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宮古なんだりかんだり  第4部
第 1 部 第 2 部 第 3 部 第 5 部 第6部 第7部

第 4 部  100話 + 投稿5話 + 資料1
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みやごの話すっこ
春鱒の季節
毒のあるツブ
毒のないツブ
ハモはアナゴ
少女から女郎へ?
宮古蕎麦
路地めぐり
仰げば尊し 中学篇
一中テニス部 1
一中テニス部 2
一中テニス部 3
襷(たすき) ――宮古の昔話17
自転車通学
痛恨の体育祭
切れぎれの記憶 一中篇
逆さイチョウ
荒谷沼 ――宮古の昔話18
仰げば尊し 宮高篇1
仰げば尊し 宮高篇2
仰げば尊し 宮高篇3
仰げば尊し 宮高篇4
仰げば尊し 投稿篇
モーコが来っつぉ
モーコの正体
セキエイソメンガン
浄土ヶ浜薪能
福乃湯廃業
銭湯の思い出
ブログ魚菜市場日記
亀ヶ森の一本桜
端午の節句
銭湯・福乃湯の盛衰
銭湯点描
変わりゆく町並み
【投稿】ジャージャー麺の思い出 * うらら
てんよ
てんよの謎
山小にある石碑
山口川の水争い
山口村の権辰
山口の歌人、摂待方水
ヤナ印
サメの身
宮古の中華そば
とうふずる
豆腐はうんめえ
栄養豆腐
浄土ヶ浜に熊
ツツジ山から青猿神社へ
長根の山を越える
黒森さまの導き
山内魚店
小沢の山越えを断念
小沢と横町をつなぐ道
横町通り
オシンザンは御深山か?
町割り石
花輪殿様
判官さま
本町の豪商
本町の後ろには城があった
【投稿】浄土ヶ浜の夜光虫 * うらら
高橋交差点に立って・・・
仲瀬橋と夫婦橋
十字架山は遠かった
宮古山公園という夢想
吉川英治の句碑
愛宕・築地界隈
湊(一拍おいて)大杉神社
海暮れて・・・
夏暮峠から鍬ヶ崎へ
鍬ヶ崎のタデヤマ
ヒラグチは猿梨
旧鍬ヶ崎郵便局
キッコーキの謎
駒井常爾ふたたび
善林寺の墓地
汽車でまた・・・
資料駒井梅甫俳句抄
悲願の寺
エチゼンクラゲ、北前船
カネニマル
屋印あれこれ
屋印あれこれ 2
鮭の白子の香味焼き
電報電話局裏の石碑
あれ? 鞭牛さん・・・
鞭牛さんの逸話
けむぼーさんの「宮古の店こ屋さん」
とみやは登美屋だった
屋号・店名の由来
気になる店おかめ
【投稿】八幡鳥居の前は、交差点だった。 * OCCO
鍬ヶ崎の鯛屋
七滝湯と不動園
【投稿】「わが町 宮古を描く」 * うらら
外交という名の釣具店
八幡さまの参道
ハンコの大江堂
石焼芋屋さん
美学
田んぼスケート
煙突山の沼
カッパの話
お飾り市
 以上「三陸宮古なんだりかんだり」第4部100話
 第1部〜第4部400話  第5部へ続く



 

■ みやごの話すっこ
 
 みんなが覚えったぁ話すっこばっかりで、おもっさげがねぇども、読んでみでけどがんせぇ。
一.東京がら嫁っこが来たぁど。
  嫁っこだの犬っこだのベゴっこだぁのどコがつぐのを、
  「わたしには言えない」
  って笑ったぁど。
  それで魚屋さ行って喋(さべ)ったぁど。
  「このドン、下さい」
二.坊(ぼ)さまが杖ついで来たぁど。
  魚屋が大声で呼ばったぁど。
  「真鰈ー、マガレー」
  坊さま、たまげで曲がったぁど。
  そしたらセギさ落ったぁど。
三.ある晩げ、
  「ヨダが来たー、山さ逃げろー」
  って外で呼ばったぁど。
  ユワス稼ぎのオドゴは寝呆げで、
  「ヨゴダ持ってこー、ユワスが大漁だー」
  ど聞いだぁど。
  ヨゴダたんねぇで須賀さ行ったっけぇば
  ヨゴダごどヨダにさらわれだぁど。
四.むがすの宮古町さ
  小本助兵衛っつう代官だがなんだががいだんだぁど。
  ――なあに、それだげの話すっこす。
五.宮古町さ観光で来てなんだが困ってだ人さ喋ったら
  怒(おご)られだぁど。
  「ねえさん、助(す)けべぇか?」
六.おんつぁまが宮古町のハイカラなカレー屋さ入ったぁど。
  そしたら訊かれだぁど。
  「ライスにしますか、ナンにしますか」
  2回訊かれで、おんつぁま怒ったぁど。
  「なんにしますかって、カレーに決まってっぺぇ!」
 
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■ 春鱒の季節
 
 ことしは春の歩みが遅いのか、宮古では鍬ヶ崎にある測候所の梅が4月18日にやっと咲いたという。
 冬場の気温が低かったせいで平年より13日遅く、測候所が観測を始めた1953年(昭和28)以降では2番めに遅い。
 ちなみにいちばん遅かったのは1984年(昭和59)で5月4日のことらしい。
 梅がこれでは桜の開花も予報の20日より遅れそうだ。
 春鱒漁も気にかかる。
 やはり遅れているのだろうか。
 ママス、オオメ、サクラマス、スケマスなど、この時期に海でとれる鮭鱒をひとくくりに春鱒と呼ぶ。
 ウェッブ上で春鱒漁の記事を探してみると岩手日報に岩泉町の話題が出ていた。
 小本の須久洞岬(すくどうざき)沖合いで三陸沿岸に春の到来を告げるママス漁が最盛期を迎えた。
 18日に小本浜漁協の定置網にかかった400匹が茂師漁港に水揚げされ、大漁だったと書かれている。
 記事にはなっていないけれど、岩手県水産技術センターの市況日報を見ると、宮古の魚市場にも春鱒が揚がっている。
 18日、定置網にオオメマス(シロザケ)19本、サクラマス361本、カラフトマス16本、マスノスケ1本とある。
 市況でいうサクラマスは新聞記事のママスと同じものだろう。
 ふつう三陸沿岸でマス、ママスといえば、標準和名がサクラマスで、俗にホンマスともいう。
 市況日報には和名で出ているようだ。
 オオメマスというのは、単に大目とか、大目ザケとも呼ばれる。
 秋に帰ってくるはずのシロザケ(標準和名)がなぜか春に帰ってきたもので、俗にトキザケとかトキシラズと呼んで珍重される。
 三陸でサクラマスといいならわしているのは標準和名カラフトマス。
 味は少し落ちるとされるらしいが安くて庶民的。
 うちで食べていた鱒の多くは、このカラフトマスだったかもしれない。
 マスノスケも標準和名で、三陸沿岸ではスケマスとも呼ばれる。
 スケは漢字の介で、マスの大将の意らしく、体が大きい。
 キングサーモンの名でアラスカやロシアなどからの輸入も多いという。
 ――しかし、こんな解説をしていてもつまらない。
 大目でなくていい、そろそろママスの味を堪能したいものだ。
 
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■ 毒のあるツブ
 
 最近、宮古や海産物に関するサイトを眺めていて、あることに気づいた。
 貝のツブについてである。
 そのツブは、どうも、ぼくの知っているツブとは違うらしい。
 いちばん驚いたのは、ツブに毒があると書かれていたことだった。
 「みやごのごっつお」サイトの〈ごっつお掲示板〉に、おこちゃんが書いていた。
 内臓などは捨てる。
 ぬめりも洗い落とす。
 身と内臓のあいだにある唾液腺が特にいけない。
 テトラミンという神経毒を分泌し、死ぬことはないものの視覚異常や酩酊感・吐き気・頭痛などの中毒症状を起こす、と。
 宮古でとれるツブは、おもにヒメエゾボラ、チヂミエゾボラ、エゾボラ、アヤボラなど、とも書かれている。
 試しにこれらの貝を図鑑類で見ると、ぼくの知っているツブとはまったく違う。
 宮古のツブ状況はいったいどうなっているのだろうと首をかしげた。
 日立浜のヘフナーさんのサイト「漁師の鯖=自宅サーバー生活」に宮古でとれるツブの写真や解説が載った。
 4種類あげている。
 ツブ、マツブ、毛ツブ、クボガイだ。
 解説の要点を引用したい。
?ツブがいちばん美味。
 刺身がいい。
 資源が少なく、あまりとれない貴重品――
 これはぼくの知っているツブとは違うツブ。
 標準和名でいえばエゾバイ科のヒメエゾボラにあたるだろうか。
?マツブは、ツブについで美味。
 こぶし大くらいの大きさ。
 沖合いに生息し、トロール(底引網)や籠でとる。
 あまり漁獲量は多くない――
 沖ツブとも呼ばれるらしい。
 標準和名はエゾボラだろうか。
?毛ツブは表面に毛が生えている。
 殻がものすごく硬い。
 刺身はまあまあ食べられるが焼くとゴムのよう。
 繁殖しすぎて嫌われもの。
 食糧危機になれば見直されるかも――
 これは標準和名でいえばアヤボラになるだろうか。
 このツブ、マツブ、毛ツブの触覚部や内臓などには毒がある。
 煮ても焼いてもだめ。食べると、痺れや下痢、激しい嘔吐を起こして苦しむ、という。
 知らなかった、宮古のツブ貝にはいろいろな種類があり、多くは有毒だということを。
 ツブの名に惑わされないようにしなければ。
 
 ⇒みやごのごっつお http://www.miyako.gochisou.info/
 ⇒漁師の鯖=自宅サーバー生活 http://www.heiun.info/
 
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■ 毒のないツブ
 
 むかし宮古でぼくが食べていたツブに毒はない。
 身を爪楊枝で突き、くるりと剥いて。
 かすかにほろ苦い内臓もまるごと。
 ときどき内臓が切れて殻に残ったのをほじくりだして食べていた。
 黒っぽくて小さく、まさに粒つぶとしたツブだった。
 当時、というのは1970年代の初めごろ、毒のあるツブというのは見たことも聞いたこともなかった。
 いったい毒のあるツブやマツブ、毛ツブといった貝は古くから宮古あたりに出まわっていたのだろうか? と首をひねっている。
 懐かしい毒のないツブを調べてみた。
 どうやら標準和名をニシキウズガイ科のクボガイという種類らしい。
 毒のあるツブが出まわっているなら、まぎらわしくないように毒のないツブは正式にクボガイと呼んだほうがよさそうな気もする。
 それでも、やはりツブという懐かしい呼び名は捨てられない。
 青年漁師ヘフナーさんはクボガイについてもふれている。
 浄土ヶ浜でもみかけるが、鑑札(許可証)がないととれない。
 ことしの漁期は3月16日から5月31日まで。
 内臓部分まで食べられる、と。
 たしかに浄土ヶ浜でもみかけた。
 レストハウスのある奥浄土ヶ浜にはあまりいなかったけれど、中の浜などにはたくさんいた。
 いまマリンハウスやボート乗り場がある中の浜には、かつてキャンプ場があった。
 海底はごろごろした大小の岩がずっと沖までつづき、さまざまな生き物がいた。
 小魚はもちろん、厭なクラゲも漂い、岩や海藻のかげにはカゼ(ウニ)、カニ、ヒトデ、ウミウシ、アメフラシ。
 それらにまじってツブやシウリなどの貝類も豊富だった。
 中学生のころだったか、田老のほうへキャンプに行ったことがある。
 場所をはっきりとは覚えていない。
 父の仲間4、5人の家族が車をつらねて出かけた。
 誰もいない浜が広がっていた。
 テントを張り、泳ぎ、釣りをし、貝や海藻をとり、獲物を焚き火で焼き、澄んだ海水で炊いた。
 貝は、おもにシウリとツブだった。
 鍬ヶ崎の漁港の岸壁にも群がっていたシウリがうまいものだとは、それまで知らなかった。
 あのころ、ありふれた貝だったツブ、つまりクボガイも、漁協の管理下にあったのだろうか。
 
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■ ハモはアナゴ
 
 海産物の名前はむずかしい。
 春鱒やツブについて書いてきて気になったのは呼び方の複雑さ。
 アルファベットの学名はさておき、宮古で呼び習わしている名前が、一般的な名称、たとえば標準和名などとは違う場合がある。
 産地によってばらばらな例も多い。
 まぎらわしいこと限りない。
 たとえば雲丹。
 宮古ではカゼと呼ぶ人もいる。
 雲丹にもムラサキウニとバフンウニがある。
 バフンウニはボウズカゼとも呼ばれる。
 学問的にみると、バフンウニも宮古あたりにいるのはエゾバフンウニといって、ただのバフンウニとは違うという。
 ムラサキウニはクロカゼとも呼ばれる。
 これも学問上、宮古あたりにいるのはキタムラサキウニといい、ただのムラサキウニとは違う種類らしい。
 たとえば蛸。
 宮古でとれる蛸はミズダコ・イシダコ・マダコの3種。
 このうちマダコは少なく、宮古で蛸といえば、おもにミズダコやイシダコ。
 そして、ミズダコというのは標準和名がヤナギダコ、イシダコは標準和名がミズダコなんだそうである。
 なんだか頭が混乱してくる。
 なにかもっと単純で身近な例はないか……
 そうだ、あれがある。
 子どものころ、築地あたりの岸壁で、近くのセギからとったメメズ、莚に干してある魚粕に湧いた蛆を餌にし、オゲエを釣った。
 あのオゲエ、どうやら標準和名でいうウグイと同じらしい。
 鰻も釣った。
 竹竿にL字の太い針金を括りつけて凧糸を通し、メメズを餌に岸壁の穴へ突っこむ。
 待つことしばし。
 いれば、いきなり食いついてくることもある。
 すかさず竿の先を穴から抜く。
 すばやくしないと穴のなかで鰻がねじれ、抜けなくなる――
 いやいや、鰻の話ではなかった。
 同類のハモと穴子について書くつもりだった。
 宮古ではハモをアナゴ、アナゴをハモと呼ぶ。
 こういった宮古での名称と標準名との違いは、たくさんある。
 一覧表があれば便利だ。
 どこかにあるだろう。
 ないかな?
 
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■ 少女から女郎へ?
 
 少女から女郎へ――
 ほんとは「小女子から女郎人へ」とタイトルをつけようとして、ちょっとひねってしまった。
 「小女子から女郎人へ」と書いても、なんのこと? と首をひねる人がいるかもしれない。
 コオナゴ、メロウドと書いたほうがわかりやすい。
 そう、魚です。
 コオナゴはイカナゴの稚魚の地方名。
 小女子という字をあてる。
 メロウドもイカナゴの地方名。
 小女子が成長して女郎人になる。
 イカナゴが標準和名で、分類学上はスズキ目イカナゴ科。
 国語辞典などでは玉筋魚と、なんだかとんでもない字をあてている。
 魚篇に白とも書く。パソコンでは出てこない。
 意味は字そのままに白い魚、シラウオ。
 ただ、ふつうシラウオといわれるのはサケ目シラウオ科の別種。
 月もおぼろに白魚の、篝(かがり)もかすむ春の宵〜という有名なセリフが歌舞伎にある。
 半透明な魚体が鮮度が落ちたり茹でたりすると白くなるから白魚と呼ぶらしい。
 イカナゴの稚魚のコオナゴも透明で湯掻くと白くなる。
 だから白子だ。
 シラコと読んでしまいそうだが、この場合シラスと読む。
 シラスといえば、一般的にはカタクチイワシやマイワシ、ウルメイワシの稚魚をさすことが多い。
 三陸ではコオナゴだ。
 そのコオナゴのシラス漁が始まった。
 4月20日に魚菜市場に宮古産の生シラスが並び始めたという情報が飛びこんできた。
 体長3センチほど。
 鮮度はもちろん抜群。
 価格はまだ高い。
 県水産技術センターの市況日報には、宮古市魚市場の20日の水揚げに棒受網漁・隻数2・魚種イカナゴ・銘柄コウナゴ・水揚量190?・高値1700円・平均1433円・安値600円とある。
 棒受け網は、船から四角い網を海中に広げ、その上で集魚灯を照らし、魚が集まると網の裾をあげて一網打尽にする漁法。
 イサダや春鱒漁とならんで三陸に春をつげるコオナゴ漁も、ことしは北上してくるのが2週間ほど遅れ、サイズは大きめのようだ。
 ほんとは小さめがいい。
 小さくてピチピチした生のシラスに大根おろしをかけ、醤油をたらして食べる。
 これがいちばんだ。
 
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■ 宮古蕎麦
 
 蕎麦が好きで、ときどき乾麺を茹でる。
 蕎麦屋に出かけることは滅多にない。
 どうも高い気がする。
 ただ、外で飲むときは静かな蕎麦屋にかぎる。
 蕎麦は酒の肴にもいい。
 宮古の蕎麦の専門店というと、向町の藤七屋と築地の直助屋くらいしか知らない。
 あとは駅の立ち食い蕎麦か。
 茂市に「たからや」という蕎麦屋がある。
 タウン誌「みやこわが町」にも広告が出ていて、〈十割そば〉をうたっている。
 つなぎに小麦粉や山芋などを2割ほど混ぜた二八蕎麦が多いなかで、十割蕎麦は蕎麦粉100パーセント。
 生(き)蕎麦ともいう。
 〈十割そば〉という名の会社が盛岡にある。
 十割そば粉と製麺機・製法などを提供し、全国に直営店が7、導入店が約400と着実に業績を伸ばして注目されているらしい。
 茂市の「たからや」も、この〈十割そば〉と提携している。
 社名の〈十割そば〉ではなく、普通名詞の十割蕎麦といえば、宮古蕎麦を思い浮かべる。
 宮古といっても、わが宮古市ではない。
 沖縄の宮古島でもない。
 福島県に山都(やまと)という町がある。
 ことし(2006年)の1月4日に合併し、ラーメンと蔵の町として知られる喜多方市になった。
 この旧山都町に宮古という田園地帯がある。
 すべて農家で、33軒のうち13軒が農業のかたわら蕎麦屋をいとなむ蕎麦の里だ。
 会津盆地の奥座敷に宮古川という清流が流れる。
 平家の落人が住みつき、京の都を偲んで山都や宮古と名づけたとされる。
 ここでは鎌倉時代から十割蕎麦をつくりつづけてきた。
 米は育たず蕎麦に頼るしかなかった。
 まさに命の糧(かて)だった。
 古くから自分たちが守り、食べなれてきた味に愛着と自信をもっている。
 昔ながらに収穫した蕎麦の実を天日で干し、手で打つ。
 水もいい。
 福島県は蕎麦の生産量が全国2位だという。
 1位は北海道。
 雑穀王国の岩手は、蕎麦の生産量では9位に甘んじている。
 岩手出身の蕎麦好きとしては残念な数字だ。
 宮古蕎麦が、わが宮古の商標じゃないのも、ちょっぴり口惜しい気がする。
 
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■ 路地めぐり
 
 子どものころ、路地めぐりをした。
 近所の路地に入りこんで遊んだ。
 遊んだといっても、ただ通り抜け、うろつくだけだったが。
 旧八分団脇の路地から駅前通りまでのあいだには大通りと末広通りを直接につなぐ路地が2本。
 その南北にのびる路地を東西につなぐ路地が4本ぐらいある。
 それに袋小路もある。
 旧八分団脇の路地が一番なつかしい。
 西筋に馴染みの駄菓子屋があって、向かいあたりの三角地帯にパーマ屋ができた。
 その先の西側に細長い建物ができたのはいつごろだったろう。
 ブロック製のような感じの2階建てが2棟。
 路地に面したほうが旅館で、奥の棟はアパートだった。
 旅館の裏に外階段があった。
 非常用だったのだろう、柵か何かがあり登ってゆけないようになっていた。
 が、かまわずによじ登った。
 2階は部屋の前がベランダになっていて、窓にはみなカーテンが引いてあった。
 ベランダから一度だけ駄菓子屋の瓦屋根に登ったことがある。
 路地を見下ろしていると、おじさんが出てきて屋根を見上げた。
 目が合って、怒られるかと思ったら、なにも言わずに引っこんでしまった。
 いちおう常連の客だったからだろうか。
 アパートの棟には両端に階段があった。
 南側から登り、通路を通って北の階段を下りる。
 今度はその逆。
 住人には出会わなかった。
 八分団の西脇の路地は袋小路になっていた。
 入ってすぐ正面に小さな離れか物置のような建物があった。
 鍵の手になった路地の奥は木の塀で行き止まる。
 が、かまわずによじ登った。
 塀の向こうに、旅館の風呂焚き用なのか、薪の置き場があった。
 敷地の三方に薪が整然と積まれ、電動ノコギリの置かれた小屋が西側にあった。
 北側に大きな木の扉があり、旅館の裏に通じていた。
 小屋の屋根にも簡単に登れた。
 ひとまたぎで北側のアパート2階の階段に渡った。
 下は雨水を流す細くて浅い側溝だった。
 中学になると路地めぐりをしなくなった。
 いつのまにか旅館とアパートは飲み屋の団地に変わった。
 八分団や駄菓子屋も飲み屋になった。
 
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■ 仰げば尊し 中学篇
 
 宮古市立宮古第一中学校――
 と母校の名を間違って覚えていることに最近気づいた。
 ほんとは宮古市立第一中学校。
 正門に校名が掲げられてあったのだろうが記憶にない。
 八幡さまの鳥居をくぐった参道に正門がある。
 入って右手にブロック校舎。
 正面に築山。
 その後ろに本校舎の玄関。
 本校舎の南向こうに新校舎。
 正門の左手に講堂があった。
 本校舎も新校舎も木造2階建て。
 講堂も木造だった。
 1年のときはブロック校舎2階の教室だった。
 担任は体育が受け持ちの伊香先生。
 小学時代に担任だった先生のご伴侶で、美人の女先生にふさわしい、体格がよくハンサムで男っぽい先生だった。
 ちょうど漫画の「ハレンチ学園」がはやっていて、なにかというと「ハレンチ!」と叫ぶ生徒がいた。
 苦笑まじりに伊香先生がその流行を話題にしていた記憶がある。
 2年に上がって新校舎2階の教室になった。
 新校舎ではなく南校舎と呼んでいたかもしれない。
 担任は若い英語の先生だった。
 「いとこはカズン、複数形はカズンズ、アクセントは頭にあってカ・ズンズ」
 と大きな声で発音したとたん、教室じゅうが爆笑に包まれた。
 先生は唖然とし、ついでムッとした。
 どこかよその土地から転任してきたばかりの先生だったのかもしれない。
 妙なことを覚えている。
 いっぽうで肝腎なことは忘れている。
 3年になって本校舎2階の教室になった。
 前に書いたけれど、この中学3年のときの記憶がほとんどない。
 担任の先生の顔も名前も頭に残っていない。
 級友の顔も思い出せない。
 3年に限らず中学時代の記憶は曖昧模糊としている。
 部活に精を出したことと思春期らしく気になった異性のおもかげばかりが浮かんでくる。
 「仰げば尊し」と題したのに、これではしようがない。
 担任以外に顔が思いだせるのは部活の男先生、音楽の女先生。
 たぶん3年のとき音楽の小国先生が赴任してきた。
 早退してノデ山から山口川に架かる橋を渡ったとき、デコボコの埋立地を先生が自転車に乗ってやってきた。
 あのころ――というのは1969年(昭和44)ごろのことだけれど、いま市立図書館があるあたりは造成の真っ最中だった。
 
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■ 一中テニス部 1
 
 中学校の部活はテニスだった。
 軟式で、土のコートが本校舎の南、校庭の西北隅にあった。
 男女別で、一面ずつ。
 入部のきっかけは親しい先輩がいたためだったろう。
 中学に入るまえ下千徳へ引っ越した。
 八幡通りにいるとき隣りに住んでいた中村さんがテニス部にいた。
 ひとつ歳上で気のいい兄貴格。
 明るくてひときわ目立った。
 のちにフォークグループNSPのメンバーとして人気者になる素地は当時から十分に感じられた。
 中村さんはダブルスの後衛で、たしか前衛は谷岡さんだった。
 ほかに2年生は、後衛の谷川・田代・佐藤?さん、前衛の高津・斎藤さんなどがいた。
 3年生の名前は思い出せない。
 部長が前衛の菊池さん、副部長が後衛の佐々木さんといったかもしれない。
 入部してあまり日もたたないころ、ひとりの3年生に呼ばれた。
 閉伊川に沿った八幡土手の西端に水防用具かなにかを入れた小屋があった。
 その陰に連れてゆかれた。
 3年生は大きく見えた。
 引っぱりこまれたのは初めてだった。
 心当たりはない。
 なんだなんだ?
 と思っていたら、上級生になれなれしくしすぎると責められた。
 あまりの心外さに不覚にも泣いた。
 泣きっ面でコートに戻ると中村さんがその3年生に抗議してくれた。
 授業が終わってコートに出るまえには必ず土手に行った。
 往復2キロほどだろうか、土手道の端から端までランニングし、柔軟・腕立て・腹筋・うさぎ跳び・腕車などのメニューをこなす。
 50人以上入部した1年生はこのトレーニングに音をあげ、半月もたたないうちに半分に減った。
 球拾いばかりでラケットを持たせてもらえない不満もあった。
 やっとラケットの握り方、素振りの仕方を習ったのは夏休みまえだ。
 そのころまでに10人に減っていた。
 夏休みに初めてコートに立って球を打った。
 フォアストローク、バックストロークでひととおり打てるようになり、ファーストサーブ、セカンドサーブ、ボレー、スマッシュを習った。
 そのうちに前衛と後衛にふりわけられ、ペアを組む相手が決まった。
 得手・不得手はあったけれど、だいたい背の高いのが前衛、低いのが後衛。
 ぼくは後衛だった。
 ペアの相手は中島くんといった。
 
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■ 一中テニス部 2
 
 50人以上どっと入部して夏休みまえに10人に減った新入部員は、そのあと8人に減る。
 後衛の豊島・長塚・伊藤くん、前衛の中島・尾崎・多田くんが残った。
 もう一人が思い出せない。
 1学年に正規のペア3組、補欠1組で8人。
 3学年で計24人。
 コートは一面しかないから24人でも多かった。
 もちろん3年・2年が中心で1年生はほとんど練習できない。
 秋になっても受験の準備を理由に引退するような3年生は少なかったような気がする。
 男子コートの西は女子コート、東には女子バレー部のコートが接していた。
 球拾いをしていると女子のテニスボールやバレーボールが転がってきた。
 女子コートに気をとられて左を見たり右をうかがったり。
 「こらっ、どごぉ見ったぁ!」
 上級生から怒声が飛んだ。
 コートは粘土質の土で水はけが悪かった。
 雨が降れば雑巾で水を吸いとった。
 それでも乾かないことにはコートが傷つくので練習できない。
 ボールも濡れたり泥がついたりすると、とんでもない変化球になる。
 風が強くても雪が降っても練習にならなかった。
 そんなときサッカーをすることがあった。
 冬は雪の積もったなかで野球部を相手に試合をした。
 球を奪いに執拗に追いかけてこられるといやなのだが、野球部はすぐスライディングして自分から倒れてしまう。
 サッカーでは野球部よりテニス部のほうが強かった。
 2年のときにサッカー同好会ができた。
 河川敷のグラウンドで何度か試合をした。
 けっこううまかった。
 意外な問題があった。
 中学時代、靴は、部活はもちろん普段でもテニスシューズで通した。
 サッカーシューズで足を蹴られると、この大事なシューズが使いものにならなくなった。
 テニスシューズの上部は爪先だけゴムで覆われている。
 このゴムと布地との境が切れてパカパカと口をあいた。
 サッカー同好会との試合では、ボールをとられるより、サッカーシューズで足を蹴られたり踏まれたりするほうが二重に痛かった。
 テニスシューズは滑りやすくもあった。
 コートを傷めないよう底にはギザギザではなく円い紋様が刻んである。
 テニス部は不利だった。
 それでもサッカー同好会を相手に互角以上の試合をしていた。
 
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■ 一中テニス部 3
 
 一中テニス部は伝統的に強く、市内の大会では常勝に近かった。
 ライバルは花輪中学校だった。
 練習試合に河南中が一中までしばしばやってきた。
 こちらから河南中まで出かけていったという記憶はない。
 胸を貸すというようなところがあった。
 愛中も来たかもしれない。
 二中や千中・津軽石中など、ほかの中学にもテニス部はあっただろうけれど記憶に残っていない。
 愛中は、いまはなき愛宕中学校。
 千中は千徳中学校で、いまの宮古西中学校だ。
 ぼくらの年代も強かった。
 賞状やメダルをいくつかもらった。
 それらは学校が預かったままで個人には回ってこなかった。
 大きな大会で優勝したような賞状は額に入れられて校長室に飾られるのだろうと思っていた。
 3年のとき県大会に進んで盛岡へ遠征し、初戦で敗退した。
 練習では自分でもなかなかやるなと思っていた。
 本番になるとだめだった。
 上がって、がちがちになった。
 それでも市内の試合でけっこう勝ち進んだのはペアを組んだ前衛の中島くんがうまかったからだ。
 練習熱心で誠実、そのうえ端整な顔立ちをしていて女の子に人気があった。
 勉強もできたのだろう。
 3年になると部長をつとめた。
 五月町のラサの社宅に住んでいた。
 そのラサの社宅の北、五月町のはずれのほうにテニスコートが2面あった。
 いまもあるはずだ。
 市内の大会はほとんどこのコートでおこなわれた。
 日曜などにテニス部で借りて練習することがあった。
 自転車でコートに向かう道には深い側溝が流れプラタナスの街路樹がつづいていた。
 いまの宮古消防署と合同庁舎のあいだだろう。
 あのへんもずいぶん変わった。
 未舗装の道には黒く光る製錬カスの砂が敷かれていた。
 何棟も並ぶ社宅のあいだには、きれいな花壇や生垣があった。
 テニスコートもラサの所有だったかもしれない。
 コートの南西側、いまの西町のあたりには一面に田んぼや畑が広がっていた。
 ぼちぼち宅地の造成が始まり、2年生のころ、つつじが丘公園ができた。
 そばの古い家から先輩の田代さんが、いつも田畑のなかの道を急ぎ足にコートへやってきた。
 
