜面にそそりたつかっこうになる。
 小石浜あるいは黒石浜とよぶ石浜から緑におおわれた急斜面を石段がターミナルビルまでのびている。
 南へ迂回する小道もあった。
 登りきったあたりにハマナスの群落があった。
 赤い花越しに太平洋の広がりと水平線をみはるかすのが好きだった。
 小島俊一さんの「陸中海岸地名ウオッチング」という本には浄土ヶ浜の地名を書きこんだ図が載っている。
 概略図だから精確ではないけれど、あのあたりに釜石という地名がついている。
 浜から見あげた景観を思い浮かべれば、釜石という名には、なるほどとうなずかされる。
 直線距離にして四十数キロ南方にある釜石市とはなんの関係もない。
 浄土ヶ浜の釜石は、駐車場のあるところから東に深く落ちこんで、釜の底のようになっている。
 石は釜の底にあたる石浜に由来するのかもしれない。
 おそらく釜石という地名は、浜がわ、海がわからみた印象を示している。
 そばには八戸穴がある。
 釜石と同じように、八戸穴も直線距離にして百数キロ北方の八戸市とは関係がない。
 いや、八戸穴は八戸まで通じているという伝説をもつ海蝕洞だ。
 だから関係は大ありだというかもしれない。
 しかし、それはあくまで伝説だ。
 つまり八戸まで通じているから、あるいはそういう伝説があるから八戸穴と名づけられたのではない。
 ほんとは逆で、八戸穴という名がつけられたから、遠く八戸まで通じているという伝説が生まれた。
 自分ではそう思っている。
 八戸穴の名は、やはり海からみたイメージに由来している。
 穴は八の字型の口をぽっかりと海上にあけている。
 八戸穴の戸は口・出入口のことで、八の字型の口をあけた穴という意味にちがいない。
 浄土ヶ浜の釜石も八戸穴も、名づけ親は、海の仕事に日々たずさわっていた地元の漁師たちだったろう。
 
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■ 黒田町の四ツ角
 
 けむぼーさんによると、黒田町の箱善米屋さんのところが駐車場になったらしい。
 かなり古い建物だから近いうちに建て替えるだろうと思っていたのが影も形もなくなってしまった。
 これでまたひとつ、なじみ深い存在が宮古の町から消え失せた。
 黒田町で懐かしい建物といえば、もう中村煎餅屋さんくらいのものだろうか。
 箱善さんは、黒田町の通りと二幹線が交差する四ツ辻の南西角だった。
 南東の角には小松屋という菓子屋があった。
 北東の角には茂七屋という旅館。
 北西角にはヤンマーかなにかの農機を扱う店があったような気がする。
 四ツ角にあった店は、これでみななくなった。
 黒田町でぼくは生まれた。
 といっても数年で新町の田町交差点に近いほうに引っ越した。
 黒田町界隈の記憶は淡いものでしかない。
 そもそも自分が生まれた家さえはっきりしないのだ。
 あるとき必要があって戸籍抄本をとりよせてみた。
 すると出生地が宮古市宮古第6地割字八幡沖48番地何号になっている。
 黒田町は古くからの町だから八幡沖うんぬんというのはおかしい。
 だんだんわかってきたことには、ぼくは宮古診療所で生まれた。
 八幡沖うんぬんは、その診療所の所在地ではないかということだ。
 生まれたときに住んでいた家ではなく、生まれた病院の住所を役所に届けでるのも妙なものだ。
 そう思っていたけれど、届けでた父にすれば、どうせ引っ越すに決まっている借家の住所より、公的な病院の住所のほうがいいというような考えがあったのではないか――
 診療所は石川整形外科医院になっている。
 いまの住居表示では大通2丁目3番5号。
 当時の父は、診療所がなくなり、住居表示も変わるなどと思ってもみなかったかもしれない。
 その父もすでに亡く、うちで米を買っていた箱善さんも消えた。
 宮古の町はどんどん変わってゆく。
 
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■ 黒田町の記憶
 
 黒田町で懐かしい建物といえば、もう中村煎餅屋さんくらいのものだろうか――
 と前稿の「黒田町の四ツ角」に書いた。
 しかし小松屋の南どなりも古い。
 小さいけれど独特の趣きのある建物で、数年前には尚雅堂という飲み屋さんが入っていたらしい。
 そのさらに南どなりあたりにあった貸し本屋さんのことはすでに書いた。
 そのときは名前が思い出せなかった。
 ひょっとしたら小成さんだったかもしれない。
 中村煎餅屋さんの北どなりには太鼓屋さんがあった。
 たしか「毛皮・太鼓製造」と大きく書いた看板をかかげていた。
 正式な屋号はわからない。
 だいぶ前に建物はなくなり、いまも空き地のはずだ。
 あのあたりに堀さんという家があった。
 たしかT子という同い年の女の子がいた。
 小学校の4年生ぐらいのころにクラスがいっしょになったことがある。
 その後いちども姿を見かけないのは、どこか遠くへ引っ越しでもしたのだろうか。
 黒田町の通りを横町通りにのぼっていった西角の道路わきには公衆便所があった。
 路上に独立した小屋のような便所が建っていた。
 薄みどり色のペンキで板壁が塗られていたような気がする。
 この公衆便所の存在を知っている人も少なくなっただろう。
 二幹線と黒田町の通りを斜めに結ぶ路地がある。
 その中ほどに大工さんの家があった。
 屋内の左がわがずっと通路になって小さな庭につづいていた。
 黒田町には区画のなかを斜めに通じている路地が何本かある。
 二幹線から宮古小学校の正門のところまで通じている路地もそうだ。
 あれは新しい道路ができ、それに沿って家が建つ以前の、古い道の名残りなのだろう。
 さらにその前は農道とかあぜ道のようなものだったかもしれない。
 ああいった路地を頭のなかでつないでみると昔の古い町並みが見えるような気がする。
 
