宮古onWeb
宮古なんだりかんだり  第2部
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第 2 部  100話 + 投稿7話 + 資料1
目 次 ボ タ ン


山林のダイヤモンド
茸のどんこ
こーせー様 投稿 * 珊瑚
おーすんよ 投稿 * Penny Lane
ラントノ沢、追切
おもしろい地名
蜂ヶ沢の由来
早池峰山は西遥か
土井晩翠と校歌
大家に化けた古狸
髪長海女
「遠野物語」の真の著者
狸の女
カラス襲撃事件
トロノキ
トロノ木という地名
天行健なり
宮高校歌の作者は誰か
五木寛之のエッセイ
資料 悲の器から溢れる音 * 五木寛之
宮高同窓会の会員名簿
本田幸八の略年譜
ジャズ・イン・宮古
黒森山を逍遥する
義経伝説
上ノ山から鍬ヶ崎へ
女遊戸
女遊戸川の鮭伝説
弘法大師の伝説
津軽石の由来
エビス石
奇祭の主人公
宮古橋を渡る
藤原埠頭へ
SLしおかぜ号の走った跡
田老“万里の長城”
チリ地震津波
十勝沖地震の記憶
慶長の大津波
鍬ヶ崎あれこれ 投稿 * 珊瑚
本田竹広の「ふるさと」
すっとぎ
ひゅうず
ひゅうずの作り方
エチオピア
フライ旗
フライ旗、港町のお正月 投稿 * うらら
宮古港海戦
臼木山の宮古港海戦解説碑
ウスギヤマ?
宮古の銀鮭を堪能する
南部鼻曲がり鮭
荒巻鮭の発祥地
ナモミ
山の神
シミ雪
大寒
八甲田山、死の行軍
懐かしい通学路  投稿 * うらら
鮭――“骨まで愛して!”
鮭の白子問題
毛蟹ざんまい
山田ガニ
徳冨蘆花の鍬ヶ崎来港
文豪の目に映じた宮古
するめ
手どもんオミノ
川井に現われた巨漢
三陸ってなんだ?
三陸けせん
三陸の可能性
音羽姫にまつわる伝説
冬の風物詩――裸参り
スッケーコとゾーガ
謎の海藻の正体
里の蝶
チョウセンアカシジミ覚え書き
“デート”の思い出
ミニスカートの時代
鍬ヶ崎に防潮壁
海嘯(よだ)
アウェーコ
八幡さまは遊び場だった
宮古八景の全貌
大正時代の新宮古八景
新晴橋から宮古橋へ
「湾頭の譜」にまつわる出逢い
哀愁のクジラ・ステーキ
山田の捕鯨
赤前は昼前
八浦賑わう寄せ鯨
八幡通りの由来
田町と幾久屋町
魚菜市場があった町
新町の貸し本屋
カラス列車
宮古湾の牡蠣
桜はまだか…
カタクリの花便り
臼木山の思い出 投稿 * うらら
浄土ヶ浜の花
とっときの場所 投稿 * 珊瑚
ラサの鉄索
鍬ヶ崎のテルミン
陸中海岸国立公園
沖の井
月山
ヤマセ


 
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■ 山林のダイヤモンド
 
 松茸が宮古あたりの名産になっている。
 岩手県は広島県や長野県・京都府などの主産地につぐ生産量を誇る。
 その岩手のなかでも宮古・下閉伊地方の生産量が8割近くを占めているという。
 宮古・下閉伊地方とは、宮古市と下閉伊郡の岩泉町・山田町・田老町・新里村・川井村・田野畑村の1市3町3村だ。
 松茸は赤松の木の根にはえる。
 赤松は岩手県をはじめ宮古市や田老町・岩泉町でシンボルの木としてそれぞれ指定されているほど多いから、松茸も多くて当然といえば当然。
 ただ、田野畑で1998年(平成10)から開催している松茸祭りが、2004年(平成16)は採れずに中止された。
 暑い夏がアダになったらしい。
 松茸の生育は天候に左右されやすい。
 天候以外にも大事な点がある。
 まつたけ研究所という施設が岩泉にある。
 所長に吉村文彦京大農学博士を迎えて1990年(平成2)に開設された、日本で唯一の松茸専門の研究所だ。
 2005年(平成17)3月いっぱいで所長の契約任期が切れて閉鎖になるらしいが、その研究と指導の成果が出はじめた94年以降、岩泉の松茸生産量は3倍に増大したという。
 この研究所の報告によれば、国内生産量は50年前に1万トン以上だったのが、いまはわずかに100トンを下回っているという。
 松茸が育つには風通しと適度な日当たりが不可欠で、山林の手入れをおこたっているのが全国的に松茸の減っているおもな原因のようだ。
 夏に何箇所か宮古の山に入ってみた。
 どこも樹木が繁りすぎていた。
 間伐も下刈りもしていない。
 これで松茸はだいじょうぶなのかと心配になった。
 放っておくほどだから山も安いだろう。
 一山買って赤松林を手入れし、〈山林のダイヤモンド〉でそれこそ一山当ててみたいものだ。
 ――松茸や あぁ松茸や松茸や (仁)
 
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■ 茸のどんこ
 
 松茸が宮古・下閉伊地方の名産品になっているという話を前に書いた。
 それから茸に興味がわいて少し調べてみたら、椎茸も宮古から下閉伊郡一帯にかけての名産になっているらしい。
 生椎茸についての評価は不明だが、干し椎茸は全国の品評会で最高の栄誉とされる農林水産大臣賞を1993年(平成5)から連続して受賞し、全国でトップの水準にあるという。
 椎茸は松茸と違い、いまは人工栽培がほとんど。
 おもにシイ、コナラ、クヌギ、クリなどの広葉樹の倒木や切り株に発生し、古くから日本全国で栽培されている。
 ふつう春と秋に収穫され、春子・秋子とよばれる。
 まれに夏や冬に成るものがあって、夏子・冬子とよばれる。
 この冬子のうち、笠が内側に巻きこんで肉の厚い丸まっこいものが、とくに“どんこ”とよばれ、冬?と漢字があてられる。
 頭に白い亀裂の入ったものは天白(てんぱく)や花冬?(はなどんこ)と珍重され、その乾燥品は椎茸の絶品とされている、という。
 どんこといえば魚のどんこもあって、これは三陸海岸の冬の味覚を代表する魚といわれる。
 茸のどんこは、食べてはいたが妙な茸だなぐらいにしか思っていなかった。
 今度調べてみて、魚のどんこ以上に全国的な評価を受けている宮古・下閉伊地方の名産品だという事実を初めて知った。
 こういうのも灯台元暗しと言うのかもしれない。
 
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こーせー様   珊瑚 * 投稿5
 
 昔は、お正月を何回もしたのでしょうか。
 母はよく、
 「松こで待って、笹こでさっと、杉こで済んだ」
 と言っていました。
 お正月が旧暦だった頃は、いろいろな行事があったらしいですね。
 小学校に入る前だったように思います。
 小正月の夕方になると子どもたちが集まり、近所の家々を、
 「おーすんよ、おーすんよ、今年もさがなが大漁で……」
 と言って回り、お菓子などを貰って歩きました。
 そのあと、こーせー様(金勢社)に集まって、貰ったものをみんなで食べたりしたような記憶があります。
 回るのは知っている家、町内と言うより班内のほんの数軒を回ったのだったと思います。
 大きい子たちの後ろについていき、すごく恥ずかしかったことを覚えています。
 鍬ヶ崎でも上町のほうはどうかな、鍬ヶ崎の一部の地域だけかなとも思います。
 こーせー様は日影町の子供会や町内会の集会所として使っていました。
 おぐまん様(熊野神社)のお祭りに使うピンクと白の花なども割り当てられ、子どもたちも集まって作ったりしました。
 「何の神社だっけー」
 と姉に聞いたら、
 「ほら、おどごの人の〜」
 と言っていましたが、どう思い出しても神社の感じのしないところでした。
 
 *「おーすんよ、おーすんよ、今年もさがなが大漁で……」という呼び声の「おーすんよ」は何か意味のある言葉かもしれない。いまは見当がつかないが…… (j)
 
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おーすんよ   Penny Lane * 投稿6
 
 うちの86歳のばあさんに、
 「おーすんよって知ってるか」
 と聞いたら、
 「知ってる」
 と言われました。
 昔の小正月に「おーすんよ、おーすんよ」と言って家を回ったそうです。
 「わらすの頃やって、あとはやってねぇ」
 って言ってました。
 ばあさんは、ぜえごからここ(日立浜)に嫁に来た人で、花輪で「おーすんよ」してたそうです。
 意味は、わがんねぇそうです。
 昔の人んどぉも「おーすんよ」って言ってだがら「おーすんよ」だそうです。
 昔の人というと100歳以上の人から、そんな「おーすんよ」してたそうです。
 こっちに嫁に来てからは、やっていたのかは知らないそうです。
 ちなみに、戦争中の臼木山(さぐら山)の半分は畑として使っていたそうですよ。
 その当時にも、エドヒガンサクラがあったそうです。
 今のサクラって、90年以上だそうです。
 とても貴重ですね。
 
 *珊瑚さんの投稿「こーせー様」に出てきた「おーすんよ」という唱えごとについて、Penny Laneさんから伝言板に投稿をもらったので、そのまま転載した。
 Penny Laneさんは日立浜の青年漁師。
 珊瑚さんのいた日影町や桜の名所の臼木山の近所に住んでいる。
 
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■ ラントノ沢、追切
 
 タウン誌「月刊みやこわが町」のホームページに設置されている掲示板「らくがき町」に、ラムタラというハンドルネームの人が、こういう話を書き込んでいた。
 八木沢に“ラントの沢”という地名があり、むかしそこでなにか大きな乱闘があったのが由来になっているらしいと。
 ラントの沢は大字(おおあざ)八木沢第7地割字(あざ)ラントノ沢。
 住居表示として役所に登録されている字の名で、いわば正式な地名だ。
 語源は見当もつかないが、乱闘からラントになったというのは、ちょっと眉に唾をぬりたい気もする。
 ただ、なにかしら想像をかきたてずにはいない、おもしろい地名であることは確かだ。
 「みやごのごっつお」サイトの「だれが知らねぇすか?掲示板」には、海猫屋さんが、重茂半島にある追切(おいぎり)の由来譚について触れていた。
 むかし重茂に蝦夷の村があり、中央から派遣された征伐隊に追い詰められた村人たちが、そこで後ろから斬られ、あるいは海に飛び込んで大勢死んだという悲惨な伝説があるらしい。
 追切のある重茂という地名も趣きがある。
 宮古の人はオモエと苦もなく読み、なんの不思議も感じない。
 しかし知らない人はそもそも読めず、オモエと知って不思議な響きを感じとるかもしれない。
 地名というのは興味深い。
 由来譚はいろいろ説が分かれ、それを自分で検証できないのがもどかしい。
 通称・俗称も含め、地名とその謂われはその土地の人びとの貴重な財産として大事にしてゆきたい。
 気になる地名にはいままでも機会を見つけて触れてきたけれど、いちど市内のおもしろい地名やその由来を集めてみてもいいなと考えている。
 
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■ おもしろい地名
 
 八木沢のラントノ沢や重茂の追切のほかにも宮古にはおもしろい地名がある。
 いくつかあげてみたい。
 由来譚には深入りしない。
 崎山に“トロノ木”という字(あざ)名がある。
 そういう名の木があるのかどうかが気にかかる。
 花原市(けばらいち)という地名には不思議な響きがある。
 女遊戸は用字も、オナッペあるいはオナツペという響きもおもしろい。
 上鼻は千徳駅のあたりの地名で、はじめはカンパナと読めなかった。
 光岸地は音読すればコウガンチかコウガンジ以外に読みようがないが、漢字だけを見ていると由来を探りたくなってくる。
 光る岸の地――これは海から見た印象なのだろうか。
 剛台(つよしだい)というおもしろい名の展望台が浄土ヶ浜にある。
 その剛台から、あるいは蛸の浜からも、左手に小島が見える。
 地図で調べると、砂島と書いてある。
 スナジマと読んでいたら、サゴジマと知って驚いた。
 砂子島と書かれることもあるようだ。
 蜂ヶ沢は、地元ではバヅガサワと言う。
 権威ある国土地理院の発行した2万5000分の1の地形図「宮古」では、峰ヶ沢と誤植されている。
 2003年(平成15)1月1日発行の第1刷だ。
 この地形図には呼浜(よばわりはま)という浜の名が神林に記されているが、昭文社の都市地図「宮古市」などには出ていない。
 上村(わむら)も難読地名の一種だろう。
 上村のある磯鶏(そけい)という名もおもしろい。
 そのほか田鎖の三合並山(さんごうなめやま)、重茂の千鶏(ちけい)など、まだまだある。
 通称・俗称には、もっと興味深い地名がたくさんあるにちがいない。
 
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■ 蜂ヶ沢の由来
 
 JANさんから画像投稿板に写真をいただいた。
 蜂ヶ沢の地名について記した立て看板で、現地にあるものなのだろう。
 こういう案内板の文章は記録に残りにくいし、読む人も少ないから、全文を書き写しておきたい。
 改行、誤字は原文のまま。

    蜂ケ沢の地名
  ハチ、ハズは蜂・初・鉢・八とも当てる。
  ジ・チ・ツは混用が多いのでむずかしい。
一、沢は奥に行くほど狭くなっており、
  植木鉢上の地形と成る事から
  「鉢ケ沢」とも考えられるが、
  鉢ケ沢の当て字は伝わっていない。
二、この沢は、村境のハジ(端)に位置した事から、
  「端の沢(終端の沢)」として考えてもよい。
三、蜂の字から
  「ハチ(蜂)がいる沢」
  としやすい。たしかに蜂・カツカベ(蛾)・野鳥・
  蛇・岩魚などの生物が多く生息している。
  蜂ケ沢を地元ではバズガ沢という。
       平成十年三月吉日
                 小島俊一談

 一に植木鉢上とあるのは、植木鉢状の誤植だろう。
 二にあるハジ(端)、端の沢(終端の沢)の端の字は、写真では潰れて読めず、推測したもの。
 いつか現地を訪ねて確認したい。
 
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■ 早池峰山は西遥か
 
 宮古発のサイト「Q庁のホームページ」に宮小(宮古小学校)校歌の歌詞を撮った写真が載っている。
 作曲者の名前がよく見えないけれど、橋本国彦だろう。
 中学の校歌は、ほとんど覚えていない。
 それなのに、小学校の校歌は、調子がいいのか、いまだに口をついて出る。
 もっとも一番だけだが。
 二番は写真を参照しながら、懐かしい校歌をここに採録しておきたい。
 たまたま今日(10月19日)は、作詞した土井晩翠の命日でもある。
 
宮古市立宮古小学校 校歌
                 土井晩翠作詞 橋本国彦作曲
一、早池峰山は 西遥か
  近き月山 もろともに
  常に無言の 教訓(おしえ)垂(た)る
  土塊(つちくれ)積もり 成るところ
  彼とこれとを 眺めつつ
  太平洋を 目のあたり
  宮古の里に 礎(もと)おける
  わが学舎(まなびや)に 栄えあれ 栄えあれ
 
二、数は二十に 及ばざる
  子等を初めて 教えたる
  昔さながら 夢のごと
  百有余年 時過ぎて
  学びの窓に いそしめる
  子等は二千を 遠く越し
  新たな日本 せおいつつ
  希望(のぞみ)豊かに 栄えゆく 栄えゆく
 
                         目次へ ホームへ
 

■ 土井晩翠と校歌
 
 宮小(宮古小学校)の校歌を作詞したのは、「荒城の月」で知られる土井晩翠だ。
 「宮古市史年表」を探すと、晩翠は、1937年(昭和12)7月16日に宮古高等女学校と宮古小学校の校歌を作詞するため宮古へ来ている。
 校歌が制定された記事は出ていないものの、とにかく晩翠が作詞の取材のために宮古を訪れていたことだけはわかった。
 高等女学校の校歌も作詞したらしいが、高女の校歌は知らないし、資料もないので今は素通りする。
 宮小の校歌を作詞することになった経緯も、はっきりしない。
 ただ、晩翠はいろいろな学校の校歌を作詞していたらしい。
 仙台市にある母校の立町小学校に、土井晩翠校歌資料室という施設がある。
 そこに全国から集められた晩翠作詞による校歌は150にのぼり、未収録の歌詞を含めると200を超えるのではないかという。
 とすると、盛んに校歌の作詞をしている晩翠に、とくに縁故もなかったけれど依頼してみようということだったのではないか。
 同じ東北の人間という親近感もあったかもしれない。
 晩翠の略歴を書いておこう。
 1871年(明治4)仙台生まれ。本名は林吉。
 姓の読みは本来ツチイで、みんながドイと呼ぶので1934年(昭和9)に改めたという話がある。
 1898年(明治31)東京音楽学校、いまの芸大に依頼されて中学唱歌「荒城の月」を作詞。作曲は滝廉太郎。
 1900年(明治33)から34年まで母校の仙台二高の教授に在職。
 1952年(昭和27)10月19日、風邪から急性肺炎を起こして死去、享年80歳。
 1942年(昭和17)5月には陸前高田市の広田湾に遊び、三陸の海に乱舞するカモメのすがたを短歌に詠んでいる。
 多少類型的なきらいはあるけれど、宮古で詠んでくれたのだったらという思いもいだかせる素朴な歌だ。
  千万の鴎とぶなり白浪の寄せて砕くるあらいその上
 
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■ 大家に化けた古狸
 
 ――宮古町のぜえご(在郷)の山中、家が5軒ばかりの集落での話だ。
 ある家で婚礼があった。
 ところが、大家の旦那が宮古町に行ったきり帰らぬので式が始められない。
 家に集まった人たちがヤキモキしていると、表で犬がけたたましく吠える。
 と思ったら、待ちに待った大家の旦那が目の色を変え、戸を蹴破るようにして入ってきた。
 「やれやれ、申す訳がながった。
 さぁさ、大急ぎで式を挙げっぺす。
 さぁさ」
 そう言ったかと思うと、膳に向かってご馳走を食い散らかしはじめた。
 振る舞いの人たちは、「旦那は、こんな人でぇあながったが、今夜は酒に酔ってんだぁべな」と思って、だれもなんとも言わなかった。
 式が済んで、家の人たちは、
 「旦那様、今夜はゆっくり寝(やす)んでってけどがんせや」
 と言う。
 大家の旦那は、
 「いやいや、明日は山林の売買があってな。
 朝早ぐ宮古さ行がねばなんねえ。
 これで帰っけ」
 と言って、あわくたと玄関を出ようとする。
 すると、また犬どもが猛烈に吠えかかった。
 大家の旦那は、わっと叫んで床下に逃げ込んでしまった。
 見送りに出た人たちは口々に、
 「こりゃ旦那様じゃねえ」
 「どうりで先刻から様子が変わってだったぁが」
 と言い合うと、それやッとばかりに犬どもを床下へけしかけた。
 そこへやっと本物の大家の旦那が駆けつけてきた。
 床下では、しばらく犬となにかが噛みあい揉みあう気配がしていた。
 やがてずるずると犬に引っ張り出されたのは、大きな大きな古狸であった。
 これは、そんなに古い話ではない。
 大正時代の半ば、実際にあった話だという。
 
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■ 髪長海女
 
 ――閉伊郡の宮古浜、長崎(長沢か?)のシタミョウという家の娘が、ある年の3月3日の潮干〔シヨイ〕へ行ったまま帰らなかった。
 家では嘆き悲しみ、家を出た日を命日と定めて葬式をすませ、後生をとむらっていた。
 ところが、3年たった同じ日に、その娘がみごもって家へ帰ってきた。
 腹の子の父親はどこのだれとも娘は語らなかった。
 十月十日が満ちて女の子を安産した。
 その子は生まれながらに髪の毛が八寸ばかりも伸びていた。
 16、7の美しい娘になると、その髪がいよいよ伸びて7尋〔ひろ〕3尺にもなった。
 京都の帝が、ある日、右近の桜という名木の花を愛〔め〕でていた。
 その枝に3尋にあまる長い毛が3本ひっかかっている。
 「これは何ものの毛か」
 そう言って安部晴行という博士に占わせたところ、
 「女の髪の毛に相違ございません」
 と卦〔け〕を立てた。
 「しからば、その女を捜し出せ」
 帝の命令で臣下が猿楽を仕立てて京の東と西へ分けて出発した。
 東の国々を廻っていた猿楽の一組が、はるばる奥州の閉伊郡というところ、山田の湊に近い小山田という里にさしかかり、ある峠の上でお触れを出した。
 「何日に猿楽を催す。ただし、見物は女人に限る」
 その日になった。
 老若の女たちが、われもわれもと峠へ見物に押し寄せた。
 シタミョウの母娘も、そのなかに交じっていた。
 娘は7尋3尺という長い髪を桐の箱に入れて背負い、舞いを見物に来ていた。
 すると猿楽はただちに中止され、娘は京の都へ連れてゆかれた。
 あとでこの娘は、土地の海女〔うんなん〕神として祀られた。
 海女神は浜の方々にあるという。
 都の人たちが猿楽を舞ったという峠は、いまの猿楽峠だそうだ。
                1930年(昭和5)採録
 
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■「遠野物語」の真の著者
 
 つづけて紹介した「大家に化けた古狸」と「髪長海女」という2つの話は、佐々木喜善が聞き取った昔話をまとめた「聴耳〔ききみみ〕草子」や「遠野物語拾遺」などに出ている。
 さいわい、ちくま文庫や角川文庫などに入っているから手軽に原文を読むことができる。
 紹介にあたって文章には少し手を加えた。
 佐々木喜善は「遠野物語」の話を柳田国男に提供した人で、「遠野物語」の序文に柳田はこう書いている。
 ――この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。
 昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分折々訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。
 鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。
 自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。云々
 佐々木喜善は、鏡石の筆名で小説を書く当時新進の作家のひとりだった。
 やがて民話の採集と紹介に時間を割いて小説家としては大成しなかった。
 柳田国男の序文を読んでいると、徳冨蘆花の小説「寄生木〔やどりぎ〕」の序文を思い浮かべずにはいない。
 ――正当に云えば、寄生木の著者は自分では無い。
 真の著者は、明治四十一年の九月に死んだ。
 陸中の人で、篠原良平と云う。云々
 篠原良平は1881年(明治14)6月5日、いまの宮古市山口、当時の下閉伊郡山口村に生まれた小笠原善平のことだった。
 佐々木喜善は1886年(明治19)10月5日、いまの遠野市、当時の上閉伊郡土淵村山口に生まれている。
 ふたりはほぼ同時代人で、山口という地名まで暗合している。
 「遠野物語」の出版は1910年(明治43)6月、「寄生木」の出版は前年の12月で、これもほとんど同じ。
 奇しくも陸中岩手の若者を真の著者とする2冊の本が、ほぼ同時期に世に出て、全国的なロングセラーやベストセラーとなっていたわけだ。
 「聴耳草子」は死の2年前に出版された。
 宮古にかかわる話が3つ採録され、そのうち2つを紹介した。
 残った「狸の女」という話は、少し品がない。
 どうしようか迷ったが、やはり短くまとめてつぎに紹介しておきたい。
 
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■ 狸の女
 
 ――宮古の山中に爺さまと若者2人の3人が鉄道の枕木取りに登って小屋掛けをしていた。
 ある夜、年頃の女がやってきた。
 「岩泉さ行ぐのに迷ってすまってす。
 一晩泊めでけどがんせ」
 はて妙な。
 こんな夜中、こんな山の中に、こんな姐さまが迷いこんでくるとは。
 それに岩泉へ行くのにここに来るわけがない。
 爺さまは不審がりながらも、ほかさ行けとも言われぬので小屋に入れてやった。
 「あぁ、ほに寒〔さん〕びぃ」
 そう言って女は焚き火にあたる。
 若者どもは火のそばにゴロンと寝転んで互いに相手の寝息をうかがっていた。
 「あぁ寒びぃ寒びぃ」
 ますます火元へ擦り寄るふりをしながら、女は若者たちのからだに、ちょいちょい触れた。
 そして、赤い腰巻を出したり、白い脛〔はぎ〕を出したり、無心らしくだんだんと足の奥をのぞかせたりして若者たちの気を引く。
 爺さまからは、その一部始終がよく見えた。
 いよいよ変だと思っていると、初めはちらちら見えていただけだったのが火の温みにあって足の奥がホウッと大きなあくびをした。
 さては!
 爺様はうなずいて静かに起き上がった。
 「姐さま、寒ぶいべ。
 これでも着とがんせ」
 そう言いながら空き俵を女の頭からかぶせると、いきなり押さえつけ、薪をとってガンガンぶった。
 今まで寝たふりをしていた若者たちは驚いた。
 「これは畜生だから早くぶち殺せ」
 爺さまは、そう言って、なおガンガンぶっ叩いた。
 女は空き俵のなかで苦しがって獣の鳴き声を出した。
 そこで若者たちも初めて女が人間でないということがわかったので、爺さまと一緒に木や鉈〔なた〕で叩き伏せた。
 女は、2匹の狸が首乗りに重なりあって人間に化けていたのだった。
 これは1918年(大正7)に実際にあった話だという。
 
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■ カラス襲撃事件
 
 2004年は申年だからというわけでもないだろうが、この10月に宮古の町なかに珍しくサルがあらわれたというニュースが流れた。
 八木沢あたりの道路をうろつきまわり、磯鶏の商業(宮古商業高等学校)では生徒や先生たちを威嚇し、藤の川あたりで民家の庭の柿の実を失敬して悠然と姿をくらましたという。
 釜石と大船渡のあいだに五葉山県立自然公園がある。
 そこにニホンザルの群れが棲息し、その群れから離れて北上してきた、はぐれザルなのではないかと専門家は見ているらしい。
 クマも宮古に出没している。
 6月から8月にかけて花輪や閉伊川原、八木沢などにツキノワグマが姿を見せた。
 たまたま帰省したときにもあらわれたらしく、広報車が走りまわりスピーカーで注意を呼びかけていた。
 岩泉や川井・田野畑などでは怪我人も出ている。
 宮古にだってサルやクマぐらいいるだろうと思っているから、そういうニュースを聞いても驚かないが、山のなかなどで現実に遭遇したら、さぞ怖いことだろう。
 2003年の秋に岩船の山中を歩いていた。
 すぐそばの藪の奥から大きな生き物が動く気配がする。
 ちらっと見える姿が真っ黒いので、一瞬ゾッとした。
 クマかと思ったら牛だった。
 むかしは野犬が怖かった。
 河原や野原などに一人で出かけると、野犬に出あったときの用心に、いつも棒切れや手ごろな石を拾って持っていたような記憶もある。
 哺乳類ではないが、カラスというのも、けっこう怖いものだ。
 一中(宮古市立第一中学校)で血迷ったカラスが生徒を襲撃する事件が起こった。
 八幡さまに巣食っていたカラスだろう、しきりに校庭にいる生徒めがけて急降下を繰り返し、顔や頭をかすめる一羽がいた。
 頭上の脅威だ。
 生徒たちは怖くて校庭に出られず、学校が猟友会に頼んで追い払ってもらった。
 それを教室のなかから見ていた。
 本校舎の2階から逆さイチョウの上空を見上げる光景が記憶に残っているから、あれは3年のときだった。
 その後、血迷いカラスはあらわれなかった。
 うまく撃ち落としたのだろう。
 ただ、銃声を聞いたという確かな記憶もないのは不思議だ。
 
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■ トロノキ
 
 宮古市の地図を見ると、崎山の東部にトロノキ荘というのが出ている。
 休暇村陸中宮古や姉ヶ崎サン・スポーツランドの西側だ。
 なんだろうと思って調べてみたが、まったくわからない。
 思いあまって市役所の広聴広報係へ電話で問い合わせてみた。
 すると、民宿だという。
 電話番号だけ聞いて、すぐに電話をした。
 出ない。何度かけても出ない。
 民宿協会にも登録されていない。
 地図に載っているほどだから大きな施設だろうと思ったのが間違いで、ひょっとすると、あのあたりは目印になる建造物が少ないために、たまたま書き込まれたというだけなのかもしれない。
 しかし気になる。
 民宿自体は二の次として、まずトロノキという名が気になる。
 そういう樹木があるのかと思って手持ちの百科事典や植物事典にあたってみたが出ていない。
 インターネットで調べてみた。
 ひとつだけ検索にひっかかった。
 そのページには「マッチの軸木」と題して、こう書かれていた。
 “マッチは幕末の頃に長崎を通じて紹介され、当時は、すり付木、オランダ付木、早付木などと呼ばれていた。
 マッチの軸木には、主としてヤマナラシ、トロノキ、シナノキなどが用いられたが、希にコブシ、ハクウンボク、タラノキ、麻殻(アサガラ)などが使われることもあった。”
 トロノキはマッチの軸木に使われていた木だという。
 しかし、そう説明している資料は、これひとつしかない。
 せめてもう一つ傍証がないと正しいかどうか判断しようがない。
 トロノキはドロノキ(泥の木)の間違いかもしれないという疑問も残る。
 マッチの軸木にドロノキがよく使われていたという話は知っている。
 このドロノキが訛ってトロノキと呼ばれるのだろうか、とも考えてみた。
 しかし、それならトロノキという別名自体、もっと検索にひっかかってきてよさそうなものだ。
 不思議だ。
 宮古には、まだまだ多くの不思議が眠っているのかもしれない。
 
