■ 啄木(たくぼく)寄港の地碑                                  宮古onWeb




宮古港を見おろす鏡岩(かがみいわ)の高台

石はアフリカ産の黒御影

書体は朝日新聞の活字体

碑文は啄木の「明治四十一年日誌」4月6日の全文

1979年(昭和54)宮古港に啄木文学碑を建てる会が建立

その会が宮古啄木会になる



                                        shiratori さん撮影 宮古写真帖
1908年(明治41)4月6日、啄木は宮古へやってきた。

北海道での新聞記者生活をきりあげ、上京して文学に専念しよう――

そういう決心のもと、貨客船酒田川丸で釧路を離れて函館に向かうが、

啄木が乗ったその船は海上を一路南下して宮古へ立ち寄る航路をとった。


▽ 碑文

  啄木寄港の地

明治四十一年四月六日
 起きて見れば雨が波のしぶきと共に甲板を
洗うて居る。灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海
は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にも
まれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居
る。
 十時頃瓦斯が晴れた。午后二時十分宮古港
に入る。すぐ上陸して入浴。梅の蕾を見て驚
く。梅許りではない、四方の山に松や杉、こ
れは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙
を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)
訪ふ。御馳走になつたり、富田先生の消息を
聞いたりして 夕刻 辞す。は古風な、沈ん
だ、黴の生えた様な空気に充ちて、料理屋と
遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは
大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。鎮
痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを喰
ふ。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの
女の児が三味線を習つて居た。芸者にするか
と問へば、“何になりやんすだかす。”
 夜、九時抜錨。同室の鰊取の親方の気焔を
聞く。
              啄木日記


▼ 石川啄木:宮古上陸100年 啄木しのび鍬ヶ崎歩く−−来月6日、ファン企画
   2008年3月7日付「毎日新聞」岩手版 鬼山親芳記者

 歌人、石川啄木が北海道の流浪生活に見切りをつけ、海路上京の途中に今の宮古市の鍬ヶ崎に上陸して100年。
宮古の啄木ファンらはその日の4月6日、鍬ヶ崎を歩いて啄木をしのび、往時のにぎわいに思いをはせる催しを企画している。

 啄木が文学への夢断ちがたく、釧路から宮古経由の函館行き貨物船「酒田川丸」の客となり、鍬ヶ崎に上陸したのは1908年4月6日の午後2時10分。
銭湯で船旅の疲れを癒やした後、開業医の道又金吾宅でごちそうになり、食堂に寄ってうどんを食べて船に戻った。
船は同夜9時ごろ、出港した。

 啄木は日記に鍬ヶ崎の印象について、
「街は古風な、沈んだ、黴(かび)の生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。
街上を行くものは大抵白粉を厚く塗った抜衣紋(ぬきえもん)の女である」
とつづっている。
漁師町の鍬ヶ崎は当時、遊郭が何軒もあって北日本随一の色町でもあった。

 啄木上陸劇を企画している実行委員会(川目英雄会長)によると、午前10時に啄木にふんした青年が和船で海から登場し、道の駅なあどのある出崎ふ頭に上陸。
啄木が釧路の記者仲間で盛岡出身の菊池武治から道又医師への紹介状を持参していたのにちなみ、釧路からの親書を読み上げる。

 散策では遊郭跡、うどんを食べたと思われる食堂、道又医院、啄木上陸記念碑などを回る。
案内役は鍬ヶ崎のNPO街かどボランティアの会員ら。
昼食はなあどでうどんを食べ、啄木かるたを楽しむ。
啄木や啄木と親交のあった宮古出身の新聞記者、小国露堂についての講演も。
定員50人。
参加料は1000円(昼食代込み)。
申し込みはリラパークこなり(電話0193・62・6523)。


▼ 石川啄木:宮古上陸100年 ファン50人が鍬ヶ崎で足跡たどる催し
   2008年4月7日付「毎日新聞」岩手版

 歌人、石川啄木が北海道の釧路から海路上京の途中、宮古港に上陸して100年になる6日、宮古市で啄木をしのぶ催しがあった。
啄木が歩いた鍬ヶ崎地区を散策し、啄木が食堂に寄って食べたうどんを味わい、啄木カルタや講演で啄木と宮古の縁を改めて思い起こした。

 「啄木宮古上陸百年記念〜往時の鍬ヶ崎を歩く」と題して開催したのは、同市の啄木ファンらでつくる実行委員会。
宮古魚市場のある出崎ふ頭で約50人の参加者が岸壁で見守る中、午前10時過ぎ、実行委員の青年が扮する啄木が手漕ぎ舟で上陸。
釧路啄木会の北畠立朴(りゅうぼく)会長からの親書を読み上げ、実行委の川目英雄会長に手渡した。

 ふ頭の付け根の高台に啄木を愛する宮古の人たちが1979年に建立した上陸記念碑前で記念撮影後、啄木がうどんを食べたと思われる食堂跡、啄木が釧路の新聞記者で盛岡出身の菊池武治からの紹介状で立ち寄り、ごちそうになった道又医院、啄木が上陸するなり船旅の疲れを癒やした銭湯、さらには遊郭跡などを回った。

 午後からは啄木に社会主義を通じて言論の自由を説いた宮古出身の新聞人、小国露堂研究者の本紙釜石通信部の鬼山親芳記者が「啄木と宮古と露堂」と題して講演した。

 啄木は文学への熱い夢を追い、1908年4月6日の午後2時10分、釧路から宮古経由函館行きの貨物船で宮古港に上陸した。
 古里の渋民(盛岡市)を出て北海道を流浪の末、上京して26歳2カ月の生涯を終えるが、宮古は郷里岩手の最後の地となった。

                               宮古写真帖 啄木 鍬ヶ崎上陸100年記念イベント

                               啄木の息 小国露堂展+啄木寄港の地碑

浄土ヶ浜パノラマ                       啄木と宮古

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