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■ 襷(たすき)――宮古の昔話17
 
 むかし鍬ヶ崎の町に細々と暮らす母親と娘がいた。
 父親は、ある日、小舟で漁に出たまま戻らなかったそうだ。
 娘は心やさしく器量もよかったので、湊を訪れる上方の船頭に親類筋の者がとりもった。
 ふたりは相性よく、すぐに睦みあって夫婦のちぎりを結んだ。
 しばらく宮古にとどまっていた船頭は、また春に戻ってくると約束して船に乗った。
 ところが翌年の春になっても船頭は来なかった。
 便りもなく、一年が経った。
 二年めの春を迎えるころ、約束をたがえて遠い地で妻を迎えたかと心配するあまり、痩せ衰えていった娘は、とうとう泣きながら死んでしまった。
 老母は娘を沢田の常安寺に葬った。
 「成仏でぎねぇべ」
 その夜、老母が仏前でかきくどいていると、位牌がバッと前に倒れ落ちた。
 しばらく茫然とみつめていた母親は、やがて諦めたように位牌を仏壇に納めなおした。
 船頭が鍬ヶ崎の湊へ戻ってきた。
 土産をたずさえて家へ着くと母親の姿しかみあたらない。
 「妻は?」
 問う船頭に、
 「きょうは五七日だぁが」
 と老母は仏壇へ導いて事のしだいを語った。
 船頭は嘆き悲しみ、その足で常安寺へ向かった。
 和尚にねんごろに弔いを頼むと、娘の墓を詣で、墓になにか語りかけていた。
 そうして着物に襷をかけ、持っていた小刀で腹を切った。
 気づいた寺の小僧が老母へ知らせ、慌てて近所の人といっしょに駆けつけたとき、すでに船頭は息絶えていた。
 老母は襷を見て驚いた。
 「不思議なことがあるもんだぁ。
 この襷、棺桶に入れでやった、娘の腰帯だぁが」
 まわりの人がぞっとした思いにとらわれているうち、老母は襷をふところに、ふらふらと姿を消してしまった。
 その夜、なにか独り言をつぶやきながら宮古や鍬ヶ崎の町筋をさまよう老母の姿を見たものが何人もいたそうだ。
 娘の墓のかたわらで、花の散った桜の木に襷をかけて首を吊っている老母を和尚がみつけたのは、その翌朝のことだった。
 
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■ 自転車通学
 
 宮小6年のときに下千徳へ引っ越した。
 親が営んでいた八幡通りの店はそのままに、住まいを新たにつくって移った。
 市役所に届け出る住所は店に置いたままだったから、千徳小学校の学区に移っても、そのまま宮小へ通った。
 数ヵ月間マイカー通学だった。
 父親は家をつくると車を買った。
 大衆車、日産サニー。
 店に行く父親といっしょに家を出た。
 校門に車を乗りつけるような親ではなく、末広町で降ろされた。
 中学生になって自転車通学に切り替えた。
 岩田自転車屋が当時は中央通りの黒田町と新町が接する角にあった。
 店頭に並んでいたセミドロップ・ハンドル、5段変速の軽快車を買ってもらった。
 自転車通学には、学校までの距離が何キロ以上という制限があった。
 家から4キロ、15分ぐらいだった。
 正規のコースは昔の国道106号を東上して近内橋を渡り、県北バス営業所前から舘合の切通し坂を登る。
 栄町、米協の角を南へ曲がって女学校踏切を渡る。
 八幡さまの鳥居をくぐり、正門に着く。
 いまは米協がなくなり、丁字路が十字路になり、踏切が出逢い橋に変わった。
 丁字路が道になったあたりには蒲団屋さんかなにかがあった。
 一中の正門を入ると、本校舎の玄関に向かって右、西側に自転車置き場があった。
 駐輪場という言葉は当時はなかった。
 自転車置き場に置いておくとイタズラされた。
 買ったばかりのピカピカの自転車は特に狙われた。
 携帯の空気入れが盗まれる、ライトが壊される、パンクさせられる、サドルを切られる。
 入学したては自転車をイタズラされるなどと思いもしなかった。
 なるほど、中学校とはそういうところなのか、と変に納得するところもあった。
 学校に被害を届けたことはなかった。
 国道を走るのは怖かった。
 幅が狭く、バスが通り、トラックが多い。
 ほとんどのトラックは追い抜くときに距離を開けない。
 右脇ギリギリを通過するトラックの風圧、威圧感はなかなかのものだった。
 幅寄せしてくるトラックもあった。
 いちど側溝に落とされた。
 側溝の角で足首を切り、ギザギザの傷が残った。
 
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■ 痛恨の体育祭
 
 体育祭――
 と宮古一中では呼んでいたと思う。
 毎年おこなわれていたはずなのに、2年生のときの体育祭しか記憶にない。
 痛恨の体育祭だった。
 部活はテニスでハードな練習をしていたから体育会系といえば体育会系だが、体育はあまり得意ではなかった。
 マイペースで楽しみながらやるのが好きだった。
 競技というのは概して苦手だった。
 走るのも速くなかった。
 それが、なぜかリレーの走者に選ばれた。
 レギュラーではなく補欠だった。
 3人補欠がいたから、自分が走ることはないと安心していた。
 競技が始まる直前になって、レギュラーのひとりが走れないと言いだした。
 補欠のなかから、ぼくが繰り上げで走ることになった。
 正直いって走りたくない、冗談じゃないと思った。
 それでも駄々をこねる場面ではない、白羽の矢が立ったからにはしかたない。
 スタートは逆さイチョウの東側。
 リレーは体育祭の花形種目だから声援がすごかった。
 コース1周は400メートルだったろうか。
 長かった。
 最後のコーナーを回るとき、体がぐらつき、足がもつれ、前のめりに転倒した。
 なにが起きたか、よくわからなかった。
 動転して立ち上がれなかった。
 スタート地点からバトンを渡すはずのランナーが逆走してきて、ぼくの手からバトンをとって走り出した。
 ルール上、許されることかどうか。
 たぶんだめだろう。
 同級生に抱えられてコースを出た。
 恥ずかしかった。
 倒れたのも無様だが、起き上がって走りだせなかったことのほうが恥ずかしかった。
 南校舎2階の教室に戻ると、ひとりの女子と目が合った。
 「だらしない!」
 という目でぼくを見た。
 体育祭が終わってしばらく、クラスのみんなに顔向けができなかった。
 面目ないという感じをいだいた、初めての経験だった。
 
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■ 切れぎれの記憶 一中篇
 
 宮古市立第一中学校のグラウンド南西隅、八幡土手の下には土俵があった。
 体育の時間に何度か相撲をとった。
 土俵の西に1軒か2軒の民家があった。
 民家と土手のあいだは畑になっていた。
 土手を越えた川原に小舟がつないであったから川漁ででも生計を立てているのだろうかと考えてみたことがある。
 土俵や民家のあったあたりは〈いちょう公園〉になって在学当時とは趣きが変わっている。
 1974年(昭和49)に設置されたらしい。
 逆さイチョウにもとづく命名だ。
 逆さイチョウは市の天然記念物に指定されている。
 一中の校庭でいつも目に入ってくる大きな存在だから、一中の象徴といっていい。
 太い幹は根もとが割れて人が通れる。
 この空洞や幹の陰は男子の更衣室代わりになった。
 空洞の内側が黒焦げになっているのは、だれかが焚き火をして燃えたあとだと聞いていた。
 雷が落ちて割れ、なかが焼けたのだという説もあるとあとで知った。
 逆さイチョウの北側には、八幡さまの山下に沿って、桜の並木があった。
 東側の道路沿いにも桜が並んでいた。
 桜の木をゴールにして昼休みにはサッカーばかりやって遊んだ。
 雪のなかでもやった。
 あれだけ盛んなのにサッカー部がなかった一番の理由はグラウンドに余裕がなかったからだろう。
 河川敷を利用して同好会ができたのは2年のときだったと思う。
 正門から入って左の奥に生徒の出入口があった。
 本校舎と講堂のあいだに、ずらりと下駄箱が並んでいた。
 裏に廊下があり、たしか音楽室がこのあたりにあった。
 音楽室で、小国先生が昼休みにピアノを弾くのを聞いていたという光景が浮かんでくる。
 なぜそんなことになったのか、いきさつは忘れてしまった。
 南校舎へ行く渡り廊下の手前には、実技室だったか技術室だったか、工作機械などが置かれた部屋があった。
 技術の時間にブックエンドや文鎮を作った。
 ブックエンドはいまも使っている。
 
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■ 逆さイチョウ
 
 逆さイチョウの所在地は宮町(みやまち)2丁目5番7号。
 宮古市立第一中学校の所書きと同じだ。
 宮古を代表する巨樹・古木のひとつで、秋の黄葉はみごとだ。
 1957年(昭和32)12月25日に市の天然記念物に指定された。
 指定名称は、逆さイチョウではなく、単に〈公孫樹〉。
 2001年(平成13)12月25日の日付で市の教育委員会がかたわらに案内板を立てている。
 ――イチョウは現存する植物のなかで最も古くからある樹木のひとつ。
 今から1億6000万年ほど前の中生代ジュラ紀から世界各地で生育していることが知られる。
 公孫樹はイチョウの漢名。
 老木にならないと実を結ばないところから孫の代に実る樹木という意味でこう表わされるようになった。
 雌雄異株で、雄株には黄白色の雄花が見られ、たくさんの花粉嚢がある。
 また雌株の枝には、細長い柄の先に2個の胚株があり、受粉して成熟すると秋に銀杏〔ぎんなん〕が実る。
 この公孫樹は、高さ18・5メートル、根もとは周囲12・4メートル、枝は幹から四方に10メートルほど広がっている。
 幹は束生し、太い幹が4本、細い幹が4本ある。
 根もとの中心は空洞になっている。
 その周りには焼け焦げた跡のある古い根株が残っている。
 樹齢は不明。
 現存している公孫樹は、初代から代を重ね、先代の根株から萌芽したものと考えられている。
 〈さかさいちょう〉とも呼ばれ、伝説に彩られながら長い年月のあいだ守られてきた。
 そして今も、その枝葉のなかに物語を秘めながら四季折々の姿をみせている。
 以上が案内板からのおおよその引用。
 樹齢不明というのは残念だ。
 性別はオス。
 メスだったらギンナンがとれたのに。
 もっとも熟すと強烈にくさいから、あの大木がメスだったら秋にはにおってたまらなかったかもしれない。
 そういえば正門のそばにメスのイチョウがあった。
 小さな木だったけれど、熟して落ちた実を踏んづけるとくさかった。
 
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■ 荒谷沼 ――宮古の昔話18
 
 昔の話すっこだぁが。
 田老の清水畑(しみずはた)でのこったぁ。
 ある家さ、びちょんこに濡れだ若(わげ)ぇもんがやってきて、戸をどんどんど叩(たで)えだんだ。
 そんどぎ親はいんなくてさ、十五、六の娘っこがひとりで留守番してだった。
 誰だぁべ?ど思って戸をちょぺぇっこ開げでみだっけば、見だごどもねぇ、びちょんこの若ぇ男(おどご)がいだんで、驚(おでれ)ぇだ娘っこが、
 「なんだぁべ?」
 って、ちっちゃな声で聞いでみだっけば、その若ぇもんは、
 「宿を借してけんねぇべぇが」
 って喋(さべ)ったぁもんだ。
 親もいんねぇのにさ、知らねぇ、びちょんこの男をす、まさが家さ上げるわげにはいがねぇべ。
 だがら娘っこは断わったぁ。
 そしたらす、若ぇもんは戸を開げで家んながさ入ってくっぺぇどしたんだど。
 驚ぇだ娘っこは、そんどぎちょうど着物をすとねで(繕って)だったんで、持ってだ針をす、思わず若ぇもんの胸さ向げだ。
 そうしたら簡単に突ぎ刺さっでしまった。
 その若ぇもんは、声もあげねぇで逃げでったんだ。
 夜になって親が帰(けえ)ってきた。
 話を聞いだおっとぉは驚ぇで、つぎの日の朝になったら村の人がどうど糸をたどってみだんだ。
 糸は、どんどんどんどん隣りの村の沼までつづいでだった。
 荒谷(ありや)沼っつう名前だった。
 糸の先には丸太のようにふってぇ、でっけぇうなぎがいでさ、その大うなぎは、はぁ死んでだった。
 「ありや〜! でっけぇうなぎだぁが」
 「なんでこんなんのが男さ化げで家まで来たぁべ」
 みんな驚ぇで、ああでもねぇ、こうでもねえど喋りあったぁども、なにもかにも、わげつがほうでぇで、わがんねぇ。
 大うなぎは、気味が悪(わり)ぃがら、沼さ投げどいだんだ。
 そしたらさ、腐って、なぐなってしまった。
 荒谷沼には昔っからうなぎがいだんだぁども、そんどぎがら一匹も獲れなぐなった。
 その荒谷沼もす、いづのまにか水が涸れで、草がぼうぼうど生(お)えですまって、どごが沼だがなんだが、わげつがほうでぇになっちまったぁづう話すっこだ。
 
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■ 仰げば尊し 宮高篇1
 
 宮古高校の担任の先生は1年が英語の菅原先生、2年・3年が同じく英語の相山先生だった。
 この二人の恩師については以前に「宮高時代」と題した文章でふれている。
 こんどは担任以外の先生について書こう。
 仰げば尊し、わが師の恩――
 いちばんの恩人は3年のときの数学の先生だったかもしれない。
 なにしろ期末試験で落第点しかとれなかったのに卒業させてくれたからだ。
 恩人なのに名前が思い出せない。
 大柄で色の白い先生だった。
 講義が熱を帯びてくると赤ら顔になった。
 テンポがよかった。
 そのテンポのよさに、ついてゆけなかった。
 (後記 斉藤先生だった)
 1年か2年のときの数学の先生も名前が思い出せない。
 小柄で丸顔の先生だった。
 坦々とした授業で、ぼくには退屈だった。
 数学の点数は年を追うごとに下がっていった。
 あんなに難しい内容を、どうして覚えなければならなかったのだろうと思う。
 物理は後藤先生だった。
 眼鏡をかけた、小柄で親しみやすい先生だった。
 試験の前日、わからない点があったら質問しなさいというので、いちばん理解できなかったところを訊いた。
 先生は一瞬ひるんだ様子を見せ、それから丁寧に教えてくれた。
 それが試験の大半を占める大きな設問だった。
 試験用紙を見て「やった!」と声をあげた。
 先生と目があった。
 眼鏡の奥で、なんだか苦笑していた。
 理数系で満点をとったのは、あとにも先にもあのとききりだ。
 満点といえば国語でとったことがある。
 当時の宮高は、あまり受験勉強に熱を入れる学校ではなかった。
 それでも3年の夏休みに特別授業があった。
 自由参加で、国語を受けた。
 その最後に成果を確認する試験があった。
 夏休み前に「学燈」という受験用の雑誌を買った。
 試験はその雑誌にある問題が、そっくりそのまま出た。
 自分でやってみて答えはすべて頭に入っていた。
 満点の答案を返されるとき先生と目が合い、思わずにやついた。
 先生は、なんだか苦笑していた。
 手抜きの問題を出したのを知られたとわかったのだろう。
 
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■ 仰げば尊し 宮高篇2
 
 体育の先生とは、相性というか、どうも微妙なところで折り合いが悪かった。
 1年のとき柔道と剣道の選択授業で柔道をやった。
 態度が悪かったのか、先生に練習の相手をさせられた。
 ばかりか、いちど落とされた。
 頚動脈のあたりを絞められ、気絶させられた。
 新任の小柄な先生には体育館の掃除中にモップの掛け方が悪いといって足にバスケットボールをぶつけられた。
 ちょうど足を怪我して引きずってしか歩けなかった。
 抗議すると、すたすたとスリッパの音をさせて体育教員室のほうへ行ってしまった。
 健康診断のとき廊下で順番を待っていた。
 ほかの生徒が声高に話していた。
 健康診断の部屋から落合先生が戸を開けて出てくるなり「うるさい」と怒鳴って、ぼくに突っかかってきた。
 思わず逃げ出した。
 先生はちょっとの距離、血相を変えて追いかけてきた。
 そのほかに思い出に残っている先生をあげていこう。
 自衛隊の船が鍬ヶ崎に入った。
 級友3人で見にいった。
 組合活動に熱心な先生たちが1万トン岸壁に集まって抗議行動をしていた。
 そのなかに日本史だったか地理だったかの先生がいた。
 顔が合って睨まれた。
 ぼくらは無視して船に乗り込んだ。
 その後ぼくらとの関係はよそよそしいものになった。
 八幡さまの鳥居のまえに食堂があった。
 3年のとき級友4、5人でラーメンを食べながら喫煙していた。
 倫社の先生が入ってきた。
 ぼくらを見るなり、「なにも見なかったことにしよう」とだけ言って出ていった。
 ぼくらの好きな先生だったので、その一言はきいた。
 以後、学校のまわりで喫煙することはなかった。
 コタス先生というアメリカ人がいた。
 英会話の受け持ちで、英語しか使わなかった。
 生徒がふざけて炬燵先生と呼んだら、ずいぶん怒った。
 もちろん英語で。
 1年のとき美術の百瀬寿先生が赴任してきた。
 長髪をなびかせ、たしかアメリカ留学から帰ったばかりだった。
 グラデーションを使った抽象的な版画を創作し、新聞に何度もとりあげられている。
 
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■ 仰げば尊し 宮高篇3
 
 東大出という噂の先生がいた。
 ふだんは決して生徒と目を合わせない。
 ひとりで宙を見ながら講義し、板書し、終業のベルが鳴るや一礼して出ていく。
 生徒が少しでも無駄話をしたり音を立てると、それまで宙にさまよわせていた目を据えて生徒をキッと睨みつける。
 板書しているときは振り向きざまチョークを投げつけて睨む。
 そして生徒につめよって無言で唇や身をぶるぶる震わせる。
 これは怖かった。
 この先生が、夜、飲み屋の横丁から、べろんべろんに酔っ払って出てくる姿を見かけたことがある。
 よろめき歩き、電柱にもたれかかっては、なにごとかぶつぶつとつぶやいていた。
 たった一度の接触で記憶に残っている先生がいる。
 不思議なものだ。
 放課後、たまたま日が沈むまで教室に残っていた。
 先生が見回りに来て、「早く帰れ」と言った。
 色の白い先生で、その白さが薄闇のなかで際立った。
 名前もシラトかシラトリか、白がついた。
 色白といえば、新任の女先生がいた。
 直接に習ったことはない。
 図書室で本を読んでいる姿を何度か見かけた。
 眼鏡をかけ、大柄で、静かな、落ち着いた雰囲気があって、大人のエロティシズムのようなものを感じさせた。
 たしか、2年のときに保健室に新任の女先生がやってきた。
 いわゆるグラマーで、艶があった。
 数人の若い先生がしきりに保健室に出入りするようになった。
 しょうがねぇなぁという気持ちで見ていた。
 そのなかのひとりと結婚したという噂をあとになって聞いた。
 それが誰なのかはわからない。
 3年のときの副担任は谷地先生といった。
 背が高く、眼鏡をかけて、よく白衣を着ていた。
 受け持ちは地学。
 谷地という苗字と科目が合ってるなぁと妙なところに感動した。
 たしか、その年に化学の助手先生と結婚した。
 (お詫び これは記憶違いでした。次項を参照してください)
 結婚・新婚という私生活上の大きな変化の渦中にあった先生が、教壇ではなにごともなかったように無機質な地学を教えている。
 そこに、なにか、人生の機微のようなものを感じた気がした。
 
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■ 仰げば尊し 宮高篇4
 
 とんでもない記憶違いをしていた。
 谷地先生についてだ。
 「仰げば尊し 宮高篇3」で、谷地先生は〈たしか、その年に化学の助手先生と結婚した〉と書いた。
 その年というのは、ぼくが高校3年のときだ。
 うららさんは、〈谷地先生はすでに結婚されていたような記憶があるのですが……〉と言う。
 HALさんもこう言う。
 〈谷地先生は、いま50歳くらいと45歳くらいの二人の息子さんがおりますので、じんさんが在学中に上の息子さんは同じ高校にいたと思われます。
 もしかしたら、村中先生と谷地先生の記憶が錯綜しているのではないでしょうか?
 お二人ともイメージとしては白衣を着て背が高く、お顔が少々長め。
 違っているのは眼鏡をかけているかいないかです〉
 村中先生は残念ながら記憶にない。
 フルネームを村中義行といい、物理担当で、この先生が化学の助手先生と結婚したのだという。
 谷地先生が化学の助手先生と結婚したというのは、とんでもない間違いだったようだ。
 記憶違いというより、どうも当時から勝手にそう思い込んでしまったらしい。
 なぜなのか、いまとなっては皆目見当もつかない。
 自分が慌て者だったと言うしかない。
 〈結婚・新婚という私生活上の大きな変化の渦中にあった谷地先生が教壇ではなにごともなかったように無機質な地学を教えている、そこに、なにか、人生の機微のようなものを感じた気がした〉うんぬんと前に書いた文章も、ひとりよがりの滑稽なものになってしまった。
 谷地先生、村中先生には深くお詫びを申し上げます。
 失礼いたしました。
 しかし自分にとっての怪我の功名とも言えるのは、書いたことで記憶違いが訂正されたことだ。
 書かなかったら、一生、誤った思い込みをかかえたままだった。
 間違いを指摘してくれた、うららさん、HALさんには、お礼を言わなければならない。
 化学の助手先生は寿枝〔としえ〕先生といったという。
 保健室の先生はOCCOちゃんによると田村浩子先生といったらしい。
 結婚した相手は依然としてわからない。
 
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◇ 仰げば尊し 投稿篇
 
小国先生(一中・音楽)
 
 うららさん曰く――
 「仰げば尊し 中学篇」、とても懐かしかったです。
 小国先生! 私も音楽を教えていただきました。
 華奢で目のパッチリした、肩までの髪が外巻で、いつもちょっと首をかしげた感じでニコッと微笑んでいる、お姉さんのような先生でしたね。
 
斉藤先生(宮高・数学)
 
 “大柄で色の白い先生だった。講義が熱を帯びてくると赤ら顔になった。テンポがよかった。そのテンポのよさについてゆけなかった。”            「仰げば尊し 宮高篇1」より
 
 けむぼーさん曰く――
 たぶん自分が高1のときに数?を習った先生かもと思いました。
 山形出身の方で、汗をかきながら板書し、
 「ハイ……。ハイ……。分かりましたね。……」
 とどんどん進んでいく。
 確かに白い丸いお顔に黒縁眼鏡。
 ときどき問題を当てられ、前に出させられて、黒板に書かせられました。
 ちんたら答えていると、
 「はい、こんな問題に時間かけてたらだめですねー」
 と言われました。
 「名前は、斉藤良夫と申します」
 と最初の授業のときおっしゃいました。
 好きな先生だったのでよく覚えています。
 
 HALさん曰く――
 斉藤先生には私も習いました。
 たしか新任で宮高にやってきたと記憶しています。
 斉藤先生の授業になると2階の教室の上級生が授業の邪魔を仕掛けて、先生は怒りに2階に駆け上がって行ったものでした。
 あの生真面目さが、おちょくるのにちょうどよかったのでしょうね。
 
谷地先生(宮高・地学)
 
 HALさん曰く――
 習いましたよね!
 あの浄土ヶ浜の白いギザギザ岩が石英粗面岩だって。
 教えてくださった先生のお宅が約850歩のところにあります。
 お会いすることはほとんどありませんが……。
 そう、谷地先生です。
 授業中、ダジャレを入れるのは毎年同じところ。
 おまけにテストの問題は先輩から必ずここが出るからと伝えられていて、そのとおりの出題でした。
 おかげさまで地学は良い成績でした。
 点数が良くても残念ながら身についてはいませんがね!
 
谷地先生・悟郎先生(地学・倫社)
 
 OCCOちゃん曰く――
 谷地さんの地学、悟郎ちゃんの倫理は普遍のドラマがあった。
 山岳部に伝わる地学と倫理の教科書にはいたるところに「ここで駄洒落入る」とか「ここで雑談入る」とか、注意書きがあった。
 それがあったので退屈な授業も来るか来るかと待っていたものだった。
 
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■ モーコが来っつぉ
 
 宮古の子どもにとって怖いものといえば、モーコだった。
 「泣ぎやまねぇどモーコが来っつぉ」
 「早ぐ寝んねぇば山がらモーコが来っつぉ」
 そんなことを親や祖父・祖母から言われた体験をもつ人は多い。
 自分の親から言われたという記憶がないぼくでさえ小さいときから知っている言葉だった。
 忘れているだけで実は何度も聞かされていたのかもしれない。
 ぐずって泣き止まないときに、あるいは夜遅くまで起きているときに持ちだされる言葉――モーコが来っつぉ。
 モーコとは、いったいなんだろう。
 モーコは蒙古だという話を聞いた覚えがある。
 むかし蒙古という国が日本を攻め滅ぼそうとして二度もやってきた。
 日本の武士が立ち向かったけれど、蒙古は強かった。
 危ないところを神風が吹いて助かった。
 蒙古は怖いものなのだと。
 調べてみると、蒙古は中国の万里の長城以北にいた遊牧民族で、13世紀の初めにチンギス・ハン(ジンギスカン、成吉思汗)がモンゴル帝国を建て、孫のフビライが中国を統一して元という国をつくった。
 鎌倉時代の1274年(文永11)と81年(弘安4)の二度、蒙古軍(元と高句麗の連合軍)がおしよせて壱岐・対馬を侵略し、博多に迫った。
 が、二度とも西国の御家人を中心とした幕府軍の奮戦と暴風雨によって船の大半を失い敗退した。
 このときの、蒙古という異民族によって日本が攻め滅ぼされかけた恐怖の体験が東北で語り継がれ、現代まで「モーコが来っつぉ」という言葉となって残った、というわけだ。
 そんなことはあるはずがない、と否定し去ることはできない。
 源頼朝によって平泉の奥州政権が潰されたあと、東北の地も幕府の支配下にあって、蒙古来襲という一大事件のニュースは確実に伝わってきた。
 モーコは蒙古だとする説があっておかしくない。
 でも、感覚としては、違う。
 蒙古というような具体的な存在ではない。
 正体がわからない。
 親に聞いても知らない。
 そういう得体のしれないものがモーコだった。
 得体がしれないから怖かったのだ。
 
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■ モーコの正体
 
 得体のしれないモーコの怖さ。
 その正体を探るのは不毛な作業だと感じる一方、興味をかきたてられるテーマだとも思う。
 ムクリコクリという言葉がある。
 九州長崎をはじめとして、けっこう各地で聞かれる言葉のようだ。
 モクリコクリともいう。
 漢字では蒙古高句麗と書く。
 蒙古をムクリやモクリと呼ぶのは無理があるような気もするけれど、元寇のときに「ムクリコクリの鬼が来た」と言ったことに由来し、怖ろしいものの喩えとして子どもを泣きやませるときなどに使うという。
 「泣き止まないと蒙古高句麗が来るぞ」
 「早く寝ないとモクリコクリが来るぞ」
 これは「モーコが来っつぉ」と同じパターンだ。
 モーコは蒙古だという説も一段と信憑性を帯びてくる。
 モーコは狼だとする説がある。
 東北では狼の鳴き声をモーと聞いた。
 鳴き声の主体をあらわす意味でコがついた。
 「モーが来っつぉ」「モーコが来っつぉ」といえば現実の怖ろしさをあらわす言葉だった。
 モーコは山からやってくる。
 狼は家畜や人間を襲って怖れられた。
 神秘的な能力をもっているとされ、山の神の化身や使いとして、お犬と敬われもした。
 近代に入っても東北に狼は多かった。
 宮古市史年表を見ると、1875年(明治8)9月、狼を殺して届けでた者に報奨金を与えるという記事が出ている。
 怖ろしい狼は徹底的に狩り尽くされ、1905年(明治38)を最後に絶滅したとされる。
 自分の単純な考えを少し書こう。
 モーは亡魂のことではないだろうか。
 ふつうボウコンと読むけれど、モウコンとも読む。
 亡者のモウだ。
 物語などに登場する日本の幽霊は両手を胸のまえに畳んで手首から先をだらりと垂れ、「恨めしや〜」と言う。
 まさに「モ〜」と言って出てくることもあったように思う。
 モーやモーコは、この幽霊・亡魂のことではないのか。
 もっと単純に考えてもいい。
 「モーッ」と言いながら両手を頭の上に広げる。
 幽霊の変化形かもしれない。
 襲いかかる仕草で、子どもを怖がらせるときによく使う。
 暗がりなどで突然やられたら、おとなでもびっくりする。
 これがモーコのもとではないのか。
 