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■ トロノ木という地名
 
 いろいろ調べてみると、トロノキ荘のある崎山には、トロノ木という文字をふくむ住所がいくつかあることがわかった。
 その例をあげてみよう。
 崎山中学校 大字崎山第3地割字トロノ木1番地1号
 崎山保育所 大字崎山第3地割字トロノ木1番地2号
 崎山小学校 大字崎山第3地割字トロノ木2番地
 姉ヶ崎サン・スポーツランド
       大字崎山第3地割字トロノ木75番地1号
 大字(おおあざ)や字(あざ)は昔から伝わる土地の名だ。
 字は小字(こあざ)ともいい、大字のなかの一区画で、番号と地割の文字がつく。
 つまり、崎山という大字のなかの第3地割が字トロノ木だ。
 この大字や字というのは実際に表記されるときに省略される場合が多い。
 姉ヶ崎サン・スポーツランドの例でいうと、正式には“大字崎山第3地割字トロノ木75番地1号”なのだが、これが“崎山3−75−1”となる。
 見た目もすっきりして、スマートだ。
 覚えやすく、書くのも面倒がいらない。
 ただ、大字の崎山は残っても、トロノ木という小字が消えてしまう。
 地名は大きなものも小さなものも区別なく、その土地が生んだ貴重な財産だと思っている人間としては残念だ。
 役所が住居表示法にもとづいて大字に丁目を実施しても、小字は消えてしまう。
 大字崎山第3地割字トロノ木75番地1号は正式に、というのは法律上という意味だけれど、崎山3丁目75番1号となる可能性が高い。
 表記されるときは崎山3−75−1で、もとの大字崎山第3地割字トロノ木75番地1号を省略して書いた場合と同じだ。
 いままで住居表示の実施や“改正”、区画整理、市町村合併などという合理化の波に呑まれて、多くの小字や土地の通称が消えていった。
 トロノ木という味のある地名も、やがて同じ運命をたどることになるのだろう。
 
 *後記――新潟県の東頸城郡松代町大字蒲生というところにトロノキという小字があるという。
 
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■ 天行健なり
 
 前に母校の宮小(宮古市立宮古小学校)の校歌を載せた。
 こんどは宮高(岩手県立宮古高等学校)の校歌を採録したい。
 一中(宮古市立第一中学校)を飛ばすのは、冒頭しか思い出せないからだ。
 宮古高校の校歌は、作詞が宮高文芸部、作曲が宮高音楽部の手になる。
 (後注――これが間違いだった。
 続けて「宮高校歌の作者は誰か」「五木寛之のエッセイ」などを書いたので参照してください)
 名のある先生に依頼するのもいい。
 ただ、校歌のあり方としては、こういうのが本来のすがたなのだろう。
 校歌は自分たちの手でつくりたい。
 出来が悪くてだれも歌いたがらないというのでは困るけれど、宮高の校歌は、詞も曲も、出色の出来栄えになっている。
 1950年(昭和25)9月4日に制定されたという。
 宮高の公式ホームページには作者も日付も記載されていない。
 かわりに「学校非公認!! 岩手県立宮古高等学校 私設HOMEPAGE!!」というサイトに載っている。
 歌詞もこのサイトから引用させてもらった。
 
  岩手県立宮古高等学校 校歌

一、天行健なり 悠久の
  太平洋は まのあたり
  雲海はるか 早池峰の
  栄えの光を 仰ぎつつ
  閉伊原頭に 立つ我ら

二、歴史は遠し 五百年
  銀杏に偲ぶ 夢の跡
  八幡が丘 繚乱の
  花春秋に 咲き継ぎて
  麗しの庭 我が校舎

三、藤原台の 昔より
  名に負う健児 菊三葉
  功に薫る 先人の
  洸洋広き わだつみに
  残せる遺業を 顧みよ

四、珠玉の讃歌 高らかに
  乾坤めぐる 幾年を
  大き理想に 燃えたちて
  尊き使命 果すべく
  いざいそしまん もろともに

 2番の歌詞に〈銀杏〔いちょう〕に偲ぶ夢のあと八幡が丘繚乱の〉とある。
 銀杏は、一中のシンボルになっている逆さイチョウのことだろう。
 宮高は、いまの一中のところにあった。
 その変遷の歴史が反映されているように感じられる。
 3番の〈藤原台〔とうげんだい〕の昔より〉という一節は、在校中から謎だった。
 藤原台とは、どこなのだろう。
 
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■ 宮高校歌の作者は誰か
 
 「天行健なり」という文章を読んだ宮高の先輩のNさんから電話があり、開口一番「間違いです」と言う。
 とまどっていると、「宮高の校歌を作詞・作曲したのは、文芸部や音楽部ではない」と話しはじめた。
 宮高の大先輩であるおかあさんにも確認したというNさんの話によると、こういうことらしい。
 創立80周年記念誌などには校歌の作曲は音楽部、作詞は文芸部となっているが、ほんとうの作曲者は宮古出身のジャズ・ピアニスト本田竹広の父親で、本田幸八(こうはち)という音楽の先生だった。
 作詞は嶺博三郎(みね・ひろさぶろう)という国語の先生。
 本田幸八はピアノが達者で、音楽家として身を立てることを夢見ていた。
 宮古をはじめ久慈や山田などの高校の音楽教師として多くの後進を育てたけれども、しかし、ついに音楽家としては大成しなかった。
 その夢は子どもに託された。
 以上がNさんの話の要点だ。
 宮高の公式ホームページには作詞者も作曲者も記されていない。
 ぼくが「天行健なり」という文章のなかで音楽部や文芸部としたのは、たしか生徒手帳にそう出ていたような……という自分の記憶と宮高卒業生による私設の宮高サイトの記載とが一致したからだったが、それがあっさり否定されてしまったことに、まず驚いた。
 つぎに驚いたのは、あの本田竹広の名前が出てきたことだった。
 以前、宮古のクラブで生演奏を聴いたし、ミントン・ハウスだったか美学だったか、宮古にあった喫茶店で出会ったこともある。
 父親の本田幸八については、すぐに調べてみたが、わからなかった。
 本田幸八や嶺博三郎先生がほんとうの作者だとしたら、なぜ名前が出ていないのかという理由もわからなかった。
 ただ、Nさんの教えてくれた話のほうが真実だろうと感じるのは、あの校歌が高校の音楽部や文芸部の生徒たちに生み出せるだろうかと薄うす感じていた疑念が、この話ですっきり腑に落ちるからだ。
 才能にあふれた人物でないかぎり作れない――そう感じさせるほど宮高の校歌は、静かな力をもった、いい曲なのだ。
 
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■ 五木寛之のエッセイ
 
 驚くことは続いて起こる。
 宮高校歌の作曲者は本田幸八といってジャズ・ピアニスト本田竹広の父親だとNさんに教えられた翌日の10月29日、1通のファクスが入った。
 五木寛之のエッセイ「新・風に吹かれて」だった。
 発売されたばかりの「週刊現代」11月6日号に載っていたこの連載のコピーを送ってくれたのは、やはり宮高の先輩でNさんと同級のKさん。
 二人がたまたま電話をしていて宮高校歌の話題になり、偶然目にした五木寛之のエッセイをファクスしてくれたらしい。
 偶然とはすごいものだ。
 いや、偶然というより、「天行健なり」という文章を書いて以来の一連の出来事が、なにか目に見えない必然の糸で繋がっているような気配さえ感じられる。
 エッセイの内容は、本田竹広のこと、新しくリリースされる彼のCDのこと、そのCDに五木寛之が解説を書いていること、そして宮高校歌や本田幸八のことに及んでいるものだった。
 五木寛之は本田竹広と若い頃からの知り合いで、今年(2004年)の夏、久しぶりに本田竹広の生演奏を聴いた。
 そのとき、本田竹広は、宮高の校歌を演奏したという。
 五木寛之は書いている。
 “本田さんのお父上は、若いころ音楽家志望だったという。
 しかし、その夢は実現せず、地方の学校の先生として生涯を送られたらしい。
 そのお父上が作曲されたのが「宮古高校校歌」である。
 これまでいろんなジャズの演奏を聴いたが、高校の校歌をジャズ・ピアノで聴いたのははじめてだ。
 とてもいい曲で、若い日のお父上の果たせなかった夢がいっぱいつまっているような感じがした。”
 「週刊現代」という雑誌の部数がどれくらいなのか詳しくは知らない。
 しかし何十万部という単位のはずだ。
 しかも書いているのが五木寛之である。
 多くの人が目にする。
 宮高の校歌に関心がある人は多くはないだろうが、宮高の校歌が息子に音楽家としての夢を託した父親本田幸八の作曲になるという事実は、この五木寛之のエッセイで広く世に知られ、後世に残ることになった。
 鎮魂の紙碑といっていい。
 
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◇ 資料1 悲の器から溢れる音
 
 五木寛之のエッセイ「悲の器から溢れる音」を資料として転載したい。
 「週刊現代」2004年11月6日号に掲載されている「新・風に吹かれて」第10回の3分の2にあたる抄録である。
 
悲の器から溢れる音
                    五木寛之
 数日前、こんな文章を書いた。ジャズ・ピアニストの本田竹広さんが、こんど新しくリリースするCDに添えるための短いコピーである。
 < 本田竹広さんのピアノを聴いて、生きているのもそう悪いもんじゃないな、と、ふと感じた。
 前向きに人を励ます音楽も結構なものではあるが、むしろ言葉ずくなに人を慰める音楽のほうが、はるかに上質であると思ったのだ。
 ジャズの本質を、私は「愁(しゅう)」であると考えてきた。「愁」とは「うれい」であり、サウダーデであり、with blues であり、ロシア語でいうトスカである。中国には悒(ゆう)、韓国には恨(ハン)という表現もある。
 どんなエネルギッシュな演奏にも、またどんな陽気な曲にも、背後に一筋、はけで刷いたように「愁」の気配が流れていてこそ真に人間的な音楽といえるのではないか。
 このアルバムにおさめられている演奏には、その大事なものが流露していて、私の心をゆさぶるのである。
 たとえば「ふるさと――我が心のジョージア」を聴いて自殺を思いとどまる人がいたとしても、私は少しも不思議とは感じない。
 本田さん自身、壮絶なリハビリの日々の中で、「ふるさと」や「赤とんぼ」などの曲を弾くことによって、ふたたび生きる気力を回復したという。
 これらの童謡は、いわば彼の傷ついた心のララバイとしてジャズのスタンダード曲となったのだ。
 また、このアルバムにおさめられた本田さんの御父君の作曲になる「宮古高校校歌」の、のびやかな抒情も忘れられない演奏のひとつである。
 どの曲も、本田さんのピアノによって、本来のテーマを失うことなく見事なジャズになっているところに脱帽させられた。最近の本田さんの演奏には、演奏技術を超えた、とてもスピリチュアルなものが感じられてならない。
 本当の音楽家たちは、すべてみな究極のところ、その地点に触れることになるのだろう。
 このアルバムは、ひとりのピアニストが後世に贈る、貴重な音楽の遺産である。現在も週に三日、透析に通わねばならない本田さんの有限の命が、ピアノの弦にのり移って鳴っているような気がするのは、私だけだろうか。 >
 
 「宮古高校校歌」の夢
 ジャズ・ピアニストの本田竹広さんとは、若いころ新宿のピットインで会ったのが最初だった。
 今年の夏、山形の小さな店で、ひさしぶりに本田さんの演奏を聴いた。そのとき本田さんはスタンダードなジャズや、ボサノヴァの曲や、日本の童謡なども弾いた。「宮古高校校歌」をはじめて耳にしたのもその夜である。
 本田さんのお父上は、若いころ音楽家志望だったという。しかし、その夢は実現せず、地方の学校の先生として生涯を送られたらしい。そのお父上が作曲されたのが「宮古高校校歌」である。
 これまでいろんなジャズの演奏を聴いたが、高校の校歌をジャズ・ピアノで聴いたのははじめてだ。とてもいい曲で、若い日のお父上の果たせなかった夢がいっぱいつまっているような感じがした。
 本田さんは近々、ベートーベンを弾くコンサートをやるという。「赤とんぼ」を弾いてもジャズになる本田さんのことだから、きっとベートーベンをやってもちゃんとジャズになるにちがいない。
 たび重なる病苦から、奇跡のように再起した本田さんのこれからのことを考えていると、ふと早く逝った阿部薫と、そして間章(あいだ・あきら)のことを思いだした。
 彼らがもし、いま生きていたら、どんな仕事を見せてくれたことだろう。残るも、去るも、どちらも大変なことなのだ。
 (以下、略)
 
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■ 宮高同窓会の会員名簿
 
 きょう自分の本棚に一冊の本を見つけた。
 仕事机からいちばん離れた本棚の、側壁の陰になって普段は見えないところに分厚い本があった。
 赤茶けた背表紙で、金箔の背文字が色褪せてしまっている。
 手にとってみると、宮古高等学校同窓会の会員名簿だった。
 創立60周年記念と書いてある。
 そういえばこんな本があったなとびっくりし、存在さえ忘れていたことに気づいた。
 きょうにかぎって、ひょっこり目についたというのも不思議な思いがする。
 この名簿は宮高の創立から1983年(昭和58)3月までの全卒業生を網羅したもので、教職員の名簿も入っている。
 巻頭に4ページのグラビアがあり、最初のページに校旗の写真、その下に校歌の歌詞が載っている。
 作者名は記されていない。
 急いで全日制旧職員名簿のページを繰ってみた。
 教諭として宮高の校歌を作曲した本田幸八の名前が出ている。
 作詞者の嶺博三郎の名もそばにあった。
 出ていて当たり前なのだが、なぜかほっとした。
 本田幸八の現住所・電話・勤務先の欄は空白で、すでに鬼籍に入っているというマークが付されている。
 嶺博三郎は現住所の欄に東京都内の住所が記され、電話・勤務先欄は空白になっている。
 宮高の沿革も載っている。
 校歌が制定されたのは昭和25年9月4日とある。
 創立80周年記念誌には昭和26年制定とあると、おこちゃんが「みやごのごっつお」サイトのふるさと掲示板に書いていた。
 80周年記念誌の教職員名簿には、本田幸八の転入欄に昭和15年3月と昭和21年10月とが併記され、昭和17年9月転出とあるともいう。
 おこちゃんの記述からは、いろいろ教えられることが多かった。
 宮高の前身である高等女学校の時代に本田幸八は武蔵野音大を終えて赴任してきた。
 その後いったん久慈高校へ転任し、ふたたび宮高へ帰ってきた。
 そのとき嶺博三郎と校歌を作ったのだという。
 また本田幸八は宮古のクラシック・ピアノの源といっていいほど多くの教え子を感化し、音楽教育に情熱を注いだともいう。
 宮古のピアノ界では伝説的な存在といっていい人物らしい。
 
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■ 本田幸八の略年譜
 
 宮高校歌の作曲者である本田幸八について、略年譜風にまとめておきたい。
 といっても、生年・没年さえ調べられなかったのだから単に心覚えのメモにすぎないが。
 新たにわかったのは、つぎの2点。
 田老町の町民歌を本田幸八が作曲しているということ。
 作詞は宮古出身の駒井雅三で、1954年(昭和29)3月10日に町民歌として制定された。
 これは田老町のホームページに出ている。
 それから、宮高校歌を収録した息子さんの本田竹広の新しいCDは、「ふるさと― On My Mind」という2枚組で、11月24日に発売される。
 収録曲は、赤とんぼ、夕焼け小焼け、七つの子、月の砂漠、赤い靴、荒城の月、浜辺の歌、さくらさくら、仰げば尊し〜父の歌(宮古高校校歌)、ふるさと〜我が心のジョージア。
 宮高校歌をはじめ童謡やスタンダードなど懐かしい曲ばかりだ。
 二度の脳内出血による入院・リハビリから復帰した本田竹広の、新しい境地が楽しみである。
 
【本田幸八略年譜】
 1940年(昭和15)3月、武蔵野音大を卒業し、岩手県立宮古高等女学校(宮古高等学校の前身)に赴任。
 1942年(昭和17)年9月?、久慈高校へ転出。
 1945年(昭和20)8月21日、本田竹広が生まれる。
 1946年(昭和21)10月、宮古高等女学校に再び赴任。
 1950年(昭和25)9月4日、本田幸八作曲・嶺博三郎作詞による宮古高等学校校歌が制定される。
 *校歌制定は、宮高80周年記念誌では1951年(昭和26)になっているという
 1954年(昭和29)3月10日、本田幸八作曲・駒井雅三作詞による田老町町民歌が制定される。
 1983年(昭和58)4月30日に調査の終わった創立60周年記念「宮高同窓会会員名簿」の旧職員名簿には鬼籍に入ったマークがつく。住所欄は空白、転出・転入欄はない。
 2004年(平成16)11月24日、宮古高等学校校歌の収録された本田竹広の2枚組CD「ふるさと ― On My Mind」がテイチク・レコードから発売される。
 
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■ ジャズ・イン・宮古
 
 前にミントン・ハウスのことを書いた。
 高校時代に入りびたったジャズ喫茶で、築地にあった。
 マスターは自分からジャズを熱っぽく語る人ではなかった。
 そのぶん知識を吹き込まれることなく静かに音楽を聴けて、かえってよかったのかもしれない。
 大通1丁目の中央通りに面した2階の喫茶店かなにかでジャズ・コンサートが開かれたことがある。
 ミントンのマスターも奔走していて少し手伝った。
 いまサントスという喫茶店があるが、同じ店かどうかわからない。
 誰が出たかという肝心な点さえ思い出せない。
 ただ、ピアノ・トリオの生演奏は全身にしみた。
 ヴォーカルのチコ本田の姿が記憶としてかすかに残っているから、ピアノはやはり本田竹広ではなかったろうか。
 1970年代のはじめのころの話だ。
 宮古とジャズといえば、やはりジャズイン浄土ヶ浜だろう。
 1988年8月11日に第1回が開かれてから1993年までの6年間、8月に開催されていた。
 本田竹広をはじめ日野皓正、渡辺貞夫、ハービー・ハンコックなど超一流のジャズメンが浄土ヶ浜にやってきた。
 2002年11月5日には第1回宮古ジャズフェスティバルがスターライトというカフェバーで開かれている。
 本田竹広、日野皓正、峰厚介、畠山芳幸、本田珠也にタップダンスの宇川彩子という錚々たる顔ぶれだ。
 ドラムの本田珠也は本田竹広の息子さんである。
 2003年8月31日には田老で鮭の国ジャズフェスが行なわれた。
 メンバーは、山下洋輔、本田竹広、峰厚介、福村博、鈴木良雄、村上寛、ケイコ・リー、道子、宇川彩子、The PURE。
 ジャズイン浄土ヶ浜の時代から一流のプレーヤーが宮古に来ているのは、やはり本田竹広のピアノの力、人柄のゆえだろう。
 宮古のジャズは、本田竹広を抜きにしては語れない。
 鮭の国ジャズフェスと同じ年の10月16日には、宮古高校創立80周年の記念演奏会が市民文化会館で開かれた。
 こちらは宮高OBのクラシック畑の音楽家たちが中心だが、本田竹広も参加している。
 そして本田竹広は父が作曲した宮高校歌をジャズで演奏したという。
 それにつけても、新しいCDを早く聴いてみたいものだ。
 
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■ 黒森山を逍遥する
 
 盛岡で法事があり、宮古へ寄った。
 盛岡はあいにくの雨。
 宮古へ帰った翌日から晴れた。
 気温も平年より高く、暖かい11月だった。
 薄着をし、家から歩いて黒森山へ向かった。
 宮古駅から北へ3キロほど。
 中腹にある黒森神社までは1時間も歩けば着く。
 それほど近いのに、黒森山へ登る宮古の人は、あまり多くないらしい。
 黒森山は黒森町の後背、大字(おおあざ)の山口にある。
 標高は310.6メートル。
 中腹に黒森神社、黒森ふれあい館などがある。
 山口公民館の横あいから右に入っていくと市営住宅があり、その先で左に折れて参道に入る。
 けっこうきつい坂が黒森川の細く清冽な流れに沿って延びている。
 鬱蒼として昼なお暗しという感じがしてきたあたりに、立て札があった。
 熊への注意を促す警告だった。
 今年(2004年)の夏、このあたりにツキノワグマが出没したという。
 花輪や長沢で目撃されたというニュースは知っていた。
 山口でも出たとは知らなかった。
 しかし、せっかく来たのだからと先へ進んだ。
 黒森神社に手を合わせ、熊に出会いませんようにと祈り、右手の杉木立のなかの急な山道を頂上めざして進んだ。
 登山道の途中に山口方面の町並みが見渡せる場所がある。
 黄葉がきれいだ。
 神社から30分もあれば頂上に着く。
 道みち人っ子ひとりいない。
 低山逍遥の気分が十分に味わえる。
 頂上の展望がよくないのだけが残念だ。
 長居は無用、一休みして頂上をあとにした。
 途中、黒森ふれあい館へ回る道が分かれている。
 神楽の衣裳を展示したりビデオを見せてくれる施設らしい。
 行ったことはない。
 開いているかどうかわからないまま、建物だけでもと思って足を向けた。
 少し行くと、山道に前日来の雨で沢水があふれ、川になっている。
 足もとが危ないので、諦めて神社へ降りる道へ引き返した。
 道端に“長寿の渓水(みず)”と立て札に書かれた沢水が、パイプから流れ出している。
 手に受けて飲んだ。
 うまい。
 長寿の水か、これで熊と鉢合わせしても命を落とす心配はなさそうだ――
 そう思うと、疲れた体に少し元気が湧いた。
 
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■ 義経伝説
 
 ――悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃した。
 短くも華麗だったその生涯を想い、後世の人々は、“義経は、その1年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげた。
 世にいう「判官びいき」であろう。
 その伝説の一つに、この黒森山は、平泉を脱出した義経主従が3年3ヶ月にわたって行を修め般若経600巻を写経し奉納した場所で、黒森は、九郎森から転じたものである、と伝えられる。
 以上は黒森神社の参道にある大きな案内板の説明文から。
 岩手県観光連盟が立てたもので、ほぼそのまま引用した。
 2005年(平成17)にNHKの大河ドラマで「源義経」が放映されるというが、昔の「源義経」が懐かしい。
 尾上菊五郎の義経、緒方拳の弁慶、藤純子の静御前。
 あの番組は必ず見た。
 義経伝説を知ったのも、そのころだった。
 黒森神社のほかにも、宮古には義経の“足跡”とされる場所がいろいろ残っていて、おもしろい。
 例えば八幡さま(横山八幡宮)には義経主従が参詣している。
 そのとき鈴木三郎重家という老齢の家臣が重三郎と名を変えて残り、神主になっている。
 常安寺のそばの判官稲荷神社は、義経の甲冑を埋めた上に祠が建てられたという。
 祭神は源義経である。
 田代の久昌寺には、源義里という源氏の一族が館を構えていて義経一行が立ち寄っている。
 前に亀岳中学校のホームページから紹介した亀岳山大明神という小祠にある義経の草履や、義経の奥さんが身を投げた“おがんぶづ”という淵の話も田代だった。
 長沢にある判官堂にも義経伝説が残されているという。
 義経は海岸沿いにさらに北上して蝦夷に渡りアイヌの神さまになったり、竜飛崎から大陸に渡ってジンギスカンになったりする。
 若いときは馬鹿にしていた伝説を、このごろおもしろいものだと思うようになってきた。
 伝説の内容そのものよりも、伝説を生みだした人びとの心情に共感を覚えるからだろう。
 
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■ 上ノ山から鍬ヶ崎へ
 
 築地から歩道橋を渡る。
 光岸地(こうがんじ)の切り通しを御台場のほうへ登ってゆく。
 途中に源兵衛屋餅店の看板が出ていて、左へ折れる細い道の奥に善林寺がある。
 善林寺は山号を光岸山という。
 後背にそびえる山も光岸山と呼ぶのかもしれない。
 この尾根は、東側に鍬ヶ崎上町から仲町・下町とつづく町並みを見下ろす丘陵をなしている。
 鍬ヶ崎の人たちは上ノ山(うえのやま)と呼ぶ。
 地図に名前は載っていない。
 光岸山善林寺は1899年(明治32)に勧請された、わりと新しい寺だ。
 鍬ヶ崎衆のなかの越中衆とよばれる漁師たちが富山から分霊を迎えたものらしい。
 善林寺の右手の細い道は、まっすぐ山の上へと延びている。
 もう少しゆったりジグザグに登れるなら尾道のような風情も生まれたかもしれない。
 残念ながら、登るのに集中して山下にあるはずの閉伊川河口部から宮古湾の奥へいたる風景を眺める余裕もない。
 やがて周りから民家の姿が消え、墓地に入る。
 登りは緩くなるが、舗装路から土の山道になる。
 頂上にも数基の墓があり、盛合・黒田・鈴木といった名が刻まれている。
 東には宮古港や重茂半島・太平洋が広がっている。
 じつは鍬ヶ崎の町並みを上から見たいと期待していたのだが、視界の下部は樹木に遮られて見えない。
 上ノ山の頂上から測候所がある北へは向かわず、鍬ヶ崎の町へ降りる道をたどった。
 途中に常安寺の別院がある。
 その前の坂を下ると昔の魚市場に出る。
 この光岸地から鍬ヶ崎上町や測候所方面に続く墓地のあいだの道は、かつて鍬ヶ崎道と呼ばれていた道の一部なのだろう。
 切り通しや閉伊川河口沿いの臨港道路ができる前は、愛宕から入って山道をたどるのが宮古と鍬ヶ崎を結ぶ唯一の道だったと聞く。
 測候所あたりに夏保峠があり、東・北・南へ分岐していたという。
 
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■ 女遊戸
 
 女遊戸――
 いろいろ想像を刺激する地名だ。
 読みはオナツペ、あるいはオナッペ。
 知らない人は読めない。
 宮古市の北東部、大字(おおあざ)崎山にある字(あざ)で、むかしは女遊部あるいは女詰と書くこともあったらしい。
 釜石市の両石町にも女遊部という字があって、読みも同じだ。
 地名の由来としては、いくつか説がある。
 菅原進「随想 アイヌ語地名考」に出ている解釈はこうだ。
 オナツペはアイヌ語の“オ・ナ・ツィ・ぺ( o・na・tuy・pe )”で、意味は“川の末端・の方が・切れる・もの”。
 女遊戸を流れる川は2本ある。
 南西の箱石から流れてきた箱石川が女遊戸川と名を変え、海水浴場の北で太平洋に注ぐのが1本。
 もう1本は、西から流れてきて女遊戸川に合流するサイ川だ。
 この川は、大雨が降らないと合流部の手前で水涸れする。
 オナツペ=川の端が切れるものとは、このサイ川に由来するのだという。
 「随想 アイヌ語地名考」は、一般的に言われているという和語地名説もひとつ紹介している。
 むかし流行病が広まったとき、女や子どもを守るために保護施設を建て、一時的に隔離した名残りだと。
 これは、収容されたのは健康な人間だから、なかで遊んでいるように見えた、それで女遊戸という名称が生まれて地名になったということなのだろう。
 金野〔きんの〕静一という人の「海の年輪――三陸のある女性の生涯」に載っている説は、おおむねこうだ。
 昔の集落には共同体を支えるオトナとして若者を訓練するため若衆宿、娘宿などと呼ばれる宿があった。
 15歳ぐらいになると男も女もそれぞれ月に数回この宿に寝泊りし、研修を受けたり遊んだりした。
 宿の呼び方にはいろいろあって、女の宿は女遊び屋とも言った。
 崎山あたりでは女遊び戸と呼ばれ、それが地名として残ったのではないか。
 どの説もなるほどとは思うものの、すとんと腑に落ちてこない。
 むしろ、外の人間や学者が唱える説ではなく、その土地の人に伝わる謂われをこそ知りたいのだが、そういう資料はない。
 
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■ 女遊戸川の鮭伝説
 
 「海の年輪――三陸のある女性の生涯」という本は2004年2月10日、ツーワンライフという出版社から発行されている。
 著者の金野(きんの)静一という人は、大船渡の出身で、何冊も著書がある。
 「陸中海岸の民話」(1986年1月20日・トリョーコム発行)という著作もあり、そのなかに女遊戸川と鮭の話が紹介されている。
 鮭といえば津軽石川だが、閉伊川にも田老川にものぼってくる。
 女遊戸川に鮭がのぼるという話は、あまり聞かない。
 稚魚の放流は行なわれているようだけれど、実際どうなのだろう。
 オナツペ川と鮭の伝説とは、だいたいこんな話だ。
 ――寒くなると、昔も今も変わらずに母なる川へ鮭が海から帰ってくる。
 オナツペ川にも、たくさん大きな鮭がのぼってきた。
 昔むかし、ある寒い冬の日のこと。
 オナツペの村の人たちが、大騒ぎをしながら網や大かごにいっぱい鮭を捕り、河原で焚き火をしながら一休みして酒を飲んでいた。
 そこへ、どこからか、きたない身なりをした旅の坊さんがあらわれて、こう言った。
 「鮭を一本、恵んでくだされ」
 村の人たちは、
 「せっかぐいい気持ちで一杯やってんのに、なんだ、おめぇは」
 と、だれも相手にしなかった。
 坊さんは、とぼとぼと、どこかへ去っていった。
 ふしぎなことに、その翌日から、オナツペ川には鮭がさっぱりのぼってこなくなった。
 「旅の坊さんに親切にすながったからだぁべ」
 「あの坊さまは弘法さまだったんだべ」
 村の人たちは口々に、そう語りあった。
 オナツペ川には、つぎの年もやはり鮭はのぼってこなかったという。
 
