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宮古なんだりかんだり  第5部

第 1 部 第 2 部 第 3 部 第4部 第6部 第7部

第 5部  100話 + 投稿2話 + 資料2
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宮古弁カルタ
デンデ〜ン!
浮かんだ言葉
お雑煮
いちばん早い初日の出
鮭の頭をどうする?
うまい新巻の作り方
鮭まつりの記憶
鮭の人工授精
1967年に津軽石川で・・・
カトリック教会の鐘
シュミドリン先生のこと
松こで待って・・・
モーコはナモミか?
ナモミとナマハゲ
地名「削除」事件
摂待方水歌集
津波カルタ
【資料】 津波対策いろはかるた
ヨダ
「寄生木」のなかのヨダ
ヨタ、ユダ
鍬ヶ崎小学校の幻灯会
津波の前兆
「風俗画報」の大海嘯被害録
大海嘯被害録 宮古町1
大海嘯被害録 宮古町2
大海嘯被害録 鍬ヶ崎町1
大海嘯被害録 鍬ヶ崎町2
大海嘯被害録 重茂村1
大海嘯被害録 重茂村2
大海嘯被害録 田老村1
大海嘯被害録 田老村2
大海嘯被害録 田老村3
津波・津浪・Tsunami
海がうそぶく
一本柳の跡
懐かしのレーシングカー
本屋めぐり
津波てんでんこ
恋を争い遠矢を射た話
新町通りの東筋
新町通りの西筋
クマヘイ
お飾り絵師
お飾りの起源
天行健なれ
【資料】 宮高校歌の新聞記事
本田幸八作曲の田老町民歌
【投稿】 母のカダゲダ時代 * OCCO
黒田通りの東筋
新町の二幹線沿い
新町の本町通り沿い
新町の中央通り沿い
中澤書店
ふしぎなベルト屋さん
町の名物男
津軽石川の巨大水門
長根のお玉さま・お杉さま
尾玉さまふたたび
尾玉さまとお姫さま
和尚さんの俳句
宮古俳界の一端
強制疎開
ベルト屋さんは東を向いていた
バスに車掌さんが乗っていた頃
バスに乗って女の子は消えた
次は渡船場前
小野小町が宮古にいたという話
江戸時代のモーコ=蒙古説
狐の名所
狐に化かされた話
馬糞を踏めば・・・
三陸フェーン大火
【投稿】 三陸フェーン台風の恐怖
                 * OCCO

月山・セイバー・東京五輪
千徳田んぼのプール
千徳小学校の校歌
ミニ宮古岩
宮古岩の謎
一番岩
鏡岩の変遷
測候所の無人化
津軽石の豪商
トロ箱のある風景
思い出の一番岩
フジツボ、カメノテ・・・
バックリは宮古名?
三陸・海の博覧会
バフンウニはどこ行った?
カゼとウニの語源
ウニ異聞
夏の終わり
宮古のウニに異変?
鼻から鼻へ
舘合にあった小さな踏切
機関区の跡
鉄橋を歩いて渡った
藤原比古神社へ
石崎鼻の断面
可否茶店
弁天岩に呼ばわり浜
藤の川へ下る坂道
異人館のある風景






 

■ 宮古弁カルタ
 
 「みやごのごっつおカルタ」がおもしろい。
 正式には「こたつの友 みやごのごっつお“ほぼ”いろはカルタ2007」という。
 去年9月に「みやごのごっつお」サイトの「ふるさとなんだりかんだり掲示板」で海猫屋さんが言いだしっぺになって始まった。
 年末までに宮古弁カルタをつくろうというアイデアは宮古人の心を刺激し、あれよあれよというまに読み札の文句が集まった。
 「を」と「ゐ」はなくて「と」「の」「ま」が2枚ずつあるから“ほぼ”いろはカルタというわけだ。
 絵札は難しいだろうなと思っていたら、海猫屋さんが当意即妙に絵をつけたのには驚いた。
 当意即妙とはいっても大変な手間ヒマがかかったにちがいない。
 あれだけの手業、ひょっとしたらプロの絵描きさん、イラスト屋さんなんじゃないだろうか。
 同時期に「宮古の店こ屋さん」シリーズの絵にとりくんでいたけむぼーさんも何枚か絵札を描いている。
 その絵はここで紹介できないけれど、読み札の文句をいくつかあげてみよう。
  は・よっす おどっつぁんの照れ隠し
  ちょーすなー 手くそもーずは かれねーが
  ダラスコデーホー ダラスコデーホー
  そげい(磯鶏)の子 水着で歩いて浜さ行ぐ
  のだばって本こー読むずど つかめになっつぉ
  まづあがす 花火あでぇに かがりがかがる
  こっこまれ 頭のゲーダガ 取ってけっけ
 ダラスコデーホーはフクロウの鳴き声、ゲーダガは毛虫。
 宮古弁でも地域や時代によって違ったりするから宮古人なら誰でもわかる文句ばかりとはかぎらない。
 そのへんも配慮して読み札にサイト管理人のひとりのOCCOちゃんが適宜に標準語訳と解説をつけている。
 札は誰でもダウンロードできる。
 あとは市販の名刺用紙に印刷するだけ。
 名刺ケースに貼るラベルもついて至れり尽くせりだ。
 この正月は宮古弁カルタで盛り上がる家も多いことだろう。                (2007.1.1)
 
 ⇒ みやごのごっつお
 
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■ デンデ〜ン!
 
 「こたつの友 みやごのごっつお“ほぼ”いろはカルタ2007」から好きな札を一枚だけあげるなら――
  ちょーすなー 手くそもーずは かれねーが
 カルタ会のときは手もとに置いて、
 「デンデ〜ン!」
 と大声をあげながら取りたい札だ。
 はじめて読んだときは笑った。
 おもしろいと思った。
 情景がパッと浮かんだ。
 家で搗きたてのお餅を丸めているときに、ばあちゃんやかあさんが子どもに言いそうな言葉だ。
 チョースという独特の宮古弁は、ヤーグド(わざと)やアァベー(行こう)、ショースー(恥ずかしい)などとともに宮古弁の五指に入れたい。
 語源はなんだろう。
 手水をチョウズと読むから手=チョウだろうか。
 手でさわりまくる、いじりまわすこと。
 ナーは禁止の助詞。
 手クソモーズは手糞餅。
 手でさわって見ったぐなぐなったお餅。
 モチだからモーズはモーヅと書いたほうがしっくりする。
 カレネーガは食ワレネーガのクワレがカレと縮まったかたち……
 こんな詮索や解説は宮古人には不要だ。
 宮古人ならすんなりわかる。
 ところが、ほかの地域の人には難しい。
 そんな落差もふくめて、宮古弁を駆使したカルタを象徴する札といっていい。
 五七調におさまっているのもいい。
 日常会話から切りとったこの文言は、方言による俳句としても通用するだろう。
 餅が季語だ。
 正岡子規という明治時代の有名な俳人が、母親の何気なく発した言葉が五七五になっているのをおもしろく感じて書きとめたという有名な句がある。
  毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは
 これと比べてみよう。
  ちょーすなー 手くそもーづは 食れねーが
 人によっては言葉に品がないと言うだろう。
 けれども、宮古人の日常会話のなかで、生活のなかで、自然に使われている言葉だ。
 宮古弁で俳句をつくったらこうなるという例に、この句をあげてもおかしくない。
 
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■ 浮かんだ言葉
 
 「みやごのごっつお宮古弁カルタ」を眺めていたら言葉がいくつか浮かんできた。
 何気ない日常会話からすくいとった宮古弁がほとんどで忘れようもないけれど、いちおう書き留めておこう。
【い】行ぎたくても ながなが行げねぇ とどヶ崎
【ろ】ローソグ岩や潮吹ぎ穴さ行ってみどがん陸中丸で
【は】花火が鳴んねぇ盆は盆どは言われねぇ
【は】はっつけるデンビも痛〔いで〕ぇが手も痛ぇ
【へ】へっつぉがかりー 雨が降んがぁ
【と】泥鰌獲り タゴー釣ってはおごられだ
【り】リアス式 陸中海岸国立公園
【わ】忘っせーでも忘れなぐってもヨダ(津波)は来っぺぇ
【か】かでこなす する子は かでこなすだぁよ
【よ】寄ってげぇ なんもねぇどもイガ(烏賊)がある
【な】ただの切り身に新巻スズコ サゲ(鮭)でおがったようなもんだ
【ら】ランドセルが歩いでるようったが 一〔いづ〕年坊主は
【う】嘘っこのバッタ(メンコ)はやんたぁ 本こでやっぺす
【お】オゲエ釣るメメズはとったがオゲエが釣れねぇ
【く】クルミ味がすんがぁ さんまの刺身
【や】やーぐどやんなぁ 怪我すっつぉー
【ま】マヅモど豆腐の おづゆがいづばん!
【け】けぇってこぉよ 盆暮れぐれぇ
【え】えんずぅはずだぁ かだびっこ
【あ】あーりえぇ 砂糖〔さどう〕ど塩どまづげえだ
【さ】さんびぃべ コダヅさあだれー火さあだれー
【み】みやご弁 通じねー東京は不便だが
【し】常安寺の坂〔さが〕さかがっては こえーこえー
【ひ】びったれ びっきの 泣ぎびっちょ!
【ひ】ひゅーずの中〔なが〕身が ひゅーっと出っつぉ
【せ】赤飯〔せぎはん〕のアズギは甘ぐねぇばだめす
【す】すっとぎ おひゅーず こびりのごっつぉ
 
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■ お雑煮
 
 いなかのうちでは煮干しと昆布でお雑煮のだしをとっていた。
 味はほんのり醤油味。
 具は大根、にんじん、どんこ(茸)、ごぼう、凍み豆腐、せり、蒲鉾。
 餅は餅屋(みかわや)さんに頼んだ。
 お鏡と伸〔の〕し餅が歳末に届けられた。
 伸し餅を切るのを手伝った。
 胡桃も割った。
 トンカチでよく指を打った。
 爪楊枝や小さなフォークでほっつぐり、殻が混じっていないかどうかみて擂り鉢で擂る。
 母が砂糖を加え、お雑煮の汁で伸ばしながら味をつける。
 胡桃が終わると黒胡麻を擂り、これも甘くする。
 大晦日の仕事で、胡桃を割るのは昼間、擂るのは晩飯後にテレビを見ながら。
 そのうちに年越し蕎麦ができあがる。
 元日にお雑煮を食べるとき小鉢に胡桃と胡麻のたれを入れる。
 緑の黄な粉の小鉢もそえる。
 焼いた餅をお雑煮に入れ、やわらかくしてから胡桃や胡麻、黄な粉の小鉢に移し、からめて食べる。
 胡桃がいちばん好きだった。
 宮古では、おいしいことを「胡桃味がする」と言ったりする。
 胡桃、胡麻、黄な粉の定番三鉢のほかに、大根おろしをまぜた納豆やアズキで餅を食べたりもする。
 全部いっぺんに出すと食卓が賑わう。
 一日ごとに小鉢を変えてもいい。
 お雑煮や大根なますに腹子〔はらこ〕を載せる。
 焼いた餅には、しょっぱい筋子〔すずこ〕をちょっとずつ載せて食べる。
 白い大根なますや餅に赤い腹子・筋子が映える。
 魚はもちろん鮭。
 新巻の切り身だ。
 それにお煮しめがあればもう充分だった。
 
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■ いちばん早い初日の出
 
 この元旦は穏やかに晴れた。
 浄土ヶ浜と築地の旧白浜丸発着所から出た初日の出観光船3隻には、850人が乗り込み、日の出とともに汽笛が鳴らされて歓声と拍手が湧きあがったとニュースにあった。
 太平洋に突きだした本州最東端のとどヶ崎へは、重茂〔おもえ〕半島南の姉吉キャンプ場まで車で入り、そこから海岸線を北東へ1時間15分ほど歩く。
 ご来光を眺めに行ってみたいと思いながら、なかなか実現しない。
 ところで、宮古は本州最東端の町だから本州でいちばん早い初日の出がおがめるのだろうと思っていた。
 残念ながら違うらしい。
 千葉県にある犬吠埼の初日の出が6時46分。
 とどヶ崎は6時52分で6分ほど遅い。
 とどヶ崎は東経142度4分34秒・北緯39度32分46秒。
 犬吠埼は東経140度52分7秒・北緯35度42分28秒に位置している。
 犬吠埼より経度で1度ちょっと東に出ているとどヶ崎は、緯度では4度ほど北になる。
 北半球の日の出は南のほうが早い。
 とどヶ崎が1度くらい東にあっても、4度南に寄っている犬吠埼のほうが早く日が昇るということらしい。
 国立天文台のデータから初日の出の早い順にあげてみよう。
 海を除いた日本の領土のなかでいちばん早いのは南鳥島で、5時27分。
 人が定住している場所では小笠原諸島の母島、6時20分。
 島を除いた北海道・本州・四国・九州では富士山の山頂、6時42分。
 山を除いた北海道・本州・四国・九州の平地では犬吠埼、6時46分。
 北海道・本州・四国・九州の最東端に位置する納沙布〔ノサップ〕岬は6時49分。
 とどヶ崎の6時52分は、それに次ぐらしい。
 
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■ 鮭の頭をどうする?
 
 この冬も歳末に新巻が送られてきた。
 さっそく正月に厚めの切り身を焼いて舌つづみを打った。
 宮古でならその日食べる分だけ切って、あとは風通しのいいところに吊るしておく。
 そうすれば風味も増す。
 関東では腐ってしまうから最初に全部切って冷凍庫に保存する。
 新巻を切るのは年末の一仕事だ。
 恒例の行事といってもいい。
 切りとった尻尾と鰭は、その場で捨てる。
 頭は冷凍庫に仕舞いこまずに、その場でばらす。
 エラや口から包丁を入れ、頭蓋も真っ二つに割る。
 これも仕舞いこまず、その場でロースターで焼く。
 頭にはたっぷり塩がすりこんである。
 そのまま焼くと身よりもしょっぱいから1時間ぐらい水に漬けて塩抜きしたほうがいい。
 焼きあがったら当然すぐに食べてしまう。
 指でエラや皮や軟骨をはずし、へばりついている身をほじくりだすようにしてつつく。
 カマ、ほっぺたには、うまい肉が隠れている。
 エラの筋もうまい。
 焼酎でも飲みながら頭ひとつを食べ終えると、気持ちも腹も満足する。
 とにかく届いた年の内に頭だけはまず食べてしまう。
 これが、いつまでも冷凍庫のなかに頭がごろんと残ったあげくに捨ててしまうという結果に終わらないためのポイントである。
 軟骨は捨てる。
 氷頭なますにするとうまいという人もいる。
 「聞き書 岩手の食事」(農文協)という本に新巻の頭の料理法がいくつか載っているので、かいつまんで紹介しておこう。
 【煮付け】
 細かく切り砕いて一晩塩出しし、さっと茹でる。
 一晩浸した大豆と半日ほど弱火で煮る。
 適当なときに適当な大きさに切った昆布を入れる。
 塩気が足りないときは味噌で味を調える。
 【粕炊き】
 頭・尾鰭を切って塩出しし、やわらかくなるまで弱火で煮る。
 大根・にんじん・じゃがいもを入れて煮込む。
 最後に酒粕を溶いて加え、ねぎを散らす。
 【氷頭なます】
 軟骨を薄く削りとり一晩水にもどす。
 酢につけておき、大根・にんじんの千切りと三杯酢であえる。
 
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■ うまい新巻の作り方
 
 毎年12月になると新巻づくりが本格化する。
 漁師さんの家、民家の軒先や庭に新巻が吊りさげられた光景は宮古の冬の風物詩だ。
 新巻を手づくりする家では津軽石川の河口にある直売所から格安の鮭を買ってくることが多いらしい。
 川にのぼった鮭は適度に脂が抜けて新巻づくりに向いている。
 オスがいわゆる鼻曲がり。
 身が厚く、肉が引き締まって味がいい。
 残念ながら新巻づくりをした経験はない。
 宮古の人間なら知っている人が多いだろうけれど、いつか自分でうまい新巻をつくってやろうと思って人から聞いておいた作り方を紹介しよう。
 まず胸鰭から尾鰭に包丁を入れて腹を開き、内臓をとりのぞく。
 中骨についている血合いを匙でこそぎとる。
 よくとらないと血が回って、においがつく。
 全身を洗って汚れやぬめりを落とす。
 塩を尾から頭に向けて鱗のなかに押しこむように何度も繰り返しすりこむ。
 特に目玉にはきつく塩をする。
 腹のなかにもたっぷり塩をすりこむ。
 形を整えて荒縄でかるく縛る。
 莚〔むしろ〕で覆ってかるく重石をし、骨に塩がしみるまで4日から1週間寝かせる。
 表面をタワシでこすりながら塩を洗い落とし、一晩水に漬けて塩出しする。
 内側に割り箸を何本か渡して腹を開く。
 エラから口に荒縄を通して吊りさげ用の輪をつくる。
 風通しと日当たりのいいところに10日ほど干す。
 ――ポイントは塩をたっぷり使うこと。
 精製塩ではなく、ニガリを含む天然塩を使うと、塩抜きのさいにうまみまで塩といっしょに水に溶け出すことがないという。
 時間をかけて仕上げることで表面に皺が寄らず身が引き締まる。
 厳しい寒さにさらされ、うまみが凝縮してゆく。
 
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■ 鮭まつりの記憶
 
 ことし1月3日に予定されていた宮古鮭まつりが中止になった。
 35年の歴史のなかで初めてのことらしい。
 原因は昨年12月27日に三陸沿岸を襲った豪雨だった。
 この豪雨で山口川があふれ、魚菜市場の特設会場で開かれるはずだったお飾り市の初日が取り止めになった。
 津軽石川も増水した。
 河口から200メートルほど上流に設置されていた留め場の網が流され、歳末ということもあってか復旧のめどがたたなかったらしい。
 宮古測候所の統計データによると、12月27日の一日で降った雨量は233ミリ。
 1884年(明治17)4月に観測を始めてから歴代5位、12月としては歴代1位の記録的な豪雨だった。
 鮭まつりは1973年(昭和48)1月3日に始まったらしい。
 当初は5日までの3日間ぐらい開かれていたような気がする。
 最初に鮭まつりを見に津軽石川へ出かけたのは――
 待てよ?
 おかしいな。
 最初に鮭まつりを見たのは小学6年のころじゃなかったろうか。
 小学6年の正月というと1967年になる。
 そのころ親父が自家用車を買い、クルマで津軽石川の鮭漁を見に出かけたはずだ。
 鮭のつかみどりのような参加型のイベントではなかった。
 大勢の漁師がバシャバシャと川に躍りこみ、棍棒で鮭の頭を殴ってとるという威勢のいい漁を川岸から眺めた記憶がある。
 見物人も大勢いた。
 漁が終わると川原に据えた大鍋から鮭汁が振る舞われた。
 厳しい冷え込みの、しばれる朝。
 まだ明け方に近かったような気もする。
 冷えきった体に熱い鮭汁がしみわたった。
 鮭まつりが始まったのが1973年だとすると、あれはなんだったのだろう?
 記憶が混線しているのだろうか。
 それとも、鮭まつりとは呼ばなかったけれど、もっと古くから鮭漁を観光客に見せる催しが津軽石川でおこなわれていたのだろうか。
 
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■ 鮭の人工授精
 
 去年の秋、新聞でおもしろい写真を見た。
 ねじり鉢巻に青いカッパ姿の男性が真剣な表情で手にかかげた鼻曲がり鮭の腹を押している。
 鮭はカッと目を見開き、口を大きくあけてあえいでいる。
 下腹部から飛びだした白い液が金属のたらいに満々と入った赤い腹子〔はらこ〕に降りそそいでいる――
 鮭の人工授精である。
 男性と雄鮭の表情が印象的だった。
 本州一の鮭川として知られる津軽石川の鮭繁殖保護組合は、溯上してくる鮭を捕獲し、春に放流する稚魚を孵化場で育てている。
 例年8月下旬、河口から200メートルほど上流に川留めの杭をたて網を張り渡す。
 9月初めに留めの手前に小舟を浮かべて地引網に鮭を追い込む。
 「オーロサー、ヨーロコイー」
 掛け声とともに組合員7、8人で岸に引き寄せる。
 捕獲された鮭はトラックで孵化場へ運ばれる。
 水槽に移して成熟を待ち、9月下旬に採卵と受精が始まる。
 雌の腹を割いて、たらいに腹子をとりだす。
 津軽石川の水を注ぎ、雄の腹を手でしぼって精液をふりかけ、指でかき混ぜると急いで水槽へ移す。
 津軽石川の水を注ぐというのがポイントのような気がする。
 捕獲して受精させる作業は2月までつづく。
 直売所に精液をしぼられた雄や腹子を抜かれた雌が並ぶ。
 去年12月の某日には雄が1キロ150円、雌50円だったという。
 5キロなら雄750円、雌250円。
 雄を買う人が多い。
 販売は日曜・祭日を除く午前中で、2月中旬までのようだ。
 受精した発眼卵が孵化すると体長1センチほどの稚魚になる。
 おなかに卵をつけたキャラクター、さあ・もん太を思い出す。
 4月半ばに体重1・6グラム、体長6センチほどに育った稚魚を川へ放流する。
 稚魚は宮古湾の藻場を経てオホーツク海などを回遊しながら成長し、2年から7年かけて母なる津軽石川へ帰ってくる。
 
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■ 1967年に津軽石川で…
 
 宮古鮭まつりは1973年(昭和48)に始まったという。
 「鮭まつりの記憶」という文章にぼくはこんな疑問を書いた。
 ぼくが最初に津軽石川の鮭まつりを見たのはそれよりもっと前、1967年(昭和42)頃じゃなかったか。
 鮭まつりの始まる前から鮭漁を観光客に見せる催しがおこなわれていたのだろうか、と。
 これを読んで、けむぼーさんが宮古伝言板に昔の日記を披露してくれた。
 〈自分も同様の記憶があったので、小学3年生の頃の日記を読み返しました。
 小3というと1967年だと思います。
 1月4日に津軽石川の鮭開きを見に行っています。
 さながらお祭りのようで、たい焼き屋やおもちゃ売りの出店もあり、生鮭は鮭売り場で売っていたと書いてありました。
 ひょっとして、じんさんとこの時に接近遭遇していたかも……。
 鮭開きがその後に鮭祭りに変わったのでしょうか?
 余談ですが、その時ついでに、はらい川のミンクセンターを見て帰ってきたと日記には書いてありました。〉
 ミンクセンターというのは初耳だった。
 はらい川は津軽石にある字〔あざ〕払川だろう。
 それにしても小学3年当時の日記が残っているとはすごい。
 ひょっとしたら1967年の正月に津軽石の川原で、けむぼーさんと擦れ違っていたかもしれないというのもすごい――
 日記はつけるもの、残しておくものである。
 おかげで鮭まつり以前から津軽石川で鮭漁を見せる催しが開かれていたという事実が確認できた。
 宮古市史年表の1967年には津軽石の鮭に関する記事がない。
 第1回の鮭まつりがおこなわれた1973年1月3日の項には〈鮭まつり〉の文字はなく、〈津軽石川川開き中止、鮭のつかみどりに変更〉とある。
 このときから参加型のイベントになったらしい。
 〈鮭開き〉と〈川開き〉はどちらが正しいのだろう。
 あるいは正式な名称なんかなかったのかもしれないなとも思う。
 
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■ カトリック教会の鐘
 
 「昔、お昼になると駅裏の教会の鐘が鳴ってたよね?
  いつから鳴らなくなったんだっけ?」
 「教会って小百合幼稚園のトコのことだよね。
 永く居られたチャールズ・レンネル先生が帰国されてからじゃない?」
 「みやこわが町」のネット掲示板にこんな書き込みがあった。
 以前にもいちど鐘を鳴らすかわりに賛美歌だったか鐘の音だったか、録音テープを流したと人の噂に聞いた覚えがある。
 神父さんが代わって、また近所から苦情でも出たのだろうか。
 通園していた頃、あの鐘楼の鐘を一度だけ鳴らしたことがある。
 前後の記憶ははっきりしない。
 当時の園長先生だったシュミドリン神父が鐘楼の下に立って鐘を鳴らしていた。
 それをそばで見ていて、やってごらんと言われたのだろう。
 おっかなびっくり両手で太い綱を引き下げた。
 カラ〜ンコロ〜ンと軽いような重いような微妙な音が響いた。
 宮古市史年表をみると、1960年(昭和35)2月6日に〈スイスから宮古カトリック教会に平和の鐘寄贈〉とある。
 鐘の名は一つしか書かれていないけれど、実は二つついていた。
 山根英郎さんが「宮古の鐘物語」という文章を「みやこわが町」1993年6月号に載せている。
 かいつまんで紹介しよう。
 1952年(昭和27)12月に教会堂の献堂式があった。
 それから7年後に鐘の音が宮古の空に鳴り響くようになった。
 ヨゼフ・シュミドリン神父の故郷スイスのワーレンの人たちが募金をして贈ってくれた青銅の鐘の名は〈平和の鐘〉と〈愛の鐘〉。
 平和の鐘は重さ200キロ。
 日本語で〈使徒ペトロ〉、ラテン語で〈私の声に従ってくれば平和と救いを見出せるでしょう〉と刻まれている。
 愛の鐘は300キロ。
 日本語で〈聖ヨゼフ〉、ラテン語で〈この鐘はワーレンの人びとの信仰から生まれました。キリストの愛をお伝えします〉と刻まれている。
 スイスと日本の人びとの、友情の鐘である。
 
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■ シュミドリン先生のこと
 
 ぼくが小百合幼稚園に通っていたときの園長先生、カトリック宮古教会の神父だったシュミドリン先生――
 その足跡をいくつかの資料からたどってみよう。
 ヨゼフ・シュミドリン先生はスイスのワーレンという人口600人ほどの村に生まれた。
 6人兄弟の長男だった。
 宣教師を志したのは小学校5年生のとき。
 神学校を卒業すると、1954年(昭和29)に日本へきた。
 松尾村や一関、宮古、盛岡市志家町の教会で神父をつとめた。
 宮古教会時代にチリ地震津波を体験した。
 1960年5月24日、宮古市史年表には〈チリ地震津浪、高浜小学校全壊、磯鶏〜津軽石間不通、被害十億円〉とある。
 このときシュミドリン先生は信者たちの協力を得て避難所に食料・毛布などの救援物資を運びこんだ。
 それまでとっつきにくいと感じていた岩手の人びととの距離が縮まったと思った。
 1999年(平成11)の秋、衰えを感じて帰国を考えた。
 2000年10月に心臓をわずらった。
 「病気は別れをつらくさせないための神さまからの贈り物」
 そう考えて帰国の意志をかためた。
 写真が好きだった。
 時間をみつけては岩手各地の風景・風俗を撮り、スイスやドイツのメディアに発表した。
 「イワテ」という記録映画も製作した。
 離日をまえにした2001年4月7日・8日には盛岡で写真展「子どもの瞳」が開かれ、約40点を展示した。
 会場はIBCホール、岩手放送が主催した。
 47年間を過ごした岩手、「私の第二の故郷」と呼ぶ岩手を離れる直前に事件が起きた。
 4月21日、志家教会の部屋に置いてあったパスポート、外国人登録証、現金数十万円がなくなっていた。
 シュミドリン先生は大使館と連絡をとって、予定どおり4月24日、帰国の途についた。
 このとき72歳だった。
 
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■ 松こで待って…
 
  正月は松こで待ってさっと過ぎ
 先日、ふとこんな句が浮かんだ。
 どこかで聞いたことがあるなと思ったら、宮古に古くから伝わる言葉のもじりだった。
 「松こで待って、笹こでさっと、杉こで過ぎた」
 鍬ヶ崎生まれの珊瑚さんのおかあさんは毎年正月になると、
 「松こで待って、笹こでさっと、杉こで済んだ」
 とよく言っていたという。
 「過ぎた」「済んだ」と最後の言葉は少し違うけれど、どちらにしても韻を踏んでいて調子がいい。
 松こで待つ大正月。
 歳末に松飾りをつけたり門松を立てたりして元旦から七日までの松の内を祝う。
 小正月は笹こで迎える。
 14日、門などに笹の葉を飾る。
 「さっと」というのは大正月より日数が短いからだろうか。
 正月の名前にはいろいろあって、小正月の最終日を二十日正月と呼ぶらしい。
 「むかしの磯鶏〔そけい〕を語り伝える会」がつくった旧暦の行事暦には、20日に笹や水木団子など小正月の飾り物をとりはずし、固くなった水木団子や餅をやわらかくして食べたりした、骨休みの正月ともいった、と書かれている。
 水木団子は、ミズキの枝に食用色素で赤・青・黄などの色をつけた小さな団子を差し、紙に描いた宝船や鯛、大判小判、打ち出の小槌、米俵といった縁起物を吊るして大漁豊作を祈る。
 杉こで過ぎるのはなんだろうと思っていたら、三日正月というのもあるらしい。
 旧暦の1月30日もしくは新暦の2月1日から3日を三日正月と呼んで、杉の葉を立てて祝ったという。
 これは旧暦時代からの行事なのだろうか。
 それとも新暦になって生まれた旧暦三ヶ日のなごり、月遅れの三ヶ日のようなものなのだろうか。
 まあ、なにはともあれ、待ち遠しかった正月も慌しく過ぎてゆく。
 
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■ モーコはナモミか?
 