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■ セキエイソメンガン
 
 セキエイソメンガンと聞いてピンとくるのが宮古人である。
 石英粗面岩――
 浄土ヶ浜の白い岩や石の名前だ。
 高校の地学の時間に習ったような気がする。
 ためしにインターネットで検索してみた。
 花崗岩に近い化学成分および鉱物成分をもつ噴出岩で、ほとんどが石英と長石とでなりたつ。
 学名の Liparite はギリシャ語の liparos(光っている)に由来する云々と出ている。
 最近は流紋岩と呼ばれることが多いらしい。
 流紋岩では、なんだかガッカリする。
 浄土ヶ浜の白いイメージとはかけ離れてしまう。
 やはり石英粗面岩でなくてはならない。
 石英のイメージが重要なのだ。
 ガラス質で透明な感じが浄土ヶ浜とよく合う。
 粗面岩とはなんだろう。
 詳しい説明は抜きにして事典から引用すると、灰白・淡緑あるいは淡紅色を呈し、ざらざらした感触がある火山岩のひとつだという。
 浄土ヶ浜は白色や灰白色だ。
 昔よりくろずんできたと言う人もいるけれど、そうだろうか。
 光の当たり方しだいで真っ白く見えたり、灰白色に見えたり、灰色に沈んで見えたりする。
 朝日を背にすると黒く、日中の陽光を反射すると白く、夕日を浴びると赤く見える。
 雲の流れや季節の移ろいを敏感に映しだす。
 奥浄土ヶ浜は波のほとんどない静かな石浜だけれど、その石は風化や浸食で石英粗面岩が平たく割れて角がとれたものなのだろう。
 奥浄土ヶ浜からターミナルビルに向かって遊歩道を歩くと、いくつか石浜がある。
 みな白い石だ。
 以前に食堂や観光船の切符売り場やボート乗り場があった砥石浜は物心ついたときはすでにコンクリートで固められていた。
 つぎの小さな浜は背後の断崖から崩れ落ちてきたばかりのような石がごろごろしている。
 いまマリンハウスとボート乗り場がある中ノ浜は一部コンクリートで固められている。
 キャンプ場のあった頃は石浜だった。
 石浜につづく土の斜面には、水の流れる、自然にできたミゾがあった。
 いま遊覧船乗り場のある小石浜の石は……白かっただろうか。
 
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■ 浄土ヶ浜薪能
 
 石英粗面岩の白い岩、赤松の緑、水平線を見はるかす海と澄んで広がる空の青、ハマユリの橙、ウミネコの白、時には赤松の枝に黒いオオタカが羽根を休め周囲をうかがっている。
 絶景の夏――
 そんな浄土ヶ浜で、能が開かれるという。
 真夏の夕方から夜にかけ、篝火〔かがりび〕を焚いて屋外の舞台で演じられる薪能だ。
 浄土ヶ浜薪能と聞くと、なにかゾクッとした快感が走る。
 浄土ヶ浜という幽玄な名。
 篝火の映える絶好のロケーション。
 いままで能という伝統芸能にほとんど関心のなかったぼくでさえ見てみたいと思ってしまう。
 芸能には、それぞれ固有の共感させる力、見聞きする者を感動させる内実がある。
 いっぽうで、それが演じられる場という要素が影響する。
 とくに野外で演じられる場合にそう言えるようだ。
 演者も観客も、その場の雰囲気に染まる。
 場の磁力がうまく作用すれば三昧境に陶酔することができる。
 浄土ヶ浜という魅力的な場所なら、きっといい影響をもたらしてくれるにちがいない。
 国立公園のなかだから制約はいろいろあるのだろうけれど、できるなら、白い岩肌が篝火に燃えたつような演出を忘れないでほしいと思う。
 初めての浄土ヶ浜薪能で注目したいのは、仕舞と子方を地元から公募した小中学生が演じることだ。
 仕舞とは独立した見せ場をひとりで演じる重要な役。
 子方は「船弁慶」の義経役だろうか。
 田老町・新里村と合併して生まれた新生宮古市の一周年記念行事だという。
 一回で終わらせず何年もつづけてほしい企画だと思う。
 
 日 時 2006年8月5日(土)
 場 所 浄土ヶ浜特設会場
 開 場 午後4時
 開 演 午後5時30分〜8時
 演 目 能 船弁慶(宝生流) 狂言 仏師(大蔵流)
 入場料 A席3000円 S席4000円
 問合先 小成ぶんぐ館 ?0193‐63‐5517
 
 ⇒ 浄土ヶ浜薪能 *リンク切れ 消滅したようです
   http://ww51.et.tiki.ne.jp/~m-kyoukai/nou/
 
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■ 福乃湯廃業
 
 銭湯の福乃湯が廃業したという。
 「みやごのごっつお」サイトの掲示板に5月8日(2006年)、shiratori さんが写真を掲げて知らせてくれた。
 福乃湯は大通1丁目2番1号、中央通りのホテル熊安の向かい側、南へ入る路地の南西角地にある。
 あの路地には、なにか呼び名があっただろうか。
 中華蕎麦の安倍屋〔あんばいや〕、餅の三河屋のある通りの、一本東側の細い道だ。
 福乃湯の出入口は、その路地に面している。
 shiratori さんが撮った写真には、入口のサッシの引き戸に廃業を告げる貼り紙が2枚貼られている。
“お客様各位へ
 長い間休業いたし、ご迷惑をおかけいたしました。
 お許し下さい。
 諸般の事情により60年の長きに亘ってきた営業を廃止する事に相成りました。
 どうぞご了承下さい。
 誠に有難うございました。 福乃湯”
“お願い
 湯道具、下駄箱の下においていますので、お持ち帰り下さい。
 よろしくお願い申し上げます。 福乃湯”
 諸般の事情というのは、おもに入湯客の減少と燃油高なのだろうか。
 客が減っているのは以前からにしても、最近の急激な原油高を機に全国的に廃業を決断する銭湯が増えているそうだ。
 毎日通う常連さんは湯道具を脱衣所においていた。
 貼り紙からも感じられたが、
 〈廃業に関してお馴染みさんに大変丁寧な対応だったそうです〉
 とshiratori さんは書いている。
 福乃湯の近くに住んで思い出も多いという。
 子どもの頃、友達とよく行って湯舟で泳いだりしたこと。
 プロレスの放送が始まった頃、その時間帯は空いていたこと。
 高校の頃になると湯上がりに大きな鏡に向かって筋肉を動かしたりしたこと。
 男湯のタイル絵は尾形光琳の紅白梅図だったこと――
 銭湯に通った人には共通の思い出もある。
 その銭湯がなくなるのは残念だ。
 
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■ 銭湯の思い出
 
 新町に住んでいたころ、福乃湯に通った。
 幼稚園に入る前のことで、当時のはっきりした記憶はない。
 そのあと八幡通りに引っ越して福島湯のほうが近くなり、福乃湯にはほとんど通わなくなった。
 去年、一昨年と、帰省したおりに福乃湯も福島湯も写真に撮った。
 宮古の町並みも変わらないようで変わっている。
 これからも思い出のある建物がどんどん消えてゆくのだろう。
 福乃湯の建物はすぐ取り壊されるのかどうか――
 それでも福乃湯に湯桶を抱えた人が出入りする姿を見ることはもうない。
 そういえば、高校卒業後に帰省したとき、ある喫茶店のマスターの奥さんが福乃湯から出てくるのに出会った記憶がある。
 自宅はどこか知らなかったけれど福乃湯の近所だったのだろう。
 高校時代からよく通った喫茶店だった。
 マスターがひとりでやっていた。
 ある日行ったら、カウンターのなかに女の子がいる。
 可愛い子を雇ったなと思ったら、女房だと紹介された。
 彼女がカウンターに入ることは少なかった。
 それでもときどきいた。
 マスターがいるより嬉しかった。
 たしか福島出身の人だった。
 福乃湯の前では洗面器を抱えた湯上がりの彼女とばったり出会い挨拶めいた言葉をふたことみこと交わした。
 ただそれだけのことだったけれど、喫茶店はとうになくなり、福乃湯も廃業したいまとなっては貴重な思い出になった。
 銭湯には3日に一度くらいしか行かなかった。
 小学3年まで母親と女湯に入った。
 途中で男湯に行ったりした。
 番台の前がカーテンの仕切りになっていた。
 4年生になると男湯に入るようになった。
 男湯ではクリカラモンモンの刺青を彫った人も見かけた。
 湯舟につかりながらまじまじ見た。
 怖いという気はしなかった。
 湯から上がると脱衣所の仕切り越しに母親に声をかけた。
 牛乳を飲むこともあった。
 タオル、石鹸、へちまなどは小さな湯桶に入れて持ち帰った。
 よく途中にある第二常盤座に立ち寄ってウインドウのスチール写真を見た。
 あのへんはパチンコ屋もあって賑やかだった。
 冬は体が冷えないよう寄り道せずに小走りで帰った。
 八幡通りから引っ越して銭湯に通うことはなくなった。
 
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■ ブログ魚菜市場日記
 
 宮古発のブログ「青年部長の魚菜日記」を最近よく見にいく。
 この春、魚菜市場青年部の部長になった人が、4月12日に立ち上げたばかりの新鮮なブログだ。
 日記と銘打つだけあって、定休日以外は毎日のように更新されているようだ。
 一日に何回か更新されるときもある。
 写真で、おもに魚菜市場内の店舗、その日の目玉商品などを紹介している。
 食堂や、カゴを担いできたおばちゃんたちが売っている生産者売り場もとりあげている。
 活気にみちた市場だから話題には事欠かないのだろう。
 見ていて飽きない。
 宮古でいまなにが旬なのかがよくわかる。
 それにしても、覗きに行くたびに更新されているのは楽しい。
 市場には新鮮さが求められる。
 ブログも同じだなと思う。
 5月13日には第1回プレゼントクイズという企画が掲載された。
 マス(鱒)の顔写真が3枚出て、その種類を当てる。
 ヒントは、大目○○、真○○、○○らマス。
 宮古での一般的な名称で答えるというものだった。
 賞品がすごい。
 締め切りの翌日に市場に並んでいた旬の食材10点セット、総額6530円(魚菜市場価格)相当。
 賞品を提供した商店や値段も載っている。
 ?太田屋肉店の特選岩手和牛肩ロース200g2100円
 ?岩船商店の手造りゾウリガレイ550円
 ?三浦商店の手造りセイダガレイ1000円
 ?島香商店の特製煮ダコ330円
 ?後藤商店のドンコ2尾500円
 ??やまひで商店のナメタガレイ300円と塩わかめ650円
 ?坂幸商店のアブラボウ(沖油目)600円
 ??ひらい商店のダラボウとシドケ500円
 難をいえば、マスの種類を見分けるという問題は素人にはむずかしい。
 それに締め切りまで1日しかなかった。
 で、結果は、応募総数1名、正解者なし。
 賞品は、当たらなかったけれど〈勇気をもって応募した〉1名の人に、その日のうちに宅急便で送られたらしい。
 敢闘賞と、第1回プレゼントクイズ記念賞の意味をこめて。
 賞品を得た果報者は、いったい誰なのだろう?
 
 ⇒ 青年部長の魚菜日記
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■ 亀ヶ森の一本桜
 
 5月20日、shiratori さんの「マスター写真館2」に亀ヶ森の一本桜の写真が何枚か載った。
 15日ごろから咲き始めたという記事がネット上のニュースに出たから、そろそろマスター写真館に載るかなと思っていた。
 去年も載った。
 ことしは厳冬だったせいか、ずいぶん遅れた。
 マスター写真館に載った桜は満開だ。
 きれいな紅色の花をつけている。
 写真で見ているだけで溜め息が出てくる。
 写し方がいいからに違いないけれど、一本桜自体、ほんとうに見事な木なのだろう。
 実物を見たことはない。
 田代の亀ヶ森牧地、標高は約800メートル。
 その東斜面にそびえる一本の山桜。
 大きくて、新聞の記事によると、高さは約6メートル、幹回り3・5メートル、枝の広がりの幅は15メートル。
 高地にあるから市街地の桜より10日か15日ぐらい遅れて咲く。
 種類は不明としている記事が多い。
 樹齢も不明。
 100年だろうか、200年だろうか。
 田代の山のなかで永い歳月を生きてきた。
 最近、見物に訪れる人間が増えてびっくりしているかもしれない。
 道路に案内標識を立てたり、もっと観光名所として周囲を整備しろという意見もあるようだ。
 いっぽうで、たくさんの人に根が踏まれて老木の寿命が短くなることを心配する人もいる。
 ぼくとしては、人の姿のない山のなかで、ひっそり咲いていてほしい。
 静かに咲き誇るそのたたずまいを、いつか遠くから眺めてみたい。
 一本桜のまわりには、高原らしく白樺の林が点在している。
 田代には石割白樺もある。
 shiratori さんのブログにそのことを書き込んだら、kame さんという未知の方が、ぼくの伝言板に写真を載せてくれた。
 亀ヶ森に住む kame さんだろうか。
 田代の石割白樺は、いまはなき亀岳中学校のホームページに紹介されていた。
 亀ヶ森へ向かう道端の高いところに、ひっそり立っている。
 一本桜ほど知られていないけれど、石割白樺にとっては、そのほうが静かでいいかもしれない。
 
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■ 端午の節句
 
 ことしの5月31日は旧の5月5日にあたる。
 端午の節句だ。
 旧暦の節句をまえにして商店や魚菜市場の生産者売り場(農産物直売所)などには菖蒲や蓬が並ぶ。
 菖蒲と蓬をいっしょにした束が一つ100円くらいだという。
 菖蒲や蓬には病気や魔物を封じる霊力があるとされ、軒下に差したり、風呂に浮かべる。銭湯でも菖蒲湯がある。
 餅屋には柏餅が並ぶ。
 柏の葉は春に新しい葉が出るのを待って古い葉が落ちる。
 老いから新生へとバトンタッチがうまく繋がる。
 そこから、代々子孫が栄えるようにという願いと縁起をかついで、柏の葉に団子餅をつつんで食べるようになったらしい。
 実際、大きな柏の葉は古くから食物をつつむのに使われていた。
 葉守りの神が宿るともいわれ、実用と縁起を兼ねたものなのだ。
 柏餅のほかに、お蒸かし、とろろ飯、お煮しめと、いろいろご馳走も食べる。
 お蒸かしは、お強(こわ)ともいい、甘い小豆をいれた赤飯が多い。
 とろろ飯は麦とろで、麦飯か米に麦を混ぜる。
 お煮しめには、こんぶ、ごぼう、にんじん、しいたけ、大根、里芋、焼き豆腐、こんにゃく、竹輪などを入れる。
 宮古独特の風習として、端午の節句にホッキガイの刺身や、お吸い物を食べる習慣がある。
 おもに湾岸地域でのことらしい。
 ホッキガイは寿司ダネによく使われる。
 北寄貝と書き、単にホッキとも呼ぶ。
 調べてみると、標準和名はウバガイ。
 漢字では姥貝・雨波貝などと書くらしい。
 銚子あたりから北の浅い海の砂に棲む二枚貝で、殻は長さ8〜10センチほどに成長する。
 アサリを大きくした感じだ。
 端午の節句をまえに磯鶏や津軽石の前浜で年に2〜3日だけホッキ漁が口開け(解禁)になる。
 さっぱ船から、突き金(がね)とか突き手と呼ばれる、金属製の爪が先についた長さ4〜5メートルの棒で海底を探り、貝を挟んでとる。
 宮古湾の風物詩だ。
 端午の節句にホッキを食べるのは、たまたま旬の時期が重なっていることもあるのだろう。
 一念発起に掛けたとか、そんな縁起かつぎもあるのかもしれない。
 
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■ 銭湯・福乃湯の盛衰
 
 福乃湯が廃業したという文章を書いたら、ゴールデンウィーク明けには、もう建物が解体されてしまった。
 跡地は駐車場になったらしい。
 ちょうど道交法が変わって駐車違反の取り締まりが厳しくなった。
 一時駐車場も必要かもしれない。
 それにしても、駐車場ばかりが増え、がらがらの町並みになるのは寂しい感じがする。
 5月21日付の読売新聞岩手版に“自慢のタイル画に別れ 宮古で60年”という福乃湯廃業の記事が載った。
 記事を読むと、福乃湯の盛衰は、そのまま戦後の銭湯の盛衰に重なっている気がする。
 福乃湯は1940年(昭和15)ごろ、前からあった銭湯を買い取り、屋号を替えて開業したものらしい。
 福乃湯に生まれ変わって、ほぼ66年後に廃業を迎えたことになる。
 1954年(昭和29)ごろ、いまのご主人に代替わりした。
 数年後に内装を替え、男湯に日本画、女湯には子ども向けに2匹のウサギが跳ねる、横3メートル・縦2メートルのタイル画を飾った。
 そのころが絶頂期だった。
 50年代後半、鍬ヶ崎は日本一のサンマ漁港で全国から船団が押し寄せた。
 市街地の福乃湯にも開店前から船員さんが並び、1日に300人以上の入湯客が来たという。
 70年代、天井を高くしたりといった改装をほどこした直後、オイルショックに見舞われた。
 原油が高騰し、廃材を分けてもらうためにチェーンソーを積んだ車で製材所をまわった。
 その後、内風呂の普及に拍車がかかった。
 最近は大型の入浴施設が郊外にできた。
 平日の倍は入った日曜も客足が遠のいた。
 夫婦で守ってきた番台だった。
 ことしになって70歳になるおかみさんが足を痛めた。
 73歳のご主人が、ひとりで切り盛りした。
 けれど、体力的にきつく、3月末から休業に入った。
 そして廃業。
 1960年代、市内に18軒あった銭湯は、ことし福乃湯のほかにもう1軒が廃業に追い込まれ、6軒に減った、という。
 残っている銭湯を思い浮かべてみた。
 おそらく、旭湯・磯の湯・田の神湯・七滝湯・福島湯・不動園の6軒だと思う。
 廃業に追い込まれたもう1軒というのは、どこだろう?
 
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■ 銭湯点描
 
 宮古の銭湯の所在地や創業年、短いエピソードなど、わずかに知り得たことを店名の50音順に書き留めておきたい。
 まず旭湯。
 所在地は西町1丁目5番16号。
 旧山口川沿いで、川を隔てて看護学院がある。
 ご主人が10年以上前からポメラニアンのチャッピーとリスザルの健太をボイラー室で飼っている。
 犬猿の仲ならず、健太はいつもチャッピーの背中に乗って遊び、客の人気者になっている、という記事が新聞に載ったことがある。
 磯乃湯は磯鶏1丁目3番22号にある。
 1952年(昭和27)の開業だという。
 藤原や磯鶏に砂浜があったころ、夏は海水浴客で混んで大変だったらしい。
 田の神湯は田の神2丁目3番6号、コープ西町の前にある。
 1972年(昭和47)の開業。
 七滝湯は鍬ヶ崎仲町3番18号、鍬ヶ崎の本通りにある。
 漁業関係の客が多く、港に船団が入ると定休日もなにもなかったという。
 福島湯は末広町1番6号にある。
 昭和の初めの開業時からつづく午前6時に開く朝風呂が名物になっている。
 不動園は日影町5番23号、鍬ヶ崎小学校の前にある。
 鍬ヶ崎生まれの伊東祐治が書いて「中央公論」1934年(昭和9)1月号に掲載された中篇小説「葱の花と馬」の舞台として知られる。
 廃業してしまった銭湯も書いておこう。
 銀杏の湯の所在地は南町12番13号だった。
 おそらく鉄道の敷地のかたわらにあった銭湯だろう。
 あのあたりは国道106号のバイパスが通って大きく変わった。
 福乃湯については前稿「福乃湯廃業」などで詳しくふれた。
 富士乃湯は保久田1番17号にあった。
 1935年(昭和10)9月に開業。
 2004年(平成16)ごろに廃業しただろうか?
 緑湯は緑ヶ丘2番7号、みどり公園の北側にあった。
 開業した当初、まわりは田んぼだらけだった。
 宮小正門脇にある消防の3分団が1月15日の裸参りのときに緑湯の柚子湯で体を清めてから八幡神社へ向かい、11月の宮古サーモン・ハーフマラソン大会では参加者の利用が多かったという。
 
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■ 変わりゆく町並み
 
 福乃湯が廃業して跡地は駐車場になった。
 スーパーまるしんが倒産して店を閉め、プラザカワトクが撤退したのはちょっと前になるが、その後、小原楽器店も閉店した。
 ほかに気づいただけでも春日食堂や旅館の八幡館、宮ビルが解体されて更地になり、靴屋のマルマツも解体中だという。
 懐かしい、なじみぶかかった店が消え、町並みが変わってゆく。
 カワトクが閉店したのは去年の8月。
 末広町8番4号、宮古駅前交差点の北東角という一等地が空き店舗のままになっている。
 その対面(といめん)の南西角地にあった八幡館。
 住所は栄町2番1号。
 ことし2月に建物が解体された。
 跡地は駐車場だろうか。
 小原楽器店の閉店は一昨年の10月ごろだった。
 住所は末広町3番18号。
 レコードやステレオ針、ギターや弦、ピックを買った思い出の店だ。
 買わなくても、しょっちゅう店に入ってLP盤をぱたぱたと両手でめくってはジャケットを眺めた。
 建物は残っている。
 中央通りに面したマルマツシューズハウスは向町2番39号、高橋(たかばし)交差点の南東角地にあった。
 ことし5月初旬ごろ閉店し、6月に解体が始まった。
 駅前交差点を北上して第二幹線と交わる北西角地には宮ビルがあった。
 和見町1番1号。
 この建物には、かつて第一映画劇場(宮古東映)があった。
 そのあと長崎屋が入り、宮ビル食品館になり、食品館は栄町にあるキャトルに移った。
 その後しばらく放置され、3月から解体が始まって更地になった。
 その対面、東南角地の三角地帯に、春日という小さな食堂があった。
 第二幹線に面し、裏は旧山口川。
 保久田2番15号。
 去年の11月ごろに建物が解体され、いまは駐車場になっているようだ。
 スーパーまるしんは黒田町7番6号、第二幹線と扇橋通りが交わる北東角地にあった。
 おととし12月に閉店。
 建物は残っている。
 まさに、ゆく河のながれは絶えずして……世の中にある人とすみかとまたかくのごとしだ。           (2006.6.11)
 
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ジャージャー麺の思い出   うらら * 投稿
 
 大学3年のちょうど今頃の季節、母校宮古一中で教育実習生としてお世話になりました。
 専門科目は家庭科でした。
 職員室では実習生という生徒なのに、教室では先生と呼ばれる毎日は緊張の連続でした。
 それでも数日後には受け持ちの生徒たちと仲良くなり、放課後にはいろいろな話をするようになっていました。
 ある日一人の女生徒に、
 「先生は大学を出たら先生になるの?」
 と尋ねられました。
 ドキッとしました。
 資格を活かした職業に就こうと考えてはいたものの、候補としていたいくつかの職種は、自分の進みたい道とは少しズレがあることに気づいていました。
 教職もその中の一つでした。
 「実はやってみたいことが他にあるけれど、収入が安定しないので迷っている」
 と正直に話すと、女生徒は少しがっかりしたような表情を見せ、その後、真っ直ぐ私を見て言いました。
 「先生、収入よりも後から後悔しないようにやりたいことをやったほうがいいがぇー。
 夢に向かっていかないとー」
 ショックでした。
 15歳のストレートなパンチに完全にノックアウトされました。
 忘れてしまっていた大切なことを教えてもらいました。
 教育実習最終日、授業はジャージャー麺の調理実習でした。
 みんな予習した通りちゃんと作ってくれるかな……とドキドキしていましたが、途中であちこちから、
 「先生ちょっと」
 と呼ばれて走り回っているうちに、どの班も時間内にはちゃんと出来上がっていました。
 「先生、すごくおいしーい」
 「うちで作ってみんなに食べさせっぺーすー」
 という声が飛び交いました。
 試食してみると、どの班も本当においしいジャージャー麺が完成していました。
 みんなの満足な笑顔に私も大満足。
 教育実習は無事終了しました。
 東京に戻り夏休みの終わる頃、私は卒業後の進路を決めました。
 今でも夏が近づくと懐かしく思い出します。
 おいしかったジャージャー麺とみんなの笑顔を。
 そして、後輩の一中生たちと一緒に過ごした楽しかった日々に感謝しています。     (2006.6.12)
 
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■ てんよ
 
 トコロテンのことを、宮古では、てんよと呼んでいた。
 蒸し暑い季節、砂糖をまぜた緑の黄な粉をかけておやつにしたり、酢醤油につけておかずにした。
 家でテングサから煮て天突きで突きだして食べたという記憶はないから、突きだしたてんよを商店から買っていたのだろう。
 棒状の寒天が台所の一斗缶に入っていたけれど、あれはなにに使ったものか覚えていない。
 ところで、てんよという呼び方を確かめようとしたら、なかなか確かめられない。
 記憶違いかと不安になり、宮古人度の高い人たちの集う「みやごのごっつお」サイトの掲示板に書き込んでみた。
 すると、祖母が使っていたとHALさんが教えてくれた。
 ヘフナーさんも、浜どこではテングサのことをてんよと呼んでいると書き込んでくれた。
 もういちどじっくり確かめようといろいろ資料をあさってみた。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」に、おおむねこんな一節があった。
 前には見落としていたらしい。
 宮古の露店市にふれたくだりだ。
 ――暑くなると、手甲脚半すがたで、冷水に漬けたてんよの桶を天秤でかついで歩く鍬ヶ崎のキセル屋(屋号)のおばあさんが、路上で皿の上にてんよを突きだし、露店の商品越しに店の人に渡す。
 そのすがたは夏の風物詩だった。云々
 「聞き書 岩手の食事」(農文協)という本には、三陸沿岸の項に、てんよの黄な粉かけが出ていた。
 ついでに振り売りについても書かれていた。
 「湾頭の譜」にはなかった売り声が興味深い。
 ――浜の人たちは、夏、てんよを家でつくる。
 同時に売りにも出る。
 うだるような暑い日に、
 「てんよ、てんよー、てんよはよごぜんすかー」
 の売り声も涼しく、桶の冷水に入ったてんよを天秤棒でかついで売り歩く。
 地元の古老の話をまとめたこの本に目を通すと、トコロテンをてんよと呼ぶのは三陸沿岸あたりに限られているのかもしれないという気がする。
 県央や県南の記事にもトコロテンが出てくるけれど、そこではてんよとは書かれていないからだ。
 
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■ てんよの謎
 
 宮古では、トコロテンをてんよとも呼ぶ。
 この点を確認できたところで新たな壁にぶつかってしまった。
 それは、トコロテンを、なぜてんよと呼ぶのかという疑問だ。
 てんはトコロテンのテンにちがいない。
 では、よというのは、はたしてなんだろう?
 これは難問である。
 てんよは天与だろうかとも思ってみた。
 天与は天の恵み。
 トコロテンの天とかけた洒落だ。
 しかし、いまいちすっきりしない。
 このもやもやを解決すべく、また資料をあさってみた。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」や農文協「聞き書 岩手の食事」に語源については書かれていない。
 ネット上にも見当たらない。
 手持ちの事典・辞書のたぐいを引っくり返して、近藤弘という農学博士の書いた「日本うまいもの辞典」(東京堂出版)という本にたどりついた。
 これを読むと、トコロテンはむかしコルモハと呼ばれたらしい。
 漢字では凝海藻とか大凝菜などと書く。
 煮て冷やすと〈凝りかたまる海藻〉という意味だ。
 大槻文彦の「大言海」から引用した一節には、トコロテンはテンと略されるとある。
 関東で、かつてはテンとも呼んだらしい。
 さらに〈ところてん売りは一本半に呼び〉という江戸時代の川柳も紹介している。
 これは〈ところてんや〜、てん〉という行商の売り声をとらえた川柳で、一本半というのは〈ところてんや〜〉で一本、売り声の調子を整えるためにあとにつけた〈てん〉をさして半分と言った。
 ここまできてひらめいた。
 トコロテンをてんよと呼ぶ謎の鍵は、この売り声にあるんじゃないだろうか!
 〈ところてんや〜、てん〉という売り声は、〈ところてんよ〜、てん〉でもいいし、〈ところてんよ〜、てんよ〉でもいい。
 てんだけでトコロテンという意味が通じるなら〈てんよ〜、てんよ〜〉と連呼してもいい。
 〈ところてんよ〜〉よりも言いやすい。
 てんよという名前は、この売り声のてんよが名詞化し、ちょっと前まで宮古あたりで普通に使われていたと考えたらどうだろう?
 