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■ 弘法大師の伝説
 
 この話も金野静一の「陸中海岸の民話」という本に載っている弘法大師伝説のひとつだ。
 文章を少し変えて紹介する。
 ――津軽石川が、まだ大川と呼ばれていたころのことだ。
 ある日の夕方、旅の坊さんが大川のほとりにやってきた。
 近くの貧しい老夫婦の家の戸を叩き、一夜の宿を乞うた。
 「この寒空に、さぞ難儀なこったべな」
 老夫婦は坊さんを家に上げ、正月用にとっておいた小豆ばっとうを食べさせてやった。
 寝るときは、囲炉裏の火が消えないよう、一晩じゅう薪をくべて暖かくした。
 自分たちは藁を敷いて横になり、坊さんには蒲団を二枚重ねて寝させた。
 翌朝、坊さんは早ばやと立っていった。
 そのとき、宿をしてくれた礼にと、南部のとなりの津軽からたずさえてきたという小さな黒い石を置いていった。
 「なんだべ、こんな石ころ……」
 坊さんのすがたが見えなくなると、老夫婦は二人してその石ころをしげしげと眺めながら不思議がったが、何気なくぽんと前の大川に投げ込んでしまった。
 つぎの日の朝のことだ。
 老夫婦の家の前は大騒ぎになった。
 それというのも、ほんの少ししかのぼってこなかった大川に、のんのんと鮭がのぼってきたからだ。
 川底の石が見えなくなるほど、いっぱいの鮭が、あとからあとからのぼってきた。
 鮭は老夫婦が捨てた黒い石ころめざしてのぼってくるのだった。
 「あれぁ神さまの石なんだ!」
 爺さま、婆さまは二人して腰を抜かしながら、そう叫んだ。
 つぎの年も鮭は川いっぱいにのぼってきた。
 そのつぎの年も、つぎの年も……
 村の人たちは近くに恵比寿堂を建てて、津軽の黒い石を祀った。
 そして、だれ言うとなく、大川は津軽石川と呼ばれるようになった。
 
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■ 津軽石の由来
 
 ――古くは津軽石川の下流一帯を渋溜(しぶどめ)村と呼んでいた。
 あるとき旅の僧が津軽から小石ひとつをたずさえてきて以来、渋溜の川におびただしく鮭が溯上するようになったことから、津軽石と名づけたと伝える。
 平凡社「岩手県の地名」には、津軽石という地名について、だいたいこう書かれている。
 渋溜の溜は原文のまま。
 留の間違いじゃないかという気もする。
 角川書店の「日本地名大辞典 岩手県」では渋留で、留という字が使われている。
 こちらでは津軽石の地名由来はこうだ。
 1528年(享禄1)津軽石の沼里(ぬまり)館主の一戸行政が津軽の浅瀬石明神の奇石=津軽石を勧請したことによると伝える。
 津軽石川の河口部は低湿地帯なので、水に“漬かる内(ツカルウチ)”という和語の転訛。
 アイヌ語のツカル・ウシ(アザラシ・いる所)あるいはチプ・カル・ウシ(舟・つくる・所)の転訛とする説もある。
 また、津軽は遠い蝦夷地の意味で使われたので、津軽石も閉伊郡の奥地で、津軽の内(蝦夷の内)の意か、と。
 つづけて、中世初期には渋留(しぶとめ)村と称し、のちに総福沢と称したとも書かれている。
 こうしてみると、やはり地名の語源というのは、さまざまな説がある。
 シロウトには、ひとつの説に絞ることはできない。
 弘法大師説話あたりを覚えておいたほうが無難だし、おもしろい。
 伝説が各地に蔓延するはずだ。
 沼里館主の一戸行政が奇石を勧請したという浅瀬石明神の浅瀬石は、いまの青森県黒石市のこと。
 宮古市と黒石市とは、この故事を歴史的由縁のひとつとして姉妹都市になっている。
 たしか宮古市役所の前に姉妹都市締結を記念した石碑が建っている。
 この碑文を掲載した資料もあったはずだと思って捜したが、出てこなかった。
 
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■ エビス石
 
 弘法大師と石と鮭にまつわる伝承は、たくさんあるようだ。
 川島秀一という人の書いた「漁撈伝承」(2003年1月20日・法政大学出版局)には、そういうおもしろい話がまとめられている。
 津軽石に伝わる話では、旅の僧に宿を与えた人が僧の置いていった小石を川に投げ入れたら鮭が川にのぼるようになったという。
 湯立ての占いをしてみると、いたこ(巫女)の口から託宣があった。
 「われは大師である。
 津軽を巡ったら宿もくれず、悪しざまにののしられた。
 その川から持ってきた石を、親切なこの村の者へあげた。
 それで鮭がのぼるのだ」
 津軽石の館主の一戸氏が先祖の住んでいた津軽を訪問したとき、“汗石(あせいし)”という名の石をもらってきて祀った。
 汗石は鮭を呼び寄せる石で、それから鮭がのぼるようになり、津軽石の地名が生まれた。
 アセイシというのは青森県黒石市の浅瀬石が訛ったものだろう。
 いまでも津軽石の岡田のエビス堂に祀られ、その写真が載っている。
 かなり大きな石で、両手でなければ運べそうにない。
 こういう石の伝承は各地にあり、エビス石(恵比寿石・夷石)と呼ばれる。
 ただ実際に?残っているのは津軽石の汗石だけらしい。
 田老町の沼の浜にもエビス石の伝承がある。
 旅の六部が宿を貸してくれた礼に、ふところからひとつの小石を出して立ち去った。
 「あとで川に沈めなさい。
 秋にはきっとよいことがあります」
 それから鮭がどんどんのぼるようになった。
 田野畑村の明戸では、昔は唐松沢の入りにある“いくさ沢”まで鮭がのぼってきていた。
 ある日、旅の僧がやってきたが、怪しい者として追い払った。
 旅の僧は去るとき唐松沢の入口にあったエビス石を持ち上げて空高く放り上げた。
 それから明戸に鮭はのぼらなくなった。
 空高く放り上げられたエビス石が落ちてきたところが、いまの宮古の津軽石だった、という。
 
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■ 奇祭の主人公
 
 津軽石でおこなわれている奇祭に、又兵衛祭りがある。
 毎年11月30日に、藁でYの字型にかたどった又兵衛人形を鮭留めのほとりに建てて祀るもので、祭壇にはこの日の朝に獲れた最も大きい雌雄の2匹を捧げるという。
 この祭りは又兵衛の伝説に基づいている。
 はたして奇祭の主人公又兵衛とは、どんな人物なのか。
 「知る知る宮古」というネット上にある宮古物知りガイドブックには、こう書かれている。
 藩政時代に3年続きの大飢饉があった。
 餓死を待つばかりだった津軽石の村人たちは、いつになく鮭がたくさんのぼってきたので喜んだ。
 ところが、それまで鮭留めから下で採れた鮭は盛岡藩のもの、留めの上流で採れた鮭は村のものという慣わしがあったのに、この年に藩は川いっぱいに留めをつくり、鮭が留めから上にのぼらなくなった。
 村人は困り果て、途方に暮れた。
 たまたま通りかかった旅の浪人者の後藤又兵衛が村人に同情し、夜にまぎれて留めを開けた。
 鮭は上流にのぼり、村人たちは餓死をまぬがれた。
 一方、後藤又兵衛は藩の役人に捕らえられ、津軽石川の河原で逆さ吊りの磔(はりつけ)になってしまった。
 後藤又兵衛は旅の浪人者ではなく、津軽石川の鮭留め漁業を見回りにきた盛岡藩の役人であると伝える話もある。
 1777年(安永6)に編集され、津軽石川の鮭漁の歴史を古伝から1712年(正徳2)まで編年的に記述した「日記書留帳」という古文書があり、このなかに又兵衛のことが書かれている。
 あるとき、浪人者が鮭を盗んだので見とがめた村人たちが殴り殺した。
 すると、鮭が川にのぼらなくなった。
 浪人者の祟りだと考えて祀ったところ、また鮭が川にのぼってくるようになった。
 以上が「知る知る宮古」からの紹介だが、義人と盗人と、又兵衛の姿は大きく違っている。
 はたしてどちらがほんとうなのだろう。
 又兵衛の藁人形は2月に鮭漁が終わるまで津軽石川に飾られる。
 1985年11月30日には又兵衛の碑の除幕式がおこなわれた。
 又兵衛は義人だったのだという思いが、人形や碑には籠められているような気がする。
 
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■ 宮古橋を渡る
 
 八幡土手から歩き、船場を経て宮古橋を渡った。
 途中、河川敷グラウンドの向こうの鮭留めに船が出ている。
 遠くて、なんの作業をしているのかわからなかったが、鮭の季節を感じさせる光景だ。
 船場には鴨のつがいが泳いでいる。
 餌をもらえると思ったのだろうか、見ていると近寄ってくる。
 そばに“潮吹グランドホテル”と横腹に書かれたバスの廃車が放置されているのを見つけ、カメラに収める。
 ついでに臨港線の跡も写す。
 レールの撤去された臨港線跡をたどって鍬ヶ崎に行こうと思ったら、通れそうもない。
 行き先を藤原へ変更した。
 久しぶりだなと思いながら月山を眺めつつ宮古橋を渡っていた。
 下流側の歩道から上流側の歩道へと、おばあさんがとことこ渡ってくる。
 なんだろうと思っていると、向こうから声をかけてくる。
 「熊がいる」
 「えっ、熊?」
 「なんだがわがんねぇども、熊のようだったぁ。
 ちょっと見でけどがんせ」
 下流側の橋脚の近くの川面に、熊のようなものが引っかかっているというのだ。
 見にいくと、なるほど、真っ黒い毛の動物の死骸が浮いている。
 水に漬かって毛がぺったんこになり、痩せた小熊のように見えないこともない。
 しかし、よくよく見ると、どうも大きな犬のようだ。
 「あれは犬だぁな」
 「そうだべが……
 犬だすか……
 そうだぁべな……」
 納得したのかどうか、おばあさんはそう言うと、とことこ宮古のほうへ去っていった。
 花輪あたりで熊がしばしば目撃されている。
 閉伊川を熊が流れてきてもおかしくはない。
 宮古は自然が濃いのだ。
 宮古橋から川面を眺めるのも久しぶりだなと思いながら、しばらく見下ろしていた。
 鮭の姿は見えなかった。
 
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■ 藤原埠頭へ
 
 宮古橋から河口まで、閉伊川の両岸には防潮壁が延びている。
 左岸には岸壁があって、たくさんの漁船が繋留されている。
 右岸には防潮壁があるだけで、船を繋留するような岸壁はない。
 この防潮壁はアイオン台風のあとにできたと聞いた覚えがある。
 「宮古市史年表」でみると、アイオン台風は1948年(昭和23)9月15日に宮古地方を襲った。
 宮古橋で水位6メートル、藤原250戸流失、浸水宮古全域、船の流失60隻、山田線寸断と書かれている。
 その前の年の同じ9月15日には、キャサリン台風が宮古を襲っている。
 2年続けての風水害で、とくに藤原の被害が大きかったらしい。
 そのあと、年表をずっと繰ってみたが、防潮壁の記事は見当たらなかった。
 防潮壁には、ところどころ扉がある。
 ふだんは開いていて、対岸や川面が見える。
 カモメが群れ飛び、川にもぷかぷか浮かんでいる。
 魚の加工場や製函工場が並んだ道には活気が感じられなかった。
 造船所もなんだかガランとし、船を揚げたり進水させたりするレールだけが昔と変わらずに川に延びている。
 小学生のとき、授業で写生に来た。
 このレールに載っている木造の漁船を描いた。
 造船所の先には加工場かなにかの大きな廃屋があり、防波堤に突き当たって道は終わる。
 防波堤にのぼった。左手に河口が広がり、対岸には出崎埠頭がある。
 新しい魚市場やシートピアなあども見える。
 右岸の端には砂浜だったときからの突堤が残っている。
 ところどころ崩れ、バラ線が張り巡らされて入れない。
 月山に届きそうに延びている4万トン岸壁の藤原埠頭に比べると消え入りそうに細い。
 藤原埠頭の先端まで行こうと思って防波堤から飛び降りた。
 ハゼ釣りらしいカップルがいる。
 そばを通り抜け、ずっと歩いてゆくと、埠頭の途中に金網のフェンスが立ちふさがり、大きなゲートがある。
 そこから先は〈一般人、立ち入り禁止〉だった。
 税金でつくったはずの埠頭を、市民は散歩することもできない。
 なにか変な感じだ。
 
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■ SLしおかぜ号の走った跡
 
 宮古大橋を渡った。
 車の量は、けっこう多い。
 ぼくのように歩いている人間など、ひとりもいない。
 じつは、宮古大橋を通るのは初めてだった。
 藤原方面に向かうときは、いつも古い宮古橋を使った。
 1974年(昭和49)にできたというから、竣工以来30年めにして初めて渡った宮古出身者ということになる。
 宮古大橋から東を眺めると、宮古橋よりも展望がいい。
 右手に月山、正面に閉伊川河口と閉伊崎、左手に臼木山や出崎埠頭、その向こうに太平洋が望まれる。
 下に目を落とせば川面や臨港線の跡が見える。
 臨港線跡は草ぼうぼうだ。
 ところどころに資材かなにかが積まれている。
 レールは撤去されている。
 この臨港線を使って、観光用の蒸気機関車が走っていたことがある。
 SLリアス線といった。
 年表などを調べてみると、1986年(昭和61)4月に宮古駅の貨物駅が廃止されている。
 臨港線も、そのころ廃線になったのだろう。
 ラサ工業に保管されていた専用線のSL、C10-8を宮古市が譲り受け、“しおかぜ号”として観光用に運行しはじめたのは1987年7月19日のことだという。
 市役所前のはまぎく駅から、ミニ浄土ヶ浜公園前駅を経て、宮古港のうみねこ駅までの1.4キロ。
 夏休みのあいだや9月・10月の休日に、改造客車2輌を引っぱって走った。
 利用する観光客が少なかったのか、1989年(平成1)には廃止されたらしい。
 1992年(平成4)の三陸・海の博覧会のときは、市役所前から白浜丸発着所までの0.5キロ区間で運行された。
 これは機関車だけが走った。
 ショー的な意味合いがあったようだ。
 レールが撤去されたのは90年代の後半だろうか。
 跡地は、幅は狭いとはいえ、総面積にしたらけっこうある。
 何年放置されているのか知らないけれど、もったいない。
 サイクリング・ロードや遊歩道をつくるとか、フリー・マーケットにするとか、なにかいい利用法はないものだろうか。
 
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■ 田老“万里の長城”
 
 田老町には“万里の長城”がある。
 建設にとりかかったのは1934年(昭和9)だという。
 その前年、1933年(昭和8)3月3日午前3時ごろ、大津波が三陸海岸を襲った。
 昭和三陸大津波、三陸地震津波と呼ばれる。
 三陸沿岸の被害は、死者・行方不明者3064人、家屋流失4034戸・倒壊1817戸・浸水4018戸。
 田老町のホームページに「津波の歴史」という年表があり、1933年の三陸大津波の項には、だいたいこう書かれている。
 ――宮古沖東方1210キロの海底を震源とする強震があり、地震後30分に第1回の波が襲来した。
 波高3.6メートル。
 第2回は6メートル、第3回は3メートル。
 直前に退き潮があり、海底の砂礫が引き去られる音がして、退潮位30〜50メートルを示した。
 襲来時には猛烈な“あおり風”が家屋を倒壊した。
 前後6〜7回の津波は港湾に一直線に押し寄せ、廻り波となった。
 843戸のうち罹災505、2739人のうち死亡548・行方不明363、漁船流失909隻。
 以上が年表の要点だが、地震のマグニチュードは8.1。
 田老は三陸一の惨害をこうむった。
 このときの大津波記念碑が、重茂(おもえ)の姉吉にもある。
 碑文上段“高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな”
 下段“明治廿九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し 生存者僅かに二人 後に四人のみ”
 “明治廿九年”、1896年6月15日にも三陸地震津波が起き、田老には14.6メートルの津波が押し寄せて村が壊滅している。
 明治と昭和のふたつの三陸大津波を経験した田老の人たちは、住まいを高所に移すのではなく、防壁を築いて海の脅威から町を守る道を選んだ。
 翌1934年3月、防壁の建設が始まる。
 戦争・敗戦の混乱を挟んで1958年(昭和33)3月3日、ついに竣工。
 さらに防壁を二重にする工事にとりかかり、1979年(昭和54)に総延長2433メートル・高さ10メートルの日本一の大防潮堤が完成した。
 これが田老“万里の長城”である。
 
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■ チリ地震津波
 
 1960年(昭和35)5月23日に、南米のチリ沖で発生した地震による津波が、翌24日の午前3時30分ごろ三陸沿岸に達し、大きな被害をもたらした。
 チリ地震津波だ。
 宮古市史年表には“高浜小学校全壊、磯鶏〜津軽石間不通、被害十億円”とある。
 高浜では死者も出て、津波碑が建てられている。
 その津波碑に、こう刻まれている。
 “外国地震でも津波が来る”
 日本では感じなかった外国の地震によって津波が発生し、22時間30分後、はるか1万8000キロの太平洋をこえて押し寄せた。
 外国地震でも津波は来る、地震を感じなくても津波は来るのだ。
 大きな地震がなかったせいもあるのか、このチリ地震津波の当時の記憶がはっきりしない。
 1960年というと小学校に上がる前だが、なにか覚えていてもよさそうなものだ。
 床下か床上か、八幡通りにあった家が浸水に遭った記憶はある。
 あれがチリ地震津波だったのかもしれない。
 八幡通りというのは、いまの大通り。
 市街地で、海に面してはいない。
 もっと山の手の宮町に住んでいたNさんがホームページの伝言板に書き込んでくれた証言があるので紹介したい。
 ――チリ地震津波は7歳のとき。
 そのときの惨状は子供の目にもほんとうに目を覆いたくなるものでした。
 市内はさほど被害がなかったのに、高浜・金浜地域はそれこそ泥と水にまみれた地獄絵さながら。
 なぜそこにいたのか忘れてしまいましたが、たぶん当時議員だった叔父が被災地の視察に連れて行ったのでしょう。
 とにかく目の前を泥が覆い尽くしていました。
 すさまじい光景と鼻を突くにおい。
 帰り際、クルマがぬかるみにはまって救助されたことを鮮明に覚えています。
 家に戻ると、ついさっき目の前にしていた光景とあまりに違いすぎる平和な現実が、嘘のように感じられてしまうのでした。
 
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■ 十勝沖地震の記憶
 
 1968年(昭和43)5月16日に、十勝沖地震が起きた。
 午前9時48分、三陸沖でマグニチュード7.9の地震が発生し、宮古の震度が4、宮古湾で206センチの津波を観測。
 気象庁は、この地震を“1968年十勝沖地震”と命名している。
 震源地は三陸沖とか青森県東方沖とか十勝沖とか襟裳岬沖とか、資料によってさまざまに表現されている。
 年号がついているのは、この年に限らずしばしば十勝沖で地震が起きているからだ。
 たとえば1952年3月4日にはM8.2の地震があり、北海道に3メートル、三陸沿岸に2メートル前後の津波が押し寄せたらしい。
 宮古市史年表には記載がない。
 1968年の十勝沖地震のときも、幸いに人的な被害はなかったようだ。
 宮古市史年表には、“湾内のラワン材散乱”とだけある。
 これは前にも書いたけれど、宮古一中の2年生のときだった。
 南校舎2階にあった教室のガラスが割れ落ちると思うほどの強い揺れに驚き、クラスじゅうが総立ちになった。
 悲鳴があがる一方で、「落ち着け、騒ぐな」という冷静な声も聞こえた。
 生徒は教室を出ずに待機し、大きな揺れが収まるのを待ってから八幡さまに全員が避難した。
 2年生は南校舎を出て、校庭脇にある逆さ公孫樹のところから八幡さまへ細い道を登った。
 八幡さまの山上から閉伊川を見ていると、川水が河口に引いてゆく。
 やがて逆流して押し寄せてくるのもはっきりわかった。
 田老町の津波年表には、午前10時30分に第1波が来て2メートル25センチを記録したが、被害は“大型漁船1隻トバタ船数隻の流失”にとどまったと記されている。
 トバタ船とあるのは1トンから5トン級の船のことらしい。
 いままで生きてきて、あの十勝沖地震のときに感じた揺れがいちばん大きかった。
 震度4だというが、5にも6にも感じられた。
 宮古測候所は硬い岩盤の上にあって地震計が揺れない、町なかで感じる揺れとは違う、という噂がある。
 このときの体験から言えば十分に信憑性のある話だと思う。
 
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■ 慶長の大津波
 
 市立図書館の脇に、金網で区切られて壇状になった一郭がある。
 入れそうなので石段をのぼってみると、数十基の墓石がぎっしり並べられている。
 図書館を建設するとき、このあたりにあった墓石をまとめたものらしい。
 よく見ると、古常安寺無縁仏供養塔と刻まれた石碑がある。
 いま沢田にある常安寺は、かつてこの市立図書館のあたりにあって、江戸時代に起きた慶長の大津波で流されたという。
 宮古市史年表には、慶長16年10月28日に“陸奥大津浪”とある。
 ――大地三度地震、のち津波が寄せる、津軽石百五十人、船越五十人、山田浦二人死す
 常安寺のあった宮古村あたりのことには触れられていない。
 いろいろ調べてみた。
 慶長16年10月28日、新暦に直すと1611年12月2日に三陸沖でマグニチュード8以上の地震が発生した。
 押し寄せた津波で、三陸沿岸では多くの家屋が流失、北海道東部では溺死が多かった。
 鍬ヶ崎村では波が蛸の浜を越えて襲った。
 宮古村の海浜通りは波にさらわれて1軒も残らず、わずかに黒田村の山ぎわに数戸が残るのみ。
 本町、和見館間(たてま)にあった常安寺から横山の里と呼ばれた宮町も津波にさらされ、約200軒が流失した。
 ほぼ壊滅状態に近い。
 もちろん死者は多かった。
 江戸時代に限ってみると、三陸地震津波は5回起きている。
 この1611年をはじめとして1677年・1763年・1793年・1856年。
 最初の1611年が津波の規模、被害ともに最も大きかったようだ。
 有史以来の記録に残っている津波では、869年・1611年・1896年・1933年の4回が特に大きな被害をもたらしている。
 三陸沿岸の場合、地震による被害は大きくないが、そのあとの津波でやられる。
 世界で最も津波に襲われてきた地帯だ。
 津波から立ち直ると、こんどは火事に見舞われる。
 人も家も、田畑も船も、文書も、みんな失ってしまう。
 そのうえに山背や飢饉が襲いかかる。
 こういう記録を調べているだけで、なにか切なくなってくる。
 
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鍬ヶ崎あれこれ       珊瑚 * 投稿7
 
 昭和8年の津波で母方の祖母と子供が亡くなった話を聞いたことがあります。
 地震で一度は逃げたらしいのですが、なぜか戻って、一番に船で田老から宮古の、たしか三浦医院に運ばれたけれど助からなかったそうです。
 チリ地震津波のときは菱屋さんの横のセキまで海水が来ました。
 道路には溢れなかったような気がします。
 私は母と姉の3人ですぐそばのお稲荷さんに逃げたのですが、その日は遠足のような……。
 被害にあったのは水上警察の近くに住んでいたI君の家で、床下浸水。
 クラスで一人だけでした。
 高浜はすごい被害だと聞いていました。
 でもその頃、実際によく分ってはいませんでした。
 田老の防潮堤を見ると津波に対して万全のように思えます。
 藤原も防潮壁でしっかり防災しているらしい。
 鍬ヶ崎は? と心配になり聞いてみたのですが、それなりの調査をしていて心配しなくてもいいらしいとか。
 ひとまず安心。
 でも、慶長の大津波は蛸の浜の坂を越えたのですね。
 絶対あり得ないと思っていました。
 チリ地震津波のときに逃げたお稲荷さんは家から1、2分のところにありました。
 そこから登って行くと測候所に出ましたが、道らしい道はなくて、タデ山(館山)と呼んでいました。
 となりの家のお稲荷さんで、祠はけっこう大きく、ひと部屋くらいある感じでした。
 神主さんは山根町に住んでらっしゃるのではと思います。
 高校の頃、不動園の近くの神主さんに運動会の源氏物語の仮装行列に使う衣装を借りに行ったことがあります。
 すごく怒鳴られましたが、必死に説明をしたら貸してもらえました。
 「おおやんまね」とか「こやんまね」とか、どっちだったか……
 「おおやんまね」「こやんまね」というのは屋号です。
 むかし鍬ヶ崎は商売をしている家が多かったからでしょうか、屋号で呼ぶことのほうが多かった。
 近所の家は道路側の部屋を店の造りにして、商売をするか、貸すかしていました。
 近くの家の屋号を思いつくままにあげると……
 安念丸、さくら屋、からげぇ屋、はんぞう屋、ときわ屋、さすけ屋、だるま屋、きせる屋、いだこ屋、うまこ屋、むぐめ屋、せんま屋、とぐすけ屋、とぐすま屋、げんたろう屋。
 今もそのままの鯛屋、ひっさ(菱屋)、かすけ屋、さばね屋。
 鯛屋さんは清水橋の角、ヴァイオリニストの古館由佳子さんのご実家です。
 お菓子類からノート、鉛筆、花火など、なんでもありました。
 むかしは反対側に田老行きのバスの停留所がありました。
 私の家でもバス通り側の部屋を店と呼んで貸していた時期があります。
 屋号のついた番傘が玄関の上のほうに必ず何本か掛かっていました。
 鍬ヶ崎小学校の前を川が流れていて、清水橋〜前須賀のバス停のそばを通って海に流れていました。
 清水橋はバスの終点の所です。
 むかしは橋が架かっていたと思います。舗装になっていない頃、雪だるまを道路で作って遊んで、あまりにも大きくなり過ぎて道路から清水川に転がして落とした……
 そんなこともありました。
 
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■ 本田竹広の「ふるさと」
 
 いま本田竹広の「ふるさと ― On My Mind」を聴いている。
 発売されたばかりの新しい2枚組みCDだ。
 童謡の「赤とんぼ」で始まる。
 しみじみ、いい。
 もちろんジャズだ。
 「夕焼け小焼け」「七つの子」とつづく。
 童謡がこれほど自分の心にしみついているとは思わなかった。
 なつかしさに陶然とし、童謡っていいなと思う。
 聴きなれた旋律をしっかり押さえながら、本田竹広の指は自在なジャズの展開に聴く者をいざなう。
 これが、ほんとうに二度も脳内出血で倒れた人の指から生まれてくる音だろうか。
 流麗で、力強く、しかも繊細だ。
 「月の砂漠」もいい。
 名曲と名演奏に聴き入ってしまう。
 「赤い靴」「荒城の月」「浜辺の歌」、古謡の「さくらさくら」、そのあとが「仰げば尊し」。
 主旋律を奏でるピアノ・ソロが終わり、突然トリオによる“天行健なり〜”のメロディが響く。
 「父の歌(宮古高校校歌)」だ。
 作曲した父親の本田幸八、演奏する子息の本田竹広、親子の才能がとけあってみごとな世界をつくりあげている。
 吹き込まれてはいない歌声が聴こえてくる。
 幻聴だ。
 いつしか自分も一緒に歌っている。
 そして「故郷」。
 ピアノという楽器によって父親と共鳴し、心のふるさとに帰った人間。
 「ふるさと ― On My Mind」というアルバムは、そんな本田竹広という存在そのものに感じられる。
 添付された刷り物に彼はこんな意味のことを書きつけている。
 ――世界に誇れる日本の童謡や、すばらしい曲を、多くの人に聴いてもらいたい。
 そう思って作った。
 自分自身もリハビリのとき、動かない手で「赤とんぼ」や「ふるさと」を弾き、気持ちが救われた。
 そして、このアルバムには亡き父の作った故郷の宮古高校校歌も収録した。
 病魔を乗り越えた今の自分だからこそ作れたアルバムだと思うし、いろいろな気持ちが込められている。
 自分を励まし支えてくれた多くの人たち、両親、そして最愛のピアノに捧げる。
 