 小正月1月15日の行事であるナモミについて「宮古なんだりかんだり」の第2部に書いた。
 「知る知る宮古」というサイトに宮古の風習として出ているのを参考のひとつにした覚えがある。
 書きながら、自分に体験がないものだから、ほんとうに宮古でもナモミはおこなわれていたのだろうか、という思いもよぎった。
 「むかしの磯鶏〔そけい〕を語り伝える会」がつくった行事暦には、だいたいこんなふうに書かれている。
 ――ナモミは東北地方の各地で見られる風習で、むかしは磯鶏にもこの風習があった。
 「泣くわらすはいないか。
 みんないい子にしてるか。
 親の言うことを聞いてるか」
 などと叫びながら、藁〔わら〕を着て頬かむりをした男たちが子どものいる家をまわって歩いた。
 戸を叩き、荒々しく家の中まで入ってきて泣く子を戒めた。
 ナモミ組とオドリ組があり、そのあとには家々で貰ったものを持つ人びとが3、4人ついていた。
 一行には餅米・酒などを振るまった云々。
 「月刊みやこわが町」1月号の連載コラム「懐かしい宮古風俗辞典」にも出ていたから、宮古でナモミがおこなわれていたのは間違いないらしい。
 ところで、このコラム記事に「モーコ=火斑」とあるのに目がとまった。
 驚いた。
 足にできる火斑のことをモーコと呼ぶとは知らなかった。
 モーコといえば、子どもがぐずぐず泣き止まなかったり夜遅くまで起きているときに親が決まってもちだす「モーコが来っつぉ」のモーコしか思い浮かばなかった。
 得体の知れないモーコについては第4部で書いた。
 正体についていくつか説を並べたけれど、ナモミとは結びつかなかった。
 火斑のことを宮古弁でモーコと呼ぶというのがほんとうなら、怪物モーコの正体はナモミなのかもしれない。
 
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■ ナモミとナマハゲ
 
 ナモミは岩手のナマハゲである。
 というより、どうも言葉としてはナモミのほうがナマハゲよりもルーツに近いらしい。
 秋田県男鹿〔おが〕半島のナマハゲ。
 その保存伝承促進委員会というところが開設しているホームページを覗いてみると、語源として、だいたいこんなふうに説明されている。
 ――ナマハゲは男鹿地方の方言ナモミからきている。
 ナモミは手足につく火形、火斑のこと。
 冬の囲炉裏端で長く暖をとっているとできるナモミは怠け者の象徴とされた。
 このナモミを剥ぐナモミ剥ギがナマハゲになったとされる云々。
 ナマハゲの語源はナモミ剥ギだという。
 宮古地方をはじめとした岩手の沿岸北部に伝わるナモミも、ナモミ剥ギやナモミタクリの略だとされている。
 タクリは引ッタクリと同じで皮を剥ぐという意味がある。
 ナマハゲ、ナモミに似た風習は東北各地にあって発祥の地は定かではないけれど、ナマハゲとナモミは同じだとわかる。
 しかも言葉としてはナモミがナマハゲよりも語源に近いという。
 ナモミは火形・火斑と説明されている。
 これがよくわからない。
 ナモミと火形・火斑とのあいだにはなにか飛躍がある。
 ナモミはナゴミとも呼ばれる。
 ナゴミ……和み?
 火にあたって心身がなごむ、緩む、怠け心がつく。
 このナゴミが手足にできる火型・火斑に仮託され、それを剥いでまわるナゴミ剥ギという仮象が考えだされた。
 そしてナゴミがナモミに訛った――
 素人の語源詮索ほどあやしいものはないからほどほどにするが、それにしてもナモミの風習が宮古ですたれてしまったのは惜しい。
 ナマハゲは1978年(昭和53)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 宮古のナモミも貴重な文化遺産として記憶や記録を掘り起こしてみたらどうだろう。
 
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■ 地名「削除」事件
 
 「土地の名称変更のお知らせについて」総合窓口課
 宮古市のホームページに1月26日付でこんな「お知らせ」が載っている。
 なんのことかと思って読んでみたら、戸籍や登記簿に記載されている地名の表記が「一部の区域」で簡略化されるらしい。
 実施は2月5日。
 要点は二つ。
 ?土地の表記に大字(おおあざ)のあるものは、その2文字を削除する。
 ?土地の表記に小字(こあざ。字□□と表わすもの)のあるものは、それを削除する。
 変更の例 大字○○第△地割字□□ → ○○第△地割
 たとえば、
  宮古市大字松山第五地割字野田一三番地六号
 という土地の表記は、
  宮古市松山第五地割一三番地六号
 になる。
 いまあげたのは、郷土の文化を毎月発信しつづけている「月刊みやこわが町」の版元タウン情報社の所書きだが、雑誌の奥付を見ると、
  宮古市松山5‐13‐6
 と表記されている。
 これは、ふだん住所を書くとき、市役所の簡略化よりさらに進んで、第○地割・番地・号などの漢字も省略し、数字と記号で表記される傾向があるという事実を示す好例だ。
 地割の場合だけでなく、大通三丁目一番二二号なども大通3‐1‐22などと書かれることが多い。
 役所の発行する文書から大字の2字と字□□が削除されれば事務能率があがる。
 書くのも楽だし、見た目もスマートになる。
 「土地の名称変更のお知らせについて」には「土地の名称変更新旧対照表」というPDF文書が添付されている。
 36ページにおよぶ一覧表で、数え間違いがなければ、削除される市内24地区の小字の数は635もあった。
 これが全部削除される。
 消えてなくなる。
 なんとさっぱりすることか――
 しかし待てよ。
 ほんとにいいのか?
 635もの地名が消えるというのは大事件なんじゃないか?
                   (2007.2.1)
 
 ⇒ 宮古市役所総合窓口課
  「土地の名称変更のお知らせ」

 
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■ 摂待方水歌集
 
 去年の夏、長根から山を越えて山口へ下った。
 飲み物を買おうとして入った山口ショッピングセンターで女将さんと黒森山や神楽の話をし、ご主人から小冊子をいただいた。
 何冊かあるなかに前から読みたいと思っていた摂待方水(ほうすい)の歌集がまじっていた。
 発行者は山口公民館の館長をつとめた摂待壮一さん。
 ご主人の父上だった。
 公民館の前に方水の歌碑がある。
  爆音の轟き過ぎし山口の
      若葉木原にひかりみなぎる
 山口の歌人方水は1953年(昭和28)2月6日に38歳の若さで死んだ。
 その命日をまえに歌集を読み返してみた。
 ソ連と満州の国境に衛生兵として送られて病を得、自宅で療養中に詠んだ歌は、静謐なたたずまいにみちている。
 日常身近な対象をしっかりと見据えて静かに胸に迫ってくる。
 歌集冒頭は1945年(昭和20)の「六月の歌」。
  山裾の雑木若葉の下の径〔みち〕
      かげり来〔きた〕りて夕静もれり
 墓のある慈眼寺の碑に刻まれている歌。
  種大根の花をたわわに乱しつつ
      いかづち鳴りて俄雨〔にわかあめ〕降る
 大根の葉っぱを干したホスバは冬の貴重な食料だった。
  大鍋に干葉が煮立つ炉の辺〔ほとり〕
      しきりに降れる外の粉雪
 山口を出て海岸に足をのばすこともあった。
  見遥かす磯のあたりに白々と
      潮が寄せて漂へるらし
  海を見る浜の少女に愁〔うれい〕有り
      あかざが茂り荒ぶる砂浜
  美しきパラソル一つ赤松の
      疎林の蔭に見えずになりぬ
 浄土ヶ浜の剣の山も歌いこんでいる。
  青潮のうねりて寄する荒磯に
      剣の山のするどき起伏
 物資の乏しい戦後の末広町は物を求める人たちであふれていた。
  暮方の末広通のあわただしさ
      新刊書を一冊購〔あがな〕ひ求む
 全231首が収められた歌集の最後は、
  臨港線逆行する機関車が
      白く膨るる湯気上げて行く
 何部刷られたかわからないが、もっと広く知られていい歌集だ。
 
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■ 津波カルタ
 
 先日、「みやごのごっつお宮古弁カルタ」を眺めながら浮かんできた言葉に、こんなのがあった。
 「忘っせーでも忘れなぐってもヨダは来っぺぇ」
 ヨダは津波を意味する古い宮古弁。
 実際に自分で使った覚えはないし、いまどき使う人も少ないにちがいない。
 忘っせーでも忘れなぐってもというのは、寺田寅彦がつくった警句「天災は忘れた頃にやってくる」が頭の片隅にあったのだろう。
 対抗したわけではないけれど、天災は続けて起きることもある、忘れないうちにでもやってくるという思いがあった。
 「津波対策いろはかるた」というものがある。
 1957年(昭和32)に宮古測候所と盛岡地方気象台が考案したらしい。
 長いあいだ忘れられていたのを、大船渡市に住む津波災害史研究家の山下文男さんが発掘して紹介し、ふたたび日の目をみた。
 カルタといっても絵札はない。
 読み札にする48句の言葉が残っていて、そのなかにこんな一句がある。
 「天災は今すぐにでもやってくる」
 やはり「天災は忘れた頃にやってくる」をもじったにちがいない。
 読み札には、研究が進んだ現在から見ると別の句に差し替えなければならない札もあるという。
 たとえば、
 「三陸海岸津波の本場」
 昔から津波が多いのはたしかだが、三陸に限らず津波はどこにでも来るから一考を要する。
 「防波堤で一村安心」
 そういう過信ほど怖いものはない。
 「老人子供の避難を先に」
 「近所の人を誘って避難」
 「そろって避難 終わって点呼」
 この3つは一見いいようだけれど、非情でも、逃げられる人から、すぐ逃げる。
 ばらばらでいい。
 「一度逃げたら二時間お待ち」
 警報が解除されるまで待つ必要がある。
 これらの札を直し、絵札をつくって「津波対策いろはかるた」を完成させたいと山下文男さんは考えている。
 
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◇ 資料 津波対策いろはかるた
 
 1957年(昭和32)宮古測候所と盛岡地方気象台が考案。
 大船渡市の津波災害史研究家山下文男さんが発掘・紹介。
 ★印は別の句に差し替える必要があるもの。
 
い★一度逃げたら二時間お待ち 
ろ★老人子供の避難を先に
は 初めて安心 警戒解除
に 逃げ口必ず ふだんの用意
ほ★防波堤で一村安心
へ 下手な思案より先ず退避
と 遠い地震でも油断はするな
ち 地震の後は津波の警戒
り 流言ひ語に惑わされるな
ぬ 盗人よりも暴れる津波
る 留守と津波に心の鍵を
を 終わりにしよう津波の災害
わ 忘れるな津波の大きな被害
か 各戸に備えよ懐中電灯
よ よしましょう ためらい あわて よくばり
た 高い所に津波なし
れ 例年手入れよ防潮林
そ★そろって避難 終わって点呼
つ 常に備えよ非常袋
ね 眠る夜半にも津波は来る
な なんにもならない迷信すてよ
ら ラジオで知らせる津波警報
む 無理して怪我すな大事な体
う 海を背に近道逃げよあわてずに
ゐ ゐろりの火も消せ地震の避難
の 延ばすな津波の防災対策
お 沖の船舶 避難は沖へ
く 苦しい経験 記念碑に
や 薬品 食料 非常袋に
ま 毎年つづけよ津波の訓練
け 警報文は「ツナミオソレ」「ヨワイツナミ」「オオ
  ツナミ」
ふ V状湾奥最大の津波
こ 子供の時から津波の教育
え 映画も津波の啓蒙宣伝
て 天災は今すぐにでもやってくる
あ 上げ潮にまさる引き潮の威力
さ★三陸海岸 津波の本場
き★近所の人を誘って避難
ゆ ゆらゆら地震 津波の警戒
め 滅多に起こらぬ津波を忘れず
み 見張り人たて海の警戒
し 震災よりも火災を防げ
ゑ 演習通りに津波の退避
ひ 避難道路は低地を避けよ
も もすこしと思う心が怪我のもと
せ 正式の発表以外は信ぜず言わず
す す早く避難 定めたところへ
ん 運より準備
 
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■ ヨダ
 
 ヨダという宮古弁が妙に気になっている。
 津波を意味するこの言葉は、いつごろ、どんなふうにして生まれたのだろう。
 呆然と思いをめぐらすばかりで、もちろん結論は出ない。
 古くから宮古で使われていたことはたしかだ。
 小説「寄生木〔やどりぎ〕」(岩波文庫)のなかでも使われている。
 1896年(明治29)旧暦5月5日、新暦では6月15日に三陸地震津波が襲った。
 このとき山口の小笠原家では善平の兄が、
 「海嘯〔よだ〕が来た! 起きろ、起きろ、大変だ……宮古さ海嘯が来て」
 と叫んでいる。
 海嘯は音読みでカイショウ。
 これを〈つなみ〉と読ませる例は多いが、「寄生木」では〈よだ〉と宮古弁のルビをふっている。
 作家の吉村昭さんは「三陸海岸大津波」(中公文庫)のなかでヨダを、
 〈三陸沿岸特有の「津波」に代わる地方語〉
 と書いている。
 ただ、この言葉のニュアンスには少し違いがあったらしい。
 チリ地震津波の翌日、もと宮古測候所長の二宮三郎という人が宮古湾の奥で調査をしたときに聞いた老漁師の言葉がある。
 「津波じゃねえ、あれはヨダのでっけえやつだ……
 ヨダってのは、地震もなく、海面がふくれ上がって、のっこ、のっこ、のっこと海水がやって来てよ、引き潮のときがおっかねえもんだ」
 1960年(昭和35)5月23日に南米チリ沖で大地震が起きた。
 日本では体に感じられなかった。
 22時間後、1万8000キロの大海原を越えて津波が日本を襲った。
 このとき、
 〈外国地震でも津波は来る〉
 という教訓が生まれた。
 1896年の明治三陸大津波を体験した田野畑村の早野幸太郎さんという人は、吉村昭さんにこう語った。
 「明治29年前までは、三陸の土地の者は津波をヨダと言っていた。
 津波という言葉が使われるようになったのは、明治29年の大津波のときからだ。
 ヨダは津波と同じ言葉だ」
 吉村さんはその後いろいろ調べて、ヨダと津波は同じだと思うようになったという。
 
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■「寄生木」のなかのヨダ
 
 まえに「津波と船幽霊」という文章を書いた。
 1896年(明治29)の三陸大津波にあって助かった重茂〔おもえ〕村の人たちの話で、おなじ話が小説「寄生木」に載っている。
 原作者の小笠原善平が父の友人で重茂村の助役だった山崎松次郎を訪ねてじかに聞いた話は、おおよそ次のようなものだった。
 ――明治29年の陰暦5月5日、端午の節句で、ランプの明かりに妻がすすめる祝いの盃をあげていた。
 すると、たちまち沖のほうに轟というおびただしい物音がした。
 燭〔あかり〕を持って戸をあけて外をうかがった妻が、
 「あれーッ、海嘯〔よだ〕!」
 と叫ぶとともに水煙に姿は巻き込まれた。
 その手に持っていた灯りは消えた。
 驚いた一家は立って逃げようとした。
 丈余の濁流が轟と室内に巻き込んだ。
 吊りランプは消えて真っ暗になる。
 襖〔ふすま〕が折れる。
 戸が破れる。
 柱がひしげる。
 ベリベリ、バリバリ
 さしも頑丈な茅葺家がくるりと転覆した。
 酔いもまったく醒めてしまった。
 濁流に流されながら、死んでも離すまいと倅〔せがれ〕の手を右手にしっかと握って波と闘っていた。
 たちまち第2の激浪が山のごとくにきた。
 倅を俺の手からもぎはなして、波の底につれていってしまった。
 夜目ながら波底に白い体が見えていたが、とうとう見えなくなってしまった。
 それから海原遠く流された俺は、はるかに漁火を望んで泳ぎながら助けを呼んだ。
 頑迷な漁夫は、
 「船幽霊だ。
 海で亡くなった人の魂だんべ」
 と舟を寄せてくれぬ。
 泳ぐ腕も疲れきった。
 俺はわが名を叫んだ。
 漁夫らはいぶかりながら舟を寄せ、かろうじて俺の一命は助かった。
 仔細を語ると、「旦那、旦那、旦那」と打ち喜ぶ漁夫らも容易に俺の言うことを信じない。
 岸に近寄った。
 家財道具が流れてる。
 人馬の死体が浮いている。
 漁夫らも驚いた。
 陸に上がった。
 漁夫らの家はみな流されて、俺とおなじに妻も子も亡くなっている。
 長身黒がねの漁夫らも天をあおぎ、砂に伏し、しばしは慟哭の声が絶えなかった。
 
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■ ヨタ、ユダ
 
 ヨダはヨタやユダとも発音するらしい。
 「風俗画報」の1896年(明治29)8月10日臨時増刊第120号の大海嘯被害録に、こんな話が出ている。
 ――船越村で30歳前後の男が海に向かって演説をしていた。
 いぶかしく思って近づいて見れば、彼は双眼から涙を流し、
 「俺のオカタ(女房)になんの咎がある。
 俺のワラシになんの恨みがある。
 ヨタ(海嘯)を起こした海が恨めしい。
 海め、海め」
 と繰り返しつつ人目も恥じず泣き叫んでいる。
 自分は家にいなかったため災難をまぬかれたとはいえ、家に帰れば最愛の妻と子を、家財もろとも毒浪に持ち去られていた。
 彼が半狂乱となって絶叫するのも無理はない。
 哀れに思ってその名を問えば、
 「名なんぞは御じゃりやせぬ」
 と言う。
 ああ、彼は自らの名を忘れるまでにその神経を狂わせたり云々
 吉村昭さんの「三陸海岸大津波」に1933年(昭和8)の大津波にあった田老尋常高等小学校の生徒が書いた作文が紹介されている。
 高等2年の赤沼とし子さんが書いた作文には、おおよそこうある。
 ――3月3日午前2時半ごろ、家の人たちがみなすやすや眠っているときでした。
 急にがたがた家が大きく揺れました。
 びっくりして床から起き上がったら、お母さんも続いて起きて子どもらを起こし、着物を着せておりました。
 少したったら家のあたりをむすむすと人の走る気配がします。
 お母さんと二人、外へ出てみました。
 お母さんは何回も走る人びとに火事だかなんだか聞きましたけれども、誰も教えないで、ただむすむすして走りました。
 お母さんは気をもやすようにして家の中へ入っていきました。
 私はそのときそばを通る人から、
 「ユダ(ヨダ)だ、ユダだ」
 と聞きました。
 けれども私はそのわけを知らなかったので、家の中へ入って姉さんに言ったら、
 「それは津波のことだ。
 おまえたちは早く逃げろ」
 と言いながら私に自分のマントを着せました云々
 
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■ 鍬ヶ崎小学校の幻灯会
 
 三陸大津波の起きた1896年(明治29)6月15日の夜、鍬ヶ崎小学校では幻灯会が催されていた。
 「風俗画報」の大海嘯被害録によると、この幻灯会は鍬ヶ崎町長の中川清祇と鍬ヶ崎小学校長とが相談して決めたものらしい。
 幻灯会の最中、生徒の一人が座ったまま小便をしたので生徒一同を立たせて便所に行かせようとした。
 そのとき門前が急に騒がしくなった。
 しばらくして海上が鳴り渡り、町に叫喚の声があがった。
 中川町長が様子を見に外へ出た一刹那、海嘯が猛然と鍬ヶ崎の町を襲った。
 町長はすぐに引き返し、門口に立って生徒を外出させないように制した。
 山を越えて役場にきたとき町の海に接するところはことごとく大波をかぶって目も当てられなかった。
 家にいた多くの人が横死を遂げ、学校に集まっていたものは助かった。
 助かったなかに本宿〔ほんしゅく〕直子がいた。
 直子の長男は盛岡藩から政府軍に入って海軍大佐・主計総監をつとめた本宿宅命〔たくめい〕で、大津波の3年前に40歳で死去していた。
 三男が本宿家から鍬ヶ崎の医家に養子となった道又金吾で、後年、石川啄木が宮古に寄港して訪ねた人物である。
 直子は盛岡からこの道又家にきていた。
 その夜は7歳と3歳の二人の孫をともない小学校へ幻灯会を見にいった。
 会場で、
 「ヨダだ、ヨダだ」
 という声が上がった。
 人びとはみな慌てて逃げ出した。
 直子はその意味がわからずに茫然としていた。
 「津浪です」
 と先生が注意してくれたので驚き、山に逃げ登って無事だった、という。
 大海嘯被害録にある幻灯会についての二つの記事をつなぎあわせてみると、会場に集まっていた人たちは、その場に留まっていたのか山へ逃げたのかがはっきりしない。
 それはさておき、本宿直子の挿話は内陸の人間にヨダという言葉が通じなかった恰好の例といっていい。
 
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■ 津波の前兆
 
 「風俗画報」の大海嘯被害録には1896年(明治29)6月15日、旧暦5月5日に起きた三陸大津波の前兆について短い記事がいくつか載っている。
 それを拾って大意をまとめてみた。
【川菜】
 宮古湾奥の赤前では41年前の安政3年(1856年)に起きた海嘯のまえ、土地のものが川菜と呼ぶ海藻が磯に発生した。
 そのあとは見かけなかったが、12月ごろから磯のあたりにこの川菜が生じた。
 これを見た老人たちは必ず海嘯がくるにちがいないと言った。
【ウナギ】
 3月に宮古湾岸のいたるところに鰻が多くあらわれ、200尾あまりを捕獲したものも少なくない。
 鳥さえも砂を掘っては鰻をついばんでいた。
 古老はこれを見て必ず海嘯が襲来すると予言したが、信じるものはなかった。
 高浜では鰻の死骸がおびただしく、漁民らは海嘯の前兆とした。
 はたして予言の適中する不幸を見るにいたった。
【井戸水】
 古くから、
 「地震があったら井戸水の増減に注意しろ」
 という。
 海嘯のまえには必ず井戸の水が減るものだと。
 今度も同じだった。
 宮古町で旧の端午の祝いに歩く人が、
 「今日は私どもの井戸の水が大層なくなって困ります」
 とある人に言うのが聞かれた。
 また、14日から深い井戸がことごとく濁り、井戸によって水が白く、もしくは赤く変色した。
 人びとは奇異に感じたが、大海嘯が起きるとは考えもしなかった。
【退潮】
 15日(正午・12時)の干潮は平日に比べて退潮の度合いがはなはだしかった。
 かつて見えなかった島や岩があらわれ、浜にいた子どもたちは無心にその間に戯れていた。
 これは大海嘯の前兆にちがいなかった。
 普段は5、6間(約10メートル)しか引かない海が、当日の午後7時ごろ、急に200間(約364メートル)あまりも引いた。
 古老は海嘯が迫ったことを知って警戒したものの、
 「広く人に告げる暇がなかったのは遺憾極まりなし」
 と無念がる。
 