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■ 山小にある石碑
 
 去年の夏、山口川沿いをてくてく歩いていて山小(山口小学校)の敷地に石碑があるのに気づいた。
 なんの石碑だろうと思って近づいて見た。
 敷地は道より高いので少し見上げる格好になる。
 川に向いて建っているその石碑は上のほうが欠けていた。
 欠けた部分の下に〈堤古宮〉と右から左へ、中央に上から下へ〈改築記念碑〉と刻まれている。
 かたわらの標識には〈宮古市史跡 宮古堤記念碑〉と書かれている。
 白地に黒文字のペンキは、かなりはげている。
 詳しく見るには金網をぐるっと回ってゆかなければならない。
 部外者の無断立ち入りが禁じられている敷地に入り込むのも気が引けたので、そのまま立ち去ってしまった。
 市の史跡なのだからインターネットで調べればなにかわかるだろうという思いもあった。
 残念ながらウェッブ上にはなにも手がかりが見つからなかった。
 手持ちの資料にも出ていない。
 最近、ひょんなことから山口小学校のホームページをみつけた。
 コンテンツに宮古堤改築記念碑のことは出ていない。
 創立100周年記念誌「百年千紫万紅」の紹介があったので取り寄せてみた。
 さいわい「山口川に二つのダム」という、記念碑にふれた記事がある。
 堤は土手のことと思っていたが、水量調節用のダムらしい。
 かつて坂庄アパート付近に山口堤、看護学院のあたりに宮古堤というダムがあって、記念碑は1918年(大正7)4月に宮古堤を改築したさいに建てられたものだという。
 山口川の切り替え工事が始まったのは1938年(昭和13)だから、これはその前、まだ山口川が水量ゆたかに町なかを流れていたという時代の話だ。
 記念碑の写真も掲げられている。
 標識の右側面には市の史跡に指定された日付らしい文字が書かれている。
 残念ながら写真の上部が切れて〈十二年三月二十日〉としか読めない。
 ナン十二年三月二十日を手がかりに宮古市史年表で探してみた。
 該当する記事には出会えなかった。
 
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■ 山口川の水争い
 
 かつての山口川は宮古の住民の重要な水源になっていた。
 山口という大字〔おおあざ〕は、北を崎山、西を近内、東を崎鍬ヶ崎の各地区に境を接している。
 分水嶺がそのまま境界線になり、三方から流れくだる水が山口川となる。
 宮園団地の西側を通って南下する主流に、北東から黒森山方面の流れが注ぎ、さらに北西の蜂ヶ沢方面からくる流れが加わる。
 そして泉町の山並みに遮られて東へと向きを変え、宮古の町なかへ流れこむ。
 町なかといっても、かつては田んぼや湿地が多く、そのなかを、ほぼ自然のままに流れていただろう。
 田んぼを埋め立てて末広町の通りができたのは1926年(大正15)。
 宮古駅ができたのが1934年(昭和9)のこと。
 山口小学校の前あたりから主流を南へ切り替え、宮古の町なかを避けて閉伊川に最短距離でつなぐ工事が始まったのは、その後の1938年(昭和13)のことらしい。
 山小の記念誌「百年千紫万紅」によると、山口川の清く豊かな流れは農業・生活用水に使われていた。
 川沿いには水車が並び、穀物を搗く水車小屋は〈搗き屋〉と呼ばれた。
 とくに大きな水車が山口堤のそばにあり、近郷から米を運ぶ馬車や牛車でにぎわった。
 坂庄アパートあたりにあった山口堤と、看護学院あたりにあった宮古堤は、この水の量を調節する重要なダムだった。
 「百年千紫万紅」には、こんな話も載っている。
 明治の初めごろ、干ばつで水不足になって宮古衆と山口衆とのあいだに水争いが起きた。
 宮古衆が取り決めを破って宮古堤に水を引いた。山口衆は怒って水を止めた。
 慌てた宮古衆は、礼装に身を正し、たくさんの手土産をもって山口村の肝入り(村長)に詫びを入れにきた。
 やっと話がまとまって帰る夜道、ひとりがベエゴの糞に滑って尻餅を搗いた。
 連れの手に助けられながら、腹いせに、こう言ったという。
 ――山口衆とベエゴの糞には油断なんねえ。
 
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■ 山口村の権辰
 
 山口川の水争いについては、小笠原善平の「寄生木」に、「百年千紫万紅」にあったのと同じような話が出ている。
 かいつまんで紹介しておこう。
 ちなみに、黒田には一貫して「ほぐだ」という読み仮名がふってある。
 ――善平の何代かまえの祖先に、権辰〔ごんたつ〕という男がいた。
 父を権之丞といい、大兵肥満の人で、南部の殿さまの抱え力士だったが、あまりに強すぎたために毒殺されたそうだ。
 息子の権辰は角力が嫌いで、百姓仕事に精をだすおとなしい性格だった。
 それでも親譲りの強情なところがあった。
 山口村と隣りの黒田〔ほぐだ〕村とがなにか争論して、黒田の者が言った。
 「そんだら山口の衆や、山口川を、この黒田領は流さっしゃるな。
 川が荒れて、黒田村は迷惑だ」
 山口の指揮官・権辰は憤然として、
 「ようござる」
 と答えると、村の若者を集め、土堤〔どて〕を築き、水門を設け、非常の労力をもって黒田領をよけて山口川を閉伊川に注がした。
 苗代をつくるころになると、黒田の田には水がない。
 嘲り笑っていた黒田の衆の顔が、稲とともに色を失った。
 柳樽をさげて総代が詫びにきた。
 権辰は怒った。
 「なんの、おれが腐れ酒の一樽〔ひとつぶ〕や二樽で聞くくらいなら大仕事はせぬ。
 山口の衆にも睾丸〔きんたま〕がござる。
 ご迷惑千万の水は、一滴も黒田領にゃやりませぬ」
 いつもこんな場合に出てくるのが女だ。
 母と妻は口をそろえて言った。
 「これこれ父っちゃまな、そんな道ならぬことなさんなよ。
 物の道理はそうでながんべいよ。
 黒田の衆とは隣り村の仲だぁ、力になる仲だぁ。
 黒田の稲は枯れるべいよ、黒田の衆は困るべいよ」
 権辰がやっとうなずいたので、山口の小川はいまも黒田領を流れている。
 そのとき黒田の総代は使命を果たして欣々と帰る途中、牛糞に滑って晴れ着を泥にした。
 「山口衆と牛〔べこ〕の糞にぁ油断がでぎねえ」という諺が、むかしの黒田、いまの宮古地方に残っている。
 
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■ 山口の歌人、摂待方水
 
 山口公民館のまえに2つの石碑がある。
 ひとつは山口小学校の由来を刻んだもの。
 鴨崎に移転する以前、山小は、この公民館から裏手にかけての一帯にあった。
 もうひとつの石碑は摂待方水〔せったい・ほうすい〕の歌碑だ。
 ――爆音の轟き過ぎし山口の若葉木原にひかりみなぎる
 敗戦間際、宮古が空襲を受けたおりに詠んだと思われるこの歌を刻んで、1996年(平成8)4月に碑は建立された。
 慈眼寺門前の広場にも方水の歌碑があり、
 ――種大根の花をたわわにみだしつつ
       いかづち鳴りて俄雨〔にわかあめ〕降る
 と刻まれているらしい。
 これはまだ確かめにいっていない。
 摂待方水は1915年(大正4)山口村に生まれている。
 本名を基〔もとい〕という。
 1927年(昭和2)山口小学校を卒業し、村役場に勤めていた1936年(昭和11)に徴兵され、満州の国境警備隊に衛生兵として配属された。
 この間に肺結核をわずらい、1941年(昭和16)に日本へ送還される。
 方水という号で本格的に歌を詠みはじめたのは、ふるさと山口で療養生活に入ってからのことだろう。
 水は方円の器にしたがうという言葉に由来する号は、なにか澄みきった諦念のようなものを感じさせる。
 病のせいもあって物静かで恭謙、あまり人前に出ることはなく、晩年は家にこもって読書にふける日々だったという。
 ――すでに深し病はすすみ居りにけり
        遮莫(さもあらばあれ)ながし病も
 など、病との闘いのなかでつくった歌は400首ほど。
 自然を詠んだ、写生的な歌が多いらしい。
 この世を去ったのは、1953年(昭和28)2月6日のこと。
 38歳の若さだった。
 墓は慈眼寺にある。
 死後半世紀近くたって「摂待方水歌集」が刊行された。
 1995年(平成7)9月1日のことだ。
 残念ながら歌集は手に入れていないけれど、ここに掲げたわずかな歌からは、歌集を読んでみたいと思わせる感性のきらめきが十分にうかがわれる。
 
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■ ヤナ印
 
 ヤナジルシ――
 漢字をあてると、屋名印だろうか?
 いわゆる屋印のことを宮古ではヤナ印と呼ぶらしい。
 屋印は、商店・企業の所有物や製品・荷物などを一目で他店のものと見分けるためにつける符丁だ。
 むかし、丸美屋の〈のりたま〉ふりかけが流行った。
 いまも売られているが、発売は46年前の1960年(昭和35)。
 エイトマン・シールがおまけについたのは1963年だという。
 この丸美屋の屋印はマルのなかに美。
 社名と同じだからわかりやすく、袋に印刷された○美の屋印は子どもの目にも印象的だった。
 宮古の大通3丁目に佐々由という魚屋がある。
 近所に住んでいたので店の前をよく通った。
 駅に近いためか、土産用の海産物も豊富に並んでいる。
 この店は創業が1897年(明治30)。
 店名は創業者の佐々木由次郎にちなむという。
 屋印は、○のなかにサで、マルサ。
 サは佐々由の佐に由来するのだろう。
 佐々由は魚菜市場にも店を出している。
 宮古では屋印をヤナ印と呼ぶと教えてくれたのは、この魚菜市場の青年部長さんだった。
 魚菜市場に入っている魚屋さんには、みなヤナ印があるとも言っていた。
 たとえば、
 〇ア=岩船商店  ○水=シーフーズ須藤  ○竹=山崎商店
 ○福=伊藤商店  □久=坂幸商店  □大=島香商店
 ∧勝=後藤商店  ∧○=山口商店  ∧十=大井商店
 順不同、読み方は省略した。
 ○(マル)や□(カク)、∧(ヤマ)などの記号と文字を組み合わせた単純なものが多い。
 一方、∧°の下に小と書く三浦商店、亀甲のなかに△を書く山英商店の屋印など、どう読んだらいいのだろうと、ちょっと首をかしげてしまうものもある。
 もっと不思議なのは、屋印と屋号とがストレートに結びついていない点だ。
 これでは一目瞭然に他店と区別するためという本来の目的からは外れるのではないか、という気もする。
 しかし、あるいはこのへんに、伝統的な屋印の奥深さ、妙味のようなものが存在するのかもしれない。
 
▽ ヤナ印     宮古市魚菜市場の青年部長さん撮影








マルア 岩政 岩船商店
            マルフク 伊藤商店
                       カクキュウ 九重郎屋 坂幸商店









ヤマヒデ さかなややまひで 山英商店
            ヤマジュウ ダイサ 正輔屋 大井商店
                       ヤマコボシ 勘兵ェ屋 三浦商店









マルスイ シーフーズ須藤 須藤水産
           ヤマカツ 後藤商店
                       ヤママル 山口商店
 
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■ サメの身
 
 サメの身といっても鮫の肉ではない。
 宮古あたりでは、マンボウの肉をサメの身と呼ぶ。
 なぜか?
 これが難問である。
 いろいろ資料をあさって山田町の田村一平さんが書いた「三陸の海から 魚歳時記」(岩手日日新聞社)にこんな文章をみつけた。
 ――山田では、マンボウをマンボウザメ、その肉をサメの身と呼ぶ。
 理由を推測すると、マンボウに、ただ一つ鮫と似たところがある。
 マンボウと同類(フグ目)のカワハギもそうだが、ざらざらした鮫肌だ。
 ほかの魚といっしょにすると傷つけるから、獲れるとすぐに皮を剥がす云々
 なるほど、と思う。
 一方、皮が似ているからといって、マンボウの肉をわざわざサメの身と言いかえる理由になるだろうか、という思いもよぎってしまう。
 マンボウをサメ、その肉をサメの身と呼びかえるのは三陸沿岸あたりに限られているようだ。
 三陸ではほかに、ウキ、ウキギなどともマンボウを呼ぶらしい。
 漢字では浮木。
 マンボウの語源をさぐると、円い魚、マルイウオがマンボウに変化したという説がある。
 万宝というお守り袋があって形が似ているところから万宝と呼ばれるようになったという説もある。
 万宝とは縁起がいい。
 熱帯・温帯性で、群れをなさないマンボウは、三陸ではあまり獲れない。
 珍魚の部類に属し、縁起のいい魚として漁師さんに喜ばれるという。
 川島秀一さんの「漁撈伝承」(法政大学出版局)には、こんなことが書かれている。
 ――福島県いわき市の江名というところでは、マンボウは縁起物だから見つけたら獲れといわれている。
 岩手県上閉伊郡大槌町安渡〔あんど〕などでは、漁師はマンボウ様と敬称をつけて呼ぶ云々
 こういう話を知ると、マンボウの肉をサメの身と呼びかえる背景に、いまは忘れられてしまった漁師のあいだでの縁起かつぎ、あるいは禁忌のようなものを想像してしまうけれど、どうなのだろう。
 
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■ 宮古の中華そば
 
 〈宮古の中華そば〉が完成したという記事が先日の岩手日報に載った。(2006年7月13日付)
 〈宮古の特産品を作る会〉が戦後まもないころ宮古の人たちに好まれた味の復活をめざして企画した〈宮古の中華そば〉は、細めの縮れ麺に、宮古産の煮干しや根昆布でだしをとり、市内酒造店の水を使った醤油スープ。
 煮干しの香りが漂い、昆布や野菜の甘みが生かされて好評だったと記事は伝えている。
 〈砂糖不足の時代に好まれた甘い味付けの記憶がよみがえった〉という65歳・男性の感想も出ていた。
 敗戦直後の中華そばは甘味が強かったのだろうか。
 中華そばといえば、小さいころ、割り箸に麺を巻きつけて食べていたという記憶がある。
 味を覚えているのは1960年代で、戦後の混乱期からは、かなり時間がたっている。
 当時、町のふつうの食堂で食べた中華そばは、しょっぱかった。
 醤油色が濃くて、油っこくはないかわりにコクもないつゆは、なかなか飲み干せなかった。
 あまりうまいとも思わず、とりあえず腹を満たせるという消極的な理由で食べていたような気がする。
 一杯40円か45円、そんな値段だった。
 安倍屋〔あんばいや〕の中華そばを知ったのは、中学生になってからだと思う。
 1967年(昭和42)ごろだ。
 中華そばというのはうまいものだなと初めて思った。
 そのうち即席麺、インスタントラーメン全盛の時代になった。
 食堂の中華そばとは別な食べもので、最初はまずかった。
 しだいに舌が慣れ、味もよくなり、塩味・味噌味もでまわるようになった。
 へたなラーメン屋に行くよりインスタントのほうが手軽で安いから、ラーメンは家で煮て食べるものになった。
 いまの宮古に評判のラーメン屋はたくさんある。
 それなのに帰省して外でラーメンを食べるとなると安倍屋へ足が向く。
 ぼくにとって宮古の中華そばといえば、いつまでたっても安倍屋のラーメンなのだ。
 
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■ とうふずる
 
 ことしの熊野神社の祭りは7月22日・23日の土日。
 22日が宵宮で、23日が例祭だ。(2006年)
 熊野神社は宮古港の北の奥、熊野町にある。
 通称はオグマンサマ。
 御熊野様がなまったのだと思うが、奥にある宮、奥宮様の変化という説もある。
 祭神は伊邪那美命〔いざなみのみこと〕で、鍬ヶ崎の旧村社。
 社伝によると、紀州から来て住みついた山根家の氏神が起源とされる。
 1616年(元和2)に山根三十郎という人物が初代の神主になり、いまの場所に移ったのは1781年(天明1)のことらしい。
 古くから海の神さまとして漁師に信仰されていて、祭りはにぎやかだ。
 宵宮では国の重要無形民俗文化財に指定された黒森神楽が奉納される。
 例祭では神輿が宮古港から湾内を対岸の重茂(おもえ)半島北端、閉伊崎まで渡御する。
 曳船祭だ。
 閉伊崎にある黒崎神社をめざし、フライ旗(大漁旗)を掲げた何艘もの漁船が神輿船につきしたがう勇壮な祭りである。
 日立浜の青年漁師ヘフナーさんのブログを見た。
 ことし、3年ぶりに参加するという。
 神輿は午前中に界隈を練り歩く。
 家の前に来ると拝んで御神酒を上げる。
 正午には岸壁で組合の定置網船に載せる。
 おやっと思ったのは、曳き船には、その年、とうふづるが家や親類などにあると参加できないというくだりだった。
 ことしは家に不幸もなく曳き船に参加できる。
 とうふづるが出た家の船は曳き船に出ないで船首にただ旗を揚げて係留される、と。
 こういう禁忌、ルールは内輪のものでないとわからない。
 とうふづるというのはトウフズル、つまり豆腐汁。
 豆腐に野菜か海藻だけで肉を使わない豆腐汁は精進料理の象徴で、その豆腐汁に葬儀・不幸の意味をもたせた独特の表現だ。
 
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■ 豆腐はうんめえ
 
 おつゆ、やっこ、湯豆腐、おでん……
 子どもんどぎがら、ず〜っと食ってきたぁな、豆腐は。
 おつゆは豆腐とワガメの味噌汁ばっかりだったぁでば。
 かあさんのつくるおつゆはす。
 簡単だがら、手抜ぎの意味もあったぁべ。
 それど、具がごちゃごちゃ入ったぁおつゆが嫌いっつうのもあったぁな。
 あっさりしたおつゆが好ぎでさ。
 これぁ、いわゆる嗜好の問題っつぅやづだぁね。
 あっさりしたおつゆには豆腐とワガメの組み合わせがいづばんだったぁのんす。
 それにネギでも刻んで入れでね。
 ワガメでなぐ、マヅモにすれば最高っす。
 近所に豆腐屋さんはあったぁべが?
 ながったぁな。
 ふつうの店屋がらべぇり買ってきたんだぁべ。
 佐々木商店どが鈴木商店どが、川目さん、成ヶ澤さんつぅような個人商店す。
 おれの家のまわりだげだぁべが、豆腐屋がながったのは。
 そんなごどもねぇべぇども、どごさ豆腐屋があったぁもんだぁが、いま考えでみでも分がんねぇでば。
 あのころは、豆腐っつぅど、店屋にあんのは木綿豆腐だげす。
 あどは焼ぎ豆腐すか?
 絹ごしっつぅのは、ながったぁな。
 木綿も絹ごしもねぇ、ただの豆腐す。
 水にひたってで、店のおばちゃん・おじちゃんが汚ねぇ手で掬ぐってけだったぁ。
 鍋もって買いにいったもんだぁが。
 おれも、たま〜に、お使いに出されでね……
 豆腐のごどを考えでだら宮古〔みやご〕弁になったぁ。
 とうふずるの影響だぁべぇども、これも妙なもんだがねんす。
 ほにほに。
 
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■ 栄養豆腐
 
 そういえば、栄養豆腐っつぅのがあったったぁ。
 どごの店屋にもあったったぁ。
 いまでもあっぺぇどもさ。
 あれは、いづごろから、あんもんだぁべ?
 うぢでは、ある日がら、急に食べだしたぁ気がすっともねんす。
 ある日っつぅのがいづだがは分がんねぇ。
 ビニールのチューブさ入ってです。
 真んながを包丁で輪切りにして器っこさ入れんのす。
 切ったぁほうを下にして持ぢ上げっと、中身がつるっと落ぢんだぁね。
 チューブのながさ空気が入んねぇば駄目だったぁ。
 びったりくっついだぁまま、ながなが落ぢでこねぇ。
 ひとりで一本食えっともす。
 真んなががら切っけぇ、なんとなぐ二人分に分げらさんのす。
 いまで言う絹ごしよりやわっこくてねんす。
 醤油をたらっとたらして食べだぁな。
 ご飯に載せでも食ったったぁ。
 ぐちゃぐちゃにして、醤油をたらして、豆腐丼にして食ったったぁ。
 あれぁうんまがったぁ。
 んだぁどもす――
 いま考えっと、栄養豆腐にはひとづ、問題があんだぁね。
 栄養豆腐に問題があったっつぅわげでねぇ。
 食うほうの問題だぁべぇども。
 それはす、こういうごったぁ。
 ふつうの豆腐ど違って、どんなぁどごが優れでだぁもんだぁが?
 栄養の面でね。
 要するにさ、わざわざ栄養豆腐と銘打ったぁ、そもそもの由来づぅものは知らねぇで食ってだぁもんだぁ。
 んだぁがらす、これは考えっと妙なもんだど思うわげす。
 ほにほに。
 
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■ 浄土ヶ浜に熊
 
 浄土ヶ浜に熊が出た、という。
 浄土ヶ浜に熊とは前代未聞だ。
 新聞報道によると8月3日のこと、体長1メートルほどの子熊だったそうだ。
 朝の6時45分ごろ、御台場展望台あたりで家族連れが黒い生き物を見た。
 連絡をうけた自然公園保護管理委員が子熊を確認。
 市役所は午前8時半ごろ防災無線で注意を呼びかけ、御台場への遊歩道を立ち入り禁止にした。
 午前9時ごろにも御台場のあたりで記念撮影の業者さんが熊を目撃。
 さらに北西600メートルの第3駐車場近くで正午ごろ自然保護官事務所の職員が剛台〔つよしだい〕展望台のほうへ走り去る熊を発見し、剛台への遊歩道を立ち入り禁止にした。
 夏のあいだ開設している浄土ヶ浜交番は2人態勢を3人に増やし終日パトロール。
 地元に生まれ住んで50年になる人は、かつて熊が出た記憶はないと話していた、という。
 その2日前、浄土ヶ浜にいた。
 日立浜の通りから民宿大須賀へ入る道へ曲がった。
 ネエノ沢とかネイノ沢と呼ばれる一帯だろうか、細い坂道を登ってゆくと第3駐車場の裏手へ出る。
 そこから浄土ヶ浜道を横切り、剛台に登った。
 曇って視界は悪いが、蛸の浜を眺め、日出島やローソク岩、潮吹穴、姉ヶ崎を遠望した。
 その間、夫婦連れが二組、三脚を担いだ人がひとりやってきた。
 剛台から浄土ヶ浜へおりる途中、はまゆり展望台に寄った。
 林のなかへ分けいった先に、断崖絶壁が落ちこむ手前をロープで仕切っただけの狭い見晴らし場がある。
 施設はなにもなく、人影もない。
 浄土ヶ浜では5日におこなわれる薪能の舞台を設営中だった。
 涼しくて、泳いでいる人の姿もまばら。
 子どもの水遊び程度だ。
 中の浜から御台場、さらにターミナルビル屋上、舘ヶ崎と展望台を巡った。
 自然保護官事務所を訪ねて自然歩道の地図をもらい、臼木山の裾に新しく整備された津波避難路を角力浜へ下った。
 剛台・はまゆり展望台・御台場・舘ヶ崎・臼木山――
 あるいはそのどこかに、デジカメ片手にひょこひょこ歩く一匹の奇妙な生き物を息をひそめてうかがう子熊がいたかもしれない。          (2006.8.5)
 
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■ ツツジ山から青猿神社へ
 
 千徳町に実家がある。
 千徳町というのは千徳駅から東へ徒歩で10分ほど。
 宮古の町に近く、旧国道106号と、その旧国道が通るまえの盛岡宮古街道に沿った一帯だ。
 以前は千徳小学校だった公民館や千徳八幡宮などがある。
 北側の丘陵上には千徳城址があり、八幡宮は南の砦だったといわれる。
 このあたりから古い道を宮古へ行くには、山裾ぞいに太田や長根の集落を舘合へ抜けるか、長根から山を越えて山口におりることになる。
 太田2丁目には、ツツジ山がある。
 個人の持ち山で、南東斜面いっぱいに1000本以上ものツツジが植えられているそうだ。
 50年もかけ、丹精こめて増やしたもので、花の咲く5月・6月にはみごとな光景をみせるツツジの名所だ。
 近内川に架かる本近内橋を渡り、スーパーマーケット――向町にあるマルフジの千徳店まえを過ぎる。
 道は長根の山にぶつかり、右は宮古方面、左は近内・岩船方面へと分かれる。
 近内・岩船方面へ近内川に沿って遡上し、途中で北東へ折れて蜂ヶ沢に至り、さらに東へ山口へと降りる道がある。
 歩くには、ちょっと体力がいる。
 その途中から青猿神社に登り、さらに山を越えて山口へおりる道もある。
 山越え道は車では行けないが、歩くには蜂ヶ沢をまわるよりはるかに近い。
 青猿神社は長根4丁目4番28号にある。
 長根寺の西、長根山の西斜面中腹に位置し、登ってゆく坂道は、かなりきつい。
 社務所の真新しい案内板には、青猿にアオザルと読みが振ってある。
 地元ではアオザリと呼ぶ人が多い。
 通称を住吉サマともいい、江戸時代の1630年(寛永7)に摂津の国、いまの大阪市にある住吉神社から分霊を勧請したそうだ。
 御利益は世界平和・国家安泰・郷内繁栄・海上安全・交通安全・家内安全・進学成就・商売繁盛と盛りだくさんに書いてある。
 例祭は7月第1土曜・日曜。
 国の重要無形民俗文化財に指定された黒森神楽が毎年奉納される。
 ここからさらに山を登った頂上に、ラジオ塔と配水池がある。
 
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■ 長根の山を越える
 
 長根山の中腹にある青猿神社から頂上をめざした。
 民家のあいだの道を登っていったら袋小路に迷いこんだ。
 たまたま家のまえにいた人に道を聞く。
 「近道だっけぇ」と菜園のなかの道を教えてくれた。
 「うぢの敷地だぁども通っていいでば」
 やがて舗装路に出た。
 長根寺のほうへから登ってくる車道だ。
 すぐに、道の左手つまり西に配水池、東にラジオ塔がみえた。
 ふたつ並んだ施設のあいだが終点で、分水嶺から北は山口に落ちこむ谷。
 配水池は、正式には宮古市上水道長根配水池という。
 亀ヶ森のほうからくだってくる水を溜めて配水する施設なのだろう。
 金網で厳重に囲まれている。
 番地は不明。
 長根であることはまちがいない。
 東隣りのラジオ塔の所在地は長根ではなく、山口第6地割字狐崎になっている。
 IBC岩手放送の宮古中波放送局で、アンテナのある建物だけが金網に囲まれ、まわりの敷地は開放されている。
 敷地の草原に入りこみ、ぐるりと周縁を歩いてみた。
 頂上といっても展望はない。
 わずかに北に山口の町並みが見下ろせる。
 配水池のわきから谷にそって小径が延び、木々の波のなかに消えている。
 初めての山道を山口へ向かって歩きだした。
 どのへんに出るかはわからない。
 とにかく、くだってゆけば山口川にぶつかるだろう。
 樹木に囲まれた草むらのなかの道は途絶えることなく続いている。
 不断に利用する人がいる証拠だ。
 しかし人には出会わない。
 出会いたくない存在が頭をかすめる。
 熊だ。
 歌を歌ったり、わざわざ大声でひとりごとを言ったりしながら歩いた。
 宮古の山のなかを歩きまわるには熊鈴が要るなと思った。
 小説「寄生木」の原作者小笠原善平は、同じ道を逆に山口から長根や近内に抜けたかもしれないとも思った。
 10分ほどで展望が開けてきた。
 人家が見え、畑に人影がある。
 おばさんに話しかけてみた。
 長根から山を越えてきたと言ったら、
 「熊が出んがえ。
 おっかなくて、山には入れねぇ」
 車道をくだってゆくと坂の左手に一軒の商店がみえた。
 その背景には黒森山の秀麗なたたずまいがある。
 自動販売機で飲み物を買おうと足をとめた。
 
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■ 黒森さまの導き
 
 長根の山から山口へくだる坂道の途中、商店の自販機で飲み物を買おうとした。
 あいにく飲みたいものが品切れになっている。
 店に入って探したらあった。
 レジのおかみさんに、店の北側に連なる山並みのなか一際きれいな山、
 「あれは黒森山ですよね」
 と話しかけた。
 「そうですよ」
 と言いながら、おかみさんは深くほほえんだ。
 黒森山の方角を見た。
 店のなかからは見えるはずもない。
 かわりに、白い垂れ幕が目に入った。
 大きな字で〈宮古の地酒 黒森大権現 黒森神楽〉としるされている。
 あっと思った。
 「ここは山口ショッピングセンターですか?」
 「そうですよ」
 おかみさんは、またほほえんだ。
 黒森さまのお酒なら岩手日報の記事などで知っていると話した。
 黒森神楽の話もした。
 おかみさんが「ちょっと待って」と言いながら奥にひっこむと、ご主人が出てきた。
 ご主人にも同じような話をし、長根のほうから山を越えてきたことを付け加えた。
 すると、奥からいろいろ資料を持ってくる。
 長根寺や黒森神社についての小冊子、それに、前から読みたいと思っていた山口生まれの歌人、摂待方水の歌集――
 冊子をめくりながら、しばし立ち話が弾んだ。
 「差し上げます」
 えっと思った。
 辞退して、手にしていた冊子を返そうとした。
 「いいんですよ。
 読んでもらえたら親父が喜ぶ」
 おとうさんの名は摂待壮一。
 冊子の編著者、歌集の発行者だ。
 黒森さまのお酒を企画し販売している息子さんは、黒森神社の氏子総代で黒森神楽保存会の会員でもあるという。
 お礼を言って袋に入れてもらった冊子を手にお店を出た。
 坂をくだって振り返ると山口ショッピングセンターの大きな看板が目に入った。
 坂の上から来ると見えない。
 知らずに飛びこみ、ふしぎな出会いをした。
 これはきっと黒森さまの導きにちがいない。
 