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■ 年取り魚
 
 29日、新巻がきた。
 30日に鰤(ぶり)がきた。
 新巻は岩手。
 ブリは高知から。
 どちらも毎年恒例のお歳暮だ。
 ありがたいこととつくづく思う。
 それぞれ届いた日にさっそくさばく。
 ほかにはあまり使い途のない特大のまな板と出刃包丁をひっぱりだす。
 図体が大きい新巻もブリも、おろす・さばくというより、ばらすと言ったほうがいい。
 新巻の頭は真っ向カラ竹割りにし、尻尾といっしょにオーブンでかるく焼く。
 焼けたら軟骨をはずし、陰にかくれた身を箸でほじくりだして食べる。
 安い焼酎を飲みながら。
 筋肉質を指でむしるようにして食べる頬の肉は絶品だ。
 翌日はブリ。
 ブリといっても身のたけ80センチほどの小ブリだからハマチと呼ぶべきなのだろう。
 が、うちでは面倒なのでハマチもブリと呼ぶ。
 とったばかりのが翌日そのまま氷詰めになって届くから新鮮そのもの。
 新鮮すぎて身がちょっとかたい。
 ブリブリピチピチのブリだ。
 「ほんとうは何日かおいたほうがうまいのだが」
 などと言いつつ、厚めに切った刺身をほおばる。
 アラとショウガ・砂糖・醤油をほうりこんだ鍋を火にかける。
 ばらした頭はレンジでチン。
 うっかり火で焼いたらとんでもない。
 脂があふれて火事になる。
 チンしたブリの頭の肉は舌の上でとろけるばかり。
 アラ煮はたっぷりした脂が香ばしくて陶然とする。
 一年間のいやなこと、つらいことも夢のように消えてしまう。
 これぞまさに年取り魚である。
 大晦日の晩に食べるごちそうの魚、年取り魚は、宮古では古くから鮭だった。
 ナメタがもてはやされるようになったのは比較的最近のことだろう。
 わが家では新巻にブリが吉例の年取り魚で、年取りの夕餉は、大晦日だけではなく、新巻が届いたその晩からつづく。
 
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■ 宮古一中の同窓会
 
 11月8日のことだった。(2008年)
 自分で設置しているインターネット上の掲示板「宮古伝言板」に、おおむねこんな書き込みがあった。
 「突然のお願いですが、私は宮古第一中学の同窓会報を担当している者です。
 先日、次回の同窓会報の発行について集会があり、このサイトが話題にあがりました。
 ぜひ同窓会報で紹介したいと提案があり、ご了承を得たく、書き込みをいたしました。
 この掲示板の一中のかつての画像など、とても懐かしい時代の話題がありましたので、ぜひとも紹介させていただきたいのですが、いかがでしょうか。」
 まず、一中に同窓会があってちっとも不思議じゃないなぁと感じた。
 そのあと、しかし一中の同窓会や同窓会誌のことは全然知らなかったなぁと思った。
 申し出については、メールのやりとりをしたあとで、喜んでうけることにした。
 メールで知った同窓会誌の概要はこうだった。
  タイトル「八幡の里通信」
  年1回発行
  新聞に折りこんで宮古市内に配布
  2009年1月に第14号が出る予定
 そうか、もう14号になるのか……
 宮古を知らないぼくが無謀にも「宮古 on web」を始めて数年というもの、ひたすら宮古の情報を集めつづけてきた。
 なのに一度も一中同窓会や会誌「八幡の里通信」の名を目にすることができなかった。
 つくづく自分の迂闊を責めたくなった。
 ただ、一中のお膝もと、まさに「八幡の里」に生まれ育ち、宮古のことならぼくの何倍も詳しい人でさえ、こんなふうに伝言板に書き込んでいた。
 「宮古一中の同窓会誌というのがあるのですね。
 私も一中卒業です。
 卒業から40年近くたちますが、まったく知りませんでした。
 いや、まわりにも尋ねてみましたが、その存在を知っている人はいませんでした。」
 これを読んで、ちょっぴり救われたのだった。
 どうやら自分の迂闊さばかりを責める必要もないかなと。
 
