岩手県宮古市の年表 Jin 編著 大というのは冗談です 和暦で改元の最初の年を表す場合、例えば建武元年は建武1年とした ◇印は日付が明確でない場合につけた *印は補足説明 黄色文字はリンク お気づきの点は 伝言板 に書き込んでください |
縄文時代 〜 2013.03 |
□先土器時代 □縄文時代 1 草創期=前1万1000~前7000 2 早期=前7000~前5000 3 前期=前5000~前3000 4 中期=前3000~前2000 5 後期=前2000~前1000 6 晩期=前1000~前400 早期=前6000年頃 根井沢遺跡 千鶏遺跡(重茂)は東北有数の集落跡 前期=前4000年頃 崎山貝塚は縄文後期まで継続。特大の釣り針が出土、北海道・八戸地方に分布するものと関連 中期=前2500年頃 高根遺跡 後期=前2000年頃 わたのは遺跡・大付遺跡 近内中村遺跡は晩期へつづく遺跡。多数の住居跡・遺構、全国的に例の少ない巻貝型土器などが出土 □弥生時代 前期=前300年頃 上村遺跡で竪穴住居跡が出土 ▼以下、640年頃まで宮古と直接には関係のない記述が、しばらく続く。 □弥生時代中期 ■西暦0年頃 倭人は100余国に分かれていた。一部の国は中国・前漢の楽浪郡に朝貢していた。(漢書地理志) ■57年 倭の奴の国王が後漢に朝貢。光武帝から印綬を得る。 *福岡市志賀島から出土した金印「漢委奴国王」がこれにあたる。 この頃、弥生文化が東北地方に波及。 ■100年頃 石器に代わり、鉄器が普及。西日本で乾田が耕作される。 ■107年 倭国王帥升らが、後漢の安帝に生口160人を献上。(後漢書安帝紀、後漢書東夷伝) ■184年 この頃、倭国は乱れ、長いあいだ盟主なし。 この後、卑弥呼が邪馬台国の女王となる。(魏志倭人伝) ■248年 この頃、卑弥呼死去。娘の壱余(いよ)または台余(とよ)が邪馬台国女王となる。(魏志倭人伝) ■391年 倭軍が朝鮮半島を渡り、百済・新羅を破る。(高句麗広開土王碑) ■581年 蝦夷の首長の綾糟らが朝廷に服属を誓う。(日本書紀) この頃、東北地方で横穴式石室をもつ古墳がつくられる。古墳の築造は東北地方では700年代末でほぼ終了。 ■603年 12月、冠位十二階を制定。 ■604年 4月、厩戸皇子が憲法十七条をつくる。 ■607年 7月、小野妹子ら遣隋使として派遣される。 ■637年 蝦夷が朝貢せず、上毛野形名を将軍として蝦夷を討つ。 ▼以下、宮古関係の記述にほぼ限定する。 この頃、現在の宮古の市街地のほとんどは閉伊川の河口、宮古湾の入江にあたっていた。 ■680年(白鳳9) *伝説 「横山八幡宮由緒略記」によれば、この年、横山八幡宮が創建される。 ■715年(霊亀1)乙卯 10月29日、蝦夷(えみし)の須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)が先祖代々続く昆布の献上に関して奈良朝廷に伺いをたて、郡家を建てて公民となることを許され、閇(へい)村を開いたという。これが閉村、のちの宮古付近のこととされる。 「続日本紀」霊亀1年10月29日条――又、蝦夷須賀君古麻比留等言す。先祖以来、昆布を貢献、常に此の地に採て、年時かけず。今国府郭下、相去ること道遠くして、往還旬を累ねて、甚だ辛苦多し。請う閇村に於て、便、郡家を建て、百姓に同じゅうして、共に親族を率て、永く貢をかかじと。並に之を許す。 現代訳――蝦夷の須賀君古麻比留は次のように言上した。「先祖以来献上を続けています昆布は、常にこの地で採取し、毎年欠かしたことがありません。この地は陸奥の国府から遠く離れているため、往復に二十日もかかり、大変な苦労です。閇村に郡家(役所)を建て、一般の人民と同じ扱いにしていただければ、共に親族を率いて、永久に貢献を欠かしません。」この請いは受け入れられた。 陸奥の国府は多賀城に移る前で、所在地ははっきりしない。郡家(役所)が建てられたことで閇村は権郡、つまり郡に準じる地域として扱われるようになり、のち閉伊郡となったとされる。「続日本紀」は797年に編纂され、この一節は昆布に関する最も古い記録とされる。 ■724年(神亀1)甲子 ◇この年、陸奥国に多賀城(現在の宮城県多賀城市市川)が設置される。 ■797年(延暦16) 11月5日、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられる。 ■800年代 ◇島田Ⅱ遺跡 *9世紀から10世紀にかけての集落跡で、製鉄・精錬・鍛冶遺跡をともなう。 ■801年(延暦20) 2月、坂上田村麻呂征夷大将軍が陸奥へ向かう。 *この遠征は“遠閇伊村”にも及び、“遠閇伊村”は閉伊の奥地の意とされる。 ■802年(延暦21) 1月9日、坂上田村麻呂征夷大将軍に胆沢城の築城が命令される。 ■807年(大同2) ◇小山田・岩ヶ沢の山上にある小山田神社は明治初年に改称する以前は薬師堂で、坂上田村麻呂によって創建されたと伝える。 ■811年(弘仁2) ◇陸奥・出羽両国の兵2万6000による“爾薩体・幣伊二村”の征討が建議される。以後、弘仁年間の征夷将軍文室綿麻呂の遠征は、とくに“閉”地方を目的としたという。 ■869年(貞観11) 5月26日(新暦7月13日)、三陸沖で巨大地震・津波が発生。 *記録に残っている最古の大津波。地震のマグニチュードは8以上、津波の高さは30メートル以上と推定され、溺死者は約1000人に達したという。三陸海岸は世界一の津波常襲地といわれ、周期は35年・40年・60年などの説に分かれる。大津波は、この869年・1611年・1896年・1933年の4回が特に知られる。 ■915年(延喜15) ◇十和田火山が大噴火。 *過去2000年で国内最大級で、江戸時代の浅間山噴火を超える大噴火。青森・秋田の県境。火砕流が秋田側の集落をのみ込み、大量の火山灰が東北各地に降り注いで農業に壊滅的な打撃を与えた。噴煙は都の空まで届き、「太陽がかすんで月のようだ」という当時の記録が残る。火口に水がたまって十和田湖となる。 ■1006年(寛弘3) *伝説 「横山八幡宮由緒略記」によれば、阿波の鳴門を鎮めた横山の禰宜が時の天皇から都と同訓の宮古の名を贈られた、という。 ■1051年(永承6) ◇前九年の役。 *安倍頼時が叛乱を起こし、源頼義が陸奥守として赴任、いわゆる“前九年の役”が起こる~1062年。安倍頼時は生年不詳、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の奥6郡の司(つかさ)で貞任・宗任の父。「陸奥話記」に事歴は詳しいが、この政府側の書では反逆者となっている。「今昔物語」「宇治拾遺物語」では同情をもって描かれている。 ■1067年(治暦3) ◇源頼俊が陸奥守に任じられる。 ■1070年(延久2) ◇延久の合戦。陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が“衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒”を討ったという。 ■1083年(永保3) ◇後三年の役。 *藤原清衡の弟の清原家衡が叛乱を起こし陸奥守源義家が武力介入、いわゆる“後三年の役”が起こる~1087年 ■1189年(文治5) 閏4月30日(新暦6月15日)源義経が藤原泰衡に襲われ、衣川(今の奥州市)で自刃。 9月、奥州合戦。 *源頼朝に攻められて平泉の藤原氏が滅亡。以後、鎌倉幕府による奥州統治の政策が実施される。閉伊郡が正規に設置されたのは、この後とされる。 ■1190年(文治6・建久1) ◇鎌倉幕府により奥州総奉行が置かれ、葛西清重が任命される。 ◇一説に、源為朝の四男・閉伊頼基が鎌倉幕府から根城(老木)の地を安堵され山城を築いたと伝えられる。 *現在は八幡神社が建っており、1956年4月に根城館跡として市の史跡に指定される。閉伊氏は閉伊48館の旗頭として君臨。宗家の河南閉伊氏は1491年、親光のとき南部氏に滅ぼされ、その配下に入る。河北閉伊氏の千徳氏は、いまの鍬ヶ崎から黒田・千徳を治めたが、やはり南部氏の配下に入っている。 ■1324年(元亨4) 11月23日付の関東下知状案(田鎖文書)によると、閉伊光員(みつかず)の遺領“閉伊郡呂木”などをめぐって閉伊員連(かずつら)が閉伊宗家の光頼を訴えた。呂木は、いまの老木(ろうき)に比定される。 ■1333年(元弘3) ◇多賀国府に北畠顕家が着任。 ■1334年(建武1) *南北朝時代~1392年 1月、閉伊氏宗家の親光が国司北畠顕家から所領を安堵される。 ◇山口の小笠原家に“建武元年”銘の鉄鉢が伝わる。県文化財に指定される。 ■1339年(暦応2) 5月、北朝の奥州総大将石塔義房が閉伊三郎に軍勢を督促。 ■1340年(暦応3) 7月15日、暦応の碑が建立される。 *宮古で最古の石碑。現在、鍬ヶ崎児童遊園にあり、高さ1.05×幅0.65メートルの自然石製。地頭閉伊員連(かずつら)の一族が建立したものとされる。梵字一字が刻まれ、下に北朝年号で暦応三年七月十五日と小さく刻まれる。梵字は大日如来を表わし、天台真言密教の流布を証する貴重な資料として1955年8月に市の史跡に指定される。 ■1370年(応安3) 12月17日、黒森神社にこの日付の棟札があり、“当郡地頭南部光禄・南部伊予守信長”とあるという。 *黒森神社は坂上田村麻呂の創建と伝える。 ■1376年(永和2) ◇紀州の雲公が経塚を建立。 *経塚の碑は市街地を見下ろす舘合近隣公園にある。高さ2.64×幅1.85メートルの花崗岩製。碑の上部に直径32センチの円が描かれ、その下に“五部大経 一石一字 雲公成之 永和第二”と刻まれる。1個の石に1字ずつ経文の字を書写したものを土中に埋めてあり、一石一字塚とも呼ばれる。建立年の明確な石碑としては日本で最古のひとつで、石文としても県下第一の書と認められている。雲公については不明。1975年3月、県の史跡に指定される。 ◇14世紀末頃、河北閉伊氏によって千徳城が建設されたといわれる。 ■1436年(永享8) ◇斯波御所を総大将とする軍勢が稗貫氏を攻め、この軍勢のなかには閉伊・久慈などの軍兵が加わっていたという。 ■1485年(文明17) ◇山口第1地割の黒森神社に、この年の紀銘をもつ黒森神楽の獅子頭がある。 *ごんげん様と称される。1963年12月、黒森神楽の獅子頭のうち、この最古の1頭と無銘の1頭の計2頭が県の有形文化財(彫刻)に指定される。 ■1489年(延徳1) ◇洞沢山華厳院が、掛川(静岡県)雲林寺の住職(曹洞宗)を招いて現在地に再建される。 *初め天台宗。閉伊頼基が父・源為朝の菩提を弔うため根城に寺を建て、為朝の法名からとって寺名としたのが始まりとされる。6世の三叟義門は常安寺をはじめ田代にある久昌寺などを開山、華厳院はこの地方一の大寺となる。1792年に山火事で本堂を焼失、1918年4月にも山火事で類焼。現在の本堂は、その後に再建された。 ■1492年(明応1) ◇明応年間(1492~1501)に千徳次郎善勝が横山八幡宮の社殿を修理したと伝えられる。 ■1532年(天文1)~1555年(天文24) ◇このころ、今の小沢・横町は黒田谷地と呼ばれた。津軽石・花輪・松山・金浜・赤前・田代・山口・近内などには豪族が居を構え、ほぼ今の市域の集落のもとが形成された。 ■1570年(元亀1) ◇鍬ヶ崎を開拓した山根一族は元亀年間(1570~1573)に紀州から移住したと伝える。山根町にその名が残り、熊野町の熊野神社(愛称オクマンサマ)は天和年間(1681~1684)の創建で、もと山根一族の氏神として祀られたという。 ■1580年(天正8) ◇華厳院6世の三叟義門が舘合に宮古山常安寺を建立。 *1611年の大津波で流され、1625年に現在地に再建。 ■1588年(天正16) ■1590年(天正18) 豊臣秀吉による奥羽仕置(しおき) 7月27日、南部信直が豊臣秀吉から南部内七郡を安堵する朱印状を受ける。 *七郡は糠部・鹿角・閉伊・岩手・紫波・久慈・遠野保。 ■1591年(天正19) ◇九戸政実(まさざね)の乱が起こる。 9月2日、千徳彦次郎実富の守る一戸城が落城。 9月4日、九戸城が落城、九戸政実の乱が鎮圧される。 *九戸政実・千徳実富らが伊達の三迫(さんのはざま)で処刑される。 ■1592年(天正20) 2月、田鎖氏と千徳孫三郎に福岡城(九戸城)の南部信直から軍勢督促状が発せられる。 *豊臣秀吉軍として朝鮮への出兵を促すもので、田鎖・千徳両氏はそれぞれ手勢20騎ほどで肥前名護屋(いまの佐賀県唐津市)へ向かった。 ◇「南部諸城破却」が発せられる。 *当主の名護屋出兵中に、南部信直によって千徳城・田鎖城などが破却、攻め滅ぼされる。 ■1603年(慶長8) 2月12日、徳川家康が征夷大将軍となる。 *江戸時代~1867年。 ■1611年(慶長16)辛亥 ◇宮古に代官所が置かれる。場所は、市役所分庁舎(もと宮古地区合同庁舎)の位置。代官は小本助兵衛正吉、扶持100石。現在の御蔵ノ沢に代官所の蔵があった。 10月28日(新暦12月2日)、三陸沖で地震津波が発生。 *地震の大きさは869年の地震と同程度のマグニチュード8以上と推定される。三陸沿岸・北海道東岸を津波が襲い、三陸沿岸では多くの家屋が流失、北海道東部では溺死が多かった。“宮古村の海浜通りは一軒もなく無残波にとられ人死多く御坐候、僅かに黒田村の山辺に数戸が残る”(宮古由来記)のみで、約200軒が流失したという。また、鍬ヶ崎ではその波が蛸の浜を越え、横山八幡宮、和見館間(たてま)にあった常安寺、本町の代官所なども流されたと伝えられる。 ちなみに、江戸時代に三陸地震津波は5回起きている。この1611年と1677年・1763年・1793年・1856年である。最初の1611年が津波の規模、被害ともに最も大きかったようだ。有史以来、記録に残っている大津波では、869年・1611年・1896年・1933年の4回が特に知られる。 ■1615年(慶長20・元和1)乙卯 4月1日、盛岡藩2代藩主の南部利直が慶長大津波(1611年・慶長16)の被害を巡視するため出発。宮古市史年表によると、30日ほど宮古に滞在。 5月3日、南部利直は黒田(くろた)村を割いて宮古村を立てる。復興計画の起点として本町(もとまち)を据えて町割りを指図し、藩の外港として宮古湊を開いた。 *7月13日、改元 ■1616年(元和2) ◇鍬ヶ崎に盛岡藩の藩船宮古丸(500石)と寅丸(300石)が配備され、沿岸防備と俵物貿易に用いられる。 ■1625年(寛永2) ◇宮古山常安寺(曹洞宗)が現在地の沢田に再建される。 ■1627年(寛永4) 2月、南部利直は八戸直栄を遠野に移す。 ◇閉伊郡が南閉伊・北閉伊に分けられ、南閉伊は大槌に、北閉伊は宮古に代官所が置かれた。 ■1632年(寛永9) ◇宮古代官所の小本助兵衛は盛岡藩2代藩主南部利直の設定した本町(もとまち)に加えて新町(あらまち)・田町・横町・御水主町(おかこまち)を町割りする。 *御水主町は、のち向町(むかいまち)と改称。 ■1638年(寛永15) ◇花輪で盛岡藩4代藩主南部重信の生母松が死去。 *南部重信は花輪に生まれて花輪殿様と呼ばれた。 ■1639年(寛永16) ◇重茂の館(たて)集落に唐船遠見番所が設置される。 *7月、徳川幕府がポルトガル船の来航を禁止して鎖国体制を完成させたが、その一環として設置された。 ■1641年(寛永18) ◇藩命により、野田から宮古を経て大槌までの三閉伊街道を改修。 ■1643年(寛永20)癸未 6月13日、山田湾にオランダ商船ブレスケンス号が来航。鍬ヶ崎の娼婦らが接待にあたる。 *嵐に遭い、水・食料を求めての避難だった。大槌代官所の奉行が小舟で接近すると歓迎の祝砲を鳴らし、人々を仰天させた。商船とはいえ大砲17門を装備していた。奉行は給水を許可し、盛岡に使者として与左衛門を走らせた。与左衛門は山田~盛岡128キロを一昼夜で走破し、藩主から“隼一昼夜”の名をもらった。盛岡藩は早馬を飛ばして幕府の指示を仰いだ。鎖国政策をとっていた幕府は、侵犯として乗組員の逮捕を命じた。大槌代官所は鍬ヶ崎から娼婦を呼び、小島で歓迎式を行なうと見せて、ボートで乗りつけた船長ら10人を逮捕。船内に残っていた乗組員は、大砲を撃ち鳴らしながら湾外に退去した。船長らは江戸に護送され、避難が目的だった事実が明らかになると帰国が許された。ブレスケンス号が飲料水を汲んだ大島は“オランダ島”、船長らを捕縛した小島は“女郎島”と呼ばれるようになった。 ■1644年(寛永21・正保1) 6月16日、本町で大火が発生し、26軒が焼失。 *12月16日改元 ■1645年(正保2) 4月22日、宮古町で96軒を焼失する大火が発生。 ■1646年(正保3) ◇花原市の古刹、曹洞宗華厳院に、この年の銘の梵鐘がある。 ■1650年(慶安3) ◇本町を中心に59軒を焼失する大火が発生。 ■1661年(万治4・寛文1) ◇寛文年間、盛岡藩の通(とおり)制により北閉伊は二分され、小本川から南を宮古通とし、宮古に代官所を置く。小本川から北は野田村・戸鎖村などを加えて野田通とし、宇部村に代官所を置く。 ■1664年(寛文4) 9月、第3代藩主南部重直が後継を決めないうちに死去。 12月、幕府は盛岡藩を分け、重直の異母弟の南部重信に盛岡8万石、同じく異母弟の南部直房に八戸2万石を与える。八戸藩が成立。 ■1671年(寛文11) 4月、盛岡藩は伊勢から10人の鰹漁師を招き、閉伊郡で鰹漁・鰹節製造にあたらせる。 7月、河村瑞賢が東廻り航路を整備。 ■1677年(延宝5) 3月、三陸沖で地震が発生、津波が襲う。 ■1682年(天和2)壬戌 ◇宮古通(どおり)の村数21、石高3000石余。 ■1683年(天和3) ◇このころ、宮古山常安寺7世の霊鏡竜湖(1727年没)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆して浄土ヶ浜と名づけたとされる。 ■1689年(元禄2) ◇横山八幡宮に南部藩の家臣が杉を植えて奉納したと伝える。 ■1700年(元禄13)庚辰 4月14日、高橋子績が宮古に生まれる。 *のち子績は高橋家の「家系譜」、「南部封域志」15巻、「沢内風土記」、「高橋子績詩文集」、「新刀銘鑑抄稿」8巻、「宮古八景詩稿並小序」、「横山八幡宮回縁記」、「伊勢参宮紀行」、「黒森山陵誌」などを著す。また、子績の乞いによって井上蘭台が著した「重修横山八幡宮記」が残る。 ■1701年(元禄14) ◇鍬ヶ崎の小島山(現在の鍬ヶ崎仲町?)に十分一役所を設置し、魚介・塩・漁船・廻船・海産移出物から10分の1の税を徴収した。(宮古市史) ◇赤前浜などに鯨139頭が打ち寄せられたという。 ■1707年(宝永4) 11月5日、富士山が噴火(宝永の大噴火) ■1710年(宝永7)庚寅 ◇鞭牛が和井内に生まれる(~1782)。 *8歳で出家し、橋野(釜石市)林宗寺の住職となる。42歳の1751年から73歳で死去するまで、閉伊街道(宮古街道)の開削に従事。 ■1716年(享保1) ◇7世霊鏡竜湖のとき常安寺に大修理が加えられる。 ■1721年(享保6) ◇閉伊川が氾濫。 ■1727年(享保12) ◇宮古山常安寺7世の霊鏡竜湖が死去。 *霊鏡は浄土ヶ浜の名付け親とされる。浄土ヶ浜にある賽の河原の子安地蔵の建立者でもあり、浄土ヶ浜まつりの4月29日には安全祈願の霊鏡祭が行なわれる。 ■1735年(享保20) ◇盛岡藩は領内を33通(とおり)・25代官所に整理、宮古通56村が宮古代官所に属す。 *56村は現市域と下閉伊郡南部。 ■1737年(元文2)丁巳 ◇高橋子績が宮古代官所下役に任じられる。 *また、子績が父とともに営々10年の辛苦のすえ造成した宅地が、このころに没収されている。 ■1750年(寛延3) ◇鞭牛が初めて小枝街道・橋野~大槌を拓く。 *牧庵鞭牛は和井内出身で、林宗寺(釜石市)第6世住職。 ■1751年(寛延4・宝暦1) ◇鞭牛が蟇目から平津戸までの街道の開削に着手。 ■1752年(宝暦2) ◇宮古代官に原政芳が就任。 *原敬の先祖で、原家4代目。1799年(寛政11)には5代原芳忠が代官に就任。 ■1754年(宝暦4) ◇大杉神社は銚子(千葉県)のあんば様を勧請したのが始まりといわれ、この年に藩主の免許を得て旧舘(愛宕)に祠堂を建てたと伝える。 *1933年、現在の光岸地に移転。 ■1755年(宝暦5) ◇宝暦の大飢饉。盛岡藩内の餓死者5万4000人。 ■1756年(宝暦6) ◇津軽石の瑞雲寺の参道に、宝暦の大飢饉による飢渇死者の菩提を弔う供養塔が建立される。 ◇長根寺の住職に祐義和尚が就任。 *三戸の恵光院から来て、1788年(天明8)に死去するまで33年間在職。 ■1758年(宝暦8) ◇この年に記された「宮古黒森山獅子舞廻り方三閉伊村所附帳」が残る。 ◇鞭牛が閉伊街道の工事に着手。 ■1760年(宝暦10)庚辰 ◇宮古代官所下役・漢学者の高橋子績が、かつて著述した「横山八幡宮回縁記」に井上蘭台の後記を合わせて横山八幡宮に奉納。 ■1762年(宝暦12)壬午 3月3日、宮古代官所下役の高橋子績が和賀郡の沢内に左遷される。 ■1763年(宝暦13)癸未 2月、高橋子績が「沢内風土記」を著す。沢内地方の地理・気候・動植物・民俗などを克明に記録したもので、盛岡藩内の風土記の嚆矢。⇒1976年 5月、磯鶏・神林に稲荷神社が勧請される。 ◇三陸沖で地震発生、津波が襲う。 ■1765年(明和2)乙酉 ◇高橋子績が「奥州南部封域志」を著す。 ■1767年(明和4)丁亥 ◇鞭牛が閉伊街道(宮古街道)開削・改修の功績によって盛岡藩から終身扶持を受ける。 ■1769年(明和6) 10月、田町・向町などが全焼する大火が発生。 ■1770年(明和7)庚寅 1月、高橋子績が赦免されて沢内から宮古に帰る。 8月、盛岡藩雑書の安永5年(1776年)の記述に、“九月十三日、宮古御代官所金浜村安立、明和七年寅八月八日沢内へ御追放被仰付、新町善兵衛と申者へ罷有候処、当八月廿日より相見得不申候付色々相尋候得共、行衛相知不申欠落候由”とあるという。 *金浜村の安立という者が、なんらかの罪で沢内村へ追放され、新町(しんまち)善兵衛のもとへ身柄を預けられたが行方不明になったらしい。善兵衛は2代目で古沢家の先祖だという。 ■1771年(明和8) ◇村井勘兵衛住顕という盛岡鍛冶町の歌人が宮古を訪れて宮古の文人たちと歓談し、近江八景にあやかって「宮古八景」をつくったという。 *1【横山秋月】秋の夜のひかりはおくの宮古にもめぐみ隔てぬよこやまの月、2【常安晩鐘】津くつくと思ゑば常に安くやはすむ山寺の入相の鐘、3【藤原夕照】(5字不明)松の葉ごしにわたるかと見えて浪間に夕日かがやく、4【黒田落雁】先おりて友やまつらんおくるともくろたの面にいそぐかりがね、5【黒崎帰帆】ときおそく漕ぎ行く舟もかえるさはつらなり見ゆる黒崎のうち、6【鍬ヶ崎夜雨】うねうねの浪やそうらん鍬ヶ崎ふる萱ぶきの雨のよすがら、7【臼木青嵐】吹払ふあらしにつれて臼木山みねよりおちにける白き雲、8【黒森暮雪】立ちならぶ木のもとくらき夕ぐれもゆきにさやけき黒森の山。以上の8景8首で、横山は秋の月光に浮かぶ八幡さまの森、常安は宮古山常安寺の安らかな晩鐘の響き、藤原は松原に沈む夕陽に映える海、黒田は一面の田んぼと雁、黒崎は閉伊崎から宮古浦を帰る舟のつらなり、鍬ヶ崎は浦鍬ヶ崎の萱葺きに降る夜の雨、臼木は木々の緑を揺らして吹き荒れる風と白雲、黒森は夕暮れの雪にさえわたる山影がうたわれている。 ■1772年(明和9) ◇近江の俳人、青灯下祇川〔せいとうげ・ぎせん〕が宮古を訪れる。 *長根寺に滞在して祐義和尚や宮古の俳人たちと交流した。伊香弥七「常安寺沿革誌」という文書のなかに、このとき俳句でつくった宮古八景のうち、祇川の句が残っているという。“常安晩鐘 寺は無為の宮古や呀〔さえず?〕る鶯の声”。祇川は幻住庵ともいい、芭蕉十哲の森川許六〔きょりく〕門人。滋賀の日野に生まれ、明和(1764~1772)のころ仙台藩の岩沼に住んで俳諧を指導し、1777年(安永6)8月に死去。祐義らが長根寺参道に幻住庵祇川反古塚を建立。 ■1777年(安永6) 8月、宮古ゆかりの近江の俳人、青灯下祇川〔せいとうげ・ぎせん〕が芭蕉の墓のある義仲寺で死去。 *1772年(明和9)に宮古・長根寺に滞在。1777年か三回忌か、長根寺の参道に幻住庵祇川反古塚が建立され、祇川が長根寺を去るときに詠んだ句が刻まれる。“山ひとつみな名残をし花の時” ◇この頃、長根寺の参道に一峯反古塚が建立された。 *“峯反古”の3字は別字で、峯の山冠がない字体+糸偏に放+糸偏に古。パソコンでは出ない。塚には“もろこしの吉野といへば梅処 泰山”の句が刻まれる。 ◇津軽石・盛合家の「日記書留帳」が編纂される。 *「日記書留帳」は津軽石川の鮭漁の歴史を古伝から1712年(正徳2)まで編年的に記述したもの。津軽石川には、弘法大師が津軽から持ってきた石を一夜の宿の礼として置いていった、その石を川に入れると毎年鮭の大漁がつづいたので、津軽石川と名を改めたという伝承が残る。南部鼻曲がり鮭の漁場として屈指の川。 ■1780年(安永9)庚子 81歳 ◇高橋子績の弟長房が、子績の「横山八幡宮回縁記」をもとに謡曲「八幡山」を著して奉納し、寺子屋の児童に教えて唄わせる。 ■1781年(安永10・天明1)辛丑 8月14日、高橋子績が宮古で死去、享年82。戒名は任叟道義居士。墓は常安寺にある。 ■1782年(天明2)壬寅 ◇閉伊街道(宮古街道)を開削した鞭牛和尚が死去、享年73。 ◇天明の大飢饉~1787年。 *盛岡藩内の餓死・病死者6万4000人余。杉田玄白に見聞記「後見草(のちみぐさ)」がある。全国的に発生した飢饉は、とくに東北地方で厳しく、宝暦・天明・天保の飢饉は東北の三大飢饉といわれる。 ■1783年(天明3)癸卯 7月6日(新暦8月5日)浅間山が大噴火。 *噴煙は成層圏に達して関東一円を覆い、太陽光線を遮って冷害をもたらした。とくに奥羽地方は大凶作に見舞われ、天明の大飢饉が深刻化。 ◇盛岡の俳人小野素郷が、光岸地の大杉神社境内に鴨墳の碑を建立。 *津軽石の俳人里川に誘われて鍬ヶ崎に遊び、夏保峠(夏暮峠)から港の夕景色を眺めて芭蕉の“海暮れて鴨の声ほのかに白し”を思い、碑を刻んだといわれる。1957年12月、市の史跡に指定。 ◇この年に長根寺の祐義和尚がつくった2句が残る。末尾の署名は 林月庵優義。“歳旦 ちかき頃より手習ふ児童乃師と頼まれ侍れば”と前書きして“まばゆきをおがめ拝せよはつ日影”、“歳暮 みどりなるもろもろの千才万歳を唱ふる御代にぞあれば”と前書きして“蓬莱山もよそでなし松迎ひ〉” ■1784年(天明4)甲辰 1月、横町から出火する大火が発生し、代官所・御蔵を含めて213軒が焼失。 2月、田町から出火し、田町・向町などを全焼。 ◇奥州大飢饉、餓死者10万人にのぼる。 ■1788年(天明8) 8月、京都落柿舎の重厚が僧の夜食房夜来とともに宮古を訪れる。 *重厚は宮古ゆかりの俳人の青灯下祇川〔せいとうげ・ぎせん〕や小野素郷と交友があった。鍬ヶ崎の大坂屋に泊まり、浄土ヶ浜で舟遊びをして句を詠んだ。“はつ潮の船とめてけり鍬ヶ崎”。はつ潮(初潮・初汐)は旧暦8月15日の大潮。夜来「奥の紀行」(南部叢書第6巻所収)にこの句は記されているという。 10月21日、長根寺の祐義和尚が死去、享年55。辞世“病みながら口はまめなり時雨の日”が墓碑に刻まれる。 ■1789年(寛政1) ◇寛政年間の市域は閉伊郡宮古通23村からなり、宮古通代官所に属した。 ■1793年(寛政5) ◇三陸沖で地震発生、津波が襲う。被害は軽微。 ■1795年(寛政7) 4月、金浜村で肝入武兵衛をはじめ漁民・百姓33人が、地頭船越氏の苛政に対して一揆を起こす。 *江山寺の観音堂脇に、この義挙を伝える寛政義人碑が明治初年に建立される。 ■1799年(寛政11) 10月、幕府は盛岡藩・弘前藩に東蝦夷地勤番を命じる。 ◇宮古代官に原芳忠が就任。 *原敬の先祖で、原家5代目。1752年(宝暦2)には4代原政芳が代官に就任。 ■1801年(享和1) ◇享和年間の宮古村は家数164。 10月1日、伊能忠敬が測量。 *9月29日の朝に山田村を出発、大沢・豊間根・津軽石・金浜・高浜・磯鶏の各村を通り、10月1日午後に鍬ヶ崎の宿に到着(測量日記)。時に56歳。 ■1802年(享和2) ◇6月、閉伊川が氾濫。 ■1804年(文化1) ◇日影町・金勢沢にある天沼矛神社は文化・文政期の創建とされる。 *東北特有の金精神を祀り、鍬ヶ崎花街の遊女などの信仰を集めた。 ■1807年(文化4) ◇花原市の華厳院に、エトロフ島事件でロシア軍に捕虜となった盛岡藩抱えの砲術師大村治五平が入寺。 ■1813年(文化10)癸酉 ◇宮古に大火が発生し、159軒が焼失。 ■1818年(文化15・文政1)戊寅 3月、新町はりま屋の隣の吉徳借家から出火し、新町・田町・向町・舟場など210軒が全焼。 *4月22日、文政と改元。 ■1822年(文政5) ◇現岩泉町の袰綿(ほろわた)村一揆指導者品右衛門・清兵衛が藤原刑場で斬首される。 ■1825年(文政8) 2月、異国船打払令が出される。 ◇長沢村一揆指導者の元右衛門らが藤原刑場で斬首される。 ■1826年(文政9) ◇長沢村で農民一揆が発生。 *長元地ノ神宮に指導者の元右衛門が義民として農神に祀られる。 ■1830年(天保1) ■1832年(天保3) 天保の大飢饉~1839年 *天保の大飢饉は7年続き、“七年けがづ”と呼ばれた。“けがづ”は飢渇の意。 ■1833年(天保4) 2月、田町の勇之丞家から出火し、代官所・御蔵を含めて宮古町が全焼。 ◇大凶作、大飢饉。 ■1834年(天保5) ◇熊野町の熊野神社が火災のため古文書・神具などを焼失。 *天和年間(1681~1684)の創建と伝え、現在の社殿は1852年に再興。別当の山根家は紀州から来たと伝えられ、その氏神が発展して熊野神社になったとされる。海の神、大漁神として篤く信仰され、オクマンサマ、オグマンサマと通称される。7月に曳船祭が催される。 ■1840年(天保11) ◇田代にある久昌寺の参道に、天保飢饉による餓死者供養塔が建立される。 ■1841年(天保12) ◇藤原の藤明神が、藤原比古神社となる。 *藤原の網師大井氏が神祇管領吉田家から神爾を勧請し、社号を受けたもの。 ■1847年(弘化4) ◇高浜に盛岡藩の塩田が設置される。 11月、弘化の三閉伊一揆が起きる。 *三閉伊通一揆ともいう。野田通・宮古通・大槌通の百姓・漁民ら1万2000人が切牛の弥五兵衛(万六とも)や田野畑の畠山多助らを中心として遠野へ強訴。 ■1850年(嘉永3) ◇黒森神社が再興される。 *現在の社殿。 ■1852年(嘉永5) ◇熊野神社が再興される。 *現在の社殿。 ◇鍬ヶ崎上町に、この年建立された筆塚が残る。 *寺子屋の子弟500人によって建立されたもの。 ■1853年(嘉永6)癸丑 5月19日、嘉永の三閉伊一揆が起きる。 *大凶作下の重税や役人の横暴など盛岡藩の失政に堪えかねた野田通・宮古通・大槌通の百姓・漁民ら1万6000人は、畠山多助・畠山喜蔵(田野畑村)・三浦命助(釜石市栗林村)らを中心として大一揆を起こし、仙台藩に越訴。宮古市域からは約680人が参加。 5月29日、三閉伊一揆が宮古に入る。 *以下、宮古市史年表から。この日、田老を出発して女遊戸川に集合。田代・佐羽根の百姓も加わって4160人となる。宮古代官所・野田代官所そのほか侍150人ほどが横町の入口を固めたが、それを破って宮古へ入った。 6月1日、三閉伊一揆は鍬ヶ崎勢も加わり、千徳へ行く。宮古の家一軒を壊し、宮古で泊まる。 6月2日、三閉伊一揆は津軽石を通り、山田の入口を固めた役人80人ほどを打ち破り、山田に泊まる。 *6月3日(新暦7月8日)アメリカのペリーが黒船4隻(東インド艦隊)を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求。 6月22日(新暦7月27日)盛岡藩は黒船来航にさいし防備を厳重にするよう非常指令を発する。 *盛岡藩“御領分七浦”の野辺地・田名部・七戸・五戸・野田・宮古・大槌は特に厳戒が指令された。 *7月18日(新暦8月22日)プチャーチンの率いるロシア艦隊4隻が長崎に来航。 ◇東北地方は大旱魃に見舞われる。盛岡藩の年収約24万石は、約6万9000石減って実収約17万石に落ち込む。 ■1855年(安政2)乙卯 ◇宮古に消防“いろは組”が創設される。 *1900年に消防いろは組創設碑が常安寺に建立される。 ■1856年(安政3) 7月23日、北海道南東部に大地震が発生し、津波が三陸沿岸を襲った。 *「三閉伊通津波災害記」が残る。江戸時代末期の三陸漁村の在り様を詳細に記録して貴重な資料とされる。 ■1859年(安政6)己未 1月、宮古の下町善兵衛の善宝丸が江戸交易の帰途暴風雨に遭い、70日余漂流して沖縄の多良間島に漂着。多良間の島民は水夫7人を介護して宮古島に送り、全員が無事帰郷した。 ■1860年(安政7・万延1) *3月18日改元 ◇鏡岩(光岸地、現宮古漁協ビルのある高台)に砲台を築く。 ■1864年(文久4・元治1)甲子 *2月20日改元 ◇宮古に大火が発生し、431軒が焼失。 ■1866年(慶応2) ◇十分之一役所は湊役所と改称。 ■1867年(慶応3) 11月16日、大政奉還。 12月9日、王政復古の宣言。 ■1868年(慶応4・明治1) 1月3日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が起こる。 *5月3日、奥羽越列藩同盟が成立。 6月3日、薩長政府軍の軍艦猛春が宮古に入港。 *仙台から盛岡に移動した奥羽鎮撫総督の九条道孝と連絡をとるため、猛春から使者が閉伊街道を盛岡に向かった。奥羽越列藩の徹底抗戦に対処する動きの一環である。九条道孝は盛岡藩の列藩同盟脱退を工作したが、盛岡藩はこれを聞き入れず、九条道孝は秋田藩へ向かう。総督府軍は1500人。 6月12日、猛春が出港。 *猛春は6月26日、鮫港(青森県八戸市)で座礁。 *8月20日、旧幕府海軍副総裁榎本武揚の率いる艦隊が江戸・品川を出航し、蝦夷地をめざす。 9月8日、改元。 9月15日、仙台藩が薩長政府軍に降伏。 9月21日、庄内藩の応援に向かう榎本艦隊の軍艦千代田形と輸送船長崎丸が宮古に寄港。 9月22日、会津藩が薩長政府軍に降伏。 10月1日、榎本艦隊の軍艦千代田形と輸送船長崎丸が出港。 10月9日、盛岡藩が薩長政府軍に降伏。 *盛岡藩は白石(宮城県)に転封となり、現宮古市域の村々は松代藩取締となる。 10月10日、薩長政府軍が盛岡に進駐。 *奥羽鎮撫総督府は宮古など領内津々浦々の代官所に入港上陸厳重取締令を発し、“旧幕脱艦……当領内へ来港、謝罪等申出ず乱暴狼藉致し候ふ節は……死力を尽くし防御せよ”と命令した。“旧幕脱艦”とは8月20日に品川を出航した榎本艦隊をさす。 10月13日昼過ぎ、蝦夷地をめざす榎本艦隊の旗艦開陽をはじめとする8隻が宮古に入港を開始。 *鍬ヶ崎の和泉屋に本陣を置く。燃料・食糧を補給。代官所・吟味応接方などは蒸気船開陽の威容に入港上陸厳重取締令も忘れ、榎本軍の指示に従った。 10月18日正午、榎本艦隊が宮古を出港。 *月山頂上に薩長政府軍艦隊の宮古寄港などを監視するための見張り小屋を設置した。 10月26日、榎本艦隊が箱館に入港、五稜郭を本営とする。 11月、山田湾に薩長政府軍の汽船2隻が入港、兵士が上陸し陸路で宮古に入る。 *山田湾は宮古港の南5里(20キロ)にある。上陸した薩長政府軍兵士は約880名。その行状は好ましくなく、無償で人員を徴用し物資を徴発したという。2日滞在して海岸沿いに北へ、青森の野辺地へ向かった。なお、このおり肺病を患っていた岡山藩士の小西周右衛門光信が宿舎の常安寺に残り、数日後に死去、同寺の公葬地に葬られる。 12月7日、太政官布告により陸奥の国が磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5国に分割され、宮古は陸中に属す。 ■1869年(明治2)己巳 3月16日午後、甲鉄を旗艦とする薩長政府軍の艦隊8隻のうち、軍艦の丁卯・陽春、輸送船の飛龍丸の3隻が宮古に入港。 3月18日、薩長政府軍艦隊の旗艦甲鉄が宮古に入港。 3月21日、薩長政府軍艦隊の輸送船晨風丸が宮古に入港し、艦隊全8隻が集結を終了する。 *前年の1868年1月、戊辰戦争が始まる。新政府に不満をもつ旧幕府軍は、榎本武揚を将として北海道箱館の五稜郭に立てこもり独自の政権を樹立、薩長政府に対抗した。薩長政府海軍はこれを討つため、この1869年3月9日に軍艦4隻(甲鉄・春日・丁卯・陽春)、輸送船4隻(戊辰丸・晨風丸・飛竜丸・豊安丸)を品川から出港させ、食糧などの補給のため16日から宮古港に集結しはじめた。榎本軍はこれを急襲して旗艦甲鉄を分捕るため、3月21日の零時過ぎに3隻の軍艦(回天・高雄・蟠竜)を箱館から出発させた。しかし、嵐のために蟠竜が遅れ、回天と高雄が24日に宮古を過ぎて集結予定地の山田港に入り、甲鉄が宮古港に停泊していることを確認する。 3月25日、日本最初の近代海戦である宮古港海戦が起こる。 *この日(新暦5月6日)早朝、榎本艦隊の回天・高雄が宮古港に停泊中の薩長政府軍艦隊を襲撃に向かう。機関の故障のため高雄が遅れ、回天1隻が宮古港に突入。回天は星条旗を掲げて薩長政府艦隊に接近し、日の丸にかえ、砲門を開いた。日本で唯一の鉄船甲鉄に近づいて接舷、抜刀隊が乗り移って白兵戦となる。しかし、ガットリング機関銃の応戦にあうなど甲賀源吾艦長以下多数の戦死者を出し、目的だった甲鉄分捕りの不可能を知って、回天は港外に脱出した。この間約30分ほど。 *“官艦七隻泊りこむだ処に、米国旗かゝげた回天艦が乗り込むで、一大血戦をやつた。鍬ケ崎辺の家には今も砲銃弾が残つて居る。戸板にのせて陸上に運ばるゝ血だらげの死骸や傷者(ておひ)を見た祖母(ばゝ)は、軍人(いくさにん)にはなるむでない、としばしば良平に語つた。”〈徳冨健次郎(蘆花)著『小説 寄生木(やどりぎ)』より。祖母の実名は“すま”、“良平”は原作者の小笠原善平〉 *薩長政府軍の春日丸に若き東郷平八郎、榎本艦隊の回天には新選組の土方歳三が乗っていた。 *宮古港海戦にかかわる遺跡をあげる。 Ⅰ.戦死した薩長政府軍の兵士4人を葬った官軍勇士墓碑(官修墓所)が愛宕にある。墓碑正面に戒名、側面に“長州・梅田梅之亟二十二歳、阿州・甚吉四十七歳、阿州・六助五十六歳、阿州・銀次郎三十六歳、明治二巳年三月二十五日各討死”と刻まれる。“阿州”は阿波国、いまの徳島県。 Ⅱ.藤原海岸に流れついた首なしの幕軍士官(姓名不詳)を葬った忠岳義剣居士碑が藤原観音堂脇にある。網元の大井要右衛門が建立したもので、“忠岳義剣居士/明治二年三月二十五日 軍人”とだけある。 Ⅲ.海戦に参加した東郷平八郎書の宮古港戦蹟碑が光岸地にある。 *のち30分のビデオ劇画「宮古港幕末・維新秘話」が制作され、市立図書館で貸し出す(制作年月日不詳)。また、常安寺に、海戦の前年末に五稜郭へ向かう薩長政府軍が立ち寄ったさい肺病で死亡した岡山藩士小西周右衛門の墓が残る。 5月18日、箱館の榎本武揚軍が薩長政府軍に降伏し、戊辰戦争が終わる。 8月7日、現市域の村々は江刺県の管轄となる。 9月、北海道の箱館が函館に改字。 ■1870年(明治3) 4月6日、田町・向町に大火が発生し、104戸が焼失。 11月、登米(とめ)県庁で三陸会議が開かれ、“三陸地方、起ラザル、其物品運輸ノ不便ニヨルナリ”と指摘される。 *登米県庁は、いまの宮城県遠田郡涌谷町にあった。 ■1871年(明治4)辛未 7月、測量艦の春日が入港。 *湾内を測量し、海図(原図)を作成。翌1872年10月2日、発行(近代海図の第3号)。 11月2日、宮古村が黒田(くろた)村を合併、戸数570。 11月2日、現市域の村々は盛岡県の管轄となる。 ◇閉伊街道の改修が5年計画で始まる。 ■1872年(明治5) 1月8日、盛岡県が岩手県と改称。 7月1日、宮古郵便扱所が本町に設置される。 10月2日、海軍水路局が「陸中国宮古港」を発行。 *前年に測量艦春日が測量したもので、近代海図の第3号とされる。ちなみに第1号は釜石港。 ◇横山八幡宮が郷社となる。 ■1873年(明治6)癸酉 *新暦1月1日(旧暦明治5年12月3日)この日から太陽暦に切り替える。 8月26日、宮古小学校が常安寺を仮校舎にして創立される。 *前年1872年(明治5)8月の学制頒布を受けたもので、鬼山親芳「評伝小国露堂」によれば、創立当初は宮古村第二番小学といった。その後、宮古小学・宮古尋常小学校と改称。 ◇この年、県内戸数9万2422、人口27万6079。 ■1875年(明治8) 8月、新晴橋が閉伊川・浜街道に新設される。 *のちの宮古橋。 9月30日、鍬ヶ崎小学校が小山坂に創立される。 9月30日、崎山小学校が念仏堂を仮校舎にして創立される。 9月30日、古里小学校が民家を仮校舎にして創立される。 ◇横山八幡宮に朱塗り・木製の大鳥居が建立される。 ■1876年(明治9) 1月15日、岩手県宮古警察出張所が設置される。 3月25日?、忠岳義剣居士の墓碑が建立される。 *宮古港海戦の旧幕府軍死者は水葬にされたが、その後、一体の首なし死体が藤原に打ち上げられ、藤原の網元が埋葬。この七回忌に忠岳義剣居士墓碑を建立。幕軍の墓とも呼ばれる。1979年7月、市の指定文化財(史跡)に指定される。 5月25日、宮城県気仙郡・青森県二戸郡を岩手県に編入し、現在の岩手県域が確定。 ■1877年(明治10) 10月12日、小国露堂が生まれる。 *新聞記者。北海道での石川啄木との交友で知られる。本名は善平。宮古での新聞発行に失敗して北海道に渡り硬派記者の生活を送る。1911年宮古に帰り「宮古新聞」を創刊。再び渡道、1927年に宮古へ戻り第2次「宮古新聞」を創刊。1952年2月4日死去、享年76。 ◇この年、宮古小学校の生徒数は男119・女58の計177人。 ■1879年(明治12) 1月4日、閉伊郡を東・西・南・北・中の5郡に分ける。現市域は東閉伊郡に所属し、宮古村に郡役所が置かれる。 ◇篠民三や菊池一族らが閉伊川の河口左岸の埋立工事を始める。 *県下初の公有水面埋立工事で、1882年竣工。 ■1880年(明治13) ◇鍬ヶ崎に大火が発生、320戸を焼失。 ■1881年(明治14)辛巳 6月5日、徳冨健次郎(蘆花)著『小説 寄生木』の原作者である小笠原善平が、下閉伊郡山口村(現・宮古市山口)に平民の父喜代助、母トキの次男として生まれる。 *1908年9月20日ピストル自殺。1969年6月5日、寄生木記念館が山口の慈眼寺門前に開館。 11月28日、重茂半島に英国商船ホルワルド・ホウ号が漂着して沈没、乗組員が救助される。 ■1882年(明治15)壬午 ◇宮古橋下あたりから閉伊川河口までの左岸埋め立てが終わり、船着場が完成、向町裏から光岸地まで市街地が拡張される。 ◇宮古と鍬ヶ崎とを結ぶ光岸地の切り通しが開かれる。 ■1883年(明治16)癸未 3月1日、光岸地の鏡岩台場跡に内務省地理局の宮古測候所が開設され、観測を開始。 *当時、東(中、北)閉伊郡宮古村字鏡岩。いまの漁協ビルのところで、1935年に鍬ヶ崎下町の館山に移転。 ■1887年(明治20) 3月24日、鍬ヶ崎派出所が設置される。 *小島俊一「陸中海岸風土記」に、明治20年3月に宮古警察署鍬ヶ崎派出所が鍬ヶ崎上町、いまの6分団屯所の地、通称小島の前に設置とある。 ■1888年(明治21) ◇沢田・横町に大火が発生し、200戸を焼失。 ◇早野民之助が塩竃(塩釜)とのあいだに定期航路を開く。のち函館への定期航路も開設。 4月25日、市制・町村制を公布。翌年4月1日施行。 ■1889年(明治22) 4月1日、町村制が施行される。東閉伊郡の現市域に、宮古町、鍬ヶ崎町、山口村(山口・近内・田代)、磯鶏村(磯鶏・小山田・八木沢・高浜・金浜)、千徳村(千徳・根市・花原市)、崎山村(崎山・崎鍬ヶ崎)、津軽石村(津軽石・赤前)、重茂村(重茂・音部)、花輪村(花輪・田鎖・松山・長沢・老木)が発足。 *宮古町の人口5192人、鍬ヶ崎町3635人。 4月1日、田老・乙部・末前・摂待の4村が合併し、新制の田老村が発足。 4月1日、茂市・蟇目・腹帯の3村が合併して新制の茂市村、刈屋・和井内の2村が合併して新制の刈屋村が発足。 *1955年(昭和30)2月1日に茂市村・刈屋村が合併して新里村となる。 ◇山田地方では山田村・飯岡村が合併して山田町となり、豊間根村・大沢村・織笠村・船越村が誕生。 ■1890年(明治23) 3月26日、宮古座で幻灯会。 *宮古座は芝居小屋で、いまの宮古信用金庫本店あたりにあったという。 11月1日、東北線の盛岡駅が開業。 *民営の日本鉄道会社。上野まで全通したが、直行便はなく、仙台乗り換え。 *宮古市史年表では前年1889年の項に“11月1日 東北線一関・盛岡間開通”とある。 ■1891年(明治24) ■1892年(明治25) 5月24日、新晴橋の架け替え工事が竣工し落成。 *のちの宮古橋。 6月21日、鉄道敷設法が公布され、国が建設すべき予定線に山田線が組み込まれる。 *山田線という名称は、このさいに終点が山田駅とされたため。 ◇常盤座が旧舘に開館。菊池長七経営。 ■1893年(明治26)癸巳 5月12日、郡司成忠(しげただ)海軍大尉が北海道警備を説いて報効義会を結成、千島列島の占守(シュムシュ)島へ向かう途中、宮古の藤原須賀に立ち寄る。郡司成忠は幸田露伴の兄。 *小笠原善平は東閉伊高等小学校の優等生として木銃を捧げ万歳を連呼した。“某月某日、今日は其郡司大尉が占守島行の途、宮古浦に立寄らるゝと云ふことで、校長の指揮の下に、良平は全校の生徒と木銃肩に、閉伊川口の南、此辺での天橋立と称ふる藤原の松原に往つた。附近の尋常小学生徒も集つた。松青々と雪を欺く沙原に旭日旗を立てゝ、大尉の舟今や来ると宮古湾口閉伊の岬の辺を見つめて居ると、やがて三艘の艇(ぼうと)があらはれて、浜に漕ぎ寄せ、髪は蓬(おどろ)に顔は日にやけた大尉が上陸して、生徒の中を通つて老松の下に設けられた席についた。良平は高等小学の優等生として勇んで一同と共に木銃を捧げ、郡司大尉万歳報効義会万歳を連呼した。大尉と其一行は挙手答礼した。それから大尉は松蔭に立つて一場の演説をしたが、こなたの生徒には声が聞えなかつた。其かはり満腔の熱心を以て内藤校長の作つた送郡司大尉歌を歌つた。”(徳冨健次郎『小説 寄生木』より)。“内藤校長”の本名は斎藤源五郎。 ■1894年(明治27) ■1895年(明治28) 4月17日、日清講和条約が締結され、日清戦争終わる 10月15日、水産補習学校が愛宕の宮古・鍬ヶ崎両組合立高等小学校内に附設・創設される。 *岩手県立水産学校・県立宮古水産高等学校の前身。のち藤原上に移転。藤原上は、いまの藤原1丁目。2丁目は藤原中、3丁目は藤原下にあたる。1943年(昭和18)磯鶏に移転。 ◇愛宕に日蓮宗の本照寺が開山。 *愛宕の名は愛宕神社に由来。 ■1896年(明治29) 6月15日、鍬ヶ崎小学校で幻灯会。 *ちょうど三陸大津波のときで、鍬ヶ崎小学校にいたため多くの人が助かった。 6月15日、午後7時30分ごろ、三陸沖で海底地震が発生、約45分後に大津波が三陸海岸に達した(明治三陸地震津波)。 *記念碑が蛸の浜の心公院境内、姉吉浜、常安寺などに建立されている。20分ほどの短時間に70里余を襲い、津波による死者約2万5000人、家屋の流失・全半壊は1万戸以上、船舶被害は約7000隻。鍬ヶ崎(人口3818人・戸数677)では波高8.4メートル、溺死128、流失家屋277、流失船舶276。市域の波高の最高は姉吉の18.9メートル。田老村で14.6メートル。田野畑村の羅賀は29メートル。気仙沼郡吉浜では24.4メートル。吉浜の多くの人々はその後、津波の危険を避けるため高台に移転したという。この災害を視察するため内務大臣・板垣退助らの一行が盛岡から人力車で閉伊街道を宮古へやってきたが、閉伊川筋の難所では人足が出動し、車の綱引き・後押しなどをして抜けたという。吉村昭「三陸海岸大津波」(中公文庫)は、この1896年の三陸大津波、1933年の三陸津波、1960年のチリ地震津波を描いた記録文学。 ■1897年(明治30) ◇郡制施行のための廃置統合により東閉伊郡は中閉伊郡・北閉伊郡と合併し、下閉伊郡となる。 *中閉伊郡は川井に、北閉伊郡は岩泉に郡役所があった。 ■1898年(明治31) ◇宮古~盛岡を客馬車が走る(宮古市史年表) ■1899年(明治32) 1月14日、善林寺が光岸地6番16号に開創。光岸山と号する。浄土真宗大谷派。 *月日は宮古市史年表により、“富山県氷見郡善林寺の寺籍を宮古に移転開基”とある。 ◇閉伊街道の改修が5年計画で始まる。 *1871年にも5年計画の改修工事がなされた。 ■1900年(明治33) 12月16日、鳥取春陽が刈屋(かりや)に生まれる。 *作曲家・歌手。本名貫一。14歳で上京、17歳から作曲を始め、1922年(大正11)に「籠の鳥」が大ヒット。日本初のレコード会社専属として活躍し3000曲以上の作品を残す。1932年(昭和7)1月16日死去、享年31。 ◇1855年(安政2)の消防いろは組創設を記念する石碑が常安寺に建立される。 ■1901年(明治34)辛丑 ◇新町(あらまち)の沢田盛五郎が花巻馬車を購入し、閉伊街道をはじめて盛岡の三五郎に引かせた。 *宮古市史年表には3年前の1898年(明治31)に客馬車が宮古~盛岡を走るとある。 ■1902年(明治35) 1月23日、青森歩兵第5連隊第2大隊が八甲田山へ雪中行軍を開始。 *199人の死者を出した日本最大の雪山遭難事件。山口村出身の3兵士が凍死し、同村の慈眼寺墓地に葬られる。 3月、魹ヶ埼(とどがさき)灯台が点灯。 *魹ヶ埼灯台は重茂(おもえ)半島の太平洋岸、本州最東端(東経142度4分34秒、北緯39度32分46秒)にある。1996年(平成8年)3月まで航路標識事務所の職員が常駐していたが、4月から無人化。なお、地名の魹ヶ崎では崎の字を使い、灯台名には魹ヶ埼灯台と埼の字を使っている。 12月、光岸地鏡岩の宮古測候所が新築される。 *洋風木造2階建の八角形庁舎として約60年のあいだ親しまれた。 ◇津軽石漁業組合が成立。 ■1903年(明治36) 9月、盛岡中学を3月に卒業した伊東圭一郎が磯鶏村小学校の代用教員として赴任。 *伊東圭一郎は啄木の同級生で、著書「人間啄木」に磯鶏村小学校赴任の記事が出ている。月給13円。半年で離任。磯鶏村は当時、下閉伊郡。 ■1904年(明治37) 8月21日、盛宮馬車の開業記念式(宮古市史年表) 8月30日、盛宮馬車が宮古で開業式(宮古市史年表) *鬼山親芳「評伝小国露堂」にはこうある。明治37年8月22日、盛岡~宮古に本格的な乗合馬車が開通。それまで徒歩で3日、腕車と呼ばれた人力車で5円を要して2日、海路塩釜経由で東北本線を利用して同じく2日がかりの旅程が、1日(12~14時間)に短縮された。宮古の実業家・菊池長右衛門が開設。開通半月後の9月6日に馬が暴れて崖から転落、4人が重軽傷を負うなど、しばしば転落事故を起こしたが、「陸の孤島」の宮古にとって馬車の開通は大きな朗報だった、とある。 ■1905年(明治38) 5月27日、東郷平八郎率いる日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を破る。 *日本海海戦。千徳村出身で、のち海軍少将・田老村長の高橋寿太郎は、この海戦のとき東郷艦隊の富士に乗り組んでいた。 7月、鮭の人工孵化場が赤前字御蔵に開設される。 *開設者は津軽石村の佐々木清助。これが宮古の鮭増殖事業の初め。 ■1906年(明治39) 5月1日、宮古~盛岡に乗合馬車が走り始める。 *日付は宮古市史年表による。森嘉兵衛「岩手近代百年史」によると、この年、盛宮馬車株式会社が設立され、6ヵ所に馬継所を置き、12時間で結んだ。 ■1907年(明治40) 3月21日、小学校令が改訂され、尋常小学校(義務教育)6年、高等小学校が2年または3年に。 ■1908年(明治41)戊申 4月6日、石川啄木が宮古の地を踏む。 *北海道放浪を切り上げて上京し創作活動に力を入れることを期した啄木は、4月3日に釧路新聞社を退社し、宮古経由の貨客汽船酒田川丸に乗船。酒田川丸は“三百四十九噸二、汚ない船だ”と4月3日の日記にある。「弓町より」には“四百噸足らずの襤褸船”とある。船賃は二等3円75銭。4日、石炭の積み込みに1日要して船上で過ごし、5日に釧路を出港。6日午後2時、宮古に入港。6時間の停泊中に上陸し、鍬ヶ崎の医師道又金吾を訪ね、盛岡中学の恩師だった富田小一郎の近情を聞いている。以下、「明治四十一年日誌」4月6日全文――“起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。/十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、黴の生えた様〔な〕空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮痛膏を顳顬〔こめかみ〕に貼つた女の家でウドンを喰ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習つて居た。芸者にするかと問へば、「何になりやんすだかす。」/夜九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を聞く。” 4月22日、“釜石で三陸汽船株式会社創立総会”と宮古市史年表にある。 *三陸汽船は宮古~塩竃(塩釜)に定期航路を開設。本社釜石、営業所塩竃、支社宮古。東北丸など7隻を所有。1943年(昭和18)戦時統合で栗林商船会社に吸収される。 9月20日午後、徳冨健次郎(蘆花)『小説 寄生木』の原作者小笠原善平が山口村の自宅でピストル自殺、享年28。 9月23日、小笠原善平の葬儀が慈眼寺で行われる。 *墓碑銘は乃木希典将軍の揮毫。 ◇浄土ヶ浜をふくむ臼木山が、それまでの国有林から鍬ヶ崎町有林となる *1924年(大正13)4月1日に宮古町と鍬ヶ崎町が合併し、宮古町有林となる。 ■1909年(明治42)己酉 2月10日、徳冨蘆花が海路で宮古を訪れ、小笠原善平の墓参と取材のため3日間山口の小笠原家に逗留。 2月13日、徳冨蘆花が宮古を出立。 *荷物用の馬橇に乗って吹雪の閉伊街道(宮古街道)を通る。