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■ すっとぎ
 
 いなかではよく食べたのに上京してから食べなくなった、そういうもののひとつに、スットギがある。
 食べなくなったというより、食べたくても、お目にかかることがないのだ。
 宮古では町の店屋で売っていた。
 八百屋にも魚菜市場にも、スーパーの和菓子・餅菓子の売り場、地物を売るコーナーにもあった。
 いろんな店にあったから珍しくもなかった。
 関東にはない。
 食べたいと思っても食べられない。
 しかし、それでいいのだと思う。
 スットギは、シトギ、シットギとも言う。
 漢字では粢と書く。
 豆スットギとも言う。
 東北の伝統的な菓子であり、副食品であり、餅の原型とも言われる。
 蒲鉾型をして、1センチ幅くらいの厚さに切ってある。
 原料は、おもに米の粉。
 搗いて砂糖・塩少々で調味し、形を整えて固める。
 これに潰した青大豆を入れると、豆スットギになる。
 宮古では青大豆をふんだんに使う。
 潰したクルミを入れることもある。
 ほのかに甘く、しっとりとした食感・量感がある。
 豆の収穫期に合わせ、11月から4月あたりまでが旬らしいが、ほかの季節にも出回っている。
 山の神さまの年越しといって、旧暦12月12日に、米の粉だけでつくったスットギを山の神に供える習慣もあるそうだ。
 林業や鉄砲打ちなど山仕事にかかわる家の風習で、自分でしたことはない。
 たまに帰省すると、いつも宮古の町なかや山や海辺をひたすら歩きまわる。
 ナップザックのなかには、途中の店で買ったスットギをよく入れている。
 食いでがあって、うまい。
 生の自然食品だから、日にちがたつと少し醗酵して匂いがつく。
 ちょっと饐〔す〕えたような匂いを嗅ぎながら、むしゃむしゃ食べてしまう。
 これがまたいい。
 焼いて食べてもうまい。
 作り方は簡単なようだ。
 だったら自分でつくればいい――
 そう思いながら、それはしない。
 また宮古へ帰ったら食べてやるぞ、と思いつつ時を過ごす。
 これこそ、ふるさとの味、宮古でしか味わえない味覚なのではないだろうか。
 
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■ ひゅうず
 
 宮古あたりで食べられているふしぎな名前の食べ物に、ヒュウズがある。
 三陸地方に広く古くから伝わり、おやつ、副食にする素朴な餅菓子だ。
 関東では見かけない。
 小麦粉や米粉を練って作った皮のなかに、味噌・黒砂糖、すりおろしたクルミやゴマを甘く味つけした餡を入れ、蒸かすか茹でるかして食べる。
 できたての温かいうちが、いちばんうまい。
 食べるときに注意しないと、溶けた餡が飛び出す。
 口のまわりや手や服を汚す。
 この、指に垂れた餡を舐めとるのもうまい。
 ふしぎな名前は、形が似ている火打ち石に由来し、火打ちが訛ったものという説がある。
 たぶん、それで正解なのだろう。
 仏前に供えることも多いため、オヒュウズと呼ぶ人も多い。
 ヒュウジとも言う。
 縁の部分をフリル状にきれいに細工したものを〈花ひゅうず〉と名づけて、おとなりの新里村ふるさと物産センターや宮古の魚菜市場などで売っている。
 地域によっては耳餅、耳こ餅、かます餅などとも呼ばれるそうだ。
 これもその形からきているのだろう。
 ヒュウズというと、ひとりのおさな友達の顔が浮かんでくる。
 近所に住んでいたU君という友達で、家が製麺所だった。
 遊びに行くと、おやつによくホカホカムチムチツヤツヤのヒュウズが出された。
 蒸かしたてが湯気につつまれ、しっとり輝いていた。
 あのヒュウズの味は忘れられない。
 U君の家には粉の入った大きな袋を積んでおく部屋があり、そこに入りこんで袋の山を登ったり降りたりして遊んだ。
 2階が麺打場になっていた。
 裏に中庭があり、ガッチャンポンプの井戸があった。
 その奥が離れで、2階に物干し台があり、鳩小屋もあった。
 いつのまにか一緒に遊ばなくなり、住む場所も学校もかわってしまった。
 いま思えば蒸かしたてのヒュウズのように温かで素朴な性格をした友達だった。
 
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■ ひゅうずの作り方
 
 材料は4人分で、小麦粉250グラム、熱湯がカップに1と4分の1、クルミ20グラム、黒砂糖25グラム、味噌大さじ1。
 クルミ・黒砂糖を細かく刻み、味噌とよく混ぜ合わせてクルミ味噌を作り、8個に分ける。
 小麦粉に煮立った熱湯を加え、箸で手早くかき混ぜる。
 よく混ざったら手でこねる。
 初めはぶつぶつ。
 よくこねると、なめらかな餅肌になる。
 餅を8個に分けて直径10センチくらいの円形に伸ばす。
 なかにクルミ味噌を入れて半円形に折り、合わせ目をよく押さえる。
 たっぷりの熱湯で茹で、浮き上がったらザルに上げる。
 これは一例にすぎず、材料や分量や作り方には、いろいろあるようだ。
 粉は小麦粉が多いが、米粉・そば粉、ご飯と小麦粉などでも作る。
 餡もクルミ味噌のほかにアズキやゴマ味噌などを使う。
 粉に加える湯の温度は高いほどいい。
 できあがりがふっくらし、時間がたってもやわらかい。
 どうも、このへんが肝心かなめのポイントのようだ。
 クルミは地元産がうまく、小麦粉は南部小麦がいいといわれる。
 微妙な点で実際どうなのかはよくわからない。
 茹でるか蒸すかは、蒸籠で蒸すのがベストだと思う。
 ――知ったかぶりで作り方の一例を紹介してみたが、じつは自分で作ったことがなかった。
 調べて、作ってみた。
 小麦粉がなかったので、お好み焼き用の粉を使った。
 餡も、瓶詰めのゴマ・ペーストやジャムを使ってみた。
 記憶に残っている、輝くようにしっとり光るホカホカのできあがりにはならなかった。
 それに皮が妙にしょっぱい。
 どうも、お好み焼き用の粉が失敗の原因だったようだ。
 餡は案外いけた。
 代用品も工夫次第で使える。
 いなかの自分のうちでも母は作ったことがなかった。
 近所の商店で売られているものを買ってきては、おやつや食事代わりにした。
 だから、いわゆる“おふくろの味”とは違うけれど、ぼくにとっては懐かしく甘い“ふるさとの味”だ。
 
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■ エチオピア
 
 宮古発のサイト「平運丸 青年漁師の店」にある海日記2004年9月22日のなかに、エチオピアという名前の魚が出てくる。
 エチオピアを捕獲した、シーラとピラニアとタナゴが合体したような魚で非常に珍しい、スンナ(自家消費)にすることにしたと。
 エチオピアはアフリカの内陸の国のはずだが、なぜそんな国の名が魚についたのだろうと不思議に思った。
 調べてみると末広恭雄の「魚の博物事典」(講談社学術文庫)に出ていた。
 スズキ目シマガツオ科で本名シマガツオ。
 深海に棲む。
 魚市場に出回りはじめたころ、エチオピアの皇族が日本を訪れて国際ロマンスの噂が立った。
 それを記念してエチオピアと呼ぶようになったという。
 ネットで検索してみたら、こんな話もみつけた。
 南條岳彦という人の文章で、自著の「一九四五年マニラ新聞」(草思社)に詳しく書いているという。
 1931年(昭和6)にエチオピアから使節団が日本にやってきて1ヵ月ほど滞在した。
 日本と同じように3000年の歴史をもつ君主国に日本人は共感を抱いて歓迎した。
 1933年(昭和8)、使節団の一員だったアラヤ殿下から、日本の女性と結婚したいので紹介してほしいという連絡が東京に届いた。
 アラヤ殿下はエチオピア皇帝の甥。
 皇族のラブ・ロマンスとして新聞は大きくとりあげ、候補者が絞られたが、縁談は実現しなかった。
 その陰にはエチオピアと日本との接近を喜ばなかったイタリアの横槍があった。
 その後、イタリアはエチオピアを侵略した――
 裸足のマラソン・ランナーとして1964年の東京オリンピックで優勝したアベベの国とは、そんな関係もあったのかと驚いた。
 日本人はイタリアと戦うエチオピアを応援していた。
 ちょうどそのころシマガツオがよく獲れて食卓にのぼったものらしい。
 カツオといってもスズキ目サバ科の鰹とは似ても似つかず、刺し身には向かないらしい。
 エチオピアという名も食欲をそそらない。
 ただ、見た目よりはうまい魚だという。
 
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■ フライ旗
 
 大漁旗のことをフライキと呼ぶ。
 漁船の新造を祝って取引先や縁者・漁仲間から船主に贈られ、船下ろし(進水式)のさいに船を飾る。
 満艦飾だ。
 漁船は大漁したことを示すために掲げて入港する。
 鉄道関係でも信号用の手旗をフライキと呼ぶ。
 書き方は、フライキだったりフライ旗だったりと一定しない。
 漢字では縁起をかついで富来旗・福来旗とも書かれる。
 フラフ、フラウと呼ぶ地方もあり、旗を意味するオランダ語のフラグ:vlag から生まれた言葉と説明している本もある。
 英語では大漁旗を a big catch flag と表現するらしい。
 旗を掲げるは fly a flag だ。
 フライキは、この fly a flag が語源なのではないかと素人考えをしている。
 川島秀一の「漁撈伝承」(法政大学出版局)に大漁旗の由来譚としてこんな話が書かれている。
 むかし山田でオガダの赤い腰巻を船の守り神として積んでいる漁師があった。
 その腰巻が夢見に立った。
 すると、翌日には船が沈みそうになるほど大漁した。
 その漁師はオガダに告げた。
 「これからは腰巻を大漁の目印として掲げることにする」
 このときから大漁旗を掲げる慣わしが生まれ、いまでも赤い色の旗が多いのだという。
 オガダは御方で、女房のこと。
 フライ旗という言葉も、この本によれば三陸沿岸で使われはじめたものらしい。
 1970年代から末広町商店街でフライ旗祭りが開催されている。
 宮古市史年表で捜したら、1971年(昭和46)7月24日のところに“フライ旗まつり、十万人の人出”とある。
 祭りでは通りにロープを張り渡してフライ旗を吊るす。
 静かに垂れ下がっていても綺麗で華やかだ。
 風にはためいていると勇壮でいい。
 が、そのうちロープに絡まってしまう。
 あれはカッコ悪い。
 たぐまないよう、うまく工夫できないものだろうか。
 正月に船を大漁旗で飾りつける地方もある。
 宮古ではどうなのだろう。
 考えてみたら、いまだに港町の正月というものを知らない。
 
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フライ旗、港町のお正月   うらら * 投稿8
 
 小学6年生の夏休み、新潟の造船所に依頼して造った船の進水式のため、家族で新潟まで出かけました。
 そのとき初めて進水式というものを体験しました。
 ぴかぴかの真新しい船が、テープカットのあと、赤や黄、緑、青のたくさんのフライ旗を掲げて、音楽とともに水に滑り降りてゆく姿は、本当に美しかったです。
 緊張しながらも、不思議とおごそかな気持ちになったことを覚えています。
 昔から船底にはお守りとして、女の子の髪の毛をひと束入れる習わしがあります。
 新しい船には私の髪が入れられていたので、責任重大と心した記憶があります。
 お正月には宮古港でも船はフライ旗を揚げます。
 魚市場の初市が2日か3日?にあるので、その日はどの船も一斉に揚げます。
 大晦日から船は沖に出て漁をし、初日の出を拝むのは太平洋の大海原で。
 年が明けて大漁旗を揚げて堂々と帰港するために、年を越えての漁は一年で一番力の入ったものでした。
 初漁を頑張ってもらうため、母のおせち料理作りにも気合いが入ります。
 毎年27日頃からお手伝いの人と手分けして、家の分と船の分の計20人分の準備を、併行して段取りよくこなしていきます。
 私は“八べえや”さんや“みかわや”さんへ。
 それから材料の足りないものの補充の買い出しに走ります。
 よく手伝ったのが、お煮しめの野菜の皮むきと、お生酢やお雑煮のための大根の千六本。
 船の漁師さんは本当によく食べるので、大根の本数は生半可じゃなかったです。
 甘い物もみんな大好きなので、膨大な量のお汁粉と、黒豆を作りました。
 年末だけは我が家の台所も旅館の厨房のようになってしまうのでした。
 
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■ 宮古港海戦
 
 浄土ヶ浜の第1駐車場にターミナルビルがある。
 そこから海沿いに北へ少し行くと、右に御台場展望台へつづく細い道があり、入口に宮古港海戦記念碑が建っている。
 大砲の台座と砲弾をかたどったのだろう、コンクリート製の土台はおもしろい形をしている。
 石碑本体は薄茶色。
 裏に1968.3.7という日付や建立者の宮古ロータリークラブの名とともに、石材が両雲母花崗岩であることなどが刻まれている。
 表にはこう刻まれている。
“宮古港海戦記念碑
          衆議院議員 鈴木善幸書
 明治2年(1869)3月、函館にたてこもる旧幕府軍追討のために派遣された政府軍の軍艦「甲鉄」以下8隻が宮古港に碇泊していた。
 旧幕艦「回天」は25日早朝、旗艦「甲鉄」を奪うべく侵入し、砲火をあびせ壮烈な戦いをいどんだ。これに対し政府軍は艦載機銃をもって応戦――接舷、肉迫、激闘約30分――両軍の死傷者合わせて50余名におよんだ。
 この海戦は1艦をもって8艦にあたった勇敢さとともに、わが国初の洋式海戦として、日本海戦史上その名をとどめた。
 明治100年を記念して、これを建てる。”
 読みやすくするために読点をおぎなった。
 横書きで、洋数字と函館の表記は原文のまま。
 鈴木善幸さんの文字だとは知らなかった。
 山田町出身、宮古水産高校卒、首相をつとめ、2004年7月に故人となった。
 さん付けで呼びたくなる親近感があった。
 善幸さんが総理大臣になったのは1980年(昭和55)だから、その12年前の文字ということになる。
 御台場展望台に立った。
 眼下には浄土ヶ浜の美しい岩肌と静かな海、その向こうに太平洋がはるかに広がる。
 幕府軍の回天は南の海から閉伊崎の尖端をかすめて宮古港に入り、北へ敗走した。
 回天――天運は回らなかった。
 浄土ヶ浜の北に浮かぶ日出島には軍艦島という別名がある。
 新政府軍が追撃する途中、この日出島を回天と見誤って砲撃したのかもしれない。
 そんなことを思いながら、穏やかな海、平和な海という名をもつ太平洋を眺めた。
 
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■ 臼木山の宮古港海戦解説碑
 
 御台場展望台や浄土ヶ浜ターミナルビルの西側に位置する臼木山には、宮古港海戦の解説碑がある。
 頂上を鍬ヶ崎方向に少し下ったところで、海戦の舞台となった宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見下ろすことができる。
 海戦の解説と略図、幕府軍にいた新選組の土方歳三と官軍側の東郷平八郎の写真や紹介文を刻んでいる。
 海戦から130年たった1999年(平成11)に建立されたらしい。
 碑文は大きな黒曜石いっぱいに小さな字で陰刻されたうえ、碑面が光って、ちょっと読む気が起こらない。
 鈴木善幸さんの書いた記念碑より詳しく書いてあるのだが、これでは、せっかくの解説碑も用をなしていないかもしれないと気がかりだ。
 解説文には、こう記されている。
 “一八六七(慶応三)年、第十五代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した後も、旧幕府軍は各地で新政府軍に抵抗を続け、一八六八(明治元)年には、榎本武揚をリーダーとして箱館五稜郭に臨時政府を樹立しました。
 これに対し、一八六九(明治二)年三月、新政府軍は箱館の旧幕府軍討伐のために八隻の船団で品川沖を出航し、十六日から相次いで宮古に入港しました。
 この情報が箱館に伝わると、旧幕府軍は宮古港に停泊する船団に奇襲攻撃をかけて、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」を奪取し、戦況を一変させる作戦を決定しました。
 そして「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻の軍艦で宮古に向かいましたが、途中で蟠龍は行方不明、高雄も機関が故障したため、三月二十五日未明の作戦決行時に残った軍艦は回天一隻となっていました。
 それでも、旧幕府軍はわずかな可能性を信じて甲鉄への奇襲攻撃を強行しましたが、ガットリング銃など近代兵器による猛反撃にあっては作戦は成功するはずもなく、回天は退却を余儀なくされるという結果に終わりました。
 わずか三十分あまりの戦いでしたが、これが近代日本海戦史に残る宮古港海戦です。”
 
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■ ウスギヤマ?
 
 宮古港や鍬ヶ崎の町並みを見おろす臼木山は、日立浜の集落の後背に位置している。
 標高は86メートルしかない。
 それでも、ちょっと長めの散歩のつもりで宮古から鍬ヶ崎・日立浜を経て浄土ヶ浜へ通じる坂道を登り、第1駐車場でひと息ついて最後に臼木山の頂上まで登るとなると、けっこうきつい。
 花見には小さいとき親に連れられて二、三度行ったことがあるだけだが、夢のようにきれいな桜山の記憶が残っている。
 桜山という別名は、1928年(昭和3)にヨシノザクラ3000本を植樹してから生まれたもので、それまでは赤松が多かったという。
 春にはカタクリも薄紫の可憐な花を咲かせる。
 最近に行ったのは11月で、そのときはノアザミに似た紫色の花が目を引いた。
 あれは、なんという花なのだろう。
 広い駐車場があちこちにできた。
 水産科学館もでき、子どものころに比べてさえ、はるかに緑は減った。
 それでもまだ自然は濃厚に残っている。
 ニホンカモシカも姿を見せることがあるらしい。
 臼木山以外にも浄土ヶ浜の自然歩道や山のなかを歩きまわってみた。
 熊はご免こうむるが、カモシカなら出会いたい。
 そう思いながら捜したが姿を見ることはなかった。
 カモシカは偶蹄目ウシ科カモシカ属、鹿は偶蹄目シカ科シカ属。
 ウシ科とシカ科だから全然別種らしい。
 臼木山のウスキは、アイヌ語で鹿の足跡のあるところという意味だと聞いた覚えがある。
 いま鹿はいないのだろうか。
 ウスキといえば、臼木山をウスキヤマと呼んでいた。
 ウスギヤマと濁って読ませる地名事典に出会って驚いたことがある。
 濁点のあるなしでイメージが違う。
 土地の人はどう呼ぶのだろう。
 徳冨蘆花の小説「寄生木」には臼木山が小杉山と名を変えて出てくる。
 モデル小説によくある手で、実際の名称がたやすく思い浮かぶように少しだけ変えて小説化している。
 このコスギヤマという響きから察すると、明治時代に山口で育った原作者小笠原善平は、臼木山をウスギヤマと呼んでいたようだ。
 
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■ 宮古の銀鮭を堪能する
 
 鮭が来た。
 宮古の青年漁師が延縄で釣ったばかりの、ぴかぴかの銀鮭。
 白鮭の銀毛だ。
 魚体がきれいだ。
 湾外で釣りあげるため、婚姻色に変化するまえの銀色に光っている。
 それに、大きい。
 いちばん小さい3キロ以上を頼んだら、サービスしてくれたらしい。
 捌きがいがある。
 発泡スチロールの箱から出して真水で洗う。
 特大のまな板に載せて頭を落とす。
 腹をさき、卵巣をとりだす。
 丸太ン棒のような腹子〔はらこ〕のかたまりだ。
 器に移し、あとでほぐす。
 中骨の下の血合いをスプーンでこそげとり、瓶に入れる。
 塩をまぶしてかき混ぜ、塩辛にする。
 メフンだ。
 身を三枚に捌いていくのに大きくて手間どる。
 それでも、どうやらおろすことができた。
 ぷりぷりこんもり、つやつや――脂がのった、きれいな身だ。
 適当な大きさに切り分けて保存する。
 なにも味をつけない、かるく塩をする、醤油漬け、この3種だ。
 醤油漬けのたれは、腹子用に酒と醤油だけでつくったシンプルなもの。
 頭と骨も適当に切り分け、あら汁にする。
 内臓は捨てる。
 調理しだいで食べられるが、うまい調理の仕方がわからない。
 腹子を塩湯のなかでほぐす。
 やわらかい卵を潰さないようにほぐすには根気がいる。
 業者も手でやっているのだろうか。
 ザルいっぱいの腹子。
 手間ひまを考えると、これだけで何千円もしそうだ。
 潰れた卵殻をとりのぞき、タッパーに入れ、醤油だれで満たして保存。
 しっかり味がしみる明日が楽しみだ。
 晩飯は鮭の鍋。
 それに切り身を焼く。
 なにも味をつけない切り身がうまい。
 つぎに、醤油をちょっと垂らして食べる。
 こたえられない。
 鍋の身もほくほくして体があったまる。
 酒が進む。
 久しぶりに宮古の釣りたての鮭を堪能した夜。
 満腹のおなかを抱え、横になる。
 BGMは本田竹広の「ふるさと」。
 とろとろと心地良い眠気に誘い込まれる……
 
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■ 南部鼻曲がり鮭
 
 宮古にいるときは鮭を、ほんとによく食べた。
 とくに塩鮭――荒巻だ。
 歳末には必ず1本は買う。
 そのうえに貰いものもあるから、それこそ毎日のように塩鮭の切り身のおかずがつづいた。
 焼いて食べる。
 ほぐして、お茶漬け・お湯漬けに載せて食べる。
 お粥や雑炊にもする。
 弁当のおかずにもよく入っていた。
 それでもおいしいと思って飽きなかったのだから、荒巻とは偉いものだ。
 荒巻の切り身を塩身とも呼んだ。
 荒巻にするまえの銀鮭は塩鮭ほど食卓に載ることはなかった。
 魚市場からすぐに東京方面へ回ってしまうからだろうか。
 鮭の刺し身というのは上京してから初めて食べたと思う。
 むかし宮古では鮭を刺し身では食べなかった。
 生には寄生虫がいるといわれて敬遠されたものだった。
 いまは瞬間冷凍する。
 完全に凍らせて2、3日置けば、万一虫がいても死んでしまうので大丈夫だ。
 関東で鮭をシャケと発音するのには、いまだに違和感を感じる。
 スーパーなどでシャケと書いてあるのを目にすると、
 「鮭はサケであってシャケではない」
 そう心のなかでつぶやいている。
 そのサケも宮古のネイティブはサゲと濁って発音する。
 荒巻は、新巻とも書かれる。
 新年には新巻の字のほうが似合う。
 ただ、荒縄をエラに通して吊るすから荒巻がもとの字だと聞いていた。
 むかしは藁で巻いて吊るしたのでワラ巻、それが訛ってアラ巻になったという説もある。
 岩手各地の湾内や河川でとれる鮭は、南部鼻曲がり鮭という。
 南部は南部藩で、子どものときはそういう知識もなく、ただ南部鼻曲がり鮭という名前と実物だけを知っていた。
 もっとも、宮古で、ことあらためて南部鼻曲がり鮭と呼ぶことは少なかった。
 鼻曲がり鮭というのも、じつはその正体を知らなかった。
 獰猛な感じに鼻が下に曲がっている。
 長いあいだ、鼻曲がり鮭という特別な種類があるものとばかり思っていた。
 いつか調べてみたら、ふつうの鮭のオスだけが、川に近づくとしだいに鼻が曲がってくるのだと知って驚いたものだった。
 
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■ 荒巻鮭の発祥地
 
 南部鼻曲がり鮭の荒巻が生まれたのは南部藩のどこだったろう?
 そう思って調べてみると、発祥地の名乗りをあげているのは上閉伊郡の大槌町だった。
 下閉伊郡山田町の南に位置し、大槌川・小鎚川という2本の鮭川がある。
 大槌町のホームページを開いて見た。
 町の魚として鮭が制定されている。
 宮古と同じだ。
 荒巻については、だいたいこう書かれている。
 日本が分裂して対立した南北朝期(1336〜1392年)から、この地方を統治していたのは大槌氏だった。
 累代の大槌氏のなかで名を馳せたひとりであり、大槌氏最後の武将となった人物に、大槌孫八郎がいる。
 豊臣秀吉が天下をとった1590年(天正18)以降に大槌城主として軍事的・政治的にも手腕を示した。
 徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)以降の大槌孫八郎の最大の功績は、江戸という大都市に注目して特産品の鮭を出荷したことだった。
 ただ江戸まで運ぶには20日以上かかる。
 生のままではだめだ。
 孫八郎が考えたのは、鮭を塩漬けにする荒巻の方法だった。
 さらに“南部の鼻曲がり鮭”というブランド名をつけて名産化に成功する。
 ところが、その交易による成功が仇となった。
 大槌氏は南部鼻曲がり鮭の名に冠したその南部氏に交易の成功を睨まれ滅ぼされてしまった。
 皮肉な話である。
 1612年(慶長17)ごろのことだ。
 ちなみに、この南部鼻曲がり鮭の交易をさらに発展させたのが吉里吉里善兵衛の名で知られる前川善兵衛。
 南部藩最大の豪商として知られた。
 その吉里吉里善兵衛も、ささいなことが原因で没落する。
 そのあとをついで交易したのは、宮古の和泉屋という豪商だったという。
 この和泉屋は名を惣次郎、屋号を豊島屋といったということぐらいしか知らない。
 宮古のことを調べ続けているうちに、また出会うことになるだろう。
 
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■ ナモミ
 
 「知る知る宮古」というサイトを見ていたら、小正月の行事としてナモミというものがあると書かれている。
 ――1月15日の夜、ナモミあるいはナゴミと呼ばれる異形の鬼たちが各家を回って暴れる。
 ナモミは、恐ろしい面をつけて藁蓑をまとい、家に上がりこんでは子どもたちを怖がらせる。
 この異形の来訪者に家の人は、
 「うちには連れていがれるような悪い子はいない」
 と言って御神酒を振る舞う。
 ナモミは地区の青年団などが扮している。
 鬼に見えるが、実は春に訪れる福の神であるとされる。
 というのだが、幸か不幸か子どものころナモミに脅された経験はない。
 そういう話を聞いたこともなかったから、宮古の町場では、すたれて久しい風習なのだろう。
 2005年(平成17)1月16日付の「岩手日報 Web News」には、こんな記事が出ていた。
 ――野田村の小正月行事ナモミが15日の夜に行なわれた。
 鬼面に藁蓑を着た村の若者が数人ずつ4班に分かれ、子どものいる家約70戸を回った。
 ナモミは笛の音とともに戸を叩きながら、
 「悪いわらしはいねえが。
 言うことを聞がねえわらしはいねえが」
 と叫んで家のなかに乱入する。
 子どもたちは突然の鬼の登場に泣き出したり家の人にしがみついたり。
 ナモミは冬に家の中ばかりにいる子どもをたしなめ、健やかな成長を祈る冬の風物詩。
 若手有志で組織する「なもみ保存会」が1980年(昭和55)に復活させた。
 以上が記事の要旨。
 野田村では、ナモミが復活して、かれこれ26年になるらしい。
 宮古でも、この伝統的な風習を復活してみたらどうだろう。
 
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■ 山の神
 
 インターネットで“ナモミ”や“なもみ”と打ちこんで検索してみると、けっこうヒットする。
 目につくのは田野畑村。
 村の公式サイトで「広報たのはた」の毎年の2月号を見るとナモミの記事が出てくる。
 野田村は宮古からちょっと遠いが、近くの田野畑村でもかつてナモミの風習が盛んで、一時すたれたものの、15年ほど前から各地区で行事を復活させているらしい。
 大船渡市の三陸町吉浜地区にはスネカという同様の行事がある。
 スネカは2004年1月に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 寒い冬に囲炉裏にばかりあたっていると脛(すね)に小さな火斑ができて皮が厚くなったりする。
 その脛皮をやはり囲炉裏端で掻いたり剥いたりするのをスネカワタクリと言い、怠け者の象徴のように言われたらしい。
 スネカは、このスネカワタクリの略で、怠け者の子どもを戒める行事の名前に転用された。
 ナモミも、土地によってナゴミやナマミと変化するが、スネカとおなじ意味を持っている。
 宮古でナモミ、ナモミタクリ、久慈地方ではナモミ、ナマミ、大船渡でスネカタクリ、遠野地方ではビガタタクリと呼ばれる。
 こうしてみると三陸沿岸には小正月にセッコギの子を戒め、その成長や家内安全を祈る行事が広くあったらしい。
 鬼面、藁蓑という姿で、手には包丁や斧を持ち、大きな麻袋を持っている場合もある。
 子どものいる家に上がりこみ、火のそばでごろごろしているような怠け者や泣いている子は麻袋に入れて山に連れていくと脅す。
 家の人に「悪い子はいない」と言われ御神酒や餅などのご祝儀をもらうと出てゆく――
 そんな鬼の登場する風習は太平洋岸ばかりにあるわけではない。
 日本海側の秋田県男鹿半島にはナマハゲがある。
 ナマハゲは生剥ゲと書くが、スネカタクリやナモミタクリとおなじ意味だ。
 この鬼の正体は山の神であるらしい。
 東北の沿岸部には冬に後背に迫った山から神が里へおりてきて福をもたらすという信仰が古くからある。
 ナモミは山の神がすがたを変えたものなのだろう。
 