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■「八幡の里通信」
 
 年が明けて宮古市立第一中学校から封筒が届いた。
 中身は一中同窓会の会報「八幡の里通信」。
 最新の第14号のほかにバックナンバーが何号か入っている。
 さっそく最新号を見た。
 2008年(平成20)12月30日発行、A4判・6ページ。
 最後のページほぼ全面を使って宮古伝言板が紹介されている。
 おもに逆さイチョウの話題がそのまま転載され、木造校舎時代の正門前から写した画像も載っている。
 バックナンバーを見た。
 第1号は平成8年6月22日の発行。
 第2号も平成8年6月22日発行になっている。
 誤植かな?
 と思って内容に少し目をこらしたら、1号・2号を同時に発行したらしい。
 読んでみていろいろなことがわかった。
 1992年(平成4)11月15日に設立総会を開いて同窓会ができた。
 会報「八幡の里通信」創刊は1996年(平成8)。
 これは翌年に一中創立50周年を迎えるという気運のなかでのことだったらしい。
 体裁は1号・2号ともB4判で両面刷りの2ページ。
 3号・4号は手元にないからわからないけれど、5号の大きさは半分のB5判になり6ページに増えている。
 7号・8号・9号はB5判・8ページ。
 10号からまた大きくなってA4判の6ページ。
 11号はなく、12号も10号とおなじ。
 13号はA4判の8ページ。
 最新の14号はA4判の6ページ。
 こうして体裁だけを追ってみても会報や同窓会そのものが順調に発展しているらしいことがわかる。
 内容は――
 会長の挨拶に始まり、役員の就退任の挨拶や紹介、事務局からのお知らせ、今後の予定などの会活動の記録。
 各年度ごとの同窓会や還暦を祝う会などのお知らせ。
 生徒たちの1年間のおもな活躍などの紹介。
 一中の沿革についての記事。
 在職された先生方や卒業生の思い出話などなど。
 なかでは特に思い出話がおもしろい。
 
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■ 一中が藤原にあった
 
 宮古一中は最初、横町にあった。
 つぎが藤原。
 藤原からいまの宮高のところに移転し、さらに現在地に移った。
 一中の所在地の移り変わりをおおざっぱにいえば、そうなる。
 細かくいえば、もっと複雑な変遷があったらしい。
 藤原・磯鶏を学区とする第三中学校というのがあった。
 この三中と統合して、いまの藤原小学校の場所に移ったという。
 その藤原校舎も改築のため水産高校に間借りする。
 1950(昭和25)年度に卒業した三田地信一さんという方は、同窓会誌「八幡の里通信」第14号にこんな思い出を書いている。
 「藤原校舎での2年生を終えると、校舎改築のために、県立宮古水産高校の借り校舎まで通うことになった。
 当時は歩いて通うのが普通であった。
 近内から2時間かけて通学している友達もいた。」
 藤原本校当時の一中の学区は、近内から山口・宮古・藤原・磯鶏・高浜・金浜あたりまでだったようだ。
 1954年(昭和29)に一中から分離して河南中学校ができる。
 このとき一中はいまの宮古高校のところに本校を移したのだろう。
 本校というのは、分室がいろいろあったからだ。
 千徳と田代にあった分室は、それぞれ千徳中学校・亀岳中学校として独立する。
 横町分室というのも宮古小学校内にあった。
 もともと敗戦後に新制中学として創立したときの本校が宮小のなかだった。
 本校が藤原に移って宮小内の教室は横町分室と呼ばれるようになる。
 この横町分室について、1949年(昭和24)4月から先生になった川目英雄さんが書いている。
 「一中での最初の担当は、横町分室1B担任(生徒数78名)で、教科は国語と英語、クラブは籠球でした。
 横町分室は宮小の講堂を6つに仕切った部屋のうち5つを借用し、1年2年各2クラスと職員室ですべてでした。
 教室や廊下は昼でも暗く、電灯をつけて授業したり、雨の日は雨もりがひどく大変でした」
 
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■ まぼろしの第三中学校
 
 一中は1949年(昭和24)4月1日に、三中を合併して藤原校舎へ移った。
 このとき消えた三中――宮古市立第三中学校のことを知る人は少ない。
 なにしろ、わずか2年しか存在しなかったのだ。
 1950(昭和25)年度に一中を卒業した北村喜代治さんという方は、はじめ三中に入学した。
 同窓会報「八幡の里通信」第10号に貴重な思い出を寄せている。
 「私たち磯鶏小卒業生は現在の河南中学校の前身にあたる第三中学校に入学しました。
 水産高校の教室を借り、コンクリートの床に筵(むしろ)を敷き、各自蜜柑箱を持ち寄って机としました。
 その後、黄金浜の建物に移っての授業。
 ついに校舎新築ならず、2年に上がるときに宮古一中に編入のかたちで現在の藤原小の場所にあった古い建物で2年間を学びました。」
 1959(昭和34)年度卒業の加藤清志さんという方が書いた「記念誌の縁」という文章をみると、三中の初代校長は関口伊三郎という先生だったらしい。
 加藤さんは中島隆という先生の談話を紹介している。
 「関口校長は、旧東北帝大の出であった。
 軍服を着用し、奥さんと二人の子どもの4人で黄金浜校舎に住んでいた。
 授業中に子どもが教室を駆け回ったりして授業にならないこともあった」
 関口校長は在職1年で花巻南高校に転出し、二人の子どもはどちらも女の子だったとも付け加えられている。
 2代目の校長は?
 黄金浜校舎があったのは、いまの磯鶏老人福祉センターの場所?
 わからないことはいろいろあるけれど、ともかくこれらの文章から、敗戦直後の混乱のなか、まぼろしのように消えた三中の概要を年表風にまとめておこう。
【宮古市立第三中学校】
 1947年(昭和22)4月1日、新制中学校として誕生。
 場所は県立宮古水産高等学校の校舎内。
 初代校長は関口伊三郎先生。
 学区は藤原・磯鶏。
 ?年?月、黄金浜校舎に移転?
 1949年(昭和24)4月1日、一中に統合されて消滅。
 