川井で小休止し、川内で朝食をとり、大峠で盛岡から来た客用の馬橇に乗り換え、田代で昼食をとった。“閉伊川道中の冬はまことに寂しい。稀に見る街道の一ツ家に、男か女か分からぬ女の雪靴穿いて佇みながら熟(じっ)と橇目送(みおく)るのを見ると、人の世の寂しさが犇と胸にせまる”(蘆花「墓参の記」より) 12月8日、徳冨健次郎(蘆花)著『小説 寄生木』が警醒社書店から発行される。 ■1910年(明治43) 8月16日、閉伊川の洪水で、新晴橋(のちの宮古橋)と民家11戸が流失。 *20尺と宮古市史年表にある。20尺は約6メートル(30.3センチ×20)。 8月16日、築地~藤原の渡し船が始まる。 *渡し賃5厘と宮古市史年表にある。 ◇県水産試験場が設置される。 ■1911年(明治44) 9月3日、小国露堂が「宮古新聞」(第1次)を創刊。 *月3回の発行。1928年に第2次を創刊。 9月9日、閉伊川の鮭資源の保護のため、宮古漁業協同組合が小沢に人工孵化場を開設。 10月20日、常盤座で、宮古初の映画が上映される。 ■1912年(明治45・大正1) 4月3日、下閉伊郡物産館落成式(宮古市史年表) *公会堂も兼ねた。いまの市役所の位置で、のち市に払い下げられて市役所となり、1967年(昭和42)焼失。 6月、鍬ヶ崎の山根三郎が稲荷丸に着火式エンジンを設置。三陸沿岸における漁船動力化の初め。 6月24日、県内初の自動車の試運転が盛岡~宮古で行なわれる。 *「知る知る宮古」によると、原敬から山田線開通までの交通確保を託された菊池長右衛門が有志とともに行なった、という。 *7月30日改元 10月、盛宮自動車株式会社が発足。 *森嘉兵衛「岩手近代百年史」によると、宮古の菊池長右衛門が中心者、資本金5万円、盛岡~宮古6時間、運賃15円、一日1往復、日本のバスの先駆となる。 10月6日、盛宮自動車株式会社の創立総会が盛岡市で開かれる(宮古市史年表) ■1913年(大正2)癸丑 6月3日、盛宮自動車、試運転(宮古市史年表) 6月、盛宮自動車株式会社が営業を開始。 *「知る知る宮古」によると、開業時は客車(16人乗り)2台・トラック2台だった。このバス(乗合自動車)は東北初とも言われ、1934年(昭和9)11月6日の山田線宮古駅開業まで盛岡~宮古をつなぐ重要な足となった。 8月、大洪水で宮古橋が流失。 9月8日、熊谷平助らが宮古銀行を設立。資本金50万円。 *日付は宮古市史年表に従う。3月3日説もあり。 ■1914年(大正3) 6月23日、新渡戸稲造が宮古町公会堂で講演。東京帝大法科専任教授の新渡戸は、下閉伊郡教育部会の講師として閉伊街道を人力車で来宮。講演会は午後1時~3時、聴衆600人。 6月24日、新渡戸稲造は刈屋村を視察。村人に請われ、小学校で「自由の精神」について100人の聴衆に語りかける。 6月25日早朝、新渡戸稲造は盛宮自動車会社の10人乗りバスで盛岡に向かう途中、路肩が崩れ、岩手県下初の交通事故に巻き込まれる。 ■1915年(大正4) 9月、宮古港開港300年を記念する石碑(宮古開港記念碑)が常安寺門前の天満宮境内に建立される。 *のち、境内の移動にともない市役所向かい側の三角地帯・宮古送水場の庭に移転。 ■1916年(大正5) 8月、原敬の「句帖」大正5年8月の作に“宮古より今朝漁せし初鰹なりとて、自動車にて送り越したれば”と前書きし、“初鰹二十六里の一とはしり”とあるという。ちなみに、原敬は宮古を訪れたことはないらしい。 10月26日、政友会一行が閉伊街道で自動車事故に遭う。 *森嘉兵衛「岩手近代百年史」によると、一行15人は東海岸遊説の帰途に盛宮自動車を利用、盛岡の20㎞手前で転覆して14人が重軽傷を負った。原敬は「如何にも意外の惨事なりしなり。宮古盛岡間二十六里、自動車開通したるは誠に便利なれども、運転上不注意の点ありと見え、開通後これにて三回の椿事なり」と日記に書いている。 11月1日、盛岡~宮古に電話が開設される、通話料25銭。(宮古市史年表) *宮古地方の電話番号1番は鍬ヶ崎の道又医院だという。 ◇港湾整備のため鍬ヶ崎町が埋立工事を行なう。~1917年 ■1917年(大正6) 3月、菊池長右エ門が、宮古港戦蹟碑を別邸の対鏡閣に建立。題字は、この海戦に官軍士官として参加した東郷平八郎。 *のち、大杉神社の境内に移す。 7月、宮沢賢治が花巻町有志による東海岸視察団に加わって宮古を訪れ、“うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ”と詠む。 ◇鍬ヶ崎の埋立工事が終わる。 ◇臼木山の火事で3町歩余を焼失。 ■1918年(大正7) 4月、蟇目の山林から出火し、花輪・千徳へ延焼、花原市の華厳院を含め144戸が焼失。 9月29日、原敬が第19代内閣総理大臣に就任し、山田線敷設が促進される。 *“平民宰相”として親しまれる。 10月23日、関口花涯「都桑案内」刊行。 *「都桑案内」は合併する前の宮古町・鍬ヶ崎町を紹介した小冊子。発行小成書店、印刷花坂活版所、定価35銭。宮古観光案内の先駆的な試みで、岩手県立図書館に1冊保存されている。関口花涯は本名全平。旧舘、いまの愛宕の人。ちなみに宮古町と鍬ヶ崎町の合併は1924年(大正13)4月1日。 ■1919年(大正8) 4月1日、県立宮古商業高等学校が創立される。 *開校記念日は4月15日。 ◇山田線着工。?1921年10月? ◇近内小学校が創立される。 *1984年、千徳小学校に統合。 ■1920年(大正9) 7月、山田線敷設案が貴族院を通過。 ◇宮古館が片桁に開館。 ■1921年(大正10) 10月、山田線の建設が始まる。?1919年? 11月4日、原敬首相が国鉄大塚駅職員に東京駅で刺殺される。 12月16日、山峡(やまかい)の歌人・西塔幸子=大村かう(こう)が磯鶏の尋常高等小学校へ赴任。 *夫の西塔庄太郎もまた鍬ヶ崎の尋常高等小学校へ赴任。 ■1922年(大正11) 7月、西塔幸子が宮古館で開催された慈善音楽会で独唱。 11月13日、和井内村の狐と湯守りの話が「岩手毎日新聞」に載る。 11月、西塔幸子が藤原で類焼の難にあう。 ◇三陸縦貫鉄道が予定線に組み込まれる。 *三陸鉄道が開業するのは遅れに遅れて1984年4月1日のこと。 ◇鳥取春陽の「籠の鳥」が大ヒット。 *刈屋(かりや)出身の作曲家・歌手。 ■1923年(大正12) 3月23日、宮古町立宮古実科高等女学校が創立。 *所在地は現在の第一中学校の場所か? 宮古高等学校の前身で、宮古高等学校は創立の日をこの日としている。 10月10日、山田線のうち盛岡~上盛岡~上米内駅の9.9kmが開業。 ■1924年(大正13) 4月1日、下閉伊郡宮古町と同郡鍬ヶ崎町が合併し、新制の宮古町が成立。 *宮古町の人口9193人、鍬ヶ崎町5387人。 9月、宮古町立図書館が宮古小学校に開設される。 ◇縄文時代の遺跡である崎山貝塚で、はじめての発掘調査が行なわれる。 *1996年7月16日に国の史跡として指定 ■1925年(大正14) ◇“この年 山田庄助所有地を埋立てキクヤ町設定”と宮古市史年表にある。 ◇狩猟法が改正され、ニホンカモシカが狩猟獣から保護獣となる。 ■1926年(大正15・昭和1) 5月~11月頃、田圃を埋め立てて八幡沖(現在の末広町)が開かれる。 ◇駒井雅三・菊池三和ら文学結社の未耕社を創立し、同人誌「骨」を創刊。 *12月25日、昭和と改元。 ■1927年(昭和2) 10月、宮古港が内務省の第2種重要港湾に指定される。 ◇宮古町営による鍬ヶ崎の前須賀・角カ浜の埋立工事が完成。 10月23日、未耕社の主催で「徳冨翁追悼文芸講演会」が開催される。徳冨翁とは『小説 寄生木』の著者となった徳冨健次郎(蘆花)のことで、9月18日死去(享年60)、同月23日葬儀。9月23日は原作者小笠原善平の葬儀の日でもあった。 ◇駒井雅三が写真研究所を開設。 ■1928年(昭和3) 5月8日、宮古銀行が岩手銀行に合併される。 5月27日、伝染病隔離病舎が完成。 *いまの市立図書館の付近。宮町の山口川のほとり。 10月23日、小国露堂が「宮古新聞」(第2次)を創刊。 *第1次は1911年。 ■1929年(昭和4) 4月、内務省の第2種港湾修築計画による工事が宮古港で始まる。 *1937年に竜神崎防波堤、出崎埠頭の一部などが完成。近代港湾の形を整える。 5月25日、築地―白浜に定期船が運航を開始(市史年表)。 *定期船(巡航船)は白浜丸。2001年(平成13)3月20日、愛宕小学校白浜分校の閉校とともに廃止。 8月15日、宮古町立宮古実科高等女学校が岩手県立宮古高等女学校となる。 *所在地は現在の第一中学校の場所。 8月19日、飛行船ツェッペリン号が宮古沖を南進。 *ドイツの巨大飛行船ツェッペリン伯爵号は1929年8月7日、乗客20人を乗せてアメリカを飛び立ち、わずかに霞ヶ浦(8月19日)、ロサンゼルスとニュージャージー州レークハーストに停まっただけで完全な世界一周をなしとげた。平均時速110Km、ドイツから東京までわずか99時間40分だった。東京ではサイレンが鳴り、人々は空を見上げた。1928年建造、全長235m、ガスの体積は1億505万5490リットル。9年の稼働期間に、世界一周をなしとげたほか、大西洋を139回横断。 ■1930年(昭和5) ■1931年(昭和6) 8月、高村光太郎が宮古など三陸沿岸を訪れ、10月?に「時事新報」夕刊に「三陸廻り」を書く。 *“宮古は成程古い由緒ある町だと、一歩外を歩けばすぐ思う。落ちついた、深い、風格ある古典の町だ。むし暑い夜空の下で夜店の市の立つ大通りへ、その夜は行って人を見る。「トマト下さんせ」というような声が不思議にみやびだ。/極度に夏に弱い私が夏に負けなくなった。三陸の潮風と魚介とが私の中で渦をまき、羽ばたいている”云々。 ■1932年(昭和7) 1月16日、鳥取春陽が死去、享年31。 *刈屋(かりや)出身の作曲家・歌手。1900年(明治33)12月16日生まれ。本名貫一。14歳で上京、17歳から作曲を始め、1922年(大正11)に「籠の鳥」が大ヒット。日本初のレコード会社専属として活躍し3000曲以上の作品を残す。 ■1933年(昭和8) 3月3日、午前2時31分ごろ、三陸沖でマグニチュード8.1の大地震が発生。午前3時ごろ、大津波が襲来(三陸地震津波)。 *三陸沿岸の津波による被害は死者・行方不明者3064人、家屋の流失4034戸・倒壊1817戸・浸水4018戸。岩手県沿岸の死者・行方不明者2671。宮古町は死者2・負傷者5・流失家屋15、宮古橋も流失。磯鶏(そけい)村は死者2・負傷者6・流失家屋7。田老村は死者・行方不明者911・一家全滅66世帯・流失家屋345と壊滅的な被害を受けた。田老万里の長城と呼ばれる大防潮堤の建築が始まったのは翌1934年(昭和9)3月、完成は1958年(昭和33)3月3日のこと。この年以後に建立されたと推定される大津波記念碑が重茂の姉吉・市道脇にある。建立者は姉吉部落。碑文には上段に“高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に 家を建てるな”、下段に“明治廿九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し生存者僅か前二人後に四人のみ幾歳経るとも要心何従(なにより)”とある。吉村昭の作品に、この大津波などを扱った「三陸海岸大津波」がある。 3月?日、八分団を新設。 4月26日、浄土ヶ浜遊覧道路の開通式が行なわれる。 4月、駅前通り、第2幹線が完成。 6月、田老村の大防潮堤に着工。 7月23日、宮古の最高気温37.3度を記録。(2003年現在) ◇大杉神社が旧舘(愛宕)から現在の光岸地青葉遊園に移転。 *境内に宮古港戦蹟碑、鴨墳の碑、織部灯籠、忠魂碑があり、宮古湾、月山などが一望できる。 8月18日、第2トキワ座(第二常盤座)が開館。 11月30日、山田線が川井まで開通。 ■1934年(昭和9)甲戌 1月、鍬ヶ崎出身の伊東祐治の小説「葱の花と馬」が「中央公論」1月号に掲載される。 *早稲田大学在学中の1933年、中央公論社の第2回文壇アンデパンダンに入選。「葱の花と馬」は日影町・日影の沢を舞台に、銭湯の不動園や実在の人物をモデルにしている。吉川英治の書生になったが、23歳で死去。1935年10月10日、文芸誌「白蛾」伊東祐治追悼記念号が発行される。 3月、田老村で防潮堤の築造が始まる。 5月6日、宮古区裁判所が八幡前に完成。 6月30日、浄土ヶ浜に宮古湾海戦記念碑を建立。 *宮古市史年表による。1968年(昭和43)3月7日に宮古港海戦記念碑が浄土ヶ浜の御台場展望台入口に建立されているが、これとは別か。 11月6日、山田線が宮古まで開通。 *宮古駅・千徳駅・蟇目駅・茂市駅・腹帯駅がオープンし、盛岡~宮古が全通。盛岡~宮古の所要時間は3時間50分。盛岡~宮古~釜石の山田線157.7kmが全通したのは1939年9月17日だった。 11月25日、現在の宮古橋が開通。 *宮古橋は旧名を新晴橋といい、木造で明治初期に架設したが何度も津波や洪水で流された。宮古市史年表に1875年(明治8)8月“浜街道宮古村閉伊川に新橋を架し、新晴橋と称する”、1892年5月24日“県費で架替え工事、三六九四円”とある。1933年3月3日の三陸大津波で流されたのを機に、鉄筋コンクリート製の永久橋化に着手。全長195.6m。歩道部は1965年に増設され、幅は両側各1.5m。車道部は1987年に改修、幅6m。国道45号が通っていたが、1975年、下流側すぐそばに完成した宮古大橋に切り替えられた。 12月26日、八幡通りを設定。 ◇角力浜が埋め立てられる。 ◇浄土ヶ浜に朝日会館が完成。 ◇この年、東北地方を冷害が襲い大凶作。岩手は平年作の54%減で51万4850石、小学校の欠食児童9000人。トチやナラの実、大根の干し葉などを食べて飢えをしのぎ、娘を都会に身売りする農家も少なくなかった。 ■1935年(昭和10)乙亥 8月22日、山口川が氾濫。 8月、吉川英治が愛宕の本照寺に滞在。 *吉川英治の妹が本照寺住職関口養隆の弟と結婚していた縁。「宮本武蔵」や「新・平家物語」などで知られる吉川英治は、この年に日本青年文化協会を設立し、機関紙「青年太陽」を刊行する。かたわら、青年の意識啓蒙のため全国を講演。その一環として倉田百三・白鳥省吾らとともに宮古を訪れ、宮古・津軽石・山田などで講演を行なった。1998年3月、この折に詠んだ“寺を出て寺までかへる盆の月”の句碑が愛宕小学校に建立される。 9月26日、岩手県沖で第四艦隊事件発生。 *演習のため臨時編成された第四艦隊が大型台風に遭遇し、艦艇のほとんどが損傷。駆逐艦“睦月”艦橋破壊、“初雪”“夕霧”艦首切断そのほかで、死者54人。 10月10日、文芸誌「白蛾」伊東祐治追悼記念号が発行される。 11月17日、山田線の宮古より南、磯鶏駅・津軽石駅・豊間根駅・陸中山田駅が開業。 *宮古駅~陸中山田駅は26.5km。山田町の山田小学校で開かれた山田線開通祝賀会には“女啄木”西塔幸子が招かれて講演をしている。 12月24日、東半球唯一の日出島クロコシジロウミツバメ繁殖地が国の天然記念物に指定される。 *日出島は軍艦島とも呼ばれ、周囲は1800メートル、最高部50メートル、面積1万2395平方メートルで市最大の島。 ■1936年(昭和11) 4月1日、愛宕小学校が独立・開校。 *正式には愛宕尋常小学校。それまでは宮古尋常高等小学校の分教場だった。 5月16日、ラサ工業が対鏡閣を買収し、鉄索・鉱石貯蔵庫を建設。 *宮古市史年表による。10月26日の記事と矛盾するか。 6月22日、“女啄木”西塔幸子が死去、享年は数え37歳、満35歳。 7月23日、宮古測候所が、光岸地の鏡岩から、鍬ヶ崎下町の館山に移転。 *日付は宮古市史年表による。 10月2日、ラサ工業田老鉱山が田老~宮古の鉄索を運転開始。 *田老鉱山は1971年(昭和46)閉山。 10月26日、山田線の視察を兼ねて秩父宮が来訪、鍬ヶ崎上町にあった対鏡閣に宿泊し、津軽石川などを視察。 ■1937年(昭和12) 4月30日、宮古町役場「宮古港」発行。 8月22日、“女啄木”西塔幸子の遺稿歌集「山峡」(やまかい)出版。 ◇宮古港の竜神崎防波堤、出崎埠頭の一部などが完成。 ■1938年(昭和13) 7月15日、山口川が氾濫。 *宮古市史年表によると、梅雨の豪雨で増水し黒田町50戸が浸水。 9月1日、洪水。 *宮古市史年表によると、600戸浸水。 ◇この頃、山口川の切替え工事が始まる。 9月28日、山口川の切替え工事で一字橋・一石橋が竣工。 *12月14日、岩泉町の龍泉洞が国の天然記念物に指定される。高知県の龍河洞、山口県の秋芳洞と並び日本3大鍾乳洞の1つ。 ■1939年(昭和14)己卯 1月13日未明、宮古駅前が全半焼。 6月17日、ラサ工業㈱宮古精錬所の開所式。 *このころ、八幡前にラサ職員社宅が竣工。 6月17日、軍艦多摩が宮古港に入港。 9月7日、潮吹穴・ローソク岩が国の天然記念物に指定される。 9月17日、盛岡駅~宮古駅~釜石駅を結ぶ山田線157.7kmが全通。 *盛岡~宮古駅の開通は1934年11月6日。 10月2日、大同製鋼㈱宮古工場の落成式。(市史年表) *のちの日本電工。千徳、現在の上鼻2丁目で特殊鋼を生産。 11月9日、県立宮古高等女学校の増築地鎮祭が行なわれる。 *講堂・理科室・音楽室・寄宿舎を増築。 ◇角力浜で岩手窯業宮古工場が創業。 *耐火煉瓦を生産。 ■1940年(昭和15) 7月、国立宮古海員養成所が設立される。 *1952年8月、宮古海員学校と改称。 10月1日、ラサ工業㈱宮古精錬所と田老鉱山が一元化。 ■1941年(昭和16)辛巳 2月11日、宮古市が誕生。 *宮古町と山口・千徳・磯鶏の3村が合併し市制を敷く。宮古4505戸・山口647戸・磯鶏683戸・千徳286戸、計6121戸。人口3万3182人。 *3月1日、国民学校令が公布される。小学校は国民学校と改称。 3月、宮古鉄道診療所が開設される。 *1970年8月に廃止。 4月、市立商業学校が開校。 5月、初の市長選挙。 6月20日、一般公募による宮古市紋章 、宮古市民歌が制定される。 7月23日、宮古の最大風速22メートル/秒を記録。