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■「風俗画報」の大海嘯被害録
 
 1896年(明治29)6月15日の大海嘯、三陸地震津波を特集した「風俗画報」臨時増刊号の大海嘯被害録というのは全部で3冊出ている。
 青森・岩手・宮城におよぶ三陸海岸一帯を取材して絵と記事で全国に伝えた貴重な記録に反響は大きかった。
 「風俗画報」は日本初のグラフ雑誌として知られる。
 いまでいえば写真週刊誌のようなものだった。
 1889年(明治22)に東京神田区通新石町3番地の東陽堂から創刊され、517号まで出たらしい。
 大海嘯被害録は、津波のひと月後の7月10日に上巻の第118号が出て、中巻の第119号が7月25日、下巻の第120号が8月10日に出ている。
 実物は国会図書館にでもでかけないと見られない。
 CD‐ROM版が、ゆまに書房というところから出ているが、これは高価で手が出ない。
 幸い、「津波ディジタルライブラリィ」というホームページに写真版で収録されている。
 当時の惨状を生々しく伝える絵は一見二見の価値がある。
 ただ、膨大な文章を写真版から読みとるのは無理だ。
 津波のデータを検索していたときに大海嘯被害録をテキスト・データに起こしたものを見つけた。
 これも「津波ディジタルライブラリィ」のコンテンツのひとつだろうと思うのだが、なぜかトップページからは辿りつけない。
 テキスト・データを読むと、もとは明治時代半ばの記事だから、やたらと難しい表現や漢字がある。
 そのうえ記事が重複していたり誤植があったりで、やはり読み進めるのは疲れる。
 それでもとにかく読んでみると、貴重な記録であることにまちがいはなく、海嘯前後の宮古町や鍬ヶ崎町、重茂村・田老村などの様子がリアルに伝わってくる。
 すでにいくつかのエピソードは紹介してきたけれど、これからまた何回かにわたって意訳してみたい。
 
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■ 大海嘯被害録 宮古町1
 
 6月15日は旧暦5月5日で端午の節句にあたる。
 市中は菖蒲を飾り、思い思いの扮装をして浜遊びをしようと待ちかまえていた人が多かった。
 ところが、その甲斐もなく朝から雨が降った。
 午後4時になって雨はようやく上がったものの、晴れ曇り定まりなかった。
 7時半ごろ異様な地震があった。
 ついで8時10分ごろ、また長く不思議な強震があった。
 8時30分、異常な波音とともに大海嘯が押し寄せた。
 大海嘯は西南をめざして石崎を襲い、北に折れて宮古町の東端にある光岸地を衝き、また折れて東部に進んで下浜をさらい、さらに転じて鍬ヶ崎を洗った。
 1時間あまりにわたって前後12回の激浪が押し寄せ、最初の波は高さ5丈(15メートル)あまりにのぼった。
 第2波はこれに次いで、しだいに低くなったが、最後の波は見たこともないようなものだった。
 第1波で海上に押し流された人が声をかぎりに号泣して救いを求めた。
 第2波で号泣の声はまったく消え失せ、ただ細々とした声のみが聞こえた。
 宮古町に限れば、その被害は戸数987のうち流出23戸・全壊3戸・半壊10戸・浸水300戸、人口6500のうち死亡12名・重傷6名。
 ほかの町や村に行っていて死亡した人が少なくない。
 宮古町の駒井吉三郎の妻は田の浜の黒沢六蔵の妹だった。
 夫婦に子が一人あり、カヲという。
 ともに田の浜に行って生活していた。
 その夜、妻は子を背負い、大波に押し流された材木の下敷きになった。
 吉三郎と六蔵が助けようとしたところ、
 「カヲはとても助からないし、わたしもこんなになっては助からない。
 おまえたち二人は助かれるものなら逃げてくだされ」
 二人が泣きながら材木をとり除こうとするうちに第2の高波がきた。
 ついに妻は南無阿弥陀仏を唱えつつ波に没した。
 
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■ 大海嘯被害録 宮古町2
 
 海嘯が宮古湾に襲来するや、市街はたちまち修羅の巷と変じた。
 あるいは屋材に挟まれ、あるいは水上に漂って救いを叫ぶ人の数がおびただしかった。
 宮古町の平山直次郎というものの父母は、直次郎の帆走船の進水式に出て、集まった一同に挨拶したとたん、激浪に捲き去られて惨死を遂げた。
 光岸地の盛合十吉は、3歳の子を背負い、自宅から14、5町も押し上げられて柳の木にとりついた。
 材木が流れ下ってくれば頭を水に突き入れ突き入れして、ついに助かった。
 新晴橋は宮古川に架かる88間(160メートル)の長橋。
 河岸につないであった材木が橋の中央を破壊して上流に進んだので橋の前後が残るのみになった。
 12歳の少年が激浪にもてあそばれ、かろうじてこの新晴橋にとりついていた。
 発見した下斗米巡査が救い上げようとしたら、少年の衣服は海水を含んで膨れ、容易に引き上げることができない。
 やむをえず剣を抜いて衣服を引き裂き水を出して救い上げた。
 すぐに第2回の海嘯がきた。
 二人とも危うかったが、巡査は堅く少年を脇に抱え、必死にその場を逃れた。
 ある人が宮古町の旧舘から材木にすがり、新晴橋まで押し流されて救助を乞うた。
 橋の上の人が、
 「もう少し泳げ。そうすれば縄を下げるから」
 と言うと、苦しい声をあげ、
 「手足が利かなくて泳げない。あとをよろしく頼む。おれは尾本興兵衛だ」
 と言って、そのまま波に没してしまった。
 宮古郵便局長も波浪にさらわれて新晴橋まで流された。
 一生懸命に橋杭にかじりついていると橋の上に救助者がきた。
 「助けろ、助けろ」と呼ぶと、
 「誰れだ誰れだ」と言う。
 「多田だ、多田だ」と答えると、
 「タダではいやだ」と言う。
 「おれだ、郵便局長だ」と答えると、
 「そうか」とただちに縄を下ろすので、腹へ3巻き回し、それにすがって引き上げられた。
 
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■ 大海嘯被害録 鍬ヶ崎町1
 
 宮古の東にある鍬ヶ崎町の漁夫らが、女遊戸〔おなつぺ〕沖で漁をしていた。
 沖合いに鳴動が聞こえるので、気味悪さに帰途についた。
 いつもなら女遊戸沖から2時間半かかるのに、わずか30分で帰り着いた。
 奇怪だと言っていたら、はたして海嘯がきた。
 大須賀与平治は音に聞こえた漁夫だった。
 宮古湾内で地引網を曳いていたら急に水がいつもより50間(90メートル)も引いた。
 それを見て海嘯だと知り、沖合いから、
 「ヨダだ、ヨダだ、逃げろ逃げろ」
 と声をかけて曳き子を逃がした。
 曳き子はそのまま網を棄てて、
 「ヨダだ、ヨダだ」
 と言いつつ逃げた。
 この声のために助かった人が多くいる。
 曳き子が逃げたあと与平治は沖を振り向き、どうせ助からないと思いつつ高波に向かって船を乗せかけた。
 たちまち覆されること3回に及んだ。
 が、船を離れず、4回めには材木にとりつき、第2の波で町の土蔵の屋根に押し寄せられて幸運にも一命を拾った。
 町の端にある葭ヶ洲には、沖合いはるかの海底にあった4、5貫目(15〜19キロ)の大石が幾個となく打ち上げられた。
 一目で海嘯の勢いの猛烈だったことがわかる。
 この海嘯による鍬ヶ崎町の被害は、全戸数174戸のうち224戸が破壊・流出し、53戸が半壊、115戸が浸水。(計算が合わない)
 人口3787人のうち死亡128人・重傷15人。
 船舶は216艘が破壊・流出し、よそから来て碇泊していた帆走船の宮瀬丸ほか3艘は陸上高く押し上げられた。
 鍬ヶ崎町では一家13名ことごとく死亡して絶滅した家がある。
 同じような惨害を被った例はずいぶん多い。
 ポンポン松という漁夫がいた。
 暴風雨に銚子の港を泳いで船を繋ぎ止め、磁石なしに遠州灘を乗りきったという強胆な男だった。
 「なに、海嘯なんどに恐れるな」
 と一杯機嫌で悠然としていたが、ついに石に頭部を打たれた。
 その妻も、いったん逃げたのに、銭を忘れたといって引き返したため子を抱いたまま波に呑まれた。
 
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■ 大海嘯被害録 鍬ヶ崎町2
 
 鍬ヶ崎町のある家では、
 「海嘯だ」
 と言うや内儀はわれを忘れて戸外に飛び出した。
 ふと気づけば肝腎の子どもを忘れている。
 その3歳の女の子の泣き声がありありと聞こえる。
 母はとって返して女の子を引っ抱え、高所にからくも辿りついた。
 ホッと太い息をついてわが子を見れば、わが子ではなくて知り合いの家から来合わせていた子どもだった。
 ハッと驚き、こうしてはいられないと立ち上がった一瞬、山をも崩す大波が、わが子のいる家を引きさらって名残りもとどめなかった。
 千葉三平巡査はその夜、鍬ヶ崎の中央にある派出所にいた。
 突然、激浪に派出所とともに捲き去られ、しばらく海に漂っていたが、ふたたび陸地に打ち上げられ、幸いに傷も負わず命拾いをした。
 宮古警察署の徳田巡査は当夜、囚人監守のため監獄にいた。
 変を聞き、走って鍬ヶ崎町に行くと2階屋・平屋・船舶がゴタゴタになって通行できない。
 飛び上がって屋根伝いに2、3丁走ると、ある貸し座敷の窓から2階に飛び入った。
 娼妓と戸主の妻がボンヤリ座していたが、巡査のきたのを見て嬉し泣きに泣き出した。
 鍬ヶ崎の船大工の千徳寿八は田老に行っていた。
 物音に驚いて窓から眺めたら沸くがごとき大波がくる。
 「逃げろ逃げろ」
 と言いつつ走る途中で波をかぶったが、首尾よく陸上に達した。
 ホッと息する間もなく、たちまち波にさらわれた。
 2丈(6メートル)あまりも底に沈んで死を覚悟した途端、今度はたちまち浮かび出て、ちょうど木のあるところに流された。
 このときまで左の指2本を損じたこと、腰の抜けたことを知らず、左の手を出して草をつかもうとしたが利かない。
 仕方なく右の手で芝をつかみ、口でくわえ、また右の手で芝をつかみ、口を左手に代え、5間(9メートル)ばかりも山へ登ったところを人に助けられた。
 
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■ 大海嘯被害録 重茂村1
 
 重茂村は宮古湾の東方7里(28キロ)に延びた半島に10あまりの部落からなる漁村。
 じかに外海に面するため海嘯の襲来がきわめて激甚だった。
 大字〔おおあざ〕重茂は60余の民家が全滅。
 200名あまりが死亡し、残るはわずか20名にすぎない。
 大字音部では42戸のうち山間にあった1戸を残すのみ。
 死亡203人、生き残ったのはわずかに2、3名のみ。
 小字姉吉では激浪が家屋より高く100尺(30メートル)に及んで全戸数11戸ことごとく流失。
 人口78名のうち72名が溺死し、わずかに生き残った7名のうち重傷を負ったため5名が死亡、残り2名も病床に呻吟している。
 そのほかの部落も、また同じ災害を被った。
 一村232戸のうち160を流失・破損し、1506人の住民のうち733人が海神に虐殺され、51人は重傷を負った。
 海岸にあった道路はことごとく破壊されて岩石を露出し、老樹・巨木は波に捲き去られ、屋材の破片は岸上・岸下に堆積している。
 ああ、重茂7里の海岸、暗然として風悲しみ日暗し。
 思うに重茂村は当分、村として成り立たないだろう。
 舟子に伊藤万蔵というものがあった。
 いまから14、5年前、北海道に航行の途中で颶風のために船が沈没し、80余人の乗組員ことごとく海底の藻屑と化した。
 このとき彼は十数日間食わず飲まずで漂いつづけ、フランス郵船に発見されて万死に一生を得た。
 今回も岸から2里(8キロ)あまりの海上に漂いながら狼狽もしないで悠々と一夜を過ごし、翌日陸に泳ぎついて岩をよじのぼり、難なく生を拾い得た。
 年齢45、6、骨格たくましく力量8人を兼ねる。
 死体は波のまにまに漂っていた。
 船舶は1隻残らず、ことごとく流失または破壊された。
 そのため、陸上からこのありさまを目にしながら引き揚げることができず、岸に打ち上げられるのを待って収容した。
 
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■ 大海嘯被害録 重茂村2
 
 重茂村長の西舘富弥は8人力ある大の男。
 その夜は早く寝床に入った。
 妻が異様な響きがするといって村長を呼び起こした。
 まず雇い人に戸外の様子をうかがわせたところ、一見するやいなや逃げ出した。
 さらに子どもにうかがわせたところ、これまた雇い人と同様に逃げ出した。
 村長はいぶかりながら立ち上がった。
 このとき、高さ24、5間(四十数メートル)もあろうかという激浪が家をさして襲ってきた。
 波は村長の体を梁の上へ持ち上げたので、わずかにこれにすがって命を助かった。
 村長の姪は1歳の小児を背負って逃げ出した。
 垣根のところで材木に首を押しつけられて惨死したが、小児は無事だった。
 淡路万蔵というものがいた。
 宮古から2歳になる子を貰った。
 海嘯が襲来したとき、自分は宮古にいて稼いでいた。
 海嘯の翌日に帰郷すると、不思議にも小児が畑の隅に無事でいた。
 田村泰次郎巡査は仕事熱心な人だったが、海嘯に襲われて妻とともに帰らぬ人となった。
 宮古町の漁夫で重茂村の小字〔こあざ〕根滝へマグロ網の出稼ぎにきていたものが32、3人ある。
 監督者の高橋治之助が、夕飯のさい沖合いが頻りに鳴ったので戸をあけて海をうかがうと、きわめて深いところまで一滴の水もなかった。
 これは海嘯にちがいないと急いで一同に伝えて後ろの山に逃げ登ったが、13名は無惨にも万仞〔ばんじん〕の海底に葬られた。
 大字重茂の中央に村民が「カクラの神」と呼んで祭る高さ6丈(18メートル)あまりの槻の大木がある。
 海嘯はその槻の上を越えた。
 また金毘羅さまのまえに50人持ちの大石があった。
 これが海嘯のため40間(七十数メートル)も高所に飛ばされた。
 そのほか大石が数個、海底から打ち上げられ、一目して海嘯の勢いの猛烈なことに驚かないものはない。
 
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■ 大海嘯被害録 田老村1
 
 田老村は宮古町から北4里(16キロ)の海浜にある一大漁村。
 6月15日の午後7時30分ごろ、二度の地震があった。
 強くはないが震動が長かった。
 北東の海に空砲のような響きを聞くこと3回。
 村民が初めて異常に気づいた8時20分ごろ、山のような激浪が轟々と襲い、全村残らずさらって背後の高地へ持ち上げた。
 さらに3回の大激浪がきて船舶・家屋を粉砕し、ことごとく蒼海に持ち去った。
 その勢いは激甚で、被害地のうち第一の惨状を呈した。
 翌朝までに7回の海嘯があった。
 この間、5回の地震を感じた。
 田老は陸中海岸のなかでも富裕な村で、生計の度も進み、土蔵・納屋蔵などは堅牢なものが多かった。
 それが全村326戸、しかも背後の高地にあった民家まで拭うように洗い去って影も形もとどめない。
 地面は一掃されて地層をあらわにし、道と宅地の判別ができないにいたっては、ただ戦慄するほかはない。
 田老村は大字〔おおあざ〕の田老・乙部・摂待・末前という4つからなる。
 末前は山間にある部落で農をもって業とし、海嘯の害を被らなかった。
 摂待は海に遠い家屋があるため多少被害をまぬかれた。
 下摂待村は田老村に接する10戸の小部落で、戸数が少ないにもかかわらず27頭の牛を飼養していた。
 その牛は海嘯に部落ともども持ち去られ、村民43名のうち17名が生き残ったにすぎない。
 隣接する田老と乙部は海嘯に洗い去られて一物もとどめず、ただ礎石が点々と存在しているのみ
 海嘯は高さ70尺(21メートル)に及び、5分を費さずに田老の総戸数242、乙部93、合わせて335戸を微塵に砕いて海にさらった。
 2000あまりの人口のうち、惨死したもの1850人、生き残ったもの183人。
 生存者のうち60人は漁業のために沖合いにあり、2、30人は牛馬を駆って山にあったため難をまぬかれた。
 
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■ 大海嘯被害録 田老村2
 
 田老村役場・小学校・巡査駐在所・郵便局なども流された。
 落合安兵衛助役の一家は、12人の家族のうち次男がマグロ網に出ていて難をまぬかれたほかはことごとく死滅。
 根守常永収入役、閉伊定七書記、菊地正一書記、坂本模保郵便局長、赤坂長五郎小学校長、乳井清安訓導、先月転任してきた盛岡市の赤沢長五郎などの一家が全滅し、坂牛万訓導も死んだ。
 駐在所の種市愛仁巡査は20年あまり職務に精励した人で県内第一の古株だったが、一家8人すべて惨死した。
 高橋為治巡査も妻子とともに激浪に惨殺された。
 鳥居伝右衛門は6万円余の財産家で、近傍の漁民をはじめ宮古町民のなかでも彼を資本主として大いに漁業上の便利を得てきた。
 が、今回の海嘯に遭って家・蔵を奪われたのみならず一家すべて惨死。
 これによって被むる宮古あたりの間接の損害も少なくない。
 絶家となったのは以上の家を合わせ130戸に達した。
 村内の公吏・職員で健全な者は東京で開かれた赤十字総会に臨んで帰村の途にあった岩泉政夫村長と及川正助訓導の二人。
 船舶の流失530。
 無事だったのは漁に出ていたもののみ。
 この日、大字乙部から漁夫60人が15艘のマグロ船に乗って北東2里(8キロ)の沖合いに漕ぎ出し網を曳いていた。
 陸のほうから不思議にも汽車の響きのような音を聞いて怪しんだ。
 なにか起きているのかもしれないと力を合わせ船を陸へ返す途中、3回の大激浪に遭遇した。
 必死に港口に漕ぎ寄せると、おびただしく材木が流れてくるので初めて海嘯が起きたことを知った。
 波が高くて入港は思いも寄らない。
 碇を港口におろして陸を望んだ。
 全村一点の灯明もない。
 しばらくして助けを求める声がしきりに聞こえたが、真っ暗闇でどうすることもできない。
 明けるのを待って港内に入った。
 昨日まで人煙繁華な村が荒野となり、家族・財産すべて藻屑と消えていた。
 60人は落胆のあまり涙さえ出なかった。
 
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■ 大海嘯被害録 田老村3
 
 字〔あざ〕小湊の林壮蔵が海岸の高所から海嘯を目撃した。
 異様な波の音を聞くと同時に海が300間(約500メートル)も引いた。
 海底が明るく光ったと思ったら轟然たる響きとともに10丈(30メートル)あまりの激浪が岩を砕いて陸上を襲い、碇泊の帆前船を陸上に打ち上げた。
 小湊の法華信徒が新造した帆前船の効徳丸は、端午の佳節に進水式を挙行して盛会だった。
 ところが、夜に入って海嘯に襲われ、陸に打ち上げられた。
 進水式が陸上げ式になったと村民は話した。
 帆前船の進水式を見ようと山奥からきたものが15、6人あった。
 海嘯はこれを惨殺し、わずかに4人が生き残った。
 進水式に鍬ヶ崎町から4人の芸妓を呼んだ。
 式場近くにきたとき一人の下駄の鼻緒が切れたので直していた。
 3人は式場に入った。
 その瞬間、海嘯は3人をはじめ参列者一同をさらった。
 鼻緒を切った一人は助かった。
 赤十字社の総会に出京中だった岩泉政夫村長は、役場員がみな死亡したため、扇田永吉を仮村長に立てて村務にあたらせた。
 扇田永吉は田老の財産家。
 海嘯にさらわれ、材木に挟まれて海に漂い、動くことができなかった。
 第2回の激浪のため材木が緩み、その間から首を出した途端、3回めの波で沖に持ち去られ、わずかに岩にとりついて助かった。
 一家10人のうち残るは栄吉一人。
 そのうえ全身負傷したが、屈するようすもなく村長不在中の臨時代理をつとめ、生存者の救護にあたった。
 山腹に仮役場・仮駐在所・仮病舎が設けられた。
 宮古警察署から熊谷警部ほか数名が出張し、流失財物を保管し、死体の発見・火葬そのほかの事務に忙殺された。
 赤十字社からは立川方鈴・田崎邦之助の両救護医ほか数名の看護人が出張し、病人・負傷者を収容して救療に従事。
 佐々城英信医師は高地に住んでいたため命を拾った一人だったが、その眷族・家屋はすべて行方が知れない。
 それでも涙を忍び、寝食を忘れて患者の救護に尽力した。
 
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■ 津波・津浪・Tsunami
 
 津(港・沿岸)を襲う津波は、津浪とも書く。
 たとえば浄土ヶ浜にある大海嘯訓令(と読むのだろう)碑には津浪と碑文に刻まれている。
 1933年(昭和8)3月3日の三陸地震津波のあとに建てられたもので、読みやすく直すとこうなる。
 一 大地震の後には津浪が来る
 一 大地震があったら高い所へ集まれ
 一 津浪に追われたらどこでも高い所へ
 一 遠くへ逃げては津浪に追いつかれる
   常に逃げ場を用意して置け 
 一 家を建てるなら津浪の来ない安全地帯へ
 もうひとつ紹介すると、蛸の浜の心公院には津浪襲来記録標という石碑があるらしい。
 「津波ディジタルライブラリィ」というサイトに載っている碑文を書き写してみよう。
 原文のままではない。
 ――波高6メートル、強震後2、30分にして打ち寄せる海嘯、30年一度の割に襲うなれど、この自然の防浪堤日和山、よくふせぐわれらが里の守り
 津浪という言葉が初めて出てくる文献は「駿府記」だそうだ。
 これは徳川家康の側近が日記風に書いた記録。
 慶長16年10月28日、新暦では1611年12月2日に起きた慶長の三陸大津波について記したなかにあるという一節を読みくだしてみた。
 ――伊達政宗の領所の沿岸に波濤が大いにみなぎり来て人家がことごとく流失した。
 溺死者5000人。
 世にいわく津浪うんぬん
 津浪という言葉を筆者は知らなかったような口ぶりもうかがわれるが、仙台藩のある陸奥沿岸ではふつうに使われていたのだろう。
 その津浪も津波という字にとってかわられて今はあまり見ない。
 Tsunami とローマ字で書くと世界で通用する国際語になる。
 1946年(昭和21)にアリューシャン列島で大地震が起き、津波がハワイを襲った。
 このとき日系移民の使った Tsunami が広まり、ヴァン・ドーンというアメリカの海洋学者が提案して1968年(昭和43)に学術用語に採用されたという。
 
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■ 海がうそぶく
 
 津波を表わす漢語に海嘯〔かいしょう〕がある。
 嘯はウソブク。
 なにごとかを平然として言う、ほらを吹くという意味で使われるケースが多い。
 もとは口をすぼめて強く息を吹くという意味だったらしい。
 海がうそぶくと大波が立つから津波を意味するようになったのだろう。
 そう思いつつ国語辞典を引いて驚いた。
 たとえば三省堂の大辞林にはこうある。
 ――満潮の際に潮流の前面が垂直の壁となり、砕けながら川の上流へさかのぼる現象
 例として中国の銭塘江という川とともに、ブラジルのアマゾン川があげられている。
 中国ではもともと海の大波のことではなく川を逆行する大波のことを海嘯と言い、それが津波を意味するように転用されたらしい。
 海がうそぶくと大波が川をさかのぼる。
 テレビでポロロッカという現象を見たことがある。
 海からアマゾン川を何千キロも逆流する壮大な波だった。
 中学2年のときに十勝沖地震があった。
 授業の開始まぎわで、強震がおさまると先生がやってきて、みんなで八幡さまへ避難した。
 頂きに近い境内から閉伊川を見ていた。
 すーっと水が引いていき、しばらくすると河口から波がさかのぼってきた。
 ポロロッカの映像を見たとき、このときの記憶がよみがえった。
 ただしそれは満潮による海嘯ではなく、まさに地震によって引き起こされた津波としての海嘯だった。
 「津波ディジタルライブラリィ」には合併前の宮古市34・田老町13の合わせて47基の津波碑が紹介されている。
 碑銘の題字には、常安寺にある三陸海嘯横死者招魂之塔などのように海嘯が最も多く使われていて35基。
 津浪は重茂〔おもえ〕姉吉の大津浪記念碑など9基しかない。
 犠牲者の供養碑、災害の記録碑に刻むには、津波・津浪という和語より、荘重な響きをもつ漢語のほうがふさわしい――
 そんな意識が働くのかもしれない。
 
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■ 一本柳の跡
 
 田の神1丁目にひとつの石碑があって、こう刻まれている。
 ―― 一本柳の跡
 言い伝えによれば、この場所に柳の大木があり、一本柳とよんだ。
 江戸時代(年代不詳)三陸沿岸を襲ったヨダ(津波)は宮古にも大被害を与えた。
 津波により山口川を逆流せる波に乗って来たダンベ(舟)を一本柳に繋留したと伝えられている。
 平成元年六月吉日 山口の有志建之〔これをたてる〕
 田の神に津波にまつわる碑があることに驚く人がいるかもしれない。
 ヨダのあとにカッコして津波とあるのは、場所がら、古いヨダという言葉を使ったら途惑う人もいるという配慮だろう。
 田の神は1960年代にはまだ一面の田んぼだった。
 町名も田んぼの神さまを祀った祠〔ほこら〕に由来するらしい。
 田んぼの神さまは春に山から降りてきて秋には山へ帰る山の神でもある。
 田の神の背後は黒森山。
 昔は山口村の一部だった。
 ダンベを山口まで押し流したヨダの話は江戸時代から伝わり、詳しい年代まではわからないという。
 江戸時代に三陸大津波は5回起きている。
 最も大きかったのは最初の1611年(慶長16)に起きた地震津波だった。
 三陸沖でマグニチュード8以上と推定される地震が発生して津波が沿岸を襲ったらしい。
 古文書によると、宮古村の海浜通りは一軒残らず波にさらわれて死者が多く、黒田村の山辺にわずか数戸が残るのみだったという。
 いまの市立図書館のあたりにあった常安寺を壊滅させたのも、この慶長の大津波だった。
 山口村まで流されたダンベもあったはずだ。
 そんな体験・記憶が生きていたのだろうと思わせるくだりが小説「寄生木〔やどりぎ〕」に描かれている。
 1896年(明治29)の三陸大津波のとき、宮古にヨダが来たという叫びに山口村の小笠原家では家族が皆はね起きた。
 後ろ山の杉や松の森まで逃げる用意をした。
 善平の姉は顔青ざめてわなわな震えていた。
 けれど、〈海嘯〔よだ〕は到頭村へは来なかった〉。
 これは大津波が起これば山口村までまたやってくると誰もが怖れていたことを示すエピソードと言っていい。
 