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■ シミ雪
 
 1月17日(2005年)、宮古から大雪を伝えるメールが届いた。
 台風並みの爆弾低気圧が三陸沖に北上したという天気予報を聞いていたから心配していたが、春のドカ雪のような湿った重い雪で、雪掻きが大変だという。
 湿った雪をベタ雪と呼んだ。
 また、シミ雪とも呼んだ。
 シミ雪は衣服に着くとべっとりまといつき、やがて染みいってくる。
 だから染み雪だ。
 ところが、国語辞書を調べてみるとどうも違う。
 しみ雪という言葉が出ていない。
 収録語数を誇る小学館の「国語大辞典」に至ってやっと“しみゆき”に出会った。
 たった1行、こうある。
 “しみ-ゆき【凍雪】こおりついた雪”
 ほかには用例もなにもない。
 染み雪もない。
 凍雪――凍み豆腐の“凍み”。
 湿った雪とは正反対だ。
 試しにインターネットで“しみ雪”を検索してみた。
 宮沢賢治の「雪渡り」がたくさんヒットする。
 その童話の冒頭を引用しよう。
 “雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです。
 「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」
 お日様がまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪をぎらぎら照らしました。”
 そのあとに“凍み雪”という表記もあり、やはり宮沢賢治も凍った雪の意味で使っている。
 降り積もったあとで凍った雪だ。
 とすると、宮古にいたとき、空から降ってくる湿った雪をシミ雪と言っていたのは自分だけだったのだろうか?
 子どもの頃は寒がりのくせに薄着で、たいした防寒着も持っていなかった。
 冬にはよく、ヤッケを着ていた。
 ぺらぺらのナイロン製で、風はどうにか防いでくれた。
 ところが、防水機能はなかった。
 さらさらの雪はいい。
 べたべた湿った雪は縫い目から染みいってきた。
 自転車に乗っているときなどはシミ雪を呪った。
 シミ雪とは、そういう実感のこもった言葉だった。
 
 *宮沢賢治の「雪渡り」は渡辺宏さんという方のサイト
  「宮沢賢治 Kenji Review」で読むことができます。
  http://why.kenji.ne.jp/douwa/31yukiwa.html
 
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■ 大寒
 
 1月21日ごろが例年の大寒にあたる。
 6日あたりから始まる寒中の真ん中。
 一年で最も寒い時期だ。
 ただ、ほんとうに寒いのは2月の半ばから下旬にかけて。
 宮古の最低気温を調べてみると、1942年(昭和17)の2月21日に零下14.0度を記録している。
 宮古の冬は風が強くて寒かった。
 手足の指がかじかみ、耳がちぎれそうに痛くて頬がこわばる。
 木枯らしのなか、降っては消え降っては消えしていた雪が少しずつ軒下や道端に残る。
 そのうちどかっと雪が降り、根雪になる。
 宮古の最深積雪は1944年(昭和19)3月12日の101センチ。
 ふだんはこんなに降らない。
 内陸や山間部とは違い、雪国というイメージはない。
 30センチも積もれば大雪だ。
 冬の景色で思い浮かぶのは、八幡沖踏切を越えた先の、閉伊川の土手までつづく光景だ。
 一面の田んぼに雪が降り積み、風が吹きわたる。
 早池峰の西空は重く垂れこめて、また雪が来ることを告げている。
 寒空の下、ろくな防寒着も着ずに凍った雪を踏みしめていた。
 セーターにヤッケ、マフラーに手袋。
 下は、小中学生のときは白いトレパンで年じゅう通した。
 あれは冬は冷えた。
 普段着に厚手のジーンズをはくようになったのは高校生になってからだ。
 学校の暖房は楕円形のブリキストーブだった。
 小中学生のころはクラスでいちばん早く教室に入ることが多かった。
 焚きつけと薪をストーブに入れ、ブリキの盥に水を張る。
 防火用の水もブリキのバケツに汲んでおく。
 やがて先生が火を入れにくる。
 盥のお湯で給食の牛乳を温めた。
 紙のテトラパックになる前の、ビン入りだったころだ。
 アルマイトの弁当箱が置かれ、温まると匂いたつ。
 濡れそぼったズックや靴下を干すやつもいる。
 休憩時間にはストーブを囲んで輪ができる。
 3月に湿った重いドカ雪が降ると春が近いことを感じさせた。
 12月から3月までの4ヵ月のあいだ暗い空と寒さに閉じ込められていた毎日から解放される。
 その喜びは大きかった。
 
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■ 八甲田山、死の行軍
 
 青森県の金木町に津軽地吹雪会という住民グループがあり、毎年“地吹雪体験ツアー”を催して好評だという。
 ことしで18年目になるこのツアーには、1月22日から2月中旬までに全国から400人が参加する予定で、カンジキを履いたり角巻をかぶって雪原を歩いたり、馬橇に乗ったりして、津軽地方の厳しい風雪を体験するらしい。
 地吹雪は降り積もった雪が強風にあおられて舞い立ち、嵐のように吹き荒れる。
 地吹雪と降雪が重なると凄まじく、吹きつける雪で目も開けていられない。
 強風で何倍にも寒さが増す。
 金木町とおなじ青森県の八甲田山で“死の行軍”と呼ばれる日本最悪の雪山遭難事件が起きている。
 1902年(明治35)1月23日から25日をピークにした数日間にわたる出来事だった。
 青森にあった陸軍第8師団歩兵第5連隊の将士210人が八甲田山麓を抜ける雪中行軍訓練を開始した。
 やがて積雪に阻まれ、吹雪・地吹雪に巻かれて遭難。
 凍死に自殺者を加えて199人が死亡した。
 このとき北日本は大寒波に襲われていた。
 宮古測候所の発表している宮古の最低気温10位までのなかには入っていないが、北海道の旭川では25日に氷点下41℃という日本の気象観測史上の最低気温を記録している。
 新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」や同名の映画で広く知られた事件だったが、古い話だし、同じ東北といっても宮古とはあまり関係のない出来事のように感じる。
 しかし、じつは宮古出身の兵士も犠牲になっている。
 宮古市史年表には“八甲田山犠牲者、宮古関係者七人”という短い記事が載っている。
 当時はまだ宮古町の時代で、“宮古関係者”というのは、いま市域に入っている鍬ヶ崎町や山口・千徳・花輪・磯鶏・津軽石・重茂・崎山などの村を含めてという意味なのだろう。
 山口村では3人の犠牲者を出している。
 慈眼寺の墓地に“八甲田山雪中行軍中凍死”と刻まれた小さな墓石が、ひっそりと建っている。
 八甲田山に於いて雪中行軍中、風雪の為、凍死――
 摂待辰次郎という人の墓だ。
 小説「寄生木」原作者の小笠原善平の墓に近い。
 摂待辰次郎は小笠原善平の従兄で、瀬田勝次郎という名で小説にも出てくる。
 
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懐かしい通学路   うらら * 投稿9
 
 八幡沖の踏切を渡ってから宮町の八幡様までの道のりを、幼い息子たちの手を引いて歩いている8ミリの記録が残っています。
 子連れで帰省するようになって何年目かの夏に撮影したものです。
 「この道は夢の中によく出てくるの」
 と誰に話すわけでもなく、昔を思い出すように独りごとを言っている私が映っています。
 昔は右側は国鉄の線路や倉庫に沿ってバラ線と板塀が続き、左側は閉伊川の土手まで続く田んぼと数軒の住宅と倉庫でした。
 その間を一本の直線の長い道が続いていました。
 夏は日陰がないため容赦なく太陽がジリジリと照りつけ、道端の所々に咲く向日葵や芙蓉の花だけが色を添えている、そんな少し殺風景で寂しい道でした。
 冬の雪の降った朝はほとんど通る人がなく、降り積もって真っさらな雪道。
 前を行く数人の中高生の長靴の足跡を見ながら、滑らないようにと後に続いて黙々と歩きました。
 一中、宮高と6年間通った道だったからでしょうか、宮古を離れてからも繰り返し夢の中に登場してきた風景です。
 じんさんの「シミ雪」と「大寒」を読んでいて、懐かしく思い出しました。
 夢の中では一本道は永遠に続き、いつまでたっても曲がり角のところまで辿り着きません。
 新しい事にチャレンジしようとしている時、ちょっと迷っている時、ちょっと辛い時、どういうわけか夢の中に出てきました。
 幾度も夢の中に出てくる不思議な思い出の風景は、誰もがそれぞれ持っているものなのでしょうね。
 
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■ 鮭――“骨まで愛して!”
 
 去年の11月から宮古の新鮮な銀鮭、久慈の荒巻と食べ継いだ。
 その荒巻もそろそろなくなりかけ、少し寂しい感じがしている。
 メフンはまだある。
 銀鮭を1本さばいたとき、中骨と卵巣のあいだにある血合いをスプーンでこそぎとって塩辛にした。
 ばくばく食べるものじゃないから当分は楽しめるだろう。
 鮭は捨てるところがない。
 好き嫌いはあっても、食べようと思えばどの部位でも食べられる。
 心臓・肺・肝臓・腎臓・胃袋・中骨・軟骨、オスの白子――
 その鮭が毎年忘れず秋から冬にかけて鮭川には群れをなしてのぼってくるのだから、アイヌの人たちが神の贈り物としたのもうなずける。
 メフンというのも、腎臓を意味するメフルというアイヌ語がもとになっているという。
 内臓の食べ方を少し調べてみた。
 心臓はキモと呼ばれ、塩コショウして焼く。
 肝臓は鯖のように味噌煮にして食べるとうまい。
 胃袋は切り開いて中をよく洗う。
 適当な大きさに切り、塩コショウして焼く。
 牛や豚の腸に似た歯ごたえがある。
 塩辛にしてもいいらしい。
 肺は菊の花びらのような模様が見えるところからキクワタとも言う。
 肝臓・胃袋・白子などといっしょにモツ鍋にする。
 白子は、新鮮なものは生で食べられ、鮨ダネにもなる。
 鍋ものや味噌汁に入れたり、バター焼き・フライにして食べる。
 塩をふって干したものを酒の肴にする、などなど。
 皮は焼いた切り身についたままのをばりばり食べる。
 革細工にも利用されている。
 頭部の軟骨を薄く切って酢の物などにするのが氷頭(ひず)。
 中骨は水煮の缶詰になっている。
 これは宮古水産高校の教師だった中島哲さんが1986年に世界で初めて開発し、宮古漁業協同組合が“さけの中骨の水煮缶詰”として売り出し、ヒットした。
 類似品も多く出回った。
 醤油をたらして食べくらべてみたことがある。
 “元祖”の宮古漁協製が断然うまかった。
 類似品は、妙な表現だが、妙に骨っぽい。
 そういえばそのころ、“骨まで愛して!”という宣伝コピーで売り出した会社があったが、また食べたくなる中骨缶詰は宮古漁協製だけである。
 
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■ 鮭の白子問題
 
 鮭の白子は食べられる。
 新鮮なら生で。
 鮨ダネにもなる。
 鍋ものや味噌汁に入れたり、バター焼き・フライにする。
 塩をして干し、酒の肴にする、と前の「鮭――“骨まで愛して!”」に書いた。
 けれども、じつをいうと、宮古で鮭の白子は食べた覚えがない。
 生の鮭を1本買うにしても、腹子〔はらこ〕のとれるメスだけを買い、オスは買ったことがない。
 腹を割いて、あるいは切り身で売られ、あるいは荒巻(新巻)に加工されるオスの、その白子、つまり精巣は実際どう利用されているのだろうと、いまごろになって気になった。
 宮古発の「漁師のつぶやき」というサイトを覗いてみたら、「たまに更新するつぶやき」というコンテンツの1月25日の記事に鮭の白子の話題が出ている。
 鮭の白子は、ごく一部が販売されてはいるものの、ほとんど廃棄物扱いだという。
 鮭を加工する工場では、料金を払って回収業者に出している。
 膨大な量の白子が金をかけて産業廃棄物として捨てられ処理されているわけだ。
 白子は食べることができる。
 ただ、それが商業ベースに載る、商売になるということには結びつかないらしい。
 もったいない話だ。
 この鮭の白子を、なにかに利用できないかと、いろいろ研究されている。
 そのひとつが白子から高分子デオキシリボ核酸(DNA)という物質を抽出して光ファイバーやフィルムなどの工業原料にするという研究。
 それを報じた「岩手日報」の記事を紹介するのが「漁師のつぶやき」の趣旨だった。
 化学・生化学の話は難しくてよくわからなかったが、とにかく大量に廃棄されている白子を利用して新しい産業が生まれる可能性があると期待させる記事だった。
 同時に反省もした。
 腹子ばかりに目がいって、白子をないがしろにしていたと。
 これからは少し自分なりに白子の利用法、うまい食べ方を探ってみようと思う。
 ちょっと調べてみると、要するに工夫しだいで、どう調理してもいいという結果が出た。
 臭みが気になる場合は、下ごしらえに牛乳に漬け込んだりする。
 新鮮な白子を一口大にぶつ切りにし、醤油と味醂で煮つけるという宮古の漁師さんがよくやるのがいちばんうまそうだ。
 
 ☆参考
 「漁師のつぶやき」http://www8.ocn.ne.jp/~eyes/index.htm
 
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■ 毛蟹ざんまい
 
 インターネットで注文していた毛蟹が午前中に届いた。
 宮古・日立浜の青年漁師がきのう獲ったばかりの活きた毛蟹だ。
 発泡スチロールの蓋を開けると元気のいい毛蟹がぎっしり。
 もぞもぞハサミや脚を動かし泡を吹いている。
 「毛蟹の茹で方」というプリントも同梱されている。
 夕飯まで待てず、さっそく茹でた。
 海水ほどの塩分の熱湯が沸く鍋につっこんで炊くこと10分。
 アクをとっているうちに磯の香りがふっくり漂う。
 テーブルに新聞紙を広げ、茹で上がった蟹を置く。
 ぱかっと甲羅を開ける。
 たっぷりと味噌が湯気をたてている。
 木の匙ですくってすすり、舌の上でゆっくり味わう。
 うまいなぁ、蟹味噌は。
 毛蟹は味噌がうまい。
 身は二の次である。
 極端にいえば身は食べなくてもいい。
 味噌だけ味わえばいい。
 とかなんとか言いながら、もちろん身も食べる。
 脚をはずし、胴を4つに切ってかぶりつく。
 汁をすすり、殻を引きはがし、噛み砕きながら肉をむさぼる。
 脚も包丁で割り、肉を蟹の爪の先でほじくりだし、指で掻きだす。
 毛蟹に没頭すること1時間。
 あっというまに過ぎる。
 3杯茹で、みんな食べてしまった。
 新聞紙に山をなした殻をぼんやり見やりながら思った。
 おれってこんなに蟹好きだったのか……
 宮古の家でも季節になると毛蟹を買ってきた。
 活きているのを家で茹でることもあったが、ほとんどは茹であがったのを買ってきたのではないだろうか。
 末広町に店頭で茹でながら売っているところがあった。
 季節によってサツマイモだったりトウキビだったり。
 真冬には底冷えのする空気に毛蟹を茹でる潮の香がまじり、立ちのぼる湯気にかすんでほんのり赤い甲羅が山積みにされていた。
 ただ、母親が買ってきた毛蟹が食卓にのぼっても、あまり食べなかった。
 いちど冷えてしまったものはどうもうまくなかった。
 やはり自分で茹でて、熱々を即食べる。
 これが一番だ。
 ――さて、晩も毛蟹を茹でるか。       (2005.2.3)
 
 *宮古発 青年漁師の店
  http://www.heiun.com/index.html
 
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■ 山田ガニ
 
 毛蟹の甲羅をはずすと真っ先に海藻を消化したような色の蟹味噌が目に飛び込んでくる。
 この蟹味噌というやつは、いったいなんなのだろう?
 まさか脳みそじゃあるまい――
 そう思って調べてみたら、やはり脳みそにあらずして、肝臓だった。
 ネットで検索すると、肝臓と膵臓とか、肝臓と脾臓とか説明しているものもあるけれど、要するに、おもに肝臓と受けとっていいようだ。
 この蟹味噌は茹でたものが冷えると少し苦みが増すような気がする。
 甘みが飛ぶ。
 やはり茹でたてのとろりとほのかに甘い味わいには遠く及ばない。
 胴の両側に白いふさふさしたものが並んでいる。
 時間が経つとくろずんでくる。
 エラといったりガニといったりする。
 これはどうやら肺臓らしい。
 カニは食ってもガニ食うなという言葉がある。
 毒ではないけれど、うまくもないので捨ててしまう。
 ついでに覚えたての知識を忘れないうちに披露すると、毛蟹はクリガニ科の一種で、オオクリガニが正式の和名らしい。
 クリガニ科にはほかに、ただのクリガニとトゲクリガニとがいる。
 両種ともオオクリガニより小ぶりで、爪の先が黒いのが特徴。
 値段もオオクリガニよりはずっと安い。
 ただ、味はほとんど変わらず、ふつうの毛蟹として店頭で売られていることもあるという。
 田村一平という人の書いた「三陸の海から」(岩手日日新聞社)をみると、〈山田ガニ〉というのが出ている。
 トゲクリガニのことらしく、かつては山田湾の桟橋のあたりでもよく獲れたという。
 蟹に目がない著者は、こう書いている。
 〈忘れられないカニと言えば、網走のタラバ、長万部の毛ガニ、金沢のコウバコだろうか。
 味に関しては山田ガニが一番好き〉
 金沢のコウバコというのはズワイガニで、網走のタラバ、長万部の毛ガニ、金沢のズワイなどと並べてきて、それより好きだというのだから、山田ガニというのはうまいのだろう。
 機会があったらぜひ食べてみたいものだ。
 
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■ 徳冨蘆花の鍬ヶ崎来港
 
 徳冨蘆花が宮古を訪れたのは1909年(明治42)2月10日だった。
 旧山口村に生まれた陸軍中尉小笠原善平がつづった手記をもとにして、小説「寄生木」を蘆花が東京の警醒社書店から出版したのは10ヵ月後の12月86日。
 善平は前年9月、数え28歳の若さで自殺している。
 蘆花の宮古来訪は善平の墓参と取材のためだった。
 岩波文庫版「寄生木」第3巻の末尾に「墓参の記」が収録されている。
 これを読むと、明治末期当時の様子がわかって面白い。
 蘆花は東京・粕谷(かすや)の自宅を2月8日に出発して上野駅から仙台行きの海岸線、いまの常磐線に乗りこみ、仙台から塩釜行きに乗りついだ。
 塩釜からは宮古行きの凌波丸という200トンの蒸気船に乗り、出港は9日の午前11時だった。
 10日は大槌湾で朝を迎えた。
 山田湾から、いよいよ宮古湾へさしかかる。
 以下、蘆花はだいたいこんなふうに書いている。
 ――とどヶ岬(さき)の灯台前では、凪だというのにだいぶ揺れた。
 はるか北にあたって、白龍が東海に泳ぎ出たように見えるのは八戸だそうだ。
 やがて船は閉伊岬の洞門やら岩礁・小島をまわって、南に深く宮古湾の静かな水に入った。
 湾内の光景が船の進むまにまに展開してくる。
 測候所の建物が見える。
 雪の藤原松原が見える。
 龍神ヶ岬をまわって午後2時、船は鍬ヶ崎の港に着いた。
 大火後の鍬ヶ崎はきたない町である。
 車を雇い、測候所付近の切通しの坂ひとつ越すと、すぐ宮古。
 宮古は閉伊川のデルタにできた鯣(するめ)のにおいのする町である。
 閉伊川の向こうに県立水産学校の建物が見える。云々
 蘆花が見た測候所の建物は光岸地(こうがんじ)の鏡岩、いまの漁協ビルのところに建っていた八角形のモダンな木造2階建て。
 雪の藤原松原もいまはない。
 逆に当時、出崎埠頭はなく、竜神崎をまわって港内の奥に碇を下ろしたのだろう。
 宮古市史年表をみると、前年の大晦日に鍬ヶ崎上町で86戸が全半焼する大火が起きている。
 そのひと月後では汚いのも無理はない。
 光岸地の切り通しが開通したのは1882年(明治15)。
 岩手県立水産学校は藤原にあって、岩水(がんすい)の名は全国に知れわたっていたらしい。
 
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■ 文豪の目に映じた宮古
 
 明治期の宮古を描写した文章にはなかなか巡り会えない。
 徳冨蘆花の「墓参の記」から続けて引用したい。
 表記は原文どおりではなく、途中省略したところもある。
 人名は実名に変えた。
 ――盛岡街道へ出口の横町に善平の姉お俊さんを尋ねる。
 お俊さんは裁縫を教えているので、女の子が大勢来ている。
 踏み所もない下駄のあいだを分けておとなうと、筒袖を着た娘が出てきた。
 写真で知った琴子だ。
 やがてお俊さんが出てきた。
 ちょっと挨拶して、すぐ山口に向かった。
 宮古の町はずれから盛岡街道を北に折れた。
 雪の田んぼに沿い、氷のあいだをさざめく小川に沿って山口村に入る。
 底が凍った雪道で、ややもすればつるりと滑る。
 車を下り、手荷物を車夫君に持ってもらって、ひと足刻みに歩いてゆく。
 宮古から小半里も来たと思う頃、道は小さな谷に入った。
 左に小さな丘があった。
 丘に寄って、石垣を厳重に構え、杉籬で囲った屋敷跡がある。
 丘の下には三界万霊塔が立ち、右の彼方には朱に塗った黒森神社の一の鳥居が見える。
 やがてこの小さな丘を越すと、石垣の上に檜〔ひば〕の生籬をした大きな茅葺に来た。
 少し離れてまだ上塗りをかけない土蔵が建っている。
 「小笠原さんはここで御座りす」
 と車夫が言う。
 思いのほかに近かった云々
 蘆花が乗った車というのは、もちろん人力車だ。
 宮古の町なかを人力車で走れば目立っただろう。
 盛岡街道は閉伊街道ともいい、当時は横町の通りがそうだった。
 「墓参の記」は長い文章ではない。
 それでも当時の宮古町や山口村を観察した文豪の興味深い記述はまだまだ続いている。
 この文章を収録した岩波文庫版「寄生木」が絶版になって宮古の人の目にさえあまり触れられていないのは残念だ。
 作品自体は文庫版で全3巻の長篇。
 出版社も商売だから売れる見込みがなければ再刊しないけれど、各巻500部ずつ売れるなら出すだろうという話を小耳にはさんだことがある。
 
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■ するめ
 
 宮古は閉伊川のデルタにできた鯣(するめ)のにおいのする町である――
 と、徳冨蘆花は書いていた。
 この鯣は干したするめのことだろうが、宮古では生の烏賊もするめと呼ぶ。
 鯣烏賊の略だ。
 宮古の魚介類はなんでもうまい。
 そのなかで鮭、秋刀魚と並ぶ代表的かつ庶民的な味といえば、やはり烏賊、するめだろう。
 するめといえば刺身にかぎる。
 浄土ヶ浜の売店などで烏賊を焼きながら売っている。
 この烏賊焼きも匂いはたまらなくいいし、食べてもうまいのはもちろんだけれど、しかし新鮮なするめなら刺身で食べるのが一番だ。
 夏の暑さで食欲がないときでも、するめの刺身ならご飯が食べられる。
 ワサビをぴりっと利かせ、ご飯にのせて醤油を垂らし、ばくばく食べるうまさはこたえられない。
 へたな鮪の刺身よりも数等うまいと感じる。
 上京して驚いたのは、スーパーなどで買う烏賊刺しのまずさだった。
 大げさではなく、そのまずさは衝撃的だった。
 どんよりと白濁した身の色、噛むと妙にやわらかく、飲み込んでも後味が悪い。
 モンゴウイカというのもまずい。
 意識せずに食べていた宮古の海の幸のありがたさを、しみじみ感じたものだった。
 するめの語源は、かつて墨を吐いて群れをなす烏賊を墨群れといっていたのがするめに転じたという説がある。
 昔から結納に用いられて寿留女と書かれる。
 これは干したするめのように噛めば噛むほど味が出る夫婦になってほしいという比喩的な願いがこめられているのだという。
 また、干したするめを御歳暮などの贈答品にするのは、足が多いところから、御足つまり銭が多く貯まるようにという縁起をかついでのことだという。
 縁起かつぎはともかく、するめは一夜干しも硬く干したものもうまい。
 塩辛も忘れてはいけない。
 菅田のいか煎餅もうまい。
 烏賊徳利にもなる。
 浄土ヶ浜の高台から眺めた漁火の美しさも忘れられない。
 
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■ 手どもんオミノ
 
 「寄生木」に1ヵ所だけ“名島屋”という名が出てくる。
 姓は樋口、名は庄七、酒造・質屋で宮古町の大地主と書かれている。
 小説「寄生木」は小笠原善平の見聞きした事実をほぼそのまま綴ってあり、モデルは少しだけ名前を変えて登場する。
 藩政期、鍬ヶ崎に“小島屋”という回船・米問屋を営む豪商があったと、これは小島俊一さんの「陸中風土記」に書かれている。
 確証はないけれど、この小島屋が「寄生木」の名島屋ではないかと思う。
 「陸中風土記」によると、小島屋茂左衛門にはオミノという娘がいた。
 機織り・裁縫はもちろん読み書き算盤にすぐれ、宮古弁でいえば「手どもん」(なんでもできる人)だったと書かれている。
 このオミノというのはおもしろい女性で、男装して刀を差し、馬に乗って鍬ヶ崎や宮古の往来を闊歩し、ふらりと一人旅に出る。
 「夫にするほど器量のある男がいない」といって生涯を独身で過ごしたという。
 当時、嘉永の三閉伊一揆が起きた。
 1853年(嘉永6)、田野畑から田老・宮古・山田・大槌・釜石と浜伝いに人数を増やして2万人に膨れ上がりながら仙台藩へ越境。
 盛岡藩の非道を訴え、要求のほとんどが受け入れられて勝利した日本最大級の一揆だった。
 この一揆のリーダー格のひとりに釜石・栗橋出身の三浦命助がいた。
 一揆後の1857年(安政4)に脱藩の罪で捕縛されて盛岡の牢につながれ、1864年(文久4)2月10日に46歳で獄死。
 この三浦命助が獄中にあったとき、オミノは手紙を家族のもとに届ける役目をつとめている。
 命助の手紙には、“この御人をば大神宮の御つかいと思って大切にしてください”とあったという。
 二人の関係がどういうものだったかはわからない。
 このときオミノは60代で、20歳ほど上。
 しかも命助は7年のあいだ入牢していたから男女の関係にあったとは考えにくい。
 ただ、男勝りで独身を通したオミノが命助の侠気に好感を覚えたのはたしかだろう。
 オミノは、命助が獄死した5ヵ月後の7月14日、あとを追うように死んだ。
 享年68。
 法名を瑞天妙運信女といい、墓は常安寺にあるという。
 
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■ 川井に現われた巨漢
 
 幕末の1864年(元治1)夏のことだ。
 川井の名もない祠(ほこら)に容貌魁偉の大男が寝ていた。
 村人は強盗か山賊かと怪しみ恐れた。
 川井の旦那と呼ばれていた沢田長左衛門が、この大漢を家に連れ込んだ。
 酒が好きで、よく漢詩を書く。
 一升も大酒を飲んで大の字に寝る。
 姓名・生国を尋ねても笑って言わない。
 家の女たちは「こんな無頼漢を」と眉をひそめたが、沢田はひとかどの人物と見てねんごろに扱った。
 ひと月あまりいて「世話になった」と言って出てゆくとき沢田は姓名・藩籍を教えてくれるよう乞うた。
 「わしが書いたものを江戸へ持っていったら知る者もあろう。
 いつかわしが何者かを知るときもあろう」
 それだけ答えると大男は飄然と遠野のほうへ去った。
 だれ言うとなく、「あれは西郷南洲だったろう」という噂が広まったころ、南洲はすでに死んでいた。
 南洲とは西郷隆盛のことだ。
 その後、弟の西郷従道(つぐみち)が盛岡に来たとき、沢田長左衛門は会って往年の一事を話し、その書いたものを見せた。
 従道は「たしかに兄の筆跡だ」と言った。
 何年前のことかを聞いて「ちょうど兄が大島を逃れて行方不明になっていたころだ」と言い、「兄が世話になった」と挨拶した。
 沢田の家ではこの筆跡を大切にし、長左衛門が上京すると西郷従道が手厚く遇するという。
 これは「寄生木」に書いてある話で、「陸中風土記」にもある。
 小笠原善平は「岩手日報」の記事をもとにし、小島俊一さんは「南洲川井来遊記」という文書をもとにしたという。
 ここでは「寄生木」と「陸中風土記」の記述をとりまぜて紹介した。
 沢田長左衛門は県会議員で、小笠原善平の父と知り合いだった。
 薩摩藩の下級武士だった西郷隆盛は、藩主の島津斉彬(なりあきら)の目にとまって側近に抜擢された。
 斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流されていたことがある。
 復帰して維新で大役を果たし、西南戦争を起こして敗れ、故郷鹿児島の城山で自刃したのは広く知られている。
 一代の英雄として伝説も多い。
 鹿児島で死なず、悠々自適に生きているという噂も根強く残っていた。
 
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■ 三陸ってなんだ?
 