(2004年12月現在) 12月8日、太平洋戦争が始まる。 ■1942年(昭和17) 2月21日、宮古の最低気温マイナス14℃を記録。(2004年12月現在) 3月、横山八幡宮の拝殿が起工される。 6月25日、小本線(のち岩泉線)のうち茂市駅~岩手和井内駅10kmが開通。 この年、支庁が廃止され下閉伊地方事務所が設置される。 作家の吉屋信子が宮古に来訪、浄土ヶ浜で句を詠み、色紙を石川亭に残す。「旅人の指も染まらん海の色」 ■1943年(昭和18) 4月1日 岩手県立宮古中学校(旧制)創立。 7月、市立警防団本部が設置される。 7月、暴風雨、宮古で雨量238ミリ。 9月、岩手県立水産学校が大字磯鶏第12地割字仏沢163番地に校舎を新築し移転。 *いまの県立宮古水産高等学校で、現住所は磯鶏3丁目9番1号。 11月22日、宮古駅~宮古港駅の2.0kmに貨物専用の臨港線が開業。 ◇三陸汽船が栗林商船に吸収合併される。 ■1944年(昭和19)甲申 3月10日、田老村が町制を施行し、下閉伊郡田老町が発足。 3月11日、未明に積雪で第2常盤座の屋根が落ちる。怪我人なし。 3月12日、宮古の最深積雪101センチを記録。(2004年12月現在) 3月12日、午前8時7分、記録的な豪雪のなか、SL(蒸気機関車)C58283 に牽引された山田線の下り貨物列車が平津戸~川内の小滝鉄橋で脱線し閉伊川に転落。 *雪崩で橋脚が谷底に傾いていたためだが、瀕死の重傷を負った加藤岩蔵機関士は軽傷の前田悌二機関助手(宮古市泉町出身)に事故の報告を指示。前田機関助手は猛吹雪のなか平津戸駅にたどりついて救助を求めた。加藤機関士は救助隊が到着したのを見届けて死亡。1960年3月8日公開の映画「大いなる旅路」(関川秀雄監督・新藤兼人脚本)のモデルとなり、1972年11月、宮古駅構内に記念碑“超我の碑”が建立される。なお上記の経過は碑文と若干異なる。 4月、市立女子商業学校が創立。 6月、横山八幡宮の社殿が6月に新築される。 10月、宮古保健所が設置される。 この年、国防婦人会が結成される。 ■1945年(昭和20) 4月15日、横山八幡宮に石製の大鳥居が建立される。 7月、釜石、米軍の艦砲射撃を受ける。 7月14日、宮古市が初の空襲を受け、魹ヶ埼灯台が被災。 8月9日・10日、米軍の艦載機による機銃掃射・爆撃を受け藤原が全焼、向町の舟場付近、鍬ヶ崎の煉瓦工場(日立浜)付近が類焼し、焼失家屋387戸におよぶ。 8月15日、敗戦。 8月22日、山田線閉伊川鉄橋が修復・開通。 8月、市長選挙。 9月19日、進駐軍50人が“ほりた”と海員養成所に駐屯。 この年、農地改革が実施される。宮古地方病院が創立。 ■1946年(昭和21) 11月、進駐軍が宮古から撤退。 この年、山田線山菜取り臨時列車運行。新円切替。宮古体育協会が設置される。市立女子商業学校が県立宮古高等女学校に吸収される。 ■1947年(昭和22) 4月、市立第一中学校が創立。 ◇市立第二中学校が創立し、愛宕中学校が第二中学校の愛宕分室として創立。 4月、初の公選による市長選挙、市議会議員選挙。 6月1日、“引揚者連盟経営引揚者マーケット七十店開業”と宮古市史年表にある。 *戦争引揚者の救済策として末広町の中屋が提供した土地に市場が誕生した。場所は宮古駅前交差点の北東角地。外地からの引揚者数は524人・219世帯にのぼった。 8月、宮古労働基準監督署が設置される。 9月14日、キャスリーン台風が関東地方を襲う。 9月15日~16日、キャスリーン台風が来襲。 *キャスリン、キャサリン、カスリーン、カサリン、カザリンとも表記される。閉伊川が氾濫し、家屋の流失10戸・倒壊4戸・浸水2393戸の被害を出した。山田線は松草~蟇目(ひきめ)間48キロで63個所が寸断される。宮古市史年表には“9月15日 キャサリン台風で閉伊川四・五メートル出水、浸水多数”とある。 9月、宮古市警防団が消防団と改称。新学制(6・3・3制)施行、新制中学校が開校。 12月、山田で大火が発生、520戸を焼失。 ■1948年(昭和23) 3月、宮古市自治警察署が設置される。 9月15日~17日、アイオン台風が来襲。 *近内川・山口川・閉伊川などが氾濫。被害は県内で藤原地区が最もひどく、宮古の死者92人・負傷者172人・家屋流失171戸にのぼった。宮古市史年表には“9月15日 アイオン台風 宮古橋で水位6メートル、藤原二五〇戸流失、浸水宮古全域、船の流失六〇隻、山田線寸断”とある。国鉄山田線は、まだ前年のキャスリーン台風被災の復旧半ばで、平津戸~蟇目の約45キロが寸断された。山田線復旧期成同盟会が結成され、本格的な復旧工事が1952年2月に始まる。1954年11月に全線が復旧し、宮古では3日間にわたって祝賀行事が繰り広げられた。 この年、青年学校が廃止された。宮古中学校が宮古第一高等学校に、高等女学校が宮古第二高等学校に、水産学校が水産高等学校と改称。 ■1949年(昭和24) 1月、宮古小学校が火災。 4月1日 学制改革により、岩手県立宮古第一高等学校と第二高等学校を併合し、岩手県立宮古高等学校と改称。 宮古第一、第二高等学校が統合され宮古高等学校に 5月6日、宮古小学校の校歌を作曲した橋本国彦が死去、享年44。 8月、藤原保育所が開設。市立診療所が開業 9月1日、キティ台風が襲来。 9月21日、菊池信一市長が死去。 10月、市長選挙。 10月、三陸海岸が県立公園に指定される。 ◇魚卸売市場を宮古湾漁業協同組合連合会が開設。 ◇山田線復旧期成同盟会が結成される。 ■1950年(昭和25) 4月8日、第二中学校の愛宕分室が愛宕中学校として独立。 5月、市長選挙。 6月、米軍の空襲で被災した魹ヶ埼灯台が復旧。 ◇末広通りに「すずらん燈」を設置。 ◇毎日新聞社主催「新日本観光百選」海岸の部で三陸フィヨルドが第2位になる。 ◇宮古水産高等学校が三陸水産高等学校と改称。 ◇宮古地方病院、宮古共済病院が県立病院として発足。 ■1951年(昭和26) 1月、宮古港が港湾法による重要港湾に指定され、第2期修築工事が始まる。 8月、宮古市福祉事務所が設置。 9月、水道工事に着手。 9月、宮古港の修築第2期工事に着手、宮古臨港線が延長。 ◇花輪橋が完成。 *千徳と花輪と千徳とを結んで閉伊川に架橋。1960年、永久橋に架け替えられる。 ■1952年(昭和27) 2月4日、「宮古新聞」を創刊した小国露堂が死去、享年76。 *辞世“我れ死なば石碑はいらず大石に名もなき者の墓と書くべし” 2月、山田線の本格的復旧工事が始まる。 2月、病害虫防除所が置かれた。 4月、小百合幼稚園が開園。 4月、三陸水産高等学校が宮古水産高等学校と改称。 8月、国立の宮古海員養成所が宮古海員学校と改称される。 *海員養成所は1940年7月の設立。 8月、盛岡宮古間県道が2級国道106号に昇格。 8月、水道の給水開始、1439戸。 11月、カムチャッカ沖地震で津波発生。 11月、宮古市教育委員会が設置。 11月、宮古港が出入国管理令による出入国港に指定される。 12月13日、聖ペトロ宮古カトリック教会献堂式が行なわれる。 ◇「三陸観光音頭」コロムビアより発売。 *駒井雅三作詞 ■1953年(昭和28) 4月、宮古港が木材輸入港に指定される。水揚高7億4000万円。 この年、宮古市の戸数7749、人口4万4024。 ◇リラホールが開館。 ■1954年(昭和29)甲午 3月10日、田老町の町民歌が制定される。 *宮古高等学校の校歌を作曲した本田幸八の作曲、宮古出身の駒井雅三の作詞になる。 4月、高浜中学校が廃止され、河南中学校を創立。 4月5日、浄土ヶ浜が県の名勝に指定される(岩手県指定名勝第1号)。 7月1日、宮古港が開港場に指定される。出崎埠頭の1万トン岸壁化工事に着手。 9月14日、山口川の蓋かけ工事が始まる。 *第1期工事で黒田町の交番から高橋まで。第2期は1955年2月6日に着工。いまの中央通り。 9月23日、宮古高校に体育館が完成。 *2010年8月、解体。 11月21日、山田線の復旧が完了し全通式・旗行列が行なわれる。 *復旧まで7年を要した。宮古では3日間にわたって祝賀行事が繰り広げられる。 ■1955年(昭和30)乙未 2月1日、茂市村・刈屋村が合併して新里村となる。 2月6日、山口川の蓋かけ第2期工事が始まる。 *高橋から宮古館の前まで。 3月?、下閉伊郡の山田町と船越・織笠・大沢・豊間根の4村が合併し、新制の山田町が誕生。 4月1日、宮古市に下閉伊郡の崎山・津軽石・重茂・花輪の4村を編入。 5月2日、浄土ヶ浜を中心に普代村から釜石市の沿岸が陸中海岸国立公園に指定される。 7月、浄土ヶ浜・北山崎の陸中海岸国立公園記念切手が発行される。 8月8日、熊野町の鍬ヶ崎児童遊園にある暦応の碑が、市の史跡に指定される。 *高さ1.05×幅0.65メートルの自然石製。梵字1字が刻まれ、下に“暦応三年七月十五日”と小刻される。当時(1340年ごろ)天台真言密教が流布していた事実を示す資料。建立者は閉伊地方の地頭だった河北閉伊一族と推定されている。 9月30日、陸中海岸国立公園指定記念切手の「浄土ヶ浜」10円と「山崎」5円が発売された。 10月8日、国際劇場と第一映画劇場(宮古東映)が開館。 10月、中央公民館が開館。 ◇十二神山の頂きにアメリカ軍のレーダー基地が設置される。 *十二神山は、宮古市と山田町との境界にあり、重茂半島最高の山で標高731メートル。1958年に航空自衛隊に移管され、許可がないと登ることはできない。 ◇駒井雅三・田村忠博・中屋孝一ら「宮古映画新聞」を創刊。 ◇「葱の花と馬 伊東祐治――その人と作品」を市立図書館なぎさ会が刊行。 ■1956年(昭和31) 4月11日、老木にある根城館跡が市の史跡に指定される。 *源為朝の三男・閉伊頼基が鎌倉幕府からこの地を安堵され、1190年に築いたと伝えられる。標高120メートルほどの山頂を切り拓いて設けた山城で、現在は八幡神社が建つ。 5月24日、売春防止法が公布される。施行は1957年4月1日。 8月5日、七夕祭りが始まる。 *宮古市史年表に“商店街、初の七夕祭、八十軒参加”とある。末広町商店街振興組合のHPに載っている「末広町の歩み」には“昭和30年からは七夕祭りを導入して町に活気を呼び戻しました”とある。 9月、宮古港が大豆輸入港に指定される。 9月、津軽石に駒形橋が落成、159m。 ■1957年(昭和32) 4月1日、売春防止法が施行される。 9月2日、宮古小学校で完全給食が始まる。 9月19日、黄金さんま(燻製)を小島祐三が考案・販売。 10月29日、宮古の一日最大降水量285.4ミリを記録。(2003年5月現在) 12月25日、宮古第一中学校の校庭にある“逆さ公孫樹”が市の天然記念物(植物)に指定される。指定名称は単に“公孫樹”。 12月25日、鴨墳の碑が市の史跡に指定される。 *光岸地の大杉神社境内にあり、芭蕉の句“海暮れて鴨の声ほのかに白し”が刻まれる。1783年に盛岡の俳人小野素郷が鍬ヶ崎に来遊、暮れゆく港を夏保峠(夏暮峠)から眺めて芭蕉の遺詠を思い、建立したといわれる。 12月25日、織部灯籠が市の史跡に指定される。 *大杉神社の境内にあり、高さ約60センチ。慶長年間(1596~1614)に豊臣秀吉の家来の古田織部正が創案したといわれる。 ◇映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督、佐田啓二・高峰秀子主演、松竹)公開。 *“おいら岬の灯台守は~”で始まる主題歌はよく知られている。田中キヨの手記をもとにつくられた映画で、田中夫婦は魹ヶ埼灯台で7年間過ごし、手記には宮古でのエピソードが数多く書かれている。映画のなかに魹ヶ埼灯台は登場しないが、石狩灯台が舞台になっている出産時のエピソードなどは魹ヶ埼灯台にいたときのものだったという。魹ヶ崎の高さ30メートルの断崖上に記念碑が建てられている。 ◇この年、アララギ派歌人の土屋文明が宮古を訪れ、つぎの歌を残している。 岡の上の建物白し朝よひに聞きなじみある宮古測候所 ■1958年(昭和33) 3月3日、田老町で1934年(昭和9)に着工した防潮堤が竣工。 *二重目の防潮堤は1979年(昭和54)完成。高さ10m・総延長2433mという世界に類例のない規模の大防潮堤で、“田老万里の長城”と呼ばれる。 3月、宮古森林組合が設立。 4月1日、売春禁止法が施行される。 7月20日、盛岡宮古間海水浴臨時列車(ディーゼル車)くろしお号が運転される。 ◇この頃、閉伊川の小山田~八幡前に仮橋が架けられ、渡しの繰り舟が廃止。(長澤武夫「おらがどうの町 八幡前」) ◇十二神山山頂のレーダー基地が、アメリカ軍から航空自衛隊に移管される。 ■1959年(昭和34) 3月27日、平和都市を宣言。 10月11日、宮古地方を集中豪雨が襲う。 *田老町では581.2mmを記録し、家屋536戸が浸水。宮古の1時間の最大降水量63.6ミリを記録(2003年5月現在)。宮古市史年表には“10月10日 田老に集中豪雨”とある。 ■1960年(昭和35)庚子 1月中旬、川井村で、1944年3月の山田線貨物列車脱線事故をモデルにした映画「大いなる旅路」のロケが始まる~2月1日。関川秀雄監督、新藤兼人脚本、三国連太郎主演。 2月6日、宮古カトリック教会へスイスから“愛の鐘”が贈られる。 *宮古市年表には“平和の鐘”とある。 3月8日、映画「大いなる旅路」(関川秀雄監督・新藤兼人脚本・東映)封切り。 4月4日、花輪橋が永久橋に架け替えられ、落成式。 *全長272メートル。 4月18日、宮古湾漁業協同組合連合会の魚市場が落成。 *1949年に開設した魚市場を新築。 5月24日、午前3時30分ごろ、チリ地震津波が襲う。 *5月23日に南米チリ沖で発生した地震による津波が、翌24日に日本へ到達し、三陸沿岸では5メートル以上を記録。被害の大きかった高浜に“外国地震でも津波が来る”と刻まれた津波碑がある。宮古市史年表には“高浜小学校全壊、磯鶏~津軽石間不通、被害十億円”とある。田老町の高さ10メートル・総延長3キロ余の防潮堤は、この津波を食い止めた。日本全体で死者・行方不明者は142人、家屋の全半壊は約3500戸にのぼった。 10月22日、“魚菜市場が篠田町に開店、五十店”と宮古市史年表にある。 11月15日、山田線にディーゼル車が導入される。 *3両編成。宮古市史年表には“二往復、盛岡へ四十五分短縮”とある。1961年2月1日に盛岡~宮古が全面ディーゼル化。1970年3月1日に山田線全線がディーゼル化。 11月23日、“宮古小学校屋内体操場完工落成式”と宮古市史年表にある。 *体育館のことだろう。 ◇駒井雅三、文化印刷を創立。 ◇リラホールが閉館。 ◇大洋映画劇場、鍬ヶ崎に開館。 ■1961年(昭和36) 2月1日、山田線の盛岡~宮古が全面ディーゼル化。 2月1日、NHKテレビ宮古中継所が月山に完成。 5月29日、昼過ぎ、三陸フェーン大火が発生。 *戦後最大の林野火災。新里村の炭焼き小屋から出火して飛び火。2日後の31日午後7時50分に鎮火。田老町で町の2分の1以上にあたる58.6平方キロ、家屋519棟(640世帯)を焼失。宮古では崎山地区で死者2人・負傷者77人、家屋の全焼81戸、崎山小学校箱石分校焼失など。“魔の火”と呼ばれた。 9月18日、愛宕中学校が中里に校舎を新築し移転。 10月1日、宮古港が検疫港に指定され、宮古検疫出張所が開所。 12月20日、国鉄山田線の花原市駅が無人駅として開業。 ■1962年(昭和37) 2月、宮古市衛生処理場(し尿)完成。 2月、県合同庁舎が完成。 3月30日、宮古高等学校野球部が第34回選抜高等学校野球大会に初出場。 *延長15回、松山商業に4対3で敗れる。 4月18日、赤前にある推定樹齢200年の辛夷(コブシ)が市の天然記念物に指定される。 4月23日、三陸縦貫国道45号が1級国道になる。 11月、山口地区土地区画整理事業に着手。 ■1963年(昭和38) 4月1日 岩手県立宮古高等学校全日制課程の家庭科・商業科が宮古商業高等学校として独立。 4月、海上保安庁宮古支署が開所。 12月21日、教科書無償措置法が公布される。 12月24日、黒森神楽の獅子頭のうち最古の年紀(文明17年=1485年)をもつ1頭と無銘で運慶作と伝えられる1頭の計2頭が県の有形文化財(彫刻)に指定される。 *1983年12月に14頭が追加指定。黒森神楽で奉ずる獅子頭は南北朝時代から現代までのもの22頭がある。 ◇高浜・金浜など宮古湾沿いに防潮堤が完成。 ◇2級国道106号が1級国道に昇格。 ■1964年(昭和39) 3月、宮古市衛生処理場(塵芥)完成。 3月、津軽石公民館が完成。 3月9日、浄土ヶ浜の中の浜キャンプ場が閉鎖。 *宮古市史年表には“混雑のため崎山に移転”とあり、翌1965年7月11日に“崎山中の浜キャンプ場開き”とある。 3月28日、中里団地で落成式を開催。 5月19日、月山に自衛隊のジェット戦闘機F86Fセイバーが激突。 6月1日、陸中海岸国立公園の指定区域(普代村~釜石市)が宮城県気仙沼市まで延長。 8月8日、IBCテレビ中継所が月山に完成。 *宮古市史年表では8月1日“月山の岩手放送宮古TV局本放送開始”とある。 9月15日、1万トン岸壁竣工、木材港起工(市史年表) *木材港は神林 9月23日、NHK盛岡カラーTV放送開始(市史年表) 10月1日、東海道新幹線開通。 10月10日、東京オリンピック大会が始まる。 ■1965年(昭和40) 3月、中里団地が完成。 3月21日、山田線に準急リアス、五葉、そとやま運行開始。 4月10日、舘ヶ崎展望台が完成。 *鉄筋2階建て。 7月1日、住居表示の変更。 *八幡前(通称)が宮町1丁目・2丁目となる。南町を設置。八幡沖が末広町となる。中里団地に住居表示を施行。 7月17日、宮古小学校でプール開き。 *創立70周年記念 9月23日、田老町に町営国民宿舎の三王閣がオープン。 ■1966年(昭和41)丙午 3月、養護老人ホーム清寿荘が完成。 4月1日、青森県の黒石市と姉妹都市のちぎりを結ぶ。 ⇒1976年 *黒石市は1656年に弘前藩祖津軽為信の孫の信英が弘前藩から分知、1809年には一万石の黒石藩となった。