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■ オスラサマの話
 
 オスラサマ知っておれんすべ?
 桑の棒きれに布きれを何枚もかぶせだような人形す。
 娘っこのど、馬っこの顔したのどあってね。
 あれには、こんなぁわげがあんだづうがねんす。
 ――いづの頃だべが?
 とにかぐ、むがすむがすのこったべなぁ。
 在郷(ぜえご)のほうさ、おどぉ(父)ど、娘っこど、馬っこど、おったぁど。
 娘っこは、めんけがった。
 白毛の馬っこも、よぐ稼いだぁど。
 娘っこど馬っこ、仲がよくてねんす。
 晩げには、いっつもくっつうで寝でだったどさ。
 それはまだいいどもす、ある晩げがら、娘っこど馬っこ、夫婦になったぁづうがら驚(おでれ)えだ。
 気づいだおどぉ、怒(おご)ったぁ怒ったぁ。
 つぎの日には馬っこ見えなぐなったぁづう。
 「どごさが行ったべぇが?」
 娘っこ聞いだっけば、おどぉは喋(さべ)った。
 「桑の木さ吊るした」
 裏山のふってぇ桑の木さ行ってみだっけば、馬っこ、死んでだった。
 娘っこ、泣いだぁ泣いだぁ。
 おどぉはまだ怒って、マサガリでもって馬っこの首ぃ切り落どしたぁもんだ。
 そしたらす、馬っこの首ぃフワッと浮ぎ上がった。
 娘っこは、バッと馬っこの首さ抱きついだ。
 そのまんま空さ飛んでって帰ってこながったぁど。
 そうではねえ。
 馬っこの首ぃ切り落どしたんではねえ。
 馬っこの皮ぁ剥いだんだ。
 娘っこは、その皮さ乗さって飛んでったんだっつう話すっこもあっともす。
 とにかぐ、めんけぇ娘っこもいんなぐなったぁのす。
 おどぉは泣いだぁ泣いだぁ。
 ある晩げ、娘っこが、おどぉの夢枕さ立ったぁど。
 「春になったらねんす、おどぉ。
 飼い葉ぁ入れどぐ桶んなが、見どがんせ。
 馬っこの顔した白(しれ)ぇ虫っこ、出でくっけぇ。
 桑の葉っぱぁ食(か)せどがんせ。
 大事に、かでどがんせ」
 春になったぁ。
 おどぉが飼い葉桶んながのぞいで見だっけば、馬っこの顔した白ぇ虫っこ、いっぺぇいだったど。
 桑の葉っぱぁ食せで大事にかでだっけぇ繭になったんで、糸ぉ繰って、売ったぁのす。
 そうやってひとりで暮らすてだったぁど。
 ふっと寂しぐなったぁどぎがあって、桑の木の枝っこ切ってきて人形をこっせぇだ。
 娘っこど馬っこ、ふたぁつ、こっせぇだんだぁね。
 着物を着せで、神棚さ上げで、毎日おがんだどさ。
 それがオスラサマの始まりなんだっつう話すっこだ。
 
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■ 津軽石
 
 津軽石っつう名前は妙なもんだ。
 津軽でもねえのに、津軽石だの、津軽石川だのっつうのは――
 そう思ってだったぁども、これにはこんなわげがあんだっつうがねんす。
 昔(むがす)むがすのこったぁ。
 津軽石川は別の名前の川だったぁど。
 丸長川どが渋留川どがど呼ばれでだんだぁどさ。
 下流あだりは渋留(しぶどめ)っつう村だったぁそうだ。
 あるどぎのこったぁ。
 旅のお坊さまが北のほうがら、津軽のほうがらやってきたぁど。
 津軽がら石っこをひとぉづ持ってきて、泊めでもらった家さお礼に置いでったどさ。
 その家の人が石っこを家の前の浅(あせ)え川さ投げだんだぁね。
 そしたらす、驚ぐもなにもあったぁもんではねえ。
 その年の秋んなったら、川さ、いっぺぇ鮭(さげ)っこがのぼってくるようになったぁど。
 のんのんずいずいど、浅(あせ)え川を埋め尽ぐしてのぼってきたぁど。
 とれでだんだぁよ、それまでも。
 そんでも閉伊川さのぼってくる鮭っこの数にはとても及ばながったそうだ。
 それが、急に、いっぺぇのぼってくるようになった。
 村の人がどうは、考えだんだぁね。
 これはお坊さまの持ってきた津軽の石っこのおかげにちげえねぇど。
 それで、津軽石川と名前をかえだんだぁどさ。
 いやいや、お坊さまが持ってきたんではねえ。
 一戸(いちのへ)なにがしっつう土地の領主さまがいで、津軽の明神さまがら、浅瀬石明神がら、石を分げでもらってきたっつう話すっこもある。
 やっぱり、それがらいっぺえ鮭っこがとれるようになった。
 津軽がらきた石のおかげだっつうんで津軽石ど名前をかえだっつう話すだ。
 岡田の恵比寿堂っつうのがあって、そのながさ今でも大事に石は祭られでる。
 それは、とてもではねえが、旅のお坊さまがひとりで持ってこられるような小さな石っこではねえ。
 ひと抱えもある、でっけぇ石だぁが。
 
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■ 伊藤麟市さんの思い出話
 
 「黒森様」という小冊子が手もとにある。
 1997年(平成9)4月の発行。
 編集・発行人は摂待壮一さん。
 このなかに伊藤麟市さんという方が、「黒森さんの謎を追って」という文章を寄せている。
 読んでみると、テーマとは離れて、興味ぶかい思い出が書かれている。
 その部分を抜きだして、おおよそを紹介したい。
 文章は少し変えてある。
 