 おもに宮古にかかわる雑文をつづっているこの「三陸宮古なんだりかんだり」に、最初、三陸という文字は冠していなかった。
 途中で宮古だけではなにか寂しく、岩手宮古にしたら語調が合わない。
 陸中宮古は、ちょっと古めかしい。
 それで三陸宮古に落ち着いた。
 今ごろになってという気もするが、この「三陸」とはいったいなんだろうと気になってきた。
 北から陸奥・陸中・陸前の旧3ヵ国をさし、いまの青森・岩手・宮城3県に相当するということは知っている。
 日本の首都に近いほうが前、遠いほうが奥。
 これは時の政府が定めたもの。
 調べてみたら、近代に入ったばかりの1868年(明治1)に、江戸時代まで続いた陸奥の国を分割して陸奥・陸中・陸前・岩代(いわしろ)・磐城(いわき)とするというお触れが出された。
 三陸は、それ以後に生まれた呼び方だ
 その三陸も今では、青森・岩手・宮城の全域をさすより、岩手県を中心とした太平洋沿岸部を意味することが多い。
 三陸海岸という表現が盛んに使われたためなのだろう。
 ある百科事典によると、三陸海岸は北は青森県八戸市の鮫角(さめかど)から南は宮城県牡鹿(おしか)半島南端の金華山までのあいだ約600キロに及ぶとしている。
 地図を広げてみると、八戸市は入らないが、以南は陸中海岸国立公園と南三陸金華山国定公園の区域に相当する。
 宮城県気仙沼市を境として南が南三陸金華山国定公園、北が陸中海岸国立公園だ。
 陸中海岸国立公園は1955年(昭和30)に浄土ヶ浜を中心として北は下閉伊郡の普代村から南は釜石市までの沿岸が園域に指定された。
 1964年(昭和39)六月に南が気仙沼市まで、1971年(昭和46)1月には北に久慈地域が追加されている。
 一時期、こんな話が出た。
 陸中海岸国立公園は陸前まで広がったのだから名称が実態にそぐわなくなった、三陸海岸国立公園に変えようと。
 しかし、陸中海岸国立公園の名は定着している、このままでいいとする意見が強くて沙汰やみになったらしい。
 この改称論議、また再燃しそうな気がする。
 
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■ 三陸けせん
 
 東京・銀座の歌舞伎座前に“いわて銀河プラザ”という岩手の物産店があって何度か行ってみたことがある。
 ここで2005年の1月20日(木)から22日(土)までの3日間、三陸・けせん観光協議会が主催して物産観光フェアを開いた。
 あわせて気仙ブランド発信構築連携推進事業ワーキンググループという長い名前の組織が来場者にアンケートをとった。
 回答者は40代から60代を中心に352人で、女性が全体の約6割を占めた。
 その結果、「三陸地方と聞いて最もイメージする市町村は?」という問いに気仙沼市という回答が最も多かった、という記事が「東海新報」にあった。
 気仙沼市は宮城県だ。
 物産フェアを開いた“けせん”というのは岩手県の気仙地区で、大船渡市・陸前高田市・気仙郡住田町の3市町。
 かつてはこの3市町全域が気仙郡だった。
 宮城県の気仙沼市とは隣りあっている。
 三陸・けせん観光協議会は岩手気仙地区の在京人会を通じてイベントの案内状を出した。
 来場者は岩手県人が多かっただろう。
 なのに、三陸や“けせん”のイメージとして宮城県気仙沼市がトップにあげられたという現実をつきつけられた関係者は、この現状をふまえて気仙地区の情報を絶えず発信し、気仙沼と混同されやすい気仙という産地呼称も再検討する必要があると語ったという。
 三陸・気仙と聞いて、大船渡市・陸前高田市・住田町より気仙沼市を思い浮かべる人のほうが多いことは予想できる。
 三陸ブランドが気仙沼市に代表されるとは思わないけれど、気仙ブランドは気仙沼市に間違われても仕方ないという気さえする。
 岩手県と宮城県とに分かれているとはいえ、大船渡市・陸前高田市・住田町と気仙沼市とは歴史的・文化的にみても一体的な地域だという印象が強い。
 単純に考えれば両地区は連帯して三陸・気仙ブランドを売り込んだほうが全国にアピールするんじゃないかと思うけれど、どうなのだろう。
 
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■ 三陸の可能性
 
 東京・銀座の“いわて銀河プラザ”で開催された三陸・けせん物産観光フェアの来場者にアンケートをとったところ、「三陸地方と聞いて最もイメージする市町村は?」という問いに気仙沼市という回答が最も多かったと前の文章で紹介した。
 宮古出身者として気になるのは、宮古が何位にあげられているかという点だ。
 2位は大船渡市、3位が釜石市、4位が陸前高田市。
 わが宮古市は5位で、6位が遠野市。
 この宮古が5位というのは、どう見たらいいのだろう。
 県南の気仙地区の物産観光フェアだったという性質上、大船渡市・陸前高田市・住田町地区や南三陸の出身者が多かったと考えられる。
 北の宮古市の順位は下にきて当然、むしろ健闘しているなという印象がある。
 宮古市・山田町などの物産展なら1位になったはずだ。
 ちなみに、ほかの項目も新聞から引用してみたい。
 「三陸地方と聞いて思い浮かぶ食材」は、ワカメ、カキ、ホタテに気仙沼市特産のフカヒレが続き、アワビ、サンマ、ウニの順になっている。
 鮭・新巻や旬の毛蟹が入っていない。
 最近売り出し中のドンコもない。
 「なんたることか!」と言いたい。
 いっぽうで、まだまだ浸透する余地がたくさん残っているんだなと思う。
 「三陸の水産物のイメージ」は、新鮮、おいしい、安心・安全。
 「三陸のライバルとなる水産物の産地」は断トツで北海道、ついで青森。
 三陸のイメージのなかに青森が入っていないことがわかって興味深い。
 ふだんはアンケート結果を見ることなど、ほとんどない。
 アンケートというのは曖昧なもので、質問の内容や回答の取り方など条件によって結果は白と黒ほど違ってくる。
 たまたま目にした新聞記事を読んでしまったのは「三陸・宮古」が気になるからだが、「三陸」のもつ大きな可能性に期待する目で見る必要を感じさせるアンケートだったと思う。
 
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■ 音羽姫にまつわる伝説
 
 鎌倉時代の建久年間(1190〜1199)のことだ。
 閉伊川河口の南岸に音羽という姫さまが住んでいた。
 佐々木四郎高綱という人の娘で、閉伊川一帯を治めた佐々木十郎頼基の妻となった。
 音羽姫は藤の花をたいそう愛した。
 宮古湾の南の奥に注ぐ津軽石川の右岸に、藤畑という土地がある。
 そこにはみごとな白藤が多く生えていた。
 音羽姫はその一株を住まいの地に移し植えた。
 藤は繁茂して大木となった。
 里人たちは藤を神木としてうやまい親しんだ。
 花の多少によって、その年の吉凶をうらなう神事も生まれた。
 永いあいだ生きのびていた藤の大木も1896年(明治29)の三陸大津波に遭って枯れ死んだ。
 藤原という地名は、この藤に由来したという説がある。
 藤原に鎮座する比古神社は、もとは藤明神といって、藤を愛した音羽姫を祀ったものだといわれる。
 藩政期の1841年(天保12)、藤原に住む大井氏という網師が神璽を勧請し、藤原比古神社の名を受けたとも伝える。
 土地の人たちは、お藤さま、おふっざまと親しみをこめて呼ぶ。
 かつては藤原の町なかにあった。
 1945年(昭和20)8月に一帯はアメリカ軍の空襲を受けて焼かれたうえ、47年のキャサリン台風、48年のアイオン台風による洪水という数度の災厄に見舞われ、コソークマンと呼ばれる小高い丘の上に移った。
 津軽石の藤畑には駒形神社がある。
 ここは奥州黒という名の、音羽姫の愛馬を祀ったところと伝えられる。
 馬頭観音があって、のちに安兵衛という人物が神璽を勧請して社を建立したともいう。
 閉伊一円の馬の守り神としてうやまわれ、御蒼前(おそうぜん)さまと呼ばれて親しまれた。
 毎年4月20日の例祭には近郷から牛馬を引いた百姓たちが参拝し、絵馬をあがなっては持ち帰り、厩の軒にかかげて安全や豊作を祈る慣わしがあった。
 境内には白藤の古木があり、樹齢数百年とされる。
 音羽姫が藤原に移植したという藤と同じ種類なのかどうかはわからないけれど、この藤などが藤畑という地名のもとになったともいわれる。
 
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■ 冬の風物詩――裸参り
 
 藤原比古神社は藤原の町を見おろす高台に鎮座する。
 手持ちの地図で見ると3丁目8番36号あたりに鳥居のマークが印されている。
 正確な住所を確かめようとインターネットで調べてみたら、住所も電話も出ていない。
 神社が建つ一帯の山をコソークマンと呼ぶというのは、「宮古市戦後五十年誌 宮古市民の語る戦前・戦中・戦後」という本に出ていた。
 不思議な響きで、どんな由来があるのか見当もつかない。
 2005年2月1日付「岩手日報」に宮古市消防第4分団による裸参りの記事があった。
 記事によると、藤原比古神社への裸参りは1月30日の第4日曜に地元の4分団や地区住民ら14人が参加しておこなわれた。
 半裸に注連縄を腹に巻いた男衆が宮古橋のたもとから出発。
 長さ約3メートルのハサミを振りながら国道45号を40分かけて神社に到着し、防火や無病息災を祈願した。
 裸参りが始まった午後3時の気温は氷点下0.7度。
 寒さに負けずにゆっくり一歩一歩練り歩く裸参りの一行に、沿道から盛んに声援が送られたという。
 約3メートルのハサミというのは、どんな謂われがあるのだろう。
 どうも藤原比古神社にまつわる事柄には謎が多い。
 裸参りは宮古小学校の正門わきにある3分団も毎年おこなっている。
 「月刊みやこわが町」に載っていた記事から引用すれば、こちらは1週間前の1月16日第3日曜におこなわれた。
 今年で28回目。
 参加者は20歳から44歳、消防団員のほか会社員5名も加わった計14人。
 銭湯で身を清めたあと、半裸に注連縄を背負い、鐘・幟・供え物などを手にした一行の肌を霙と寒風がつき刺す。
 口には唐辛子を入れた紙をくわえて寒さをしのぎながら、2時間かけて八幡さま(横山八幡宮)まで練り歩き、防火・商売繁盛・交通安全などを祈願したという。
 裸参りは冬の風物詩。
 沿道のギャラリーが増えれば参加者の寒さも少しはやわらぐだろう。
 
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■ スッケーコとゾーガ
 
 宮古で採れる海藻の一種で、スッケーコとゾーガという謎の食べ物がある。
 謎というのは単に自分が知らないだけの話だけれど、どうも多くの宮古人は、その正体を知っているようなのだ。
 たとえばJAN・OCCO氏は「みやこ伝言板」にこういう書き込みをしてくれた。
 さり気なくゾーガが出てくる。
 “かみさんの実家から「ドンコの干すたーのおぐったーが」と。
 売り物にならないスンナ(自家消費)の小さいドンコに塩をして宮古の寒風にさらしたものだ。
 これが焼いて食べると干す鱈とはまた違う味(あず)こで、素朴でしみじみうまい。
 一緒に地のぶっつぁげ昆布、新巻、ゾーガなども来た。
 いずれも見場は悪いがうまい。
 売れないけれど確実においしく安心できるものを漁師は食べている”
 珊瑚さんも、こう書き込んでくれた。
 “スッケーコ、昔はよく食べました。
 普通のお店屋さんで売っていました。
 ワカメみたいにひらひらしたのを割いて捨てます。
 茎とふさふさした根元が残ります。
 根元の部分を持って数本の茎を三つ編みにします。
 それを、ぼりぼり齧って食べます。
 たいてい近所の子供同士で遊んでいるとき、遊びながら食べました。
 おかずとして登場することは滅多にありませんでしたが、軽く湯がいて3〜4センチに刻み、酢味噌和え。
 家族には人気がありませんでした。
 やはり三つ編みにしてぼりぼりですね。
 ゾウガはシュウリとか薩摩揚げとかと煮付けていました。
 柔らかくて美味しかったような気がします。
 もう何十年も食べていません”
 “普通のお店屋さんで売っていたのは生? なにか味がついている?”と尋ねてみたら、こんな答えが返ってきた。
 “確か生だったような気がします。
 もちろん味はついていません。
 海の潮の味です。
 美味しかったと言うより、楽しかった記憶……”
 JAN・OCCO氏、
 “スッケンコは、いつも味噌漬けになって送られてきます。
 漁師の義父がつくるのだそうです”
 スッケーコはスッケンコとも呼ぶらしい。
 スッケーコにしてもゾーガにしても、名前を知らずに食べていたということはあるのかもしれないが、どうも、ひとり蚊帳の外でもどかしいことしきりである。
 
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■ 謎の海藻の正体
 
 スッケーコとゾーガという謎の海藻をいろいろ調べてみても正体がわからない。
 インターネットで検索すると、出ていないことはないけれど、その正体というところまでは辿り着けない。
 端的に言えば画像を見たい、海藻学的な解説を読みたい。
 どうやらスッケーコやゾーガというのは方言、地方名であるらしい。
 標準和名がわからないと調べられないな……
 そう諦めかけていたとき、ひょいと小島俊一さんの「陸中海岸風土記」(1984年8月1日・熊谷印刷出版部)という本の目次にゾーガと出ているのを見つけ、慌ててページをめくった。
 ――ゾーカとかゾウガと呼ぶ海藻を知っていますか。
 ワカメの仲間でスジメのことだ。
 鍬ヶ崎衆は昔からスッカーコ(チガイソ、アイヌワカメ)は食べた。
 ところが、ゾーガはどういうわけか食べなかったから、浄土ヶ浜・蛸の浜にはわんさと波にゆられて邪魔くそにされ、ごみごんど(ごみ、不用のもの)と呼ばれていた。
 ゾーガのゾーは雑のゾーで、ガはワカメの省略の転訛。
 和名はスジメ(ザラメ、アラメ、カジメ)。
 三陸から北海道の干満線帯に生えている。
 形は帯状で1〜2メートルくらい、幅10センチくらい。
 葉には筋が2〜5本くらい通り、ところどころに丸い穴がある。
 最近はこのスジメ、海の味覚、健康食として流行品となり、磯からまさに根こそぎに取り出したのもゾーカと思うネ。
 以上が「陸中海岸風土記」からのおおよその引用。
 スッケーコはスッカーコとも呼ぶらしい。
 標準和名はチガイソ。
 アイヌワカメというのは、調べてみると、チガイソと厳密には違う種類のようだ。
 ゾーガはゾウカ、ゾーカとも。
 標準和名はスジメ。
 漢字で書くと筋布。
 ザラメ、アラメ、カジメなどという名もあるらしい。
 これはあとになっての話だが、ゾーガにはゴホーソーガミというおもしろい呼び方もあると、shiratori さんが教えてくれた。
 ――ゾーガを宮古の昔の漁師さんはゴホーソーガミと呼んでいました。
 漢字で書くと御疱瘡紙。
 疱瘡の予防接種の跡が腕に4ヵ所ぐらい残っていますね。
 ゾーガの穴をそれに見立てた呼び名だそうです。
 
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■ 里の蝶
 
 いつも虫取り網や虫かごを持って昆虫を追いかけているという絵に描いたような昆虫少年ではなかった。
 それでも人並みにチョウチョやトンボをとっていた時期がある。
 夏休みの自由研究かなにかで一度だけみすぼらしい標本をつくって出した覚えもある。
 しかし続かなかった。
 チョウチョもトンボもカブトムシもクワガタも、追いかけまわしたり捕ったりするより自然のなかにいるのをただ見ているほうが楽しかった。
 宮古小学校の庭や周辺の田んぼ、カトリック教会からノデ山や八幡さま、千徳あたりから船場までつづく堤防沿いの田畑や河原――
 日ごろ駆けまわるそんな身近なフィールドでたくさんのチョウチョやトンボと出会った。
 シジミチョウも、いろいろな種類がひらひら飛んでいた。
 薄紫、紅色、くすぶった色……翅を閉じたときと広げたときとでは、また色も模様も違う。
 ルリシジミとかベニシジミとか個々の名前はあっても、小さなチョウチョはみなシジミと呼んでいた。
 そんななかにチョウセンアカシジミもいたのだろう。
 オレンジ色をして翅の先に縞模様のあるシジミだ。
 よく見かけたような気もするのに、日本では岩手や山形・新潟北部などにしか棲息していない貴重種で、絶滅危惧種に指定されているという。
 シジミチョウは山の奥などよりもむしろ広い河原や人家の周辺、田畑や野原などで育つ。
 自然の豊かな人里で人間と共生できる特性をもっていて、“里の蝶”とも呼ばれる。
 チョウセンアカシジミの食べる餌であり育つ場所ともなるトネリコの木も、そういう人里や近郊に生えている。
 だから、人の住む付近の自然が少なくなればなるほどチョウセンアカシジミは生活の場を失い、やがては姿を消してしまう。
 小さくて宝石のようなチョウセンアカシジミ、その姿がふるさとの自然から失われかけているのは寂しい。
 
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■ チョウセンアカシジミ覚え書き
 
 環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種に指定され、宮古市の天然記念物にもなっているチョウセンアカシジミについては以前、うららさんが投稿してくれた。
 その重複になってしまうけれど、自分なりに調べた点を覚え書き風に書き留めておきたい。
 チョウセンアカシジミは名前の示すように朝鮮半島が原産地とされる赤い色のシジミチョウ。
 シジミチョウは翅を広げた形がシジミ貝に似ていることからつけられたという。
 学名は coreana raphaelis(コレアナ・ラファエリス)。
 成虫の翅を広げた長さは約3.5センチ。
 4月から5月に孵化し、6月に蛹化、7月に羽化・交尾・産卵し、2〜3週間で寿命を終える。
 食樹はモクセイ科のトネリコで、方言ではタモノキ、トウナリ、モエブトなどとも言い、川沿いや湿地に生える。
 1880年にロシア・ウラジオストック沖アスコルド島で発見され、ロシア沿海州南部・朝鮮半島・中国遼寧省南部から日本の岩手県・山形県・新潟県北部と、日本海をとりまくかたちで生息する。
 これは遠い昔、日本列島と大陸が陸続きだったことを物語る貴重な証のひとつともされるという。
 1953年(昭和28)に田野畑村で初めて発見されるまで日本には生息しないものと思われていた。
 その後、宮古市をはじめ久慈市・野田村・普代村・岩泉町・田老町・滝沢村・雫石町で確認され、各市町村で天然記念物として捕獲が禁止されている。
 宮古市が天然記念物に指定したのは1986年(昭和61)7月1日のこと。
 同じ年に保護を目的とした民間の“チョウセンアカシジミの会”(代表尾形洋一)が結成されている。
 チョウセンアカシジミの会は各地で産卵数の調査や人工飼育の指導、観察会やトネリコを植樹するという地道な活動を続けている。
 1997年には田代川沿いの県道工事でトネリコが伐採されてしまう事件も起きた。
 おなじ田代にある亀岳中学校では生徒たちがチョウセンアカシジミの会の指導も受けながら飼育・観察活動をしてきた。
 この3月で廃校になって宮古一中に統合されると、亀岳中学校としてのチョウセンアカシジミ保護活動も終わる。
 
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■“デート”の思い出
 
 宮古でのデートの思い出、といっても他人事だが。
 高校時代にノデ山で1年上級のカップルがデートをしているのを見かけた。
 草ッパラの斜面に座り、恥ずかしそうな顔つきで話していた。
 二人とも知ってる顔で、目が合い、自分からすぐに逸らした。
 いつかオレもと思ったけれど、ノデ山デートはついに実現しなかった。
 中学・高校時代に女の子とつきあったという経験がない。
 男同士で、あるいは一人でくすぶっている、そんな宮古での青春だった。
 それでも、あれをデートといえばいえないことはないかな? と思えるアイマイな経験は二度ぐらいある。
 どういう話のはずみでそうなったのか、クラスメイトの女の子と映画を観にいった。
 たしか高校3年の、ある土曜の放課後だ。
 映画館は国際劇場。
 かかっていたのは洋物。
 タイトルもなにも覚えていない。
 観終わって気のきいた高校生ならお茶ぐらい誘う。
 それもしなかった。
 次のデートの約束もしない。
 出口を出て右と左に別れた。
 それっきり、なにも発展はなし。
 夏休みにクラスの女の子と喫茶店に入った。
 これも高校3年のときだ。
 映画をいっしょに観た子とは別の、近所に住んでいた、おさな馴染といってもいい女の子だった。
 扇橋の通りにあった喫茶店に入り、コーヒーを飲んでぼそぼそと話をした。
 (そういえばあの喫茶店、なんという名前だったろう?)
 保健室の女先生が友人らしい女性と入ってきた。
 顔を知られていて、目が合い、ギロリと睨まれた。
 無視した。
 先に店を出るとき、ちょっとだけ先生に頭を下げて挨拶した。
 家の近くまで女の子を送り、そのまま別れた。
 これも進展なし。
 好きな子とは、冬に教室の真ん中に置かれたストーブを囲んでいて偶然に隣りあわせ、かたことの口をきいた――
 そんな淡い体験だけが懐かしい思い出として残っている。
 
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■ ミニスカートの時代
 
 宮古での青春時代に遭遇した大流行のひとつがミニスカート。
 いまでは珍しくもないけれど、ミニスカートが流行りはじめたころのインパクトは強烈だった。
 自分がちょうど思春期に入り、異性が気になって仕方がない時期とぴったり重なっていた。
 いろいろ年表をみると、パリやロンドンでミニスカートが流行りだしたのは1960年代前半のことらしい。
 このころはまだ小学生で海外の出来事だから関係ない。
 東京に上陸したのは1965年。
 67年にはミニの女王ツイッギーがロンドンからやってきた。
 テレビで見た。
 17歳ぐらいの小枝のように細い女の子で、あまり魅力的ではない。
 ブラウン管のなかで動いているかぎり、ミニもインパクトはなかった。
 ところが、宮古の町なかで膝上何十センチかのミニスカートが目の前を歩いてゆくのを見たときは強烈だった。
 中学2年のころだったような気がする。
 当時、宮古服飾生活学校という民間の専門校が宮町の一中のそばにあった。
 紺色のブレザーが制服だった。
 私服の生徒も見かけ、そういう生徒の一部がミニスカートの流行をいち早くとりいれて宮古の駅前や末広町を闊歩していた。
 ついでにいえば、舘合町には文化服装学院があった。
 こちらの制服は白いセーラー服で、スカートは膝丈ぐらいだったか。
 高校時代はまさにミニスカートの花盛り。
 ミニの似合わない女の子、性格的にミニを穿きそうにない子まで穿いていた。
 ミニじゃないと奇妙に見えるほどミニが蔓延してしまった時期があった。
 そのあとロングだミディだ、マキシだホットパンツだと女性ファッションの流行の波は目まぐるしく移り変わる。
 その荒波をかいくぐってミニスカートはしっかり定着した。
 刺激されて困る場面の多かったミニスカート全盛時代――
 自分の思春期をなにかで象徴させてフォークソングの時代とかビートルズの時代、テレビの時代といくつか表現できる。
 そんななかに“ミニスカートの時代”と呼ぶしかない一面が確実にあった。
 
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■ 鍬ヶ崎に防潮壁
 
 3月3日は三陸地震津波の日だ。
 三陸大津波、昭和三陸大津波とも呼ばれる。
 1933年(昭和8)3月3日、午前2時31分ごろに三陸沖でマグニチュード8.1の大地震が発生し、30分後に大津波が三陸沿岸を襲ったという。
 この津波による三陸沿岸の被害は死者・行方不明者3064、家屋の流失4034・倒壊1817・浸水4018戸。
 田老村は壊滅的な被害をうけ、死者・行方不明者911・一家全滅66世帯・家屋流失345戸。
 “田老万里の長城”とよばれる大防潮堤の建築が始まったのは翌1934年(昭和9)3月、完成は1958年(昭和33)3月3日のことだった。
 宮古町の被害はどうだったかと思って宮古市史年表をみたら“三陸大津波来襲被害甚大”としか書かれていない。
 以前に調べた数字では、宮古町の被害は死者2・負傷者5・家屋流失15。
 当時、磯鶏村などはまだ合併前で、宮古町というのは鍬ヶ崎地区と宮古地区。
 被害の数字は海に沿った鍬ヶ崎と藤原の合計とみていいだろう。
 2005年3月2日付の「岩手日報」に“津波対策の検討急務 宮古鍬ヶ崎地区”と題した記事が出ている。
 “昭和三陸大津波には現在の臨港通から蛸の浜町周辺にかけて4〜7メートルの津波が来襲した”という。
 被害の数字は書かれていない。
 1960年のチリ地震津波や68年の十勝沖地震津波でも死者や行方不明者は出ていない。
 鍬ヶ崎は津波の被害を受けにくい地形になっているのかと曖昧にうけとめてしまいかねないが、さかのぼって1896年(明治29)の明治三陸大津波のときには、鍬ヶ崎に“最大7.4メートルの津波が押し寄せ、137人が犠牲となった”という。
 鍬ヶ崎には防潮壁がない。
 海沿い1.7キロにわたって高さ8.5メートルの防潮壁(門扉10基)を建設するとしたら、用地補償も含めて50億円の建設費がかかると試算されているらしい。
 あの狭い土地に防潮壁を建てる余地があるのだろうかと思ってしまうが、本当に必要なものなのかどうかの検討も含めて今後の大きな課題になりそうな気がする。
 その際いちばん重視されるのは鍬ヶ崎に住む1120世帯・3000人の声だろう。
 
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■ 海嘯(よだ)
 
 1896年(明治29)6月15日に三陸大津波が押し寄せたとき、数えで16歳だった山口村の小笠原善平は最初、露西亜の軍艦が宮古湾を砲撃するのだと思ったという。
 小説「寄生木」には、だいたいこんなふうに書かれている。
 ――その日は陰暦5月5日。
 近隣は濁酒に酔って歓声も湧くなか一家は早く寝についた。
 糠雨が降って真っ暗な晩だった。
 宮古の沖のほうで、ごぉーごぉーっという音がする。
 みな目を覚ました。
 「雷様でもねエし、なんだんべなア、あの響きは」
 「露西亜の軍艦が宮古湾を砲撃するのだねいかな」
 前年に日本は清国との戦いに勝ったが、いわゆる三国干渉を受けて遼東半島を返還し、日露戦争は必至と日本人は思っていた。
 怪しい轟音は止んだ。
 一家はふたたび枕についた。
 そのとき闇を破って叫ぶ声がした。
 兄の声だった。
 「海嘯(よだ)が来た!
 起きろ、起きろ、大変だ。
 宮古さ、いま海嘯が来て、叔母(おんば)の家も流されたちうこんだ!」
 驚いてみな撥ね起きた。
 提灯をつけた。
 履物を揃えた。
 後ろの山へ避難する用意をした。
 姉の顔が蒼ざめてわなわな震えていた。
 海嘯は山口村には来なかった。
 未明に起きて宮古町に駆けつけた。
 光岸地のあたりは家が流されたり倒れたりして通行止めになっている。
 山を登って琴平祠に行った。
 宮古湾内波静かに、綿のような薄靄はちぎれちぎれて閉伊岬の裾をおおっている。
 山を下ると家が流れて砂になっている。
 がらがら崩れている。
 傾いている。
 水ぶくれした馬の屍(しかばね)。
 半身砂に埋まって髪を波に洗われている婦人。
 腰骨を砕かれて水に漂う老爺。
 柔らかな赤肉を削がれた小児。
 叫ぶ声。
 泣く声。
 修羅の巷(ちまた)。
 初めて水に死んだ人の醜さ、怪我した人の凄さを見た。
 陰暦5月の温かさにすぐ腐敗しだした死体の悪臭に鼻をおおった。
 しかし宮古町は死者100人内外でまだいいほうだった。
 南は釜石・大槌・山田、北は田老、全町全村ことごとく流された。
 陸中岩手を中心に海嘯(よだ)は陸前・陸奥の海岸を荒らした。
 いわゆる三陸の海嘯(かいしょう)とはこれであった。
 
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■ アウェーコ
 
 2004年11月5日に岩手県沖を震源地としてマグニチュード4、震度3の地震が起きた。
 このとき偶然、鍬ヶ崎というか、浄土ヶ浜のターミナルビルのあたりにいた。
 臼木山に登り、鍬ヶ崎の港や町並みを見下ろして降りてきたところだった。
 しばらくして津波の心配はないと告げる防災無線放送が流れた。
 日立浜までおりてみた。
 そこには穏やかな海と須賀の風景が広がっていた。
 外にいたのに、けっこう揺れが強かったように感じたのは地震に対して敏感になっていたせいだろう。
 その前の10月23日には新潟県中越地震が発生し、数日にわたってマグニチュード5〜6級の余震がつづいていた。
 津波はなかったが、三陸の場合、大きな地震があれば、そのあとに来る津波が怖い。
 インド洋のスマトラ島沖で大地震と大津波が発生したのは、そのあとの12月26日だった。
 沿岸諸国での死者の数は30万人を超えるという数字も出た。
 宮古測候所のホームページを開くと、「岩手沿岸の地震・津波災害」というコンテンツのなかに、過去に起きた主な地震・津波災害の一覧表がある。
 その片隅に「資料室」というコーナーがある。
 ここをクリックすると津波に襲われた鍬ヶ崎地区や田老町の貴重な写真が何枚か載っている。
 やはり津波は怖いものだと実感する。
 田老町は1933年の昭和三陸大津波から72年目になる3月3日の早朝、1000人の住民が参加して高台に避難する訓練をしたという新聞記事があった。
 合併して宮古市になっても津波防災の灯は消さないという町長の言葉が載っていた。
 一方、宮古では鍬ヶ崎地区の住民や企業に津波対策に関するアンケートをおこないながら結果を公表せずに1年のあいだ放置していたという記事があった。
 このコントラストはなにを象徴しているのだろう。
 明治・昭和の三陸大津波を体験した人は少なくなった。
 チリ地震津波や十勝沖地震では被害が少なかった。
 津波に対する心構えはどうなのだろう。
 鍬ヶ崎のアウェーコ(細路地)を思い浮かべては心細くなる。
 