1954年7月、青森県4番目の市として市制施行。黒石米・りんごの産地、津軽系こけし発祥の地であり、黒石よされ、黒石ねぷた祭り、日本の道百選に選ばれた小見世(こみせ)のある街としても有名。 4月1日、教科書の無償配布を実施。 *教科書無償措置法が公布されたのは1963年12月21日。 5月14日、宮古小学校の逆ピラミッド校舎が完成。 6月4日、藤原に津波防波堤が完成。 11月、宮古警察署が落成。 11月16日、宮古港が北米太平洋岸定期船寄港地に指定される。 11月30日、西町に西公園が開園。 ◇鍬ヶ崎の大洋映画劇場が閉館。 ■1967年(昭和42) 3月、陸中海岸国立公園管理事務所が完成。 3月、足立ベニヤ宮古工場が完成。 8月22日、宮古下閉伊食肉処理場が近内川の上流に完成。 9月9日、千徳小学校温水プール開き。(宮古市史年表) 10月、宮古漁協ビルが完成。 11月5日、市役所が半焼。 11月6日、消防署に救急車を配置。 12月4日、黒森山がモミの木の北限と確認される。 *岩手県文化財専門委員会と宮古市教育委員会の調査による。 ◇駒井雅三「日刊陸中タイムス」創刊。 ■1968年(昭和43) 3月、牛伏橋、長沢橋が完成。 3月、山口地区土地区画整理事業が完成。 3月7日、宮古港海戦記念碑が浄土ヶ浜の御台場展望台の入口に建立される。 *明治100年を記念するもので、題字は鈴木善幸元首相。 3月26日、魚菜市場が緑ヶ丘5番17号にオープン。 3月31日、神林木材港竣工。 *宮古市史年表によったが、1967年(昭和42)8月5日の項に、“木材港指定後第一船第六雲海丸ラワン材陸揚げ”とある。 5月16日、十勝沖地震で津波が襲来。 *午前9時48分、三陸沖でM7.9の地震が発生し、宮古の震度4、宮古湾で206cmの津波を観測、人的被害はなし。宮古市史年表に“湾内のラワン材散乱”とある。全国の死者・行方不明者は52人、全壊家屋673戸。気象庁は、この地震を“1968年十勝沖地震”と命名。 7月、宮古夏祭りが始まる。 *それまで個別に行われていた花火大会、大杉神社の例大祭が一つにまとめられた。 9月、消防署に救急車が配置される。 9月、北米太平洋定期船の第1船が入港。 9月、“1968年9月”に撮影された“藤原海岸埋め立て工事始まる”と標記された写真が吉田幸一写真集「北部陸中海岸紀行1948~1975年」(2006年2月20日・私家版)にある。砂浜の沖が防潮堤で囲まれ、防潮堤はテトラポッドで囲まれている。 10月、宮古港が植物防疫港・木材輸入港に指定される。 11月、横浜植物防疫所宮古出張所が開所。 11月1日、“本州最東端の碑”が、魹ヶ崎に建てられる。 11月25日、「長根寺物語」が新山賢蔵・沢内勇三の共編で長根寺から発行される。 ◇宮古東映が閉館。 ■1969年(昭和44)己酉 2月23日、市内電話がダイヤル式に自動化。 4月、市営診療所・公益質屋が閉鎖。 4月、黒森山で1970年岩手国体開催の記念植樹祭。 4月20日、浄土ヶ浜の遊覧船によるうみねこの餌付けが始まる。 6月5日、寄生木記念館が山口の慈眼寺門前に開館。 *建物は、旧制盛岡中学校図書庫。石川啄木が“学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず”と歌った。旧制盛岡中学校図書庫から、盛岡赤十字病院の書庫として利用されたのち、山口に移築された。 6月8日、藤原埠頭の起工式が行なわれる。 *4万トン岸壁、5ヵ年計画、総経費13億円。 10月、赤前に市営球場が完成。 ■1970年(昭和45) 2月28日、蒸気機関車が山田線から姿を消す。 3月1日、釜石―宮古がディーゼル化し、山田線全線ディーゼル化がなる。 6月18日、国道106号の宮古~花原市が舗装を完了。 6月、加藤病院が保久田8番37号に開院(いまの西館)。 7月、吉村昭の「海の壁――三陸沿岸大津波」(中公新書)が刊行される。 8月12日、ジャズ・ピアニスト本田竹広のリサイタルを開催。 9月7日、第25回国民体育大会岩手夏季大会が始まる。 *国体 10月10日、第25回国民体育大会岩手秋季大会が始まる。 *国体 ■1971年(昭和46) 1月、市役所新庁舎が起工。 1月、国道45号の宮古(崎山)~田老が開通。 1月22日、陸中海岸国立公園の指定区域が久慈市まで伸び、現在の園域(宮城県気仙沼市~岩手県久慈市)となる。 2月、宮古第一中学校の改築落成。 2月、仙台入国管理事務所宮古港出張所が開所。 3月、山口川に八幡橋が完成。 4月1日、宮町3丁目・4丁目に住居表示が施行される。 4月、小山田保育所・勤労青少年ホーム・岩手県沿岸精神薄弱児施設組合はまゆり学園がオープン。 秋、第一常盤座が閉館。 10月、陸中衛生処理組合し尿処理場が完成。 10月、ラサ工業・足立ベニヤ・日本電工・吉野石膏と公害防止協定を締結。 11月、ラサ工業田老鉱山が閉山。 *宮古市史年表では9月20日“ラサ工業田老鉱業所事業不振で閉山”とある。山根英郎「湾頭の譜」に、この年“ラサ工業田老鉱山の銅の鉱脈が枯れて閉山したので、四筋の鉄索の鋼線が三十二年ぶりに取り払われ”たとある。 ◇浄土ヶ浜の朝日会館が解体される。 *高床式での畳敷きだったという。翌年、跡地にレストハウスが建てられた。 ■1972年(昭和47)壬子 2月6日、国鉄小本線が岩泉駅まで延伸し、名称を岩泉線に変更。 2月27日、国鉄宮古線が宮古~田老の12.8kmを結んで開通。 *一の渡駅・佐羽根駅・田老駅が開業。3駅とも現在無人。1984年4月1日、三陸鉄道に転換。 4月3日、浄土ヶ浜レストハウスが開業。 4月12日、浄土ヶ浜~蛸の浜のトンネルが開通。 4月、誘致企業のスタンダード工業㈱が創業。 4月、田代保育所・田代保健福祉館が開設。 6月20日、市役所新庁舎が新川町2番1号に竣工。 7月8日、新庁舎落成記念・市制施行30周年記念式典。 8月、チューリップが浄土ヶ浜野外ステージでのコンサートに出演? 10月15日、国道45号の全線開通式。(宮古市史年表) *全線舗装、仙台~青森516キロメートル。 11月20日、“超我の碑”が宮古駅に建立される。 *建立者は宮古ロータリークラブ。碑文は“昭和19年3月12日、この地方には珍しい豪雪のさなか、山田線を宮古へ向かっていた機関車C58283は、平津戸、川内間で雪崩に逢い脱線転覆した。この時、責任感の強い加藤岩蔵機関士は瀕死の重傷を負い乍ら自分に構わず、この事故を最寄りの駅に知らせるよう前田悌二機関助士に指示した。前田助士は、その命令に従ったが、ことの外の積雪の為進路を失い且つ又、加藤機関士の身を案ずる余り再び現場に戻り、厳寒の中で自分の着衣を機関士に着せ必死の看護に当った。しかし、その甲斐もなく救援隊到着の時は已に尊い生命は奪われていたという。正にこの行為は超我と友愛の精神によるものであり、我々の理想とする処でもある。よってそのナンバープレートを刻み、2人の行為を永遠に伝えようとするものである。” 11月19日、陸中海岸唯一のゴルフ場として、宮古カントリークラブが崎山にオープン。 ◇小山田橋の永久橋化に着工。 *完成は1978年11月。 ■1973年(昭和48) 1月3日、津軽石川で宮古鮭まつりが始まる。 *津軽石川は南部鼻曲がり鮭の宝庫。 2月11日、宮古市の花:ハマギク、木:アカマツ、鳥:ウミネコが制定される。 2月、磯鶏地区土地区画整理事業に着手。 3月、八幡公園が完成。 4月16日、県立宮古工業高等学校が開校・入学式。 4月、臼木山に愛鳥の森が完成。 4月、老人福祉センター・勤労青少年体育センター開設。 4月、誘致企業のヒロセ電機㈱が創業。 6月25日、3人組のフォークグループN.S.Pがシングル「さようなら」でレコードデビューし、大ヒット。メンバーの中村貴之が宮古市出身。 8月13日、埠頭工事で藤原と磯鶏の海水浴場が消滅(宮古市史年表) *海水浴場は開けなくなったが、このころはまだ砂浜の大部分が残っていたのではないかと思われる。 8月15日、夏の成人式を開始。 10月、宮古市史編纂事業に着手。 10月、陸中衛生処理組合崎山清掃工場が操業を開始。 10月、閉伊川緑地公園が完成。 ◇宮古館が閉館。 ■1974年(昭和49) 3月26日、「宮古のあゆみ」刊行。 4月21日、閉伊川河川敷がサッカー、ラグビー場に利用される。 4月23日、宮古国民休暇村がオープン。 5月、中川原地区土地区画整理事業が完成。 5月、牛伏橋が完成。 6月20日、浄土ヶ浜ターミナルビルが落成。 11月16日、宮古大橋が完成。 ◇1859年1月に前年から76日間漂流を続けた宮古の下町善兵衛の商船善宝丸が沖縄の多良間島に漂着、島民の手厚い保護を受けて無事に帰還したという史実が宮古の郷土史研究家の手で発見される。 *市は1976年11月に多良間村に報恩之碑を建立し、児童生徒の交流学習などを実施。1996年2月、交流が始まって20年を機に姉妹市村を締結。翌97年6月に姉妹市村締結記念之碑を市役所前に建立。 *多良間村は宮古諸島宮古島の西方、八重山諸島石垣島の北東に位置し、多良間島と水納島からなる。沖縄県宮古郡に属する。亜熱帯気候で、年平均気温は23℃。1913年2月、村制を施行。旧暦8月8日~10日(9月下旬)の3日間、重税に苦しんだ農民が豊穣を祈って踊ったという八月踊りを開催。宮古から製糖工場に出稼ぎに行っている人たちもいるとのこと。 ■1975年(昭和50) 3月4日、舘合近隣公園にある経塚の碑が県の史跡に指定される。 *一石一字塚とも呼ばれ、“五部大経 一石一字 雲公成之 永和第二”と刻まれる。“永和第二”は1376年で、建立紀年の明確な石碑としては日本で最古のひとつ。 3月20日~21日、大雨で死者1人。 3月31日、市民文化会館起工式。 4月2日、閉伊川河口の築地~藤原をむすぶ渡し船が姿を消す。 4月2日、第1回おでんせ市が中央通りで開かれる。 4月、宮古ビジターセンターが崎山に完成。 *環境庁が陸中海岸の自然を学ぶ施設として設置、1992年4月に改装。 6月19日、特別養護老人ホーム慈苑が崎山早稲栃に落成。 ◇フライ旗祭りが末広通りで始まる。 ◇山口百恵が宮古小学校体育館でコンサート。 ■1976年(昭和51)丙辰 1月1日、宮古の漢学者高橋子績の著した「沢内風土記」が、沢内村郷土史研究会から沢内村郷土史シリーズ第9集として翻刻される。解題・訳注・口語訳・あとがきなどは泉川正(黒沢尻北高校教諭)。 ⇒1763年 4月、高浜保育所が開設。 4月、青森県黒石市との姉妹都市締結10周年記念碑が市役所前に建立される。 *碑文には一戸千徳氏が浅瀬石(黒石)を治めた時代があったこと、黒石の浅瀬石川の石を丸長川(いまの津軽石川)に投げ込んだところ鮭が溯上するようになったことなど、姉妹都市締結にいたった“歴史的有縁”が刻まれている。ちなみに津軽石川には、弘法大師が津軽から持ってきた石を一夜の宿の礼として置いていった、その石を川に入れると毎年鮭の大漁がつづいたので、津軽石川と名を改めたという伝承が残る。南部鼻曲がり鮭の漁場として屈指の川。 11月3日、宮古市民文化会館が磯鶏沖2番22号に開館。 *この場所には磯鶏小学校があった。 11月26日、宮古市は1859年1月に宮古の船が沖縄・多良間村に漂着して村民に救助された恩に報いる“報恩之碑”を多良間村に建立。 ■1977年(昭和52) 4月、佐原保育所が開設。 *障害児保育も開始。 4月、第2わかたけ学園が落成。 4月、八木沢団地が完成。 4月、公共下水道事業に着手。 5月1日、月刊タウン誌「みやこわが町」が陸中タイムス社から創刊される。 5月7日、藤原埠頭の4万トン岸壁が完成。 7月1日、浄土ヶ浜有料道路(県営)が開通。 10月22日、国土交通省がこの日付で撮影された航空写真を所蔵・公開している。 *藤原・磯鶏を見ると、藤原埠頭が完成し、磯鶏駅前のあたりの浜まではすでに埋め立てられているが、磯鶏の南の浜はまだ残っている。 ◇重茂に鮭の孵化場が開設される。 ■1978年(昭和53)戊午 3月31日、岩手県立宮古高等学校全日制課程の田老分校が宮古北高等学校として独立。 4月、磯鶏保育所・働く婦人の家が開所。 11月、国道106号線の改良工事が終了。 11月1日、岩手県北バスが106急行バスの運行を開始、宮古~盛岡を約2時間で結ぶ。 11月29日、小山田橋が開通。 *閉伊川に架かる。鉄筋コンクリート製。長さ271m・幅12m。工費10億円。それまでの人と自転車しか通れない木橋は風情があった。走って渡ると大きく揺れた。 ■1979年(昭和54) 3月19日、暴力追放都市を宣言。 4月、県の合同庁舎が五月町に移転し、跡地を市役所分庁舎とする。 4月6日、宮古港を見下ろす光岸地・宮古漁業協同組合ビルの前に“啄木寄港の地”の石碑が建てられる。 *啄木が釧路の新聞社を辞めて上京の途中に宮古に立ち寄ったのは1908年4月6日。母と妻子を北海道に残し、文学的命運をかけた船旅だった。碑には「明治四十一年日誌」4月6日当日の全文が刻まれている。建立者は“宮古港に啄木碑を建てる会”で、のち宮古啄木会と改称。石はアフリカ産の黒御影、書体は朝日新聞社本社の新聞活字体。 4月29日、駒井雅三の第一歌集「ふるさとの海」刊行。 *72歳にして最初の歌集。 4月下旬、浄土ヶ浜まつりが始まる。 *ゴールデンウィークの5月5日にかけての土日・祝日に開催。 6月17日、吉川保正(きっかわ・やすまさ)の“うみねこと乙女の像”(ブロンズ像)が重茂の追切に建立される。 *のち1999年7月、岩手インターハイ(高校総体)開催を機に宮古駅前広場に移された。吉川保正は1893年(明治26)6月、重茂に生まれる。旧制盛岡中学、東京美術学校(いまの東京芸大)彫刻科を経て、1921年(大正10)彫刻“少女立像”で帝展に初入選。1929(昭和4)年から盛岡に定住。県立短期大学講師や文化財保護審議会委員などを歴任。1977年(昭和52)84歳で“うみねこと乙女の像”を制作、最後の作品となる。1984年(昭和59)死去、享年91。 7月24日、長根寺の参道にある幻住庵祇川反古塚が市の文化財に指定される。 7月、常安寺にある官軍兵士の墓、愛宕にある官軍勇士之墓、藤原にある忠岳義剣居士墓碑(幕軍勇士之墓)が市の文化財(史跡)に指定される。 *日本最初の洋式海戦といわれる宮古港海戦の前年、五稜郭攻撃に向かう新政府軍が立ち寄ったさい病死した岡山藩士小西周右衛門の墓と、海戦で戦死した新政府軍兵士4人を葬った墓、藤原浜に打ち上げられた旧幕府軍の首なし死体を葬った墓。 7月、国立北日本栽培漁業センターが女遊戸(おなつぺ)に完成。 ◇この年、宮古市魚市場の水揚げ高は104億6000万円。3年連続して100億円を突破し、県内第1位となる。 ◇田老町に高さ10m・総延長2433mの“田老万里の長城”と呼ばれる大防潮堤が完成⇒1958年 ■1980年(昭和55) 4月1日、宮町公民館が設置される。 4月、市立はまゆり養護学校が開校。 6月、長雨、冷害のため米作が皆無。 7月17日、鈴木善幸が総理大臣となり組閣。 *6月12日に急死した大平首相の後を引き継ぐ。山田町に生まれ、宮古の県立水産学校を卒業。 8月、藤原小学校にプールが完成。 12月24日・25日、暴風雪。 *漁業・林業の被害24億7000万円。 ◇津軽石川が鮭の河川水揚げ日本一となる。 ■1981年(昭和56) 2月21日、西ヶ丘団地の起工式。 2月、藤原小学校に体育館が完成。 3月3日、駒井雅三の小説「岩水時代」上巻が刊行される。 3月、田老町に全町を網羅する防災行政無線が完成。 *2000年(平成12)に戸別無線機を設置。 5月2日、市制施行40周年記念式典。 5月、金浜老人福祉センターが開所。 6月5日、菊池宮古市長が急逝。 7月9日、ラサ工業宮古工場が銅鉱精錬所を㈱合同資源産業に譲渡。 *半導体関係の部品洗浄などに業態を変える。 8月23日、台風15号で重軽傷者3人。 8月、岩泉町茂師でモシリュウの化石が発見される。 *日本初の本格的な恐竜の化石の発見。 9月26日・27日、台風20号で死者3人・重軽傷者3人、被害総額19億4000万円。 10月29日、消防本部が五月町2番1号に竣工。 10月、井上ひさし「吉里吉里人」刊行。 11月4日、三陸鉄道株式会社が設立される。 11月、西ヶ丘団地の第1期分譲を開始。 12月19日、宮古地方森林組合事務所が舘合町に完成。 12月、舘合近隣公園が完成。 ■1982年(昭和57) 3月、三陸鉄道の早期完成を願う一石署名運動が展開される。 4月中旬、“さけ稚魚壮行会”が津軽石川と閉伊川で始まる。 *市の魚である鮭に対する知識の高揚、情操教育の推進などを目的とした放流事業。 4月、身体障害者福祉センターがオープン。 6月10日、早池峰国定公園が設置される。 6月23日、東北新幹線の盛岡~大宮が開業。 6月30日、映画館の第二常盤座が閉館。 *宮古市史年表では第二トキワ座と表記。 7月12日、市保健センターが開業。 7月、休日急患診療所で診療が開始される。 9月、鈴木善幸内閣総理大臣が郷土入り。 秋、天候不良による稲作不稔障害が発生。 11月、帆船海王丸が入港。 ■1983年(昭和58) 3月、水道第5次拡張事業の千徳第1送水場管理本館が完成。 4月1日、宮古市立図書館が宮町3丁目2番2号に新築・移転。 *1924年(大正13)宮古町立図書館として宮古小学校内に創設。1952年(昭和27)旧館の警察署別棟に教育委員会とともに移転し、その一室を使用。?年?月?日、保久田4番に移転。1978年(昭和53)11月1日に宮町の裁判所跡に移転を開始し、12月1日に開館。 6月・7月、異常低温。 *水稲が4年連続不作。 7月1日、千徳駅が住民の労力奉仕で改築され、民衆駅となる。 *日付は宮古市史年表より。駅舎入口に掲げる“千徳民衆駅”の木額には、1983年(昭和58)6月吉日とある。 8月10日、国道106号宮古バイパスの長町2丁目~宮町4丁目が開通。 8月、重茂小学校にプールが完成。 10月24日、長沢にある霊山十三仏と岩屋が市の史跡に指定される。 *神倉から長沢川を2キロほど溯った南川目にある霊山十三仏は、鞭牛が復興し、岩屋とともに新たに開山したとされる。