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■ 山内魚店
 
 山口ショッピングセンターから坂をくだり、山口川のそばにあるやどり木公園で一休み。
 きょうはほかに予定がある。
 慈眼寺や黒森山には登らず、黒森神社の鳥居のまえから挨拶するだけにした。
 魚菜市場が近づいたころ、なにげなく南に折れる道を見た。
 山内魚店としるした白い看板が目に入った。
 あっ、ここかぁ、Kさんの実家は――
 「みやごのごっつお市場」サイトに登場する丁寧な作りの新巻や干物、塩ウニなどで知られた店だ。
 西町3丁目にあるとは聞いていたが看板を初めて目にした。
 これも黒森さまの導きにちがいない。
 Kさんとはネット上で知りあい、一度も会ったことはない。
 なのに資料や写真を送ってもらったりとお世話になっている。
 弟さんには山口川に架かる橋の名前を調べてもらい、「山口川橋尽くし」という文章を書いたことがある。
 おかあさんも昔から知っている人のような気がする。
 なんだか気恥ずかしいけれど思いきって訪ねた。
 スキンヘッドにサングラスの異様な風来坊があらわれてびっくりしていたおかあさんも、
 「まぁまぁ、じんさん」
 と温かく迎え入れてくれた。
 弟さんもいた。
 店の奥で話した。
 ふたりとも気さくで初対面とは思えない。
 屋印の話になった。
 山内魚店の屋印は、∧の下にKで、ヤマケイと読む。
 Kはおとうさんの名前の頭文字。
 ローマ字は斬新で目立つし語呂もいい。
 おかあさんの発案だという。
 ∧Kの記号だけを大きく印刷した黄色い紙が、メモ帳のような束になっているものを見せてもらった。
 これを一枚一枚めくりとりながら、魚市場で競り落とした魚介に張り、籠に入れるらしい。
 市場では山内魚店ではなく、ヤマケイさんと呼ばれる。
 いろいろ話が弾んだ。
 が、じつは内容をあまり覚えていない。
 昂揚して上の空、ふわふわ居心地がよかった。
 でも長居はできない。
 ぼくは気楽な旅の空、山内さんたちには仕事の忙しい時間帯だ。
 去りがけに、おみやげを包んでくれた。
 ちゃんとお礼も言わなかった。
 今回の失礼を詫びに、またお訪ねしなければ、と思う。
 
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■ 小沢の山越えを断念
 
 今まで一度も通ったことのない道を歩こう――
 そんな目論見が今回の宮古行にはあった。
 時間はあまりないので近場に設定した。
 ひとつが長根の山越え道だった。
 これは無事に終わった。
 つぎも山越えで、小沢〔こざわ〕から日の出町に出る道だ。
 魚菜市場の田代餅店でこびり(小昼)用に薄赤い色をした黍〔きみ〕大福、ひゅうずを買った。
 みどり公園で少し腹におさめ、宮古小学校の裏を通り、小沢の山裾道をたどった。
 このあたりの住宅街は宮小在校当時、ほとんど田んぼだった。
 剣道場の尚志館のまえを過ぎ、ほどないところで東へ、山に向かう道へ折れた。
 舗装された坂道が尽きる手前に〈長寿の清水〉がある。
 水瓶のパイプから湧水が流れ落ち、コップや柄杓が木の枝にかけてある。
 喉を潤し、手と顔を洗った。
 水瓶の裏手の斜面には山神の石碑がある。
 この先の無事を祈って手を合わせた。
 さらに道を少し登ると、民家が消え、山道に入る。
 小沢の山を越える谷あいの道だ。
 登りきれば、日の出町から佐原や日影町、熊野町を抜けて鍬ヶ崎、太平洋へ出られる。
 濡れて滑りやすい細道を進んだ。
 山の湧き水を貯める埋設タンクが草むらから頭をのぞかせている。
 上水道が通じるまえに小沢地区の人たちを潤した簡易水道の貯水槽らしい。
 立ち木が生い茂って暗い谷筋の道は、じゅくじゅく濡れている。
 藪が鬱蒼とし、しだいに先を閉ざしてくる。
 道幅はますます狭くなり、勾配が増し、足もとがおぼつかない。
 かつて通った、勝手知った道なら、それでも進める。
 けれど、なにしろ初めての道だ。
 ずるりと足が滑って手をついたところで、これは無理かなと思った。
 山神さまが引き返せと言っているような気もして、あっさり断念し、いま来た道を戻った。
 山神塔までくると、2、3人、年輩の人たちが草刈をしている。
 木々のあいだから西町や鴨崎町のあたりの家並みが見える。
 山口小学校の校舎も遠くにぼんやりかすんでいる。
 なんだか深山幽谷から人界におりたった気がした。
 とっつきから登りきるまで、おそらく30分とかからないはずの山道なのだが。
 
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■ 小沢と横町をつなぐ道
 
 小沢の山に沿った道を南へ歩く。
 道は宮古小学校の手前で西に折れる。
 折れずにまっすぐ進むと体育館の裏手で行き止まりになる。
 古い木造校舎があって校庭が生垣で囲われていたころは、北の小沢から体育館の横を通り、南の正門まで通り抜けることができた。
 金網が張り巡らされてしまった今はだめだろうなと思った。
 それでも、ともかく行き止まりまで行ってみた。
 すると、金網の端が切れ、人がすり抜けるだけの隙間がある。
 金網が破られているのではなく、最初から空間を開けてつくられている。
 これは通っていいということだなと考えて敷地に入った。
 体育館は新しくなっている。
 逆ピラミッド校舎は、新校舎と2〜3階部分がつながり、逆ピラミッドとは言えなくなっている。
 プールは在校当時と変わらない。
 正門の内側に玄関がある何軒かの民家――在校当時からふしぎな感じがしていたその家並みも、昔のたたずまいのままだ。
 正門から宮小をふりかえって眺めながら、ふと思った。
 小沢から宮小の敷地を横町へと抜けるこのコースは、宮小ができるまえ、おおやけの道だったのではないだろうかと。
 体育館・逆ピラミッド校舎・プールのならぶ敷地は、東側に花崗岩質の山が迫り、グラウンドより一段高くなっている。
 低い校庭には大雨が降ると水が浮いた。
 校庭はかつて一面の田んぼで、木造校舎を建てるとき、地面が軟らかいために基礎杭を何本も何本も打ちこまなければならず、大変な工事だったという話を聞いた覚えがある。
 宮小ができるまえは、田んぼより一段高い、山との境に道があっただろう。
 それは近世の閉伊街道の一部だったかもしれない。
 旧街道は、たとえば常安寺から出発すると、山沿いに沢田から横町を通り、宮小の正門あたりから北へ折れ、小沢へ抜けた。
 正門の内側に玄関がある何軒かの民家というのは、その街道に沿って建っていた家並みの名残りなのかもしれない。
 そして街道は西町や黒森町の山裾を巻いて山口へ入り、さらに長根の山を越えて千徳へと通じていた。
 
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■ 横町通り
 
 宮古小学校の正門は横町(よこまち)の通りに面している。
 むかし、横町の西のはずれは、この宮小の正門のところだったらしい。
 むかしというのは、横町ができた江戸時代初期のことだ。
 1611年(慶長16)10月28日、いわゆる慶長の大津波が北海道から東北にかけての太平洋岸を襲った。
 その4年あとになって、初代盛岡藩主の南部利直が沿岸の被害を視察し、宮古に長く滞在した。
 このとき、南部利直は宮古の町割りを指図し、復興の起点として黒田村を割いて本町(もとまち)を立てた。
 1615年(慶長20)の4月から5月にかけてのことだ。
 その後、1632年(寛永9)に黒田村の田んぼを埋め立て、新町(あらまち)や横町ができたらしい。
 横町は東西にまっすぐ延びている。
 平凡社の日本歴史地名大系3「岩手県の地名」によると、東端を本町の北端、西端を石崎の神明社とする閉伊街道沿いの町で、長さは141間あまり。
 神明社を過ぎたところに街道の出入口となる枡形(ますがた)があったという。
 141間は、1間を6尺5寸として約278メートルになる。
 石崎は山裾が出っ張った地形につけられる名で、磯鶏にも石崎という地名がある。
 宮小のプールのあたりは山が突き出していたのを崩して平らにした。
 あの一帯を石崎と呼んだのだろう。
 横町の北の山地一帯は上ノ山(うえのやま)と呼ぶ。
 なかほどがオシンザンで、中腹に石崎神社・羽黒神社が並んで建っている。
 この石崎神社と「岩手県の地名」に書かれている石崎の神明社とは関係があるにちがいない。
 神明社は鎌倉時代以降に伊勢神宮の分霊をまつった神社と国語辞典にある。
 オシンザンの石崎神社は、あるいは神明社が移転し、明治になって改称したものかもしれない。
 神明社を過ぎたところにあった枡形というのは、重要な街道の出入口を壁で四角く区切り、二つの門をつけた関所で、町を守る砦の役目をはたす。
 いまは宮小の正門前から西をながめても枡形の跡など影も形もなく、静かな町並みが舘合の一石山にさえぎられるまで続いている。
 
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■ オシンザンは御深山か?
 
 横町のオシンザンを漢字で書くと、御新山か、御深山か、あるいは御神山か……
 まえに「オシンザン」という文章を書いたとき、この疑問には答えがみつからなかった。(「宮古なんだりかんだり」第3部)
 こんど横町について書くために平凡社歴史地名大系3「岩手県の地名」をみていたら、横町の項に大体こんなふうに書かれている。
 ――横町の北方につづいた山を上ノ山〔うえのやま〕といい、ほぼ中央の山中には修験善龍院の奉仕した深山〔しんざん〕神社が現在もある云々
 また、常安寺の項には、おおよそこうある。
 ――常安寺は、寺伝によると1580年(天正8)花原市〔けばらいち〕にある華厳院の住職によって和見の館間〔たてま〕に創建されたが、1611年(慶長16)の大津波で流失した。
 その後、横町の深山に庵を建てて仏事をつづけ、1625年(寛永2)に宮古町代官の小本助兵衛や黒田村の肝入(村長)内蔵之助らの尽力で現在地に再建された云々
 これらの記述をみると、どうやらオシンザンは御深山と書くらしい。
 いま深山荘というアパートが、むかしのシンザン遊園地のあたりにある。
 あれは深山神社の名を正確に反映した名称だったことになる。
 「岩手県の地名」は1990年(平成2)の発行で、それから16年がたっている。
 そのあいだに深山神社がなくなったという話は聞かない。
 とすれば、深山神社は、いまもあるのだろう。
 しかし、どこに?
 ぼくが知っているかぎり、オシンザンにあるのは石崎神社と羽黒神社であって深山神社ではない。
 深山神社というのは石崎神社か羽黒神社の別名なのだろうか。
 あるいは、山の中腹にある2つの神社よりもっと奥に深山神社が存在するのだろうか。
 オシンザンは御深山と書くらしいことはわかったものの、その名のもとになった深山神社の正体は依然として深い霧のなかだ。
 
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■ 町割り石
 
 「岩手県の地名」に従って、オシンザンを御深山と書く。
 この御深山にある石崎・羽黒両社から、山のなかを常安寺までゆく道があるにちがいない――
 そう思って探したがみつからない。
 あったにしても、山道は繁り放題の木々や雑草に埋まっているだろう。
 ヤブ漕ぎは苦手だし、素手に半袖ではそんな気も起きない。
 あきらめて、ふつうに横町の通りを常安寺へ向かった。
 保育園脇の“曹洞宗宮古山常安禅寺”と彫られた高い石柱や堂々とした赤松を過ぎ、掲額に“第一義門”と記された山門をくぐる。
 本殿の左脇から西へ延びる墓地のあいだの道にとりつく。
 細くて勾配がきつい。
 まさに登山道にとりつくといった感じだ。
 切り立った斜面を乱雑な階段状に造成した墓地は、まだ上があるのかという感じで続いている。
 見晴らしのきくところで町を見おろすと、真下の山裾からびっしりと民家が密集している。
 これじゃあ大きな地震でも起きたら墓石が転げ落ちて民家を直撃するんじゃなかろうか、と心配になる。
 横町北側の山の上に“町割り石”というものがあるらしい。
 じつは、それを見たくて登ってみたのだが、あるのは墓石ばかりだ。
 墓域を抜け、もう少し西にゆかなければならないはずなのに、藪に阻まれて道はみつからない。
 宮古山常安寺は初め、いまの宮町〔みやまち〕3丁目、市立図書館のあたりにあり、慶長の大津波で流された。
 4年後になって、やっと初代盛岡藩主の南部利直が被害を視察にやってきた。
 小本家記録という古文書に、1615年(慶長20)、利直は黒田の上ノ山の大石に登り、「市〔いち〕を立てても苦しからざる場所だ」と言いながら杖で指図し、本町を町割りしたということが書かれているらしい。
 利直が登った大石が町割り石だ。
 常安寺はこのときまだ津波後の復興ならず、御深山の小庵で細々と仏事を営んでいた。
 御深山や町割り石の東方、沢田の打手ヶ沢に再建されたのは、利直の町割りから10年後のことになる。
 
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■ 花輪殿様
 
 初代盛岡藩主の南部利直が沿岸を視察して宮古の町割りをしたとき、じつはもうひとつ重要な事跡を残している。
 利直の沿岸視察は、ひと月におよぶもので、そのうち宮古には20日ほど滞在したらしい。
 しかし宮古村一帯は、いまの市立図書館のあたりにあった常安寺でさえ流されたほどの大津波によって壊滅状態だったから、宿がない。
 利直一行が宿としたのは花原市村の華厳院だったろうか。
 藩政時代に花原市は南部家代々の家臣だった楢山家の知行所で、華厳院は楢山家の菩提所になっている。
 常安寺は、この華厳院の末寺として三叟義門が1580年(天正8)に創建した。
 南部利直が滞在したとき、身のまわりの世話をする側女に花輪村の松がいた。
 松は花輪内膳為房という地頭の娘だった。
 美貌の松はすぐに利直のお手付きとなり、翌年、男の子を産んだ。
 男の子は名を彦六郎、通称は鍋松丸といった。
 華厳院を遊び場とし、住職から読み書きを学びながら14歳まで花輪で育った。
 15歳になると母のもとを離れて盛岡城に迎えられ、名を花輪重政と改めた。
 いっぽう、生母の松はわが子に会いに盛岡へ出ることもなく、1638年(寛永15)に花輪でひっそり死を迎えた。
 法号を慈徳院殿、享年は37とも43ともいう。
 墓は花輪の花森神社にある。
 花輪重政は1648年(慶安元)に七戸の城主となった。
 1664年(寛文4)には異母兄の2代藩主南部重直が子を残さずに死んだ跡を継いで第3代藩主となり、南部重信を名のる。
 ときに49歳。
 性は温順、政務をもっぱらにして仁政を施したので領内の農民たちは万歳を唱えたと古書にあるように、歴代藩主のなかでも名君とされ、親しみをこめて花輪殿様とも呼ばれた。
 和歌を好み、「酉卒(ゆうそつ)歌集」一冊がある。
 松の50回忌には、こう詠んでいる。
 ――受けよ母五十の霜にかれやらて残るかひ有この手向草
 この歌を刻んだ石碑が1995年(平成7)4月、長沢川の桜づつみに建立され、宮古と花輪殿様とのえにしを今に伝えている。
 
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■ 判官さま
 
 常安寺のそばに判官稲荷神社がある。
 通称ホウガンさま。
 ハンガンさまと発音する人もいる。
 衣川で死んだとされる九郎判官源義経が、じつは落ち延びて一時この地に身をひそめていた、義経の鎧・兜を埋めたあとに社を建立したという創建伝承、義経北行伝説が残る神社だ。
 創建時期は、よくわからない。
 ただ、義経の鎧・兜を埋めたあとに建てたというのだから、衣川館にいた義経が平泉政権第4代の藤原泰衡に襲われたあとということだけは間違いない。
 とすると、1189年(文治5)以降のことになる。
 稲荷神社だから五穀豊穣や大漁の神さまを祀っているのだろう。
 お使いの狐に魚を食べさせ、そのなんらかの結果によって豊漁・不漁を占っていたという話を聞いた覚えがある。
 常安寺保育園の向かいにある石段を登ると鳥居と社殿がある。
 狭い境内は、藪に囲まれて余計に狭くみえる。
 境内から東の山中に奥宮があるらしい。
 その奥宮を見たいと思って道を探した。
 が、例によって藪に埋もれて見当たらない。
 奥宮ばかりではなく、南から東へぐるりと山上をまわってゆく道もあるはずだ。
 その先に十字架山がある。
 キリスト教の十字架が立つ山には幼いころ登った。
 南を向いた見晴らしのいい高台だった。
 合同庁舎、いまの市役所第二庁舎の裏手だった。
 ただ、判官稲荷神社からではなく、市役所前の中央公民館のあたりから登っていったような気がする。
 山道はあきらめて、常安寺の門前に戻った。
 ここは横町の東端で、本町の北端にあたる。
 むかしは盛岡街道が浜街道に接続する交通の要地だ。
 浜街道は、常安寺の坂を登って日の出町・日影町のあいだを通り、佐原に抜ける。
 鍬ヶ崎にゆくには坂の途中を急勾配の山道に折れて中里に出、測候所のところから下町へおりる。
 そちらへ向かってもいいけれど、十字架山が気になる。
 できれば登って場所を確認したい。
 公民館あたりからの道を探ってみようと思い、本町通りを南へくだった。
 
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■ 本町の豪商
 
 本町通りを歩くと東屋の古い建物に目をひかれる。
 東屋の創業は江戸時代後期の1824年(文政7)と手持ちの資料にある。
 初代の菊池長七は岩泉の出身といわれる。
 酒造をはじめ五十集物〔いさばもの〕や太物・古手〔こて〕・荒物――つまり海産物、木綿・麻製品、古着、日用雑貨の販売や質屋、廻船業を営む三陸沿岸有数の豪商として知られた。
 いま駐車場になっている敷地の面積は990平方メートル。
 酒蔵と質草用の蔵2棟を残し、4棟の土蔵が解体された。
 参考文献に田村忠博の著作で「東屋大福帳」という本があるらしいが、版元不明で、まだ手にしていない。
 通りに面して残る木造の古い建物が往時を偲ばせる。
 時代のついた板壁、格子窓、建物の大きさに比べると小さな出入口。
 戸障子には屋印が描かれている。
 重なった二つの山形の下に大の字。
 イリヤマダイと読むのだろう。
 八重桜という酒の看板が掲げられている。
 これはまだ新しい。
 八重桜の両脇には“陸中の地酒”、“東屋酒店”と書かれている。
 東屋ではもう酒造はしていないはずだが、酒屋として商売はしているのだろうか。
 八重桜というと、岩泉にある泉金酒造の代表銘柄だ。
 社長は八重樫という人らしいが、初代が岩泉出身の東屋とは縁戚関係かなにかにあるのかもしれない。
 門からなかを眺めてみた。
 広い。
 奥には判官さまのある判官山からつづく尾根が横たわっている。
 鬱蒼とした樹木の下には獣道のような細い道がかよっているはずだ。
 判官さまから十字架山へ、十字架山から公民館あたりへと。
 本町の後背をなすこの山は、大部分が沢田に属しているから沢田山と呼ぶのかもしれない。
 あるいは黒田山か――
 そう考えていて、ふと館山〔たてやま〕と呼ばれていたことを思い出した。
 じつは、この山には宮古の歴史にとって判官さまや十字架山よりもっと重要なものが存在した。
 黒田館という中世期の城砦だ。
 
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■ 本町の後ろには城があった
 
 「宮古地方の中世史――古城物語」という本がある。
 1986年(昭和61)の刊行、印刷所は宮古の文化印刷。
 著者は田村忠博さん。
 市内在住で、宮古市史編纂委託員をつとめた。
 前項「本町の豪商」でふれた「東屋大福帳」や「嘉永六年三閉伊一揆資料」、「御水主〔おかこ〕文書」全3巻などの著作がある。 たびたび参照させてもらっている平凡社の歴史地名大系3「岩手県の地名」で宮古市や下閉伊郡・上閉伊郡ほかの項目も執筆している。
 「古城物語」第2部には、本町の後背にあった城――黒田館〔くろだだて〕についても書かれている。
 ほとんど知らなかったこの黒田館を、「古城物語」の記述をもとに粗描してみよう。
 本町は常安寺のまえから南へ延び、中央通りにぶつかって東に折れ、市役所分庁舎のところまでL字型につづいている。
 黒田館は、その背後にある山のほぼ全体を利用してつくられた山城だった。
 時代は室町末期から戦国期をへて安土桃山期、つまり1400年代半ばから1500年代末にかけてのことになる。
 当時、いまの本町のあたりは閉伊川が大きく蛇行して湾をなしたところに山口川が流れこみ、かっこうの港になっていた。
 川岸や山際にはカヤ葺きの漁師の家、海産物を収める蔵が建ち並んだ。
 黒田館はこの黒田湊を管理し、外敵から守るために建てられた。
 基部に空堀を切り、主郭、二の郭、三の郭で段状にかこった本格的な山城だったらしい。
 常安寺の門前から判官稲荷神社のわきを通る細い山道は、三の郭にいたる大手口、正面口だった。
 館主は閉伊川の北部一帯を治めていた河北閉伊氏。
 ただ、当時すでに河北閉伊氏は本拠を舘合にあった笠間館から千徳城に移して千徳氏を名のっていた。
 実際の管理にあたったのは近能氏らしい。
 近能氏は千徳氏の家臣として黒田村を治めた土豪で、黒田氏とも呼ばれた。
 黒田館が打ち壊されたのは秀吉の時代。
 のち盛岡に移って藩主となる三戸の南部氏が、1590年(天正18)に秀吉の出した諸城破却の命に従って手勢をさしむけ、千徳城などとともに破壊した。
 このとき千徳氏は朝鮮の役で九州に駆りだされて不在だった。
 しかもその帰途、やはり南部氏によって抹殺されてしまったという。
 
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浄土ヶ浜の夜光虫   うらら * 投稿
 
 「夜光虫を見に行きませんか」
 と誘われたとき、海辺を飛ぶ蛍のような、小さな光る虫を連想しました。
 実際のところ、どんな虫なのか今まで一度も見たことがないので、ぜひ自分の目で確かめてみたいと思いました。
 その日、急きょ結成された夜光虫探検隊。
 隊長が男性で、他3名は女性隊員です。
 夜の9時過ぎ、探検隊は浄土ヶ浜の駐車場に到着しました。
 お盆休みのためか、駐車場には車が1台止まっているだけです。
 人の気配はまったくなく、しんと静まりかえっています。
 車から降りた4人は懐中電灯を片手に、駐車場から中の浜に続く真っ暗な道を歩き始めました。
 闇の中を照らす灯の先に、10日ほど前に出たクマが再び舞い戻って彷徨っていませんように、と祈りながら……。
 「カラーン、カラーン」
 とクマ避けの鈴の音が響きます。
 さすがに隊長は、夜の浄土ヶ浜に通い慣れているせいか妙に落ちついて、頭にもライトをつけスタスタ歩いています。
 後に続く私たちは不安で、あたりをじーっとうかがいながら、ソロリソロリとゆっくり進みます。
 「大丈夫かなあ〜」
 「大丈夫、大丈夫」
 怖さを紛らわすために、話し声も一段と大きくなります。
 怖いけれど、無事にここを通り抜けたら夜光虫が見られる、と思うと、ドキドキとわくわくした気持ちが入り混じります。
 ふと急に、子どもの頃に戻ったような気がしました。
 幼い頃はいつも好奇心で一杯でした。
 あの頃と変わっていない自分をちょっと感じて、なんだかとても嬉しくなりました。
 中の浜へ着くと、シャッターの降りた売店の外灯が、ぽつんぽつんと点いています。
 もうここまで来たらクマは出てこないだろう、と思うと、みな元気になって海へ向かいます。
 波打ち際でサンダルを脱いで、ぬるっとした石の上を滑りながら海に足を入れてみると、海水は思ったより冷たくて、ひんやりとしていました。
 「水面を手で円を描くようにすると夜光虫が見えるよ」
 と隊長の声が聞こえます。
 3人で手をくるくる回します。
 すると、シルクのような水面がきらきら煌めいて、星くずのようなものが光ります。
 とてもきれいで、優しい安らぎを与えてくれる光です。
 きらきらはすーっと消えていくので、またくるくる回すと、再びきらきら揺れて輝きます。
 このとき初めて夜光虫は、海辺を飛ぶ虫ではなく、水面のプランクトンが光を放つものだと知りました。
 小雨の中、海の方へ懐中電灯を照らしてみると、闇の中に白い岩肌がぼうっと浮かんで見えます。
 白い岩は、過去も未来もなく、今この時を、あたたかく見守ってくれているように思いました。
 
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■ 高橋交差点に立って…
 
 本町〔もとまち〕を南へ下り、角の藤田屋菓子店のまえに立つ。
 この交差点は高橋〔たかばし〕とよばれる。
 かつて浜街道の一部をなした本町通りと、国道106号の一部だった中央通りとが交わる要衝だ。
 高橋というのは、もとは橋の名で、これは山口川に蓋がされて中央通りができるまえの話である。
 本町と、その向かいがわの町、つまり向町とを結んでいた橋に、なぜ高橋という名がつけられたのか、その由来はわからない。
 高橋とよばれるまえは御水主町〔おかこまち〕橋という名だったらしい。
 橋を渡ったたもとに、向町ではなくて、藩制期には御水主町という一画があったからだ。
 水主〔かこ〕は、水夫・水手と同じ、船乗りのこと。
 御がついて、幕府や藩の用船の乗組員をさす。
 1615年(元和1)に盛岡藩主の南部利直がやってきて宮古の町割りをした。
 このとき、黒田の湊を新たに宮古湊とし、藩の海の玄関に指定した。
 その後、宮古湊に2艘の藩船、宮古丸・寅丸が置かれた。
 この藩船の乗員と家族が住んだのが御水主町だった。
 「岩手県の地名」に田村忠博さんが書いている文章によると、御水主町は寛永年間、1624年から44年のあいだに成立し、1870年(明治3)に廃止されて向町に編入された。
 そのとき御水主町の人口は225人、屋敷数20戸。
 浜街道の基点として、御水主町橋のたもとには一里塚が設けられ、向かいあって2軒の伝馬屋敷があったともいう。
 いま交差点に立って向町をみると、伝馬屋敷があったという南東角地は駐車場になっている。
 マルマツ靴店がなくなって、南隣りの荒川家具店の大きな建物が目立つようになった。
 マルマツができるまえには、東隣りの健康堂薬局にかけて、マル〆という呉服屋があったと人に聞いた。
 常安寺の山門を寄進した豪商で、その古い建物がマルマツの解体されたときに見えたという。
 残念ながらマル〆については知識がないけれど、高橋の交差点も時代の移り変わりというものを感じさせる場所のひとつだった。
 
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■ 仲瀬橋と夫婦橋
 
 高橋〔たかばし〕の交差点から中央通りを東へ歩いた。
 この本町〔もとまち〕沿いは、山口川に蓋がされて中央通りになるまえ、カタゲタとよばれた。
 片桁と書き、カダゲダ、カダギダとも発音された。
 向町〔むかいまち〕沿いは仲瀬で、ナカセ、ナカゼ。
 片桁と仲瀬をむすぶ橋に、高橋の東の仲瀬橋、さらに東に夫婦〔めおと〕橋があった、という。
 仲瀬橋は、山根英郎さんの「湾頭の譜」に、
 “丸石家具の前から、仲瀬の伊藤牛乳へ架けられた”
 と出ている。
 宮古館のまえに橋がある写真をみたこともあるような気がするから、あるいは仲瀬橋と夫婦橋のあいだに、もう一本の橋があったのかもしれない。
 ――と書いてきて、ふと気づいた。
 丸石家具・伊藤牛乳・宮古館、みな中央通りから姿を消してしまっている。
 夫婦橋は旅館の昭和館のところと公会堂、いまの市役所をむすんで架けられていた。
 異人館のマスターが、タイミングよく、ブログの「宮古フォトサロン」(いまの宮古写真帖)に、小島俊一さんの本に出ていたという「公会堂と夫婦橋」の写真を複写して載せてくれた。
 写真につけられたキャプションには、
 “明治45年物産館兼公会堂を、山口川河畔に開設。
 夫婦橋を架ける。
 もとは夫(男)橋と婦(女)橋だった”
 とある。
 初めは橋が2本あり、合わせて夫婦橋という名だったのを、1本に架けかえ、名は夫婦橋をひきついだということらしい。
 2本というのは平行に2本並んでいたのだろうか。
 それとも中洲かなにかを挟んで2本の橋が連続して架けられていたのだろうか。
 本のなかには、夫婦橋の欄干の親柱が二中(第二中学校)と宮商(宮古商業高等学校)の校門になっているというようなことが書かれていたらしい。
 マスターは、2つの学校の正門として今も残っているのを確かめ、その写真も載せてくれた。
 宮商の石の校門は知っていたけれど、夫婦橋の欄干の親柱だったとは知らなかった。
 そういう閲歴を知っていたなら、もっと愛着をもって眺められたことだろう。
 
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■ 十字架山は遠かった
 
 本町〔もとまち〕の中央通り沿い――
 むかし片桁〔かたげた〕とよばれた通りには、懐かしい小成書店や喫茶店の高七がある。
 そのすぐ裏手、北側に迫った山が館山で、一部が十字架山とよばれていた。
 中川旅館のまえで歩道を掃いていた40代とおぼしい女性に十字架山のことを聞いてみた。
 「公民館のところから登る道があるようですよ」
 はっきり知っているふうはなかった。
 登ったことはないけれど、そういう話を聞いたことはあるという感じだった。
 中央公民館の坂道を登ってゆくと、正面玄関に突きあたって道は左に折れ、ぐるりと建物を巻くかたちで延びている。
 山際には民家が並んでいる。
 道があるとすれば、その立てこんだ民家のあいだを抜けてゆくはずだ。
 じろじろ他人の軒先をのぞきこむ格好になるので、あまり探せもしないまま公民館の裏側にまわってしまった。
 こうなると、もうこのまま八紘台まで登りきるしかない。
 民家のなくなるあたりで舗装路から土の山道になる。
 樹木が濃く繁って道が狭くなる。
 途中に練成館という市営の体育館がある。
 鉄筋コンクリートの小ぶりな建物は、体育館というより道場といった趣きだ。
 ところどころ窓ガラスが破れ、いまも使われている様子はない。
 さらに登ってゆくと愛宕と中里をむすぶ車道に出る。
 その左手、西側の山道を入った先に水道事業所の施設がある。
 八紘台送配水場といって宮古でいちばん古いらしい。
 真下の三角地帯にもポンプ場がある。
 よくわからないけれど上下連結して動いているのだろう。
 この八紘台送配水場から南下するルートがある。
 途中から西へたどれば十字架山へ出るかもしれない。
 そう考えて行ってみた。
 ところが、やはり鬱蒼として藪また藪。
 勾配もきつく、山肌はじゅくじゅく濡れている。
 滑ったら落ちる。
 諦めて引き返した。
 十字架山探索の試みは失敗に終わった。
 すぐ目と鼻の先にあるはずの十字架山は、行こうとすると意外にも遠いところだった。
 
