実在しないのは
四戸町
でした。

 


 
ついでと言ってはなんですが…

■ 戸(へ)の由来 ■

岩手県の北部から青森県の南部にかけて
一戸から九戸までの戸のつく市町村が並んでいます。
ただし、四戸(しのへ)だけがない。
これは縁起かつぎなのでしょうか。

 南から岩手県一戸町・二戸市と北上し、
青森県に入って三戸町・五戸町・六戸町・七戸町、
東に折れて南下し青森県八戸市、
ふたたび岩手県に入って九戸村へとつながり、
順番に、
きれいに配置されているように見えます。

この一帯は江戸時代に南部藩=盛岡藩の領地で、
そのうち主に糠部(ぬかのぶ)と呼ばれた地域でした。

戸の由来について
岩手県九戸村のHPでは
こう説明しています。

「糠部郡は日本最大の郡域でした。
郡の設置は12世紀半ばに
平泉の藤原氏によって行われたとされています。
この地方の特産品は馬で、
貢馬(くめ)といって年貢として納められていました。
「戸」は、
この馬の管理、貢馬のための行政組織だったようです。
岩手県の二戸市、二戸郡、九戸郡、
青森県の上北郡、三戸郡、八戸市、三沢市、十和田市
にわたる広大な地域を官営牧場とし、
九つに区画して運営していたのです。」

また、青森県中部上北合併協議会
(2003.9.16解散)のHPでは、
こう説明していました。

「弘仁年間(810〜824)に
文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が東北に遠征し、
駐屯地として設置したのが柵戸(さくこ)です。
この柵戸から村が発展しました。
源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのち、
牧場政策の必要性などから糠部郡を置き、
多くの御家人を地頭に任命しました。
 その一人である南部光行は、
馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、
牧場経営に手腕を発揮しました。
南部氏は糠部郡を九つの部(へ=戸)に分け、
一戸ごとに七つの村と一つの牧場を置き、
九戸を東・西・南・北の四つの門に分属させました。
これを九戸四門の制と呼びます。」


青森県中部上北合併協議会のHPより(2003.09.16解散)


つまり、
一戸〜九戸の地名の由来には、
平安時代の東北制圧の前線基地に起源を求める考え方や
鎌倉時代の牧場制に関連させる考え方があるようです。

四戸という地名も、
かつてはあったようですね。
いつのまに、
そしてなぜ、
なくなったんでしょう?
ぼくにはわかりません。
だれか教えてください。
















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