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■ 懐かしのレーシングカー
 
 風の噂によると宮古にサーキット場ができたらしい。
 といっても本物ではない。
 モデルカー、スロット・レーシングカー用のサーキットだ。
 むかし国際劇場があった建物に、2月10日(2007年)オープンしたばかりだという。
 80メートルと40メートルのコースがあって、80メートルの常設コースは日本最長。
 モデルカーの大きさは32分の1だという。
 そんな話を聞くと、なんだかムヤミに懐かしい。
 1960年代にレーシングカーの大流行があった。
 宮古にもその波はやってきて、太田おもちゃ屋に4レーンくらいの立派なサーキット場ができた。
 太田おもちゃ屋は末広町の北筋、小原楽器の向かいにあった。
 1階が赤ちゃんから低年齢向け、2階にはおもにプラモデルがガラスケースのなかにぎっしり並んでいた。
 1965年(昭和40)か66年ごろ、2階からさらに数段登ったところにレーシングカー用の大きなサーキットコースが、で〜んと置かれた。
 1回15分、50円ぐらいではなかっただろうか。
 クルマは24分の1スケール。
 田宮模型のロータス30やマクラーレンエルバ、ホンダF1などを自分で組み立て、改造した。
 ボディの肉を削って軽くし、タイヤや集電用のブラシを替え、ブラシのついているアームに重りを載せと、いじくりまわす楽しみがあった。
 クルマや工具を収納して持ち運ぶ専用ボックスもあった。
 32分の1スケールのホームサーキットを持っている子どももいたが、高価なわりにはクルマが小さいので魅力は少なかった。
 近くの吉田書店には8の字のホームサーキットが置いてあった。
 〈モデルカーレーシングファンの専門誌〉をうたった「モデル・スピードライフ」という月刊誌も科学教材社から出ていて、吉田書店で買った。
 この遊びを教えてくれたのは、当時となりに住んでいて、のちにNSPのメンバーとしてデビューした中村さんだったかもしれない。
 
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■ 本屋めぐり
 
 高校のとき、外で時間をつぶすてっとりばやい方法は本屋めぐりだった。
 駅前の増坂書店から末広町の黒田書店や吉田書店、本町の小成書店へとまわった。
 雑誌の立ち読みはしなかった。
 単行本の背表紙を棚から棚へずっと目で追った。
 ときどき本を手にとってページをめくり中身を読んだ。
 買うのは安い文庫本が多かった。
 小学生のころ、通学路の途中に黒田書店があった。
 末広町の角地で、扇橋通りを挟んだ東の角地は山清酒店。
 店の前には丸い郵便ポストが立っていた。
 ただ、ここに店があったときはあまり入った記憶がない。
 黒田書店は、いまの宮古信用金庫駅前支店の位置へ移り、それから、かんの書店の位置へと3転した。
 小学生時代によく入ったのは黒田書店の斜向かいにあった吉田書店だった。
 「小学○年生」という雑誌は毎月とってもらえず、たまに吉田書店で買った。
 背が高くて痩せたおじさん、小さくて丸顔のおばさんの面影をよく覚えている。
 増坂書店には高校時代、ときどきバスを利用するようになってよく入った。
 三角の建物、ウナギの寝床のような通路、両側に本がぎっしり詰まり、一郭に創元文庫やハヤカワミステリが並んでいた。
 「スクリーン」や「SFマガジン」といった雑誌をよく買い、文庫も目録を見て取り寄せてもらうようになった。
 時間がたっぷりあるときは、そばのボンナでコーヒーを飲み、煙草を吸いながら読んだ。
 いっぱし、おとなの気分を味わっていた。
 小成書店では庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」や星新一の「ボッコちゃん」といった本を買った。
 そのあと、となりの喫茶高七や、市役所前のミントンハウスに入ることも多かった。
 そういえばもう一軒、貫洞書店という小さな本屋が中央通りにあった。
 店の人がそばに座っているので落ち着かなかった。
 小学のときの同級生がいたはずだが店では見かけたことがない。
 まつ毛が長く目のぱっちりした美形で、男なのが残念だった。
 
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■ 津波てんでんこ
 
 大津波の資料をあさっているうちに、〈津波てんでんこ〉という印象的な言葉に出会った。
 津波が来たら、人それぞれ、逃げられる人から逃げろ、という意味で、三陸に古くから伝わる表現らしい。
 宮古で聞いたことはあっただろうか。
 田老に田畑ヨシさんという人がいる。
 81歳になる。
 お祖父さんから明治三陸大津波の体験を聞いて育った。
 「津波てんでんこを忘れるな」が、お祖父さんの口癖だったという。
 田畑ヨシさんが8歳のとき昭和三陸大津波が起きた。
 すぐに逃げて助かった。
 津波の怖ろしさを孫に伝えたいと1979年(昭和54)に紙芝居をつくった。
 人から頼まれるままに地元の子どもたちや、修学旅行で田老を訪れる学生などをまえにして紙芝居を演じるようになった、という。
 〈津波てんでんこ〉は非情で哀しい言葉だと思う。
 でも、その非情さ、哀しさをしっかり見据えなければならない。
 人を非情にさせる津波という暴力の非情さ・非常さを認識しなければならない。
 「老人子供の避難を先に」
 「近所の人を誘って避難」
 「そろって避難 終わって点呼」
 宮古測候所と盛岡地方気象台が1957年(昭和32)に考案した津波対策いろはかるたのこの読み札は、〈津波てんでんこ〉の教訓とはくいちがう。
 適切な言葉に直すか、別な読み札に差し替えなければならないと現在の津波研究家は言う。
 それほど津波が押し寄せる速さ、威力はすさまじい。
 ともかく逃げられる人は逃げて、一家全滅や共倒れを防がなければならない。
 自分だけ助かっても非難はされない。
 それだけ津波から逃げることには厳しさがともなう。
 そういう認識のあとには、さらなる難問がたちふさがっている。
 ――じゃあ、逃げられない人はどうする?
 
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■ 恋を争い遠矢を射た話
 
 ――矢越〔やごし〕なる崎に遠矢〔とおや〕を射しはなし 今も昔も恋を争う
 駒井雅三の歌集「ふるさとの海」にこんな歌がある。
 北山崎の南にある、矢越岬にまつわる伝説を詠みこんだものだ。
 北山崎。
 落差200メートルの断崖が8キロにわたってつづく〈海のアルプス〉。
 足もとに太平洋の荒波が打ち寄せ、いくつかの岬が突き出し、サッパの通り抜けられる洞門(海蝕洞)が口をあけている。
 太古からつづくこの雄大な光景のなかで繰り広げられた〈恋を争い遠矢を射た話〉とは、こんな物語だった。
 ――遠い昔のことだ。
 いまの田野畑村に蝦夷が住んでいた。
 ひとりの美しい娘がいた。
 この娘にふたりの若者が恋をした。
 ふたりの若者はそれぞれに、嫁にしたいという想いを娘に打ち明けた。
 ふたりとも甲乙つけがたい美丈夫だった。
 娘はどちらの申し出を受け入れたらいいものか決めかねた。
 困りはてた娘は、ふたりに矢競べをさせ、勝ったほうを選ぼうと心に決めた。
 娘は、ふたりの若者を見晴らしのいい断崖に連れていった。
 「ここから矢を放ち、遠くまで飛ばしたほうに嫁入りします」
 ふたりの若者は渾身の力をふりしぼり、同時にヒョーッと矢を放った。
 ひとりの若者の矢はロウソク岩のある岬に届かぬまえに落ちた。
 もうひとりの若者の矢は、ロウソク岩のある岬をはるかに越えて、遠く島越〔しまのこし〕の松島まで飛んでいった。
 矢競べに勝った若者と娘は結ばれ、やがて幸せな夫婦になった。
 村びとは若者が矢を放った場所を〈矢放い場〉と呼び、矢が越えた岬を〈矢越岬〉と呼ぶようになった。
 島越の松島に突き刺さった矢は、矢柄にする篠竹となって、いまでも繁っているということだ。
 娘は村の長〔おさ〕の一人娘だったという話もある。
 負けた若者の矢が落ちた場所は〈矢落ち岩〉と呼ばれて、いまに伝わるともいう。
 
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■ 新町通りの東筋
 
 新町〔あらまち〕に住んでいた人から連絡をもらった。
 仮にMさんとしよう。
 Mさんは新町に生まれて17年住んでいたという。
 1960年代から70年代にかけてらしい。
 プライベートな点にはあまり踏み込まなかったから、どのあたりに家があったかというようなことはわからない。
 当時の新町の記憶を掘り起こしてもらったら、たとえば新町通りの東筋には、こんな店屋が軒を並べていたそうだ。
 横町通りに接する北側から――
 岩間青果店・新町郵便局・下河原理美容器具店・あらかわや(漢字は不明)呉服店・坂忠毛糸屋・大久保牛乳・くらべ(漢字は不明)燃料屋・パーマ屋・中沢書店。
 第二幹線を挟んで――
 盛合燃料屋・伊藤テーラー・なかただ(漢字は不明)農機具屋・熊平・松井産婦人科・荒物屋。
 もちろん記憶に残っているところだけだから間が飛んでいる場合もある。
 間違って聞きとったところもあるかもしれない。
 店名だけでなく、こんなことも話していた。
 ――岩間青果店は横町通りのほうから下がって2軒目か3軒目にあった。
 そこから本町の第二幹線が突き当たるところに引っ越したのだったと思う。
 大久保牛乳は1階が店舗と倉庫、2階がアパートの、当時としてはけっこうハイカラなコンクリートの建物が新築された。
 くらべ燃料屋は倉部と書いたかもしれない。
 この店だったか、通りに面した建物のなかに馬がいた。
 昼間は通りの電柱につながれていることも多く、よく馬糞が落ちていた。 
 パーマ屋のところは中学生のころに新築され、第二幹線の東北銀行並びにあった清水鍛冶屋が引っ越して清水モータースとなった。
 伊藤テーラーの前には、いつも日産のローレルが停まっていた。
 熊平の南側のほうはおぼろげな記憶しかないけれど、あとから松井産婦人科ができ、そこから大久保牛乳のあとへ移った。
 中央通りに接する角の荒物屋のところにも馬がいたような記憶がある。
 前を通ると用事もないのによく覗いていた。
 いま考えると店舗という感じではなかったような気がする。
 
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■ 新町通りの西筋
 
 前回は、1960年代から70年代にかけて新町通りの東筋にはどんな店屋が軒を並べていたか、Mさんに聞いた話を書いた。
 つづいて、西筋を聞いてみると、こんな話だった。
 ――新町通りの西側を上(北)のほうから歩いていくと、横町通りに接する角からわりとすぐに大槌屋があって、コンニャクなどを売っていた。
 その南どなりが松喜商店で、酒を売っていた。
 そのとなりが松屋という服屋。
 少し離れて、坂健という肥料屋があった。
 健の字は違うかもしれない。
 そのとなりの角地が沢田屋旅館。
 第二幹線を挟んだ角が東北銀行で、山根タバコ屋、熊平の倉庫が並んでいる。
 あいだに一軒おいて、岩手銀行。
 となりが坂下肉屋。
 S800で配達をしていた。
 その後、マツダからロードスターが発売されると、でっかく店名を書き込んで配達に使っていた。
 次が豆とかアンコを売っている店。
 名前を覚えていないが、わが家ではアンコ屋と呼んでいた。
 その次が明治屋で、お菓子と酒を売っていた。
 以上がMさんの話。
 いまはなくなった店もある。
 山根さんの南どなりにいまもあって、ぼくが〈酒屋の倉庫〉と覚えていたのは熊平の倉庫だったらしい。
 自分の記憶を重ねてみると、その倉庫と岩銀のあいだには板塀で囲まれた民家があった。
 坂下精肉店のロードスターは知らなかった。
 調べてみるとマツダのロードスターは1989年(平成1)に発売されている。
 トヨタのS800にも店名をでかでかと書き込んでいたような気がする。
 アンコ屋というのは田村製餡所といった。
 木枠にガラスをはめた蓋の平箱が並んで、色とりどりの豆が入っていた。
 明治屋のとなり、中央通りと接する角にあった洋菓子屋のコーセー堂については聞き漏らしてしまった。
 漢字でどう書いたか、いまだにわからない。
 
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■ クマヘイ
 
 新町の東筋に大きな蔵造りの建物がある。
 明治以来の老舗で、新町に住んでいたころはクマヘイとかクマガイ薬局と呼んでいた。
 通りから中をうかがうだけだったけれど、ときどき風船かなにかをもらったような記憶もある。
 クマヘイという通称は創業者の名前からきていると聞いていた。
 いろいろ人に聞いたり資料にあたってみたら、正式な名前は熊谷商店だという。
 熊谷商店は、1893年(明治26)に普代村出身の熊谷平助という人が呉服・酒類・石油などの問屋として開業したらしい。
 さらに鍬ヶ崎でも海産物問屋や水産加工・定置網などの事業に手を染めた。
 1913年(大正2)には東屋の菊池長七ほか中沢徳兵衛・八重樫金十郎といった人たちとともに宮古銀行を設立している。
 頭取に就任したのは長男の平次郎だった。
 宮古銀行は1928年(昭和3)に岩手銀行に併合された。
 クマヘイの斜向かいに岩手銀行がある。
 いまはATMしか並んでいないようだが、あそこが宮古銀行のあった場所かもしれない。
 平助の二男は巌〔いわお〕といった。
 小説「寄生木」に主人公の友人で盛岡中学生の隈谷として出てくる。
 帝大法学部から原敬のもとで官界・政界へと転じた。
 岩手1区から立候補して衆議院議員となり、山田線や久慈線の建設促進に力を尽くした。
 1933年(昭和8)に死去すると常安寺に胸像が建てられた。
 戦時中の金属供出で像は失われ、1950年(昭和25)になって有志が台座を記念碑に改めている。
 三男の善四郎も盛岡中学に学んだ。
 1年上には石川啄木がいた。
 東京商科大学、いまの一橋大へ進み、病のために中退。
 七十七銀行・京浜電力に勤め、1926年(大正15)に父平助が死去すると宮古へ戻り、熊谷商店の海産部を譲りうけて独立。
 戦後、市議会議員・市議会議長をつとめた。
 1956年(昭和31)からは和見町に宮古東映(宮古第一映画劇場)を建てて初代社長に就任。
 1981年(昭和56)に97歳で死去している。
 
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■ お飾り絵師
 
 新町のクマヘイの向かい側には、第二幹線角の東北銀行から山根タバコ屋さん、倉庫、民家、岩手銀行と並んでいた。
 新町に住んでいたMさんの話では、倉庫はクマヘイのものだったらしい。
 子どものころ、この倉庫に入りこんで遊んだ。
 いま考えると不思議だけれど、扉がなくて出入り自由だったような気がする。
 奥は、ただの板壁かなにかで高く囲われていただけだった。
 天井があるべきところには空が見えた。
 壁には陶器の茶色くて大きな甕〔かめ〕のようなものがたくさん積んであり、それに登って遊んだ。
 登ると右には山根さんの土蔵が見えた。
 裏や左手には民家の庭が見えた。
 広くて、庭というより畑だったのかもしれない。
 この倉庫のとなりの民家について、山根英郎さんが「湾頭の譜」に興味深いことを書いている。
 1983年(昭和58)の文章で、おおよそこんな話だ。
 ――小学校に入学するまえに、わが家から一軒おいた南どなりに住んでいた千葉玉仙氏は、歳末に売られる縁起物のお飾りを描く絵師だった。
 その子孫が保久田で絵師をやり、弟子が南町の松下、その弟で熊野町の松下、角釣屋だった和見の横山、分家で向町の横山、舘合町の坂本、津軽石の盛合、千徳の内館、長沢の神下といった10人ほどの絵師がいて、〆飾同業組合をつくっている。
 山田や釜石にも同業者がいる。
 お飾り絵師に、はっきりした師弟関係はないものの、流儀や形が決まっていて、同業者は一目で、これは誰が描いたものだとわかるという云々
 いまのお飾り組合は8軒。
 山根英郎さんの文章には出ていないけれど、そのうちの一軒が横町の坂下さんという女性。
 南町の松下さんというのは、佐郷谷と名を替えたようだ。
 釜石には三浦幸太郎さんという91歳の絵師がいるらしい。
 
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■ お飾りの起源
 
 宮古のお飾り絵の起源は資料がなくてわからない。
 七福神信仰は中世期の室町時代からといわれる。
 山根英郎さんは「湾頭の譜」で、宮古地方のお飾りの起源を明治以降のものと推定している。
 お飾り絵師が山根さんに語ったという話がある。
 貴重な証言なので大意を紹介したい。
 ――明治時代の末ごろ、不漁がつづいて鍬ヶ崎の町は火が消えたように寂しくなった。
 そんななか、中年の漁師が町役場に勤めていた人に、いつもお世話になってといって高価な魚を届けた。
 お役人は貧しくてなんのお礼もできなかった。
 多少の絵心があったので、後日、思いついて半紙に墨で福の神を描き、漁師に贈った。
 漁師はこれを吉祥として喜び、さっそく神棚に飾って大漁を祈願した。
 すると、いままでの不漁つづきが嘘のように、漁に出るたびに大漁旗をはためかせて沖から帰るようになった。
 漁師は神棚に祭った福の神のおかげと信じて仲間内に話した。
 仲間の漁師たちも福の神を描いて神棚に飾った。
 すると、やはり大漁がつづいて町も活気づいた。
 以来、鍬ヶ崎や宮古の人びとは紙に描かれた福の神をお飾りと呼び、漁師だけでなく、すべての家業の人たちが福徳を祈って正月の松飾りとともに神棚に貼るようになった、という。
 別のお飾り絵師が伝える話はこうだ。
 ――明治時代のある年の瀬、盛岡から宮古へきた絵師が福の神の絵を行商して歩いた。
 よく売れるので、冬に仕事のない左官やスルメの角釣屋、仏師などがそれを真似て描き始めた。
 お客をつかむために、買った人が一年のあいだ家内安全・無病息災だったら御利益があったとして前年と同じ絵柄を、不幸があれば別のお飾りに替えることをすすめるようになった、という。
 
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■ 天行健なれ
 
 2007年3月5日付の朝日新聞岩手版に母校宮古高校の校歌に関する記事が載った。
 タイトルは「校歌をめぐり『異変』 宮古高」。
 記者は同紙宮古支局の村山惠二さん。
 「異変」というのは、作詞者と作曲者の名が、嶺博三郎・本田幸八から、いつのまにか宮高文芸部・宮高音楽部に変えられていることを指す。
 記事によると――
 宮高70年史には作詞嶺博三郎・作曲本田幸八と記されている。
 ところが、80周年記念誌では文芸部・音楽部になっている。
 現在の生徒手帳や体育館に掲げられている校歌の額にも同じように記されている。
 OBの中居さんは言う。
 これはおかしい、もとの作者名に戻すべきだし、変えられた理由を知りたいと。
 以上が記事の要点である。
 中居さんには以前からこの話を聞いていた。
 「宮古なんだりかんだり」で宮高校歌をとりあげたときに作詞文芸部・作曲音楽部と引用元にあるままに書いたら、
 「いや、本当の作詞者は国語の先生だった嶺博三郎、作曲者は音楽教師の本田幸八なんだよ」
 と、すぐに教えてくれたのは中居さんだった。
 校歌制定時の当事者ではないから誰が作者なのか、はっきり言ってわからない。
 ただ、本田幸八の奥さんも夫幸八が作曲したと語っており、宮高70年史にも作詞嶺博三郎・作曲本田幸八と記されているという。
 中居さんのもとにも嶺・本田コンビが作者であるのは疑いようもない事実だとする証言がいくつか寄せられているらしい。
 とすると、どんな理由があるにせよ、それが文芸部・音楽部となっていることには不自然な感がつきまとう。
 「天行健なり」と始まるあの名曲をくちずさんでみても、高校生がつくったものでないことは、おのずと伝わってくる。
 不自然は真実を希求する学問の府に似合わない。
 天行健なれ――
 やはり、もとの自然に返るべきものだろう。
 
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◇ 資料 宮高校歌の朝日新聞記事
 
 2007年3月5日付「朝日新聞」asahi.com 岩手版に掲載。
 タイトルは「校歌をめぐり「異変」 宮古高」。
 筆者は朝日新聞社宮古支局の村山惠二記者。
 
 ――宮古市の県立宮古高校校歌「天行健なり」の作詞・作曲者名をめぐり「異変」が起きている。94年の70年史では作詞、作曲ともに「同校教諭」だったが、04年の80周年記念誌では同校「文芸部」「音楽部」になった。いつ、なぜ、だれが変更したのか。同校関係者は「詳細は分からない」と首をかしげる。同校OBの1人は「元の作者名に戻してほしい。変更のいきさつを知っている人は、教えてほしい」と情報提供を呼びかけている。
 情報提供を呼びかけているのは、同校OBで、川崎市在住のコピーライター中居泰雅さん(53)。現在、宮古高の校歌について生徒手帳では、「文芸部作詞、音楽部作曲」。学校体育館ステージ横にある額にも同様の記載がある。
 ところが、同校70年史には、「作詞嶺博三郎、作曲本田幸八」と記されている。同史によると、校歌は51年7月に募集が始まり、同年11月に審査委員会が開かれて決まった。嶺さんは当時の国語教師。本田さんは音楽教師。
 本田さんは、06年1月に心不全のため60歳で亡くなった、同市出身で日本を代表するジャズピアニストとして知られた竹広さんの父だ。
 竹広さんは生前の04年11月に発売したアルバム「ふるさと On My Mind」に同校校歌を収録。タイトルは「仰げば尊し(文部省唱歌)〜父の歌(宮古高校校歌)」と父親が作曲者であると記した。
 これらのことから中居さんは「校歌の異変」について、「幸八先生が亡くなって四半世紀以上たったいま、どうして名前がなくなるのか」と話す。
 幸八さんの妻陽子さん(85)は現在も、宮古市で健在だ。陽子さんは言う。「校歌は幸八が作ったことに間違いありません」。歌詞の「雲海はるか 早池峰の」という部分で、「『♯を付けた方がいいか』と聞かれ、『付けた方がいい』と答えたことを、はっきり覚えています」という。
 幸八さんは、同校生が甲子園出場を果たした際など、テレビで校歌が流れる度に、「おれの作った歌だ」と、うれしそうにしていたという。
 中居さんは「作詞・作曲者名を元に戻してほしい。まず、変更の理由を知りたい」と話している。
 70年史編集委員の1人で、80周年記念誌編集委員副委員長だった鳥居弘さん(64)は、「作詞については、『自分たちが中心になって作った』という卒業生がおり、文芸部と変えた記憶がある。嶺先生は、特定の生徒名にできないと配慮したのだろう。作曲者名変更の理由は記憶にない」と言う。
 同校の佐々木正春校長は「いつ変わったのか分からず、引き継ぎも受けていないので、推測の域では発言できない」という。77年から同窓会長を務める菅原惇さんも「変更になったことは知っていたが、事情は分からない」と話している。
 中居さんへの連絡はファクス(044・860・1636)かメール(occonac2122@yahoo.co.jp)で。
〈キャプション〉宮古高校70年史の校歌のページ。作詞嶺博三郎、作曲本田幸八とある。編集後記によると、50年史に掲載された校歌と同じ書家に頼んだという
〈キャプション〉文芸部作詞、音楽部作曲と記されている校歌の額=宮古高校体育館で
 
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■ 本田幸八作曲の田老町民歌
 
 宮古の文化印刷のホームページがある。
 そのなかに駒井雅三i.Net記念館というコンテンツがある。
 文化印刷は雅三が1960年(昭和35)に創業した。
 記念館のなかに作詞館というコーナーがある。
 雅三は校歌や町民歌そのほか100篇近い作詞をしたらしく、確認された46篇が収録されている。
 これを見ていくと、不思議なことに「宮古高等学校校歌」が載っている。
 作詞の嶺博三郎に並んで駒井雅三の名が記されている。
 これはどういうことなのだろう。
 ある人の話では嶺博三郎の原詞に雅三が手を加えたという。
 また、ふたりは義理の兄弟で、嶺博三郎の妻は雅三の妹だともいう。
 確かな筋の話だから間違いはないだろう。
 雅三と本田幸八の家はともに新町にあった。
 雅三の生家は記念館のヒストリーというコーナーに〈下閉伊郡宮古町第17地割字新町46番地(現在宮古市新町4―29)〉とある。
 本田幸八も雅三の家と同じ新町4番地の区画に住んでいたらしいが、精確な住所はわからない。
 嶺博三郎の住所もわからない。
 ひょっとしたらとなり近所で、戦後の文化復興の意気に燃える新町のサロン的な雰囲気のなかから雄々しい宮高校歌が生まれたのかもしれない。
 本田幸八がつくった曲には、宮高校歌のほかに「田老町民歌」がある。
 作詞は駒井雅三で、作詞館にも載っている。
 1954年(昭和29)に町民歌として制定されたらしい。
 田老町が合併によって宮古市になり、町民歌は表面上は消えたかたちになってしまった。
 譜面が田老町のホームページに載っていたが、そのホームページもすでにない。
 虫の知らせというのだろうか、以前にウェッブ上でその譜面を目にしたとき、個人的な資料として画像をパソコンに保存した。
 ページそのものを保存せずに譜面だけをコピーしたため、残っているファイルにはタイトルや作者名がついていないのが残念だ。
 それでも貴重な譜面であることに変わりはない。
 無断で掲載しても田老町がなくなったいま咎める人もいないだろう。
 