 ――私が少年のころの水遊びは山口川だった。
 おとなたちがよく、ヤツメやウナギをとった。
 宮古小学校の裏の小沢から山口まで一望の田んぼ。
 末広町一帯・駅前周辺も見渡すかぎり田んぼだった。
 田町の南端に八幡さまの大きな赤鳥居があった。
 その鳥居をくぐって八幡さままで、参道が高い土手になって長ながと続いていた。
 北がわは全部田んぼ、南がわは畑になっていた。
 八幡さまの東麓は、なだらかな斜面になっていて、一面の麦畑だった。
 その麦畑が女学校(現在の一中)の校庭に造成されるとき、幾条もの軌道が敷設された。
 八幡さまのふもとの土砂が削りとられ、連日トロッコで沖に運ばれる。
 それを少年期の初め、毎日のように眺めに行った。
 ふもとの削りとられた跡が長々と貝塚の層をなしていた。
 女学校ができてからは、貝塚層をなしていた跡に校庭をつくって、たしかに「すみれが丘」と呼んだと思う。
 女学校は少年期の私には、憧れの乙女の群れるお城に見えた。(引用終わり)
 
 少しだけ補足的なことを書く。
 女学校が県立の高等女学校になり、いまの第一中学校のところに校舎を建てたのが、1929年(昭和4)。
 末広町が設置されたのは、それより前の1926年、つまり大正の終わり、昭和の初めだったらしい。
 といっても、にぎやかになったのは宮古駅ができて以降のことだろう。
 通り沿いには、ぽつぽつ店や民家が建ち並んだとしても、一歩奥に入れば田んぼや畑だらけだった。
 1933年(昭和8)、いまのトキワザ駐車場のところに映画館の第二常盤座ができたとき、こんな田んぼのなかに建ててどうするんだと笑われたという話がある。
 宮古駅の開業はその翌1934年(昭和9)のことになる。
 
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■ コ
 
 真っ白いナマコがいる。
 色素が抜けた突然変異らしい。
 ナマコの白子(しろこ、しらこ)、アルビーノだ。
 最近も田老や重茂(おもえ)でとれて、県立水産科学館で展示された。
 ナマコはうまい。
 でも、真っ白いナマコではなんだか食指が動かない。
 キンコというのがいる。
 中華料理で使われる。
 金茶色をしている。
 金海鼠と書く。
 海鼠は海鼠でも、ふつうに食べられているナマコとは違う種類らしい。
 ふつう食用にされる海鼠の標準和名はマナマコ。
 真ナマコだ。
 ナマは生。
 真生コ。
 すると、コがナマコのもとの名前なのだろうか?
 ナマコは生の海鼠。
 イリコは煎り海鼠。
 内臓をとって煮たあとに乾燥させたもの。
 鍋で煎るわけではない。
 クチコは卵巣、または卵巣を干したものや塩辛。
 コノコもクチコとおなじ。
 コノワタは腸、もしくは腸の塩辛。
 塩ウニ、ボラの卵巣を塩漬けしたカラスミとともに日本三大珍味のひとつとされる。
 こう並べてみると、やっぱりナマコ本来の名はコのようだ。
 ためしに国語辞典を引いてみた。
 ちゃんと出ていた。
 「こ 【海鼠】ナマコの古名」
 単にコでも海鼠と当て字するらしい。
 しかし、海鼠という漢字はイメージが悪い。
 海のネズミなんていやだ。
 せめて海蚕とでもすべきではなかろうか。
 蚕はカイコ。
 カイコは飼い蚕(こ)。
 カイコもやっぱりもとは単に蚕と書いてコと読んだ。
 つまりナマコもカイコも、もとは単にコなのだ。
 だから、海蚕と当て字しても全然おかしくない。
 これからナマコを漢字で書くときは、海蚕と書くことにしよう。
 
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■ 黄金さんま
 
 酒のさかなにサラミをかじっていた。
 ふと、黄金(こがね)さんまを思い出した。
 黄金さんまは、腸詰めを乾燥させたサラミとは製法が違う。
 もちろん原料が違い、味も違う。
 なのに黄金さんまを連想したのはなぜなのかわからない。
 黄金さんまは秋刀魚の燻製だ。
 特大の燻製秋刀魚が一本、ビニールの真空パックに入っていた。
 燻されて、銀色の皮が、黄金色に渋く光っていた。
 むかし、子どものころに食べた。
 宮古以外では、食べたことはもちろん、お目にかかったことさえない。
 だから宮古の味、ふるさとの味だ。
 宮古市史年表を見た。
 1957年(昭和32)9月19日のところに記事が出ていた。
 “小島祐三、黄金さんま(燻製)を考案販売”
 山根英郎さんの「湾頭の譜」には、こうあった。
 “この頃、宮古港は全国のサンマ基地となりサンマの大量水揚げが続いた。
 これに着眼した光岸地の小島祐三さんが、母校の水産学校製造場でサンマの燻製に成功し、「黄金サンマ」として売り出した。”
 記憶のなかにあるのは、1960年代だ。
 父親がよく、晩酌のさかなに黄金さんまを薄く切ってはつまんでいた。
 それを皿からもらって食べた。
 やたらにばくばく食べるものではない。
 おやじが戸棚の奥からとりだすたびに、1枚、2枚の薄切りをかじったにすぎない。
 癖の強い独特の風味が気に入った。
 おとなの味だと感じた。
 お酒を飲みながらだと、もっとうまいものかもしれない。
 いつか、じぶんも酒を飲みながら食べてみよう。
 そう思っていた。
 70年代のなかばごろだ。
 黄金さんまのことを思い出し、じぶんで買おうとして探した。
 黄金さんまは、もうどこにも売っていなかった。
 