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■ 八幡さまは遊び場だった
 
 八幡宮と名のつくお宮は市内にいくつかあるけれど、八幡さまといえば横山八幡宮。
 あのあたりで、よく遊んだ。
 遊ぶといっても、ただ高いところに登って周りを見まわしたり探検したり、駆けのぼったり駆けおりたり、棒切れを振りまわしては草を薙ぎ倒したりといった他愛もないことばかり。
 お小遣いは持っていなくても気ままに遊び暮らしていた。
 八幡さまに登るには4つも5つも道があった。
 ふつうは一中の正門前の参道から行く。
 北側にあったノデ山からは、本殿の裏に出る山道と、山裾の林のなかを通って階段下に出る道があった。
 一中からは逆さイチョウの後ろ側から行く山道があった。
 閉伊川の土手っぱたから登ってゆく山道もあった。
 参道から登ってゆくのはお祭りの日や元朝参りのとき。
 ノデ山方面からは盛んにノデ山で遊んでいた小学生時代が多かった。
 一中からは小中学生時代。
 土手っぱたからは、いつでも……
 このうちノデ山の上から本殿裏へ通じていた道は、ノデ山そのものが削られてバイパスになり、消えた。
 本殿の裏には人が立ち入れないようにフェンスができている。
 一中からの道は、校庭がフェンスで囲まれてから入りこんで確認することもできなくなっているし、ちょっと前に行ってみたときに八幡山から見下ろしてみても道らしきものはなかった。
 土手と結ぶ山道は、いまもある。
 土手の端には洪水対策の用具かなにかを収納しておく小屋があったが、これはなくなった。
 土手下の校庭の片隅にあった2軒?の民家も姿を消した。
 いまのいちょう公園の西端のところだ。
 逆さイチョウは根もとが割れていて人が入れた。
 焼け焦げたような跡が残っていた。
 なかで誰かが焚き火でもしたのかと思っていたら、何度か落雷があったのだそうだ。
 この大木もフェンスで囲まれ、入って入れないことはなさそうだったけれど根もとには近づきにくくなっている。
 う〜ん、そういえばなんだかやたらとフェンスが増えたなぁ。
 
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■ 宮古八景の全貌
 
 以前、宮古八景について触れた。
 1771年(明和8)に盛岡の村井勘兵衛住顕という歌人が宮古を訪れたさいに宮古の文人たちとつくったという古い宮古八景だが、八景に添えられた和歌のうち、横山八幡宮についてのものしかわからなかった。
 その“まぼろしの宮古八景”の歌がすべてわかった。
 「宮古なんだりかんだり」を読んだ宮古在住の和山さんという女性の方がホームページの伝言板に書き込んでくださったのである。
1 横山秋月
  秋の夜のひかりはおくの宮古にもめぐみ隔てぬよこやまの月
2 常安晩鐘
  津くつくと思へば常に安くやはすむ山寺の入相の鐘
3 藤原夕照
  藤原の松の葉ごしにわたるかと見えて浪間に夕日かがやく
4 黒田落雁
  先おりて友やまつらんおくるともくろたの面にいそぐかりがね
5 黒崎帰帆
  ときおそく漕ぎ行く舟もかへるさはつらなり見ゆる黒崎のうち
6 鍬ヶ崎夜雨
  うねうねの浪やそふらん鍬ヶ崎ふる萱ぶきの雨のよすがら
7 臼木青嵐
  吹払ふあらしにつれて臼木山みねよりおちにける白き雲
8 黒森暮雪
  立ちならぶ木のもとくらき夕ぐれもゆきにさやけき黒森の山

 宮古八景の歌は書道の題材として伝えられているという。
 なるほど、宮古で手習いをするのに、これほどいい題材はない。
 臼木青嵐の青嵐は晴嵐ではないかと前に読者に指摘され、ほかに参照する資料もないままに青嵐としておいた。
 和山さんの書き込みにも青嵐とある。
 どうやらまちがいではなかったようだ。
 一読してちょっと気にかかった点をいくつかいえば――
 5の末尾の“黒崎のうち”は“黒崎のうら”、6の“うねうねの”は“うねうねと”かもしれない。
 7の“みねよりおちにける白き雲”という下の句は据わりが悪い。
 あるいは伝承されているうちに改変されてしまったのかなという気がしなくもない。
 
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■ 大正時代の新宮古八景
 
 江戸時代の宮古八景についてご教示くださった和山さんと疑問点などを確かめるために何度かメールのやりとりをした。
 そのなかで今度は大正時代にも新宮古八景があったと教えられた。
 3つめの宮古八景――時代順にいえば2番めで、1918年(大正7)刊行の「都桑案内」に載っていることが、小島俊一さんの「みやこ 今と昔ウォーク」という本に紹介されているらしい。
 「都桑案内」というのは当時の観光ガイドブック。
 都桑は宮古町と鍬ヶ崎町を洒落て表現したもの。
 当時、宮古町と鍬ヶ崎町はまだ合併する前だ。
 残念なことに「みやこ 今と昔ウォーク」には七景しか載っていないという。
 著者が書き落としたのだろうが、とにかく和山さんが書き抜いてくださった分だけでも急いで紹介しておきたい。
1 黒森暮雪
  消え残る雪まだ白し黒森の祖父祖母杉の髪寒うして
2 保久田落雁
  年々にかりねの宿と馴れや来し保久田に落ちる雁の一つら
3 横山秋月
  世を護る髪のみいつは横山の秋の夜にこそ月に著(し)るけれ
4 尾崎帰帆
  真帆片帆うち連れ帰る舟みえて閉伊の岬は絵となりにけり
5 藤原晴風
  打ち寄する波かとぞ聞く藤原の松の梢にわたるあらしを
6 宮古橋夕照
  早池峰添へて行かふ人みえてみやこのはしの夕栄えにけり
7 鍬ヶ崎夜雨
  しとしとと降り来る雨に灯の洩れて夢や楽しき春の夜の街

 3の“世を護る髪のみいつは横山の”という歌の髪は神ではないか、また5の藤原晴風の晴風に疑問あり、またもやセイランに悩まされることになりそうですね、と和山さんはメールに書いていた。
 蛇足を加えれば、4の尾崎は黒崎のことで黒崎神社は尾崎さまと愛称される。
 6の早池峰はハヤチミネと読まないと納まりが悪い。
 江戸時代の宮古八景とくらべると、この大正時代の新宮古八景では黒田が保久田にかわり、宮古橋夕照という新しい情景も登場している。
 残る一首は果たしてどんな情景を織りこんだ歌なのだろう。
 
 *その後、和山さんは「都桑案内」のコピーを見る機会があり、藤原の晴風は藤原の晴嵐、世を護る髪は世を護る神が正しいことを確認したというメールをいただいた。
 
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■ 新晴橋から宮古橋へ
 
 1918年(大正7)に刊行された「都桑案内」に載っているという新宮古八景のなかに宮古橋が出てくる。
 “宮古橋夕照  早池峰(はやちみね)添へて行かふ人みえて みやこのはしの夕栄えにけり”
 ふと思った、大正時代から宮古橋とよんでいたんだな、と。
 宮古のことをいろいろ調べているうちに、宮古橋というのは古くは新晴橋とよばれていたらしいことを知った。
 では、いつから新晴橋は宮古橋に名前を変えたのだろう。
 宮古市史年表を繰ってみた。
 1875年(明治8)8月に“浜街道宮古村閉伊川に新橋を架し、新晴橋と称する”とある。
 これが新晴橋という名の出てくる最初の記事。
 橋はもちろん木造だった。
 つづけて年表を追う。
 1877年(明治10)10月“洪水、新晴橋一部流失、浸水家屋多し”。
 1889年(明治22)1月“新晴橋落成式”。
 このあと1回流されたのだろうか、1892年(明治25)5月に“新晴橋落成式、県費で架替え工事三六九四円”とある。
 そして1910年(明治43)8月“閉伊川二十尺の洪水、新晴橋と民家十一戸流失”。
 1911年(明治44)11月“新晴橋渡り初め”。
 1913年(大正2)8月“暴風雨で全町浸水新晴橋流失”。
 同年12月“新晴橋復旧工事予算一八四〇〇円、県費補助八%”。
 1933年(昭和8)3月3日には三陸大津波が襲う。
 市史年表には“被害甚大”としかないけれど橋も流されている。
 同年11月に“宮古橋災害復旧工事として鹿島組施行起工式”という記事。
 これが市史年表に宮古橋という名前が出る最初だ。
 その翌1934年11月“宮古橋開通式、工費十六万円”。
 ほかの資料を参照すると、これが鉄筋コンクリート製の永久橋の完成だった。
 こうしてみるかぎり宮古橋の名は1933年に永久橋化されるさいに初めてつけられたような印象を受ける。
 ところが、もういちど繰り返すなら、1918年(大正7)につくられた新宮古八景にすでに“宮古橋夕照”とあるという。
 これは、当時、橋の正式な名前は新晴橋だったけれども、市民は宮古橋の名で呼んでいた、ということだろうか。
 
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■「湾頭の譜」にまつわる出逢い
 
 宮古在住の山根英郎さんが書かれた「湾頭の譜」という本が手もとにある。
 サブタイトルが“ふるさとエッセー集”。
 1989年(平成1)11月3日に刊行されたB6判・238ページの私家版だ。
 この本には、ぼくにとって2つの出逢いの意味がある。
 「みやごのごっつお」という毎日見にゆくサイトの掲示板に“けむぼーさん”という人がよく書きこんでいる。
 みずからサイトも持っていて、そのほのぼのとした「けむぼーのページ」にある掲示板に書きこむことでネット上のつきあいが生まれた。
 インターネットとは不思議なものだとつくづく思う。
 何度か掲示板上でやりとりしただけで実際に顔を合わせてもいないのに、参考になるだろうから資料を送るという。
 数日して、インターネットというヴァーチャル・ワールドが決して曖昧な存在ではない証拠のように「湾頭の譜」という1冊の本が目の前にあらわれた。
 不思議なかたちで巡りあったけむぼーさんの厚意によって、自分にとってはもうひとつの巡りあいが生まれることになる。
 「湾頭の譜」の著者の山根英郎さんという名前には、タウン誌「月刊みやこわが町」で何度かお目にかかり、一度はその文章を引用させていただいたりしながら、具体的な人物像や著書の存在までは知らなかった。
 奥付に新町という現住所が載っている。
 懐かしい住所で、自分が新町に住んでいたころの、ひとりの幼な友達の顔が目に浮かぶ。
 山根さんは、そのお父さんにちがいない。
 顔をかすかに覚えている。
 ぼくにとっては四十数年ぶりの“再会”になる。
 山根さんは1925年(大正14)生まれとある。
 父とほぼ同年代で、戦前・戦中・戦後という激動の時代の多くを宮古で生きてきた。
 特攻隊に配属され、からくも復員して宮古で教職につき、磯鶏小学校の校長を最後に教職を離れた。
 宮古市史編さん委員や宮古地方史研究会副会長などをつとめながら「みやこわが町」や「岩手日報」などにエッセーを書きつづけてきた。
 「湾頭の譜」はその執筆の集大成だ。
 単なる思い出をつづった文集ではなく、幅広い知識と歴史意識に裏打ちされ、ひとりの宮古人の生がそのときどきのふるさとの歴史と生々しく交響している貴重な記録集だと思う。
 
 *「けむぼーのページ」http://www15.plala.or.jp/kembou/
 
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■ 哀愁のクジラ・ステーキ
 
 子どものころ盛んに食べたのに、オトナになって食べなくなったものの筆頭は何か?
 もしこう問われたなら、ためらうことなくゲーニク(鯨肉)と答えるだろう。
 わが家では肉といえば鯨肉か豚肉だった。
 鶏肉は嫌いだった。
 牛肉はめったにお目にかかれなかった。
 鯨肉はよく食卓に載った。
 好きだから、せっせと食べた。
 日本の商業捕鯨は1987年(昭和62)に終わった。
 それ以来、食べたくてもほとんど食べられなくなり、鯨肉ということばにはノスタルジーがまつわりつくようになってしまった。
 いま思えば硬かった。
 筋を切るために包丁で叩いていた。
 厚くて噛み切れそうもないと最初から細く切ってもらった。
 血の気が多くてボソボソした舌触りの肉も多かった。
 噛み切れなくてもガチガチ噛んで呑みこんだ。
 朝はトーストに挟んで食べた。
 のど越しも、胃袋におさまってからも、充実感があった。
 いま柔らかい牛肉を食べると妙に物足りないのは、あの硬い鯨肉のせいかもしれない。
 家での調理法はといえば、もっぱらステーキだった。
 記憶の糸をあれこれたぐってみても、ほかに浮かんでこない。
 安くて硬くて赤黒いクジラ・ステーキ――
 あれは、食費にも料理のバラエティーにも乏しい家庭の象徴だった。
 大和煮の缶詰というのもあった。
 ひとりでご飯をつくって食べなければならないとき、ギコギコと缶切りで開けた。
 当たりはずれが多かった。
 缶を開けて脂身が多ければハズレ。
 ごろっとした脂のかたまりは食べずに捨てた。
 給食にもしょっちゅう出てきた。
 さてどんな調理法だったか思い出そうとするが記憶は曖昧ではっきりしない。
 やはりステーキ、あるいは鯨カツだったろうか。
 あれだけ鯨肉が出回っていたのだから、いろいろうまい食べ方があったはずだがと、いまごろになって気にかかる。
 
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■ 山田の捕鯨
 
 鯨肉の料理法について無知なのと同じように、宮古の捕鯨についても知識はない。
 寄ってきた鯨を突いたり、自然に網にかかった鯨を獲ることはもちろんあっても、捕鯨船や鯨専門の網漁は宮古になかったのではないだろうか。
 おとなりの山田は捕鯨の町だった。
 山田では18世紀なかばに網を使ったイルカ漁が始まったといわれる。
 湾内に入ってきたイルカを網に追い込んで捕獲する追込漁だ。
 1920年代ごろまで約200年間つづき、1913年(大正2)には3000頭近くのイルカを捕獲したという。
 三陸沖にはマイルカ、スジイルカ、カマイルカ、セミイルカ、ネズミイルカ、リクゼンイルカなどが四季を問わず回遊している。
 イルカはクジラの一種で、肉に血が多い。
 しっかり血抜きをすれば大型の鯨と味にあまり変わりはない。
 国際捕鯨委員会による商業捕鯨の禁止の対象にはなっていないから、現在でも細々と出まわっている鯨肉のなかに当然イルカの肉もまじっているだろう。
 山田で大がかりな近海捕鯨が始まったのは、大沢に日東捕鯨という会社ができてかららしい。
 1949年(昭和24)のことだ。
 1954年(昭和29)に160頭、最盛期の1977年(昭和52)にはマッコウクジラだけで893頭を水揚げしている。
 そして1987年(昭和62)マッコウクジラ87頭・ニタリクジラ5頭を最後に捕鯨の幕を閉じた。
 ここに紹介した山田町の捕鯨についての知識は、町立“鯨と海の科学館”のホームページから仕入れた。
 この通称クジラ館の展示の目玉になっているのは17.6メートルという世界最大級のマッコウクジラの骨格。
 商業捕鯨最後の年に三陸沖で捕獲された、いわば掉尾を飾るにふさわしい堂々たる鯨だ。
 ホームページを見るかぎり鯨料理に関するコーナーはない。
 立派な骨格とともに、山田に伝わる料理法や加工法についても記録し紹介してほしいと思う。
 それはともかく、子ども時代に宮古に出まわっていた、そして盛んに口にした鯨肉のほとんどは、どうやら山田に水揚げされたものだったと考えていいようだ。
 
 *鯨と海の科学館
  http://www.town.yamada.iwate.jp/kujirakan/
 
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■ 赤前は昼前
 
 昔むかしのことだ。
 赤前の須賀まで鯨の群れが押し寄せた。
 赤前浜は宮古湾の奥。
 砂浜に鯨がたくさん打ち上げられている。
 見はるかすと湾の入口の閉伊崎まで鯨で埋まっている。
 沖へ出る漁師たちでも目にしたことのない大群だった。
 村人たちは大騒ぎになった。
 駆けつけた代官も驚いた。
 そして、うちつづくケガヅ(飢渇)で痩せ細った村人たちに言った。
 「よぉし、昼前にとった鯨はおまえたちのもの。
 昼を過ぎたらお上のものとするから、鯨から離れろ」
 聞くが早いか、村人たちは、年寄りも子どもも総出で鯨にとりついた。
 刃物を持っては皮をはぎ、身を切る。
 もっこ(背負い籠)はもちろん、あらんかぎりの器を持ち出しては運ぶ。
 てんてこ舞いの忙しさ。
 何年分もの盆と正月がいっぺんにやってきたような大騒ぎ。
 時の過ぎるのなんか頭にない。
 「お〜い、鯨から離れろ!
 とうに昼は過ぎたぞ!」
 代官が何度も叫んだ。
 だれの耳にも入らない。
 代官は村長を呼んだ。
 「もう昼過ぎだ。
 赤前ではまだ昼前なのか?」
 村長は答えた。
 「へえ、稼ぐべえりで。
 昼飯も食っておりませんで。
 昼飯前だがら、まぁだ昼前でごぜんす」
 代官はそれ以上なにも言わない。
 そうこうしているうち陽は西に傾く。
 さすがの村人も疲れた。
 村長の号令で鯨から離れた。
 月に照らされて白く光る鯨の骨が累々と残った。
 騒ぎがおさまり、村人は赤松林のなかにお堂を建て、鯨の骨がらを祭った。
 それから赤前では、時のたつのも忘れるほど忙しいとき、こう言いかわすようになった。
 「赤前は、まぁだ昼前だがねんす」
 「ほにほに、赤前は昼前だがねぇ」
 
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■ 八浦賑わう寄せ鯨
 
 「赤前は昼前」という前掲の話は、古くから宮古に伝わる話スッコ(作り話)だとばかり思っていた。
 いろいろ本を見てみると、どうやら史実にもとづいたものだったらしい。
 平凡社「岩手県の地名」の赤前村には、おおよそこう書かれている。
 ――「内史略」という資料によると、1701年(元禄14)赤前浜にマッコウクジラ139頭が打ち寄せられ、八ヶ浦の漁師ども、そのほか村々、岡の者まで鑓(やり)・脇差・銛・錐などいろいろの道具で殺し、金目にして1000両余を得た。
 これは浜辺の村でも未曾有の出来事で、日記書留帳(盛合文書)にも、この末とも、せめて鯨5匹、3匹ずつも浦入り願い申すことに御座候うとある、と。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」には、こうある。
 ――「古実伝書記」によると、元禄14年4月19日から23日まで赤前・津軽石浦にマッコウクジラが139頭も押し寄せ、村人が槍・脇差・銛・竿でせめ殺してとったという前代未聞の珍事があった。
 寄せ鯨の大群を3〜4日も昼夜の別なく追い回し、陸上に追い上げて肉や油の分配にあずかったことから、鯨が捕れると七浦賑わうといわれた。
 鯨の捕獲は当時とすれば一大事件として代官から南部藩に報告されており、鯨油は水田の除虫剤として珍重されていた、と。
 宮古市史年表には、1701年(元禄14)5月下旬、赤前浦ほかへ鯨寄る、このことを幕府へ届け出るとあって、押し寄せた浦の名前と本数を記し、末尾にマッコウクジラで4尋から6尋あり、とある。
 尋(ひろ)は両腕を伸ばした長さ約1.8メートルで、体長7メートルから11メートルほどの鯨ということになる。
 浦名と本数は、赤前浦24・津軽石浦13・金浜浦20・高浜浦12・磯鶏浦20・宮古浦12・黒田浦16・鍬ヶ崎浦15、以上8浦で合計139本とあるが、計算は合わない。
 3つの資料を見ると、頭数は139で変わらないものの、市史年表では赤前だけではなく8つの浦にほぼ満遍なく押し寄せていることが記録されている。
 赤前や津軽石浦だけとするよりも、そのほうが事実に近いような感じがする。
 
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■ 八幡通りの由来
 
 小学生のころは八幡通りに住んでいた。
 八幡通りは宮古駅から東に延びる道路の名で、同時に町の区画を示していた。
 八幡通り○番地○号という住所だった。
 それが、1965年(昭和40)7月1日に住居表示法にもとづいて表記が変更され、大通3丁目○番○号になった。
 大通とは味気ない名前だなと子供心にがっかりした記憶がある。
 大通は4丁目まである。
 その範囲にかつては、八幡通りのほかに田町・幾久屋町・篠田町という町があった。
 田町・幾久屋町は大通1丁目、篠田町は3丁目の一部になった。
 角川書店「日本地名大辞典 岩手県」には、宮古の大通についてこう書かれている。
 ――昭和40年から現在にいたる町名。
 1〜4丁目がある。
 もとは宮古市宮古の一部。
 通称としては相生町・幾久屋町、田町・八幡通・八幡上南・八幡上北・末広町の各一部の地域。
 町名は広い幅の道路のある通り、本通りの意。云々
 相生町・八幡上南・八幡上北という名は記憶にない。
 八幡通りも通称だったとある。
 趣きのある名前だったが、駅や線路に隔てられて八幡さまからは遠いのに変だな、と思っていた。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」に「篠田町と幾久屋町」という一篇があって、そこにはおおよそこんな記述がある。
 ――田町の南、大通りとの交差点に、朱塗りの鳥居が西に向かって建っていた。
 横山八幡宮の一の鳥居だった。
 傍にあった水産加工の斉藤さんの屋号をトリエーと呼んでいた。
 そこからまっすぐ西に八幡通りが続き、消防の八分団(現在養老の瀧)の前で南に曲がり、宮古駅の敷地の南へり伝いの田圃道を行くと、石造りの二の鳥居に出る。
 これが鎮守様である八幡宮への参道である。云々
 文末に〈57・6〉とあるから1982年に書かれた文章だとわかる。
 それから23年が経つ。
 養老の瀧は2004年に別の店に変わっている。
 いまの大通の東端にかつて八幡さまの一の鳥居があったというのはさらに隔世の感があるけれど、八幡通りの名は八幡さまの参道だったことに由来するという事実がわかったのは収穫だった。
 
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■ 田町と幾久屋町
 
 八幡通りは、住居表示の変更で消えてしまった地名のひとつだった。
 ほかにも懐かしい地名を思いつくままにあげれば、田町(たまち)・幾久屋町(きくやちょう)・篠田町(しのだちょう)・旧舘(きゅうだて)など、いくつもある。
 新町通りから中央通りを越えてゆくと、東の角にスーパーのマルフジがあり、西の角におもちゃ屋のシムラがあった。
 シムラはいまシューズコレクションさとう(佐藤靴店)になっているが、そこから南に延びる通りを田町通りとよび、田町通りの両側の町並みを田町といっていたと思う。
 つまり今の向町のうちの西側と大通1丁目のうちの東側の部分だ。
 幾久屋町は、この田町の西につづく町並みだった。
 ただ、田町と幾久屋町との境はどこなのかが判然としない。
 福乃湯のある通りだったかもしれない。
 ラーメンの安倍屋(あんばいや)、餅の三河屋のあたりは幾久屋町とよんでいたような気がする。
 宮古教会・宮古幼稚園のある通りの両側は幾久屋町でまちがいないはずだが……
 なんとも曖昧な書き方しかできなくてもどかしい。
 一目瞭然に示した地図がないと、あるいはそこに住んでいた人ででもないと、40年くらい前の町の範囲さえわからなくなっている。
 幾久屋町はキクヤ町とカタカナで表記されている資料も多い。
 宮古市史年表の1925年(大正14)には“山田庄助所有地を埋立てキクヤ町設定”とある。
 町の範囲までは書いていない。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」には、幾久屋町は屋号が町名になったとあり、“幾久屋は本町の雑貨店の老舗、主人公の山田庄助氏が大正の末に私有田を埋め立てた”もので、町名表示が変わって“すっぽり大通一丁目の中に埋没してしまった”と書かれている。
 かつて第二幹線の東端、本町通りにつきあたる丁字路の北角に雑貨屋があり、第二幹線に面したショーウインドウにはプラモデルが飾ってあった。
 あの店がたしか幾久屋だった。
 いま、高橋(たかばし)交差点に近い新町の中央通り沿いにキクヤという名の模型店があって、なにか懐かしい感じがする。
 
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■ 魚菜市場があった町
 
 先日久しぶりに魚菜市場のホームページを覗いてガッカリした。
 新着情報が1年前の記事ひとつだけ。
 新鮮さや活気がまったく感じられない。
 そのうえ所在地の表記がまちがったまま……
 魚菜市場は五月町にある。
 それが五日町になっている。
 字が似ているからまぎらわしいのは確かだが、しかし発音するとサツキチョウとイツカマチでは大違い。
 あれは宮古を知らない業者が原稿だけを見てつくったホームページにちがいない。
 まぎらわしいといえば、五月町のまえには道一本へだてた緑ヶ丘にあった。
 宮古を離れていたので場所を移動したことがわからなかった。
 住居表示が緑ヶ丘から五月町になっているので、行政区画の変更でもあったのだろうかと首をひねったこともあった。
 宮古市史年表で確認してみると、1968年(昭和43)3月26日“魚菜市場、緑ヶ丘に完成落成式”とある。
 五月町に新築・移転したのは1995年(平成7)7月のことらしい。
 市史年表の記述は1989年(昭和64)で終わっているので、この日付は魚菜市場のホームページの市場概要に拠った。
 誤植でなければいいが……
 緑ヶ丘に移るまえは大通3丁目にあった。
 昔の八分団まえから今の南町へ抜ける道沿い東側、八幡沖踏切の北側だった。
 地図で確認すると大通3丁目4番だろうか。
 いまは駐車場になっている。
 立派な現在の魚菜市場のように屋根のある建物に店々が入っているわけではない。
 空き地に露店の集まったようなもので、木柱を縄で結わいつけた骨組みに覆いをかけただけの店も多かった。
 下は土で雨が降ればぬかった。
 それでも活気ある市場らしい市場だった。
 市史年表をさがしてみると、1960年(昭和35)10月22日“魚菜市場、篠田町に開店、五十店”とある。
 あのへんをかつては篠田町とよんでいた。
 むかしの国際劇場の西向かい角に志乃多という旅館がある。
 踏切の名に八幡沖という失われた地名のわずかな痕跡が残っているように、あの旅館はシノダチョウという古い地名を偲ばせる唯一の存在になっている。
 
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■ 新町の貸し本屋
 
 むかし、貸し本屋さんが新町にあった。
 家に本が少なかった。
 前谷惟光「ロボット三等兵」と杉浦茂「猿飛佐助」はあった。
 それ以外の漫画は貸し本屋から借りて読んだ。
 地図でみると新町の2番地あたり。
 黒田町とのあいだの通りで、道からガラス戸を通して中が見えた。
 向かって右手の引き戸を開けて入ると、すぐ右横と正面の壁に古い雑誌の棚、中央の平台には新しい雑誌が置かれ、左奥に単行本の棚が並んでいた。
 通路の床は土。
 単行本を見るには靴を脱いで木の床に上がった。
 帳場にはいつも丸顔で髪の薄いおじいさんが座っていた。
 屋号は小成といったか。
 借り賃はいくらだったか。
 もう記憶も薄れている。
 本には茶色の模造紙のようなカバーがかけられ、タコ糸で綴じられていた。
 田河水泡の「のらくろ」や佐藤まさあきの「影男」シリーズ、武内つなよしの「赤胴鈴之助」、手塚治虫・横山光輝・白土三平・永島慎二・真崎守・村野守美などの単行本。
 雑誌は「少年」「少年画報」「冒険王」などの月刊誌、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」などの週刊誌を借りて読んだ。
 単行本で印象深いのは、佐藤まさあきの作品だった。
 帽子をかぶり、フロックコートやトレンチコートを着たニヒルな主人公が登場し、やたらと銃を撃ちまくる、日本刀やドスを振りまわす。
 血が飛んでむやみに人が殺される。
 ヤクザ・暴力団同士の抗争を扱った内容が多かった。
 小学生には教育上問題ありすぎで、いつも同じような筋ばかりなのには読んでいて呆れた。
 それでもまた借りて読んだのだから、いま思えば佐藤まさあきというのは不思議な魅力を持った作品を描く漫画家だった。
 その佐藤まさあきは去年(2004年3月12日)心筋梗塞で死んだ。
 67歳だったという。
 かつて貸し本文化の一時代を築いた漫画家のひとりがいなくなった。
 新町から一軒の貸し本屋が消えたのは、もっとずっと前のことで、知らないうちになくなっていた。
 