▽「田老町民歌」
     本田幸八作曲・駒井雅三作詞  1954年
        いまはなき田老町のホームページより
 

 
駒井雅三i.Net記念館
 
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母のカダゲダ時代   OCCO * 投稿
 
 半世紀ぐらい前でしょう、母の実家は新町にありました。
 おじいちゃんが「一緒に遊ぼう」というと、いつもバスで鍬ヶ崎一周。
 お金もかからず宮古観光ができるというものでした。
 駅から末広町をやって来たバスに光生堂前停留所から乗ります。
 確か2つめぐらいが高橋バス停。
 車掌さんが独特の抑揚のある話し方で、
 「次はタ・カ・ハ・シ、タ・カ・ハ・シ、でございます」
 なぜかタカバシではありませんでした。
 市役所の手前、左手の三角地帯が片桁〔カダゲダ〕です。
 母が新町に越す前は、まさに現在水道局の碑がある場所でゲタ屋を営んでいたのだそうです。
 カダゲダのゲダ屋ですね。
 すぐそばには大きな防空壕があった時代。
 夫婦橋を渡りながらグラマンの襲来に備えていたのでしょう。
 昭和20年、終戦の少し前、商売屋密集地の片桁・新町・本町の一部などは、グラマンの焼夷弾攻撃に備えて強制疎開になり、更地にされたといいます。
 母の実家は3年ほど老木に強制疎開。
 そして23年、片桁にあった店「モダンな草履、趣味の下駄のいずみや」は、代替地として新町に来たというのです。
 母はいまでも水道局の碑の前に来ると立ち止まり、当時を振り返ります。
 片桁の三角地帯は、山口川が暗渠になる前はとてもにぎやかだったそうで、現在からは想像もつきません。
 狭い片桁通りをはさんで山側の旧丸石家具あたりに熊野屋、薬のきく屋、花札やトランプを売る広文堂、相沢商店、中川旅館、福川床屋、新川家具、量り売りの醤油屋、小成お茶屋、すみや靴店、平出金物……
 山口川沿いは、いずみや履物屋の隣が興産銀行という無尽会社。
 いまの川崎タクシーあたりのようです。
 イカ釣り用のイカ角を売っていた横山角屋。
 えび屋食堂となったえび屋魚屋……
 私は山口川の岸側を向いて、いずみやをはじめとする商店があったと思っていたのですが、川は店の裏手だったのです。
 にぎやかで建物がごちゃごちゃ密集していたので、空襲に備えて強制疎開となり更地になったわけですね。
 高橋から片桁通りにかけては週に1回、市が立ったそうです。
 市日には、ぜーご(在郷)からもたくさんの人が訪れて活気があったといいます。
 片桁通りをまっすぐに行けば、いまの築地通りの裏、旧宮古警察に抜ける道。
 かつてにぎわった道も、いまは時折、役所の人と年配の人を見かけるだけ。
 静かな通りになっています。
 
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■ 黒田通りの東筋
 
 新町と黒田町のあいだの通りを、黒田通り、あるいは黒田町通りと呼んでいいものかどうか、いつも迷う。
 もう一本西の通りも黒田通り、あるいは黒田町通りと呼んでいたような気がするからだ。
 それでもここでは新町の西の通り、黒田町と接する通りをひとまず黒田通りとしておこう。
 この黒田通りの東筋には、どんな店屋あったのだろう。
 新町に住んでいたMさんの記憶ではこうだった。
 ――横町通りに接する北のほうから坂をくだっていくと、何軒めかに大久保経木屋があった。
 その南どなりが斉藤鍛冶屋。
 それから太鼓屋があった。
 正式な名前はわからないけれど、カントーサンと呼んでいた。
 漢字では関東さんだろうか?
 そのとなりが中村煎餅屋で、つぎに駒井酢屋があった。
 第二幹線と交わる角が、たしか旅館の茂七屋で、モスズヤと呼んでいた。
 二幹線を南へ渡った角に、お菓子などを売っている小松屋があって、よく買いに行った。
 そこから先はずっと飛んで、中央通りに出る角が岩田自転車。
 小松屋から岩田自転車までのあいだには、どんな店があったか、よく覚えていない。
 かなり小さいころに、黒田通りの貸し本屋に連れていってもらっていたという記憶がある。
 その貸し本屋は、中村煎餅屋の近くだったのか、小松屋と岩田自転車のあいだだったのか、いまとなってははっきり思い出せない。
 以上がMさんの話。
 ぼくの記憶には、太鼓屋、中村煎餅屋、茂七屋旅館、二幹線を渡って菓子の小松屋、貸し本屋、岩田自転車屋が残っている。
 貸し本屋は、小成といったような気がする。
 ニ幹線角の小松屋から岩田自転車屋のほうへ行って二、三軒めくらい。
 小柄で温顔白髪のおじいさんがやっていたが、知らないうちに店を閉じていた。
 
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■ 新町の二幹線沿い
 
 第二幹線は、西の舘合町から東の本町を結ぶ動脈。
 和見と栄町の境をなし、保久田・黒田町・新町の真ん中を東西に突っ切っている。
 第二というからには第一幹線があるはずなのだが、そういう名の通りはかつて聞いた覚えがない。
 これはどうやら末広町の通りをさすらしい。
 第二幹線を新町に限って見ると、その北筋には、黒田通りの角から茂七屋(モスズヤ)と沢田屋という二軒の旅館が並んでいた。
 沢田屋旅館は宮古ホテル沢田屋になっている。
 新町通りを渡ると、中澤書店がある。
 教科書やプラモデルなどを売っていた。
 その先の本町通りにぶつかる角が、雑貨と、やはりプラモデル類を置いていたキクヤ(幾久屋)だった。
 中澤書店とキクヤのあいだに店屋があったかどうかが思い出せない。
 Mさんの記憶では、中澤書店からちょっと行くと食料品店があったという。
 名前はわからない。
 その先には久保商店というアイスの卸売り屋があったという。
 二幹線の南筋は、黒田通りの角にお菓子の小松屋があった。
 新町通りとの角が東北銀行。
 そのあいだに店があったかどうか、これも思い出せない。
 Mさんによると、うどん屋があったという。
 店舗ではなく工場だったらしい。
 そして清水鍛冶屋があり、自転車も売っていた。
 Mさんが中学生のときに新町通りの東筋へ移って清水モータースになった。
 東北銀行から新町通りを渡った角が盛合燃料店で、ついで城内スタジオがある。
 二店とも健在だ。
 城内スタジオには写真を撮る客の送迎用にベンツが置いてあったとMさんは言う。
 城内スタジオは高校3年のときに卒業アルバムをつくったところだ。
 ぼくらのクラス写真は浄土ヶ浜へ行って撮った。
 クラスの人数は50人ほどだったが、あのときはバスで行ったのだろうか。
 
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■ 新町の本町通り沿い
 
 新町の東辺、つまり本町通りの西筋にいくまえに、北辺の横町通り沿いに触れておきたい。
 新町の横町通り沿いにどんな店屋があったか、じつはまったく記憶がない。
 民家ばかりだったということもないだろうけれど、なにか店があったという記憶がないのだ。
 Mさんは新町通りと本町通りに挟まれたブロックのなかほどに、小赤沢金魚屋があったという。
 後年、市役所の斜向かいに金魚屋さんができて、たしか姓を小赤沢といった。
 この店は横町通り沿いの店が移転したのだろうか。
 横町から本町通りに折れて下る。
 この西筋にも、どんな店があったか、ほとんど記憶に残っていない。
 佐藤鉄砲屋は覚えている。
 なかに入ったことはない。
 佐藤銃砲火薬店というのが正式な店名らしい。
 その近くの路地を西に入ってゆくと、大きなアパートがあった。
 小学5年のときの担任の先生が、ここに住んでいた。
 菊池先生といい、名前は正一だったと思う。
 愛称がキクショウだった。
 ある日、級長の田中君とぼくとが呼ばれて家にいき、手製のカレーライスをご馳走になったことがある。
 あれは、どういう理由だったか、いまだにわからない。
 第二幹線の角が日用雑貨・プラ模型のキクヤ(幾久屋)。
 道を渡った先に、丸高電気があったとMさんは言う。
 そのあと向かい側に移ったらしい。
 佐藤履物店があったのも、このへんだろうか。
 交差点に近いほうに島屋赤札堂がある。
 衣料品・日用雑貨の店で、かつては向町の中央通り南筋、いまの宮古信用金庫あたりにあって“宮古のデパート”と呼ぶ人もいるような店だったらしい。
 南どなりがマタノ漆器仏具店。
 この店は建物が二つ並んでいて、古いほうの建物を見上げると、鏝〔こて〕絵で又一とあり、蕪〔かぶ〕のようなオブジェがついている。
 蕪は家紋だろうか。
 そのとなりが高橋交差点角の時計・貴金属の店。
 名前は忘れてしまった。
(後記 やまと時計店といったらしい)
 
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■ 新町の中央通り沿い
 
 新町の南端は中央通りに面している。
 バス通りで交通量も多い。末広町からつづく道が公衆トイレのある交差点から広くなる。両側に歩道もある。
 この下の暗渠を旧山口川が流れているとは思いもしない人が多いだろう。
 1960年代から70年代にかけて道の北側に並んでいた店屋を思い浮かべてみた。
 西から行くと、角地に岩田自転車屋があった。
 うちの自転車はみなここで買い、パンクなどの修理に愛車をよく持ち込んだ。
 いまは大通1丁目のほうに移っている。
 岩田自転車屋のとなりが熊安旅館。
 いまは宮古セントラルホテル熊安になっている。
 古くからある旅亭で、小説「寄生木」にも出てくる。
 となりあたりに小店の貫洞書店があった。
 小成金物屋や石原時計店は健在だ。
 そのとなりあたりが思い出せない。
 日用雑貨の店があったような気がする。
 このへんの歩道には屋根がついていた。向かいの喫茶ガス灯やシムラのあたりの歩道にも屋根があったような気がする。
 新町通りとの角地が洋菓子のコーセー堂だった。
 後には化粧品店や、たからや洋品店が入ったような気がする。
 いまは“あったかいご・こなり”という介護用品店になっている。
 新町通りを渡った角には米屋か荒物屋があった。
 通称がカドリンだったような記憶がある。
 角にあって、ナントカ林屋というような名前だったのだろう。
 その横あたりに映画の看板かポスターを張ってある家?があった。
 となりに、たしかダイコクという洋品店があって、高校3年ぐらいのときにブレザーを一着買った。
 その後、キクヤ模型店がこのあたりにできたはずだが、いまはどうなっているか、はっきりしない。
 高橋交差点の角には時計や貴金属を扱う店があった。
 忘れようもない名だったと思うのに、どうも思い出せない。(後記 やまと時計店といったらしい)
 
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■ 中澤書店
 
 新町通りと第二幹線とが交わる北東角地に中澤書店がある。
 ふしぎにこの本屋さんでふつうの本を買った記憶がない。
 なにを買ったかというと、凧、竹ひごと紙でつくるゴム動力の飛行機、プラモデル、ラッカーやシンナー、絵筆などだ。
 組み立て式の凧や竹ひご飛行機は細長い紙袋に入って店頭に吊り下げてあった。
 店に入ると、とっつきのところにラッカーやプラモデル類の並んだガラスケースがあったような気がする。
 教科書が無償配布になるまえは中澤書店まで買いにいった。
 義務教育の教科書無償配布というのは、調べてみると1963(昭和38)年度から始まったようだ。
 そんな昔だったろうかという気がしないでもない。
 教科書の虎の巻も売っていた。
 高校生になって古文の品詞分解というのに手を焼いて初めて買った。
 たしか先生が授業の参考に使っているとか、それに従って授業をしているとか噂のあった、いわば先生用の虎の巻だった。
 〈中澤書店さんは昔は文房具とプラモデルが主でしたね。
 宮小(宮古小学校)のときはいつも前を通るだけだったのですが、一中(第一中学校)に入ってから虎の巻を買いに行くようになりました。
 学年と教科を伝えると、おじさんが奥から探し出して渡してくれる様子がとても秘密めいていて、わたしも真似してこっそりと受け取っていました。〉
 うららさんのこの思い出話には妙に実感がある。
 ぼくのときもたしかにおじさんが店の奥の畳の部屋から虎の巻を出してきた。
 OCCOちゃんは虎の巻ではなくてトラコと言っていたという。
 そういう言い方もあっただろう。
 中澤書店ではなくて、サチョー分店と呼んでいたはずだともOCCOちゃんは言う。
 佐長分店という呼び方は聞いたことがある。
 でも、ぼくらのころはもう中澤書店だったんじゃないだろうか。
 
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■ ふしぎなベルト屋さん
 
 中央通りの町かどに、その店はあった。
 むかしの松本旅館、いまの岩見医院の東かどだ。
 ベルト屋さんの小さな店は、独立した建物だけれど、せいぜい一坪くらいの広さしかなかった。
 ベルト屋というのが、ほんとうの屋号かどうか、わからない。
 看板なんか、なかったと思う。
 みんながベルト屋さんと呼んだ。
 だから、ぼくもそう覚えた。
 まじまじ店のなかをのぞいたこともなかったから、実際、どんなものを並べていたか、あまり知らない。
 ベルトやネクタイや財布や傘や、そんなものが所狭しと、でも、きっちりと並んでいたような気がする。
 店のおじさんの名前は知っている。
 シオコシさんといった。
 人のうわさ話に聞いて覚えた名前だから、ほんとうは違っているかもしれない。
 天気のいい日は、折りたたみの椅子を外に出して腰かけていた。
 立ったまま腕組みをして、道行く人を見ていることも多かった。
 日に焼けた顔に、するどい目が光っていた。
 客が品定めをしている姿は見たことがない。
 あれで商売になっていたのだろうか。
 それでも、ずっと昔から、ぼくがものごころついたときから、同じ場所にあの小さな店があり、同じようにシオコシさんはいた。
 末広町から中央通りは宮古の銀座通りで、高校生のころ、ひまがあるとぶらついていた。
 ベルト屋さんのまえを通るときは、いつもシオコシさんの目が気になった。
 ぶらぶらしているのを見とがめられているようで、自然と足早になった。
 1年ほどまえから店は閉じたままになっている。
 人に聞いた話では、もう歳だといって引退したらしい。
 ながいあいだ宮古の町を、通りすぎる人びとを見つづけてきたあのおじさんに、いろんな話を聞いてみたかった。                (2007.3.19)
 
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■ 町の名物男
 
 ベルト屋のシオコシさんは、言ってみれば町の名物男だった。
 いつも同じところにいて、姿が見えないと物足りなかった。
 引退して、もうその姿を見ることはないのかと思うと寂しい。
 シオコシさんのことを考えていたら、もうひとりの名物男のことを思い出した。
 似ているけれど、シオヤさんといったような気がする。
 これも人の話に聞いて覚えた名前だから、ほんとうのところは違うかもしれない。
 愛称を日の丸男といった。
 シオコシさんと違って、こちらはいつも動いていた。
 移動していた。
 黒い実用自転車のサドルと荷台のあいだから日の丸の旗を立てて走りまわっていた。
 旗というよりノボリだった。
 上に赤い日の丸を描き、その下に、「祝祭日には日の丸を掲げよう」とか「世界の平和はナントカカントカ」とか、そんなことばがいくつも書かれていた。
 大きな荷台には黒い箱が載っていた。
 仕事道具かなにかが入っていたにちがいない。
 傘とかカバンとか靴とかの修繕の仕事だった。
 いつもフェルトのベレー帽か毛糸の帽子をかぶっていた。
 そこにも小さな日の丸が縫いつけてあった。
 帽子の下の日に焼けた顔に柔らかく優しい目が笑っていた。
 小さいときに、ひとことふたこと口をきいたことがあったような気もするけれど、おぼろげだ。
 走りまわっていたのは、注文をとったり、できた仕事を届けたりしていたのだろう。
 自分の考えを広める運動もしていたのだろう。
 乗り物は、いつしか実用自転車から単車にかわった。
 ぼくが上京してだいぶ時間がたってから、この名物男の姿がコツ然と宮古の町から消えたという噂を聞いた。
 どうも、自分の考えを広めるために単車を駆って旅に出たらしいとか、東京に向かったらしいとか。
 それが、この人の噂を聞いた最後だった。
 
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■ 津軽石川の巨大水門
 
 津軽石川の津波対策用水門が、やっと完成したらしい。
 新聞の記事によると、3月23日に市が県から管理を受託する記念式典が開かれた。
 1989年(平成1)に始まった事業で、足かけ19年かかっている。
 予定より2年ぐらいは延びたのではないだろうか。
 施設を紹介したホームページもいつのまにか閉鎖されてしまい、なにか異変でも起きたのではないかと気がかりだった。
 小本川水門につぐという県内最大級の水門は幅189メートル、管理塔を除いた高さが8・5メートル。
 1896年(明治29)の三陸大津波のときの宮古湾内の平均波高に高さを合わせたらしい。
 水門は7つある。
 津波注意報が出たときに閉められ、津波から222ヘクタール・780世帯を守る。
 津波注意報というのは、0・5メートル程度の津波が予想されると発令される。
 2メートル程度の津波が予想される場合は、注意報ではなくて津波警報になる。
 8・5メートルの津波は大津波だが、過去の大津波のときは10メートル、20メートルもあったという話はよく聞く。
 地形などの条件によって津波の高さは大きく違うものらしい。
 津軽石は宮古湾の最奥部で、津波のエネルギーが集中しやすい地形のように感じられる。
 8・5メートルの高さがどれほど効力があるか心配にならないこともない。
 それでも、さまざまな条件を考慮したうえで専門家が設定したものだから、きっと大丈夫なのだろう。
 ある人が、こんな話をしていた。
 津波を体験したお年寄りたちは喜んでいるいっぽう、津波の経験のない若い世代は興味がないようだと。
 この話を聞くにつけても、125億円かけた巨大な構造物を、いつ起こるかわからない実際の津波に備えるためだけの存在にしてしまう手はないような気がする。
 たとえば田老“万里の長城”とあわせて見学プログラムを組むとか、観光に利用するとかの活用法は考えられないだろうか。
 
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■ 長根のお玉さま・お杉さま
 
 長根のタコーラというところに、いつのころか、母親と、お玉・お杉というおさない姉妹がいた。
 母親ひとりのかぼそい手で耕す猫のひたいほどの畑には、毎日の生活を支えるだけの作物はならない。
 雇われ仕事の手間賃もわずかなものだった。
 節句も祭日も、姉妹にはふだんと変わりない。
 ところが、ある年の節句に、姉のお玉が言いだした。
 「小豆飯っつうのが食いてぇ」
 哀れに思った母は、なんとか叶えてやりたいと思案に暮れた。
 親心は切ないもので、めのごを刻み、キビを混ぜたカテ飯を炊いた。
 アワ粥やヒエ飯しか見たことのないお玉とお杉は、これを見て、
 「小豆飯だ」
 と喜んだ。
 初めて食べた嬉しさに遊び仲間にも誇らしげに話した。
 このころ、長根の畑で実った小豆がしばしば盗まれて、犯人がみつからなかった。
 お玉・お杉が小豆飯を食べたという話を耳にした地主は、
 「あの貧乏もんが!
 小豆もつぐってねぇ、買えるはずもねぇ」
 と憤って、すぐに代官所へ訴えた。
 役人たちが調べにきた。
 「なんぼ貧乏だぁたって、ひとのものをとるわげがねぇ」
 寝耳に水の母親はびっくりし、親心から小豆飯がわりにカテ飯を子どもに食わせたことを話した。
 「この嘘つきが!
 小豆飯を食ったぁづぅ子どもが正直だ」
 地主はますます怒りだす。
 最初から地主の話にしか耳を貸さない役人たちも母親を睨む。
 母親もまた負けずに事実だけを繰り返す。
 らちがあかないのにいらだった役人のひとりが、
 「そんなに強情を張んでえば証拠を見せっつぉ!」
 と、かたわらで怯えていたお玉とお杉を引きすえるや次つぎに腹を割いた。
 ふたりの腹から出てきたのはメノコとキビばかり。
 小豆なんぞ影も形もない。
 これを見聞きした村びとたちは後日、お玉とお杉の霊を弔うために小さな祠(ほこら)を建てて祀り、母親を慰めた。
 しばらくして母親の姿が見えなくなった。
 お玉さま・お杉さまと呼ばれて親しまれた祠も、いまでは場所さえわからなくなってしまった。
 
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■ 尾玉さまふたたび
 
 長根寺の尾玉さまが牛の尾を伝って光臨したのは大昔のこと。
 ある記録では大同年間(806〜810)とされている。
 光臨した西沢という地は近内変電所のあるところ。
 お玉田と呼ばれて、90年ほど前までは、その田のなかほどを柵で囲って聖地としていた。
 盛岡藩主の崇敬があつく、第八代の南部利視〔としみ〕(1708〜52)は、錦の袋に入れ、ビードロの厨子に入れ、さらに黒漆に金の家紋のついた厨子に入れた。
 第15代の南部利剛〔としひさ〕(1828〜96)は尾玉大明神の掲額と唐金の灯籠一対を尾玉堂に奉納した。
 ふだんは厨子のなかに秘蔵されている尾玉さまは、丑の日に祀られ、丑の年に参詣人に開帳される。
 お籠もりの夜の丑三つ時に拝すると、人によって器から浮いて見えたり沈んで見えたりする。
 栗毛のようでもあり、宝珠のようでもあり、色は黒みがかり、あるいは灰色に、ときに赤みがかって見える。
 見え方の違いは、見る人の吉凶を知らせるものだともいわれる。
 大きさは鶏卵ほど。
 1931年(昭和6)に喜田博士という先生が宮古へ来て尾玉さまを鑑定した。
 その結果、尾玉さまの正体は牛黄〔ごおう〕というもの、鎮静剤として効あるものだと語った。
 牛黄は牛の胆嚢にできる結石で、癇や熱病、小児の百病に効く漢方薬として珍重される。
 尾玉さまを牛玉〔ごうぎょく〕とする鑑定も記録されている。
 牛の胃に毛が集まって硬い玉となったものだと。
 牛黄と牛玉では、だいぶ違いがあるような気がするけれど、ともかく牛の体内にできたものであることだけはたしかだ。
 尾玉さまには傷がある。
 これは南部家のお姫さまが不治の病にかかって尾玉さまの力を借りて治したとき、ある椿事が起きたかららしい。
 
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■ 尾玉さまとお姫さま
 
 むかし、藩主のお姫さまが不治の病にかかった。
 医者も祈祷師もまるで役に立たなかった。
 見かねた家老が、藩主のまえにおそるおそる進みでて言った。
 「宮古の長根寺に祀る尾玉さまは、霊験あらたかと聞いております。
 これを召して姫さまのご平癒を祈らせてみてはいかがかと」
 藁にもすがりたい殿さまは、さっそく早馬をたてた。
 長根寺の住職は、みずから馬にまたがって尾玉さまを不来方城へと捧持した。
 お姫さまの部屋にもうけられた祭壇に安置すると、道中の疲れをいやすこともなく読経を始めた。
 その声に静かに力がこもってゆく。
 まわりに控えた重臣や侍女たちは声もなく平伏している。
 しばらく経って、突如、病の床に横たわっていたお姫さまが奇声を発した。
 人びとが驚き見守るなかで、姫は立ち上がる。
 瞳は怪しく光り、青白い顔も凄みをおびている。
 やおら姫は祭壇めがけて走り寄り、安置してあった尾玉さまをつかむと、
 「このようなもの、わらわの病をいやすものじゃない」
 そう叫びながら部屋の壁めがけて投げつけた。
 思いもよらない展開に一同にわかに波立った。
 壁にあたった尾玉さまに、かすかな傷が走った。
 そして、その傷から、目に見えない霊気が一条たちのぼった。
 住職はしずしずと転がった尾玉さまに歩み寄り、両のたなごころに載せて眼前に捧げると、読経の声にさらに力をこめた。
 狂おしくわめいていた姫が、がくりと頭をたれてくずおれた。
 心配した殿さまや奥方が見守るなか、やがて姫の顔に生気がよみがえってゆく。
 病の面影が消え、温和な表情に満ちてゆく。
 満座はただ目をみはるばかりで、この奇異なできごとに等しく身をつままれた思いだった。
 住職は額の汗をぬぐいながら平伏して言った。
 「おそれおおくも姫さまのお体にとりつきましたる病魔は、ただいま退散してござります」
 
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■ 和尚さんの俳句
 
 「長根寺物語」という冊子がある。
 新山賢蔵・沢内勇三の共編で1968年(昭和43)に長根寺から発行された。
 つづけて書いた「長根のお玉さま・お杉さま」「尾玉伝説ふたたび」「尾玉さまとお姫さま」の3篇は、この冊子に材料がある。
 ほかにもいろいろな話が載っていて、長根寺に興味のある人には必読の書だ。
 祐義〔ゆうぎ〕という、江戸時代に俳句をつくっていた和尚さんの事跡にちょっと心ひかれた。
 祐義和尚は1756年(宝暦6)に三戸の恵光院から来た人で、1788年(天明8)に死去するまで33年の長きにわたって長根寺の住職をつとめた。
 「長根寺物語」によると、墓碑にこうある。
 ――祐義大僧都は武林より出、久慈氏にして盛岡の産、23歳の夏当寺に移転し、今年まで星霜33ヶ年を積み、寿55歳にして寂す。
 はたまた寺務のいとまには蕉風の滑然に遊び、雪月花の吟遠近に通じ、臨終までそのたのしみを改めず。
 故に末期の一句を残し給う
  病みながら口はまめなり時雨の日
 表記は読みやすく変えた。
 芭蕉の俳諧に惹かれて句をつくり、老杉閣〔ろうさんかく〕と名づけた本堂横の客間で句友と吟詠や文学談に花を咲かせたらしい。
 辞世のほかに1783年(天明3)の2句が残っている。
 1句は前書きに〈歳旦 ちかき頃より手習ふ児童乃師と頼まれ侍れば〉とあり、
  まばゆきをおがめ拝せよはつ日影
 もう1句は〈歳暮 みどりなるもろもろの千才万歳を唱ふる御代にぞあれば〉と前書きした句で、
  蓬莱山もよそでなし松迎ひ
 初めの句をみると、どうやら寺子屋も開いていたらしい。
 末尾には〈林月庵優義〉と署名がある。
 これが雅号のようだ。
 