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■ ホンダのカブ
 
 八幡川原の吊り橋の写真を見た。
 一中創立50周年記念誌に載っていた写真だ。
 小山田橋が鉄筋になるまえ、すぐ下流に木造の橋が架かっていた。
 吊り橋とか仮橋とかユラユラ橋とか、いろいろに呼んだ。
 写真には、煙突山を背景に、小山田方面から吊り橋を渡り終えようとする自転車の郵便屋さんが写っていた。
 ふっと、ある光景が浮かんだ。
 母親がカブに乗っている。
 吊り橋が終わって土手に上がる坂の手前の、河川敷の部分を走っている。
 河川敷の凹んだところにも橋とつないで木の板が渡されていた。
 当時、ホンダのスーパーカブの50ccが売りだされた。
 セルがついて女でも簡単に乗れるようになった。
 その機会に母親は免許をとってカブを買った。
 店の配達や注文取りに、カブでさっそうと市内を走りまわった。
 それまで使っていた婦人用の自転車は、店の人が乗ったり、ぼくが使ったりするようになった。
 調べてみると、カブの50ccが発売されたのは1966年(昭和41)のことだったらしい。
 そうすると、小学校6年生ぐらいのときだ。
 閉伊川の吊り橋に、なんのために行ったのか、前後の記憶はない。
 母親はミルクコーヒー色のジャンバーを着ていた。
 おなじ色のスラックス。
 茶色い手袋。
 あるいはカブに乗る練習をしていたのかもしれない。
 ぼくは自転車でついていったのだろう。
 もしそうだとすると、吊り橋を渡ったのだろうか?
 吊り橋は人が走るだけでゆらゆら揺れた。
 渡した板が上下にたわんだ。
 自転車に乗って渡るのも怖かった。
 初心者の母親がカブに乗って渡ったとは思えない。
 橋に入る手前で引き返したのかもしれない。
 あるいは歩いて押しながら渡ったのかもしれない。
 思えば不思議な光景だ。
 ただ、そういうシーンを見たことだけはたしかだ。
 
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■ 酔ったぐれ
 
 酔ったぐれの大家だった。
 体格のいい人だった。
 そのぶん手に負えなかった。
 いつもいつも酒びたりというわけではない。
 が、酔うと必ず暴れた。
 アルチュール・ランボウだ。
 店子に暴れこむこともあった。
 八幡通りの長屋だった。
 裏がアウェーコになっている。
 そのアウェーコに通りから大家がわめきちらしながら入ってくる。
 店子が無視して家のなかで鼻歌をうなる。
 気にさわった大家が口汚くののしりながら戸を叩く。
 カッとなった店子が飛び出す。
 店子の、まだ小学生の息子が、金槌を握ってあとに続いた。
 子どもの姿を見て、というより握られた金槌を見て大家は、悪態をつぶやきながら自分の家に引き下がった。
 あるとき、店子に追いかけまわされたことがある。
 アウェーコから通りから、血相を変えて店子が追いかける。
 手には猟銃が握られていた。
 大家はもつれる足で必死に逃げまわる。
 這いつくばって平謝りに謝る。
 警察沙汰にはならずにすんだ。
 それから少しおとなしくなった。
 店子の家には暴れこまなくなった。
 大家の家には奥さんと娘2人がいた。
 3人とも美人だ。
 気苦労が多くて少しやつれて見える。
 上の娘さんは、けっこうな年だ。
 下の娘は、年頃になると、さっさといい相手をみつけて家を出た。
 2階の部屋があいたので、となりの店子が借りた。
 長屋はベニヤ板1枚で仕切られている。
 ベニヤ板をはずせば、すぐに部屋がつながる。
 大家のほうの半間の壁が、なぜか、しばらくのあいだふさがれずにいた。
 好奇心のかたまりのような子どもが2階から大家の家に出入りした。
 大家の酒乱が、ひとつだけ店子に幸いした。
 家賃が上げられなかった。
 ふだんは気の小さい男なのだ。
 店子の子どもにさえニコニコ顔で声をかけずにはいない。
 酔ったぐれが弱みになって、それをとりつくろう。
 そのぶん鬱屈がたまるのか、また酒乱が激しくなる。
 暴れだして、そのうちぽっくり死んだ。
 