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■ 宮古山公園という夢想
 
 八紘台の送配水場から愛宕と中里をむすぶ車道に出る。
 中里方面へ少し行くと左手の路傍に地蔵堂が建っている。
 対面には更地になった旧愛宕中学校の敷地が広がり、門だけがぽつんと残っている。
 地蔵堂には延命地蔵が祀られている。
 常安寺の霊鏡和尚が建立したといわれ、脇にある細い山道をくだると火葬場の横に出る。
 常安寺に戻れば一周。
 地蔵堂までなら、ほぼ四分の三周――
 なんのことかというと、常安寺や判官神社のまえから本町〔もとまち〕をぐるっと回って中央公民館から八紘台に登り、地蔵堂から常安寺・判官神社まえに戻るコースは、館山〔たてやま〕一周コースだ。
 山中に分けいって十字架山や黒田館の跡を探索することはできなかったけれど、地蔵堂まで来ると、それなりの達成感はある。
 かるい疲労感にも包まれながら、常安寺には戻らず車道を愛宕にくだった。
 道みち、夢想のようにとりとめもない思いが湧いてきた。
 ……黒田館があった館山もしくは黒田山は、中世期この界隈を治めた河北閉伊氏の拠点だった。
 近世には南部利直が宮古町の中心地として本町を町割りし、その後背地になった。
 いってみれば、宮古のヘソのようなもの。
 だから、宮古山と呼んでもいい。
 その宮古山の南には市役所が建っている。
 市長室から宮古山を眺めた歴代市長は、なにを思っただろう。
 開発して市街地化?
 とんでもない、それだけはやめてほしい。
 雑木・雑草が鬱蒼としたボサ山でいい、自然のままでいい。
 いや、少しは草木を刈ってほしいな。
 そうだ、いっそのこと、黒田館という遺跡を生かした史跡公園にしたらどうだろう。
 いやいや、待てよ。
 目のまえは閉伊川と山口川の落ち合いで湾入した海に面していたという場所柄を考えると、宮古山には太古から人びとが暮らし、その痕跡がたくさん眠っているかもしれない。
 いままでに発掘調査をしたという話は聞かないけれど、じっくり調査しなければならない。
 並行して史跡公園化を少しずつ進める。
 植樹をするのは桜。
 あそこが桜山になったら綺麗だろうな……
 幸いにこの間、夢想を破るクルマは一台も通らなかった。
 
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■ 吉川英治の句碑
 
 中里と愛宕をむすぶ車道をくだってゆく途中に愛宕神社がある。
 不思議にこの神社に関しては資料が少ない。
 祭神は火伏せの神の愛宕権現。
 祭礼は7月下旬の土曜・日曜で子供神輿が出る。
 その程度のことしか知らない。
 愛宕という地名のもとになった神社なのに築地1丁目にあるのはおもしろい。
 石段をおりてゆくと、境内ではなにやら工事中。
 ゆっくり探索する雰囲気でもなく、拝殿をカメラにおさめただけで切り上げてしまった。
 本殿はほかにあるらしい。
 さらに道をくだると本照寺がある。
 山号は寂光山、日蓮宗。
 地元の人はホッケデラ(法華寺)とよぶ。
 日影町の銭湯、不動園を舞台にした小説「葱の花と馬」を書いた伊東祐治の墓は、ここにあるはずだ。
 そう思って、あまり広くもない墓地を探してみた。
 残念ながら見つからない。
 「葱の花と馬」は1934年(昭和9)1月号の「中央公論」に載った。
 文壇アンデパンダンという賞の応募作で、入選するとすぐに伊東は上京して吉川英治の書生になった。
 文学修行に入った矢先に病を得て帰郷。
 その年の12月、23歳で夭折している。
 本照寺から南に隣接する愛宕小学校へ行った。
 本照寺寄りの出入口に、荒削りの石に横長の黒い石を載せた碑がある。
 〈寺を出て寺までかへる盆の月 於本照寺 吉川英治〉
 と大きく刻まれた横には、小説「宮本武蔵」の冒頭と、
 〈著者の吉川英治は、昭和十年八月に本照寺を訪れて、この小説の第一稿を執筆し東京の朝日新聞に送ったと言われている。
 この句はこのときに詠まれたものです〉
 という言葉が小さく刻まれている。
 1935年、吉川英治は東北各地を講演してまわった。
 妹の千代が住職の弟と結婚していたという縁があって、8月12日から17日まで本照寺に滞在した。
 伊東祐治の死の翌年である。
 短いあいだとはいえ書生として預かった文学青年の墓参りという目的も吉川英治にはあっただろう。
 1998年(平成10)3月に建立された句碑の銘に、伊東祐治とのつながりをうかがわせる文字はない。
 
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■ 愛宕・築地界隈
 
 子どものころ、宮古から鍬ヶ崎へ行くには市役所まえを過ぎてバス通りをまっすぐ光岸地〔こうがんじ〕へ向かった。
 閉伊川沿いに岸壁をぶらぶら歩くことも多かった。
 築地の町は素通り。
 北側の愛宕へはほとんど入りこまなかった。
 築地の東端にあった第一常盤座が閉館したのは1971年(昭和46)だという。
 当時、映画は人並みに観ていたけれど、第一常盤座には入った記憶がない。
 警察署もあった。
 幸いに、なんの関わりもないまま、知らないうちに神林に引っ越していた。
 蕎麦屋の直助屋を知ったのは、おとなになってからだ。
 そんな築地に足しげく通ったのは、高校時代、市役所のまえにジャズ喫茶ミントンハウスができてからだった。
 築地の北側の愛宕を旧館〔きゅうだて〕とよんだ。
 久館と書くこともあるらしい。
 おそらく古い城館に由来するのだろう。
 愛宕という地名は愛宕神社にちなむ。
 愛宕神社の創建はいつの時代なのだろう。
 残念ながら資料がなくてわからない。
 そういえば岩手銀行の裏手、愛宕山の崖に見晴らしのいい公園があった。
 おぼろげな記憶に、急なコンクリの階段を登る、細長くて山腹にしがみついたような公園のおもかげが残っている。
 おとなになってから何度か通るたびに見上げてみる。
 しかし公園はない。
 ひょっとしたら、崩落してしまったんじゃないだろうか。
 宮古から鍬ヶ崎に抜ける古いルートは、この山裾の道だ。
 分庁舎まえの片桁通りから築地に入る。
 江戸時代、岩手銀行の裏あたりは“七戻り”とよばれる波打ちぎわの難所だったらしい。
 鍬ヶ崎の遊郭に行く道でもあり、
 “行こか鍬ヶ崎、戻ろか宮古、ここが思案の七戻り”
 という歌のような文句が残っている。
 NTTの裏から左(北東)に折れた天理教分教場の横には古い西国巡礼塔や庚申塔が建っている。
 愛宕小学校の横を本照寺に抜け、坂道を梅翁寺に登り、国道45号を渡って測候所に至ると、北東眼下に、鍬ヶ崎発祥の地と港が一望される。
 
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■ 湊(一拍おいて)大杉神社
 
 築地の歩道橋を渡って光岸地〔こうがんじ〕へ行った。
 切り通しの坂を登りきると左手にコンクリート製の石段がある。
 石製の標柱には〈湊 大杉神社〉と彫られている。
 ふつう、単に、大杉神社とよぶ。
 湊とつくのが正式名称なのだろうか。
 その下に半字分ほどの空きがあるのはなんだろう。
 頭に湊を冠し、一拍おいて大杉神社とつづけるということなのだろうか。
 標柱の脇には大きな案内板があって、こう書かれている。
 〈この石段の上の大杉神社境内に、宮古港戦蹟碑があります。
 この碑は明治2年の宮古港海戦の史実を後世に伝えるために建てられたもので、その題字は官軍の一仕官として参戦した東郷平八郎の書によるものです。
 この他にも、市内には数多くの宮古港海戦関係の記念碑や墓碑がありますので、ぜひともお訪ね下さい。 宮古市〉
 その下に宮古港海戦記念碑と墓碑などの案内図が描かれている。
 石段は左右に長いせいか真ん中にずっと割れめが走り、逆ヘの字になっている。
 危ないので端の手すりにつかまりながら登った。
 この大杉神社のある場所は、たしか青葉遊園といった。
 一説によると、1754年(宝暦4)に旧館、いまの愛宕に小祠を建てて勧請し、1933年(昭和8)青葉遊園内に社殿を建立したという。
 通称はアンバサマ。
 アンバは網場で定置網のこと。
 企業的な漁業家の信仰する神さまなのだろう。
 鍬ヶ崎でふつうの漁師さんが信仰するのは熊野町にあるオグマンサマ、熊野神社のほうだ。
 大杉神社の祭礼は、かつて8月15日と16日、いまは7月の最終土曜・日曜におこなわれている。
 小島俊一さんの「陸中海岸地名ウオッチング」には、まえに参照した資料とは祀った場所などが違っているけれど大体こうある。
 ――大杉安波〔あんば〕神社は五十集屋〔いさばや〕連、つまり魚問屋衆が銚子から船で勧請し、鍬ヶ崎浦南角の鏡岩に祀った。
 漁民たちが熱狂的に踊るアンバ夜祭りは宮古名物だった。
 神輿を載せ、フライキ(大漁旗)で飾った大小の漁船をつないで湾内を巡り、沖ではブリキ製の魚を竿につけて釣り真似をし、大漁と安全を祈った云々
 
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■ 海暮れて…
 
 光岸地の青葉遊園には、大杉神社のほか、古いものから順に織部灯籠、鴨墳〔かもふん〕の碑、宮古港戦蹟碑、忠魂碑といった史跡がある。
 今回見たかったのは鴨墳の碑。
 鴨塚ともよばれる。
 宮古市の文化財に指定されたのは1957年(昭和32)12月だという。
 港を見下ろせる位置に、東ではなく西を向いて建っている。
 〈海暮て鴨の声ほのかに白し 翁〉
 と刻まれているのが鴨墳の名の由来。
 翁というのは松尾芭蕉のことだ。
 なぜ芭蕉の句碑がここにあるのだろう。
 碑のかたわらに建っている説明板の文章を読んでみた。
 ――この碑は、高さ1.3メートル、幅40センチの石英粗面岩の自然石に、芭蕉の句を刻んだものである。
 天明の頃、盛岡の俳人小野素郷がこの地にはるばる杖をひいて夏保峠に登り、眼下に暮れゆく鍬ヶ崎浦を眺めて感興の湧くままに思い浮かんだのが芭蕉のこの句で、当地の俳人里川(津軽石の人)とはかって浜石に刻した碑を建て後世に残したものといわれている。
 以上がおおよその引用。
 別の資料によると、句碑が建てられたのは1783年(天明3)のことらしい。
 盛岡の素郷や津軽石の里川については知識がない。
 夏保峠というのは夏暮峠とも書く。
 旧館から鍬ヶ崎に越える山道で、尾根上を南へ分岐し、光岸地まで延びている。
 芭蕉の句は「野ざらし紀行」に出ている。
 名古屋の熱田で夕暮れに舟を浮かべてつくったらしい。
 ふつうなら五・七・五〈海暮てほのかに白し鴨の声〉とするところ、語順をかえて五・五・七とし、ちょっと調子が異なる。
 夕闇のなかを伝わる鴨の声を〈ほのかに白し〉と捉えた感覚を評価し、芭蕉の秀句のひとつに数える人もいるようだ。
 盛岡の素郷や津軽石の里川は、俳聖とよばれた先人芭蕉を偲び、顕彰する意味をこめてこの句を刻んだのだろう。
 しかし鴨の声では鍬ヶ崎にそぐわないような気もする。
 素郷や里川には鍬ヶ崎のカモメやウミネコの句をつくってほしかった――
 鴨塚をまえにして、そんな思いが心をよぎる。
 
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■ 夏暮峠から鍬ヶ崎へ
 
 大杉神社の社殿の裏にまわると、細い山道がある。
 この山道は北に延び、西どなりにある光岸山善林寺から登ってくる道と合流して北西に向かい、国道45号にくだる。
 そして、愛宕にある本照寺の脇道から坂を登って国道に接続する道とつながる。
 このルートは光岸地と鍬ヶ崎上町、愛宕と鍬ヶ崎上町・仲町の境界線に、ほぼ重なる。
 江戸時代に盛岡の俳人素郷が登って鍬ヶ崎浦を眺め、
 〈海暮て鴨の声ほのかに白し〉
 という芭蕉の句を思い浮かべたといわれる夏暮峠(夏保峠)は、国道の開通工事などではっきりした位置がわからなくなってしまったらしいが、このルート上にあった。
 善林寺と常安寺別院の墓が並ぶあいだの山道の途中に東へ、上町へと下りてゆく道がある。
 この頂点あたりを夏暮峠と考えて、そう大きく違うことはないだろう。
 ここからの港の眺めが好きだ。
 出崎埠頭が延びた正面には月山がそびえ、手前に目を転じると上町の民家が見える。
 眼下には常安寺別院の屋根がある。
 下りてゆく道は別院の境内を抜ける。
 別院は上ノ山〔うえのやま〕の中腹にあって上ノ山寺とも、庵寺ともよばれる。
 境内には、浄土ヶ浜の名付け親とされる常安寺7世の霊鏡竜湖和尚が建立した地蔵堂がある。
 片隅に新しい石碑があるのに気づいた。
 近寄ってみると、伊号第十二潜水艦乗員慰霊之碑と刻まれている。
 旧日本海軍の伊12潜水艦は、太平洋戦争の末期に米軍の攻撃を受けて中部太平洋に沈んだまま帰らなかった。
 艦長は工藤兼男という鍬ヶ崎上町出身の大佐。
 山口の川原田良一兵曹長、田野畑村の下村孝太郎兵曹長らも乗り組んでいた。
 慰霊碑は黒森神社の境内にもあるという。
 上ノ山寺からくだる坂道には味わいのある板壁の家屋や白壁の土蔵が残っている。
 振り返ると、上ノ山寺の赤い屋根の上に、濃い木々の緑につつまれた夏暮峠が見えた。
 
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■ 鍬ヶ崎のタデヤマ
 
 出崎埠頭へ行った。
 光岸地と鍬ヶ崎上町の境から宮古湾に400メートルほど突き出している。
 先端に立つと海の上に立っているようだ。
 月山にも手が届きそうに近い。
 潮風に吹かれ、海を眺める。
 いい気持ちだ。
 ただ、きょうは陸〔おか〕を眺めようと思って、ここへきた。
 振り返って南の鏡岩から北につづく山並みを見る。
 〈歓迎 宮古港入港〉と大きく記された古い魚市場。
 その上に測候所の円いドーム。
 後方に見えるのは中里団地につづく山。
 測候所は鍬ヶ崎の港を見おろす絶好の場所に建っている。
 鏡岩から引っ越したのは1936年(昭和11)。
 現在の庁舎に生まれ変わったのは1991年(平成3)。
 標高42・5メートル。
 一帯を地元の人はタデヤマとよぶ。
 漢字では館山。
 館山というのは、本町の後背に黒田館があって、その山を館山とよんだように、ここに鍬ヶ崎館という山城があったからだ。
 時代も館主も黒田館と同じ、中世、閉伊川の北部一帯を治めた河北閉伊氏。
 ただ当時、河北閉伊氏は本拠を千徳に移し、実際に館や湊の経営・守備にあたったのは近能氏という家臣らしい。
 愛宕小学校のあたりから眺めると、黒田館と鍬ヶ崎館の距離はほとんど指呼の間といってよかった。
 ふたつの山城は旧愛宕中学校あたりの尾根でつながっていた。
 見方をかえれば、愛宕は、黒田館と鍬ヶ崎館とに挟まれるようにして開けている。
 新しい住居表示が実施される以前には、愛宕をキュウダテとよび、旧館とか久館と書いた。
 その語源は知らない。
 ただ、ひょっとしたら黒田館・鍬ヶ崎館という中世末に滅びた城館の記憶に由来するのかもしれない、と思う。
 鍬ヶ崎発祥の地は館山の北東、清水川に沿った日影の沢あたりだった。
 太古から人が住みつき、館山には縄文時代の貝塚もあった。
 その貝塚や鍬ヶ崎館跡は測候所の移転・新築工事などで消えた。
 
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■ ヒラグチは猿梨
 
 宮古発のブログ「青年部長の魚菜日記」にヒラグチが出ていた。
 生産者売場に並んでいたそうだ。
 農家のおばちゃんたちが近所の山から採り、ショイコ(背負い籠)にいれて売りにくるのだ。
 そういえば、こんな山の実があったなぁ。
 青くて小さな林檎のよう。
 熟すと黄色くなる……
 とは思ったものの、記憶は曖昧だ。
 青年部長さんは初めて口にしたらしく、こう書いている。
 ――ヤマナシとも言うらしいが、ちょっと不明。
 口の中でとろける甘さが病みつきになりそうでした。
 shiratori さんの「マスター写真館2」にも写真が出た。
 やはり魚菜市場のおばちゃんから買ってきたという。
 ――ヒラグチとはサルナシのことです。
 マタタビ科で、実の大きさは2センチぐらい。
 味はキウィフルーツと同じかな。
 田野畑の漁師さんは、コメント欄にこう書きこんでいた。
 ――田野畑ではシタグチと言います。
 子どものころ、山へ行って夢中になってとった記憶があります。
 次の日は舌がビリビリ痛かった。
 完全にうむとキウィのようにおいしいですよね。
 焼酎に漬けると目の薬になるとか。云々
 〈うむ〉というのは熟すこと。
 調べてみると、宮古でヒラグチとかヒラグヅと呼ぶのは、正式名称のシラクチヅル(白口蔓)がシラクチと縮まって訛ったものらしい。
 田野畑でシタグチというのもシラクチの訛りだろう。
 マタタビ科だから猫の好物なのだろうけれど、山の猿も好んで食べるらしく、俗にサルナシ(猿梨)という。
 猿をマシラ(真猿)と呼ぶ。
 シラクチのシラは、この猿のことだという説もある。
 とするとシラクチは、猿が木の穴に貯めた果実類が発酵して酒のようになるというマシラ酒の原料のひとつかもしれない。
 サルナシのナシは、形や風味がヤマナシ(山梨)に似ているからだろう。
 ヤマナシは梨の原種。
 バラ科で、サルナシとは別種。
 サルナシが熟すと黄色くなるというのは、記憶のなかでサルナシとヤマナシがごっちゃになって生じた誤解だったようだ。
 
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■ 旧鍬ヶ崎郵便局
 
 行ってみて驚いた。
 建物がない。
 いや、ある。以前より引っこんではいるけれど……
 いや、違う。あれは古い局舎じゃない!?
 なにを書いているのやら、読んでいるほうはわからないだろう。
 それを見たとき、ぼくもかなり混乱したのだ。
 鍬ヶ崎の本通りに、見たいところが何ヵ所かあった。
 ひとつが古い鍬ヶ崎郵便局だった。
 新しい鍬ヶ崎郵便局は海岸通りの上町6番19号にある。
 2003年(平成15)に本通りの上町8番11号から移転した。
 本通りの古い局舎は、そのまま残されていた。
 ちょうど鍬ヶ崎三丁目のバス停のところだ。
 前に見たのは2004年11月だった。
 当然残っているつもりで行ってみた。
 すると、道路沿いにクルマ一台分くらいの奥行きの空き地ができている。
 仕切られた奥の塀の向こう側に、旧局舎に似た新しい建物がある。
 似ているけれど違う。
 局舎を引っこめたわけでもなさそうだ。
 狐につままれたようで呆然とした。
 だれかに聞こうと思った。
 路上には人影がない。
 さとう衣料店さんが何軒か南にある。
 いままで入ったことはないけれど、ホームページやブログをときどき覗いているので勝手に親近感のようなものをいだいていた。
 店に飛びこんで、さりげなく聞いてみた。
 忙しいなか、品のいいおかあさんらしい人が親切に応じてくれた。
 話によると、やはり局舎は解体されてしまったそうだ。
 奥にある似た建物は倉庫だという。
 古い鍬ヶ崎郵便局のおもかげをとどめようと、所有者が局舎に模して倉庫を建て替えたものらしい。
 そんな面倒なことをしないで古い建物をそのまま利用することはできなかったのか……
 と思ったけれど、そうもいかない事情があったのだろう。
 またひとつ宮古から歴史と趣きのある建造物が消えた。
 「雰囲気のあるところだったのにねぇ」
 さとう衣料店のおかあさんも残念そうだった。
 
* 鍬ヶ崎のさとう衣料店さん
  http://stwoodman.com/
 
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■ キッコーキの謎
 
 むかしの鍬ヶ崎郵便局から南へ、民家を一軒おいて、宮古信用金庫鍬ヶ崎支店、土蔵、さとう衣料店と並んでいる。
 土蔵は喜四郎屋という、かつての醤油醸造店のもの。
 蔵は残ったが醸造所はない。
 工場があったのは、いまの信用金庫の位置だろうか。
 蛸の浜や浄土ヶ浜の行き帰りに自転車でよく前を通ったのに曖昧だ。
 周囲に満ちていた強い醤油の匂いだけが鮮明な記憶として残っている。
 喜四郎屋を土地の人は、きっそう屋、キッソーヤと呼んだ。
 屋印はキッコーキ。
 亀甲マークのなかに七を三つ組みあわせたような喜の草書体を書いた。
 ところが、である。
 不思議なことに、残っている土蔵の白壁には大きく、○のなかに喜の草書体が描かれている。
 マルキ? なぜだろう……
 喜四郎屋は醸造をやめた。
 ただ、キッコーキの醤油は現在も売られている。
 近くの港町交番の東どなりに販売所がある。
 宮田醤油店の宮古営業所だ。
 宮田醤油というのは盛岡に生まれて雫石町に本社を移した創業100年になる老舗。
 キボシ印の岩手丸大豆醤油で知られる。
 キボシは喜星。
 喜の草書体の下の七と七のあいだに星を表わす小さな黒丸を点じた珍しい屋印だ。
 宮田醤油は“キッコーキの醤油”も喜四郎屋から受け継いで醸造しているらしい。
 宮古営業所の屋根のうえに掲げられた看板には、キボシ印ではなく、キッコーキ印が描かれている。
 これを見て、喜四郎屋の蔵に描かれていたマルキ印の謎が解けた気がした。
 キッコーキの醤油を宮田醤油店に譲った喜四郎屋は、商標キッコーキが使えなくなり、屋印をマルキと変えたのだろう。
 営業所の正面には“宮古醤油味噌販売店”という看板を掲げている。
 宮田醤油ではなく、宮古醤油――
 複雑な思いにとらわれる。
 “キッコーキの醤油”の名で商品は売られている。
 しかし、鍬ヶ崎から醸造所が消え、キッコーキはマルキに変わり、宮古は“宮古の醤油”を失ってしまったのだ。
 
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■ 駒井常爾ふたたび
 
 古い町には歴史が重層している。
 鍬ヶ崎の本通り、キッコーキ喜四郎屋の醤油醸造所が建っていたあたりには、それ以前、酒の蔵元が存在したらしい。
 じつは、この「宮古なんだりかんだり」第3部に「宮古ゆかりの書画家、駒井常爾〔じょうじ〕」という文章を書いた。
 たまたま見つけた資料を紹介したこの一文を目にして、常爾の七代のちの子孫にあたる方が連絡をくださった。
 駒井隆治さんという。
 なにか妙なこと、間違ったことを書かなかったろうかと恐縮しつつ何度かメールのやりとりをし、あまり資料のなかった駒井常爾の人となりについて、いろいろと教えられた。
 その要点を、以前の文章を部分的に織りこみながら書きとめておきたい。
 駒井常爾は名を治右衛門という。
 京都に生まれ、父の死後、縁あって宮古に移り住み、造り酒屋を営んだ。
 父が滋賀の出身だったので屋号を近江屋とし、近江屋治右衛門を略して近治〔きんじ〕と通称した。
 下酒屋〔しもざかや〕とも呼ばれたが、これは鍬ヶ崎下町の酒屋という意味らしい。
 屋敷や蔵があったのは、冒頭に書いたようにキッコーキの醸造所があった宮古信用金庫鍬ヶ崎支店の一郭だった。
 「駒井の家には蔵が九つあった」と伝えられるほどに商売は繁盛した。
 いっぽうで書や南宗画に親しんだ。
 常爾のほかに南山居士とも号した。
 家業を軌道にのせた常爾は店を番頭にまかせ、南宗画の池大雅を師に、書聖とあおがれた中国の王羲之を範として書画の道に励んだ。
 一年の半分を京の寺町にあった邸宅で過ごし、池大雅が「寓居すること一両年」という記録が残る。
 常爾は生涯で三度火災に遭った。
 作品の多くは失われ、一部が子孫の家に秘蔵された。
 広く世間に流布することはなかったから、常爾は“幻の作家”といっていい。
 1814年(文化11)12月25日死去、享年73。
 戒名は釋常爾。
 浄土真宗大谷派だが、当時、真宗寺院が宮古になく、曹洞宗の常安寺に葬られた。
 1899年(明治32)になって光岸地に大谷派の善林寺ができ、上ノ山の墓地に改葬された。
 
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■ 善林寺の墓地
 
 善林寺は光岸地の切り通しにある。
 坂の途中に源兵ェ屋という餅屋さんがあり、その路地の奥に本堂がある。
 本堂脇の急勾配の坂道を登ると、民家が途切れて両側の木立ちのなかに墓地がつづいている。
 坂道を登るのに息せき切って忘れてしまいそうだけれど、一休みして立ち止まり、後ろを振り返ってみなければならない。
 閉伊川の河口から対岸の藤原や磯鶏〔そけい〕方面の海岸が一望できる。
 砂浜や松原が遠くまでつづいていたころは、いい眺めだったろう。
 残念ながら、埋めたてられるまえにこの坂を登ったという記憶がない。
 墓地には善林寺と常安寺別院との墓が入りくんでいるように見える。
 石材屋さんとおぼしき人がいたので聞いてみたら、「山道の東側が常安寺、西がコウガンジ」の墓だと言う。
 そのとき聞き返しはしなかったけれど、訊いてみればよかった。
 光岸山善林寺をコウガンジ、光岸寺とよぶ習慣があるのか、あるいは単に言い間違えただけなのか……
 鍬ヶ崎の書画家で造り酒屋の近江屋を営んだ駒井常爾の墓は、この善林寺にあるという。
 以下は常爾の七代のちの子孫にあたる駒井隆治さんから聞いた話だ。
 1899年(明治32)に善林寺ができたとき、常安寺にあった一族の墓をここへ移した。
 常爾の父貞和の骨も京都の鳥辺山から分骨した。
 その墓を古墓〔ふるばか〕と駒井家ではよぶ。
 常爾の嫡子を治郎衛門達寿〔みちとし〕といい、やはり善林寺の墓地に葬られている。
 生前、東明という号で俳句をつくった。
 辞世は戒名の釋貞環とともに墓に刻まれている。
  寒月や真葛ヶ原に己礼〔われ〕ひとり
 真葛ヶ原は京の地名。
 戒名に冠した釋は釈の正字。
 辞書によると、仏教徒が釈迦と宗教的に同族であるという意味をあらわすため、法名の上に姓としてつける。
 とくに浄土真宗で使われるらしい。
 聞きもらしたが、常爾の父の貞和というのも戒名なのだろう。
 
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■ 汽車でまた…
 
 近世末から近代にかけての宮古の俳人に、駒井梅甫〔ばいほ〕がいる。
 鍬ヶ崎の書画家で造り酒屋だった駒井常爾〔じょうじ〕の親戚筋にあたり、やはり先祖は滋賀近江に発する。
 1817年(文化14)に小沢〔こざわ〕の近江屋吉郎兵衛家に生まれた。
 名を判治とも勇右衛門ともいい、吉郎兵衛を継いで近吉〔きんきち〕を通称とした。
 宮古代官所の下役をつとめ、かたわら、雪香庵梅甫の号で俳句をつくり、中央の俳壇にも知られた。
 1895年(明治28)5月31日死去、享年80。
 宗旨は浄土真宗大谷派。
 釈の字を冠した戒名と辞世を刻んだ墓が常安寺の本堂裏手にあるという。
 辞世――老〔おい〕ぬれば夜のみじかきも面白し
 「月刊みやこわが町」の1985年10月号に「雪香庵梅甫作品抄 駒井啓三氏蔵」という1ページがある。
 梅甫の遺した俳句のうち47句が載っている。
 時事性のある晩年の3句を紹介したい。
  万歳や渉〔わた〕りそめたる新晴橋
  渉り初む橋のながさや御代の春
 ともに74歳の句。
 1889年(明治22)にあたる。
 宮古市史年表をみると、この年1月20日に“新晴橋落成式。渡り初め”という記事がある。
 新晴橋はいまの宮古橋で、宮古と藤原を結んで浜街道に架けられた初の本格的な木造橋だった。
  汽車でまた御坐れ宮古の花の頃
 これは死の前年の1894年(明治27)、79歳の句。
 東京方面から来た句友か親類にでも贈ったものだろうか。
 東北線が盛岡まで開通したのは1890年(明治23)11月1日だったから、その4年後のことになる。
 宮古まで汽車が来るのは遥か後年になるが、東北にも及びつつあった文明開化の波に対する期待のような明るさが感じられる。
 老いてなおみずみずしいと言ったらいいか、そういうしたたかな感性の発露が、“老ぬれば夜のみじかきも面白し”という辞世にも通じる梅甫俳句の特性のひとつとしてあげられるように思う。
 