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■ 宮古俳界の一端
 
 祐義和尚が千徳村長根寺の住職をつとめた時代、1756年(宝暦6)から88年(天明8)までの33年間というのは、宮古に俳諧が根づいた時代といえるかもしれない。
 「長根寺物語」をもとに俳句にかかわる事跡を追ってみよう。
 1772年(明和9)に青灯下祇川〔せいとうげ・ぎせん〕という俳人が宮古へ足をはこんでいる。
 長根寺に滞在して祐義和尚や宮古の俳人たちと交流した。
 伊香弥七「常安寺沿革誌」という文書のなかに、このとき俳句でつくった宮古八景のうち、祇川の句が残っているという。
 よくわからない句ながら、ひとまず書き留めておく。
  常安晩鐘 寺は無為の宮古や呀〔さえず〕る鶯の声
 祇川は幻住庵ともいい、芭蕉十哲に数えられる森川許六〔きょりく〕の門人。
 滋賀の日野に生まれ、明和(1764〜72)のころ仙台藩の岩沼に住んで俳諧を指導し、1777年(安永6)8月に芭蕉の墓がある近江の義仲寺で没している。
 祐義和尚は長根寺の参道に幻住庵祇川反古塚を建てた。
 反古塚には祇川が長根寺を去るときに詠んだ句が刻まれている。
  山ひとつみな名残をし花の時
 1783年(天明3)には盛岡の小野素郷が宮古へきた。
 夏保峠から眼下に暮れゆく鍬ヶ崎浦を眺めて芭蕉の句を思い、〈鴨墳の碑〉を光岸地に建立したというのはこのときのことだった。
  海暮れて鴨の声ほのかに白し
 1788年(天明8)8月には祇川や小野素郷と親しかった京都落柿舎の井上重厚が、夜食房夜来という僧とともに宮古を訪れた。
 鍬ヶ崎の大坂屋に泊まり、浄土ヶ浜で舟遊びをして句を詠んだ。
  はつ潮の船とめてけり鍬ヶ崎
 はつ潮(初潮・初汐)は旧暦8月15日の大潮のことで、夜来の書いた「奥の紀行」にこの句は記されているという。
 祐義和尚が死去するのはこの2ヵ月後だった。
  病みながら口はまめなり時雨の日(辞世)
 
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■ 強制疎開
 
 宮古市役所前の三角地帯、片桁〔かだげだ〕に実家のあったおかあさんの言葉をOCCOちゃんはこんなふうに伝えていた。
 〈昭和20年、終戦の少し前、商売屋密集地の片桁・新町・本町の一部などは、グラマンの焼夷弾攻撃に備えて強制疎開になり、更地にされたといいます〉
 宮古市史年表をみると、1945年(昭和20)8月9日に〈建物強制疎開完了〉とある。
 強制疎開が始まった記事はないけれど、このころOCCOちゃんのおかあさんの実家も空襲に備えて取り壊されたにちがいない。
 新町の強制疎開は7月30日ごろだった。
 「宮古市戦後五十年誌 宮古市民の語る戦前・戦中・戦後」という本のなかに「戦中・戦後短歌抄」というページがあり、昭和20年のところにはこんな歌が載っている。
  土蔵のみ まる見えとなり新町の
          西側すべて破壊されたり
  敵ならぬ警防団が総がかり
          家をつぶせりロープをかけて
  どどどうと倒れきたれる白壁の
          強きあふりが何故か悲しも
  炎暑下の疎開作業は進捗し
          汚れし木片半日燃やす
 前2首の作者は駒井雅三で、〈強制疎開〉と前置きがある。
 あとの2首の作者は北口よし子、〈義勇隊にて新町の建物疎開に出動――七月三十日〉という前書きがついている。
 強制疎開が完了した8月9日に宮古は米軍艦載機による初めての空襲にさらされた。
 空襲は翌10日もつづき、被害の中心は本町・新町ではなく、藤原だった。
 駒井雅三は詠んでいる。
  一石一字石碑のかげに駆けひそみ
          敵グラマンの爆撃はみつ
  ぎらぎらの夏の陽ざかり藤原の
          街は戦火についえ去りしよ
 強制疎開で倒された建物の残骸が磯鶏石崎鼻に野積みしてあって火炎をまぬがれた。
 空襲で焼け出された藤原の人たちの多くは、その廃材で掘っ立て小屋をつくり、急場をしのいだという。
 
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■ ベルト屋さんは東を向いていた
 
 中央通りの小さなベルト屋さんの話を書いた。
 Google の地図で見たら、独立した建物としてちゃんと描かれていて、なんだか嬉しい。
 あそこの住所を知りたくなって調べてみた。
 直接はわからなかったけれど、大通1丁目5番1号かもしれない。
 というのは、西どなりの岩見神経内科医院が大通1丁目5番2号で、その西どなりのみなとや調剤薬局が5番3号だからだ。
 旧山口川と中央通りに挟まれたあの一画は、大通1丁目。
 黒田町ではない。
 おもしろい発見があった。
 ベルト屋さんの北側、山口川が暗渠に入るほとりに公衆トイレがある。
 正式には黒田町公衆便所と呼ぶらしい。
 公衆便所にも住所というか、黒田町何番何号というような所書きがあるにちがいないと思って調べてみた。
 すると、あそこの一画は黒田町ではなく、新町になっていることがわかった。
 宮古市のホームページに〈都市公園等施設一覧〉というコンテンツがある。
 そこに黒田町公衆便所の所在地が〈新町79‐5〉と出ていた。
 市役所のサイトだから間違いはないだろう。
 山口川の南は大通1丁目。
 公衆便所のすぐ北西の一帯は黒田町。
 新町は黒田町通りを挟んで東側。
 つまり、黒田町の端っこの公衆便所の一画だけが道をへだててポツンと新町の飛び地になっている。
 なぜだろうと首をかしげた。
 考えてもわかるはずがない。
 ふっと別なことが浮かんだ。
 ベルト屋さんの位置だ。
 いまは正方形のような建物が南を向いている。
 昔は横長で、しかも東向きに、歩道の奥にへばりつくようにして建っていた。
 マルフジやシムラのほうから中央通りを西へ歩いてゆくと、ちょうど正面に、こまごまと商品を並べたベルト屋さんが見えた。
 
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■ バスに車掌さんが乗っていた頃
 
 高校生になって通学にバスを使うようになった。
 学校までせいぜい4キロくらいなのに贅沢な話だ。
 中学時代のように自転車で通学すればすむことだった。
 親は黙って定期代を出してくれた。
 自分が親だったら許さなかっただろうと、いまになって思う。
 バス停は下千徳だった。
 それから近内口、長根寺前、宮古営業所、米協前と停留所があって、つぎが終点の宮古駅前。
 米協前は栄町に変わっている。
 自家用車の増えたいまはどうかわからないけれど、当時、朝のバスの混み具合はすごかった。
 下千徳から乗りこむ人も多かった。
 7時半前後の便はギュウギュウ詰め。
 ただ、乗りきれないと、運転手さんが営業所に連絡する。
 5分もしないうちに臨時便がやってくる。
 いつも米協前で降りた。
 日曜などに乗っても、駅前交差点の信号待ちのせいで、米協前から宮古駅までがいちばん時間がかかった。
 当時は下千徳から駅までのあいだに信号は、ここ1ヵ所だけだった。
 バスには車掌さんが乗っていた。
 みんな女の人で、紺のスラックスに薄青いセーラー服のようなユニフォームだった。
 制帽もつけていた。
 目立つような美人はいなかった。
 ひとりだけ、色の黒い、目のぱっちりした、髪のちぢれた車掌さんを覚えている。
 年上のはずなのに、ほとんど同世代にみえた。
 市内バスが味気ないワンマンバスに変わったのはいつだろう。
 高校を卒業するまでは、たしかに車掌さんが乗っていた。
 とすると、1973年(昭和48)以降ということになる。
 
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■ バスに乗って女の子は消えた
 
 バス通学の帰りは駅前から乗った。
 当時の駅前は、いまとは違う。
 駅舎の東側に丸通の倉庫があった。
 大通りを挟んだ北側は土の空き地になっていた。
 空き地の北に、西を向いて県北バスの駅前案内所兼待合所が建っていた。
 空き地のところにもプレハブのような待合所ができた。
 千徳方面行きのバスは、プレハブ待合所のまえから出た。
 向かいの蛇の目寿司の北どなりには喫茶店のらんたんがあった。
 鍬ヶ崎行きの発着所もあった。
 高3のときだ。
 いつものようにぼんやりバスを待っていると、ふと、向かいの発着所にたたずむひとりの女の子の存在に気づいた。
 それから同じ場所に何度もそのすがたを見かけるようになった。
 宮高の制服を着ていた。
 髪が長く、紺色のスカートのまえに両手を重ねて鞄をさげたすがたが可愛らしかった。
 といっても恋をしたわけではない。
 近づいてみようとも、名前を知ろうとも思わなかったから。
 たしか、ある土曜の放課後だった。
 2、3人で鍬ヶ崎に住む級友の家へ遊びに行くことになった。
 蛇の目のまえに行くと、あの女の子が立っている。
 バスが来てみんな乗りこんだ。
 女の子はどこで降りるのだろうと気になった。
 ぼくらは鍬ヶ崎1丁目で降りた。
 女の子を乗せたバスは、鍬ヶ崎の本通りをつぎの停留所へ向かって走りだした。
 その後、駅前でバスを待つ女の子のすがたを見かけなくなった。
 女の子は、あのときバスに乗ったまま鍬ヶ崎の町の奥へ消えてしまった――
 なにか、そんな不思議な印象が残っている。
 
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■ 次は渡船場前
 
 OCCOちゃんの投稿「母のカダゲダ時代」に高橋というバス停があったと書かれていた。
 中央通りの、北東角に洋菓子の藤田屋がある高橋交差点あたりに、ひとつバス停があった。
 西のほうから行って交差点の手前だったような気がする。
 昔は今よりもバス停が多かった。
 鍬ヶ崎行きのバスは今、宮古駅前を発車し、末広町・中央通り・信用金庫前・市役所前・築地1丁目といった停留所を経由してゆく。
 「月刊みやこわが町」に、末広町にあるビデオさわぐちという会社の広告が載っている。
 この会社の広告は、毎号、宮古弁や宮古のちょっとした事柄が書かれていて目につく。
 〈次は渡船場前、次、ストップねがいまーす〉
 というのが最新号(2007年5月号)のキャッチコピーだ。
 その下に小さい字の文章が、こう書き出されている。
 〈その昔、愛宕にはいくつもの停留所があった。
 渡船場前もそのひとつで〉
 渡船場前バス停は、築地1丁目バス停の次あたり、いまの愛宕交差点歩道橋の手前あたりにあった。
 愛宕というより築地だけれど、閉伊川対岸の藤原とむすんで手漕ぎの渡し舟が運航されていた。
 ビデオさわぐちの広告から引用をつづけよう。
 〈渡船が向こう岸で休んでいると「おーい」と大声で呼ぶ。
 と、えっちらおっちら漕いでこっち側へ来てくれた。
 昭和40年代、片道大人30円、時には自転車やバイクも運んでくれた〉
 この渡し舟は1975年ごろ、昭和でいえば50年代の初めにすがたを消した。
 渡船場前バス停も、そのころになくなったのだろう。
 築地1丁目とこの渡船場前、それ以外にも築地に停留所があったかどうかはわからない。
 
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■ 小野小町が宮古にいたという話
 
 謎の女、小野小町――
 実在したことは確からしい。
 平安前期、9世紀ごろの歌人だ。
 とかく伝説が多く、日本一の美女ともされているから、こんな歌を詠んでもさまになる。
  花の色は移りにけりないたづらに
      我が身世にふるながめせし間に(古今集)
 一説に、出羽秋田の郡司だった小野良実〔よしざね〕の娘という。
 この小野小町が宮古に住んでいたという伝説がある。
 江戸時代の旅行家・民俗学者として有名な菅江真澄〔すがえ・ますみ〕が秋田で耳にしたのだろう、「小野のふるさと」という紀行文に書いている。
 小町は、おさないとき人に盗まれて陸奥の宮古に住んでいた。
 わが子がいるとは夢にも知らずに宮古を訪れた良実は、世になくみやびな若い女をみかけた。
 それがわが娘とは気づかずに恋心をいだき、夜をともにして行く末を約束し、宮古を離れた。
 あとになって小町は良実が実の親だということを知った。
 小町は、私こそ実の父とちぎった世にもまれな罪人だと嘆き悲しんだけれど甲斐もなく、こののち、世の中の男とは露ほどのちぎりをも結ばなかった、という。
 この物語には小町の詠んだひとつの歌が思い合わせられる。
  おきのゐて身をやくよりも悲しきは
       みやこ島べの別れなりけり
 以上が菅江真澄の文章の大意。
 この話をとりあげた小島俊一「陸中海岸風土記」には、当時、浄土ヶ浜は都島辺〔みやこしまべ〕とか、単に島辺と呼ばれ、形のよい白い半島が都島(宮古島)だったと書かれている。
 都島(宮古島)と秀島(日出島)のあいだに真水の湧く海底の井戸があって、小町の歌にでてくるおきのゐ(沖ノ井)とされる。
 安永9年(1780)のこと、宮古の文人高橋直道は8月の十五夜に舟を出して沖ノ井を探しあて、こう詠んだという。
  沖ノ井をいつくと問へばみちのくの
           宮古島辺に有明の月
 
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■ 江戸時代のモーコ=蒙古説
 
 菅江真澄〔すがえ・ますみ〕の紀行文に、モーコのことが出てくる。
 1810年(文化7)に秋田の男鹿〔おが〕半島を旅してつづった「男鹿の島風」という文章のなかで、ナマハゲを紹介するついでにナモミやモーコにちょっと触れているだけなのだが、モーコを〈もっこ〉と表記し、その名の由来を蒙古としているのが興味深い。
 これを読むと、江戸時代すでにモーコ=蒙古説が流布していたことがわかる。
 平凡社の東洋文庫版「菅江真澄遊覧記」から紹介しよう。
 表記は変えてある。
 ――男鹿では子どもが泣くと「ナマハギが来た」といっておどかす。
 これは奈良の元興寺に鬼がいたといって、ガゴジまたはグワンゴなどといって子どもをなだめすかすのと同じだ。
 関東でもモモクワ(モモンガ)とか、陸奥では「モッコが来た」といっておどかしている。
 モッコは蒙古国の来襲を怖れたのがもとだという。
 ナマハギは正月15日の夜に来る。
 身の毛のよだつような怖ろしい丹塗りの仮面をかぶり、ケラ蓑というものを着た男が、手に鋭い刃物を持ち、小箱を背負い、その箱のなかには物を入れてカラカラと鳴らし、叫び声をあげながら家ごとに入ってくる。
 冬ごもりをして囲炉裏の火にあたっているとき、腿や脛〔はぎ〕に赤斑〔あかまだら〕に火形がつく。
 それをナマミ、ナモミ、あるいはナゴミなどというところがあったが、ナマハギはナゴミハギという意からでた名だろうか、また生肉〔なまみ〕剥ぎということだろうか。
 新春になるとあらわれるという鬼の姿に仮装して、男鹿では若背〔わかぜ〕といっている下男〔やだこ〕や、あるいは主人の弟〔おじ〕などもまじり、このナマハギになる。
 脛に火形のある皮膚を剥ごうとおどしまわるので、子どもばかりではなく、年輩の女たちも怖れて逃げ隠れるのだ、という。
 
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■ 狐の名所
 
 常安寺のそばにある判官稲荷神社では、お使いの狐に魚を食べさせて豊凶を占っていたという。
 金浜にある稲荷神社は商売の神さまを祀っている。
 何年前のことか、改修工事をしたさいに、床下からミイラ化した2匹の白狐が発見されたらしい。
 棺〔ひつぎ〕かなにかに手厚く葬られていたものだろうが、新しく氏子が境内に小さな社を建て、桐の箱に納めて祀った。
 この頃から雑誌やテレビのワイドショーなどに、宝くじが当たる神社として取りあげられるようになった。
 宮古は宝くじの当たる確率が高く、当たった人はこの神社にお参りをしていた、という噂が広まったのだそうだ。
 高浜や金浜へ行く峠あたりは、むかしから狐の名所として知られていた。
 名所というのも妙だけれど、よく狐が出没する場所だった。
 駒井雅三の「狐の名所」という文章によると、常安寺の横から佐原へ越える寺ヶ沢や、小沢〔こざわ〕の近吉〔きんきち〕の向こうのウシノコ坊にまわるビンダ沢、千徳に向かう舘合から長根寺界隈などもそうだった。
 常安寺のあたりは打手ヶ沢と覚えていたけれど、寺ヶ沢とも呼ぶらしい。
 小沢の近吉というのは近江屋吉郎兵衛家のことで、代官所の役人をつとめたり、俳人の駒井梅甫〔ばいほ〕を出したりした家だ。
 ウシノコ坊は地名だろうか。
 ビンダ沢も場所がよくわからない。
 ともかく、小沢から日の出町に越える山辺のことだろう。
 狐は、横山の八幡さまからノデ山のあたりにもいた。
 フクロウの声にまじって狐の鳴き声も聞こえたという。
 フクロウはダラスコデーホー、ダラスコデーホー。
 狐は、やはり、コン、コーンだろうか。
 まぁ、要するに、むかしはいまより自然が濃いから狐もいたるところに出没していたのである。
 
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■ 狐に化かされた話
 
 駒井雅三の「狐の名所」にでている昔話を、ふたつ紹介しよう。
 きれいな着物をきたり、おしろいや紅をつけたがるヒナリッ娘〔こ〕がいた。
 端午の節句に、親類への付け届けだというので赤魚をさげて使いに出された。
 着飾ってでかけたヒナリッ娘、大畷〔おおなわて〕街道の真ん中までくると、するする帯をとき、着物を脱いだ。
 それからズギ溜めにどっぷりつかって、
 「ええ湯っこだごど」
 と、いい気持ちになっていた。
 そこへ、ビンダ沢の狐が2匹でてきて、田んぼの畦〔あぜ〕においた籠のなかから赤魚をくわえると、ゆっくり去っていったとさ。
 大畷街道というのは山口街道のことだろうか。
 小沢から山口にかけて、むかしは一面の田んぼ。
 山口街道は畷〔なわて〕、つまり畦を広げた道のようなものだった。
 その山口街道を、宮古村の有名な金貸しのおやじが貸した金をとりたてに山口村へいった。
 なんぼ催促しても金がないの一点張りなので、腹を立てて帰ってきた。
 ふっと気がつけば街道にお札が何枚も何枚も散らばっている。
 風にひらひら舞っているのもあった。
 「だれが落どしたんだぁべ。
 いや、こりゃお天道さまからの授かりもんだ。
 ありがてぇありがてぇ」
 とつぶやきながら金貸しおやじは夢中で掻き集めた。
 そこへ、ダンゴ馬を引いた田代村の馬方が通りかかった。
 有名な金貸しおやじが黄色くなったクルミの葉っぱを、土の上を這いつくばって拾い集めている。
 「なんだぁべ?」と思った。
 金貸しおやじは、家の者が来たと思って、
 「あぁ、よぐ迎えに来た。
 お札を早ぐ俵さ詰めろ詰めろ」
 馬方は、
 「なに言ってんだぁが。
 狐にでも化がされでんだぁべな」
 と言いながら立ち止まりもせずにダンゴ馬を引いてったとさ。
 ダンゴ馬というのは、道産子の背の低い馬のことらしい。
 
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■ 馬糞を踏めば・・・
 
 「馬糞〔まぐそ〕を踏めば足が速ぐなる」と言った。
 「馬糞を踏むずぅど背ぇが高ぐなる」とも言われた。
 踏んでほんとうに背が高くなるものなら、いくらでも踏んだだろう。
 小学生のとき朝礼で校庭に背の低いほうから並ばせられた。
 いつも前から6番めくらいだった。
 背が高くなりたかった。
 その小学校の校庭で挽馬大会が開かれたのを覚えている。
 馬力大会と言ったかもしれない。
 柵で囲まれているわけでもない校庭の端から端まで何頭もの馬が太い材木の束を引いて駆けていく。
 おもしろい見せものだった。
 蹄や引きずられる材木で校庭が荒れた。
 1960年代、宮古の道にはけっこう馬糞が落ちていた。
 八幡通りで、ごつい木製の荷車を引いている馬をよく見かけた。
 八分団の火の見櫓につながれていることも多かった。
 なにを運んでいたかは記憶にない。
 ゼーゴ(在郷)から馬車を引いて仕事に必要なものでも買いにきたのか、つないだまま近所で用を足しているのか、馬方のおやじさんの姿はない。
 そばで馬を見ていると、ぼたぼた糞をする。
 戻ってきたおやじさんが箒と塵取りで片付けて荷台に積む。
 手綱をといて歩きだす。
 その拍子にまたぼたぼた落としものをすることがあった。
 おやじさんは気づかずに馬を引いて歩み去る。
 残された馬糞をしばし眺める。
 おもに藁の消化物だから汚いという感じはあまりしない。
 かといって、わざわざ踏んでみる気など起こらない。
 けっこうな質量でもってたたずんでいる物体だから間違って踏むということもありえない。
 70年代になると馬は宮古の町なかからほとんど姿を消した。
 馬糞を踏めば云々という言葉も聞かれなくなった。
 
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■ 三陸フェーン大火
 
 小学生のときにフェーン大火が起きた。
 まだ1年生になったばかりのときである。
 宮古を焼きつくすかもしれないといわれた大きな山火事だった。
 焦げ臭い空気が町なかに漂い、北の空が煙っていた。
 2、3日不安で落ち着かなかった。
 火の手は宮古の町なかまでは来なかったけれど、周辺の被害は大きかった。
 宮古市史年表には1961年(昭和36)5月29日〈フェーン災害、女遊戸〔おなつぺ〕まで延焼。箱石分校焼失〉とある。
 もっと調べてみると、日本で戦後最大最悪という、まれにみる林野火災だった。
 小学生が覚えたフェーンという外来語はドイツ語で、アルプス山中に発生する乾いた局地風。
 漢字で風炎とあてることもあるという。
 日本海側の低気圧によって発生した湿った風が脊梁山脈にあたって雨を降らせ、乾いた高温の風となって太平洋側に吹きつける現象をいう。
 あの日は台風が日本海側を通過したあとだった。
 5月29日の昼過ぎ、当時の新里村の炭焼き小屋から出た火は南西の強風にあおられ、飛び火しながら太平洋岸へ駆けくだった。
 北は田代から箱石・松月〔まっつき〕・女遊戸そして当時の田老町へ。
 南は長沢・津軽石の奥から山田町豊間根・田野畑村へと魔の手が伸びた。
 鎮火したのは2日後、31日の夜だった。
 風速は30メートルにもなり、気温29・6度を記録している。
 7市町村に及んだ延焼によって林野4万366ヘクタール・建物5万3047平方メートルが焼失し、死亡5人・負傷97人、被害総額60億円。
 田老町では全戸の半分にあたる519戸が焼け、鈴子沢の田老鉱山町も被災した。
 市内では崎山地区の被害が大きく、崎山小学校の箱石分校をはじめ81戸が焼失し、死亡2人・負傷79人、被害総額17億5421万円にのぼったという。
                  (2007.5.29)
 
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三陸フェーン台風の恐怖  OCCO * 投稿
 
 JINさんのトップページ(Jin on web)に、46年前の5月29日は「三陸フェーン大火の日」とあった。
 当時は「フェーン台風」と呼んでいた。
 この半世紀、あのような怖い思いをしたことがない。
 母と話すうちにあのおっかない2日間が甦った。
 当時、うちは製材所。
 まだ国産の木が主流の時代で、山(木)を買っていた父は、若い職工さんを引き連れて崎山の奥へ出かけ、2日ほど帰って来なかった。
 5月なのに妙に暑く、風が強い。
 フェーンというのが気象用語だということを知ったのはだいぶ後のことだった。
 最初は宮古の北西の山から小さな煙が上がっていただけ。
 しかしそれは乾いた風にあおられて見る見る広がり、青空に灰黒色の雲を作っていった。
 風はやまず、延焼区域はどんどん広がる。
 不安を覚えながら夜を過ごし、朝、目を覚ますと煙の帯は北西から北東までをどんよりと覆っていた。
 学校は臨時休校。
 八幡の山からはたくさんのヒトが不安そうに見ていた。
 田老鉱山が避難した、崎山のすぐそばに来ている、風が南になれば宮古も危ない……
 いろいろな話が聞こえてくる。
 不安はますます増幅した。
 その日の夕方の空は、北側の空がまるで夕焼けのようだった。
 山の稜線に沿って鮮やかなオレンジ色の帯。
 生暖かい風が焦げくさい空気を運んできた。
 夜になり、外へ出ると、暗闇に山の炎がどんどん迫ってくるような気がした。
 怖い。
 その夜は誰も寝なかったのではないだろうか。
 母が避難する準備をしていた。
 父はその日も帰ってこなかった。
 長い夜をラジオに耳を傾けながら過ごした。
 朝になった。
 幸いにも風向きが東向きになったとかで火は宮古には来なかった。
 その火は、女遊戸あたりの山までをすべて焼き尽くし、燃えるものを失って自然と衰え、鎮火した。
 真っ黒になり顔を目を真っ赤に腫らした父が帰ってきた。
 火の勢いが強すぎ、まったく手に負えない。
 かろうじて一部の木を守っただけだったようだ。
 おそろしく長い2日間だった。
 記憶が薄くなりかけた頃、高校時代、田老鉱山の友人とわらび採りに行った。
 「こごらの山は火事で丸焼けになったから土がいいんだ。
 いいわらびが採れる。
 でもあんどぎは、おっかながったあ」
 あの日の暗闇に浮かぶ真っ赤な空は、一生忘れることがない。
 
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■ 月山・セイバー・東京五輪
 
 セイバーはアメリカ産のジェット戦闘機。
 航空自衛隊でも主力機として使われた、往年の名機である。
 プラモデルで何機かつくった記憶がある。
 このF86Fセイバーが月山に激突した。
 1964年(昭和39)だったことを、はっきり覚えている。
 宮古市史年表で確認すると5月19日だった。
 「月刊みやこわが町」2006年11月号の特集「宮古街道石碑五十三次」には、この事故の慰霊碑が紹介されている。
 記事によると、事故は午前10時26分に起きた。
 青森県三沢基地での訓練飛行を終えて宮城県松島基地へ帰投中、ガス(濃霧)による視界不良で月山中腹に激突。
 現場は頂上のテレビ塔から北東へ約4キロ。
 殉職したパイロットは高橋俊夫空尉、26歳。
 慰霊碑は1984年(昭和59)に建立された、という。
 ガスによる視界不良のためというのは奇妙な感じがする。
 なぜそんな低空を飛んでいたのだろう。
 小学4年のとき、授業中に起きた事故だったけれど、激突音・爆発音を聞いた記憶はない。
 事故そのものの記憶は曖昧なのに、1964年という年と、F86Fセイバーという名前をはっきり覚えているのは、同じ年に東京オリンピックが開かれたからだ。
 10月10日の開会式、晴れわたった国立競技場の空に自衛隊の曲芸飛行チーム・ブルーインパルスが煙で鮮やかに五輪を描いた。
 テレビのまえで手に汗をにぎり、拍手喝采した。
 このときの飛行機がF86Fセイバーだった。
 月山とセイバーと東京五輪の開会式とが記憶のなかでワンセットになっている。
 東京オリンピックはカラーテレビの普及に大きく弾みをつけた。
 激突事故が起きたとき月山の頂上にテレビ塔はNHKの1本しかなかった。
 事故と東京五輪に挟まれた8月に岩手放送のテレビ塔が建った。
 