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■ 歳祝い
 
 宮古には「歳祝い」という習慣がある。
 祝いといっても、成人の祝いとか、還暦祝いとかの、めでたいほうではない。
 厄落とし・厄払いのことだ。
 おもに本厄の厄落としをいう。
 男は数え年の25、42、60歳。
 女は19、33歳。
 この厄年のなかでも、男の42歳、女の33歳が本厄とされる。
 この本厄の年に、男のときには女が、女のときには男が、厄を落としてあげる会を開く。
 会の母体は中学校のクラス会。
 二中は浄土ヶ浜パークホテルとか、何中はホテル沢田屋とか近江屋とか、だいたい会場も決まっている。
 基本的には懐かしい同級生との飲み会だ。
 余興に、からたちの枝、白菜、一升枡、大豆、タワシなどを用意する。
 司会者が、だれそれの人生はいばらの道だとか、なにがしは百歳まで生きるとか、いろいろ小道具のこじつけを説明しながら、出席者を壇上に上げる。
 それからタワシで体をこすってあげて厄を落とす、というような儀式をやる。
 あとは校歌や応援歌を歌う。
 記念のアルバムをつくったりすることもある――
 知ったかぶりを書いたが、以上は人から聞いた話だ。
 じつは歳祝いという習慣を、まったく知らなかった。
 厄落としを歳祝いと称するとはおもしろい。
 禍(わざわい)転じて福となす、いい習慣だと思った。
 中学のクラス会でというのは、中学は地域性が濃くて集まりやすいからだろうか。
 高校だと、いろいろなところから通ってくるから地域性が薄まる。
 自分の場合は、厄年のお払いもなにもなかった。
 そもそも厄年というものに関心がなかった。
 厄年というなら、毎年厄年みたいなものだけれど、とにもかくにも42歳の本厄はとうに過ぎている。
 60の厄年には歳祝いをしてもらいたいものだ。
 そうは思っても、どうやら歳祝いとは縁がなさそうな気がする。
 なにしろ中学校は卒業しっぱなし。
 同窓会とかクラス会とかには一度も出たことがない。
 そのうえ中学3年のとき、どんな級友がいたか、自分は何組だったかさえ思い出せないのだから。
 
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■ テレビ
 
 うちにテレビがきたのは小学校5年ごろだったような気がする。
 日立の白黒テレビだった。
 当時、日立は人気があったのだろうか。
 それとも父親の趣味か。
 とにかく家の電気製品には日立が多かった。
 電気釜も冷蔵庫もトースターも電気炬燵も、みな日立だったような印象がある。
 家にきたテレビで最初に見たのは能の番組だった。
 ちんぷんかんぷん、おもしろくもなんともなかった。
 それでも最後まで見た。
 そのあとテストパターンになった。
 しばらくぼうっと眺め、なにも変化がないのでスイッチを切って寝た。
 ドラマの「事件記者」、バラエティ番組?の「バス通り裏」や「それは私です」、「私の秘密」などを見た記憶がある。
 「花の生涯」という大河ドラマの第1作はタイトルバックの映像も音楽もおどろおどろしくて怖かった。
 人形劇の「チロリン村とくるみの木」、縫いぐるみの「ブーフーウー」も見た。
 夕方の子ども番組を見るには家に早く帰らなければならなかった。
 歌番組の「夢であいましょう」は布団に入って見た。
 相撲も見た。
 みんなNHKだ。
 NHKしか入らなかった。
 民放の岩手放送ができたのはその翌年。
 東京オリンピックの年だ。
 開会式はカラーで見たような記憶がある。
 小学校の視聴覚授業で見たのかもしれない。
 わずか1年やそこらで、家のテレビをカラー受像機に買い換えたとも思えないからだ。
 民放が入るようになって番組の選択肢は増えた。
 それでもチャンネル権(というような言葉はなかったが)は父親が堅持し、子ども向けの番組は見られない。
 歌番組は父親も好きだった。
 「歌のグランドショー」だったか、毎回オープニングで金井克子が踊った。
 長いスカートでくるくる回る。
 一瞬、下着があらわになる。
 そのワンシーンは少年の目に痛く突き刺さった。
 
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■ 船幽霊
 
 海にも幽霊が出る。
 船(ふな)幽霊といって、多くは船に乗った幽霊だ。
 幽霊船とか、船亡者、亡者船ともいう。
 船もこの世のものではない。
 お盆に泳ぎにいくと亡者に海へ引きずりこまれる。
 あるいは、海の上からだれかが声をかけてくる。
 これも船に乗ってはいないけれど船亡者と同じだ。
 お盆の夜に漁に出ると船幽霊に会う。
 そんな古老の口ぐせを笑って若い漁師がサッパ(小舟)を出した。
 雲行きがあやしくなったと思ったら船幽霊があらわれた。
 ガス(濃霧)の日にサッパを漕いでいると、いつのまにか見知らぬ男が乗ったサッパがそばにいた。
 それが船幽霊だったという話もある。
 「ヒシャク(柄杓)を貸せ」
 たいがいは、そう言ってせがまれる。
 いったんアカ掻きのヒシャクを渡すと、必ず自分の船に海水を汲みいれられ、沈没するまでやめない。
 そんなときのために底の抜けたヒシャクを用意しておく。
 あるいは貸すときに必ずヒシャクの底を抜いて渡す。
 船幽霊はヒシャクをエナガ(柄長)と言うこともある。
 また、助けを求めてくる声に、うっかりこたえてはだめだ。
 返事をすれば海に引きずりこまれる。
 船幽霊にあったら口をつぐんでとりあわない。
 お握りを海に投げる。
 味噌をといて海に流してもいい。
 そうすれば退散することが多い。 
 船幽霊は、溺れたり、沈められたり、鮫にやられたりなどして死んだ人の、浮かばれない亡魂だ。
 海の亡魂はクラゲになって波間をさまようとも言われる。
 江戸時代に菅江真澄という旅の好きな学者がいた。
 気仙沼へきて、船の上でこんな船幽霊の話を聞いた。
 沖でカツオをとっていたら、おおぜいの乗った船が近づいてくる。
 「そっちに乗せてくれ」
 そう言って、つぎつぎ乗り移ってくる。
 これは幽霊船にちがいないと漁師たちは思った。
 飛び乗ってくるものの頭を押さえては、ナマというところにどんどん押しこんだ。
 夜が明けるのを待ってナマの板子をあけてみた。
 すると、いくつもクラゲだけが入っている。
 「クラゲは化けるのか」
 ひとりがそう言うと、ひとりが応じた。
 「クラゲは風に逆らって走るから、化けるようなこともあるだろう」――
 ナマは板子の下の空間で、とった魚を入れておく。
 ホトケ(水死体)を引き上げると、ここに入れることもある。
 クラゲが亡者に化けるのか亡者がクラゲになるのかはともかく、
 「クラゲの多くなる盆には気をつけることだ」
 とは古老の口ぐせだ。
 