十三仏の上流に岩穴があり、入口に“長沢の南の又の岩の穴本来空の住みかなりけり“と刻んだ碑がある。鞭牛の道路開削を示す南川目・北川目の石碑群は、鞭牛碑群として1991年7月に市の有形文化財に指定される。 12月13日、黒森神楽の獅子頭のうち14頭が、1963年12月の2頭に加えて県の有形文化財(彫刻)に追加指定される。 ◇日陰暢年(ひかげ・のぶとし)が第13回世界柔道選手権大会で優勝。 *1985年第14回世界柔道選手権大会78㎏級で優勝、2004年アテネ・オリンピック全日本女子柔道コーチに就任。 ■1984年(昭和59) 1月28日、千徳小学校の西ヶ丘校舎が落成。 *千徳町から西ヶ丘に移転。 1月31日、山田線の貨物列車が最後の運行。 *1986年(昭和61)10月31日か? 2月1日、臨港線(宮古駅~宮古港駅、貨物線)廃止。 2月、八幡上の橋が山口川に完成。 *いまの市立図書館の前。 3月18日、近内小学校が閉校式を行なう。 3月23日、千徳小学校が閉校式を行なう。 *4月3日、西が丘校舎で開校式。 4月1日、三陸鉄道が営業を開始。 *日本初の第3セクター方式として注目を浴びる。国鉄の久慈線(久慈~普代26km)、宮古線(宮古~田老12.8km)、盛線(盛~吉浜21.5km)が第3セクター・三陸鉄道に転換し、レールが全線繋がったのは1983年12月22日。 4月3日、千徳小学校・近内小学校の統合した新しい千徳小学校が西ヶ丘校舎で開校式を行なう。 4月27日、重茂半島の十二神山の東斜面が自然観察教育林に指定される。 *指定したのは林野庁。太平洋沿岸に残された最も自然度の高い森林。 4月、佐藤祐司作の牧庵鞭牛和尚の像(ブロンズ製)が新川町の国道106号沿いに建立される。 *7月か? 宮古ライオンズクラブが設立20周年記念事業に、国道106号宮古バイパス開通を記念して建立した。佐藤祐司は盛岡市出身で、彫刻家船越保武の一番弟子。 7月26日、4192mの国道106号宮古バイパスが全通。 8月10日、吉村昭の「三陸海岸大津波」(中公文庫)刊行。 *原題「海の壁――三陸沿岸大津波」中公新書1970年7月刊 11月6日、山田線開業50周年。 11月7日、徳冨健次郎(蘆花)著『小説 寄生木』岩波文庫版の第4刷が発行される。 11月13日、「宮古市の石碑」(宮古市教育委員会編)発行。 12月22日、千徳中学校が宮古西中学校と改称。 ◇「宮古市史 資料集 近世1」(宮古市教育委員会編)発行。 ◇日陰暢年(ひかげ・のぶとし)が第14回世界柔道選手権大会78㎏級で優勝。 ■1985年(昭和60) 1月、崎山小学校に体育館が完成。 3月、千鶏小学校川代分校が閉校。 4月13日、田老町に大規模年金保養基地のグリーンピア田老がオープン。 5月、赤前に空中消火等補給基地が開設。 6月、一般廃棄物最終処理場が落成。 6月5日、駒井雅三が死去、享年79。 8月、宮古西中学校にプールが完成。 9月14日~15日、みやこ秋まつり(陸中宮古青年会議所主催)が始まる。 *船出車の運行と手踊りパレードが行なわれる。1994年から、13日に前夜祭が行なわれている。 11月3日、日蔭暢年選手に市民栄誉賞第1号が贈られる。 11月30日、津軽石川で、又兵衛の碑の除幕式が行なわれる。 12月18日、「宮古市史 資料集 近世2」(宮古市教育委員会編)発行。 ■1986年(昭和61) 2月11日、鮭が宮古市の魚として制定される。 3月20日、非核平和都市を宣言。 4月11日、宮古駅の貨物駅が廃止される。 4月17日、帆船日本丸が宮古港に初入港。 *運輸省航海訓練所の大型帆船。翌日の県立水産科学館開館を記念して入港。 4月18日、県立水産科学館が日立浜町に開館。 4月19日、重茂半島の十二神山の東斜面が森林浴の森・日本100選に選ばれる。 *キャンプ場も整備され、美しい渓流と渓谷のなかで森林浴を楽しむことができる。 4月25日、市営の野外活動センターが田代にオープン。 5月20日、合同資源産業の宮古精錬所が操業を停止。 *いわゆるラサ工業のサイレン、通称ポーが廃止されたのは、このときか。午前7時45分・正午・午後4時に鳴った。精錬所は1981年にラサ工業から合同資源産業が取得。 7月1日、チョウセンアカシジミ生息地の田代川流域を市の天然記念物(動物)に指定。 10月、田老町が松尾村と姉妹都市を締結。 11月1日、山田線での貨物営業廃止。 11月5日、鮭の中骨水煮缶詰が開発される。 ◇駒井雅三の小説「岩水時代」下巻が刊行される。 ■1987年(昭和62) 1月5日、鮭に象徴される豊かなまちづくりを目指し、市が「サーモンランド宣言」を発表。 3月6日、黒森神楽が県の無形民俗文化財に指定される。 *宮古市史年表では26日。 4月1日、国鉄が分割民営化し、東日本旅客鉄道に移管。 4月、防災行政無線の運用を開始。 7月19日、SLリアス線しおかぜ号C10-8の運行を開始。 ~1889年 8月、テレトラックMIYAKO開業。 8月、第二中学校にプールが完成。 9月26日、食肉処理センターが近内に開所。 11月14日、近内トンネルが開通。 11月、北上山系開発事業にともなう亀ヶ森地区・東金沢山地区の農用地開発事業が完工。 11月15日、宮古サーモン・ハーフマラソン大会が始まる。 *スタート・ゴール地点は五月町。参加者約1300人。この年から毎年11月第2日曜に開催。 ■1988年(昭和63) 4月、千徳地区体育館が完成。 6月、姉ヶ崎サン・スポーツランドが落成。 *崎山3-75-1にある市営の温水プール。年間を通じて利用できる。市の体育協会に委託し、指導員が水泳教室や実技指導を行なう。 8月1日、ヘリコミューター(宮古~盛岡)の実験運行を開始。 8月11日、JAZZ in 浄土ヶ浜が開催される。 *以後1993年まで6年間、8月に開催。宮古出身のピアニスト本田竹曠(本田竹広)をはじめ日野皓正、渡辺貞夫、ハービー・ハンコックなど世界的ジャズ・プレーヤーが参加。 10月、公共下水道の供用を開始。 11月25日、屎尿処理施設の宮古衛生処理センターが小山田に落成。 12月20日、市の水道事業所が長町に完成。 12月20日、宮古市史年表の「宮古地方のできごと」は、この日の記事をもって終わる。 ◇長根Ⅰ遺跡が発掘調査される。 *古墳28基、方形周溝2基、溝跡、ピット、落とし穴、中世墓壙などが検出されたという。 沿岸部では未検出だった古墳は丘陵尾根の頂部から南側斜面にあり、出土遺物は蕨手刀一振、錫製釧1個、和同開珎(新和銅)1枚、ガラス小玉214個、高杯など。 多くは関東以西での製造と推定されている。 ■1989年(昭和64・平成1) 1月7日、平成と改元。 4月20日、SLリアス線しおかぜ号C10-8のお別れセレモニー「ありがとうSL・C10-8」。 *大井川鉄道へ譲渡。 4月、サーモンランドのシンボルマークが決まる。 5月、体育協会が公益法人化し、財団法人宮古市体育協会となる。 7月8日、ビーム1が運行を開始。 *表記はBEAM-1とも。東京・品川と宮古を結ぶ高速夜行バスで、岩手県北自動車(県北バス)が運営。 ■1990年(平成2) 1月30日、盛合聰の「啄木と小国露堂」が熊谷印刷出版部から発行される。 *盛合聰は県会議員・作家。津軽石出身。著書に「啄木と小国露堂」(1990年・熊谷印刷出版部)、コラム・エッセイ集「鬼の提灯」(1993年・熊谷印刷出版部)そのほかがある。1993年(平成5)死去。 4月16日、レトロ調気動車2編成が横浜博覧会協会より岩手県に譲渡され、三陸鉄道へ貸与される。 4月、県立宮古短期大学が河南1丁目5番1号に開校。 4月、黒森ふれあい館が落成。 7月、黒森神社の社殿(1850年再興)が市の有形文化財(建造物)に指定される。 8月、秋刀魚(さんま・サンマ)ゆうパックが始まる。 9月22日、定期フェリー・サブリナ(東京~釧路)が宮古港に試験寄港。 11月4日、宮古の最大瞬間風速39.1メートル/秒を記録。(2003年5月現在) 12月27日、宮古高等学校ラグビー部、第70回全国高等学校ラグビーフットボール大会に初出場。 *近鉄花園ラグビー場(東大阪市)で行なわれた第1回戦、淀川工業高等学校(大阪)に26対3で敗退。 ■1991年(平成3) 2月11日、市制施行50周年。 2月11日、市民憲章を制定。 2月17日、暴風雨が沿岸部を襲い浄土ヶ浜に被害 3月30日、「宮古市史 年表」(宮古市教育委員会編)発行。 6月20日、東北新幹線が東京駅に乗り入れ。 7月、南川目・北川目の道路沿いに点在する鞭牛の道路開削を示す石碑群が、鞭牛碑群として市の有形文化財に指定される。 8月、農作物異常気象対策本部を設置。 *被害総額は水稲など約4億300万円。 10月、運輸省航海訓練所の帆船海王丸が入港。 10月、市制施行50周年記念式典。 *記念事業として中国・烟台市の病院に人工腎臓透析機を寄贈。 12月、田老町の“鮭のシンボル塔”が完成。 ◇国際劇場が閉館。 *最盛期に7館あった映画館が、国際を最後にすべて閉館。 ■1992年(平成4) 3月27日、宮古高等学校野球部、第64回選抜高等学校野球大会に30年ぶり2回目の出場。 *大会第1試合で石川県金沢市の私立星稜高等学校と戦い、松井秀喜に2本のホームランを浴びるなど、9対3で敗退。第1回の出場は1962年。 6月1日、岩手県立宮古病院が崎鍬ヶ崎第1地割11番地26に移転・開業。 6月、小山田トンネルを含む県道宮古港線が開通。 7月4日、三陸・海の博覧会が開幕。 *宮古・山田・釜石の3会場で9月15日まで開催される。 7月、宮古漁業協同組合が鮭の中骨の水煮缶詰を開発し、ヒット商品となる。 8月、田老町の大防波堤壁画が完成。 9月6日、大型客船の飛鳥が宮古港に初入港。 9月15日、三陸・海の博覧会が閉幕。 11月、プラザカワトク宮古店が駅前交差点の北東角にオープン。 ■1993年(平成5) 3月、田老町の総合福祉センターが完成。 3月、水道公園が長町に完成。 10月、国民文化祭いわて93が開催。宮古会場では三陸・海のフェスティバルを開催。 10月26日、中国山東省の烟台市と友好協力都市を締結。 11月26日、宮古市や田老町など陸中沿岸に伝わる神子舞が国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定される。 ◇盛合聰が死去。 *県会議員・作家。津軽石出身。著書に「啄木と小国露堂」(1990年・熊谷印刷出版部)、コラム・エッセイ集「鬼の提灯」(1993年・熊谷印刷出版部)そのほかがある。 ◇東北地方で梅雨明け宣言がされないまま夏が過ぎて、記録的な冷夏になった。米が穫れず、米価は高騰し、政府はタイ・中国・アメリカなどから外米を緊急輸入したが、タイ米は普通に炊くとまずくて大量に廃棄された。1993年米騒動、平成の米騒動とも呼ばれる。 ■1994年(平成6) 3月、「宮古市史 民俗編」(宮古市教育委員会編)発行。 4月、県内初の貨物定期航路が開設。 5月、田老町が町制施行50周年記念式典を開催。 7月、宮古地区広域行政組合宮古清掃センター操業開始。 9月、台風24号・26号。 *死者1人・負傷者1人、農林水産業などの被害総額17億9000万円。 10月、宮古市東京事務所を開設。 *2001年(平成14)3月に閉鎖。 12月28日、三陸はるか沖地震が発生。 *震度6の八戸を中心に地震被害が広がる。津波は微弱。 ■1995年(平成7) 3月、宮古港マリン・タウン・プロジェクトが策定される。 3月、出逢い橋が完成し、女学校踏切が廃止される。 4月、長沢川の桜づつみに、盛岡藩4代藩主の南部重信が詠んだ歌碑が建立される。 *南部重信は花輪に生まれて花輪殿様と呼ばれ、生母・松の50回忌に詠んだ「うけよ母五十の霜にかれやらて残るかひ有この手向草」の歌が刻まれている。 4月、田老町に“道の駅たろう”オープン。 6月7日、三陸地方拠点都市地域指定。 7月、魚菜市場が緑ヶ丘5番17号から隣りの五月町1番1号に新築・移転。 8月、総合福祉センター開所。 8月、小山田に宮古合同庁舎が完成。 *11月に盛岡地方法務局宮古支局、12月に宮古公共職業安定所、宮古税務署、宮古航路標識事務所が移転、業務を開始。 10月、国立公園指定40周年を記念して運輸省航海訓練所の帆船日本丸が入港。 *1986年以来2度め。 11月8日、宮古市の黒森神楽と普代村の鵜鳥神楽が国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定される。 ■1996年(平成8) 2月6日、沖縄県の多良間村と姉妹市村を締結。 4月、魹ヶ埼灯台が無人化される。 *3月いっぱいまで航路標識事務所の職員が常駐。無線式灯台遠隔監視装置を設置。 4月、出崎埠頭に地方卸売市場・宮古市魚市場がオープン。 4月、宮古市東京事務所が新橋に移転。 7月16日、崎山貝塚が国の史跡として指定される。 7月、浄土ヶ浜が日本の渚・百選に選定される。 8月、浄土ヶ浜に宮沢賢治の歌碑が建立される。 *賢治は1917年7月に花巻町有志による東海岸視察団に加わって宮古を訪れ、“うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ”と詠む。 9月29日、「宮古市戦後五十年誌」(宮古市教育委員会編)発行。 11月、第10回記念宮古サーモン・ハーフマラソン大会。参加3179人。 ◇日本電工宮古工場が閉鎖。 *千徳の上鼻2丁目にあった。 ■1997年(平成9) 4月、シネマリーン開設。 *全国初の生活協同組合方式による映画館。みやこ映画生活協同組合がショッピングセンター「マリンコープDORA」2階でミニシアター2館を運営。 6月1日、沖縄・多良間村との姉妹市村締結記念之碑が市役所前に建立・除幕式。 6月、市民総合体育館シーアリーナ落成。 11月、サーモンランド宣言10周年記念サーモンフェスティバル97を開催。 12月、宮古駅前に市営有料駐車場が完成。 ■1998年(平成10) 3月、愛宕小学校に吉川英治句碑が建立される。句は“寺を出て寺までかへる盆の月”。 5月、浄土ヶ浜が“日本の水浴場55選”に選定される。 6月、県内初のコンテナ定期船が就航。 8月27日~31日、停滞前線で大雨。 *積算雨量343ミリ、被害総額3億7000万円。 8月31日、三陸沖に北朝鮮のテポドン・ミサイルが落下。 9月15日・16日、台風5号襲来。 *被害総額2822万円 9月29日~10月2日、秋雨前線で大雨 *被害総額2億6000万円。 12月、宮古高等学校ラグビー部、第78回全国高等学校ラグビーフットボール大会に出場。 *8年ぶり2度めの出場。近鉄花園ラグビー場(東大阪市)で行われた初戦で、大分舞鶴高等学校に24対22で惜敗。 12月、宮古市ホームページを公開。 ■1999年(平成11) 4月、情報公開制度を開始。 4月、インターハイ(全国高校総体岩手県大会)ヨット会場施設として、神林地区にマリーナ(ヨットハーバー)が完成。対象船種ディンギーヨット、収容数150隻。 5月、神林にリアスハーバー宮古が完成。(いわてマリンフィールドHPより) 6月28日、フェリー・サブリナ(東京~釧路)宮古港に最後の寄港。 7月、吉川保正の“うみねこと乙女の像”が、岩手インターハイ開催を機に、追切(重茂)から宮古駅前に移設。 7月12日~15日、大雨。 *積算雨量290ミリ、被害額12億6416万円。 9月26日、豪華客船の飛鳥が入港し、ミステリー作家の内田康夫が同船で宮古を訪れる。 10月~12月、鮭の一本釣りサーモンフィッシングを実施。 *2003年(平成15)まで。 ■2000年(平成12) 1月1日 いきいき健康都市を宣言。 3月、花輪小学校南川目分校と花輪中学校神倉分校が閉校。 4月、十二神山のケヤキが林野庁の“森の巨人たち百選”に選ばれる。 5月16日、三陸・花と水の回廊推進協議会が設置される。 *三陸地域の広域連携により、花と水をテーマにした住民参加による美しい景観のふるさとづくりを促進し、三陸地域の振興を図ることが目的。 9月、みやこ市民証の交付を開始。 10月9日、徳島県神山町と友好提携。 12月、宮古港開港385年を記念し開港資料展を開催。 12月31日、大世紀越えイベントを開催。 ■2001年(平成13) 1月1日、もてなし交流観光都市を宣言。 3月20日、築地―白浜の巡航船が愛宕小学校白浜分校の閉校とともに廃止。 3月24日、愛宕中学校で閉校式。 *中里団地1-1、団地の南にあった。正確に言えば、1965年(昭和40)愛宕中学校の北に中里団地ができた。少子化のあおりで、2000年度(平成12年度)をもって廃校。 3月、浄土ヶ浜と女遊戸が“日本の水浴場88選”に選ばれる。 5月28日、浄土ヶ浜と女遊戸(おなつぺ)海岸が環境省の“日本の水浴場88選”に選定される。 8月、大相撲宮古場所が開催される。 8月~11月、宮古港開港385周年記念事業が開催される。 9月16日~18日、宮古港開港385周年を記念する大型客船飛鳥の“メモリアルクルーズ2001年の旅”が行なわれる。 10月30日、環境省が自然や文化・生活のなかで将来に残したい風景を集めた“かおり風景100選”に “浄土ヶ浜の潮のかおり” が選ばれる。 この年頃から、毎年8月、宮古駅に氷柱が据えられるようになる。 ■2002年(平成14) 1月10日、鬼山親芳「宮古の映画館物語~わが古里のニュー・シネマ・パラダイス」刊行。 3月、魹ヶ埼灯台が点灯100周年。 4月、みやこ広域リサイクルセンター開所。 8月31日、大型共同店舗の SATY(サティ、栄町5-1)が閉店。 9月、豪華客船ぱしふぃっくびいなすが2度目の入港。 11月、宮古小学校の現在の体育館が完成。(高田機工株式会社HP http://www.takadakiko.com/products/より) ■2003年(平成15) 2月16日、第1回宮古毛ガニまつりが浄土ヶ浜で開催される。 3月、都市計画道路和見磯鶏線の栄町~和見町166メートルが開通。 3月、田老町が“津波防災の町”を宣言。 5月24日、「宮古Chronicle」を「吉田仁のHomepage」に掲載、補訂作業を継続中。 5月26日午後6時25分ごろ、岩手・宮城両県境の近海で震度6の地震が発生。 *マグニチュード7、津波が発生しなかったため被害は軽微。 7月、冷夏。1ヵ月の日照25.7時間、1日平均50分。過去100年で最も少ない記録という。 8月31日、陸中鮭の国ジャズフェスティバル2003をグリーンピア田老で開催。 *宮古出身のジャズピアニスト本田竹広のプロデュース。山下洋輔(ピアノ)、ケイコ・リー(ヴォーカル)、宇川彩子(タップダンス)、鈴木良雄(ベース)、村上寛(ドラムス)、峰厚介(テナーサックス)、福村博(トロンボーン)、橋本信二(ギター)、本田ひきいる THE PURE ほかが参加。 10月28日、「私的 宮古大?事典」を「吉田仁のHomepage」に掲載。 *増補作業を継続中。「吉田仁のHomepage」は2004年6月2日「Jin on web」と改題。 11月1日、“シートピアなあど”がオープン。 *閉伊川河口左岸・宮古港入口の出崎埠頭、臨港通1-20。タラソテラピー施設や物産販売所・レストラン汐菜(しおさい)などがある。運営は第3セクター宮古地区産業振興公社。 12月12日、複合商業施設キャトルが旧SATY跡の栄町5-1にオープン。 ■2004年(平成16) 2月、宮古市・田老町・新里村合併協議会が設置される。 2月14日、午後4時30分から5時25分まで岩手朝日テレビが「うたの海流~いわて・オキナワを結ぶものたち~」を放送 *出演あんべ光俊ほか。宮古と多良間の交流を描いたスペシャル番組。 2月15日、第2回宮古毛ガニまつりが浄土ヶ浜で開催される。 6月2日、「吉田仁のHomepage」を「Jin on web」と改題。 6月30日、三陸鉄道のレトロ列車おやしお号が引退。 7月19日、鈴木善幸が肺炎のため死去、享年93。 *鈴木善幸(すずき・ぜんこう)氏は、下閉伊郡山田町の出身で、元首相・自民党最高顧問。1980年7月、第70代内閣総理大臣に就任。岩手県出身者では5人目の首相となる。1990年1月に引退するまで43年にわたって衆院議員を務めた。自宅は東京都世田谷区。 8月1日、新サイト「みやごのごっつお(宮古のごちそう)」正式スタート。 11月24日、本田竹広が宮高校歌を含む2枚組アルバム「ふるさと-On My Mind」を発売。 *本田竹広は宮古出身のジャズピアニスト。宮古高校の校歌は教師でピアニストの父本田幸八が作曲した。 12月16日、本田竹広が宮古市民文化会館でソロ・コンサートを開催。 ◇日陰暢年(ひかげ・のぶとし)がアテネ・オリンピック全日本女子柔道コーチに就任。 ■2005年(平成17) 2月20日、第3回宮古毛ガニまつりが魚市場特設会場で開催される。 3月27日(日)、市立亀岳(きがく)中学校が閉校式。 *第一中学校に統合され、スクールバス通学になる。1948年(昭和23)4月、大字田代第16地割字中里141番地に亀岳小学校との併設校として創立。 4月1日、宮古市にあった岩手航路標識事務所を釜石海上保安部の航行援助センターに統合。 *発足式は4月15日、釜石市魚河岸の釜石港湾合同庁舎4階で。職員8人。 4月3日、花輪農村文化伝承館の開館記念式典。 4月、働く婦人の家を男女共生推進センターとする。 5月2日、駒井雅三の第一歌集「ふるさとの海」復刻。 *没後20年・陸中海岸国立公園指定50周年を記念して文化印刷から刊行。 6月6日、宮古市と下閉伊郡の田老町・新里村が対等合併し、新制の宮古市が誕生。 6月20日、冊子「小国露堂――啄木に主義(みち)を説いた宮古生まれの新聞人」(小国露堂展実行委員会)発行。 7月3日、宮古市・田老町・新里村合併後、初の市長選挙。 *旧宮古市長の熊坂義裕(53歳、自民・公明支持)が前県議の吉田洋治(61歳、民主・共産・社民推薦)を破り当選。投票率76・36%、当日有権者数4万9221人。 7月17日、第10回・星めぐりコンサート開催。 8月21日、第7回・宮古湾横断遠泳大会開催。 *重茂半島の白浜から神林のリアスハーバー宮古までの1.3㎞。主催はNPOいわてマリンフィールド。 8月23日、プラザカワトク宮古店がこの日を最後に閉店。 10月1日、沖縄県に宮古島市が誕生。 *平良市と宮古郡下の城辺町・伊良部町・下地町・上野村の5市町村が合併。一時、新市の名称を宮古市としていたが、住民投票の結果、宮古島市となった。 10月1日・2日、浄土ヶ浜で恒例の“秋刀魚づくし”開催。 10月2日、午後2時55分から3時25分まで、テレビ岩手がドキュメンタリー番組「さらば酒の日々 ジャズピアニスト本田竹広の挑戦」を放送。 10月15日、市民自主制作ビデオ映画「あの夏、タイムマシーンにのって」上映開始。 11月13日、第19回宮古サーモン・ハーフマラソン大会開催。 ■2006年(平成18) 1月1日、ウェブショップ「みやごのごっつお市場」スタート。 1月12日、宮古出身のジャズピアニストの本田竹広が心不全のため死去、享年60。 2月19日、第4回宮古毛ガニまつりを魚市場特設会場で開催。 3月31日、青森県六ヶ所村にある日本原燃の使用済み核燃料再処理工場が稼動を開始。 5月、保久田の加藤病院が宮古第一病院と改称。 7月31日、宮古ゆかりの作家吉村昭が膵臓癌のため東京・吉祥寺の自宅で死去、享年79。 *宮古港海戦を扱った「幕府軍艦「回天」始末」や「三陸海岸大津波」(「海の壁――三陸沿岸大津波」)を書いた。延命治療を拒否し、点滴やカテーテルを自ら外して死を選ぶ。 8月4日、浄土ヶ浜で薪能が行なわれる。 9月9日、日本最大の豪華客船・飛鳥Ⅱ(5万142トン)が初入港。 *宮古港発着「北海道釧路2泊3日の旅」のため藤原埠頭へ着岸。 9月11日、2泊3日の航海を終えた飛鳥Ⅱが藤原埠頭に帰港。 10月15日、客船ぱしふぃっくびいなす(2万6518トン)が3年ぶり3度目の入港。 *藤原埠頭F9バース・県営3号上屋前に着岸。「秋の北海道・東北クルーズ」。 11月6日、宮古郵便局(本局)が保久田3番8号から栄町1番7号に移転・開業。 12月27日、「みやご弁ほぼいろはカルタ2007」ダウンロード版完成。 *サイト「みやごのごっつお」掲示板参加者の企画・協力で生まれた。絵はおもに海猫屋さんが描く。サイトにアクセスしてダウンロードし、名刺紙に印刷するオンデマンド版。 12月27日、季節外れの大雨。 *山口川があふれ、JR山田線の磯鶏~津軽石では路盤が流出。2007年1月3日の宮古鮭まつりが影響を受け中止に。 ■2007年(平成19) 1月3日、第35回宮古鮭まつりが中止。 *前年12月27日の集中豪雨の影響による。1973年に始まって以来、35年の歴史のなかで中止は初めてのこと。 3月23日、津軽石水門が完成し、県から市への管理受託式を現地で行なう。 3月24日、“宮古弁かるたで遊ぼう”が開催される。 *宮古観光協会主催の“浄土ヶ浜春の感謝祭”の一環。サイト「みやごのごっつお」参加者の協力で生まれたダウンロード版「みやご弁ほぼいろはカルタ2007」を使用。 4月30日、“第一回みやご弁カルタ大会”が開催される。 *水産科学館で、宮古観光協会主催“浄土ヶ浜まつり”の一環として行なわれる。 5月25日、鬼山親芳「評伝 小国露堂~啄木に記者道を説いた男」(熊谷印刷出版部)発行。 6月12日、宮古漁業協同組合でシーズン第1回のウニの口開け。この日から宮古漁協でウニの加工を一元化。 *前季まで漁師が個々に殻剥き・洗浄・瓶詰めして魚市場へ持ち込んで競りにかけていたのを改め、漁師が殻割りした身を宮古漁協に集めたうえで一括して田老工場で洗浄・瓶詰めし、宮古漁協製として競りにかけるシステムになる。 7月、旧宮古郵便局(保久田)の解体が始まる。~9月予定 7月27日、「みやご弁ほぼいろはカルタ2007」販売用が完成。 *原型のダウンロード版は2006年12月27日にできた。 9月30日、ウェブサイト「みやごのごっつお市場」休止。 10月1日、宮古測候所が無人化。 11月24日、山田線・岩泉線を走るディーゼル列車キハ52が引退。 *キハ52の塗装は国鉄色と呼ばれた。盛岡色のキハ58も走っていた。キハ52とキハ58は10月21日から一部が、11月25日から全車が新型車両のキハ110系に切り替えられた。 12月31日、ウェブサイト「みやごのごっつお」休止。 ■2008年(平成20) 1月3日、第36回宮古鮭まつり。 1月23日、鍬ヶ崎出身の作家、吉田タキノさん死去、享年90。 2月3日、第1回宮古検定。 *宮古観光協会が主催。誰でも受験でき、受験料は無料。定員は申し込み先着100人。宮古市に関する歴史・文化・産業・自然・風土などの分野から50問が出題される。制限時間45分。合格は7割以上の正解者。 2月、「宮古弁百人一緒かるた」が完成。 *保久田の中央公民館分館が読み札を募集。 3月23日、「NHKのど自慢」が市民文化会館で開催される。 4月1日、宮古駅前総合観光案内所が開設される。 *前に観光・宿泊案内所があったのと同じ場所。 7月24日、岩手県沿岸北部で地震が発生。 *午前0時26分ごろ、洋野町で震度6強、野田村で震度6弱を観測。宮古は震度5強から弱で、大きな被害なし。震源は沿岸北部(川井村)、深さ108キロ。マグニチュード6.8。 7月30日、「みやごのごっつお市場」がサイトを一新して再開。 8月、蛾(マイマイガ)が大量発生。 *昨年に続いて2年目。 8月9日、宮古駅前広場の整備事業が竣工。 9月22日、豪華客船・飛鳥Ⅱが入港。 *藤原埠頭のF9バース・県営3号上屋前に着岸。「憧れの豪華客船 飛鳥Ⅱの旅 第2章・釧路2泊3日クルーズ」 9月24日、飛鳥Ⅱが宮古港に帰港。 10月1日、これまでで最大の豪華客船アムステルダム号6万1000トンが入港。 *オランダ船籍。藤原埠頭のF9バース・県営3号上屋前に着岸。 11月2日、宮古観光協会主催の「さようなら浄土ヶ浜レストハウス大感謝祭」が行なわれる。 11月3日、浄土ヶ浜レストハウスが36年の歴史に幕を下ろし閉店。 この年、宮古高等学校の川井校が創立60年を迎える。 *1948年(昭和23)定時制として開校。のち全日制に移行。2010年(平成22)本校と統合するため2008年度から新入生の募集を停止。 ■2009年(平成21) 1月27日、ウエッブ上で「絵本 宮古物語」の掲載が始まる。 5月、鍬ヶ崎に防潮堤をつくる県の事業に国の補助が決定。 *鍬ヶ崎地区の730mに高さ6.5mの防潮堤を築く。事業費33億円のうち半分が国庫補助。2009年度~10年度に地質調査・測量、21年度完成を目指す。 7月31日、宮古タクシー廃業。 8月30日、衆院選で菊池長右エ門(75歳)が初当選。 *1934年4月7日生まれ。慶大卒。1983年から岩手県議3期、93年から宮古市長1期。第45回衆議院議員選挙に民主党から立候補し、初当選。祖父の長右エ門も元衆議院議員。菊長。 8月31日、向町のマルフジが閉店。 *宮古初のスーパーマーケットとして田町交差点の南東角地に開店。千徳店も開いたが、2008年(平成20)ごろに閉店。 9月30日、グリーンピア田老が運営委託会社の撤退で休業。 10月22日、ウェブ(YOMICOM.net)版「宮古物語(全百話)」が完成。 *2010年12月27日、YOMICOM.net閉鎖のため公開を終了。http://yomicom.net/index.php?p=book&c=B0675-3244 11月末、鍬ヶ崎のつたや寿司が閉店。 11月末?、向町の伊勢屋餅店が閉店。 12月8日、小笠原善平原作の『小説 寄生木』が刊行100周年を迎える。 12月19日、川井村が閉村式。 ◇歳末恒例の黒森神楽の舞い納めが、山口公民館の建て替えのため中止。 ■2010年(平成22) 1月1日、下閉伊郡川井村と合併。 *面積は1260平方㎞で県内最大、人口6万3588(2005年国勢調査)。 2月28日、午後1時半ごろ、宮古にチリ地震津波の第1波が襲来。 *南米チリで日本時間27日午後にマグニチュード8.8の巨大地震が発生。気象庁は28日、日本の太平洋沿岸で最高3mの津波の恐れがあるとして三陸沿岸に大津波警報を発令。津波は第2波・第3波と次第に大きくなり、高浜・津軽石など湾奥で2.1mの波高を記録。人的被害はなかったものの、養殖施設など沿岸漁業に大きな被害をもたらした。 3月5日、宮古高校の川井校が閉校。 *1948年、宮古第一高等学校定時制普通科川井分校(夜間部)として開校。1971年、全日制を設置。1991年、宮古高等学校川井校と名称変更。2010年3月5日、最後の卒業式(卒業生21人)と閉校式をおこない、61年の歴史に幕を降ろす。この間の卒業生は1665人。 3月21日、宮古道路が開通。 *自動車専用道路。正式には三陸縦貫自動車道宮古道路(4.8km)と宮古中央インター線(0.6km)。宮古中央インター線から県道宮古港線に接続し、国道45号・金浜~国道106号・板屋が結ばれた。三陸国道事務所によると、宮古道路などの開通で津軽石から板屋まで国道45号・国道106号を自動車で走行した場合に比べて14分ほど短縮。宮古道路は暫定片側1車線で国が128億円で整備。宮古中央ICから県道宮古港線までつなぐ宮古中央インター線は県が19億円で整備。宮古道路の開通で三陸縦貫自動車道の岩手県区間103kmのうち33.6kmが開通。 4月1日、グリーンピア三陸みやこが開業。 *グリーンピア田老が運営委託会社を替えて再出発したもの。 4月1日、浄土ヶ浜レストハウスが公式ホームページを開設。 4月20日、南米チリ大地震の津波による養殖施設の被害に対し、激甚災害に指定し、補助金を交付することを閣議決定。 4月29日、第2代の浄土ヶ浜レストハウスが新築オープン。 4月29日、浄土ヶ浜ビジターセンターがオープン。 4月、山口公民館が新築オープン。 *敷地は旧公民館と裏側の旧市営住宅跡地に拡張して新築。寄生木展示室・黒森神楽展示室を併設。 4月? 宮古小学校に新プールが完成。 *旧プールと逆ピラミッド校舎は、9月から解体の予定。 7月31日、JR岩泉線が不通に。 *押角~岩手大川駅間で発生した土砂崩れに一両編成の普通列車が乗り上げて脱線し、乗員・乗客9人のうち5人が軽傷を負った。以後、全線不通となり、JRのマイクロバス(25人乗り)による代行運送に切り替え。 8月、宮古高校の初代体育館、解体。 8月、山口小学校の東校舎、解体。 8月、志乃多旅館が廃業・解体。 *跡地は駐車場になる模様。 8月中旬ごろ、磯鶏の銭湯・磯の湯が廃業か? 10月16日、山口団地駅が三陸鉄道北リアス線に開業。 *宮古駅と一の渡(いちのわたり)駅の間、山口3丁目4番の市営山口団地内。公募による愛称は「黒森の鼓動」。 12月22日~23日、爆弾低気圧による豪雨・強風のため被害。 12月27日、ウェブ(YOMICOM.net)版「宮古物語(全百話)」はYOMICOM.netの閉鎖により公開を終了。 ■2011年(平成23) 1月3日、第39回宮古鮭まつり中止。 *前年末の豪雨により津軽石川で鮭留めなどの施設が流されたため。2007年以来、中止は2度め。 3月11日、東日本大震災。 *午後2時46分ごろ、宮城県沖でM9の巨大地震が発生した。この東北地方太平洋沖地震は国内観測史上最大で、宮城県栗原市で震度7を記録。宮古の震度5強から5弱。直後に津波の第1波が宮古に到達。3時20分ごろ、4mの大津波が来襲した。検潮器が破壊されたため、以後の最大波の記録はない。後日の調査により陸上を駆け登った津波の最高到達点は重茂の姉吉で40mを越えた。被害は計り知れない。ただ被害甚大としか言いようがない。東日本大震災は数ヶ月たった現在もなお進行中である。なお東京電力の原発事故を伴った大震災の名称は、当初おもに東北関東大震災が使われ、のちに東日本大震災と閣議決定された。 詳細 ⇒ 東日本大震災 宮古~半年間の記録 ■2012年(平成24) 1月1日、浄土ヶ浜遊覧船・第16陸中丸、初日の出洋上遥拝クルージング。 1月24日、浄土ヶ浜が国の名勝に指定される。 2月19日、第10回宮古毛ガニまつりが魚市場で開かれる。 3月4日、第4回宮古もてなし観光・文化検定。 3月11日、東日本大震災の発生から1周年。 3月17日、浄土ヶ浜遊覧船・第16陸中丸、春の定期運航を開始。 3月18日、愛宕小学校で閉校式。 *1936年(昭和11)開校。当時は官公庁が立ち並ぶ地域で、生徒はピーク時に1000人を超えた。少子化で減少し、2011(平成23)年度で閉校が決定。最後の在校生35人。同年3月11日の東日本大震災では大きな被害はなく、愛宕地区の避難所となり、仮設住宅が建つ。 3月29日、「月刊みやこわが町」第400号を発行。 *1977年(昭和52)5月創刊。 3月29日、JR岩泉線、廃線のニュースが流れる。 *2010年7月31日に発生した土砂崩れ事故によって全線不通となり、JRのマイクロバスによる代行運送が続いている。 3月30日、JR東日本が岩泉線の廃止を正式発表。 4月1日、宮古橋が復旧。 4月1日、三陸鉄道北リアス線の田野畑駅~陸中野田駅が復旧。 4月26日、吉永小百合がテレビCM撮影のため宮古へ。 *JR東日本「大人の休日倶楽部」のCMで、魚菜市場、浄土ヶ浜でロケ。 ■2013年(平成25) 3月11日、東日本大震災の発生から2周年。復興進まず。 3月12日、田中菓子舗の新工場で田老かりんとうが復活。 3月23日、千徳大橋が開通。 3月26日、みやこさいがいエフエムが USTREAM での配信を終了。 *本放送に加えて SimulRadio での配信を継続し、8月にコミュニティFMに移行の予定。 3月末、なあど解体。 ■参考文献 「宮古市史年表」 「広報みやこ」 2005年(平成17)6月1日号・№1033「特集 宮古市64年のあゆみ」 森嘉兵衛監修「岩手県の地名」(日本歴史地名大系)平凡社 森嘉兵衛「岩手近代百年史」熊谷印刷出版部 「角川日本地名大辞典3 岩手県」角川書店 「岩手日報」 岩手日報社編「各駅停車 全国歴史散歩4 岩手県」河出書房新社 歴史学研究会編「新版 日本史年表」岩波書店 吉村昭「幕府軍艦「回天」始末」文藝春秋 吉村昭「三陸海岸大津波」中央公論社 星亮一「榎本艦隊 北へ」廣済堂出版 「新版 岩手百科事典」(1988年)岩手放送 その他 【参考HP】 宮古市 宮古大事典 |