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■ 千徳田んぼのプール
 
 小学6年のころ、父が千徳に小さな家を建てた。
 学校はそのまま宮小に通い、一中に進学した。
 住所は宮古の店舗に残してあったから越境にはならなかった。
 ほとんど寝に帰るだけの場所だった。
 近所に遊び友だちのひとりもできなかった。
 休日になると、たまに散歩した。
 山田線の土手の向こうは田んぼだった。
 山田線の土手と閉伊川土手とのあいだ、西は千徳駅近くの日本電工手前から、東は近内川あたりまで一面の田んぼ。
 近内川から山口川の河口にかけては畑だった。
 閉伊川の土手を越えた河川敷には今も畑が広がっている。
 しかし、当時は思いもしなかった――
 千徳田んぼが埋め立てられるなんて。
 田んぼはバイパスになり、長町ができ、国道が切り替えられた。
 そのまえにも驚いたことがある。
 田んぼの真ん中に、突然、プールができたのだ。
 宮古市史年表を繰ってみる。
 1967年(昭和42)9月9日に〈千徳小学校、温水プール開き〉とある。
 たしかに場所は昔の千徳小学校の南側だった。
 でも、学校のプールではなく、地区のプールだったような気がする。
 日本電工で鉄鋼を冷やすときかなにかに使った温水を利用したものだった。
 屋内プールではない、裸の?プールがポツンと田んぼの真ん中にある光景は、ちょっと奇妙だった。
 そのプールも、いつのまにかなくなった。
 千徳小学校が西ヶ丘へ移転したのは1984年(昭和59)4月のこと。
 おなじ年の7月にはバイパスが開通している。
 だから、そのまえに千徳田んぼのプールはなくなったのだ。
 日本電工の工場が閉鎖されたのは、その後の1996年(平成8)だったらしい。
 
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■ 千徳小学校の校歌
 
 もとの国道106号沿いにあった千徳小学校が西ヶ丘の新校舎へ引っ越したとき、近内小学校が統合された。
 そのためもあるのか、校歌も新しくなったらしい。
 古い校歌は1961年(昭和36)に制定されている。
 作詞が駒井雅三、作曲は岩船雅一〔がいち〕。
 岩船雅一という人は、磯鶏出身のヴァイオリニストで指揮者・音楽教育家。
 東京弦楽団をひきいて中央で活躍し、宮古に音楽の種をまいたひとりとして知られる。
 駒井雅三の歌詞は閉伊川や千徳城址(2番)を織りこんだ牧歌的な内容だった。
 3番まであるうち1番だけ掲げてみよう。
  閉伊の流れよ この岸は
  いつも母校に 通う道
  河原一面 月見草
  馬だ仔牛だ 山鳩だ
  校舎の窓が 見えてくる
 これは文化印刷のホームページにある駒井雅三i.Net記念館にも出ている。
 1984年(昭和59)に西ヶ丘へ移転して新しく制定された校歌は、ある人が教えてくれた。
 作詞者はわからない。
  広い宇宙のどこからか
  誰かが電波で呼んでいる
  もしもし青い水の星
  優しい銀河の友だちよ
  地球のパラボラアンテナで
  宇宙の雲をつなごうよ  (宇宙の星?)
  はばたき広場は西ヶ丘
  ランランランラン千徳小学校
 最初は「ホントかな?」とも思った。
 記憶違いかと思える箇所もあるけれど嘘ではないらしい。
 教えてくれた人は旧校歌を歌い、移転して新校歌を歌った。
 「このギャップは子供心にもきつかった」
 と真剣に書いていた。
 
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■ ミニ宮古岩
 
 けむぼーさんのホームページ「けむぼー温泉」。
 その名物コンテンツ、「みやごの写真特別編 ここはどごだーす?」に不思議な物体の写真が載った。
 台座に据えられた黒っぽいごつごつした石。
 下部に銘板がはめこまれ、「ミニ宮古岩」とある。
 初めて見る岩、初めて目にする名……
 なんだろう?
 新町の宮古ホテル沢田屋の敷地内にある記念碑だという。
 岩のかたわらの石碑には〈宮古岩由来の地〉と題された文章が刻まれている。
 全文を、改行を加えて引用する。
  古くより伝えきくなりこのあたり
      宮古岩ありて釣り垂れしとぞ  雅三
 宮古ホテル沢田屋は、明治三十三年(一九〇〇年)川井村の長安堂より分家した、初代の澤田盛五郎によってこの地に旅籠屋を創業、「澤田屋」と称す。
 奇しくもこの地は、大昔「宮古岩」のあった所で、宮古の地名を生んだとの一説となり伝承されてきた。
 その頃は、現在の宮古市街は全面海で、向い山の判官館山や、宮古山、新山、高地などの山の走りが海に落ち込んで岩群を成し、宮古岩と言われたものだろう。
 我が先祖達は、宮古岩に舟をつなぎ、海草や貝を採り、生活のため釣糸を垂れたと言われる。
 宮古岩を礎石として出来た宮古市新町、本町は、明治、大正、昭和と繁栄を続け、当市の経済、文化の中心となった。
 茲〔ここ〕に宮古岩の伝説を基に、わが館の改築を機に一碑を建立し記念と成し、長く子孫に伝える。
   昭和五十九年七月十日建立
   宮古ホテル沢田屋
   三代目館主澤田信夫建之
   駒井雅三撰文 横山秋月揮毫
 江戸時代に町ができた本町や新町のあたり、それより遥かむかしは海辺で、宮古岩と呼ばれる岩礁があったらしい。
 その一部を沢田屋が保存していたのか、改築工事のさいにでも掘り出されたのか、昭和59年(1984年)に「ミニ宮古岩」と名づけて私碑にした、ということらしい。
 
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■ 宮古岩の謎
 
 宮古ホテル沢田屋は、ミニ宮古岩という碑を建てた1984年(昭和59)ころに改築した。
 沢田屋旅館から名を改めたのも同じときだろうか。
 沢田屋という名は、創業時には新町北東の沢田の地にでもあって、その地名に由来するものかと漠然と思っていた。
 碑文にある長安堂というのは判然としないけれど、創業者が川井村の沢田屋の流れであって、宮古の地名とは関係がないらしい。
 川井村の沢田屋は、小説「寄生木」に川田屋の名で出てくる。
 主人の川田庄左衛門翁は県会議員、県内の有力者。
 川井の旦那の名は、大久保彦左衛門的凛々たるその風貌とともに県内に響いていた、と書かれている。
 時に1895年(明治28)4月、数え歳15の主人公が、盛岡中学に送った願書が期日に遅れたというので校長に直談判をしに、27里の閉伊街道を盛岡まで徒歩で向かう道中である。
 宮古の沢田屋が創業したのは、その5年後の1900年(明治33)だったらしい。
 碑文を撰した駒井雅三の実家は同じ町内。
 揮毫した横山秋月という人は、1980年代ごろまで新町にあった横山印舎というハンコ屋さんの主人だろう。
 書家で、書道教室も開いていたようだ。
 横山という姓や秋月という雅号から横山八幡宮とのかかわりに思いをめぐらしてしまうが、まったく関係はないらしい。
 新山はオシンザンだろう。
 漢字ではオシンザンを御深山と書くとぼくなどは思っているけれど、御新山と書く人も多い。
 高地はタカチと読み、オシンザンのふもとあたりのあざなだ。
 ――と外堀は埋めてみたものの肝腎の宮古岩がよくわからない。
 碑文を読むかぎり、宮古岩は宮古町ができるまえに名づけられ、宮古という地名のもととなったと受けとれる。
 しかし、そもそもなぜ宮古岩と呼ばれるようになったのか。
 それが碑文に書かれていないのが惜しい。
 ほかに確認する資料を探してもみつからない。
 いまはまだ謎の宮古岩としておきたい。
 
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■ 一番岩
 
 宮古岩のことを考えていたら宮古のナニナニ岩というのがいくつか浮かんできた。
 まっさきに浮かんだのが一番岩だ。
 ついで鏡岩。
 三番めにローソク岩。
 一番岩は知らない宮古人が増えている。
 一番岩という名の岩礁が磯鶏〔そけい〕の砂浜の南端にあった。
 埋め立てられて消えた。
 おもかげは影もかけらもない。
 防潮堤の突き当たりだった。
 いまのホテル近江屋の東側だろう。
 突き当たった小高い山から海に向かって落ちこんだ岩場の先っぽが一番岩だった。
 砂浜のすぐ先の海に頭を出していた。
 波に隠れることもあった。
 あるとき泳いでいて岩に上がろうとしたら強い波を背中からかぶった。
 フジツボや小さいシウリがびっしりと付着した、ごつごつした黒い岩の上を転がされて体を傷つけた。
 海が荒れて波が高いときに一番岩へ近づくのは、ちょっと冒険だった。
 閉伊川河口の藤原から磯鶏の一番岩まで砂浜は1キロくらいつづいていた。
 ところどころに岩が頭を出していた。
 それがなかば埋もれた1個の大きな石なのか、あるいは地中の岩根の露頭なのかはわからない。
 だいたいは角がとれた滑らかな表面をしていた。
 黒っぽいのや灰色、茶色っぽいのもあった。
 そうした名もない岩も一番岩や砂浜といっしょにコンクリートの下に眠っている。
 せめて一番岩のかけらでも残っていたらと思う。
 宮古岩のように、そのかけらで、一番岩があった場所に、〈思い出の一番岩ここに眠る〉と刻んだ碑を建てたい。
 
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■ 鏡岩の変遷
 
 宮古岩の連想で浮かんできた2番めの岩は、鏡岩だった。
 宮古湾に臨んだ高台で、頂上に宮古漁協のビルが建っている。
 〈啄木寄港の地〉という石碑もある。
 浄土ヶ浜へ行くときに切り通しの坂を登りきって見上げた。
 標高は29メートルだという。
 かつては下に臨港駅があって鉄道が閉伊川沿いに延びていた。
 踏み切りで長いあいだ待たされたのも今となっては懐かしい。
 鏡岩という名の由来はわからない。
 出崎埠頭の建設で裾が削られ、形が変わった。
 以前は鏡餅、御鏡のようにみえたのだろうか。
 鏡岩の北側にラサの鉄索の鉱山駅が廃墟になって残っている。
 あのへんに対鏡閣という立派な和風建築があったらしい。
 対鏡閣の名は鏡岩に対しているところからつけられたのだろう。
 鏡岩の所在地は光岸地〔こうがんじ〕4番40号。
 むかしは江岸地・鴻岸地などと書いたようだ。
 江や鴻を同音の光に書き換えたのは鏡からの連想かもしれない。
 出崎埠頭ができるまえは足もとに波が打ち寄せていたらしい。  
 ある資料に、一帯の浜は由ヶ尻と呼ばれたと書いてある。
 由ヶ尻の読みはヨシガジリだろうか?
 サッパが通り抜けられる海食洞、牛が寝そべったようなかたちのベエゴ石、砂浜があったともいう。
 幕末になると異国船打払令(1825年)をうけて鏡岩の頂上には盛岡藩の砲台場が設けられ、銅製の大砲が海を睨んだ。
 近代になって鏡岩のわきに宮古と鍬ヶ崎を結ぶ切り通しができた。
 砲台跡には宮古測候所が建ち、やがて八角形をした白亜の洋館に改築された。
 その後に啄木が鍬ヶ崎を訪れたのだが測候所のことは書いていない。
 1936年(昭和11)に測候所の本庁舎は今の鍬ヶ崎下町へ移った。
 67年(昭和42)に漁協ビルが建った。
 啄木の記念碑は79年(昭和54)にできた。
 
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■ 測候所の無人化
 
 宮古測候所が無人化されるそうだ。
 9月いっぱいで120年余りつづいた人間による気象観測に幕を閉じる。
 観測はすべて自動化され、データは盛岡地方気象台や仙台管区気象台へ送信される。
 人間にしかできない生物季節観測は廃止される。
 宮古の梅や桜の開花が測候所発表のニュースとして流れることは、もうない。
 機械の発達と経済的合理性によって人間がいなくなる。
 これは進歩なのかもしれないが寂しいことも事実だ。
 人間のいない測候所には親しみが感じられない。
 鍬ヶ崎に岩手県内でいちばん古い、歴史のある測候所がある――
 そういう誇りのような感情を、たんなる機械置き場と化した測候所にいだけるだろうか。
 去年無人化された大船渡測候所のホームページは閉鎖された。
 宮古測候所のホームページも近いうちに消えてなくなるだろう。
 せめて、いまのうちにコンテンツから伝統ある歴史の一部を写しとっておこう。
 宮古測候所は1883年(明治16)3月1日、県内初の内務省地理局宮古測候所として創立した。
 所在地は東中北閉伊郡宮古村字鏡岩、北緯39度38分・東経141度59分、標高29メートル。
 1902年(明治35)12月、八角形の2階建て洋館に新築。
 1936年(昭和11)12月30日に現在地、当時の住居表示で下閉伊郡宮古町鍬ヶ崎第2地割字下町292番の8へ本庁舎を移転。
 標高42・5メートル。
 鏡岩庁舎は分室として1955年(昭和30)5月まで使用。
 1965年(昭和40)7月1日、住居表示を鍬ヶ崎下町2番33号に変更。
 1991年(平成3)3月26日、現庁舎が落成。
 ――そして2007年(平成19)10月1日、無人化。                (2007.6.16)
 
宮古測候所
 
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■ 津軽石の豪商
 
 津軽石にある盛合家の主屋〔おもや〕が、6月15日に国の登録有形文化財に推薦された。
 漁業や交易で栄えた江戸時代後期の宮古の繁栄を象徴する建物という点が評価されたという。
 決定すれば国登録有形文化財は宮古で初めてのこと。
 盛合家は造り酒屋、鮭川瀬主、質屋、廻船業を営み、千石船の明神丸・虎一丸を仕立てて江戸交易をおこなった豪商として知られる。
 盛岡藩の士分にもとりたてられている。
 屋敷の主要部は270年ほど前に建てられたもの。
 新聞記事によると、木造平屋建て、鉄板葺きの切妻屋根、板張りの外壁で、建築面積は456平方メートル。
 常居〔じょい〕と呼ばれる居間は商家造り、玄関や座敷は武家造り。
 1797年(寛政9)8月28日に盛岡藩主南部利敬〔としたか〕が閉伊巡視のさいに宿としたという。
 日本初の実測図「大日本沿海輿地全図」をつくるために全国の沿岸を測量して歩いていた伊能忠敬も1801年(享和1)9月29日から10月1日まで泊まっている。
 小説「寄生木」には1895年(明治28)当時のこととして、だいたいこんなふうに書かれている。
 ――津軽石小学校のとなりに、黒塀で囲った白壁の幾棟となく立ちならぶ大邸がある。
 村人に盛合さまのお邸といわれて、大酒造家兼大地主で、じつに閉伊郡中第一の素封家である。
 当主の先代は父の知り合いで、書籍の貸借などした間柄と祖母に聞いていた。
 頑丈な普請、広大な間内、そのそばには幾十石入りの酒桶がいくつとなく立ちならび、幾人の若者・下男が「えんやらさ、えんやらさ」と掛け声して働くさまを見聞きして云々
 江戸時代の書画や骨董などもかなり残っているらしい。
 文化的には1696年(元禄9)から1702年(元禄15)まで書かれた「日記書留帳」が貴重だろう。
                  (2007.6.16)
 
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■ トロ箱のある風景
 
 ――私の母は岩手県の宮古市出身。
 サンマの水揚げでは有数の港です。
 町なかに住んでいたので漁師さんとの接点はほとんどなし。
 それでも当時はサンマをお金出して買ったことはないそうです。
 サンマ漁の時季は魚屋さんの前にトロ箱が置いてあって、そこにサンマが山盛り。
 ほかに魚をなにか買えばサンマはいくらでも好きに持っていけたとのこと。
 漁港からトラックの荷台に直接満杯にして運んでいて通りすがりにボタボタ落としていったそうです云々
 ある人がこんなふうに書いていた。
 1950年代の話だろうか。
 サンマ船の一大基地となった宮古にサンマはあふれていた。
 サンマをいれるトロ箱もあふれていた。
 トロ箱というのはトロール、底引網の獲物を入れる箱だった。
 駒井雅三は1950年(昭和25)に「宮古魚市場風景」と題した歌群のなかでこう詠んでいる。
  底引網の発動機船はあわただし
      魚箱〔ぎょばこ〕を揚げるまたつぎなるも
  なめたかれい ぎす たこ かじか 族わけて
      トロール箱を積む作業せり
 そのうち漁法にかかわらず獲れた魚介を入れる魚箱の総称になり、トロ箱と略されるようにもなった。
 当時のトロ箱は木製だった。
 市場や魚屋にかぎらず町なかのいたるところにあって宮古の風景にとけこんでいた。
 このトロ箱が真っ白い発泡スチロールにかわったのはいつのことだろう?
 宮古魚函という藤原にある会社のサイトをみると、沿革に1972年(昭和47)9月〈発泡スチロールの取り扱い開始〉とある。
 宮古市史年表には3年後の1975年(昭和50)9月2日に〈木製魚箱にかわってスチロール製進出〉とある。
 日付が特定されているのも妙なものだが、とにかく1970年代に発泡スチロール製のトロ箱は普及したと考えていいようだ。
 
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■ 思い出の一番岩
 
 一番岩が航空写真のなかに残っていた。
 国土交通省が公開している全国の航空写真で、宮古の分はサイト「みやごのごっつお」のコンテンツ「空がらみやごを見っぺす」で手軽に見ることができる。
 藤原から磯鶏にいたる写真を見た。
 昭和52年10月22日の日付がある。
 昭和52年というと1977年。
 いまからちょうど30年前だ。
 当時、砂浜はすでに閉伊川河口から市民文化会館の手前まで埋め立てられ、藤原埠頭ができている。
 ただ、磯鶏浜の南部や黄金浜、とど浜は残っている。
 磯鶏と黄金浜の境の一番岩らしきすがたも写っている。
 一番岩は、砂浜のすぐ先の海に浮かぶ岩礁だと思っていた。
 どうやら違ったらしい。
 OCCOちゃんによると、一番岩は磯鶏海岸と黄金浜のあいだにあった陸続きの岩場。
 藤原須賀と磯鶏海岸のあいだの岩場は石崎〔いっさき〕、黄金浜・とど浜のあいだが二番岩と呼ばれていたようだと。
 宮高山岳部の時代には、石崎から一番岩まで、ラン、腕立て、ウサギ跳び、ダッシュを組み合わせたサーキットトレーニングをやらされたらしい。
 一中のテニス部でも閉伊川沿いに八幡土手から宮古橋を渡って河口まで走り、さらに一番岩まで砂浜を、やはりウサギ跳びやらダッシュやらをしながら走ったこともあった。
 帰りはラサ沿いに土手を走って小山田の吊り橋を渡った。
 高校時代には、たしか物理の先生と砂浜を一番岩まで歩いた。
 なぜそんなことになったかは覚えていない。
 流れ着いた昆布の切れ端を拾ってかじったら、汚いといって苦笑いしながら眉根を寄せた、先生のその表情が記憶に残っている。
 
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■ フジツボ、カメノテ…
 
 一番岩のような浜辺の岩場や岩礁には、いろんな生き物がいた。
 走りまわっていたり、転がっていたり、へばりついていたり。
 フジツボ、カメノテ、シウリ、ウニ、イソガニ、ガザミ、フナムシ、イソギンチャク、エラゴ……
 OCCOちゃんは、
 「一番岩の近くにある岩礁には海エラゴが腐るほどいて、エラゴ虫に刺された」
 と言っていた。
 メデューサの髪のような不気味なエラゴは釣りの餌にする。
 人間が食べてもうまいそうである。
 そう聞いても食べる気は起きない。
 フナムシ、イソギンチャクもご免こうむりたい。
 フジツボ、カメノテは食べたことがある。
 甲殻類の一種だからエビやカニのようなもの。
 なかなかうまかった。
 イソガニ、ガザミも食べた。
 フジツボ、カメノテ、イソガニ、ガザミなどは味噌汁のだしにもいい。
 ウニやシウリはもちろん食べられる。
 小さいウニは海にぶて投げた、放ってやった。
 岩にびっしりへばりついたシウリなどの貝やフジツボ、カメノテ類はドライバーでひっぺがす。
 公平2さんは、こんなふうに言っていた。
 「磯鶏〔そげい〕海岸さ泳ぎさ行ったぁどぎ、海さ潜ってウニだぁりパックリだぁり捕ってきて、一番岩の裏の、いまの近江屋さんあだりのどごにあったぁ箱〔はご〕っこをブッ壊〔か〕すて焚き火ぃ燃すて、焼いで食ったったぁがすぅ!
 河南中のH山先生って人に怒られだったぁが、ほに。
 海さ行ぐどぎの必需品はドライバーだったがね。
 今だば考えられなごぜんすがねぇ、ほにほに!」
 そういえば河南中学校はむかし、一番岩に近い海ぎわにあった。
 いまの警察署のところだ。
 バックリというのはなんだろう?
 
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■ バックリは宮古名?
 
 磯鶏浜の一番岩あたりでとれたバックリという貝について、公平2さんに聞いてみた。
 「オラもよぐ分がんねぇども、形〔かたづ〕っこはホタテみでぇなんのんで、貝殻の表面は赤貝みでぇにざらざらしてるような感じだったぁがすぅ。
 はっきりは覚えでなごぜんすが、ホタテよりもひとまわり小〔つ〕っつぇくて、貝柱の大きさはベビーホタテくらいでしたがすぅ。
 焚き火で焼いで、頃合をみてコッパで波打ち際まで持っていって、海水で洗って食ったったぁが!」
 育ちきっていない天然ホタテかなとも思った。
 すると、けむぼーさんが教えてくれた。
 「一番岩のパックリは、アカザラガイだ〜よ!」
 さらに、シラトリさんも、こう教えてくれた。
 「アカザラガイは赤皿貝と書きます。
 いまでも魚菜市場で袋に入って売ってますよ。
 ホタテよりうまいです」
 「藤の川海岸の生物調査」という宮古水産高等学校の生徒によるレポートや「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」というサイトなどを見てみた。
 アカザラガイは二枚貝綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科アズマニシキの地方型。
 北海道から東北地方の岩礁地帯に足糸で付着して生息。
 三陸沿岸では垂下式によって養殖。
 関東の市場にも入荷するが量は非常に少ない云々
 アカザラガイは分類学上アズマニシキが本名のようだ。
 イタヤガイ科だからホタテの親戚である。
 バックリという呼び方は確認できなかった。
 標準和名アズマニシキ、地方名アカザラガイの宮古名だろうか。
 宮古弁小辞典に収録する言葉がひとつ増えそうだ。
 由来は、ホタテのようにパックリ口を開くからだろうか。
 ホタテそっくりだからパクリ(物まね)かもしれない。
 
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■ 三陸・海の博覧会
 
 三陸博から15年がたつ。
 そんな記事が7月8日の岩手日報に載った。
 もうそんなになるのかという気がした。
 三陸博――〈三陸・海の博覧会〉というのは1992年(平成4)7月4日から9月15日まで開催された。
 会場は釜石・宮古・山田。
 テーマは「光る海、輝く未来」。
 記事によると、多彩な催しが人気を集め、延べ200万人あまりが来場したという。
 あの夏、久しぶりに帰省して宮古会場へ行った。
 暑い日だった。
 国道45号の磯鶏〔そけい〕交差点から南東一帯、砂浜と海を埋め立てた造成地に会場はあった。
 南西の端がちょうど一番岩のあたりだったのではないだろうか。
 当時の宣伝パンフレットをみると、宮古会場の本部所在地は磯鶏第4地割字沖113番地先になっている。
 会場にはマリンリゾート館や〈海は友だち館〉、三陸ショッピングプラザがあった。
 本物の船が飾られ、シーサイドステージもあった。
 驚いたのは人工ビーチだった。
 会場の南端に、オーストラリアから運んできたという真っ白い砂でつくったビーチがあり、きれいな水がたたえられていた。
 子どもたちが泳ぎまわり、幼児をつれた親も水を浴びていた。
 そのすぐ向こうに、本物の海があった。
 さんさんと降り注ぐ夏の陽をうけた「光る海」が広がっていた。
 なんだか、あの光景は胸に痛かった。
 自然の砂浜と海を潰したまさにその上に、ちゃちな人工の砂浜をつくるという感性――
 「真っ白な嘘」という、むかし読んだミステリーかなにかのタイトルが浮かんだ。
 いや、ひょっとしたらあれは、意識的なブラックユーモアだったのかもしれない。
 
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■ バフンウニはどこ行った?
 