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■ カラス列車
 
 山田線を、うっかり電車といってしまうことがある。
 そのたびに電車じゃなかった、ディーゼルだったと思い返す。
 小学生のころ盛岡の親戚の家へ遊びに行くときはカラス列車だった。
 蒸気機関車をそう呼ぶことがあった。
 盛岡に着くころには煤で顔が黒くなった。
 夏休みに出かけることが多く、窓を開け放して首を出し、風に逆らって進行方向を眺めたりしていた。
 トンネルが近づくと汽笛が鳴り、あわてて窓を下ろした。
 夏休みの自由研究に、山田線に乗ってトンネルの数などを調べて提出したことがある。
 思い出そうとしたが数字が出てこない。
 いまネットで調べてみたら50もあるらしい。
 これは「山田線50隧道」という掲示板に出ている。
 アーカイブ(保存版)だから新たな書き込みはできない。
 山田線といっても宮古から盛岡のあいだのこと。
 その間にトンネル(隧道)が50とは驚く。
 それだけ山中の難所を縫って走っているという証拠だろう。
 スイッチバックもあった。
 浅岸と大志田の2ヵ所で、いったん駅を過ぎて停止し、また駅まで後戻りする。
 あるいは、駅から後戻りし、また前に進む。
 知らないうちは後戻りするたびに不安だった。
 あれは急勾配を登ってゆくためのものだと思い込んでいたが、単線で対向列車とすれ違うための方式だったらしい。
 カラス列車がディーゼル化されてもスイッチバックは残った。
 いまは本数が減ってスイッチバックする必要がなくなったので廃止された。
 山田線にディーゼル車が導入されたのは1960年(昭和35)11月15日のことだという。
 宮古市史年表には“二往復、盛岡へ四十五分短縮”とある。
 宮古〜盛岡が全面ディーゼル化されたのは翌1961年2月1日で、5往復。
 釜石までの山田線全線がディーゼル化されたのは1970年3月1日のことらしい。
 ディーゼル化で嬉しかったのは、やはり時間が短くなったことだった。
 たしか盛岡まで3時間50分かかっていたのが鈍行で3時間、急行で2時間半で行けるようになった。
 そのディーゼルもバスに押されて客が減り、カラス列車の時代はさらに遠くなった。
 
*山田線の駅
  盛岡 上盛岡 山岸 上米内 大志田 浅岸 区界 松草 平津戸 川内 箱石 陸中川井 腹帯 茂市 蟇目 花原市 千徳 宮古 磯鶏 津軽石 豊間根 陸中山田 織笠 岩手船越 浪板海岸 吉里吉里 大槌 鵜住居 両石 釜石
 
山田線50隧道 by な@疾風会
http://www.bekkoame.ne.jp/~yasatou/sippuukai/yamadasen.htm
 
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■ 宮古湾の牡蠣
 
 子どものときは食べなかったのに、大きくなってから大好きになったものに牡蠣(カキ)がある。
 ホヤやナマコ同様、見た目がダメだった。
 単なる食わず嫌い、海の幸に恵まれた宮古に育ちながらまったくもったいない話だと今になって地団太を踏んでいる。
 できるなら牡蠣やホヤを食べる機会を増やすためだけにでも子ども時代に戻りたい。
 土手鍋やフライもいい。
 ただ、なんといっても生にまさるものはない。
 レモンを絞って殻から汁ごと吸いこむ単純な食べ方が一番うまいと感じる。
 宮古の牡蠣の旬は10月から3月だという。
 そのあとのほうが値段は下がる。
 旬に食べるのが一番といってもこだわりすぎることはない。
 安いのを思う存分食べるのもいい。
 いくつかの新聞のウエッブサイトに宮古の牡蠣の話題が載っていた。
 “花見かき”という特大の養殖牡蠣で、花見の時季の4月・5月に食べごろになるため“春のたより花見かき”と名づけて商標登録の手続き中だという。
 普通の牡蠣の大サイズより3倍も身が大きく、水分が少なめで加熱してもあまり縮まない。
 ただ、育成に手間がかかるために量がまだ少なく、盛岡や市内のホテルなどからの注文販売のみで一般には出回らない“幻のかき”とのこと。
 そのうえ加熱調理用だという。
 生食用と加熱調理用の違いを調べてみると、細菌数などが食品衛生法の基準を満たしている海域で養殖されたもののみが生食用と表示できるらしい。
 いわば牡蠣は水質のバロメーターといえる。
 花見かきは沖合いではなく湾内で養殖されているようだ。
 おとなり山田湾の“一粒かき”は知られている。
 牡蠣といえば広島・宮城の名が浮かぶが、山田湾の一粒かきは東京・築地市場の殻付き牡蠣取扱い量ではトップだそうだ。
 もちろん生で食べられる。
 宮古湾内で養殖された牡蠣の多くは剥き身で、加熱調理用として出荷されているという話を聞く。
 漁業には門外漢、食べるほう専門の立場ながら、山田湾にくらべて宮古湾内の汚染が進んでいるのでなければいいがと気にかかる。
 
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■ 桜はまだか…
 
 宮古で桜が咲き始めるのは20日ごろだろうか。
 関東で桜の盛りが過ぎると、ふるさとでは今年は何日ごろだろうと思いを馳せる。
 宮古では花見に行ったという記憶があまりない。
 だいたい子どものころのわが家は、レジャーや観光に家族でどこかへ出かけるということ自体が少なかった。
 (ひょいと思い出した。
 当時はレジャーとはいわなかった。
 行楽といっていた。
 パチンコは公楽……閑話休題。)
 それでも臼木山には家族で何度か行った。
 臼木山は桜山ともよばれ、子どものときの印象では全山満開になると桃源郷のようだった。
 臼木山の桜は1928年(昭和3)にヨシノザクラ3000本を植樹してから根づいたもので、それまでは赤松が多かったという話をなにかで読んだ。
 宮古市のホームページには、いま100種800本の桜の木が植えられていると書かれている。
 一中(第一中学校)にも桜が多かった。
 敷地がぐるりと桜の木で囲まれていた。
 花見をしたのは八幡山の下だった。
 誰でも自由に校庭に出入りできたし、当たり前の顔をしてゴザを敷き、お弁当を広げた。
 フェンスで囲まれたいまはできるだろうか。
 市役所前の桜も印象深い。
 中央通りの東端に浄水場の三角地帯があって、その庭に一本の桜が生えている。
 あの桜が見事な花を咲かせ、街なかに桜の木が少ないだけに目立っていた。
 「知る知る宮古」というサイトを覗くと、市内の桜の名所として4ヵ所あげている。
 臼木山、舘合近隣公園、長沢川桜づつみ、磯鶏石崎の松原公園だ。
 経塚の碑があって一石さんと親しまれている舘合山は昔から桜の名所として知られる。
 長沢川桜づつみ、磯鶏石崎の松原公園というのは最近できた桜の名所のようだ。
 ほかにも赤前の宮古運動公園があり、花輪の華厳院がある。
 そういう桜の名所に出かけるのもいいし、人知れず咲く桜をさがして近郊を歩きまわるのもいい。
 なんにせよ桜には人の心をいざなう不思議な力がある。
 ふるさとの桜なら、なおさらだ。
 
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■ カタクリの花便り
 
 宮古から花便りが届いた。
 4月11日付の「岩手日報」web news には姉ヶ崎の休暇村陸中宮古の敷地内で、12日付「毎日新聞」岩手県版には臼木山で、カタクリの花が咲き始めたという記事が出ていた。
 カタクリは例年4月10日ごろに咲き始め、1週間から10日後ぐらいに盛りを迎える。
 そのころ、桜の固い蕾がほころびはじめる。
 カタクリは桜にさきがけて東北に春を告げる花だ。
 19日付の「岩手日報」によると、宮古のソメイヨシノは18日に開花した。
 開花の目安にする桜木を標本木とか標準木といって、東京なら靖国神社に、盛岡は岩手公園に、宮古では鍬ヶ崎の測候所にある。
 その標本木が5〜6輪の花をつけたという。
 去年より8日遅く、平年よりは2日早く、見ごろは23日ごろになるらしい。
 18日の最高気温は12.5度で平年にくらべて2度低く、まだまだ寒い。
 ちょうどその18日に撮影された臼木山のビデオが、宮古発のサイト「平運丸〜青年漁師の店」に出ていた。
 青年漁師さんは測候所の対岸の日立浜に住んでいて、浜の背後に臼木山がある。
 ビデオでみると臼木山の桜はまだ蕾が多い。
 かわりに白いコブシや赤いキリシマツツジが咲いていた。
 これに薄桃色の桜が一斉に咲きほこったら綺麗だろう。
 カタクリの花もビデオに映っている。
 臼木山の斜面で、少しうつむきかげんの可憐な薄紫の花が海風にそよいでいる。
 カタクリはユリ科の多年草。
 片栗と漢字で書くけれど、栗とは関係なさそうだ。
 ただ、栗と同じように、根茎は良質のデンプンを蓄えている。
 縄文の昔から食べられていたにちがいない。
 いまは片栗粉といっても市販されているのはジャガイモからつくられたものばかりで、本物の片栗粉など口にしたためしはない。
 カタクリの自生地は少なくなっているらしい。
 明るい場所に生えるけれど暑さには弱く、湿気も必要で、群落は落葉林の北の斜面にできることが多いという。
 育てるのは難しい。
 鱗茎が地下深くにあるので掘りとるのも大変だから、持ち帰って庭に植えようなどとは考えないほうがいい。
 やはり野に置けカタクリの花、である。
 
「平運丸〜青年漁師の店」http://www.heiun.com/index.html
 
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臼木山の思い出   うらら * 投稿10
 
 今日「宮古なんだりかんだり」を読んでいて、臼木山のことを懐かしく思い出しました。
 子供のころ、毎年ちょうど今ごろの晴れたお休みの日は、家族や親戚や近所のおばさんたちといっしょに臼木山にお花見に出かけました。
 お弁当はいつもの定番。
 のり巻きといなり寿司。
 おかずは煮物や玉子焼きや漬け物。
 ごくごく普通のものでしたが、桜の木の下でみんなで楽しく食べるお弁当は、ほかでは味わえない最高のごちそうでした。
 春の宮古の思い出のなかでは、いちばん心に残っているできごとです。
 お花見の日は、私はいつもゴザを運ぶ係りでした。
 ゴザはクルクルクルッと丸めて肩にかついで行きました。
 拡げる場所を探す係りも兼任で、臼木山に登り着くと、景色がよくてデコボコしていない場所を探しまわりました。
 でも、たいてい探している途中でカタクリの花のほうに目がいき、その可憐さに見とれてしまいました。
 「とってはだ〜め」
 という母の言葉に、
 「うん」
 と返事しながらも、一度だけこっそりとって、押し花にしたことがあります。
 初めはきれいな薄紫色だったのが、2週間ぐらい経つとだんだん白っぽく色が抜けてきて、咲かしておいてあげればよかったと後悔しました。
 母が言った意味がよくわかりました。
 アルバムをめくって、臼木山で撮った写真を見てみましたが、みんなモノクロで色はわかりません。
 でも、きっときれいな桜色だったのでしょう。  (2005.4.20)
 
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■ 浄土ヶ浜の花
 
 むかし、臼木山のカタクリの花を実際にこの目で見たことがあっただろうか――
 と、ふと思った。
 うららさんの文章を読んだときである。
 例年この時期になると新聞のウエッブサイトにカタクリの花が咲いたという記事が出て、鮮明な写真も見ることができる。
 インターネットで宮古の情報を得られるようになる前はカタクリの花など頭になかったから、春になるとあの可憐な花が気になるようになったのはインターネットのおかげだ。
 宮古に住んでいたときは、臼木山に桜を見にいってもカタクリの花に意識を向けることはなかったはずだ。
 というより、臼木山にカタクリの花が咲いていることさえ知らなかっただろう。
 コブシ、カタクリ、桜、ツツジ――
 春の臼木山にはいろいろな花が咲き競う。
 夏には赤いハマナスも咲く。
 去年の晩秋に登ったときは、ノアザミのような紫色の花が咲いていた。
 夏に臼木山から浄土ヶ浜に降りて遊歩道を歩くと、目につく花はハマユリだ。
 これは花の名などほとんど知らない高校生でも知っていた。
 ハマユリは浄土ヶ浜の花だ。
 石英粗面岩の白い岩肌にしがみつくように咲くオレンジの花は遠目にも鮮やかだ。
 松の緑ともよく映える。
 摘みとられて遊歩道の片隅に無惨に捨てられているのを目にすることもあった。
 最近調べてわかったことだけれど、あのハマユリ(浜百合)は学名をエゾスカシユリ(蝦夷透百合)というらしい。
 スカシ(透し)というのは花弁に隙間があるからだという。
 花の命は短くて、わずか1日。
 田老町の町の花として1978年(昭和53)5月14日に指定されているという。
 そういえば、合併すると、どうなるのだろう。
 市の花や木、鳥や魚は、もういちど指定しなおすのだろうか。
 ちなみに宮古市の花はハマギクで、これもいい。
 ただ、宮古の花といえば、浄土ヶ浜のハマユリを思い浮かべる。
 もし合併で指定しなおすようなことがあるなら、新しい宮古市の花は、ぜひハマユリにしてほしいものだと思う。
 
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とっときの場所   珊瑚 * 投稿11
 
 子供の頃、家の畑や山に何度か父や母についていった記憶があります。
 ふだんは家の前のバス通りが遊び場だったので、山とか畑は、とっときの場所でした。
 おぐまん様(熊野神社)の石段を上ってどんどん行くと、蛸の浜の上のほうの山に出ます。
 山にはカタクリの花が咲いていて、近所の子たちで摘みにいったことがありました。
 子供だけでは滅多に行く場所じゃないのに、ちょうどよく咲いている時期に、どうしてカタクリの花を摘みにいったのか、不思議な気がします。
 たくさん摘んで、その後どうしたのかも記憶がありません。
 訪れる人もなく、今年も山にはカタクリの花はひっそり咲いているのでしょうか。
 だいぶ前ですが、東京の人から別荘を建てたいとの話があったそうです。
 見晴らしもいいし、なんとなくいい感じだなぁと聞いていたら、国立公園だからでしょう、家は建てられないそうで、木を切るのも届け出が必要だとか。
 ひと回り近く歳が離れた兄と姉の話では、戦争中、畑に小屋を建てて、昼はそこに疎開したのだそうです。
 あんな近くに疎開したって、空から見たら……と思いますが、どうでしょう。
 数年前、見にいったことがありました。
 水仙が畑の脇に咲いていました。
 数十年振りに見たまわりの景色は、お墓だけが目立つところになってしまった、そんな気がしました。
 浄土ヶ浜道路で二つに分断されてしまった小さな山で、沢を下っていくと蛸の浜です。
 場所は違いますが、いまは中里団地になったところに近所の家の畑があって、やはり子供だけで遊びにいったことがありました。
 畠山八百屋さんのところから坂を上り、どんどん行くと吉田花屋さんが左側にあって、そこからまた上っていきました。
 草のすっかんぽ?や桑の実を食べたのも、その畑に遊びにいく途中だったような……。
 お寺を下に見て、乾いた土の細い道を、ちょっぴり怖い感じで歩いていった記憶も残っています。
 田老鉱山から続いていたのでしょう、あの音符記号のような物体がすごく近くに見えて、雪を固めては投げ、届くはずもないのに何故か楽しかった記憶があります。
 「てつさく」(鉄索)と呼んでいたような気がします。
 東の空をゆっくり動いていく様子は、小学校低学年だった私には、なんとも不思議なものでした。
 畑は海のほうに向かってだんだんと低くなっていて、見晴らしが良かったような気がします。
 あの畑があった場所に、いまはたくさんの人が住んでいるんですね。
 8歳か9歳頃の記憶……
 それから一度も行ったことがありませんが、団地になってもきっと見晴らしの良いところでしょう。
 
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■ ラサの鉄索
 
 いま宮古から鍬ヶ崎の町に入っていって物寂しく感じるのは、いくつかの印象的なものがなくなってしまったせいかもしれない。
 臨港通には貨物駅があった。
 光岸地(こうがんじ)の切り通しから行くと、右手の坂下にラサ工業の鉱石貯蔵施設があった。
 左の山の上には田老鉱山と結ぶ鉄索がずっと通っていた。
 町なかには醸造所もあった。
 キシロウヤ、キッソーヤと呼ばれていた醸造所がなくなったのはいつのことかわからない。
 魚市場から海岸通りの魚の匂いと競うような本通りの醤油のカマリ(匂い)は鍬ヶ崎名物のひとつだった。
 臨港駅がなくなったのは、1984年(昭和59)1月31日のことらしい。
 国鉄の貨物輸送の合理化にともなう処置で、踏切が閉まって足止めを食うこともなくなった。
 田老鉱山の閉山は、それよりずっと前だった。
 宮古市史年表には1971年(昭和46)とある。
 ちょうどその年に愛宕から佐原へ抜けるいまの国道45号が開通している。
 それまで鍬ヶ崎のバス通りから鍬ヶ崎小学校前を通っていた車は新しい国道を通るようになった。
 良かれ悪しかれ日常の車の喧噪も鍬ヶ崎から薄れた。
 その翌年には田老鉱山と鍬ヶ崎のあいだの13.5キロを結んでいた鉄索も撤去されたようだ。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」に、1972年(昭和47)“ラサ工業田老鉱山の銅の鉱脈が枯れて閉山したので、四筋の鉄索の鋼線が三十二年ぶりに取り払われ”たとある。
 あの鉄索は漠然と2筋と思っていたら4筋もあったらしい。
 スキーのリフトやロープウェイのような鉄索は、索道とも呼ばれた。
 ドラム缶を縦に割ったような鉱石の搬器が、張り渡された鋼線に吊り下げられ、かなりの高度でゆっくり宙を往来していた。
 “音符記号のような物体”と珊瑚さんが「とっときの場所」で書いているのを読んで、なるほどと思った。
 ラサの人はあれに乗って鍬ヶ崎と田老を行き来しているという噂があった。
 嘘だろうと思いながらも見上げて探した。
 人影はついに見えなかった。
 
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■ 鍬ヶ崎のテルミン
 
 ぼくのホームページに設置してある“みやこ画像投稿板”に奇妙な写真が掲げられた。
 木製の横長の箱にダイヤルのようなものがついている。
 上向きと横向きにアンテナのようなものが伸びている。
 タイトルには「鍬ヶ崎名物のテルミン」とある。
 すぐにはピンと来なかった。
 一瞬遅れて電子楽器のテルミンか!と気づいた。
 しかし、鍬ヶ崎名物? 聞いたことないぞ……
 やがてわかってきた。
 投稿してくれた yoshi さんは、鍬ヶ崎に住み、自分でテルミンを開発した。
 プロのミュージシャンが実際に演奏するテルミンとしては日本初で、東京の楽器店で売られている。
 テルミンをつくる一方で yoshi さんは、サウンド・クリエイターとして日本や海外でエレクトロニック・ミュージックのレコードやCDを多数リリースしてもいる。
 これは凄いことではないか!
 しかもさらに驚いたことに yoshi さんは宮古高校でぼくと同年の人だった。
 テレビで一度だけテルミンを見たことがある。
 演奏者がアンテナに手をかざしたり離したりして演奏するその姿は、まるで踊っているようにも、魔法のようにも見えた。
 手の動き、体の揺れに従って単音の物哀しい旋律が響きわたった。
 テルミンという楽器の詳細については yoshi さんのホームページe-winds を見てもらったほうが早い。
 e-winds は yoshi さんが手造りしているテルミンの製品名でもある。
 会社?の名称がTAK・テルミン・ラボ。
 ホームページには開発秘話も載っているし、実際の音も聴くことができる。
 「みやこ画像投稿板」から「みやこ伝言板」に場所を移してやりとりしていると、常連として書きこんでくれている人たちはテルミンという楽器の存在を知っていた。
 しかし、その開発者が鍬ヶ崎に“潜んで”いようなどとは思いもよらなかったようだ。
 時代の変化のなかで鍬ヶ崎から失われたものは多い。
 けれど、その陰から新しい文化が生まれている。
 テルミンの音色がいま、鍬ヶ崎の町に静かに流れているかと思うと楽しくなる。
 
 * e-winds http://www13.ocn.ne.jp/~tak/e-winds/
 
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■ 陸中海岸国立公園
 
 浄土ヶ浜を中心とする陸中海岸国立公園は1955年(昭和30)5月2日に誕生した。
 2005年(平成17)には50歳になったわけだ。
 ほとんど同い歳なので感慨が深い。
 国立公園として誕生するまでは難産だったらしい。
 タウン誌「月刊みやこわが町」のウェッブサイトに「ふるさと草子」というコンテンツがあり、なかに誕生余話が載っていて参考になる。
 園域の変遷については以前にもふれたことがある。
 ここでもう一度おさらいすると、誕生当時の園域は、北は普代村の松磯から南は釜石市大根崎までの92キロだった。
 それが1964年(昭和39)6月1日、南に宮城県の気仙沼市岩井崎まで拡張された。
 さらに1971年(昭和46)1月22日、北が久慈市まで拡張され、岩手北部から宮城北部の南北180キロに及ぶ大きな公園になった。
 その後、陸中海岸国立公園という名称を三陸海岸国立公園に変えようという議論が起きたことも前にふれた。
 変更問題は住民などの総意を得られないという理由で立ち消えになった、と思っていた。
 最近の新聞を見ると、この改称論議が再燃してきたようだ。
 2005年4月26日付「岩手日報 web news」に、こんな記事が出ていた。
 久慈市から気仙沼市までの沿岸14市町村と2企業からなる陸中海岸国立公園協会が、2003年に「地元の総意を得た」として岩手・宮城の両知事に名称変更を国へ働きかけるよう要望した。
 田野畑村や宮古市の“陸中海岸国立公園の名称を守る会”などは「長い歴史を無視すべきでない」と反対して沙汰止みになっていたが、2005年4月25日に宮古市役所で年度総会を開いた協会は名称を変更するための作業部会設置を決めた、と。
 協会内には反対意見があって一枚岩ではなく、これで再び名称変更論議は高まることになった。
 反対論のひとつに、園域に陸奥(青森県)を含んでいないのに三陸を冠称するのはおかしいという意見がある。
 この反対論に、名称変更に積極的な人たちはどう対処してゆくのか、注目したい。
 
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■ 沖の井
 
 「海のアイス 沖の井」――
 陸中海岸国立公園の誕生50周年を記念し、宮古観光協会が売り出した新製品だ。
 三陸沖の海洋深層水を使ったバニラアイスクリームで、たのはた牛乳・たのはたアイスクリームなどの酪農製品で知られる田野畑村産業開発公社が協力した。
 容器は海の青、110ミリリットル入り1個250円。
 浄土ヶ浜のレストハウスのほか、市内のスーパーや周辺の道の駅などで販売しはじめたという。
 肝心の味は、“さっぱりとした甘さのなかに、ほんのり塩味が香る”ものらしい。
 機会があったら、ぜひ味わってみたい。
 それにしても“沖の井”という命名はおもしろい。
 沖の井は浄土ヶ浜の沖にあると昔から伝えられている海底の井戸で、清水がこんこんと海中に湧きでているといわれる。
 金野静一さんの「陸中海岸の民話」には、おおむねこんなふうに書かれている。
 ――安永9年(1780年)8月15日の夜、この沖の井を探検せんものと、何人かの風流人が小舟をくりだしたそうです。
 そしてついに剣山の4〜5町(1町は約109メートル)ばかり沖合いの海中から清水の湧くのを発見したと伝えていますが、しかし現在は、その名が残るだけで、所在はまったく不明です云々
 この話の典拠は「奥々風土記」という本らしい。
 極楽浄土にたとえられる浜にふさわしい伝説で、この海底の井戸から湧く冷たい清水のイメージと海洋深層水が結びついて「海のアイス 沖の井」のネーミングが生まれたようだ。
 海洋深層水は太陽光線が届かない水深200メートル以上の深さにあって細菌などが極端に少なく、栄養素や微量元素が豊富な海水をいうらしい。
 「海のアイス 沖の井」に利用する深層水は、とどヶ崎から約40キロ沖合いの深海から採取した清浄な海水だという。
 浄土ヶ浜の沖4〜5町より、はるかに遠い。
 残念ながら伝説の沖の井ではなさそうだ。
 しかし、古い伝承が、こういうかたちで現代によみがえってくるとは思いもしなかった。
 
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■ 月山
 
 宮古は太平洋に面した町で、東は海だ。
 しかし、市街地から見ると重茂〔おもえ〕半島に視界をさえぎられ、その真ん中には月山がそびえている。
 月山は、だいたいどこにいても見える。
 ラサの煙突がそうであるように、宮古のランドマークと言っていい。
 標高は455.9メートル。
 御殿山とも呼ばれ、また古くは鏡山とも呼ばれた。
 町の向かいにあるから向山〔むげえやま〕と呼ぶ人もいる。
 頂上には月山神社やテレビ塔・展望台が建つ。
 展望台から、東には太平洋を見はるかし、西に宮古湾・市街地と早池峰をいただく北上山地、北は重茂半島北端の閉伊崎から鍬ヶ崎の町並みや宮古港・浄土ヶ浜・日出島などを一望できる。
 市街に面して白浜がある。
 閉伊川の河口左岸と結んでいた巡航船の白浜丸は、2001年(平成13)の3月20日に廃止されたという。
 白浜丸待合所は、いまでも築地に残っている。
 宮古駅からは湾をぐるりと回って約20キロの距離がある。
 駅前発の重茂行き県北バスで40分かかるらしい。
 月山登山口のバス停で下車し、さらに歩いて60分。
 バスで行ったことはない。
 いつも白浜丸で行った。
 いつもといっても、たぶん三度ほどだ。
 遠足かなにかで一度行った。
 一度は友人ふたりと、あとは一人で、白浜から、きつい坂道を頂上めざして登った。
 頂上からの見晴らしは雄大だった。
 そのぶん自分の住んでいる町は、ちっぽけなものに見えた。
 宮古市史年表を見ると、月山にNHKのテレビ塔が完成したのは1961年(昭和36)のことだという。
 家にテレビが来たのは1964年、東京オリンピックの前だったと思う。
 以後、テレビ世代のぼくにとって月山は“テレビ塔のある山”になった。
 月山のテレビ塔がなければテレビが映らないのだから、月山はたしかにありがたい存在だった。
 でも、それだけではない。
 宮古に住んでいるころは身近にありすぎて、その存在感がわからなかった。
 啄木が“ありがたきかな”と言った“ふるさとの山”は、ぼくにとっては月山なんだと今になって感じる。
 
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■ ヤマセ
 
 乳色をした濃い霧が海からやってくる。
 湾口を侵し、閉伊崎を巻き、やがて湾内を真っ白に埋め尽くす。
 月山が霧の海に浮かんでいるときもあれば、隠されて姿を消してしまうこともある。
 ヤマセだ。
 梅雨から夏にかけて寒流の親潮やオホーツク海気団から吹きつける冷たく湿った北東風が濃い霧を発生させ、巨大な津波のように押し寄せる。
 月山の向こうからやってきて、山の背を越える。
 まさに山背だ。
 濃霧をガスと呼ぶ。
 月山はガスサンだ。
 陸を侵す。
 気温が下がる。
 何日もつづけば冷夏になり、凶作の原因になる。
 マガダとも呼び、魔靄と書くらしい。
 白い悪魔とも呼ばれる。
 東北地方は昔からヤマセに悩まされつづけてきた。
 最近では2003年(平成14)が冷夏だった。
 1993年(平成3)もそうだった。
 梅雨が明けないまま夏が過ぎ、記録的な冷夏になった。
 米がとれず、値段は高騰した。
 備蓄用の古米・古々米では足りずに政府はタイや中国・アメリカなどから緊急輸入した。
 古米も外米も、まずいと不評を買った。
 1993年米騒動、平成の米騒動とも呼ばれた。
 農作物だけではなく、漁業にも影響があるのだろう。
 ヤマセと漁業についての資料がなくて詳しい事実はわからない。
 単純に考えれば、海の上で視界が利かなくてはうっかり船も動かせない。
 陸の上のことだが、個人的な経験ではこんなことがあった。
 ある夏、浄土ヶ浜の崖っぷちの道でガスに巻かれた。
 霧が出てきたなと思ったら、見る見るうちに視界が閉ざされ、数メートル先も見えなくなった。
 断崖の下は乳白色に埋め尽くされている。
 車道の端を区切るロープの外に表示板が建っていた。
 “ ↓ 浄土ヶ浜”と書かれている。
 矢印の方向、その底から潮(うしお)のような観光客のざわめきが立ちのぼってくる。
 急に濃霧に巻かれて平常心を失ったのかもしれない。
 近道があるのかと思い、ロープを越えようとして、ハッとした。
 この先は崖だ。
 矢印はただ方向を指しているだけで道があるわけじゃない。
 あのときのことを思うと、いまでもゾッとする。
 
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