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◇ 資料 駒井梅甫俳句抄
 
 駒井梅甫の作品47句を掲げる。
 出典は「月刊みやこわが町」1985年10月号(?84)。
 原題は「郷土の文化を訪ねて 雪香庵梅甫作品抄 駒井啓三氏蔵」で、駒井啓三氏はすでに故人となられた。
 〔 〕内は読み。ひらがな・カタカナの混在は出典のまま。
 原典からの転記にさいして読み誤りや写し間違いなどがあったのではないかと思われる箇所もあるが、そのままに引用する。
 
どの雲も動かぬけふの暑かな
蜻蛉やついに来てつく釣の竿
炉開て住居のかはるこころかな
炭がまの煙り遠のく時雨かな
涼しさや遠く影ひく瓦斯の灯
もう降らぬかと思ひしに春の雪
雪空となる塩がまのけぶりかな
猫の子のわるさに紙子さかれけり
納涼〔すずみ〕にも乗た船なり月今宵
雨雲の崩れて高し蝉の声
正直に見得ての嘘や歳の暮
冬ざれや磯波によする蟹の甲
山里や又寝ころびて梅の花
草わけて見れば日のさす清水哉
凩ややせめめの見ゆる峰の松
咲そめて夕日に低き牡丹哉
負ふて行草にも見へて初嵐
秋雨やけふも又ふる空の癖
きれる程尾をふる犬や雪の朝
白百合を花見顔なき山家哉
風とる鳩の夫婦や神の留主
帷子〔カタビラ〕の娘やさしき茶の給仕
行雲と帰る雲あり今朝の秋
今下りるような声ある夜の雁
涼しさの見ゆるや磯の貝拾ひ
鐘の音の海に暮こむ時雨かな
初雁に軒端の風もなかりけり
豊さにうちを出けり夏の月
秋立やなにに迫るる竹の声
新らしき蓑きて出たり冬の雨
背負ふ子も起して見せよほたる篭
元日や扇をもたぬ人は来ず
明暮に山もと淋しほととぎす
うす寒き夜もまだあるにはつ蛙
ほととぎすいつも聞よき松の庵
ひとしきり雨の晴間や軒の蝉
むら雨の晴や小松を上る月
市人のせりあふ門や今年酒     七十三才
煤掃て家建た年数へけり      七十三才
万歳や渉りそめたる新晴橋     七十四才
渉り初む橋のながさや御代の春    右 同
水かれていとど広がる冬野哉    七十四才
雪積でゆたかに里の朝寝かな    七十五才
月雪の外の花なり飾松       七十五才
梅伐らぬ様絵図曳〔ヒク〕大工哉  七十六才
汽車でまた御坐れ宮古の花の頃   七十九才
老ぬれば夜のみじかきも面白し     辞世
 
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■ 悲願の寺
 
 江戸時代に、駒井常爾が京都から、みちのく宮古へやってきた。
 父の貞和が死んだあと、1766年(明和3)以後のことだった。
 そのまえに同郷近江の先輩で親類の近権〔きんごん〕こと近江屋権右衛門が宮古へ渡っていた。
 駒井常爾は近権を頼って移り住み、近江屋治右衛門、略して近治〔きんじ〕の名で蔵元を営んだ。
 同じころ近吉〔きんきち〕の近江屋吉郎兵衛も宮古にきて商いをし、宮古代官所の下役をつとめた。
 俳人の駒井梅甫は、この近吉の家に、1817年(文化14)に生まれている。
 常爾の死去した1814年から3年後のことだった。
 近江屋は、滋賀近江を発祥の地とする近江衆、いわゆる近江商人である。
 近江商人のほとんどは浄土真宗の信徒だった。
 宮古・鍬ヶ崎の近江衆にとって、真宗寺院の建立は“悲願”だった。
 常爾が宮古の土を踏んでから130年ほどたった1899年(明治32)、光岸地に善林寺ができた。
 このころになると近江屋一族も絶頂期をすぎて建立資金の工面に苦労したらしい。
 近治一族の墓は移ったが梅甫の墓が常安寺に残ったところをみると近江衆としての結束も緩んでいたと考えられる。
 宮古市史年表の1899年1月14日には、“富山県氷見郡善林寺の寺籍を宮古に移転開基”とある。
 同じ北陸の石川県小松市にある小松短期大学の先生、由谷裕哉さんが調査した「宮古市寺院概略」という一覧表によると、善林寺は東本願寺の北海道布教が契機となって1899年に富山から勧請され、開山は東館大道、檀家・信徒は鍬ヶ崎の越中衆が中心とある。
 ここでいう越中(富山)衆というのはよくわからないが、近江商人が経済的バックボーンとなり、みずから所有者となった北前船の廻船問屋やその関係者をさすとも考えられる。
 近江商人の乗った北前船は、蝦夷地の松前・江差・箱館をめざして北陸の港から日本海を北上し、海産物を積むと日本海を南下した。
 その一部が津軽海峡を抜けて太平洋へ回り、江戸へ向かった。
 近江屋を名のった権右衛門・治右衛門・吉郎兵衛たちは、はたしてどんなルートで鍬ヶ崎へやってきたのだろう。
 
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■ エチゼンクラゲ、北前船
 
 ことしもエチゼンクラゲが三陸沿岸にあらわれたようだ。
 大きいと直径2メートル・体重150キロになり、定置網に数百匹も入るというから漁業者にとってはたまらない。
 ところで、エチゼン(越前)といっても、この大型クラゲの繁殖地は黄海のほうらしい。
 中国大陸と朝鮮半島のあいだの海域だ。
 それがなぜエチゼンを冠しているかというと、福井県の水産試験場から標本が届けられたことに由来する。
 越前にとっては迷惑な話だ。
 越前と若狭にまたがる福井県では、マスコミなどに大型クラゲと呼び変えるよう働きかけている。
 しかし学名そのものをコウカイ(黄海)クラゲとかなんとか変えなければだめだろう。
 黄海で生まれたエチゼンクラゲは、日本海に入り、対馬暖流にのって北上する。
 津軽海峡に入ると津軽暖流とともに東へ向かう。
 太平洋に出たところで北から流れてくる太くて速い親潮(千島寒流)にさえぎられ、押されるように沿岸を南下し、宮古沖へと達する。
 異常発生するようになってからニュースにとりあげられ広く知られるようになった。
 しかし昔から存在してはいたのだろう。
 日本海を北上して太平洋に回りこむ潮も太古から流れていたはずだから、エチゼンクラゲに限らず、この潮の流れはいろいろなものを日本海から運んできたにちがいない。
 船もそのひとつだ。
 宮古港が藩の海の玄関に指定されたのは1615年(慶長20)だった。
 その9年後の1624年(寛永1)、酒田から米を積んだ一艘の船が日本海、津軽海峡をへて鍬ヶ崎に入った。
 これが東廻り航路の幕明けだったとする資料もある。
 酒田といえば本間家の本拠地だ。
 1624年に鍬ヶ崎へ入ったという船は、
 “本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿さまに”
 と歌われた豪商・大地主の仕立てた北前船だった可能性が高い。
 越前の敦賀や若狭の小浜を出帆した北前船も、風を受け、海流を利して、しばしば鍬ヶ崎へ姿を現わした。
 つまり、エチゼンクラゲのやってくるルートは千石船のやってくる海上の道でもあった。
 
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■ カネニマル
 
鈴徳
 光岸地の切り通し坂を歩いていたら、鈴徳の看板が目についた。
 地元ではスットグさんと呼ばれ、茹で蛸の老舗として知られる。
 鈴木徳ナントカという人が創業したのだろう。
 看板には鈴徳という屋号のほかに屋印が描かれている。
 この屋印が読めない。
 カギカッコのようなカネ印のなかに、縦に二〇とある。
 店を覗くと女将さんらしき人がいたので聞いてみた。
 「看板にある印、めずらしいですね。
 なんて読むんですか」
 「あぁ、これね。
 カネニマルっていうんですよ」
 「あぁ、なるほど」
 言われてみると簡単だ。
 そのまま素直に読めばよかったのだ。
 ついでに、こういう印は一般的になんと呼ぶのか聞いてみた。
 すると、ナヤジルシという答えが返ってきた。
 ナヤ印。
 ナヤを漢字でどう書くかはわからないと言う。
 納屋かもしれない、とぼくは思った。
 買いとったものを収納する納屋だ。
 魚屋とも考えられる。
 魚はナと読む。
 魚屋〔なや〕印ならぴったりだ。
 ただし、これでは魚屋さんの印にしか使えない。
 魚菜市場の青年部長さんは市場内の魚屋さんに、ヤナ印と教わったらしい。
 これも漢字ではどう書くかはっきりしないが、鈴徳の女将さんの言うナヤ印のほうが受けとりやすい。
 ひょっとして、ヤナ印は聞き違いという可能性がないでもない。
 その足で出崎埠頭の魚市場に行った。
 正面は巨大なビニールシートで閉ざされ一般人は中に入れない。
 外にひとり市場の人がいたのでナヤ印のことを聞いてみた。
 「ナヤ印はわがんねぇ。
 屋号の一種だぁな」
 特に名称はなく、店名とひっくるめて屋号と呼んでいるらしい。
 光岸地の鈴徳さんは分店で、本店から暖簾分けしたと女将さんは言っていた。
 本店の場所は聞き漏らした。
 肝腎なことを聞き漏らすのが得意で、その本店のナヤ印を聞くのも忘れた。
 分店がカネニマルなら、本店はカネマルかもしれない。
 二は2番めの店、分店の意味かもしれないなと今になって推測しているのだけれど、はたしてどうだろう。
 
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■ 屋印あれこれ
 
 光岸地にある鈴徳さんの屋印は ┐のなかに縦に二○と書いて、カネニマルだった。
 ┐をカネと読む。
 曲尺〔かねじゃく〕のカネだ。
 ┐のつく屋印をほかにあげてみよう。
  末広町  山口商店   ┐山 カネヤマ
  新川町  中居製材所  ┐キ カネキ
 中居製材所というのは、いまはない。
 市役所のあたりにあった材木屋さんで、キは鍬ヶ崎の喜四郎屋と同じように喜の草書体を書いた。
 町なかでいちばん目につくのは○(マル)だ。
 例をあげると、
  臨港通  小可由商店  ○タ マルタ
  光岸地  小可孝商店  ○三 マルサン
  築地   小可理商店  ○大 マルダイ
 この3店は水産業。
 縁戚かなにかなのだろう。
 小可は“小が”とも書き、小可由はオガヨシと読むはずだ。
 小可孝、小可理は、オガコウ、オガリだろうか?
  鍬ヶ崎  喜四郎屋   ○キ マルキ (昔はキッコーキ)
  築地   島香魚店   〇S マルエス
  本町   高京     〇高 マルタカ(高は旧字)
  横町   丸石家具店  〇石 マルイシ
  中央通り 坂下鮮魚店  〇ヒ マルヒ
  大通り  佐々由商店  〇サ マルサ
       上野製麺所  〇上 マルウエ
  和見町  小松商店   〇栄 マルエイ
 つぎに多いのは∧(ヤマ)だろう。
  鍬ヶ崎  岩徳電器   ∧ト ヤマト
       あめや菓子司 ∧七 ヤマシチ
  西町   山内魚店   ∧K ヤマケー
 ∧をふたつ横にずらして重ねるとイリヤマと読むらしい。
 本町にある東屋の屋印は、イリヤマの下に大の字を書いてイリヤマダイ。
 南町にあった雑貨卸問屋の“はりまや”は、イリヤマの下に二を書いた。
 屋号は先祖が播磨の国、いまの兵庫県南西部の出身だったことにちなむという。
 
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■ 屋印あれこれ 2
 
 けむぼーさんが小可孝商店、小可理商店について教えてくれた。
 おとうさんに聞いてくれたそうだ。
 おおよそこんな話だった。
 ――小可孝はオガコウ、小可理はオガリと読み、小可由(オガヨシ)も含めて魚の出荷(卸)業のようです。
 みな兄弟で、兄弟がいっぺーいで(いっぱいいて)、小可富(オガトミ)や小可忠(オガチュウ)という店もあるそうです。
 オガは小笠原から、その下の由や孝や理などは、それぞれの名前からきているようです。云々
 調べてみると、小が富商店は藤原にある。
 小可忠はわからない。
 小可が苗字かな?と首をかしげていたら、小笠原からきているという。
 本来が小笠原孝一商店だとしたら、それをオガコウと縮め、小が孝、小可孝と表記したのだろう。
 可というのは、漢字一字でカナをあらわす万葉仮名と同じ。
 ガを表わすためには手書きの看板なんかだと可に濁点をつける。
 ところで、宮古の商店にまたいくつか屋印をみつけた。
  藤原   三上商店(魚屋) ○上 マルカミ(マルウエ?)
  黒田町  長谷川製材所   ○万 マルマン
  末広町  山清商店(酒屋) ○ヤ マルヤ
       山康商店(土産物)∧大 ヤマダイ
  舘合町  小笠原製麺所   ∧キ ヤマキ
  駅前通り 蛇の目       ○ ジャノメ
 三上商店の○上は、ちょっと迷う。
 マルカミでいいだろうか?
 長谷川製材所は、かつて山口川に架かる大勝橋の北西にあった。
 記憶にはないが、材木に○万の焼き印がおしてあっただろう。
 蛇の目は、極太の○印。
 パソコンでは出ない。
 家紋の一種でもあり、蛇の目を名のる全国の寿司屋さんが使っているようだ。
 そういえば、蛇の目の向かい、駅前の東側に、かつて日通の黄色い倉庫があった。
 ○通マークも屋印の一種といっていい。
 横町にある小本屋本店の店頭には□(カク)のなかに/(斜線)を引いた升印が描かれていた。
 小売り酒屋を意味する升酒屋の印なのか、屋印として使っているのかは微妙だ。
 
【屋印追加】
 臨港通  須藤水産 ○ス マルス
  魚菜市場にあるシーフーズ須藤(○水=マルスイ)は須藤水産  の関連会社
 
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■ 鮭の白子の香味焼き
 
 またひとつ屋印を目にした。
  磯鶏 鈴木商店(魚介類卸) ○洋 マルヨウ
 「サケの白子を特産に 宮古で加工品開発」という記事が10月9日付の朝日新聞岩手版に載った。
 “宮古市の男性2人がサケの白子に着目”という出だしで、磯鶏の和山藤男さんと魚介類卸売業の鈴木洋さんが開発した“白子の香味焼き”が紹介されている。
 この鈴木さんの店が鈴木商店で、屋印が○洋だった。
 白子の香味焼き――
 これは鮭の白子を炭火で焼き、油で揚げ、醤油・酒・水飴で味つけしたもの。
 保存料などの添加物は使わない。
 二度加熱してあるので1ヵ月は冷蔵庫で保存がきく。
 宮古地方振興局が主催し、10月1日に開かれた宮古・下閉伊モノづくり新製品開発発表大会で金賞(一等賞)を受賞。
 鈴木さん・和山さんは「宮古の特産品に」と商品化へ意欲を燃やしている、という。
 先日、近所のスーパーで生の鮭の白子がパックで売られていた。
 三陸宮古産ではなく北海道産だったのは残念だけれど、このへんでは珍しいので買った。
 266グラム、税込み207円と安い。
 宮古で鮭の白子のパックなんか売っているだろうかと shiratori さんに聞いてみたら、この半値くらいで売られているらしい。
 鍋もの用と書いてあったのを無視して、生で少し食べてみた。
 ちょっと生臭い。
 醤油をたらすとうまい。
 ただ、回虫(アニサキス)が怖いので、あまり箸は進まない。
 鍋に入れた。
 水炊きにし、醤油をたらして食べた。
 むっちりしているのに舌の上でとろける。
 くせはまったくない。
 1パックあっというまに食べ切り、もっと買っておくんだったと悔やんだ。
 翌日店をのぞいたら、なくなっていた。
 けっこう売れるらしい。
 鮭の白子は低脂肪で高蛋白のかたまりだから体にもいい。
 生なら鍋をおすすめしたい。
 加工品なら〈フグの白子焼きに勝るとも劣らない三陸の珍味〉をうたう宮古・鈴木商店の〈白子の香味焼き〉がよさそうだ。             (2006)
 
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■ 電報電話局裏の石碑
 
 築地の国道106号と45号とがつながる通りは、築地通りと呼ぶのだろうか。
 築地通りというと、もう一本、北側の通りを思い浮かべる。
 この築地の本通りに、牧庵鞭牛〔ぼくあんべんぎゅう〕和尚の石碑が建っている。
 石碑そのものは目立たないけれど、大きな案内板がある。
 電報電話局――いまのNTT東日本宮古サービスセンターの敷地内で、標柱には〈鞭牛碑群〉と記されている。
 市内にちらばっている鞭牛の石碑を、鞭牛碑群と名づけたのだろう。
 1991年(平成3)7月25日に、まとめて宮古市の文化財(史跡)に指定されている。
 ここにあるのは、その鞭牛碑群のうちの道供養碑だ。
 小さな自然石は上が欠け、わずかに〈宗六世〉という文字が読みとれる。
 欠けたところには林とあったらしい。
 林宗六世――
 鞭牛は釜石市栗橋にある林宗寺の第6代住職だった。
 案内板を見ると、1760年(宝暦10)以降に建てられたと推定されているという。
 なぜこんなところに?
 と不思議な気もする。
 鞭牛は道路の改修や開削に半生を捧げた僧侶だ。
 その名は難所という言葉と結びついている。
 こんなところに難所があったのだろうか。
 石碑のある場所は、ちょうど愛宕神社の南裾にあたる。
 狭い道だけれど難所という感じはしない。
 鞭牛の生きていた1700年代には、山裾はもっと突き出ていて、湾入した海に面して荒磯になっていたらしい。
 山裾の磯伝いに宮古から鍬ヶ崎へかよう細い道が通じてはいたけれど、通ろうにもなかなか通れなかった。
 そこで、七戻〔ななもど〕りという地名が生まれた。
 鍬ヶ崎の遊郭に行こうかどうしようか何度もここで迷ったという由来譚も伝わっている。
 ほんとうは、打ち寄せる荒い波のあいまをみて何度も行ったり戻ったりしたあげくに、やっと渡ったところからつけられたらしい。
 いまはなんの変哲もない整備された道路も、むかしは難所だった。
 鞭牛は、この難所を改修し、往来する人の安全を祈って道供養碑を建てたのである。
 
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■ あれ? 鞭牛さん…
 
 旧山口川が閉伊川に注ぐ水門のかたわらにブロンズ像がひっそり建っている。
 あれ? こんなところに……
 と思った。
 場所は市役所の裏手、東側。
 閉伊川の岸壁沿いに延びる国道106号バイパスの歩道の脇で、築地と新川町の境だ。
 茶色い台石に、
 “道路開削の先駆者 牧庵鞭牛大和尚の像”
 と刻まれた黒い御影石の銘板がはめこまれている。
 台石に載っているからそれなりに高さはあるものの、像自体は1メートルに満たない。
 さすがの大和尚も可愛い小僧さんのような感じで、
 「鞭牛さん」
 と思わず呼びかけてしまいたくなった。
 「鞭牛さん鞭牛さん、どうしてこんなところに立っているんですか?」
 しばらくして鞭牛さんの声が聞こえた気がした。
 「ここは難所の多かった閉伊街道や浜街道の合流点だからさ」
 その脇を車がビュンビュン走っている。
 歩いている人はいない。
 ひょっとしたら、この鞭牛さんに気づいている人はほとんどいないんじゃないだろうか。
 そう言うぼくも知らなかった。
 鞭牛さんがどんな人だったのかも、詳しくは知らない。
 電報電話局の裏にあった道供養碑の案内板には、鞭牛さんについて簡単に紹介してあった。
 そのおおよそを引用してみよう。
 ――鞭牛は1710年(宝永7)和井内村に生まれ、1782年(天明2)に死んだ。
 青年時代に出家し、38歳で橋野村、いまの釜石市栗橋にある林宗寺の6世住職となった。
 当時の道は危険な難所が多く、住民や旅人は難儀をしていた。
 鞭牛はこれを見かね、寺を弟子にゆずって道路改修に半生を捧げた。
 鞭牛が改修した道は宮古街道をはじめ108ヵ所におよび、動員された人足は6万9384人と記録されている云々
 鞭牛さんの像は、きょうも走り過ぎる車の群れをみつめながら、ひとり静かに道行く者の安全を祈っているのだろう。
 
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■ 鞭牛さんの逸話
 
 鞭牛さんが生まれたのは、和井内村の清水にある栓ノ木という農家だったらしい。
 生家の跡には標柱が建っている。
 
 閉伊街道の最大の難所は、蟇目にある大平〔おおだいら〕熊の穴というところだったらしい。
 鞭牛さんがここを開削したさいに多くの村びとが協力し、犠牲者も多く出た。
 “宝暦八年五月”銘の供養碑が建っている。
 宝暦8年は1758年にあたる。
 
 和井内の片平川上流にある片平の滝は大滝とも呼ばれる。
 JR岩泉線の岩手和井内駅に近い宝鏡院から3キロほど離れたところで、ここで鞭牛さんが修行したといわれる。
 この滝につづく山道は昼でも寂しく、むかし女が通ると必ずなにものかにいたずらされた。
 その話を聞いた鞭牛さんは三七日〔さんしちにち〕つまり21日のあいだ坐禅を組んで祈祷し、妖怪を追い払った。
 村びとは鞭牛さんの法力を徳として、滝のほとりに不動尊を祀ったという。
 
 荒れ果てていた長沢の十三仏を鞭牛さんが復興したという。
 長沢川の十三仏より上流に岩屋、つまり岩穴・洞窟があって、ここに鞭牛さんは住んでいた。
 入口の碑には、こんな歌が刻まれている。
  長沢の南の又の岩の穴 本来空の住みかなりけり
 この歌は鞭牛さんの詠んだものとされる。
 
 鞭牛さんは「忘想歌千首」という自筆の歌集を残している。
 妄想歌ではなく忘想歌だ。
 抑えても抑えきれないさまざまな欲望、うつろう雑念、そんな想念を忘れるための歌という意味だろうか。
 いくつか紹介すると、
  春は花 こころの花も花ざかり
         野にも山にも花のおおさよ
  夏は夢 夢ばかりなる草まくら
         夢とむすばん あくるよのそら
  読み置くぞ かたみとなれや歌ごころ
         われはいづくの土となるらん
  死はやみじ(闇路) やみじ行くべき便りには
         申しおきたる坐禅念仏
 
 鞭牛さんは73歳で死んだ。
 釜石の隠居所で坐禅を組んだまま入寂したとも伝えられる。
 墓は林宗寺にある。
 
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■ けむぼーさんの「宮古の店こ屋さん」
 
 けむぼーさんの描いた「宮古の店こ屋さん」の展覧会が末広町で開かれている。
 期間は、12月1日から25日まで。
 場所は、とみや文具店の向かい側にあるイベント会場。
 けむぼーさんのホームページ「けむぼー温泉」に「宮古の店こ屋さん」という企画が登場したのはいつだったろう。
 ウェッブ・コンテンツらしい楽しいカラクリにあふれたページをスクロールして見ていくと、いちばん下に、むかし第一常盤座だった建物の絵がある。
 これが最初で、以後、描き継ぐこと全26軒。
 何枚にも描き分けている店があるから点数はもっと多くなる。
 本町の岩間青果店、駅前の増坂書店、中央通りの毛糸・裏地・ボタン・手芸の“まりや”という看板を掲げている古い木造の建物、以下場所は略すけれど、たかしち喫茶店、はなふくラーメン店、土屋商店、山崎カメラ店、みかわ屋餅店、藤田屋菓子店、いづもや陶器店、さわだや食堂、国際劇場、谷口薬店、永田商店、中村屋煎餅店、マルイ自転車店、小松商店、箱善米穀店、田中時計レコード店、シューズキクチ、割烹おかめ、とみや文具店、生蕎麦の藤七屋と直助屋、衣料品・雑貨の島屋……
 ぼく自身に思い出のある店も多い。
 シャッターを降ろしたままだったり模様替えしてしまった店、もうなくなってしまった建物もある。
 そんな宮古の店を、こんなに描きつづけた人はいないだろう。
 それだけでも貴重なのに、けむぼーさんの絵は一点一点が、ほのぼのとした味わいに満ちている。
 心が温まってくる。
 本人が楽しみながら描いているのが伝わってくる。
 ちなみに増坂書店の絵に添えられた文章の一部を引用すると、
 “宮古の懐かしい建物を好き勝手に描いていくのって、とっても楽しい。
 絵がほんと SWING しそうです。
 高校時代、「SWING JOURNAL」は増坂書店さんから買っていだったがぁすぅ。”
 見る人はちゃんと見ているもので、展覧会の開催は末広町の振興会から申し出があったらしい。
 けむぼーさんの作品に最初から注目していた一人としては、いっしょにスウィングしたくなるような話だ。    (2006.12.2)
 
けむぼー温泉宮古の店こ屋さん
 
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■ とみやは登美屋だった
 
 けむぼーさんの「宮古の店こ屋さん」が展示されている末広町のイベント会場とはなんだろう。
 そう思ってネットで調べてみた。
 名前は、すえひろ亭。
 空き店舗を利用して運営されている市民ギャラリー、催事場だという。
 運営しているのは、末広町商店街振興組合なのか宮古商工会議所なのか、はっきりとはわからなかった。
 住所は末広町4−1。
 とみや文具店の向かい。
 向かって右どなりの角地はいま、オールスという名のスポーツ用品店になっている。
 すえひろ亭のある場所には以前、100円ショップがあったという。
 そのまえは鞄屋さんかなにかがあったんじゃないだろうか。
 そうだ、末広町商店街のホームページに地図が載っていた。
 そこに出ているかもしれない、と思ってアクセスした。
 ホームページは消えていた。
 いつのまにか、なにかが変わってしまう。
 けむぼーさんの描いた、とみや文具店の絵を見ていて、ふと気づいた。
 むかしは看板に登美屋と書いてあったなと。
 確かめようと思っていろいろ調べてみた。
 「月刊みやこわが町」の1993年(平成5)10月号に「ネーミングのルーツを探る」という特集があり、そこに、とみや文具店の記事も載っていた。
 とみやはむかし登美屋紙店といった。
 盛岡に本店があり、1935年(昭和10)に暖簾分けして宮古支店を開いた。
 戦後、宮古支店の弟さんが引き継いで登美屋文具店となった。
 1980年(昭和55)に株式会社化し、平仮名で“とみや”とした。
 1980年ころ、ぼくは宮古にほとんど帰ることがなくなっていた。
 知らないうちに登美屋文具店は、とみやになった。
 登美屋に足を踏み入れるようになったのは中学生になってからだった。
 小学生のころ、文房具類は宮小の正門脇にあった永田商店で買っていた。
 その永田商店も、いつのまにか店を閉じたのだけれど、けむぼーさんの画集「宮古の店こ屋さん」のなかには当時を偲ばせる姿のままに描かれている。
 
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■ 屋号・店名の由来
 
 商店の名前というのも、おもしろい。
 けむぼーさんのイラスト作品集「宮古の店こ屋さん」を眺めていて、そう思った。
 岩間青果店や増坂書店などのように苗字を冠した店名が多い。
 たかしち、箱善などは人名を略したのだろうか。
 たとえば創業者が高橋七兵衛だったとか、箱石善助だったとか。
 藤七屋、直助屋なども人名なのだろうか。
 みかわ屋、いづもやは創業者や先祖の出身地の旧国名をあらわしているのかもしれない。
 そういえば、近江屋とか播磨屋、伊勢屋というのもあった。
 はなふく、おかめ――
 はなふくは花福とも書く。
 おかめは、お多福に通じる。
 字の縁起がいいから屋号にしたのかな。
 そんな思いをめぐらすのも楽しい。
 ほかにもまだまだ想像力を刺激する屋号・店名がある。
 蛇の目、外交、鯛屋、あめや、かんもん、などなど。
 前の文章で、登美屋がとみやになったいきさつを引用させてもらった「月刊みやこわが町」1993年10月号の特集「ネーミングのルーツを探る」には、これらの屋号・店名の由来も載っている。
 詳しく知りたい方は、市立図書館にでかけるか、お手持ちのバックナンバーを探すか、なかったら編集部に在庫の有無をたしかめたうえ注文していただきたい。
 といっても、なにぶん10年以上まえの古い号。
 なかなか見られないかもしれないから、何回かに分け、記事から要点をかいつまんで引用したい。
 ついでに蛇足もつけくわえておこう。
 たとえば蛇の目。
 駅前の蛇の目は1938年(昭和13)に開店した。
 いまはぼくと同期の人間が主人になっているはずだ。
 屋号は各地にある蛇の目寿司の名を思いつきでそのまま利用したという。
 蛇の目の印は中が白い太丸で、単純なだけに目立って力強い。
 開くと蛇の目の文様があらわれる蛇の目傘というのもあり、もともと家紋・紋所として使われた。
 寿司屋の屋号・屋印として広まった理由は調べてもわからなかった。
 