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■ エラゴを食う話
 
 ナマコを漢字で書くときは、海鼠ではなく、海蚕と書
きたい――
 前にそう書いた。
 海にいる生き物で、蚕(こ)のつくものをみつけた。
 鰓蚕(えらこ、えらご)だ。
 鰓は魚のエラ。
 頭のところにびらびらと鰓のようなものが出ているのでこの名がついたらしい。
 エラゴは釣りの餌にする。
 それを宮古で食うという話を読んだ。
 椎名誠さんの「全日本食えば食える図鑑」にある「ヒトは禁じられると求めるものだ。」という一篇だ。
 宮古のヒトに聞いた話がいくつか載っている。
 たとえば漁師の佐々木さんの話。
 「むかし食料に困ったときに食った人がいたなあ。
 漁師が暇なときに食ったりもしてた。
 釣り客を乗せてったときに食ったら、釣り客が気持ち悪がってゲロを吐いた。
 そんなにうまいもんじゃねえよ。
 6月ぐらいになるともっと太くなって少しはましになるかなあ」
 釣具屋さん。
 「わたしは食ったことありません。
 むかしは珍味として食べていた人がいたそうです。
 好きな人はとりたてのを舟の上で海水で洗って食べるそうです。
 5、6月のアイナメの餌に使われてましたが、いまは中国から安いアオイソメが入ってくるので以前ほどは」
 水産加工会社の社長さん。
 「前に岩泉の漁協長の家の宴会に呼ばれたら、塩辛にしたのが出てきて、びっくりしたことがあるんだわ。
 なにが悲しゅうて、あんなまずいものを」
 サッパから箱メガネで水中をのぞき、長い棒で引っかけて、ひとかたまりのエラゴをとる漁師の佐々木さん。
 管を指でちぎって中身を出す椎名さん。
 引っぱるとすぐにちぎれる。
 内臓らしいのがはみでている。
 それを勢いでかじる。
 「苦い、エグイ、渋い、塩からい。
 これは人類の食い物ではない。
 アイナメさんにすべておまかせしたい」
 漁師の佐々木さん。
 「10年ぶりで食ったなあ。
 もうあと10年は食わなくていいなあ」
 う〜ん、あと50年は遠慮したいなあ、自分は。
 でも塩辛なら、ひと口かじってみてもいいかなあ……
 
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■ クスサン
 
 2階に上がり、電気をつけた。
 コン……コン……
 しばらくすると、窓ガラスをかるく叩く音がする。
 なんだなんだ?
 だれかが夜這いにでも来たのかと期待して窓の外を見た。
 だれもいない。
 よく見ると、桟のところで大きな蛾がもがいている。
 ばたばた羽ばたき、ちょっと飛び離れては、またガラスにぶつかっている。
 1960年代の話だ。
 あの頃の一時期、宮古で蛾が大発生した。
 去年・一昨年に大発生したマイマイガとは違う。
 もっと茶色くて、大きくて、胴の太い蛾だった。
 あれは、どうやらクスサンというらしい。
 樟蚕と漢字では書く。
 幼虫が樟(くす)の葉ばかり食べるからだろう。
 そう思って国語辞典を引いた。
 樟ではなくて、
 「クリ・サクラ・イチョウなどの葉を食害し」
 と書かれている。
 クスサンの毛虫は、シラガタロウ、クリケムシなどと呼ばれるらしい。
 シラガタロウというのは白くて長い毛をもっているかららしい。
 どちらの呼び方も聞いたことはない。
 宮古では蛾をカッカベと呼ぶ。
 蝶もカッカベと呼ぶ。
 毛虫はゲーダガだ。
 宮古弁カルタにもある。
 「カッカベ ザンブリ おらやんたー」
 「こっこまれ 頭のゲーダガ 取ってけっけ」
 ザンブリはトンボだ。
 ただ、自分ではそんなふうには呼ばなかった。
 蛾はガ、蝶はチョウチョ、毛虫はケムシ、トンボはトンボだった。
 蛾は八幡通りの街灯にたがった。
 お盆どきだから、松明かしの火にもジュッと飛びこんだ。
 死骸の下に2B弾を突っこんで吹きとばした。
 朝になると街灯の下は死骸の山だ。
 箒(ほうき)やスコップで、あたりにちらばっているのをかき集め、山はさらに大きくなる。
 踏んづけたくないから街灯の下はいちいち大きくよけて歩いた。
 当時は車が少なかったから、まだよかった。
             (2009年2月22日)
 
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