 今年もウニの口開け、ウニ祭りの報道を目にする季節になった。
 しかし不思議なことに画像にはムラサキウニばかり。
 バフンウニはいったいどうなったのだろう?
 宮古にはムラサキウニとバフンウニがいる。
 それぞれキタムラサキウニ、エゾバフンウニというのが正確らしい。
 方言ではクロカゼ、ボウズカゼとも呼ぶ。
 自分では昔からウニと言っていたけれど、カゼが宮古でのウニ類の総称である。
 自分でとるのはムラサキウニよりバフンウニのほうが多かった。
 子どものころ、浄土ヶ浜と中の浜のあいだの誰も泳いでいないような浜や、キャンプ場があった中の浜の海でとった。
 泳ぎに行くときは面倒なので水メガネ以外の道具は持っていかない。
 素手だとトゲが短いバフンウニのほうがつかみやすい。
 素足でムラサキウニを踏みつけたことがある。
 刺さったトゲの尖端が抜けずに残った。
 放っておいたら、いつのまにか見えなくなった。
 調べてみると、岩手ではウニの漁獲量の8割以上、9割近くがキタムラサキウニで、エゾバフンウニは少ないらしい。
 身の色はバフンウニがムラサキウニより赤みが濃い。
 ムラサキウニのほうがうまいと言う人もいれば、バフンウニがいいと言う人もいる。
 味覚オンチの自分には、どっちがどっちかわからない。
 バフンウニを珍重する向きもあるらしい。
 漁獲量が少ないというのだから貴重品には違いない。
 しかし、30年前の宮古では、そんなこともなかったような気がする。
 バフンウニは、ほんとうに少ないのだろうか。
 名前のイメージが悪い
 水揚げしてもムラサキウニほど見栄えがしない
 海底の岩場では目立たない
 混獲するより多くとれるムラサキウニにマトをしぼったほうがいい――
 そんなこんなで漁師さんがとらないのではないかと実状を知らない素人は勘ぐってみたりもしている。
 
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■ カゼとウニの語源
 
 バフンウニとはひどい名前だ。
 子どものころからそう感じていた。
 ボウズ、ボウズカゼのほうがいい。
 ボウズは坊主頭のことだろう。
 つんつるてんに剃った坊主ではなくてイガ栗頭のほうだ。
 イガ栗といえばウニは海栗とも書く。
 馬糞も海栗も生きているすがたを言いあらわしている。
 雲丹とも書く。
 これは雲のような形をした赤い身をあらわしている。
 カゼというのは地方生まれの言葉かと思ったら違った。
 国語辞書に〈かせ〉で載っている。
 〈がぜ〉とも言い、〈ウニの古名〉とある。
 漢字は甲〓・石陰子。
 (〓はパソコンで出ない。
 亡の下に口、その下に月虫、訊のツクリを並べる)
 甲〓の〓は、ツビ、ツブ、ニシと読んで、粒や螺などの巻貝のことらしい。
 貝の一種とも思ったのだろうか、変な字を使ったものだ。
 石陰子はうまい当て字だ。
 なぜカセ、ガゼと呼ぶのかはわからない。
 ともかく古くから京都地方で使っていたカセやガゼという呼び名が東北地方や北海道に残ってカゼになったということのようだ。
 いっぽうのウニという呼び方も京都あたりで古くから使われていた。
 万葉仮名で宇爾・宇仁などと書く。
 語源はなんだろう。
 田村一平さんの「三陸の海から」に語源は〈ウヌヰ〉とある。
 〈独尊的とも孤高とも言われる。
 長いトゲが他を寄せ付けない生き物のように思われたのだろう〉
 とだけしか説明されていない。
 ウヌヰは漢字で書けば己居だろうか。
 己居、独尊、孤高というと、ユニークという外来語を思い浮かべる。
 unique は uni-que(ウニ、食え)と読めるからおもしろい。
 
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■ ウニ異聞
 
 10年以上まえ、大通りにある蛇の目の支店だったかでウニ尽くしを頼んだ。
 あとにもさきにも一度にあんなにウニを食べた経験はない。
 充分に堪能したあげくに少し気持ち悪くさえなった。
 このとき一緒だった人は高知の南端にある小さな漁村の出身で、意外な話を聞かせてくれた。
 彼女の生まれたあたりではウニを食べる習慣がなかったという。
 お姉さんが、普代村生まれで宮水卒業の船長さんと結婚した。
 遠洋から帰った休暇には村の実家に滞在するようになった。
 船長さんが海へ出てみると海底にウニがごろごろ転がっている。
 さっそく潜ってとってくると、みずから殻を割って酒を片手に家族にすすめる、近所の人も呼んでくる。
 最初は手を出さなかった村びとも、船長さんがうまそうに食べるのを見て食べるようになったという。
 信じられないような話で耳を疑った。
 目のまえの海にごろごろしているウニを誰もとらなかったというのは、あまりうまい種類のウニではなかったのかもしれない。
 ほかの魚介が豊富で、ウニは海藻を荒らすだけのやっかいものだったのかもしれない。
 ウニというのは世界中に700種類も棲息し、食用にならないものも多いと百科事典に書かれている。
 日本では食用のアカウニ、バフンウニ、ムラサキウニ、エゾバフンウニ、キタムラサキウニがとれる。
 アカウニは南方系。
 バフンウニ、ムラサキウニも、どちらかといえば南方系。
 エゾバフンウニ、キタムラサキウニは北方系。
 バフンウニとエゾバフンウニ、ムラサキウニとキタムラサキウニは、それぞれ違う種類らしい。
 高知あたりの海でとれるのはアカウニ、バフンウニ、ムラサキウニということになる。
 しかし、なんにせよ「三陸の海で育ったウニのうまさにはかなわないが」とは、くだんの船長さんも遠慮して言わなかったそうだ。
 
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■ 夏の終わり
 
 ウニの身は卵巣・精巣の房の集合体だという。
 成熟しきるまえが旬で、殻を割って身に白子がまじるようになると旬が終わるとされる。   
 ただ実際は旬の真っ盛りでも白子を持った早熟ウニはいる。
 白子は毒だといって必ず指でよけて身をすくった。
 立秋は8月8日前後。
 お盆にはいると水が急に冷たくなる。
 いやなクラゲも増える。
 ふつうのミズクラゲは怖くない。
 触手に青い筋のとおったクラゲのすがたを見るとぞっとした。
 あれはカツオノエボシというのだろうか。
 触れると刺されてミミズ腫れになる。
 逃れようとしてじたばたすると余計に近づいてくる。
 だから、できるだけすーっと逃げなければならない。
 「お盆になったら泳ぐな、海に引き込まれるぞ」
 と言われる。
 お盆には先祖の御魂〔みたま〕が帰ってくる。
 地獄の釜の蓋が開いて亡者も帰ってくる。
 海で死んで浮かばれない人の霊はクラゲになって帰ってくる――
 毒クラゲは成仏しきれなかった人たちの変わり果てたすがたなのかもしれない。
 泳いでいて毒クラゲをみかけると浜に上がった。
 冷たい水の流れを感じたときも浅瀬に向かった。
 浄土ヶ浜の浅い海のなかにも潮の流れがあって沖から冷たい水がはいってくる。
 冷水帯につつまれるとドキッとした。
 冷えきった体ががたがたふるえ唇がブンド色になっているのが自分でもわかる。
 ブンド色は葡萄の紫色だ。
 浜に上がって体を拭いて熱い石の上に腹這いになる。
 しだいにほぐれてくる背中を涼しい風が一瞬かすめる。
 それが陽に焼けた体で感じる夏の終わりだった。
 東北の短い夏が終わるころ、ウニ漁も終盤を迎える。
 
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■ 宮古のウニに異変?
 
 宮古在住の吉田幸一さんが出した写真集「北部陸中海岸紀行」に昔のウニの殻剥き作業の写真が何枚か載っている。
 日付は1975年(昭和50)8月。
 場所は蛸の浜の洞門の岩かげ。
 砂浜に茣蓙やシートを広げた上で漁師の家族が殻を剥いている。
 眺めていると〈宮古のウニ〉のイメージが呼び覚まされる。
 漁師の家族が総出で殻を割って身をとりだす。
 茶色い腑などの汚れをていねいにとり除く。
 塩水で身を洗ってプラスチック瓶に詰める。
 容器には個人名が記されている。
 魚市場に持ちこんで競りにかける。
 買い取られたウニはすぐに魚屋や魚菜市場に並ぶ。
 何気なく買ってゆく人も多いなか、
 「○○さんどごのはうんめえがね」
 などと声をかけて買ってゆく人もいる――
 事実とくいちがっている点もあるかもしれないが大筋では間違っていないだろう。
 といっても、これは去年(2006年)までの話。
 今年から変わったらしい。
 7月11日の岩手日報や朝日新聞の記事によると、宮古漁協がウニの集荷・出荷体制や衛生管理システムを〈一元化〉したという。
 口開けの日、採ったウニを個々の漁業者が殻を割るまではおなじ。
 そのあとが違う。
 途中から漁師の手を離れてしまう。
 剥いた身を漁業者が魚市場に持ちこむと、漁協の職員が洗浄して専用容器にいれ、摂氏2度に冷却する。
 それを田老の加工場まで運んで、工員がさらに洗浄・選別をし、瓶詰めにして宮古漁協の名で競りにかける。
 製品を均質化し、衛生管理も徹底して、宮古のウニの市場評価を高めたい、というのが新システムに切り替えた漁協の思惑らしい。
 いいことずくめのようだが課題は多いのではないだろうか。
 気になることのひとつは、漁師が代々守り、つちかってきた〈宮古のウニ〉の味と伝統を、漁協が受け継いでいけるのかどうかだ。
 
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■ 鼻から鼻へ
 
 千徳駅わきの上鼻踏切から磯鶏の石崎鼻をめざして歩いた。
 上鼻・磯鶏・石崎鼻――
 知らない人は読めないだろう。
 磯鶏はソケイ。
 上鼻はカンパナで、カミハナの変化。
 石崎鼻はイシザキハナで通じるが、地元ではイッサギバナと発音する。
 鼻は山の尾根の尖端、出崎の地名につけられることが多い。
 千徳の上鼻は由来がわからない。
 駅の西側に短いトンネルがあって尾根が張りだしているから、あのあたりをさすのかもしれない。
 上鼻があるなら下鼻もありそうだが、これは聞いた覚えがない。
 山田線に沿って旧国道106号を宮古へ向かった。
 子どものころはよく線路の土手を宮古まで歩いた。
 下千徳のバス停あたりに小さな踏切がある。
 遮断機も警報機もなく、人や二輪車が通れるだけだ。
 耕運機やリヤカーも通っていたかもしれない。
 旧国道から土手上の踏切を越えると、かつては田んぼだった。
 畦道のさきは閉伊川の堤防。
 踏切には町裏踏切という名前がついている。
 町裏はマチウラで、町というのは千徳町のこと。
 集落の真ん中を古い盛岡街道が通り、山手に千徳八幡宮がある。
 この千徳町の裏(南)側に新しい道が通り、土手を築いて鉄道ができた。
 その南向こうは、いま長町〔ながまち〕2丁目になっている。
 山田線のレールは緩いカーブを描いて近内川の橋梁を渡る。
 県北バスの営業所のところで分岐して長根トンネルに入るのは三陸鉄道北リアス線。
 むかしの宮古線だ。
 県北バスの裏の道を戻りトンネルの入口にのぼった。
 長根トンネルを初めて間近に見た。
 線路上から覗いても向こう側の出口は見えない。
 道路に戻ったらリアス線のレトロ列車がトコトコ走っていった。              (2007.7.28)
 
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■ 舘合にあった小さな踏切
 
 県北バスの営業所を過ぎて舘合の切り通し坂をのぼった。
 線路ぎわにある歩道を工事している。
 舘合の交差点はボトルネックだ。
 市の中心部へ通じる旧国道と横町へ通じる旧街道とが合流する要衝にしては狭すぎる。
 だから広げようという計画があると、噂に聞いていた。
 歩道の工事はその拡張工事の一環かもしれない。
 舘合交差点から栄町の交差点までも、むかしは狭い道だった。
 いまは広くなり、それだけ舘合交差点の狭さが際立つようだ。
 交差点の南に、むかし、小道があった。
 舘合山を削って切り通しをつくったときに道のかたわらにとり残された小山、山の切れっぱしがある。
 それを、さらに南へ掘り崩したような細い道だった。
 小道の名残りはいまもある。
 拡張工事が本格化すれば消えるのかもしれない。
 草むらを踏んで入りこんでみると線路の手前を柵が塞いでいる。
 むかし、そこに小さな踏切があった。
 名前はわからない。
 舘合踏切といったかもしれない。
 ただ、舘合踏切という名前は、もう一本東側、山口川沿いの踏切についている。
 名も知らない小さな踏切を渡った道は、畑のあいだを抜けて山口川と近内川が閉伊川に合流する川原へつづいていた。
 あのあたりには屠殺場〔とさつば〕があった。
 屠殺場はもはや死語だ。
 いまは食肉処理場という。
 旧国道の山口川に架かる一石橋は、改装工事が終わったらしく、以前はなかった銘板がついている。
 山口川の土手道を南へ折れて舘合踏切を渡った。
 八幡橋のわきから川原に降りた。
 近内川の合流部まで行こうと思った。
 途中までは畑があって細い道が通じている。
 やがて畑は切れ、藪におおわれて進めなくなり、引き返した。
 
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■ 機関区の跡
 
 舘合踏切と宮古駅のあいだに女学校踏切があった。
 むかし宮古一中のところに高等女学校があったので、栄町と南北につなぐ道を女学校通りと呼んでいた。
 途中に裁判所があって裁判所通りとも呼んだ。
 女学校踏切が閉鎖されたのは出逢い橋ができたときだろう。
 出逢い橋という名の跨線橋は1995年(平成7)3月に開通したらしい。
 出逢い橋ができ、栄町の丁字路が十字路になって、あたりの景観は一変した。
 交通量も格段に増えた。
 出逢い橋にのぼった。
 東に月山、南にラサの煙突や八幡山、西に早池峰をいただく北上山地・舘合山、北に黒森山をはじめとする山並みがつづく。
 南東の足もとには宮古機関区だった広大な敷地が広がり、一部は駐車場になっている。
 出逢い橋を降りて正門まで行った。
 門柱に機関区という表示はない。
 表札代わりのように機関車の動輪をかたどったレリーフがはめこまれている。
 かたわらにコンクリートの台座に載った動輪がある。
 少し小さい気がするが本物なのだろう。
 まわりに繁った雑草を払ってみると、台座には銘板がはめこまれ、文字が刻まれている。
 〈動輪の塔 昭和48年10月〉
 塔といっても高くはない。
 昭和48年、1973年になにがあったろう?
 解説板はない。
 宮古市史年表をみても山田線や機関区に関する記事はない。
 私的なことをいえば高校を卒業して上京した年だ。
 それまで機関区は以前と同じたたずまいで通学路にあった。
 なくなろうなどとは夢にも考えなかった。
 
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■ 鉄橋を歩いて渡った
 
 宮古機関区から閉伊川の鉄橋までは回り道をした。
 宮高のプールのかたわらを抜け、八幡土手にのぼった。
 テニス部のトレーニングで毎日走った、なつかしい土手だ。
 八幡山のふもとから片道せいぜい1キロくらい。
 往復走るとけっこうつらく、ズルをするやつもいた。
 集団から意識的に遅れ、折り返してきた一団をやりすごすと、折り返し点まで行かずに戻るのである。
 折り返し点が閉伊川鉄橋だった。
 鉄橋を歩いて渡った。
 高校時代の話だ。
 放課後、級友のドンとヤマの3人、藤原小学校のそばにあるドンの家まで遊びに行った。
 鉄橋のレール脇についている保線用通路は、鉄骨の上に薄い板を渡しただけで、隙間からは遥か下に川面のきらめきが見えた。
 ずいぶん高く感じた。
 板が割れて落ちたら死ぬなと思った。
 列車がいつ来るか気が気でなかった。
 ドンは、いつも鉄橋を渡って通学するようなことを言っていた。
 あれから三十数年がたつ。
 土手の端に行ってみた。
 厳重にバリケードされ、線路内に入れないようになっている。
 乗り越えられないこともないけれど、よじのぼって鉄橋の先、対岸の藤原方面を眺めるだけにとどめた。
 迂回して鉄橋の川下に並行した宮古橋を渡る。
 藤原側のたもとに〈アイオン颱風災害復旧工事紀念碑〉が建っている。
 アイオン台風は1948年(昭和23)9
月に襲来した。
 藤原の被害が大きかった。
 観音堂に水難者89名の供養塔がある。
 当時の国鉄山田線も寸断された。
 6年後の1954年(昭和29)11月になってやっと全線復旧し、喜びの旗行列が町を練り歩いたそうだ。
 藤原の復興は早く、碑には翌年の昭和24年6月竣工とある。
 ドンの家は高台にあってこの災難をまぬがれたらしい。
 
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■ 藤原比古神社へ
 
 閉伊川の鉄橋を渡った山田線は、藤原に入って南へ大きくカーブを切り、石崎のトンネルへ向かう。
 その手前に黒石踏切がある。
 銘板をよくみると、
 〈黒石踏切道〉
 と書いてある。
 踏切道という表示を初めてみた。
 踏切を踏切道とも呼ぶらしい。
 〈この踏切は自動車は通行できません〉
 とも書かれている。
 警報機も遮断機もあるけれどクルマが通るには幅が狭い。
 すぐ先に低いガード(陸橋)もある。
 大煙突に象徴されるラサ工業が小山田にあったころ、このガードの上をラサの引込線が通っていた。
 ラサ線は黒石踏切を越えたポイントで山田線につながっていた。 
 黒石は一帯をさす字〔あざな〕だろうか。
 踏切のすぐ南側の山はコソークマンと呼ばれていたと思う。
 ふしぎな通称の由来や意味は見当がつかない。
 踏切を渡り、ガードをくぐり、コソークマンの中腹にある藤原比古神社へ行ってみた。
 以前は平地にあった。
 それがアイオン台風の水害をうけて高台に移ったと聞いていた。
 石段わきにある遷宮記念碑の文章を確かめてみた。
 碑文は水害にひとことも触れていない。
 文化の進展とともに人家の稠密はなはだしく、環境思わしからずで、どうしたものかと案じていたところ、適地がみつかったので昭和36年7月に遷宮した、というようなことが書かれている。
 昭和36年は1961年。
 1948年(昭和23)9月のアイオン台風からは、だいぶ経っている。
 ただ、敷地の一部を〈造整区民〉の避難所に併用するとも書いてあるから、遷宮には水害に備える意味もあったにちがいない。
 地区の人たちが山腹の敷地造成に協力したこともうかがえる。
 境内からは月山と藤原の町がよく見えた。
 月山と埠頭に挟まれた宮古湾が水路のように細く伸びていた。
 
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■ 石崎鼻の断面
 
 藤原比古神社から黒石踏切へ戻った。
 踏切から南東へ100メートルほどのところに石崎鼻があり、トンネルが口をあけている。
 磯鶏〔そけい〕へ行くならトンネルを抜けたほうが早い。
 しかしそうすると磯鶏駅まで行かなければ道に戻れない。
 トンネルがうがたれた尾根の断面、藤原と磯鶏の境をなす石崎鼻の切り通しを見るには、遠まわりになる。
 で、民家のあいだのデコボコ道を抜け、藤原観音堂のわきから国道45号へと出た。
 観音堂にはアイオン台風水難者の碑のほかに、三陸大海嘯横死者の碑、幕軍勇士墓碑がある。
 アイオン台風水難者の碑は、1948年(昭和23)9月の台風で閉伊川が大氾濫を起こし、89名の犠牲者が出たことを記録し供養したもの。
 三陸大海嘯横死者の碑は、1896年(明治29)6月に襲った三陸地震津波の供養碑。
 幕軍勇士墓碑というのは、1869年(明治2)に新政府軍と旧幕府軍の軍艦が戦った宮古港海戦のあと、藤原須賀に流れついた首のない幕軍兵士の遺体を葬ったものだという。
 石碑は国道沿いに並んでいる。
 磯鶏方面に少しだけ歩くと、やはり国道沿いに石崎の石碑群が建っている。
 向かって左端に並ぶ大きなふたつの碑。
 ひとつは1933年(昭和8)3月3日の三陸大海嘯記念碑。
 もうひとつは字がかすれてよくみえないけれど1896年の三陸海嘯の供養碑だろう。
 石崎鼻の断面を見上げた。
 コンクリートで固められていて岩肌がみえない。
 ふつうの花崗岩だろうか。
 断面の真下に一軒の石材店がある。
 石崎鼻に石屋さんという取り合わせもおもしろい。
 
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■ 可否茶店
 
 千徳の上鼻〔かんぱな〕から石崎鼻へ、という目的は達した。
 石崎鼻の断面を見上げながら頭にはつぎの目標が浮かんでいた。
 鼻から鼻へPart2――石崎鼻から弁天鼻へ
 弁天鼻は国道45号と宮古湾に挟まれた高浜の出崎だ。
 そこに異人館という名の喫茶店がある。
 テラスで潮風に吹かれながら腹ごしらえをしようと思った。
 とりあえず石崎トンネルの磯鶏口を見て、それから磯鶏駅へ行った。
 2坪ほどの小さな小さな駅舎、というか待合室。
 駅前広場はけっこう広々している。
 近くの、そけい幼稚園、市民文化会館、磯鶏公民館をまわった。
 線路沿いにちょっと南下すると実田。
 ミタと読む。
 むかしはミノリタと呼んでいたとも聞く。
 字のとおり、このへんは一面の田んぼだった。
 実田1丁目に可否茶店〔コーヒーさてん〕がある。
 1970年代に宮古の中心街、大通4丁目にあった。
 近くに映画館の第二常盤座や大きなパチンコ屋が並んでいた。
 当時は喫茶店で何度か入った。
 その後、宮高の近くの南町へ移ったらしい。
 喫茶店から豆の焙煎・販売店に衣替えしたのはいつだろう?
 宮古あたりで豆を買うならここと評判の店になった。
 90年代に実田へ移った。
 ママさんは、ぼくのBBS(伝言板)に登場する。
 宮高の1年先輩なので、旧知のつもりで店を訪ねた。
 顔見知りかどうかはわからない。
 白い瀟洒な建物の入口には「宮古弁カルタ」のポスター。
 客があってママさんは豆を挽くのに忙しい。
 店内には舶来の食料品や雑貨が並んでいる。
 客足がとだえて初対面?のあいさつをした。
 突然だったからびっくりしていた。
 マスターもいた。
 顔に見覚えがあり、話がはずんだ。
 庭に生えている四つ葉のクローバをいただいて店をあとにした。
 
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■ 弁天岩に呼ばわり浜
 
 八木沢川に沿って海へ向かう。
 国道45号を渡ると河口水門の手前の山ぎわに鳥居がある。
 熊野山神社だ。
 山の名も熊野山なのだろうか。
 赤い鳥居をくぐれば雑草が生い茂った細くて急勾配の山道。
 このさきにほんとうに神社があるのか不安になる。
 鳥居は何度も見ていたけれど山に登るのは初めてだ。
 神社は当然のごとくあった。
 そっけないコンクリート造り。
 見晴らしのまったくない境内。
 一瞥すると来た道を下った。
 水門を過ぎた左手、磯鶏埋立地の南端には弁天岩がある。
 ハマユリが咲き乱れ、潮風に削られた白木の鳥居が建つ。
 大弁財天という額がかかっている。
 石段を登ると岩のてっぺんに枝振りのいい黒松の木が1本、その下に石のほこらが3つ。
 印象的な風景だ。
 弁天岩の南が神林の木材港。
 手前部分は漁師さんたちの専用になっているらしい。
 防潮堤に沿って、番屋というのか、倉庫・作業小屋が並ぶ。
 磯漁に使うサッパや小型の漁船が浮かんでいる。
 ふしぎなことに木材港には材木が一本もない。
 防潮堤に沿った道をリアスハーバーへ行った。
 赤灯台をかすめてヨットがしきりに出入りしている。
 なんだろうと思ったら国体の予選会らしい。
 クラブハウス2階の展望室から行きかう帆と海を眺めた。
 リアスハーバーの裏手、西どなりにあるのが呼ばわり浜だ。
 2万5000分の1の地形図には呼浜とある。
 なにか用事があると対岸の白浜に大声で呼びかけて伝えた。
 それで呼ばわり浜の名がついたらしい。
 重茂〔おもえ〕半島西岸の白浜は村政時代に磯鶏村の飛び地、枝村だった。
 距離は1300メートル。
 声が届きそうな気がする。
 遠泳大会はリアスハーバーと白浜のあいだでおこなわれる。
 
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■ 藤の川へ下る坂道
 
 呼ばわり浜の北の神林山に稲荷神社がある。
 丹塗りの社〔やしろ〕で、ここが磯鶏の村社だったらしい。
 神林山をまわり、宮古警察署裏の山道を越えて国道45号へ戻った。
 道々、神林山の出崎は神林鼻と呼ばれていたという話を思い出していた。
 木材港やリアスハーバーができるまえ、まだ砂浜だったころのことだ。
 神林鼻は海岸線にくっきり輪郭を刻んでいただろう。
 砂浜は北からアスカタ須賀、神林須賀とつづいていた。
 アスカタは飛鳥潟。
 飛鳥方とも書くらしい。
 この浜で泳いだという、はっきりした記憶はない。
 木材港ができたのはいつだろう?
 そう思って宮古市史年表で探したら、起工は1964年(昭和39)9月、完成は68年(昭和43)3月になっている。
 宮古湾岸の砂浜で最初に埋め立てられたのは、どうもこのあたりのようだ。
 神林鼻の名とともに思い出していたのは、宮古警察署のところにむかし、河南中学校があったこと。
 そういえば市民文化会館のところには磯鶏小学校があった。
 津波にそなえて、ふたつの学校は高台へ引っ越した。
 藤の川の南の高浜小学校もチリ地震津波のあとに高台へ移っている。
 商業高校前の坂にかかった。
 登りきると藤の川が見えてくる。
 この下り坂の風景が好きだ。
 赤松の林、緑におおわれた出崎、しだいに広がる砂浜と青い海。
 一歩ごとに気持ちが高揚し、早く砂浜を踏みたくなる。
 海水浴客は少なかった。
 天気はいいけれど梅雨明けしていない海。
 水は冷たく、みな思い思いに砂浜に寝そべって体を焼いている。
 藤の川は市街地の近くに残る貴重な砂浜だ。
 
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■ 異人館のある風景
 
 藤の川の南にある出崎の名は牛鼻〔うしぱな〕。
 尖端がへこんで半開きのくちびるのようになっている。
 きっと牛の鼻も似たような形をしているのだろう。
 牛鼻の南どなりにある出崎が弁天鼻。
 弁天さまが祀られているらしい。
 この弁天鼻に異人館は建っている。
 国道45号を藤の川方面から行くと出崎の陰になる。
 逆に高浜方面からは異人館のある風景がよく見える。
 それは一幅の絵画だ。
 緑の出崎を背景に落ちついたモスグリーンの洋館が海に浮かぶ。
 てっぺんに風見鶏のついた時計塔。
 時計の下に鮮やかなステンドグラス。
 店内に入ると、どの窓からも宮古湾が見える。
 額に入った木のレリーフが壁に数点かかっている。
 前庭に本物のヨット。
 海に張りだした屋根つきの白いテラス。
 テラスの階段をおりた目のまえは海。
 天井から吊り下げられたボートで漕ぎ出してみたくなる。
 宮古湾の広がりや重茂半島の山並みを眺めながらテラスでシーフードカレーを食べた。
 水上スキーが通り過ぎてゆく。
 マスターが外出から帰ってきた。
 ネット上では親しいけれど初対面である。
 ぎこちない会話を交わした。
 手の大きな人だった。
 ブログ「マスター写真館」に載る写真はこの手が撮るのかと思った。
 夏の土曜の昼下がり。
 マスターは忙しい。
 風に吹かれ、のんびり疲れをとった。
 霧のような雨が落ちてきた。
 さて、また歩き出そう――
 そう思いつつ席を立った。
                 (2007.8.10記)
 
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