「月刊みやこわが町」
 
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■ 気になる店おかめ
 
 宮古でいちばん気になる店は?
 もし誰かにそう聞かれたら、料亭おかめと答えるだろう。
 末広町に昔からある老舗。
 通るたびにいつか暖簾をくぐってみたいと思いながら、いまだに実現していない店である。
 建物の向かって右側に、おかめの暖簾がかかっている。
 目立たないけれど、左側にはもうひとつ出入口があって、こうじやという看板が掲げられている。
 この店もふしぎな存在だ。
 「月刊みやこわが町」1993年10月号の特集記事「ネーミングのルーツを探る」を読んで、なるほど、そうなのかと思った。
 このこうじやこそ、おかめの前身、母体にあたる店だった。
 経営者の姓を宇都宮といい、はじめは味噌・どぶろく・甘酒をつくるこうじ(麹・糀)を商っていたので、屋号をそのままこうじやとしたらしい。
 かたわら、蕎麦屋もやっていた。
 末広町が田んぼのなかにできたころ、というから1926年(昭和1)のことだろう、先代が料亭を開いた。
 屋号のおかめは、縁起のいいお多福の面を想像させる。
 じつは当時の常連客3人の苗字から一字ずつもらって組み合わせたという。
 客を大事にする心のあらわれといえるユニークな命名法だ。
 以来、同じ場所で営業をつづけ、末広町を代表するような老舗になった。
 その秘密は、“切れのある料理のおいしさ、隅々まで行き届いたもてなしの心、リーズナブルな値段”という、けむぼーさんが「宮古の店こ屋さん」にそえた言葉に尽きるだろう。
 こうじやでは、いまも麹や味噌をつくって売っているようだ。
 ハーチャンという人の話では、“おいしいと言って母はお味噌をときどき買って”いるという。
 老舗の料亭で実際に使っているこうじ、うまい味噌が末広町で手に入る――
 これは案外、宮古でも知らない人が多いかもしれない。
 ついでに書くなら、おかめの2階の末広通りに面した窓側は、秋祭りのパレードを見物するのに絶好の特等席だという。
 こういう話を聞くにつけ、料亭おかめは宮古の数多い飲食店のなかで一度は入ってみるべき店という思いが強くなってゆく。
 
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八幡鳥居の前は、交差点だった。   OCCO * 投稿
 
 子どもの頃を過ごした宮町(旧八幡前)周辺の古い地図を見て驚いてしまった。
 それはたぶん昭和30〜40年代ぐらいのものだろう。
 このあたりは、いまでこそ106号バイパス(現国道106号)と旧女学校通りの交差点を中心に、宮古市で最も渋滞の名所となっているが、当時から思うとまったく隔世の感を禁じえない。
 バイパス工事が始まったのが昭和44年頃。
 大掛かりな区画整理によって八幡前は大きく変容した。
 かろうじて旧街路の名残をとどめているのは、鳥居から八幡様に向かう参道周辺だろうか。
 地図を眺めていたら、いまの見慣れてしまった風景にすっかり埋まって忘れていた風景が、記憶の奥から甦ってきた。
 バイパスの交差点から小山田橋へ向かって30メートルほど、八幡鳥居の前は、40年前は交差点だった。
 つまり参道から鳥居を抜け交差点を越えてまっすぐに道が伸び、右手に国鉄官舎と独身寮を見て田んぼにぶつかる。
 そこを右に行くと宮高。
 左に行くと銀杏の湯があり、さらに道なりに線路沿いを行くと八幡沖踏切に至る。
 交差点の4つの角は、一中側のガッチャンポンプ(現在、公衆電話)から時計回りに、朽木邸、多田商店、その向かいが現在宮古歯科となっている宮古服飾学院だった。
 宮古服飾学院は昭和37年にできたという。
 周辺がほとんど平屋だった時代、いきなりできた3階建ての真っ白なビルで、八幡様から観ると宮古市内でもとても目立った。
 紺色の制服をきたお姉さんが、とても大人に見えたものだった。
 記憶を手繰っていたら交差点から旧女学校通りのお店がぽんぽん目に浮かぶ。
 多田薬局の左側に内野屋食堂、もっきりの佐々木酒屋、八幡コロッケ・串カツの畠山精肉店、文具からお菓子までの今井商店、小さな庭を挟んで丸子八百屋が並び、八幡商店街をつくっていた。
 当時、女学校通りは未舗装で車が通ることなどほとんどなく、朝夕だけ宮高と一中の生徒、国鉄やラサに勤める職員の人通りで賑わった。
 お盆になると交差点の真ん中にやぐらを組み盆踊りも催されたものだった。
 もう40年も昔のことである。
 
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■ 鍬ヶ崎の鯛屋
 
 鍬ヶ崎の本通りの突きあたり、熊野町に一軒の商店がある。
 ヤマザキショップの看板がめだつ鯛屋商店だ。
 むかしは建物上部の真ん中に、アルファベットを図案化したマークが描かれていた。
 たぶんTaIYaを略したもので、縦に並んだTIYという英字のTの横棒が丸く下に伸びてIYの文字を囲んでいた。
 このおもしろい屋印は、いつ消えたのだろう。
 鯛屋にはパン類を中心とした食料品や日用雑貨が並んでいる。
 いわゆる万屋〔よろずや〕、今風にいえばコンビニエンスストアになるだろうか。
 屋号は前身が魚屋だったのかなと想像させる。
 ところが、鯛は鯛でも餡この入った鯛焼きだったらしい。
 「月刊みやこわが町」1993年10月号の特集記事「ネーミングのルーツを探る」によると、大正の初めに長蔵という人が大正軒という屋号で鯛焼き屋を始めた。
 れっきとした屋号があるのに、鯛焼きが評判を呼んで鯛焼き屋としか客は呼ばない。
 そのうち屋号を鯛屋に変えた。
 鯛焼きばかりではなく、やがて鰹せんべいをつくって売り出す。
 これがヒットし、1925年(大正14)に岩手日報が県内の観光物産の人気投票をやったら宮古土産のいちばんになった。
 この人気商品は、残念ながら太平洋戦争下の物資統制で製造をストップしたまま復活しなかった、という。
 大正の初めというと1912年以降だから、創業100年に近い。
 記事には書かれていないが、客には甘い物好きの花街の女たちが多かったかもしれない。
 鯛屋の姓は古舘だったと思う。
 ジプシー・ヴァイオリニストとして知られる古館由佳子さんの実家が、この鯛屋商店だという話を聞いたことがある。
 桐朋学園大学音楽学部を卒業してジプシーの音楽に接し、魅力にとりつかれてみずからジプシー・ヴァイオリンを弾くようになったらしい。
 世界を舞台に活躍する宮古人のひとりだ。
 ことし6月には「宮崎駿の世界 ヴァイオリンとピアノの調べ」というアルバムを発表した。
 クレジットにはYuKaとある。
 実家のTIYという屋印を思い浮かべてしまった。
                  (2006.12.9)
 
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■ 七滝湯と不動園
 
 鍬ヶ崎には、七滝湯と不動園という2軒の一風変わった名前の銭湯がある。
 不動園は日影町で、鍬ヶ崎小学校の南側にある。
 名前の由来はわからない。
 近くにはコーセーサマと呼ばれる金勢神社がある。
 お不動さまもあるのだろうか。
 七滝湯は鍬ヶ崎仲町の海岸通りにある。
 たまたま借りて眺めていた増坂勲さんの水彩画集「わが町宮古を描く」にも出ている。
 絵には短い文章がついていて、創業は明治27年と書かれている。
 明治27年は1894年だから、いまから112年も前になる。
 調べてみたら、どうやら宮古でいちばん古い銭湯のようだ。
 屋号は、小山の坂から滝のように流れ落ちる梅翁寺川の沢水を使ったところから滝の字を入れ、縁起のいい七福神の七と組み合わせたという。
 創業者を袰岩(ほろいわ)伴治といい、その名から親しみをこめて伴治湯(ばんじゆ)とも呼ばれた。
 沢水がミネラル分を含むことから鉱泉の風呂としても人気になったという。
 漁港の銭湯なので客は漁業関係者が多い。
 サンマ漁の季節などには入港する漁船から深夜でも連絡が入る。
 そんなとき、たっぷりと熱い湯を沸かして迎える。
 「月刊みやこわが町」1993年10月号の特集記事「ネーミングのルーツを探る」によると、裏山から流れ落ちる沢水は、杉の木のトヨで引き込んでいた。
 トヨは樋のこと。
 その梅翁寺川の水はいまでも流れているが、風呂には水道水を利用している、という。
 銭湯はどんどん減っている。
 鍬ヶ崎にも以前は4軒の銭湯があった。
 廃業した2軒は弁天湯、幸の湯といったようだけれど、もう確認できなくなっている。
 七滝湯と不動園という風変わりな名前の銭湯の釜の火は、いつまでも消えずにいてほしいものだ。
 
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「わが町 宮古を描く」   うらら * 投稿
 
 昨年の夏十数年ぶりに帰省した時、宮古の町が大きな変貌を遂げているのを見て驚きました。
 新しい建物が立ち並ぶ場所からは、以前そこになにがあったのか思い出せません。
 出逢い橋の上に立った時、「ここは本当に宮古?」と、まるで知らない町を見ているかのようでした。
 そして沢山のお店がシャッターを下ろしている末広町からは、不況の大きな波が宮古の町にも押し寄せてきたことを、まざまざと知らされます。
 十数年間の空白がなければ、こんなにも強い衝撃を受けなかったかもしれません。
 懐かしい思い出が消えていく風景とともに薄れてしまいそうで、悲しくなりました。
 今年の秋にインターネットの掲示板で、一枚の絵を見ました。
 それは今ではもう取り壊されて駐車場に変わってしまった昔の市立図書館を右手に、横町の方へ向かっている道を描いた水彩画でした。
 市立図書館は中学、高校と夏休みに調べものによく通った思い出の場所です。
 とても懐かしく、気持ちは一気にその時代に飛んでしまいました。
 友人と図書館で話していた会話、その時の、その場の空気も思い出され、消えてしまった時代が明るく蘇ってきました。
 その水彩画は宮古に在住され、沢山の素晴らしい絵を描き続けられている画家の増坂勲先生の作品、「わが町 宮古を描く」という画集の中の一ページでした。
 画集は平成7年に印刷されています。
 宮古駅から始まり、最後のページの十字架山から藤原方面を望む絵までの55枚は、イーゼルやスケッチブックを片手に増坂先生が市内を歩き回って、長い年月をかけて描きつづってこられたものです。
 一枚一枚の絵には、その風景にまつわるエピソードや、ご自身の想いが文章で添えられてあります。
 元気だった時代の宮古の町が生き生きと描かれ、懐かしい風景が鮮やかに描き出されています。
 そこには消え行く風景を絵の中に残しておきたいという、増坂先生の宮古を愛する気持ちがあります。
 画集に書かれてあった先生の文章に、「好きな町宮古、それを絵にすること、そして見てもらうこと、そして改めて宮古を考えてもらうこと」これが私の仕事なのかもしれない‥‥とありました。
 時は流れ町は大きく変わってしまいました。
 けれども、宮古の一人の画家の方が故郷の町を心を込めて描かれたかけがえのない絵とその心は、画集を閉じても私の中に残っています。
 
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■ 外交という名の釣具店
 
 外交という不思議な名前の釣具屋さんがある。
 子どものころ、大通りを東へまっすぐ行って向町を抜け、閉伊川河口の岸壁で釣りの真似事をした。
 岸壁に近い大通2丁目の外交で、いちばん安い釣竿を買った。
 そのときの親父さんの面影は覚えていない。
 同期生にこの店の息子がいる。
 高校を卒業するまで彼が外交の息子だとは知らなかった。
 あとになって人の話で知った。
 顔や背格好を覚えている。
 いまは店を継いで、いい親父さんになっているはずだ。
 ぼくが釣竿を買った親父さんは、そのいまの彼に似ているような気がする。
 外交という名の由来も、子どものとき、人の話に聞いた。
 釣具屋になるまえは飲み屋だったという。
 外交は外回りの営業。
 外交で飲んできたといえば奥さんや家族のてまえ言い訳のひとつになるだろう。
 そんな嘘のような理由で店名にしたらしい。
 冗談半分にちがいないが、おもしろいなと子供心に思った。
 あとになって飲み屋というのはカフェのことだと知った。
 むかしの西洋酒場だ。
 女給、ホステスさんがいた。
 ほかにも戦前の宮古にカフェはたくさんあったらしい。
 赤玉、祗園、銀座会館、金の星、新屋食堂、中央軒、満洲、洋洋、エーワン、キリン、キング、スズラン、モンパリー……
 こう並べてみても外交という名はユニークだ。
 戦争が厳しさを増すなか、カタカナの店名は日本語に変えられ、やがてカフェは閉鎖されてゆく。
 「月刊みやこわが町」1993年10月号の取材記事「ネーミングのルーツを探る」によると、創業者は中村喜一。
 昭和初期というから1926年以降に、黒田町でカフェ外交を開いた。
 黒田町から田町、そして現在地へと移転。
 1943年(昭和18)に戦時統制で店を閉じた。
 釣具店として営業を再開したのは1955年(昭和30)のことだという。
 ちょうど息子さんが生まれたころだ。
 店主の名は中村裕一。
 40年まえ、ぼくが釣り道具を買った親父さんは、記事から推測すると、いま77歳になる。
 
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■ 八幡さまの参道
 
 八幡さまの参道は、一中(第一中学校)の北辺に沿って、石段から鳥居まで延びている。
 そこから東にも、むかしはずっと参道が延びていたらしい。
 横山八幡宮から北東へ1キロ弱ほど離れた、大通1丁目と向町のあいだの通りを、かつては田町通りと呼んでいた。
 田町は江戸期にできた古い町で、この田町の通りと大通りとがぶつかるところに、朱塗りの鳥居が東を向いて建っていたという。
 鳥居は八幡さまの一の鳥居である。
 いまの一中のところにあるのは二の鳥居だった。
 一の鳥居から二の鳥居まで、八幡さまの参道は緩やかなS字カーブを描きながら田んぼのなかを通っていた。
 一面の田んぼになるまえは閉伊川の川原や湿地だったことを示すように、中川原という字〔あざな〕が残っている。
 二の鳥居のまえから南へ分かれ、閉伊川を舟で渡って小山田へ向かう道は小山田道と呼ばれた。
 のんびりした参道を様変わりさせたのは鉄道の開通だった。
 当時の宮古町で山田線の建設工事がいつ始まったのかは調べてもわからなかったが、1933年(昭和8)4月に、まず駅前通りができたらしい。
 翌34年(昭和9)11月には宮古駅が開業した。
 同じ年に八幡通りが完成している。
 駅前から向町通りへまっすぐ延びる八幡通りの名は、東半分が八幡さまの参道だったことに由来する。
 八幡さまへつながる参道は鉄道の敷地によって南北に分断されたうえ、八幡通り沿いの区画に沿って捻じ曲げられた。
 八幡通りが大通りと名を変えたのは1965年(昭和40)7月に新しい住居表示が施行されたときだった。
 大通1丁目と2丁目のあいだは参道と重なる。
 以西はカーブが直線化され、大通3丁目の交差点で直角に南へ折りまげられる。
 線路にぶつかる手前で東へ急カーブを描いて八幡沖踏切を渡るようになっているのは、どうも鉄道の切替ポイントを避けて踏切を設置しなければならなかったという事情によるものらしい。
 
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■ ハンコの大江堂
 
 子ども時分に八幡通りに住んでいた。
 八幡通りには八分団があった。
 八の字が並ぶのが妙に気に入っていた。
 大江堂というハンコ屋が、八分団まえの交差点から八幡沖踏切に向かう道の東筋にあった。
 タイコードーと看板に読みが書かれていたような記憶がある。
 大きな川を意味する屋号は北上川にちなむらしい。
 眼鏡をかけた親父さんは盛岡生まれの人だった。
 盛岡の大江堂で修業し、独立して山田に山章堂という店を開いた。
 1954年(昭和29)に宮古の黒田町へ移り、屋号を大江堂にかえた。
 56年に新町へ移転し、59年に八幡通りへ移った。
 ちょうどそのころだった。
 フラフープが大流行し、なぜかハンコ屋の大江堂でも売っていた。
 店のまえの道や空き地で数人の子どもが盛んに腰を回している。それを見て親に一本買ってもらった。
 ブームはあっというまに過ぎた。
 売れ残った大量のフラフープは宮古小学校に寄付したらしい。
 大江堂が入っていた建物には、八幡通りの角から床屋、洋裁店、飲み屋、靴屋などが軒を並べた。
 大江堂の右どなりが松田靴屋だった。
 どちらの店もガラス戸越しに親父さんがハンコを彫ったり靴を直したりしている姿が見えた。
 家並みを南にたどってゆくと、民家を一軒おいて東海自動車という修理工場があった。
 プラモデルを改良するためのパテという充填剤を工員さんから何度か小瓶に詰めてもらった。
 映画館の国際劇場へ向かう道を隔てた角に商店があった。
 屋号は思い出せない。
 その南側に魚菜市場があった。
 中野整骨院は当時からあったかどうか、はっきりした記憶がない。
 大江堂の向かい側が旅館の晃生館。
 その南に雑貨卸の千葉商店、みよし?食堂、小西煮豆屋が並んでいた。
 角が旅館で、屋号は中済旅館だったろうか。
 駅の敷地に突きあたって行き止まりになる道を挟んだ南の一郭には古い分譲住宅が並び、線路ぎわの小林餅屋で家並みは終わる。
 大江堂は1999年(平成11)12月に店を閉じたという。
 
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■ 石焼き芋屋さん
 
 八幡通りには、いろんな物売りがやってきた。
 夏は黒い実用自転車の荷台に冷蔵箱を載せたアイス屋さん。
 ランニングシャツに麦藁帽、手拭いを首にかけ、町かどで自転車をとめると手に持った鐘を振り鳴らした。
 頭に木のたらいを載せた飴屋さんも通った。
 たらいに飴のついた割り箸を差し、うちわ太鼓を叩く半纏に白い股引姿。
 手ごろな場所をみつけると折りたたみ式の脚立の上にたらいを移して飴を売った。
 モンペをはいてモッコ(竹籠)を背負い、家々をまわりながら声をかけるのは農家のおばさん。
 「○○はよごぜんすかぁ」
 ときどき八分団のまえに座りこんで休んだり店を広げたりしていた。
 八分団の向かいには広場があった。
 広場というか、山田屋旅館や晃生館の駐車場だ。
 そのかたわらに物売りがいることも多かった。
 冬、よく見かけたのは石焼芋屋さんである。
 凍てついた空気をふるわせて、蒸気の笛の音がピィ〜、ピィ〜〜ッと、細く、かすれたように、ときには強く響く。
 石の入った大きな釜、薪、薩摩芋を積んだ重そうなリヤカーを、おじさんやおばさんが引いている。
 道ばたにとまって薪をくべたり、芋を引っくり返したり。
 「けどがんせぇー」
 手にしたお金を見せると、焼けた芋を軍手でよって新聞紙の袋につつんでくれた。
 温かくて、持ち重りがして、いい匂いがして。
 走ってうちに帰り、新聞紙のうえで皮をむいた。
 宮古には、いまもリヤカーで売り歩く石焼き芋屋さんがいる。
 引いているのは年輩の女性だ。
 ソフト帽にチェック柄の割烹着、首にマフラー、腰には年季の入った帆前掛けを巻いて、魚菜市場の横などによくリヤカーをとめている。
 「あのおばさん、おれがワラスんどぎがら芋を売ってる」
 五十をいくつか過ぎた先輩がそう言っていた。
 おばさん、いったいいまいくつになるのだろう。
 
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■ 美学
 
 美学という名の喫茶店があった。
 1973年(昭和48)か74年ごろ、久しぶりに宮古へ帰ると、踏切の向こうに喫茶店ができたから行ってみたらと母親が教えてくれた。
 美学という名に油絵を趣味で描いていた母が興味を抱いたのだろうが、自分で行ってみたうえでそう勧めたのだったのかどうか。
 八幡沖踏切を越えてすぐの南町に美学はあった。
 山小屋風の外観で、ドアの脇に低いトーテムポールが立っていた気もする。
 内部は狭く、カウンターだけだった。
 カウンターのなかにママさんがひとりでいた。
 タンポポコーヒーかなにかを頼んだ。
 東京の杉並で育った人だった。
 となりの中野に住んでいたので話が弾んだ。
 つぎに行ったときマスターと会った。
 東京の飲食店で働いて宮古へ帰った、店の外装・内装を自分でやったと言っていた。
 美学という名の由来については訊かなかった。
 マスターが自分から喋ったという記憶もない。
 壁には蝶の羽根を、ちぎり絵のように貼りこんだ絵がかけてあった。
 たしか宮古高校の生物部のOBがつくったと言っていた。
 いつもジャズが低く流れていた。
 つぎの年の夏に帰省すると、美学は宮町に移っていた。
 宮高の近く、106号バイパスの南筋だ。
 西どなりだったかに自衛官募集の看板が出ていた。
 それとは関係ないが、店のまえにマスターの、自衛隊払い下げのようなジープが停めてあった。
 いちど借りて湾岸道路をまわった。
 ジープを運転したのは初めてだった。
 風が心地よかった。
 その後、長く帰省しないあいだに美学はまた踏切ぎわに移ったらしい。
 そして知らないうちに店を閉じていた。
 2、3年前に八幡沖踏切あたりを歩いた。
 美学の看板が残っている建物があった。
 もし宮町からその建物に美学が移ったのだとしたら、最初の店とは違う。
 最初の店は、看板の残っている建物の西側、路地を一本隔てた東角にあった。
 
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■ 田んぼスケート
 
 1960年代――昭和の35年から45年ごろのことだ。
 八幡通り方向から八幡沖踏切を越えた先は、宮古高校のグラウンドや閉伊川の土手につづく一面の田んぼだった。
 踏切を渡ってすぐ左側、つまり東側には資材置場があった。
 国鉄用地だったのか、電柱のような材木や鋼線を巻く丸くて大きな木製の枠のようなものが置かれていた。
 資材は少なく、柵や金網で囲われているわけでもなく、出入り自由のガランとした広場のようだった。
 父親とそこで何度かキャッチボールをした記憶がある。
 踏切の西側の、国鉄の敷地と田んぼに挟まれたデコボコ道を行くと大きな建物があった。
 木造のアパート、長屋だった。
 建て増しに建て増しを重ねたような、コの字型の口を半分閉じたような奇妙な形をしていた。
 建物に囲まれて中庭のような空間があるのが道から見えた。
 その一郭に入ってみたいと思っていたのに、なぜかついにいちども足を踏み入れたことはなかった。
 建物の横や裏には田んぼが広がっていた。
 早池峰から吹く西風や川風が強く、冬になると木枯らしで積もった雪が凍りついた。
 末広町の中屋でスケートを買った。
 金物屋で靴スケートを売っていたのだ。
 スケート靴ではない。
 靴スケートと呼んだ。
 前身の下駄スケートは知られていても、靴スケートの名はあまり聞かない。
 靴スケートは、ブレードのついた金属枠を、ふつうのゴム長靴の底にはめるようにつくられていた。
 着脱式スケートだ。
 上からバンドで留めるようになっている高価なものと、紐を通す穴が両脇・踵〔かかと〕についているだけの安ものとがあった。
 安いほうを買った。
 いくらしっかり紐で結わえつけてもぐらぐらし、すぐに長靴からはずれる。
 そのうえ田んぼスケート場は稲の切り株だらけ。
 なめらかなところなんてなかった。
 畦にもすぐぶつかって満足に滑れない。
 何回か通うと、つまらなくなってやめた。
 
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■ 煙突山の沼
 
 南町の(と当時は呼ばなかったが)田んぼスケート場から、宮高の向こう、土手の向こうに、ラサの煙突と山並みが見えた。
 ラサの煙突の下には沼がふたつある――
 だれに聞いたのか、そんな噂を知っていた。
 ひとつは青沼。
 青く澄んでいる。
 もうひとつは赤沼。
 赤茶色に濁っている。
 沼にはカッパが棲んでいる。
 そのカッパも冬は沼が凍って出てこない。
 スケートのうまい子はみんなそこで滑っている――
 田んぼスケートにあきたらなかった小学生のぼくは、ある日、沼を探しに靴スケートを持ってでかけた。
 はっきりした場所は知らなかった。
 凍てついた田んぼを突っ切って宮高へ行き、グラウンドも突っ切って八幡土手を登った。
 ゆらゆら揺れる仮橋を渡った。
 小山田の土手を越え、そびえたつラサの大煙突をめざして進み、細い山道をたどった。
 たぶん煙突の西側だったと思う。
 東側だとラサの構内を抜けなければならないけれど、そういった記憶はない。
 とにかく山の上にのびる道をみつけ、分かれ道をあっちへ行ったりこっちに行ったりしながら、山かげに沼をみつけた。
 青沼なのか赤沼なのかわからなかった。
 凍った沼は冬の空の色を映して白く見えた。
 人っ子ひとりいない。
 山道でも人に出会わなかった。
 氷を確かめると乗っても大丈夫そうだった。
 長靴にスケートをつけて滑った。
 へたくそで何度も尻餅をついた。
 スケートもしょっちゅうはずれる。
 日暮れの気配に気づいて、あたりを見回した。
 薄く曇った空のかなたに日がかたむき、沼はもう山の影に覆われている。
 冬は出ないはずのカッパが、氷を割って出てきそうな気もした。
 スケートを手に、なにかにせかされるように山道をくだった。
 振り返ると沼は見えなかった。
 かわりに、山の上に点々と細長い影が立っているのに気づいた。
 夕暮れの空を黒く限った尾根上に、墓石が影絵のように浮かんでいるのだった。
 
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■ カッパの話
 
 煙突山の下には青沼と赤沼があって、カッパが棲んでいる。
 青沼には青いカッパ、赤沼には赤いカッパ――
 幸いスケートに行ったときは出くわさなかった。
 古い沼、川の淵、深い滝壺にはカッパ伝説がある。
 カッパは河童、カワワラワの変化した言葉らしい。
 県北地方ではメドツというと、元県立博物館館長の金野静一さんが朝日新聞の「いわて民俗巡り」に書いていた。
 メドツはミズチという言葉がなまったもの。
 ミズチは美都知などと「古事記」や「日本書紀」にも記される古い言葉で、ミズは水、チは神の意だという。
 宮古でメドツという呼び方を聞いた記憶はないけれど、いくつかカッパの話は聞いたことがある。
 黒森山にカッパがいたらしい。
 絵図に河童沼が描かれている。
 沼は涸れてしまったそうだが、なにか伝承が残っているかもしれない。
 女遊戸〔おなつぺ〕川のカッパは、水のなかを光りながら落ちてくる鎌を見て肝をつぶし、二度と姿をみせなかったという。
 岩泉の安家川を追われ、小本川も追われたカッパは、閉伊川の新里あたりに棲みついて村びとにイタズラのかぎりを尽くした。
 カッパはケッケッケーと鳴くらしい。
 千徳あたりの閉伊川に棲むカッパは、川ばたの畑から好物のキュウリをとると、そばに立っているカカシに突きつけながら言った。
 「ケッケーケー(やるから食え)」
 閉伊川に突きだした岩の上に、在り木の祠〔ほこら〕があるという。
 在り木とはなんのことか知らないし、場所もよくわからないけれど、祠の下は深い淵になっていて、カッパが棲み、ときどき人を襲うそうだ。
 田代川の馬ん場の滝のカッパは滝壺の岩穴に棲んでいた。
 むかしカッパを見たと、たいがいのじいさんやばあさんが言う。
 最近は誰も見かけない。
 それでも子どもが夕方まで川で遊びほうけていると、親は必ずこう言う。
 「カッパに引っぱり込まれんがぁ。
 早ぐ帰ってこぉ」
 
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■ お飾り市
 
 12月27日から大晦日まで、魚菜市場の特設会場で恒例のお飾り市が開かれる。
 まさに一年の掉尾を飾る宮古の風物詩だ。
 ことしはその初日の27日に、12月としては記録的な集中豪雨が三陸沿岸を襲った。
 宮古では各所で道路が水没して川になり、磯鶏と津軽石のあいだで山田線の地盤が流出した。
 山口川もあふれ、魚菜市場が閉じて、お飾り市も開けなかったようだ。
 福を呼ぶはずのお飾り市が豪雨でお流れになったとは縁起でもない――
 いやいや、被害が大きかったとはいえ人身にかかわる災害にはいたらなかったようだから、お飾り市が人間の身代わりに一日だけ犠牲になってくれたとうけとめたほうがいいかもしれない。
 お飾りは、宝来ともいい、神棚の下などに貼って一年の家内安泰と大漁・豊作・商売繁盛を祈る縁起物の飾り絵。
 伝統的な図柄は恵比寿や大黒などの七福神、松竹梅に鶴亀、おかめ(お多福)に大判小判、宝船などさまざま。
 するめ掛け(烏賊釣り)や鮭の大群が網に入ろうとしている珍しい図柄もある。
 あざやかな原色と墨・金の顔料で和紙に描かれて、半紙大から一間(約1・8メートル)の幅ものまで大小あり、値段は400円から3000円程度。
 年末の大掃除のあとに新しいものと取り替える習わしが古くからあり、ふつうは毎年同じ図柄を選ぶ。
 家に禍いごとがあったりすると図柄を変える。
 「親父は派手なぁ色っこが好みだったぁどもさ、おれは渋いのがいいなぁ」
 と世代交代したときなどに図柄が変わる場合もあるようだ。
 業者はいま8軒あって、宮古お飾り組合をつくっている。
 一日に3、4枚しかできない手仕事は、お盆が過ぎると忙しくなる。
 お飾り市に並べるだけではなく、市の始まるまえにお得意さまを回って届けたりもするらしい。
 正月用品を魚菜市場で買うついでにお飾り市を覗くだけでも楽しい。
 同じ福の神を描いても業者によってデザインや色使いが違うから、集めたら貴重なコレクションになるだろう。
                  (2006.12.30)
 
                         
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